C−南西エリア 38.ベルモント公園・本町公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「C−南西エリア 38.ベルモント公園・本町公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年2月に改めて歩きました。

スタート地点:東武スカイツリーライン西新井駅東口

 1.ベルモント公園

 2.エル・ソフィア

 3.西新井さかえ公園

 4.関原商店街

 5.西新井橋

 6.尾竹橋公園

 7.おばけ煙突モニュメント

 8.千住桜木公園

 9.千住本氷川神社

10.千住ほんちょう公園

ゴール地点:東武スカイツリーライン北千住駅西口


スタート地点の東武スカイツリーライン西新井駅東口から歩き始めます。



ポイント1.ベルモント公園

旧日光街道の梅島二丁目交差点から住宅地に入った先にベルモント公園があります。



ベルモント公園は、足立区とオーストラリアのベルモント市との姉妹都市提携を記念して造られたオーストラリアの文化に触れることのできる公園です。ベルモント市の紋章には、西オーストラリア州の象徴であるブラックスワン(黒鳥)が使われています。

ベルモント公園について

ベルモント市は、オーストラリアの首都キャンベラから西へ約3、000km、西オーストラリア州の州都パース市に隣接する、面積約40ku(足立区の約4分の3)の都市で、1984年10月1日に足立区と姉妹都市になりました。この公園は、足立区とベルモント市の友好交流を記念し、区制60周年記念事業の一環として1993年に整備されました。ベルモント市内にも日本をイメージした「足立パーク」があり、市民の憩いの場となっています。




道路を挟んで北側には遊具が設置された広場があります。2026年2月に再訪した際には、案内板の内容が一部書き換えられていました。

この公園は、1984年10月1日に足立区と姉妹都市になった、オーストラリアのベルモント市との友好交流を記念してつくられました。ベルモント市は、オーストラリアの首都キャンベラから西へ約3、000km、西オーストラリア州都パース市に隣接しています。面積は、約40kuと足立区の約4分の3です(2022年当時の記述では、「面積は、31、96kmと足立区の約5分の3、人口は約3万2、000人です」となっています)。市の中には、西オーストラリア州最大のパース空港があり、西オーストラリアの玄関口ともなっています。



南側には、洋風の建物と広い庭園があります。芝生には、羊のモニュメントが置かれています。オーストラリアでは、羊は主に羊毛と羊肉の生産のために飼育されていて、羊の飼育において世界で二番目に多い国です。かつては1億7000万頭も飼育されていましたが、現在は約6800万頭になっています。広大な土地と乾燥した気候が羊の飼育に適していて、全て内陸部や半乾燥地帯に放牧されていています。



公園の正門の奥に、オーストラリアの工芸品などを展示している入館無料の赤レンガの陳列館があります。

オーストラリアの人たちの生活や文化に触れてみませんか

オーストラリアの民芸品、日用品のほか、ベルモント市より寄贈された工芸品などを展示しています。入館は無料ですので、ご自由にお入り下さい。

展示内容
1Fーオーストラリアの日用品、工具、アボリジニ(原住民)の狩猟用具など
2F−ベルモント市より寄贈された工芸品等
(特別展示等のため展示内容が変更となる場合があります)

BELMONT PARK GALLERY

This gallery exhibits various articles from Australia. Please feel free to come inside and look around.




ベルモント市を紹介した案内板があります。スワン川の上流には、西オーストラリアで最も古いワイン産地として名高いスワンバレーがあります。スワンバレーには、家族経営のワイナリーから大規模なワイナリーまでたくさんのワイナリーがあります。パースからスワン川をクルーズしながらワイナリーを訪ねたり、フード&ワイン街道を行けば150軒以上のワイナリー・レストラン・カフェ・ショップなどが建ち並んでいます。私も一度訪れましたが、ワイナリー以上にクルーズ船上でもドンチャン騒ぎが思い出に残っています。

ベルモント市の紹介

「可能性に満ちた街」ベルモント市は、西オーストラリアの中でも他にはない魅力を持っています。ベルモント市では、すべてがパース市街から6キロ圏内に位置しており、整ったインフラや土地の活用、快適な住環境があります。また、これらの土地は、市内を11キロに渡って流れる自然豊かなスワン川の川辺にあり、手ごろな価格で手に入ります。このように、ベルモント市は誰もがうらやむ街になっています。ベルモント市には、パース空港や競馬場、工業地帯、大きな商業地域があり、住宅街も増えてきています。美しいスワン川が市境の一部を流れるベルモント市は、まさに「リバーサイドシティ」と呼ぶに相応しい街です。

There is no other city in Western Australia like the City of Belmont - the City of Opportunity. Its unique mix of land use, amenity and infrastructure - all within 6km from the Perth Central Business District - together with 11km of pristine Swan River frontage and affordable pricing, makes the City the envy of many. The City is home to the Perth Airport, as well as the horse racing industry, a prime industrial area, and a commercial centre encompassing major shopping and retail activity, along with a growing residential community. With the beautiful Swan River forming one of the City's main boundaries, the City of Belmont is a truly a riverside City.




黒鳥の剥製が展示されています。この黒鳥はかってベルモント公園で飼育されていましたが、深夜何者かによって頭部を殴打されて死んだとのことです。ひどいことをする人もいるもんです。

黒鳥(ブラックスワン)

黒鳥は西オーストラリアの州鳥であり、ベルモント市の北側を流れるスワン川にも多数生息しています。この黒鳥はベルモント市との友好の証として、ベルモント公園の池で飼育されていました。




1階には、オーストラリアの日用品や工具、それにアボリジニ(原住民)の狩猟用具などが展示されています。



最近、ベルモント市から寄贈されたワライカワセミの絵画も展示されています。

ワライカワセミの絵画

オーストラリアでは、ワライカワセミは“喜びと幸せ”の象徴として知られており、ベルモント市と足立区のこれまでの交流・喜び・友情を分かち合う証と言われています。

2024年1月11日 ベルモント市よりいただく

In Australia, the Kookaburra is known as a symbol of "joy and happiness" and is said to be a sign of shared exchange, joy, and friendship between Belmont City and Adachi Ward.




足立区とベルモント市との間で結ばれた姉妹都市の覚え書きが展示されています。

足立区とベルモント市の姉妹都市関係発展のための交換覚書

1984年10月1日、足立区とベルモント市は姉妹都市提携を結び、今年で40周年を迎えました。私たちは、「姉妹都市提携宣言」の中で、両都市間の文化と友好の交流を推進することに合意し、足立区民とベルモント市民との相互理解のもと友好の絆を深めてきました。本年、友好関係40周年記念に際し、両都市の市民の友情が益々深まることを望みます。そして、このことが日本とオーストラリアの絆を強め、世界平和に貢献するものと確信いたします。




裏面には、ベルモント市側の覚書と記念写真があります。

Sister City 40th Anniversary on 1 October 2024

A commemorative Prunus Cerasifera 'Cherry Blossom Plum' was planted by City of Belmont Mayor Robert Rossi, Mr Yasushi Naito Consul-General of Japan, and Wendy Parsons Chairperson of the Belmont Sister City Association, to mark the 40th anniversary of the Sister City relationship between the City of Belmont and Adachi-Ku in Japan.




2階にもベルモント市から寄贈された工芸品や文書・写真などが展示されています。



公園内には、ユーカリの木やブラシノキやアカシアなどの植物が植えられていて、オーストラリアの自然が感じられるようになっています。

ユーカリ Eucalyptus フトモモ科

植林などに多用される成長の早い常緑樹。ふつう幼葉と成葉とでは形が異なります。




ブラシノキは常緑の小高木で、別名カリステモン・ハナマキ(花槙)・キンポウジュ(金宝樹)とも呼ばれます。オーストラリア原産で、観賞用に栽培され、5月から6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立ちませんが、赤(ときに白)く長い花糸が目立ちます。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見え、花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持っています。

ブラシノキ Callistemon speciosus

花でめだつのは鮮紅色の雄しべ。和名は花穂の様子にちなみます。

フトモモ科 オーストラリア




通路の脇にはバラ園もあります。



パーゴラも設置されています。パーゴラは、ベンチや屋外卓などの休養施設の上部に設置される修景施設のことで、日陰棚とも呼ばれます。藤棚が代表的なものです。



かっては、公園の中央にある池にブラックスワンが飼われていたようですが、今はいないようです。



旧日光街道に出た先に、道路を跨ぐようにして東武スカイツリーラインの梅島駅があります。梅島駅は、大正十三年(1924年)10月1日に開設され、当初は相対式ホーム2面2線を有し、駅舎が上下ホームで独立していました。昭和四十三年(1968年)3月に高架・複々線化された際、用地幅が狭かったことから営業線直上に高架橋を建設する方式が取られ、北千住寄りに上りホーム・西新井寄りに下りホームが一直線に配置された変則タイプとなり、緩行線にのみホームが設置され、その外側を急行線が走る配置となりました。駅名の由来は、町村統合の折りに梅田村の「梅」と島根村の「島」が合わさって村名となったことから、駅名にも命名されました。



ポイント2.エル・ソフィア

「L・ソフィア」は、梅田センターの愛称です。エル・ソフィアは、足立区梅田地域学習センター・図書館として知られ、地域の文化活動や学習の中心となっています。「エル・ソフィア」と命名された経緯は不明ですが、「エル:L」はLearning、「ソフィア:Sophia」はギリシャ語に由来して知恵・賢さを意味することから、学びを通して賢く成長するようにとの意味が込められているのではないかと思います。



梅田地域学習センターは、教養・文化・スポーツを通して地域交流を図るために様々な学習の機会を提供し、サークル等の自主的な活動を支援する生涯学習のための施設です。施設としては、体育館・舞台付ホール(レクホール)・学習室・会議室の他に教養室(和室)・工作室・料理室などがあります。男女参画プラザは、男女共同参画社会(性別に関係なく、家庭・地域・仕事の場でお互いを認め合って生きていく社会)の実現を目指し、区民・事業者及び区民団体の男女共同参画への取り組みを総合的に推進するための拠点となっています。



エル・ソフィア前交差点を右折し、環七南通りを進みます。少し先で、亀田トレイン通りに入ります。大正十三年10月に完成した荒川放水路の開削に合わせて、東武線の線路は荒川放水路に対して垂直に架ける必要があり、大幅に走行ルートが変更されました。かって線路があった場所は道路になり、現在は「亀田トレイン通り」という愛称が付けられています。



「リライズガーデン西新井カイレジデンス」は、かつて東武鉄道の西新井車輌工場があった跡地を再開発して、2004年の工場廃止後の2009年に建てられた総戸数738戸の大規模マンションです。



道路を挟んだ反対側には、「亀田トレイン公園」があります。



道路に面した歩道の脇には、電車に因んで駅の看板を模した「かめだトレイン公園」と書かれた看板が立っています。ここも西新井車輌工場の跡地の一部を再開発して、2010年4月に区立公園として整備されました。



春になると園内の桜並木がきれいに花を咲かせ、地域の人たちを楽しませてくれます。面積1、785平方メートルの広い敷地内には、車両工場をイメージした車輪のモニュメントや災害時の防火貯水槽・かまどベンチの他に、ブランコや鉄棒や健康遊具も設置されています。公園は、子どもから大人まで集う憩いの場としてだけではなく、防災とまちづくりの役割も担っています。

この車輪について

初期の客車や電車、そして貨車は、スポーク付き車輪を使っていました。タイヤ(踏面)が減ってくると取り外し、また焼きバメして使用しました。長く長く使っていました。


注記:「スポーク」とは、車輪の外周部分を支えているリムと、車輪の中心にあるハブをつなぐ棒状の部品です。「焼きバメ」とは、軸と穴のはめあい法のひとつで、常温では軸より小さい穴を加熱膨張させることではめあわせ、堅く結合させる方法です。



西新井駅に戻って、西口広場からバス通り(さくら参道)を進みます。西新井駅の南西側には、大正七年(1918年)に東京紡績西新井工場(後の日清紡東京工場)が完成し、平成十四年(2002年)まで操業しました。その跡地は、UR都市機構を中心に“西新井ヌーヴェル”の名称で再開発が進められ、平成十九年(2007年)にアリオ西新井がオープンしました。その名残で、道路名には「ぼうせき通り」といった愛称が付けられています。



せんぷ通りと尾竹橋通りの間の広大な敷地にアリオ西新井があります。アリオ西新井は、都市再生機構が開発主体として進めた、14.5haに及ぶ日清紡東京工場跡地再開発事業「西新井ヌーヴェル」のひとつとして、平成十九年(2007年)11月9日にグランドオープンしました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターとしては、全国で6店舗目(都内ではアリオ亀有に次ぐ2店目)で、イトーヨーカドーとしては176店舗目になります。東武スカイツリーライン西新井駅西口近くの環七通りと尾竹橋通りの交わる場所に位置していて、商業施設としての立地環境に優れています。また既存アリオの川口と亀有から何れも直線距離で十数キロメートルしか離れておらず、アリオとしてドミナントを形成しています。そうした立地特性もあり、モール型SCとしては狭く、1550台分の駐車場も地下・4階・5階・屋上に設置され(売場は1〜3階)、都市部のSCならではの構造となっています。店舗面積は3層構造で31、000uあります。「アリオ西新井」は、イトーヨーカドー西新井店をメイン施設にして、100を超える専門店が集うショッピングモールです。地域の特性に合わせて、親子だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんまで三世代で楽しめるやさしい施設設計が特徴です。専門店は、マタニティから育児用品が揃うアカチャンホンポを始め、ベビードールなどの人気ブランドのショップ、かわいい衣装が揃うスタジオキャラット、ユニクロやGU(ジーユー)、無印良品など、ファッションから生活サービスが揃うほか、TOHOシネマズも併設していて、最新の映像・音響設備で迫力ある映画を楽しめます。赤ちゃん休憩室には、調乳専用温水器・授乳室・子ども専用トイレ・おむつ交換台・ベビーキープ・乳幼児用の計測機器・絵本コーナーなどを完備し、無料のマタニティ・育児相談室も設けています。ママがお買い物をしている間にパパと子どもが過ごす場所として使える「なかよしひろば」や、子どもも掴める高低差のある「2段手すり」など工夫のある設計が好評です。



ポイント3.西新井さかえ公園

アリオ西新井と「せんぷ通り」を挟んで西新井さかえ公園があります。西新井さかえ公園は、日清紡東京工場が建てられていた跡地を再開発し、その一画に公園が整備されました。隣接街区との一体的な街路景観を形成しながら、路地空間や街角広場を創り出しています。いぶし瓦や陶板を採用し、手作り感・素材感・地域性を反映した景観を呈しています。ベンチが沢山設置されていますので、ゆっくり寛ぐにももってこいです。トイレも清潔で、オムツ換え台が設置されていますので、小さなお子さん連れでも安心です。



公園には高木が林立し、周囲の高層住宅の住民の憩いの場になっています。



遊具も揃っています。



大人用の健康遊具もあります。

らくらく健康器具 1212
スイスイ屈伸

膝の曲げのばし運動です。2本のアームにワキをかけそのまま、膝を曲げます。のばす際にはアームが補助してくれるので、安心して運動が行えます。

らくらく健康器具 1208
ユッタリステップ

ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。




まだあります。

ストレッチ器具 K−171
ツイストボード

バーにつかまり円盤の上に立ち体を左右にゆっくりひねりましょう。腰部のストレッチに役立てましょう。

休息器具 K−163
背のばしチェアー

すわりながら、また反対側に立ってゆっくりと背のばし運動をしましょう。

らくらく健康器具 1207
ツイストスツール

体をひねるストレッチ運動です。足をかけ、手すりで上半身を支え、左右にゆっくり振りましょう。ムリなくバランスよく行うのが効果的です。




地区の歴史を解説した案内板が貼られています。

のどかな時代

西新井大師は、江戸時代には、多くの参拝人で賑わいましたが、参道を外れれば、のどかな景色が広がっていました。明治三十二年(1899年)に、東武鉄道西新井停車場ができ、西新井大師までの沿道に少しずつ市街地が広がりました。昭和三年(1928年)頃にできた西新井音頭にその当時の風物が歌われています。

一つとせ 一番電車に乗り込んで 浅草停車場発車して 目ざす名所は西新井
二つとせ 二、三十分足らずで駅につき 降れば自動車の備えあり 西も東も花畑
三つとせ 見わたす限り花園で 春夏秋のながめあり 色香あらそい乱れ咲き

進む市街化

大正七年(1918年)この地に東京紡績(株)(大正十三年に合併して日清紡績(株))が進出し、この地の市街化のきっかけとなりました。その後、昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成したことで水害も少なくなり、徐々に市街化が進み始めました。昭和三十年以降の経済の高度成長期に、ほぼ今の市街地がかたちづくられました。

工場が移転して

平成十年(1998年)、日清紡績(株)東京工場移転の決定を機に、足立区は日清紡績や地域住民の協力を得て、UR都市機構とともに新たなまちづくりに取り組んできました。この公園は、日々の憩いの場となりながら、防災公園として住民とまちを守っていく機能を担っています。今後も、この地の発展を見守っていくことでしょう。




ポイント4.関原商店街

西新井さかえ公園を出て、「せきえい通り」を進みますと、T字路に突き当たります。



突き当たりを南北に延びるタイル貼りの道路が関原通りです。「関原」という地名は、現在の関原二丁目にある「関原不動院大聖寺」に由来しています。関原不動の由来伝説によりますと、小宮光徳という関守が桂花老人から“関の原”と呼ばれた土地にある良辨という聖者が作った不動明王を与えると告げられました。光徳は老人の言葉に従って足立へ来訪し、八幡宮の傍らに草庵を結び不動明王を祀りました。これが関原の地名の由来とされています。



関原通りに入った先で、関三通りと交差します。この界隈は関原三丁目の町域になり、「関原銀座会」・「関三通り」・「関原イーストロード」と三つの名前が付いた下町情緒豊かな商店街が連なっていて、生活感のある日常風景を見せています。



惣菜天国と称される十条銀座商店街にも店舗を構える「惣菜みやはら」など、各種惣菜を扱う専門店がしのぎを削っていて、夕飯時を前に激安惣菜求めて周辺の主婦が行列を作っています。それに加えて多いのが西新井という土地柄、韓国食材店や韓国料理焼肉店が目立ち、荒川区の三河島エリアと双璧を成す都内屈指のオールドコリアタウンを形成しています。



「スワヤ」は、商店街で一際賑わう激安青果店で、豊富な品揃えとお得な商品で地元の方に大人気です。安く売る秘訣は、社長の話によると「創業以来50年間で培った情報網と、産地を特定せずその日の安い野菜を調達することで激安価格を実現し、コストを抑えるためにチラシや広告は一切出していない」とのことです。



商店街には銭湯もあります。堀田湯は昭和十七年に当地で開業し、80年後の令和四年に改装オープンしました。新しい設備を導入しつつも、宮造りの建物を活かした温故知新な改装は歴史を感じながら現代のスタイルに溶け込みます。堀田湯の象徴といえる「葛飾北斎の桜花と富士のタイル絵」はそのままに、先代から変わらないやさしいお湯でほっとするひとときを過ごせます。いろんなお湯が日替わりで楽しめるようです。



関原通りには、肉屋・魚屋・八百屋といった生鮮食品の店のほか、洋服店・酒屋・本屋など、多様な個人商店が軒を連ねています。中には90歳を超える女将さんがいる食料品店や、遠方からお客が訪れる青果店など、地域に根差したお店も多くあります。



呉服店の看板が半分写っていますが、これは「ライオン看板」と呼ばれる戦後の商店街で流行したものです。当時の繁栄を窺い知ることができます。2022年に訪れた時は、そんなに貴重な看板だと思わなかったので、たまたま撮った写真の中に看板の半分が映り込んでいました。ネットに全景を撮った写真がありましたのでお借りします。



2026年に再訪した時には、お店は取り壊され、跡地に住宅が建つようで、工事が始まっていました。左は、同じアングルの写真です。



呉服店のあった場所の隣には「大衆天国食堂」という年季の入ったお店があります。元々は食堂でしたが、長らくシャッターが降りたきりの空き店舗になっていました。一時期、店頭販売を始めたのだそうですが、今は食堂もやっているのかな?ちなみに、「天国」は「てんくに」と読むらしいです。



関原通りに面して、関原の地名の由来とされている関原不動院大聖寺があります。関原山不動院大聖寺は、宝徳元年(1449年)開山と伝えられる寺院で、本山は奈良県桜井市にある長谷寺です。不動院の名の通り、本尊は不動明王で、良弁の作と伝えられています。



一際目立つ木造の本堂は、足立区内最大の大きさを誇ります。度々火災に遭いましたが、現在の本堂は嘉永元年(1848年)5月に深川木場の講中が材木その他を寄進し、8年の歳月を掛けて再建されたものです。外陣の格天井の欅板98枚には彫刻が施され、欄間にはボタンに唐獅子の彫刻がはめ込まれています。龍の巻き柱や襖絵も圧巻です。また浅草山谷講中が寄進した大賽銭箱(安政四年【1857年】銘)には銅の鋲がふんだんに打ち込まれています。このように、本堂の大きさのみならず、装飾にも大聖寺の隆盛を見て取ることができます。本堂の再建や大賽銭箱の寄進の他にも、眼病平癒のお礼に大提灯を八代目市川団十郎が寄進したという話が伝えられています。これらの江戸末期を中心とした事柄から、関原不動は広範な下町庶民の信仰を集めていたと考えられます。



石碑と石像が並んだ横に案内板が立っています。

大聖寺

本寺は寺蹟によると、応永年間(1394年〜1428年)に小宮光徳が関原の地に草堂を建て、不動明王を安置し、その後、天正十三年(1583年)に再建成就して、名を関原山不動院大聖寺と定めたという。江戸時代には、江戸の庶民の熱い信仰を受けた。現在の本堂(足立区登録有形文化財)は、嘉永元年(1848年)の建立で、区内随一の木造伽藍であるが、これは深川木場の講中が材木その他を寄進して再建されたものである。本堂中央の中の間の天井には九十九枚の彫刻がある。欅の木目を美しく生かし、彫りも深く、美麗精巧な美術品である。また、八代目市川團十郎奉納木造提灯扁額(足立区登録有形文化財)は、提灯本体に大きく「八代目」と記され、奉納の目的を父の寿海老人白猿(七代目市川團十郎)が記しており、著名な歌舞伎役者の家である市川家が大聖寺を信仰していたことを伝えている。本寺草創の由来を刻んだ関原不動尊略縁起、世に鉄眼版の名で知られる大般若経六百巻、文明年間(1469年〜1487年)の板碑二基なども蔵し、いずれも足立区登録文化財となっている。その他、本尊の不動明王(秘仏)を中心に八大童子像や百体の小観音像などがある。




関原通りに面して、関原八幡神社が鎮座しています。関原八幡神社の謂れですが、そもそもは大聖寺の守護神として創建されましたが、明治の神仏分離令によって明治三年(1870年)に現在の地に移転したとのことです。



境内の欅の木は足立区の保存樹林に指定されています。

足立区指定第558号
保存樹木 けやき

当神社は、小宮光徳が不動明王を安置したことを起源としており、このケヤキは、嘉永元年(1848年)頃に現在の奉殿が新築された際、敷地の境に左右に植樹されたと伝えられている内の一本です。これからも、大切に見守っていきたいと思います。




関原通りと江北通りの交差点の右手に、「関原の森」と書かれた標柱が立っています。



関原の森は、貸し会議室・レンタルスペース・イベントスペースを兼ね備えた都市生活者の小さなステージで、街やモノをデザインする工房空間です。広場には、大きな椎の木が聳えています。



広場に面して、「愛恵まちづくり記念館」が建っています。

足立区愛恵まちづくり記念館

愛恵まちづくり記念館の沿革

愛恵学園は明治十六年(1883年)にキリスト教の日本メソヂスト教会の社会福祉施設として台東区に設立した、美以美(みいみ)尋常小学校が前身。この施設は、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で焼失、別の地域での活動を余儀なくされた。そこでこの関原の地で再建し、昭和五年(1930年)から平成二年(1990年)まで、地域に親しみ社会福祉事業を行ってきた。60年間に渡る「愛恵学園」の活動が、その使命を終えたことから、足立区は土地と建物を取得し、愛恵学園の功績を残すとともに、関原地区のまちづくりのシンボルとして、愛恵学園にあった3棟の洋式園舎建築物(愛の家、恵の家、光の家)のうち最も古い「愛の家」を「愛恵まちづくり記念館」として保存整備した。

年代事柄
創設者と当時の状況
昭和五年(1930年)
アメリカ人宣教師のミス・M・A・ペイン先生
【愛恵学園の創設者で昭和三十七年(1962年)まで園長】が再建を任された。
当時この地区は、過酷な生活の中で未就学児童が多く社会福祉施設がないことを知り、
子供達の生活改善のため一生を捧げることを決意し、この地に愛恵学園を創設した。
昭和五年(1930年)「愛の家」が完成し開園。
乳児を預かるナースリースクールと乳幼児健康相談事業を開始。
昭和八年(1933年)「恵の家」が完成し、幼稚園を開設。
昭和十二年(1937年)「光の家」が完成し、 貧しい家庭に生まれ戸籍もなく学校へ行けない子供達を集め、
勉強や昼食を食べさせ生活習慣を身につけさせるという事業を開始した。
平成二年(1990年)当時の西田園長の意を受け愛恵学園の建物と跡地は、昭和六十二年(1987年)から始まった
関原地区のまちづくり(密集事業)に引き継がれた。
地元住民と区により構成される「まちづくり協議会」で検討した結果、
愛恵学園の活動の社会的意義を残し活かしていくために、
まちづくりの発祥の地であり足立区のまちづくりの拠点として整備することとなった。
平成六年(1994年)4月「関原の森」と名付け、「愛の家」を歴史資料展示や集会施設などを備えた
「愛恵まちづくり記念館」として保存、さらに、「まちづくり工房」や「住区センター」が建設され、
敷地は、広場として地域に開し、防火水槽などを備えた防災の拠点として整備された。


その後、まちづくり協議会は、この愛恵まちづくり記念館を拠点とし、密集事業による道路や公園などの公共施設整備に関する検討、まちづくりの普及・啓発や地域の活性化に向けたさまざまな取り組みを続けている。愛恵学園が灯し続けてきた愛と恵みの灯火は、形を変えながら、現在でも地域の人々に受け継がれ続けている。なお、この標示板は、2007年3月にまちづくり協議会が100回開催されたことを記念し、設置するものである。




愛恵まちづくり記念館の入口の脇に石碑が置かれています。

愛恵まちづくり記念館

この建物は(財)愛恵学園の園舎として昭和五年に建てられたものですが、関原一丁目地区コミュニティ住環境整備事業により地域に開かれた施設として生まれ変わりました。




現代的な「まちづくり工房館」は、区民の街造り活動の拠点として、区民相互の交流の場として利用できます。



ポイント5.西新井橋

西新井橋は荒川に架かり、尾竹橋通りを通しています。西新井橋の橋長は444.6メートル・総幅員15.7メートル・有効幅員15.0メートル・最大支間長76.2メートルの13径間の単純鋼鈑桁橋(主径間の3径間は連続鋼鈑桁橋)の橋です。歩道は橋の両側に2メートル幅で設けられています。最初の橋は、大正十三年(1924年)に通水を開始した荒川放水路の掘削に先立ち、大正十一年(1922年)3月に現在の橋の上流80メートルの場所に木桁橋として開通しました。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。橋の名前の由来は、西新井大師への経路に因んでいます。現在の西新井橋は、交通量が増大したことと経年による橋の老朽化のために、昭和三十五年(1960年)に架け替えられました。



橋の上流側の歩道から眺めると、スカイツリーと鉄塔が並んで見えます。橋の下流側の歩道から眺めると、スカイツリーが紅白に塗り分けられているように見えます。



千住桜木町交差点で尾竹橋方向に進みます。



ポイント6.尾竹橋公園

尾竹橋公園は、隅田川に架かる足立区の尾竹橋の北西に位置する区立の公園です。



面積が16、871平方メートルの広々とした敷地内に、すべり台などの遊具や砂場が点在しています。大人には懐かしい雲梯やシーソーなどで遊ぶこともできます。他にも、少年野球場やテニスコートなどのスポーツ施設を備えていて、各種の運動に利用できます。また夏季にはじゃぶじゃぶ池が開放され、子ども達が歓声を上げながら水遊びをしています。



公園内に、「千住北魚市場跡」の石碑が建っています。千住大橋の袂にある足立市場の前身となる市場で、大正十四年(1925年)に開設されました。昭和十年に東京市が中央卸売市場の足立分場を計画し、それを受けて昭和二十年に移転しました。



尾竹橋通りを渡って、隅田川の護岸上の遊歩道に出ます。護岸の下には、千住桜木わんどがあります。「わんど」とは、川の本流と繋がっていますが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことです。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっています。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えています。漢字では、「湾処」と表記されます。



尾竹橋は隅田川に架かる橋で、尾竹橋通り(都道313号線)を通しています。橋名は、北詰の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因んでいます。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていましたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから、この名で呼ばれたとされています。付近は千住や西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和九年3月に関東大震災後の復興事業の一環として架橋されました。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで、当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)でした。太平洋戦争中には、金属供出によって高覧が撤去されるなどしましたが、戦災をくぐりぬけ、現在の橋は平成四年(1992年)に架け替えられたものです。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。



ポイント7.おばけ煙突モニュメント

帝京科学大学千住キャンパス本館の入口に、おばけ煙突のモニュメントが展示されています。

お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument

「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。




モニュメントの脇に、4本の煙突の模型が建っています。壁には、見る角度によって煙突の本数が異なって見えた様子が表示されています。



お化け煙突は、上から見ると菱形に配置されていたために、見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えました。1本に見えるのは千住の旧区役所(現在のあだち産業芸術プラザ)方向と、本木一丁目27番南側の荒川左岸(北側)の2方向でした。発電所は、現在の千住桜木一丁目13番北側の荒川(現隅田川)左岸に大正十五年(1926年)1月に建設され、煙突の高さは83.82メートルあり、レンガで出来ていました。その後、昭和三十年代に周囲を鋼板で補強しました。しかし、老朽化と効率化のため昭和三十八年(1963年)に発電所が閉鎖され、翌年秋から解体工事を実施し、11月末には完全に姿を消してしまいました。お化け煙突は、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」で全国的に知られるようになった他、漫画や文芸作品にも数多く取り上げられて親しまれました。

お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument

「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和二十八年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率のよい発電所が建設されたことから、昭和三十八年3月に現役を退きました。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。




当時の写真も添えられています。



千住火力発電所の燃料となる石炭を隅田川から船運で運び入れた運河の跡でしょうか?



千住火力発電所の跡地は、現在は帝京科学大学の敷地になっています(南側は東京電力の跡地のようです)。2010年4月に開設された千住キャンパスは、隅田川を臨むウォーターフロントに建ち、附属動物病院(アニマルケアセンター)・カフェテリアやコンビニ・各学科の実習室や講義室を併設した「本館」・本館と緑の道で結ばれた2号館と階段教室がある3号館、そして2015年3月に完成した7号館から構成されています。これらの建物は環境保護への取り組みや省エネルギー化にも配慮し、同時に地域との融合やコミュニケーションを育てる場として考えられています。



ポイント8.千住桜木公園

千住桜木公園は、隅田川の東河原にある区立の公園です。面積4、442平方メートルの広々とした敷地内には、赤い三角屋根から直線や曲線を描いてすべり下りるカラフルな色彩のすべり台や、プランコなどの遊具が点在しています。公園の周囲には数々の種類の木々や芝生が植栽され、緑が多く落ち着いた雰囲気が漲っています。



千住桜木公園から墨堤通りに出て千住竜田町交差点で右折し、北千住駅前通りを進みます。日光街道の手前で大正通りに入り、千住寿町で右折して日光街道に向かいます。



千住寿町交差点で日光街道を渡り、サンロード商店街に入ります。サンロード商店街は、日光街道と旧日光街道を結ぶ千住三丁目・四丁目の境界道路沿いに広がる商店街です。昔ながらの個人店から新しいお店まで、こだわりの小さな名店が点在し、日々の買い物やちょっとした寄り道に便利な通りとして親しまれています。千住宿開宿400年(2025年)を機に、駅西口周辺の4商店街で共通ブランド名を「千住宿商店街」に名称統一しました。サンロード商店街は「宿場通りゾーン」として、宿場町の面影と地域の日常が重なる魅力を発信しています。



ポイント9.千住本氷川神社

千住本氷川神社は、千葉氏によって徳治二年(1307年)に牛田(千住曙町)の地に創建され、江戸初期に現在地に分社を建立しました。明治四十三年(1910年)、荒川放水路建設の際に牛田氷川神社を合祀しました。



旧社殿は、昭和五十九年(1984年)11月14日に足立区の有形文化財(建造物)に登録されました。向拝は千鳥破風(ちどりはふ)、唐破風(からはふ)の二重破風で形成されていて、頭貫(かしらぬき)や虹梁(こうりょう)の部分には、龍や鳥類の彫刻が施されています。

千住本氷川神社旧社殿

千住本氷川神社は、徳治二年(1307年)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治四十三年(1910年)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和四十五年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間(1.8メートル)余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒回りは二重(垂木)となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。




千住本氷川神社は、千寿七福神の大黒天を奉祀しています。千寿七福神巡りは、千住で居酒屋を営む氷見富次さんらが中心となり、平成五年(1993年)に7つのご神体を揃えて開始されました。



千住本氷川神社の境内では、毎朝6時半からラジオ体操が行われています。 昭和二十七年に当時の千寿第一小学校(現在の千寿本町小学校)の夏季休暇中のラジオ体操の場として境内を貸したのが始まりで、昭和三十年頃からは年中無休の行事となり、現在も続いています。境内には、年中無休のラジオ体操が開始されてから三十周年を記念した石碑が建てられています。



千住本氷川神社の祭神は素盞鳴尊で、天照大神の弟神であり、八頭蛇退治で知られているように智・仁・勇の徳を具えた神です。本殿は、昭和四十五年に鉄筋コンクリート銅板葺きで新築されました。



迫力のある狛犬が社殿を守っています。



ポイント10.千住ほんちょう公園

千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。



入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろの禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。

千住宿 高札場 由来

私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。




石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。俯瞰するためでしょうか、踏み石が設置されています。



公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。



園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。



宿場通りには、かって参勤交代で旧日光街道を通った大名の家紋を記したプレートが立っています。

千住宿を通った大名とその家紋

相馬家 陸奥(磐城)中村【現・福島県相馬市】 6万石

平将門の子孫で茨城の相馬地方の領主だったこの一門は、鎌倉時代の初めにこの地に封を得て今日に至ります。野馬追いが有名です。




北千住駅前通りの手前に、筋違いの四つ角があります。



四つ角の路地の入口に、千住宿本陣跡の小さな石碑が建っています。壁には案内板が掛けられています。明治天皇行在所跡と千住見番跡の標識は見つかりませんでした。

千住本陣跡とその周辺

この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。

●千住本陣跡(緑色の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。

●明治天皇行在所跡(青色の付近)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。

●千住見番跡(茶色の付近)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。

●丁目境の筋違(赤色の部分)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。




ゴール地点の東武スカイツリーライン北千住駅西口に着きました。



ということで、足立区で三十八番目のコースとなる「C−南西エリア 38.ベルモント公園・本町公園コース」を歩き終えました。次は足立区で三十九番目となる「C−南西エリア 39.西新井さかえ公園から浮間公園コース」を歩きます。




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