C−南西エリア 37.さかえ公園から都市農業公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「C−南西エリア 37.西新井さかえ公園・都市農業公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年5月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年1月に改めて歩きました。

スタート地点:東武スカイツリーライン西新井駅西口

 1.さかえ公園

 2.関原商店街通り

 3.西新井橋北詰

 4.扇大橋北詰

 5.五色堤公園

 6.熊の木広場(マップには「熊ノ木広場」とありますが、「熊の木広場」が一般的なようです)

 7.堀之内公園

 8.荒川土手桜並木

 9.荒川河川敷

10.都市農業公園

ゴール地点:都市農業公園バス停


スタート地点の東武スカイツリーライン西新井駅西口から歩き始めます。西新井駅は大規模な改修工事が行なわれていて、2022年当時には西口正面に大階段がありましたが、2026年に再訪した時は元のトスカ西館が取り壊され、そこに新しい西口が出来ていました。階段はエスカレータに代わり、改札口までの上り下りが格段に楽になりました。ちなみに、西口広場の再開発も含めた全体の工事完了は令和十二年(2030年)の予定になっています。



西口広場からバス通り(さくら参道)を進みます。西新井駅の南西側には、大正七年(1918年)に東京紡績西新井工場(後の日清紡東京工場)が完成し、平成十四年(2002年)まで操業しました。その跡地は、UR都市機構を中心に“西新井ヌーヴェル”の名称で再開発が進められ、平成十九年(2007年)にアリオ西新井がオープンしました。その名残で、道路名には「ぼうせき通り」といった愛称が付けられています。



「せんぷ通り」は、”染布(布地に色を付ける技術)”から名付けられたと思われます。



せんぷ通りと尾竹橋通りの間の広大な敷地にアリオ西新井があります。アリオ西新井は、都市再生機構が開発主体として進めた、14.5haに及ぶ日清紡東京工場跡地再開発事業「西新井ヌーヴェル」のひとつとして、平成十九年(2007年)11月9日にグランドオープンしました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターとしては、全国で6店舗目(都内ではアリオ亀有に次ぐ2店目)で、イトーヨーカドーとしては176店舗目になります。東武スカイツリーライン西新井駅西口近くの環七通りと尾竹橋通りの交わる場所に位置していて、商業施設としての立地環境に優れています。また既存アリオの川口と亀有から何れも直線距離で十数キロメートルしか離れておらず、アリオとしてドミナントを形成しています。そうした立地特性もあり、モール型SCとしては狭く、1550台分の駐車場も地下・4階・5階・屋上に設置され(売場は1〜3階)、都市部のSCならではの構造となっています。店舗面積は3層構造で31、000uあります。「アリオ西新井」は、イトーヨーカドー西新井店をメイン施設にして、100を超える専門店が集うショッピングモールです。地域の特性に合わせて、親子だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんまで三世代で楽しめるやさしい施設設計が特徴です。専門店は、マタニティから育児用品が揃うアカチャンホンポを始め、ベビードールなどの人気ブランドのショップ、かわいい衣装が揃うスタジオキャラット、ユニクロやGU(ジーユー)、無印良品など、ファッションから生活サービスが揃うほか、TOHOシネマズも併設していて、最新の映像・音響設備で迫力ある映画を楽しめます。赤ちゃん休憩室には、調乳専用温水器・授乳室・子ども専用トイレ・おむつ交換台・ベビーキープ・乳幼児用の計測機器・絵本コーナーなどを完備し、無料のマタニティ・育児相談室も設けています。ママがお買い物をしている間にパパと子どもが過ごす場所として使える「なかよしひろば」や、子どもも掴める高低差のある「2段手すり」など工夫のある設計が好評です。



ポイント1.さかえ公園

アリオ西新井と「せんぷ通り」を挟んで西新井さかえ公園があります。西新井さかえ公園は、日清紡東京工場が建てられていた跡地を再開発し、その一画に公園が整備されました。隣接街区との一体的な街路景観を形成しながら、路地空間や街角広場を創り出しています。いぶし瓦や陶板を採用し、手作り感・素材感・地域性を反映した景観を呈しています。ベンチが沢山設置されていますので、ゆっくり寛ぐにももってこいです。トイレも清潔で、オムツ換え台が設置されていますので、小さなお子さん連れでも安心です。



公園には高木が林立し、周囲の高層住宅の住民の憩いの場になっています。



遊具も揃っています。



大人用の健康遊具もあります。

らくらく健康器具 1212
スイスイ屈伸

膝の曲げのばし運動です。2本のアームにワキをかけそのまま、膝を曲げます。のばす際にはアームが補助してくれるので、安心して運動が行えます。

らくらく健康器具 1208
ユッタリステップ

ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。




まだあります。

ストレッチ器具 K−171
ツイストボード

バーにつかまり円盤の上に立ち体を左右にゆっくりひねりましょう。腰部のストレッチに役立てましょう。

休息器具 K−163
背のばしチェアー

すわりながら、また反対側に立ってゆっくりと背のばし運動をしましょう。

らくらく健康器具 1207
ツイストスツール

体をひねるストレッチ運動です。足をかけ、手すりで上半身を支え、左右にゆっくり振りましょう。ムリなくバランスよく行うのが効果的です。




地区の歴史を解説した案内板が貼られています。

のどかな時代

西新井大師は、江戸時代には、多くの参拝人で賑わいましたが、参道を外れれば、のどかな景色が広がっていました。明治三十二年(1899年)に、東武鉄道西新井停車場ができ、西新井大師までの沿道に少しずつ市街地が広がりました。昭和三年(1928年)頃にできた西新井音頭にその当時の風物が歌われています。

一つとせ 一番電車に乗り込んで 浅草停車場発車して 目ざす名所は西新井
二つとせ 二、三十分足らずで駅につき 降れば自動車の備えあり 西も東も花畑
三つとせ 見わたす限り花園で 春夏秋のながめあり 色香あらそい乱れ咲き

進む市街化

大正七年(1918年)この地に東京紡績(株)(大正十三年に合併して日清紡績(株))が進出し、この地の市街化のきっかけとなりました。その後、昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成したことで水害も少なくなり、徐々に市街化が進み始めました。昭和三十年以降の経済の高度成長期に、ほぼ今の市街地がかたちづくられました。

工場が移転して

平成十年(1998年)、日清紡績(株)東京工場移転の決定を機に、足立区は日清紡績や地域住民の協力を得て、UR都市機構とともに新たなまちづくりに取り組んできました。この公園は、日々の憩いの場となりながら、防災公園として住民とまちを守っていく機能を担っています。今後も、この地の発展を見守っていくことでしょう。




ポイント2.関原商店街通り

西新井さかえ公園を出て、「せきえい通り」を進みますと、T字路に突き当たります。



突き当たりを南北に延びるタイル貼りの道路が関原通りです。「関原」という地名は、現在の関原二丁目にある「関原不動院大聖寺」に由来しています。関原不動の由来伝説によりますと、小宮光徳という関守が桂花老人から“関の原”と呼ばれた土地にある良辨という聖者が作った不動明王を与えると告げられました。光徳は老人の言葉に従って足立へ来訪し、八幡宮の傍らに草庵を結び不動明王を祀りました。これが関原の地名の由来とされています。



関原通りに入った先で、関三通りと交差します。この界隈は関原三丁目の町域になり、「関原銀座会」・「関三通り」・「関原イーストロード」と三つの名前が付いた下町情緒豊かな商店街が連なっていて、生活感のある日常風景を見せています。



惣菜天国と称される十条銀座商店街にも店舗を構える「惣菜みやはら」など、各種惣菜を扱う専門店がしのぎを削っていて、夕飯時を前に激安惣菜求めて周辺の主婦が行列を作っています。それに加えて多いのが西新井という土地柄、韓国食材店や韓国料理焼肉店が目立ち、荒川区の三河島エリアと双璧を成す都内屈指のオールドコリアタウンを形成しています。



「スワヤ」は、商店街で一際賑わう激安青果店で、豊富な品揃えとお得な商品で地元の方に大人気です。安く売る秘訣は、社長の話によると「創業以来50年間で培った情報網と、産地を特定せずその日の安い野菜を調達することで激安価格を実現し、コストを抑えるためにチラシや広告は一切出していない」とのことです。


社長さんがTVのインタビューを受けています。


商店街には銭湯もあります。堀田湯は昭和十七年に当地で開業し、80年後の令和四年に改装オープンしました。新しい設備を導入しつつも、宮造りの建物を活かした温故知新な改装は歴史を感じながら現代のスタイルに溶け込みます。堀田湯の象徴といえる「葛飾北斎の桜花と富士のタイル絵」はそのままに、先代から変わらないやさしいお湯でほっとするひとときを過ごせます。いろんなお湯が日替わりで楽しめるようです。



関原通りには、肉屋・魚屋・八百屋といった生鮮食品の店のほか、洋服店・酒屋・本屋など、多様な個人商店が軒を連ねています。中には90歳を超える女将さんがいる食料品店や、遠方からお客が訪れる青果店など、地域に根差したお店も多くあります。



呉服店の看板が半分写っていますが、これは「ライオン看板」と呼ばれる戦後の商店街で流行したものです。当時の繁栄を窺い知ることができます。2022年に訪れた時は、そんなに貴重な看板だと思わなかったので、たまたま撮った写真の中に看板の半分が映り込んでいました。ネットに全景を撮った写真がありましたのでお借りします。



2026年に再訪した時には、お店は取り壊され、跡地に住宅が建つようで、工事が始まっていました。右の写真は、2022年に撮った時と同じアングルの写真です。



呉服店のあった場所の隣には「大衆天国食堂」という年季の入ったお店があります。元々は食堂でしたが、長らくシャッターが降りたきりの空き店舗になっていました。一時期、店頭販売を始めたのだそうですが、今は食堂もやっているのかな?ちなみに、「天国」は「てんくに」と読むらしいです。



関原通りに面して、関原の地名の由来とされている関原不動院大聖寺があります。関原山不動院大聖寺は、宝徳元年(1449年)開山と伝えられる寺院で、本山は奈良県桜井市にある長谷寺です。不動院の名の通り、本尊は不動明王で、良弁の作と伝えられています。



一際目立つ木造の本堂は、足立区内最大の大きさを誇ります。度々火災に遭いましたが、現在の本堂は嘉永元年(1848年)5月に深川木場の講中が材木その他を寄進し、8年の歳月を掛けて再建されたものです。外陣の格天井の欅板98枚には彫刻が施され、欄間にはボタンに唐獅子の彫刻がはめ込まれています。龍の巻き柱や襖絵も圧巻です。また浅草山谷講中が寄進した大賽銭箱(安政四年【1857年】銘)には銅の鋲がふんだんに打ち込まれています。このように、本堂の大きさのみならず、装飾にも大聖寺の隆盛を見て取ることができます。本堂の再建や大賽銭箱の寄進の他にも、眼病平癒のお礼に大提灯を八代目市川団十郎が寄進したという話が伝えられています。これらの江戸末期を中心とした事柄から、関原不動は広範な下町庶民の信仰を集めていたと考えられます。



石碑と石像が並んだ横に案内板が立っています。

大聖寺

本寺は寺蹟によると、応永年間(1394年〜1428年)に小宮光徳が関原の地に草堂を建て、不動明王を安置し、その後、天正十三年(1583年)に再建成就して、名を関原山不動院大聖寺と定めたという。江戸時代には、江戸の庶民の熱い信仰を受けた。現在の本堂(足立区登録有形文化財)は、嘉永元年(1848年)の建立で、区内随一の木造伽藍であるが、これは深川木場の講中が材木その他を寄進して再建されたものである。本堂中央の中の間の天井には九十九枚の彫刻がある。欅の木目を美しく生かし、彫りも深く、美麗精巧な美術品である。また、八代目市川團十郎奉納木造提灯扁額(足立区登録有形文化財)は、提灯本体に大きく「八代目」と記され、奉納の目的を父の寿海老人白猿(七代目市川團十郎)が記しており、著名な歌舞伎役者の家である市川家が大聖寺を信仰していたことを伝えている。本寺草創の由来を刻んだ関原不動尊略縁起、世に鉄眼版の名で知られる大般若経六百巻、文明年間(1469年〜1487年)の板碑二基なども蔵し、いずれも足立区登録文化財となっている。その他、本尊の不動明王(秘仏)を中心に八大童子像や百体の小観音像などがある。




関原通りに面して、関原八幡神社が鎮座しています。関原八幡神社の謂れですが、そもそもは大聖寺の守護神として創建されましたが、明治の神仏分離令によって明治三年(1870年)に現在の地に移転したとのことです。



境内の欅の木は足立区の保存樹林に指定されています。

足立区指定第558号
保存樹木 けやき

当神社は、小宮光徳が不動明王を安置したことを起源としており、このケヤキは、嘉永元年(1848年)頃に現在の奉殿が新築された際、敷地の境に左右に植樹されたと伝えられている内の一本です。これからも、大切に見守っていきたいと思います。




関原通りと江北通りの交差点の右手に、「関原の森」と書かれた標柱が立っています。



関原の森は、貸し会議室・レンタルスペース・イベントスペースを兼ね備えた都市生活者の小さなステージで、街やモノをデザインする工房空間です。広場には、大きな椎の木が聳えています。



広場に面して、「愛恵まちづくり記念館」が建っています。

足立区愛恵まちづくり記念館

愛恵まちづくり記念館の沿革

愛恵学園は明治十六年(1883年)にキリスト教の日本メソヂスト教会の社会福祉施設として台東区に設立した、美以美(みいみ)尋常小学校が前身。この施設は、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で焼失、別の地域での活動を余儀なくされた。そこでこの関原の地で再建し、昭和五年(1930年)から平成二年(1990年)まで、地域に親しみ社会福祉事業を行ってきた。60年間に渡る「愛恵学園」の活動が、その使命を終えたことから、足立区は土地と建物を取得し、愛恵学園の功績を残すとともに、関原地区のまちづくりのシンボルとして、愛恵学園にあった3棟の洋式園舎建築物(愛の家、恵の家、光の家)のうち最も古い「愛の家」を「愛恵まちづくり記念館」として保存整備した。

年代事柄
創設者と当時の状況
昭和五年(1930年)
アメリカ人宣教師のミス・M・A・ペイン先生
【愛恵学園の創設者で昭和三十七年(1962年)まで園長】が再建を任された。
当時この地区は、過酷な生活の中で未就学児童が多く社会福祉施設がないことを知り、
子供達の生活改善のため一生を捧げることを決意し、この地に愛恵学園を創設した。
昭和五年(1930年)「愛の家」が完成し開園。
乳児を預かるナースリースクールと乳幼児健康相談事業を開始。
昭和八年(1933年)「恵の家」が完成し、幼稚園を開設。
昭和十二年(1937年)「光の家」が完成し、 貧しい家庭に生まれ戸籍もなく学校へ行けない子供達を集め、
勉強や昼食を食べさせ生活習慣を身につけさせるという事業を開始した。
平成二年(1990年)当時の西田園長の意を受け愛恵学園の建物と跡地は、昭和六十二年(1987年)から始まった
関原地区のまちづくり(密集事業)に引き継がれた。
地元住民と区により構成される「まちづくり協議会」で検討した結果、
愛恵学園の活動の社会的意義を残し活かしていくために、
まちづくりの発祥の地であり足立区のまちづくりの拠点として整備することとなった。
平成六年(1994年)4月「関原の森」と名付け、「愛の家」を歴史資料展示や集会施設などを備えた
「愛恵まちづくり記念館」として保存、さらに、「まちづくり工房」や「住区センター」が建設され、
敷地は、広場として地域に開し、防火水槽などを備えた防災の拠点として整備された。


その後、まちづくり協議会は、この愛恵まちづくり記念館を拠点とし、密集事業による道路や公園などの公共施設整備に関する検討、まちづくりの普及・啓発や地域の活性化に向けたさまざまな取り組みを続けている。愛恵学園が灯し続けてきた愛と恵みの灯火は、形を変えながら、現在でも地域の人々に受け継がれ続けている。なお、この標示板は、2007年3月にまちづくり協議会が100回開催されたことを記念し、設置するものである。




愛恵まちづくり記念館の入口の脇に石碑が置かれています。

愛恵まちづくり記念館

この建物は(財)愛恵学園の園舎として昭和五年に建てられたものですが、関原一丁目地区コミュニティ住環境整備事業により地域に開かれた施設として生まれ変わりました。




現代的な「まちづくり工房館」は、区民の街造り活動の拠点として、区民相互の交流の場として利用できます。



ポイント3.西新井橋北詰

西新井橋は荒川に架かり、尾竹橋通りを通しています。西新井橋の橋長は444.6メートル・総幅員15.7メートル・有効幅員15.0メートル・最大支間長76.2メートルの13径間の単純鋼鈑桁橋(主径間の3径間は連続鋼鈑桁橋)の橋です。歩道は橋の両側に2メートル幅で設けられています。最初の橋は、大正十三年(1924年)に通水を開始した荒川放水路の掘削に先立ち、大正十一年(1922年)3月に現在の橋の上流80メートルの場所に木桁橋として開通しました。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。橋の名前の由来は、西新井大師への経路に因んでいます。現在の西新井橋は、交通量が増大したことと経年による橋の老朽化のために、昭和三十五年(1960年)に架け替えられました。



ポイント4.扇大橋北詰

西新井橋北詰から都道450号新荒川葛西堤防線を西方向に進みます。



扇大橋は西新井橋の上流に架かり、尾久橋通りを通しています。橋長は445.4mで、昭和五十年(1975年)7月1日に下り線、昭和五十四年(1979年)に上り線が竣工しました。荒川右岸側では、隅田川に架かる尾久橋と直接繋がっています。荒川左岸側は足立区扇、右岸側は足立区小台の町域になっていて、橋名は左岸側の地名に因んでいます。



扇大橋に隣り合って下流側には日暮里・舎人ライナーの荒川橋梁が並行して架橋されていて、南詰に足立小台駅・北詰に扇大橋駅があります。北詰では、首都高中央環状線を立体交差で越えて建設されたため、車窓からの眺めは飛行機に乗っているような感じを受けます。



扇大橋北詰交差点は、尾久橋通りが扇大橋へ繋がるアプローチ下にあり、尾久橋通りの地上部と都道450号がT字型に交わる地点にあります。大型車の通行が多く、T字路のために脇見をして横断歩道を渡ろうとするとダンプカーに衝突しそうになります(なりました)。



扇大橋の上流に江北橋が架かっています。江北橋は都道307号江北橋通りを通し、荒川左岸(北側)は足立区江北・右岸(南側)は足立区宮城の町域になっています。橋名は北側にあった旧村名の「江北」に由来しています。橋長は449メートルで、中央部分がアーチ型になっています。王40系統や東43系統を始め、多くの都バスの走行経路となっています。


左側の写真の手前の橋が江北橋です。


最初の橋は大正十二年(1923年)4月21日に木桁橋として架けられ、架橋された場所は蛇行する隅田川の流路形状から俗に「天狗の鼻」と呼ばれていた場所の丁度先端に位置していました(隅田川が荒川に接している湾曲したところです)。しかし、架橋直後の9月1日の関東大震災で損傷したために、大正十四年(1925年)5月に同じ形式の橋に架け替えられました。現在の橋は旧橋の約300メートル下流に架け替えられましたが、東京オリンピックの影響もあって工事が遅れ、着工から5年半の時間を要しましたが、昭和四十一年(1966年)6月21日に開通しました。



江北橋の直ぐ上流に五色桜大橋が架かっています。五色桜大橋は、首都高速中央環状王子線が荒川を渡る場所に架けられた橋で、平成十四年(2002年)に完成しました。橋の長さは146.2mで、世界で初めて路面が上下2層になっている「ダブルデッキニールセンローゼ桁橋」です。下流の江北橋と重なった時の景観を考慮して、アーチ型のデザインとなっています。橋名の由来は、かつてこのあたりが明治から昭和初期に「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所だったことから名付けられました。



ポイント5.五色堤公園

五色堤公園は、首都高江北JCT近くにある公園です。ワシントンに贈られた五色桜から枝を採取した第一次里帰り桜(昭和二十七年実施)が植えられた公園です。2022年に訪れた時はコロナパンデミックの真っ最中で、案内板にはテープで注意書きが貼られていました。



2026年に再訪した時はテープが剥がされていて、跡が残っていました。コロナは記憶の彼方に消えようとしています。



公園の由来を記した石碑が置かれています。

五色堤公園の由来

明治時代の末頃、このあたりの土手の桜は「荒川の五色桜」と呼ばれ、世界的に有名な桜の名所でした。ワシントンのポトマック公園の桜も、明治四十五年に当時の東京市長尾崎行雄が、江北の後を贈ったものです。その後、この五色桜は土手の改修工事などで伐られたりして衰え始め、終戦後の昭和二十二年頃には全滅してしまいました。足立区では昭和二十七年、ワシントンからもらった桜を中心に復活をはかりましたが、障害が多くあまり成功しませんでした。今般の高速道路工事のため、その桜は大部分が当公園に移植されました。公園名は荒川堤の五色桜にちなみ「五色堤」と名 付け、区では昭和五十七年、区政五十周年を記念して第二回目の里帰りをした桜も、この公園に植えることにしました。どうか皆さんこの歴史ある桜を愛し、大切に育ててください。




公園内には栽桜記碑と呼ばれる五色桜の植樹経緯を記した碑があります。この碑は江北作楽会という地域の五色桜の保全活動や文化活動を行う団体が、創立15周年記念に建立しました。文章は、五色桜植樹に尽力した清水謙吾の文章を記しています。

栽櫻記碑について

この石碑は、東京都市計画道路補助線街路第113号線築造工事に支障となり江北二丁目五十七番地先よりこの場所に移転されたものです。なお、この栽櫻記の訳文は、次のとおりです。

(表訳文)

栽櫻記
武州荒川堤ハ、熊谷二起コリ千住二至ル。延亘スルコト十数里、俚俗謂ク所ノ熊谷堤ナリ。其ノ江北西新井ノ二村ニ係ルモノハ、堤路凹凸、行歩スルコト甚ダ艱シ。予甞ツテ之ヲ修メント欲シテ當路ニ?言シタレドモ報イラレズ。明治十八年九月、東京府知事渡邊洪基君、管内ヲ巡視スルノ次、子ノ家二憩フ。乃懇請スルニ企?スル所ヲ以テス。君其ノ請ヲ充セリ。越エテ明年工ヲ起コス。工竣ル。乃謂ラク、櫻樹ヲ堤上二種レバ、春ル則チ花ヲ賞シ、夏ハ則チ暑ヲ避ク。未ダ必ズシモ世ニ裨益スルコト無シトセズト。乃チ之ヲ郡長尾崎斑象氏二謀ル。氏、稱賛シテ措カズ。因リテ同志ノ者ト胥議り、?金シテ其ノ費二充ツ。遂二數十種ノ櫻三千餘株ヲ植エ。實ニ十九年三月ナリ。爾来五裘葛ヲ經テ、ハ梢長ズ。夫レ、櫻花ノ勝タル、西ニ芳野嵐山アリ、東二東台墨陀アリ。然ウシテ彼ハ則チ昔時帝都ノ在ル所、此ハ則チ今日帝都ノ在ル所、安ンゾ此ヲシテ彼ニ遜色アラシムベケヤ。衆ノ此ノ擧アル、亦タ徒爾ナラザルナリ。鳴呼、修堤ノ業ハ渡邊君ノ採納ニ成り、栽櫻ノ功ハ尾崎氏ノ賛襄ニ由ル。而シテ有志ノ者ノカ亦タ興ッテ少ナカラズ。今ヤ、?テ東都ノ勝ノ彼二過グルト曰フハ、蓋溢美ニ非ルナリ。況ンヤ數十年後、春風駘蕩ノ日ニ方リテ、芳雲爛漫謂ク所ノ白銀世界ナルモノ、必ズ期スベキカ。乃チ之ヲ記ス。

(裏訳文)
栽櫻記ハ、淡如清水翁ノ甞テ自ラ荒川堤ノ栽櫻ノ事歴ヲ識ス所ナリ。信ヲ取ルコト焉ニ過グルモノ莫シ。大正十四年六月、里人胥識り、比ヲ石ニ刻ミ以テ不朽ヲ謀ル。蓋シ必ズシモ文ヲ傳ヘントスルニハ非ズ、其ノ實ヲ傅ヘント欲スルナリ。




ワシントンに贈られた五色桜から枝を採取した第一次里帰り桜(昭和二十七年実施)が植えられています。案内板は読み取れませんでした。



神社前交差点で都道450号線から鳩ヶ谷街道に入ります。



直ぐ先に江北氷川神社があります。江北氷川神社は荒川流域に位置し、治水守護神の須佐之男命を祭神とする古くからの神社です。明治以降の近代社格制度では村社に列せられ、旧江北村(沼田・鹿浜・鹿浜新田・加賀皿沼・高野・谷在家・宮城・小台・堀之内)の九ヵ村の総鎮守でした。江北氷川神社の創建年代は不明ですが、元禄十二年(1699年)に奉納された手水石があることから、少なくとも江戸時代初期には既に存在していたと推測されます。江北氷川神社のすぐ裏手には昔の荒川堤があり、明治大正時代には「江北の五色桜堤」といわれた桜の景勝地でした。その素晴らしかったことは広く世間に知られ、「皇族の行啓」があったほどです。しかし、その後戦争の供出材として伐採されるなどで、現在その姿はありません。

江北の五色桜

江北氷川神社のすぐ裏手には昔の荒川堤があり、明治大正時代には「江北の五色桜堤」といわれた桜の景勝地でした。そのすばらしかったことは、広く世間に知られ「皇族の行啓」があったほどです。しかし、その後戦争の供出材として伐採される等で、現在その姿はありません。境内の桜は、この五色桜の末裔として残っている貴重なものです。ちなみに「江北の五色桜」は、「ワシントンポトマック川の桜並木」の元になった樹です。




境内の桜は、この五色桜の末裔として残っている貴重なものです。

幻のさくら 江北匂(こうほくにおい)

「江北匂(こうほくにおい)」は幻の桜と言われ、かつて江北村の堤に「五色桜(ごしきざくら)」のひとつとして植えられていたが、五色桜の衰退と共に絶滅したと思われていた。しかし、近年都立小金井公園にて、その存在が確認され、接ぎ穂を分けてもらい、数十年ぶりに江北のふるさとに里帰りした。山桜の仲間でほのかな香りがあり、4月中頃に可憐な花を咲かせている。




石造りの鳥居は昭和二年に再建されたそうです。

石の鳥居

鳥居とは、神域と人間が住む俗界を分けるもの(結界)であり、神域への入口を示すものです。当社の鳥居は石造りの「明神鳥居」です。柱には「昭和二年九月中浣(中旬の意)再建 氏子中(氏子一同の意)」とあります。境内には他に「慶應二丙寅歳正月吉祥日」と記された石柱も現存します。




境内には多くの掲示板が立っています。

地口絵紙(じぐちえがみ)

地口絵紙(じぐちえがみ)とはダジャレの一種である言葉遊びで、ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えた地口を作り、滑稽な画を描いたものです。江戸時代に始まり、地口絵紙を貼った角型の行灯(地口行灯・じぐちあんどん)を祭りの際に奉納し、神社の参道や鳥居等に飾りました。文化・文政期(1804年から1830年)に流行し、地口のネタ本等も出版されました。俳句や川柳と同じ江戸時代から続く庶民の文芸活動といえるでしょう。




本殿は天保四年(1833年)、拝殿は明治八年(1875年)に再建されました。昭和五十九年(1984年)に「昭和の大改修工事」が行われました。

御本殿

御祭神がお鎮まりになる内陣、総欅作り、檜皮葺の御本殿です。周囲には、御祭神の素戔嗚尊の故事にちなみ 「龍」の彫刻がほどこされ、柱を支える木組みなども幾重にも精巧に造られており、荘厳な姿を残しております。昭和の大改修の際、本殿の基礎石に「天保四年(1833年)再建」の刻印が発見され、その周囲には多くの寛永通宝(御賽銭と思われます)が埋まっており、古くから深い信仰があったことがうかがわれます。




天水桶とは、雨水を溜める桶のことです。

天水桶

明治三十四年に奉納された、鉄製の天水桶(雨水を溜める為の桶)です。当社は東京の北部にあたり、映画「キューポラのある町」で有名な鋳物の町「川口」が近くにあります。この天水桶は、この川口で鋳造された物で「武州川口」の銘も見られます。




境内社に「諏訪神社」があります。

諏訪神社

御祭神  建御名方命
御利益  五穀豊穣(雨風を司る)
     怪力の神様(悪人退治)

諏訪神社は、信州諏訪大社から勧請されてきたお社です。御神体は「大石」であり、珍しく一般の方々でも自由に見ることが出来ます。古代の人々は、「大きな木」や「大きな石」などに神様が宿ると信じておりました。その昔の信仰形態を残す貴重なお社です。




ご神体の「大石」が祀られています。



狛犬にはエプロンが掛けられています。安産の神様なんだそうです。狛犬が崇拝の対象になるのは珍しいですね。

安産狛犬

諏訪神社の御神体が「大石」であることから、「お食い初めの石」を当社からおわけしております(ご希望の方は社務所まで)。そのご縁で、この狛犬さんは安産守護の神様として信仰があり、出産後に、安産お守りをお返しに来る方が多くいらっしゃいます。綱に下げてお納め下さい。




ポイント6.熊の木広場

江北氷川神社の直ぐ先に神領堀緑道熊の木広場があります。神領堀は、足立区北西部の舎人五丁目の見沼代用水から分岐し、南西部の江北二丁目まで全長6kmの水路でした。このうち環七以南の約1.1kmが平成十五年から平成二十五年まで10年をかけて整備され、神領堀緑道となりました。熊の木広場には小川が流れ、橋があり、春には様々な種類の桜が美しく咲きます。



今は緑道となっている神領堀は、昔は用水路で熊之木圦(くまのきいり:水門)を通って旧荒川(現隅田川)へ流れていました。この場所に紀州熊野の霊木が流れ着いたという伝説も残されています。明治時代には江北村の人々によって、神領堀の先の荒川堤に多品種の里桜が植えられ、桜の名所として有名でした。この広場はかつての江北の様子を今に伝えています。

「熊之木」地名と六阿弥陀伝説

江戸時代中期から昭和初期にかけて、江戸・東京東部で盛んだった習俗に江戸六阿弥陀詣がある。主に女性が春秋の彼岸に、隅田川下流地域にあった六ないし八カ所の寺院を参詣するものであった。その起源はある悲劇女性の伝説に由来する。荒川(現在の隅田川)を挟んで足立郡と豊島郡の豪族同士(寺院縁起により苗字に諸説あり)が婚姻を結んだ。しかし嫁ぎ先との折り合いが悪くなった女性が実家に帰される途中、世をはかなみ荒川に身を投げた。女性の冥福を祈るため、父親は紀伊国(和歌山県)熊野山に詣でた。その山中で光輝く一本の霊木を得て、熊野灘に流すと不思議なことに東国まで漂流し、荒川をさかのぼって漂着した場所が旧沼田村のこの付近であったという。熊野産の木がたどりついた奇縁により、「熊之木」地名が付いたと伝わる。その後、霊木からは、女性の父親に依頼された僧行基によって六駆(一説に八駆)の阿弥陀如来像等が彫刻され、近隣の六ないし八カ寺に安置され女性の菩提がとむらわれた。各寺院は後に江戸六阿弥陀詣札所になったという。十九世紀前半に著された地誌「遊歴雜記」等には、霊木が着いた場所を「熊野木」とする記述が見える。また文政五年(1822年)に六阿弥陀四番与楽寺が刊行した「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」には、「熊の木」の位置が明示され江戸六阿弥陀詣参詣路の名所となっていた様子がうかがえる。旧沼田村の「熊之木」地名は近代以降、熊之木橋・熊之木圦・熊之木排水場等に残り、六阿弥陀伝説をしのぶよすがとなっている。




神領堀緑道熊の木広場の案内板があります。神領堀の明治期と現在の様子が図示されています。かっての荒川(現在の隅田川)に流れ込んでいた神領堀の水路がよく分かります。

神領堀緑道 熊の木ひろば

かつてこの場所に神領堀が流れ、熊之木圦を通って旧荒川(現隅田川)へ注いでいました。旧荒川堤の江北一帯には、桜が咲き、多くの人々を楽しませてきました。当時の神領堀を一部復元いたしました。

A 旧荒川堤
江戸時代につくられた、熊谷から向島までの旧荒川(現在の隅田川)の堤防です。明治時代末の荒川放水路の整備などで姿を消し、区内では堀之内一丁目から江北二丁目までの、約400mのみが残っています。明治十九年(1886年)に桜の苗が植えられ、「五色桜」と呼ばれる桜の名所となり、多くの人々でにぎわいました。

B 熊之木圦
圦(いり)とは、水の出入りを調節する水門のことです。戦後、神領堀の護岸工事で埋められてしまいましたが、今回の整備で当時の形で掘り起こして復元しました。

C 熊之木橋
熊之木橋は、アーチ型の石橋で、水面に映るとめがねのような形になるので、「めがね橋」と呼ばれました。一度解体した後、今回約40m南側のこの場所に復元しました。

明治期の様子
神領堀の水は、熊之木圦から旧荒川(現隅田川)に落としていました。旧荒川の堤には、「五色桜」が咲いていました。

平成二十五年の様子
埋め戻した神領堀には、ふるさと桜を植え、緑道として整備しました。熊の木ひろばには、熊之木圦や熊之木橋も整備しました。




広場の小川には、熊之木橋というアーチ状の橋が架かっています。



建設年代は天明年間といわれ、水面に映る様子がめがねのように見えるため、めがね橋とも呼ばれています。明治四十三年(1910年)に幼少期の昭和天皇が荒川堤の花見に訪れた際に渡られたという記録が残っています。

この熊之木橋は、江北五色桜の繁栄を祈念し、首都高速道路株式会社様並びに、株式会社デック様のご寄附により復元築造されたものです。



橋の横にある熊之木圦は広場の整備の中で発掘され、煉瓦造りで建設された珍しさからそのままの形で保存されています。手前には、「六阿弥陀伝説熊之木圦跡」の石碑が建っています。



石碑が3基並んでいます。

道標(弘法大師道・六阿弥陀みち)
   寛政八年(1796年)二月吉日建立
       ※江北二丁目三五番地に旧在

道標(弘法大師道)
   明治四十年(1907年)七月建立
       ※当地付近に旧在

江北村制定記念碑
   明治二十五年(1892年)五月建立
       ※当地付近に旧在




足立区は、平成二十一年〜二十二年にふるさと桜のオーナーを募集し、神領堀沿いに里桜が植樹されました。桜の季節は江北地域学習センター脇から荒川土手までの緑道で、様々な里桜を楽しむことができます。



公園や小学校が並ぶ閑静な住宅街に、一際目を引く建物が都下水道局熊の木ポンプ場です。熊の木ポンプ所は雨水排水施設で、足立区の北西部・舎人・入谷・古千谷の周辺からこの施設の位置する南西部までのエリアに降った雨水が地下の下水道を通ってこのポンプ所に流れ着きます。夾雑物(きょうざつぶつ)の除去後、その大量の水をくみ上げて荒川に適切に排水する役割を果たしています。足立区は23区の中でも低い土地であり、また西から南にかけて大きな荒川が流れています。令和元年の台風19号の際は、荒川水系の降水量が記録的で浸水の危険がありました。ポンプ所が建設される前の20年ほどの間に、これら地域では浸水被害が平均5回程度、多い地域では10回も発生していました。平成六年の建設後は、ほぼゼロに近い状態です。熊の木ポンプ所は街を守ってくれる頼もしい存在です。



ポイント7.堀之内公園

熊の木ポンプ所のはす向かいに、荒川護岸から延びる五色桜通りに面して堀之内公園があります。



堀之内公園は植栽豊かな公園で、春には桜が有名です。桜は薄墨(うすずみ)・関山(かんざん)・御衣黄(ぎょいこう)など、20種以上の品種のものが植えられ、地名から名をとった江北匂(こうほくにおい)という珍しい品種もあります。



堀之内公園では、初夏にハス(蓮)が開花します。園内にある約300平方メートルのハス池では、推定約2000年前のハスの実から開花した大賀ハスを見ることができます。大賀ハスは、昭和二十六年(1951年)3月に千葉県の検見川で、故大賀一郎博士らの手によって発見された古いハスの実を発芽させ開花に成功したもので、発見者にちなみ「大賀ハス」と命名されました。平成九年(1997年)に千葉公園(千葉市)から寄贈・分植されたものです。例年6月上旬から7月下旬の早朝に咲き始め、午前中から午後にかけて閉じていきます。

大賀ハス

昭和二十六年(1951年)、千葉市検見川の東京大学厚生農場(現在の東大検見川総合運動場)で、大賀一郎博士らの手により推定2000年以前のハスの実が三粒発掘され、その内の一粒が翌年七月十八日見事に花を咲かせました。この花は「大賀蓮」と名付けられ、昭和二十九年(1954年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物となりました。足立区では、平成九年(1997年)に「千葉公園」よりこの大賀ハスの寄贈・分植を受け、大切に育てゝいます。

◇開花時期:6月下旬〜8月下旬頃
◇特  徴:淡いピンクの清楚で可憐な花が咲きます




ハスの葉は大きいので、池全体を覆い尽くしています。



ハスの花と実です。ハスの実は、ハスの花が枯れた後、花托(かたく)の中にできる実のことです。皮を剥いで出てきた実を茹でたり、あるいは生のまま食べるとビールのつまみになります。昔は夏祭りの屋台などでよく売られていましたが、最近では滅多に見かけません。食べれるということを知っている人も殆どいないのではないでしょうか?



水車が蓮池に映えています。



ポイント8.荒川土手桜並木

荒川土手に上がります。遊歩道沿いには、復活した五色桜の並木が続いています。

荒川の五色桜

五色桜の由来
足立区地先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治十九年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色桜」の名がつけられたと言われています。花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽しませ、広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。

五色桜の復活
戦後、世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和五十六年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の各公園に植えられています。そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、国土交通省をはじめとして関係団体の協力によりこの里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越え時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。




桜並木の遊歩道は「あだち五色桜の散歩みち」と名付けられ、遊歩道の脇には和歌や俳句が書かれた掲示板が立っています。

万葉集の中から桜の花をおりこんだ代表的な秋を紹介します。古事からの桜に寄せる情緒がしのばれます。

   見渡せば春日の野辺に霞立ち
      咲き匂へるは桜花かも        (巻十−一八七二)

   青丹よし奈良の都は咲く花の
      にほふが如く今盛りなり   小野老 (巻三−三二八)

   鶯の鳴き散すらむ春の花
      何時しか君と手折りかざさむ 大伴家持(巻十七−三九六六)

万葉集・・・・現存する最古の歌集。759年までの400余年間の
       長歌、短歌、漢詩などを収録したもの




俳句もあります。

俳句の中から桜の花をおりこんだものを紹介します。

   花の雲鐘は上野か浅草か      芭蕉
   木のもとに汁も鱠も桜かな     芭蕉
   さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉
   花の山歌よむ人や踊る人      友尚
   八重桜製菓工場に咲けば菓子    山口誓子




ポイント9.荒川河川敷

荒川河川敷に下ります。荒川河川敷は、雄大な荒川沿いに広がり、開放感のある整備された遊歩道はウオーキングやサイクリングに最適です。



荒川河川敷の魅力は他にも沢山あり、大人から子どもまで様々に楽しめるスポットが集中しています。



江北橋の先で河川敷から土手上の遊歩道に戻ります。



荒川堤は、かって江北五色桜として有名でした。

荒川堤五色桜碑 一基

五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。




ワシントンからの里帰り桜が植えられています。

ワシントンからの「里帰り桜」

足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。




冬の快晴の日には、足立区内からも富士山の姿を見ることができます。夕日が富士山の山頂付近に沈み、あたかもダイヤモンドが台の上で輝くように見える現象は「ダイヤモンド富士」と呼ばれています。この現象が観察できるのは、足立区内では11月と1月で、これまで足立区役所庁舎や都市農業公園などで観察されています。また、富士山への良好な眺望が得られる地点を選出した、国土交通省の「関東の富士見百景」では、都市農業公園など荒川下流の5地点が選ばれ、紹介されています。

関東の富士見100景
富士山の見えるまちづくり

地点名 荒川下流からの富士




芝川は足立区と埼玉県川口市の境界を流れる一級河川です。荒川との合流部には芝川水門橋が設置されています。



ポイント10.都市農業公園

都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。



入口の正面には、都市農業交流館があります。



館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。



都市農業交流館前の広場には藤棚が設けられ、暑い時期には日陰の休息所になります。



園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。

江北五色桜

昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。




芝川沿いには梅林もあります。

生きものとの共生 梅林

かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。




子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。



首都高の高架下に面した公園の東側にはひょうたん型の小さな池があります。


この池は雨が降ると公園内の雨水がたまるようにできています。ためた水はろ過機(右隣りの建物内)によってろ過されて池に戻されます。こうしてろ過された池の水はポンプで送られ、流れの水や水田、畑などの灌水に使われています。また大雨のときには川の増水を少しでもおさえるため、川への排水をとめて池とコミュニティ広場(芝生広場)に雨水をためるという雨水流出抑制の役割もあります。




池の先には、「人と自然の共生館」があります。

人と自然の共生館

「自然と遊ぶ、自然に学ぶ、自然と共に生きる」をテーマにしている都市農業公園。足立区でかつてひろがっていた農の風景を思い起こさせる田んぼや畑で、無農薬やコンパニオンプランツなど、自然の仕組みを活かした有機的な栽培に取り組んでいます。

人と自然の共生館では
無農薬であるために、都市農業公園の田んぼや畑では様々な生きものを発見することができます。それらは、誰かがわざわざ連れてきたわけではありません。くらしやすい環境ができることで集まった生きものたちが、お互いにかかわり合いながら一緒に生きています。人と自然の共生館ではそんな生きものや植物の身近な関係やしくみを、楽しみながら多くの人に知ってもらいたいと考えています。レクチャールーム内や田んぼ、畑での展示をはじめ、温室やハーブ園に育つ植物、そしてスタッフと一緒に行う生きもの探しや葉っぱ遊びといった自然体験など、様々な方法でお伝えしています。「花の名前が知りたい」「つかまえた虫の名前を知りたい」といった質問だけでなく、みなさんが公園の中で見つけた面白いもの、素敵だと思うものがあったらぜひ共生館のスタッフまで教えてくださいね!




人と自然の共生館には、温室が付属しています。

都市農業公園の温室

この温室では熱帯〜亜熱帯原産の植物を中心に栽培しています。中でもフルーツとして食べる植物や、スパイスとして利用する植物、加工品の原材料になる植物など、私たちの豊かな生活につながりの深い植物も取り入れています。お店に並ぶ前には、どんな花や葉をつけているのでしょうか。知っている名前があれば、よく観察してみてください。

●バナナ(バショウ科)
1.5m以上の大きな葉をつけます。多年生の草本植物のため1度しか花と実をつけませんが、この温室では多い時で1株から150本ほどのバナナができます。

●スターフルーツ(カタバミ科)
6月〜8月頃盛んにピンク色の可愛らしい花をつけ、その名の通り、断面が星の形をした実が見られます。夏は野外で、冬は温室内で管理しています。

●イランイラン(バンレイシ科)
花は精油や香水の原料になります。「イランイラン」という名前は、タガログ語(フィリピンの言語の1つ)で 「花の中の花」という意味を持ちます。原産国では10mを超える高木になるため、この温室では鉢植えでの管理をしています。

●カルダモン(ショウガ科)
カレーやチャイなどに使うスパイスとして名前が知られています。上品で強い香りから「スパイスの女王」と呼ばれ、インド料理では欠かせないスパイスです。種子をスパイスとして利用しますが、葉を触ると甘い香りがします。




建物の外にはハーブ園があります。



田んぼもあります。お米作りの段階を説明したパネルが立っています。今月は収穫した後の脱穀から精米までの工程が図示されています。隣には、イナゴの佃煮の料理法が解説されています。都会ではなかなかイナゴを食べることはありませんね。



畑には大根が育っています。



足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2026年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。

旧増野製作所長屋門

現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。




裏から見るとこんな感じです。



高台には古民家が移築・保存されています。

旧和井田家住宅(母屋) 一棟

この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。




今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。



間取りが詳しく説明されています。

足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅

概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。

間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。


【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。


母屋と長屋門の間に井戸が見えます。

旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1868年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。




夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。



荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。



数は少ないですが、遊具も設置されています。



日米で桜を寄贈して100周年の記念植樹があります。

日米桜寄贈100周年記念植樹

100年の歴史に由来する3本の苗木を植樹しました。これまでの100年に思いをはせるとともに、日米交流のさらなる礎となることを願っています。
○ レーガン桜の穂木から育てた苗木
○ 桜のお礼としてアメリカから贈られたハナミズキの原木の種から育てた苗木
○ 100周年を記念してアメリカから贈られた桜の穂木から育てた苗木

※穂木とは良品種を増やすために、元となる桜から採取した枝のこと。

荒川の五色桜 100年の歴史

☆ はじまり
明治十八年、荒川の氾濫により千住大橋は流出し、付近一帯は大洪水にみまわれました。当時の沼田村の長は荒廃した荒川堤を修復し、記念として多種類の里桜を約3、000本植樹しました。最盛期の桜並木は濃紅色、紅色、淡紅色、白色、黄色などの花々が咲き誇り、その風情が「五色の雲がたなびくがごとし」と表現されたことから、いつしか「荒川の五色桜」と呼ばれるようになりました。

☆ アメリカへ
明治四十三年、日本の桜の美しさに感動した体験を持つ当時のタフトアメリカ合衆国大統領夫人をはじめ、多くの方々の尽力により、荒川の五色桜から採取した穂木から育てた苗木が、ワシントンDCポトマック河畔に植樹されました。

☆ 途絶えた荒川の五色桜
明治四十三年、氾濫を繰り返す荒川の放水路掘削工事をきっかけとして多くの桜が伐採・移植されました。以降、「荒川の五色桜」は衰退の一途をたどり、昭和二十二年にはその姿を消してしまいました。

☆ そして復活 〜里帰り桜〜
昭和二十七年、復活を望む声とともにアメリカから桜の穂木が贈られ、最初の里帰りが実現しました。昭和五十六年、区制50周年を機に区は五色桜の里帰りに本格的に取り組み、ワシントンDCから桜の穂木35品種、約3、000本を採取し、区内の公園などに植樹しました。昭和五十七年、レーガン大統領夫人から贈られた苗木は「レーガン桜」として、都立舎人公園に植樹しました。




ゴール地点の都市農業公園バス停に着きました。



ということで、足立区で三十七番目のコースとなる「C−南西エリア 37.さかえ公園から都市農業公園コース」を歩き終えました。次は足立区で三十八番目となる「C−南西エリア 38.ベルモント公園・本町公園コース」を歩きます。




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