- C−南西エリア 39.西新井さかえ公園から浮間公園コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「C−南西エリア 39.西新井さかえ公園から浮間公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年1月に改めて歩きました。
スタート地点:東武スカイツリーライン西新井駅西口
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1.西新井さかえ公園
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2.大師駅前
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3.七曲り
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4.第二団地前
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5.西新井中
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6.西新井みどり公園
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7.白石病院(白石公園は誤り)
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8.谷在家公園
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9.北鹿浜公園
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10.鹿浜いきいき館
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11.鹿浜橋
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12.荒川右岸土手
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13.岩淵水門
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14.知水資料館
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15.岩淵橋
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16.北本通り
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17.新河岸川沿い道路
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18.浮間橋
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19.浮間緑地
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20.浮間公園
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ゴール地点:JR埼京線浮間舟渡駅
スタート地点の東武スカイツリーライン西新井駅西口から歩き始めます。西新井駅は大規模な改修工事が行なわれていて、2022年当時には西口正面に大階段がありましたが、2026年に再訪した時は元のトスカ西館が取り壊され、そこに新しい西口が出来ていました。階段はエスカレータに代わり、改札口までの上り下りが格段に楽になりました。ちなみに、西口広場の再開発も含めた全体の工事完了は令和十二年(2030年)の予定になっています。
西口広場からバス通り(さくら参道)を進みます。西新井駅の南西側には、大正七年(1918年)に東京紡績西新井工場(後の日清紡東京工場)が完成し、平成十四年(2002年)まで操業しました。その跡地は、UR都市機構を中心に“西新井ヌーヴェル”の名称で再開発が進められ、平成十九年(2007年)にアリオ西新井がオープンしました。その名残りで、道路名には「ぼうせき通り」といった愛称が付けられています。
「せんぷ通り」は、”染布(布地に色を付ける技術)”から名付けられたと思われます。
せんぷ通りと尾竹橋通りの間の広大な敷地にアリオ西新井があります。アリオ西新井は、都市再生機構が開発主体として進めた、14.5haに及ぶ日清紡東京工場跡地再開発事業「西新井ヌーヴェル」のひとつとして、平成十九年(2007年)11月9日にグランドオープンしました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターとしては、全国で6店舗目(都内ではアリオ亀有に次ぐ2店目)で、イトーヨーカドーとしては176店舗目になります。東武スカイツリーライン西新井駅西口近くの環七通りと尾竹橋通りの交わる場所に位置していて、商業施設としての立地環境に優れています。また既存アリオの川口と亀有から何れも直線距離で十数キロメートルしか離れておらず、アリオとしてドミナントを形成しています。そうした立地特性もあり、モール型SCとしては狭く、1550台分の駐車場も地下・4階・5階・屋上に設置され(売場は1〜3階)、都市部のSCならではの構造となっています。店舗面積は3層構造で31、000uあります。「アリオ西新井」は、イトーヨーカドー西新井店をメイン施設にして、100を超える専門店が集うショッピングモールです。地域の特性に合わせて、親子だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんまで三世代で楽しめるやさしい施設設計が特徴です。専門店は、マタニティから育児用品が揃うアカチャンホンポを始め、ベビードールなどの人気ブランドのショップ、かわいい衣装が揃うスタジオキャラット、ユニクロやGU(ジーユー)、無印良品など、ファッションから生活サービスが揃うほか、TOHOシネマズも併設していて、最新の映像・音響設備で迫力ある映画を楽しめます。赤ちゃん休憩室には、調乳専用温水器・授乳室・子ども専用トイレ・おむつ交換台・ベビーキープ・乳幼児用の計測機器・絵本コーナーなどを完備し、無料のマタニティ・育児相談室も設けています。ママがお買い物をしている間にパパと子どもが過ごす場所として使える「なかよしひろば」や、子どもも掴める高低差のある「2段手すり」など工夫のある設計が好評です。
- ポイント1.西新井さかえ公園
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アリオ西新井と「せんぷ通り」を挟んで西新井さかえ公園があります。西新井さかえ公園は、日清紡東京工場が建てられていた跡地を再開発し、その一画に公園が整備されました。隣接街区との一体的な街路景観を形成しながら、路地空間や街角広場を創り出しています。いぶし瓦や陶板を採用し、手作り感・素材感・地域性を反映した景観を呈しています。ベンチが沢山設置されていますので、ゆっくり寛ぐにももってこいです。トイレも清潔で、オムツ換え台が設置されていますので、小さなお子さん連れでも安心です。
公園には高木が林立し、周囲の高層住宅の住民の憩いの場になっています。
遊具も揃っています。
大人用の健康遊具もあります。
らくらく健康器具 1212
スイスイ屈伸
膝の曲げのばし運動です。2本のアームにワキをかけそのまま、膝を曲げます。のばす際にはアームが補助してくれるので、安心して運動が行えます。
らくらく健康器具 1208
ユッタリステップ
ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。
まだあります。
ストレッチ器具 K−171
ツイストボード
バーにつかまり円盤の上に立ち体を左右にゆっくりひねりましょう。腰部のストレッチに役立てましょう。
休息器具 K−163
背のばしチェアー
すわりながら、また反対側に立ってゆっくりと背のばし運動をしましょう。
らくらく健康器具 1207
ツイストスツール
体をひねるストレッチ運動です。足をかけ、手すりで上半身を支え、左右にゆっくり振りましょう。ムリなくバランスよく行うのが効果的です。.
地区の歴史を解説した案内板が貼られています。
のどかな時代
西新井大師は、江戸時代には、多くの参拝人で賑わいましたが、参道を外れれば、のどかな景色が広がっていました。明治三十二年(1899年)に、東武鉄道西新井停車場ができ、西新井大師までの沿道に少しずつ市街地が広がりました。昭和三年(1928年)頃にできた西新井音頭にその当時の風物が歌われています。
一つとせ 一番電車に乗り込んで 浅草停車場発車して 目ざす名所は西新井
二つとせ 二、三十分足らずで駅につき 降れば自動車の備えあり 西も東も花畑
三つとせ 見わたす限り花園で 春夏秋のながめあり 色香あらそい乱れ咲き
進む市街化
大正七年(1918年)この地に東京紡績(株)(大正十三年に合併して日清紡績(株))が進出し、この地の市街化のきっかけとなりました。その後、昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成したことで水害も少なくなり、徐々に市街化が進み始めました。昭和三十年以降の経済の高度成長期に、ほぼ今の市街地がかたちづくられました。
工場が移転して
平成十年(1998年)、日清紡績(株)東京工場移転の決定を機に、足立区は日清紡績や地域住民の協力を得て、UR都市機構とともに新たなまちづくりに取り組んできました。この公園は、日々の憩いの場となりながら、防災公園として住民とまちを守っていく機能を担っています。今後も、この地の発展を見守っていくことでしょう。
さくら参道と尾竹橋通りの西新井駅入口交差点に、西新井大師道のアーチが架かっています。この道は江戸時代からある他の西新井大師道とは違い、比較的新しい参道です。
- ポイント2.大師駅前
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セブンイレブンの角で右折し、西新井大師前交差点で環七を横断します。左手に大師前駅に面して広場があり、駅の高架下は東武バスセントラル西新井営業所の車庫になっています。大師前駅は、昭和六年(1931年)12月20日に、西板線(現在の大師線)の駅として開設されました。西板線は、第二次世界大戦前に西新井駅と東上本線上板橋駅間を結ぶ路線として計画されましたが、関東大震災による既存路線の被災復旧が優先されたことや、荒川放水路の堤防などの護岸整備が完了していなかったことにより橋梁の工事ができなかったことで、西板線は西新井駅から大師前駅の僅か1.1kmの区間のみとなりました。大師線と改称されたのは、昭和二十二年(1947年)のことです。昭和四十三年(1968年)には、環七通りの拡幅のために大師前駅が100mほど北側に移され、駅間の距離も0.1kmほど短縮されました。大師前駅の特徴として、駅構内には自動改札機・自動券売機・自動精算機が設置されていません。ホームへの入場はフリーで、乗車券発売や改札などの機能については、西新井駅構内の乗換通路上に、大師前駅発乗車券が購入出来る券売機や連絡専用自動改札機を設置して処理しています。尚、東武鉄道は、令和八年(2026年)2月下旬から、大師前駅ホーム上に新たに改札口・自動券売機・自動精算機を設置した上で、西新井駅の連絡改札口を廃止する予定を発表しています。SUICAの運賃計算プログラムは、このような変則経路に対しても対応しないといけないんですね。
- ポイント3.七曲り
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道路標識に「七曲り」と表示されています。「七曲がり」という道路名から受ける印象は、七か所のカーブがある曲がりくねった歴史ある古道を想像しますが、その実態は用水路沿いの道だったらしいです。足立区のホームページには、2015年に区内47路線の道路に愛称名を付けたことが公開されています。その一覧表の32番目に、愛称名:七曲がり(ななまがり)・起点:伊興四丁目1番・終点:栗原三丁目10番として掲載されています。
栗原立体交差は、区道補助258号線と尾竹橋通りを結び、東武スカイツリーラインをアンダーパスで交差しています。平成二年(1990年)3月に開通しました。
- ポイント4.第二団地前
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栗原立体交差(西口)交差点で左折し、環七北通りに入ります。右手にこじんまりとしたURの団地があります。
フレール西新井第二団地は、平成十六年(2004年)に入居が始まった総戸数397戸の中規模団地です。1Kや1DKなど、様々な間取りが提供されています。
奇妙な格好のパン屋さんがあります。店名は「Silverstone BAKERY」となっています。シルバーストーンといえば、イギリスで唯一開催されるF1のサーキットです。第二次世界大戦中はイギリス空軍の爆撃機の飛行場として使用されていた土地で、現在もトラック内側に3本の滑走路の名残りがあります。1947年に地元住民が最初のレースを行い、遊牧していた羊を撥ねてしまったことから「マトン・グランプリ」と呼ばれました。1948年には王立自動車クラブ(RAC)が敷地を借り受けて本格的なサーキットを敷設し、10月2日にオープニングイベントのRACグランプリが開催されました。1950年5月13日には、この年から始まったF1世界選手権の開幕戦イギリスGPが行われ、1987年以降はシルバーストーン・サーキットで毎年開催されています。
私も2005年のF1GPのレースを観戦しました。
宿泊はサ−キット内のホテルでしたが、殆どがF1関係者で、館内にはF1ドライバーも多数宿泊していました。バーにはセナのポートレートも掲げられていました。
今日はお休みだったようですが店内には沢山のF1のグッズが陳列されています。別棟には年代物のクラシクカーが鎮座しています。写真のようにも見えますが。。。
- ポイント5.西新井中
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尾久橋通りの手前に西新井中学校があります。西新井中学校は、昭和五十年(1975年)4月1日に開校しました。学校の木は「花みずき」で、同年に團伊玖磨氏の作曲になる校歌も制定されました。校章のモチーフはハナミズキと井戸で、学校の木のハナミズキの花と弘法大師ゆかりの西新井大師の井戸に由来しています。単純なデザインの中に清純さと豊かな知性を感じさせ、郷土に因んだ校章が愛校心を育み、地域の連帯の象徴となることを念願して制定されました。
校舎の正面には、沢山の垂れ幕が掛けられています。
道路に面した塀には多くの標語が並べられています。
- ポイント6.西新井みどり公園
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西新井みどり公園は、園内に野球場もある大きな公園です。園内には、公園の名前にも付けられている通り、緑が多く散策にもお勧めです。桜の木も植えられていますのでお花見も楽しめます。また、1周360mのジョギングコースも整備されていて、親子でジョギングも楽しめます。遊具は幅広の迫力あるすべり台が人気で、通常のすべり台・ブランコ・砂場なども設置されています。
公園には、大雨が降った際に雨水を貯留する施設が備わっています。広場に設置されている筒もその一部なのかな?
雨水貯留・浸透施設
公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ませます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に運動広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。
- ポイント7.白石病院
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西新井みどり公園のはす向かいに白石病院があります(ありました)。医療法人社団石仁会白石病院は、主に交通事故による傷害の治療を行なう整形外科・外科を専門としていました。2022年に訪れた時は、病院名が「福寿会舎人病院」になっていました。福寿会グループは、東京23区内(足立区・北区・荒川区・葛飾区)に8つの病院と70を超える事業所を持つ、地域医療・在宅医療では大規模な医療法人グループです。急性期・回復期・慢性期・在宅医療・介護事業所の各機能を法人内で運営し、地域包括ケアシステムを1法人で体現しています。2026年に再訪した時は、受付時間が消されていました。外来診療は休止しているのかも。
左は2022年に訪れた時の写真、右は2026年に再訪した時の写真。
尾久橋通りの交差点角に、本応寺があります。本応寺は、正応元年(1288年)に浅香藤九郎と篠田逸平が開基となり、日蓮十八高弟の一人天目上人を開山として創建されました。浅香藤九郎は、浅賀姓としても伝わり、元は上州の武将で、戦いに敗れて現在の足立区谷在家に落ち延びたといわれています。
本応寺
当寺の創建は、正応元年(1288年)とされ、開山は、日蓮十八高弟の一人天目上人であり、開基は浅香藤九郎と伝えられている。特に第九世日領上人は、不受不施の異流を唱え、寛永七年(1630年)の身延池上論争の折、不受不施派の代表の一人として加わった著名な僧である。本堂には、中央に経台を置き、両側に多宝・釈迦の二仏、無辺形・上形・浄行・安立行の四菩薩、四隅に四天王、両辺に不動・愛染の二明王、普賢・文殊の二菩薩、鬼子母神、三十番神などの諸像が、十界勧請曼荼羅の形式によって並べられている。それぞれの像は、江戸時代に庶民の信仰が制約されたとき、法華経を信じるものの守護神として教団の発展に寄与されたものである。このほか、題目塔、板碑などの石造物がある。
本応寺は、大正十二年(1923年)の関東大震災と昭和二十年(1945年)の東京大空襲で伽藍を焼失しました。山門の手前に3基の石仏が並んでいます。一番右の石仏は舟型光背型の阿弥陀如来像です。中央にある駒型の庚申塔は、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が陽刻されたもので、元禄十四年(1701年)9月の造立です。尊像脇には「奉造立庚申尊像二世安樂祈所」・「光明真言一万遍誦」と彫られています。庚申信仰と光明真言の組み合わせで、当時のマルチな民俗信仰の様子が窺えます。一番左にあるのは、地蔵か何かの台石で、本体が亡くなってしまったものです。「念仏講中」と書かれていますので、恐らくは地蔵菩薩が載っていたのでしょう。
- ポイント8.谷在家公園
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谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。
ちなみに、「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。
公園の東側の端に記念碑が建っています。
完成記念碑
谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。
江北六丁目交差点の角に、東京北部病院があります。医療法人社団けいせい会東京北部病院は、東京都が指定した二次救急病院です。以前は常勤医が2〜3人しかいなく、病床が一部閉鎖されるなど危機的状況にありましたが、病院が選択したのは一人ひとりに合わせた柔軟な働き方の実現でした。今では、専門医だけで常勤換算20人ほどになり、さらには最近注目のサバティカル制度(*)を導入して勤務医の「国境なき医師団」への参加をサポートするなど、スタッフの働き方支援をますます充実させています。
(*):長期勤務者に対し1カ月〜1年の長期休暇を付与する制度。欧米での導入が先行していて、休暇の目的は問われませんが、自己啓発や学び直し、ボランティアに取り組む人が多いようです。
東京北部病院の向かい側の小路に入ります。住宅街の中に上沼田北公園があります。
雨水貯留・浸透機能を持つ円形の広場には巨大なタコの滑り台があります。足立区にはタコの滑り台を備えた公園は沢山ありますが、上沼田北公園のタコの周囲には大小色々な大きさで形も様々のタコツボが置かれています。滑り台で遊ぶだけでなく、隠れんぼもできます。他にも、鉄棒や砂場などが揃い、ボール遊びができるフェンスで囲まれたエリアもあり、様々な遊びが楽しめる公園です。
- ポイント9.北鹿浜公園
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北鹿浜公園は、遊びながら交通ルールが学べるいわゆる交通公園ですが、足踏みゴーカートや自転車やバッテリーカーに乗る以外にも楽しいことが色々揃っています。
入口広場の奥には、現在修理中で中に入ることは出来ませんが、蒸気機関車が保存・展示されています。
C5075
(中距離用小型テンダ機関車)
ここに展示されている蒸気機関車は、昭和四年(1929年)に製造されました。昭和四十六年(1971年)に引退して足立区に来るまで、旅客・貨物用機関車として約200万km(キロメートル)も走り続けました。
公園管理室の隣は展示室と読書室になっていて、展示室には鉄道模型があり、ボタンを押すと列車が走る仕組みになっているのでプラレール好きの子どもに好評です。
園内を一周するミニ列車は、運行は木・金・土・日と祝祭日、それに区民の日である10月1日のみですが、駅や切符売り場まで用意されているという徹底ぶりです。小学生なら「初めて一人で電車に乗ってお出かけする」という想定で、切符を買うところからすべて子ども一人でやらせるのもいい体験になるでしょう。ミニ列車は有料ですが、数十円程度で楽しめます。
園内に展示してある消防車ですが。こちらはもちろん本物で、運転席に乗ることもできます。まるで消防車を運転しているかのような気分が味わえ、子ども達も大興奮です。
消防車(ポンプ車)
ここに展示されている消防車は、ポンプで水を吸いあげ、放水して消火活動をするポンプ車です。昭和六十一年から平成十二年まで、おもに足立区の西部地区で、みなさんの大切な命や家を守ってきました。ポンプ車には、ポンプ・ホースのほか、さまざまな道具をつんでいます。下の絵は、火災や救助に出動するときの、全ての器具を装備したときのものです。(ハンマー・とび口・やり・のこぎり・スコップなどもつまれています。)展示車輌は、なるべくたくさんの器具や部品をのこしてありますが、安全のため一部をはずしてあります。
他にも一輪車の練習場があり、一輪車・自転車・足踏みゴーカートなどのレンタル料は無料です。
定番のタコの滑り台もあります。公園の中には、ピクニックが楽しめる桜の広場があり、さらに夏にはジャブジャブ池もオープンします。
北鹿浜公園の敷地は区画整理によって生み出されたようで、入口の横には記念碑が建てられています。
都道107号線で左折し、2つ目の信号を右折します。左手に足立区立鹿浜西小学校があります(2022年当時)。鹿浜西小学校は、令和五年(2023年)4月に北鹿浜小学校と統合し、旧鹿浜中学校跡地に完成した新校舎へ移転し、鹿浜未来小学校として開校しました。足立区の小中学校の統廃合は凄い規模ですね。
しかし、2026年に再訪したときは校舎は取り壊され、跡地には複合商業施設の「鹿西テラス」が令和八年(2026年)春に開業するそうです。2階には私の大好きなスーパーベルクスの足立鹿浜店が入るとのことです。
- ポイント10.鹿浜いきいき館
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鹿浜西小学校の角を曲がった先に、鹿浜いきいき館があります。鹿浜いきいき館は、子どもの遊び場である児童施設(児童館)と高齢者の憩いの場である高齢者施設(悠々館)があります。児童館は18歳未満までの子ども達が自由に来館し遊べる施設です。創作活動やレクリエーションの他、子ども相談も行っています。また、足立区内の地域コミュニティの拠点である住区センターの児童館・老人館(悠々館)事業の充実と人材育成のため、鹿浜いきいき館では先駆的事業の実践と従事者研修を実施し、住区センターの支援をしています。
環七に出て、鹿浜橋に向かいます。
- ポイント11.鹿浜橋
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鹿浜橋は、荒川(荒川放水路)に架かる都道318号環状七号線(通称:環七通り)の水道道路併用橋です。
鹿浜橋は、大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる橋では最上流に位置し、荒川の河口から18.75kmの地点に架かっています。完成したのは昭和四十年(1965年)で、総延長は922.0メートル・橋長は451.3メートルです。本橋部を挟むように右岸側に長さ244.6メートル・左岸側に長さ226.1メートルの取り付け道路を有しています。また、水道道路併用橋でもあり、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本・工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持ちあわせています。首都高速道路川口線の鹿浜橋出入口とも接続し、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の鹿浜一・二丁目を繋いでいます。橋名は旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田に因んでいます。鹿浜の地名の由来は諸説ありますが、鹿浜は江戸時代に「シシハマ」と呼ばれていました。「鹿(シシ)」の語源は危険な獣の総称、「浜(ハマ)」は水を含んだ土地のことです。この辺りは獣が住む湿地で、後に「シシ」が「シカ」に変化して「鹿浜(シカハマ)」になったという説が有力です。
鹿浜橋周辺の河川敷は、ゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。
- ポイント12.荒川右岸土手
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鹿浜橋を渡り、荒川土手右岸の遊歩道に入ります。河川敷にはゴルフ場が広がっています。新東京都民ゴルフ場は、日本のセント・アンドリュースと言われ、河川敷ゴルフ場の発祥の地とされています。都心に最も近い場所の荒川沿いに位置していて、年間を通して手頃な料金で楽しむことができるミニゴルフ場です。このコースは河川敷にあり、平坦ながらも自然の地形を生かしたアンジュレーションに加え、点在する柳と池や土手、そして河川特有の風が楽しめる9ホールのゴルフ場です。ビギナーからベテランまで、子どもからシニアまで、エンジョイ志向から競技志向まで楽しめる「都会の穴場」です。
土手の直ぐ傍まで隅田川が迫っています。ここには隅田川唯一の渡し船が現役で運航されています。但し、日本化薬株式会社が運営している社内用会社専用の渡し船で、一般の人は乗船できません。北区志茂の日本化薬研究所と対岸の足立区新田の日本化薬東京工場を結び、同グループの社員だけが乗船できる専用航路なのです。
- ポイント13.岩淵水門
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新河岸川が隅田川に合流する地点に、荒川と隅田川を仕切る岩淵水門(青水門)があります。
かって「荒川放水路」と呼ばれた人工河川は現在では荒川と呼ばれ、この水門より下流の名前だった荒川は「隅田川」と呼ばれるようになりました。岩淵水門(青水門)は、現在の荒川と隅田川の分岐点になります。
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。岩淵水門は、大正十三年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和五十七年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
■岩淵水門のやくわり
平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
●舟運に支障がないように全門開放されています。
増水時
●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。
水門前の土手上に沢山のテトラポットが備蓄されています。消波ブロックは、海岸や河川などの護岸の水制を目的に設置するコンクリートブロックです。消波根固ブロック・波消しブロックと呼ばれることもあります。日本では、消波ブロックの代表的なものとして「テトラポッド」が挙げられます。
従来のテトラポットとは形状が異なる根固ブロックも置かれ始めました。
環境にも優しいとのことです。
荒川下流河川事務所のGX(グリーントランスフォーメーション)の取り組み
環境負荷軽減の材料を使用した根固めブロックの製作・備蓄
荒川下流河川事務所では洪水などから河川の護岸を守るため「根固めブロック」を備蓄しています。この根固めブロックは、東京理科大学と東急建設(株)が開発したハイプロダクリート(Highーproducrete)を使用したもので、CO2排出量の削減と製造時の作業負担の軽減を実現し、地球温暖化対策と生産性の向上に貢献します。
材料 製造 備蓄
CO2排出量の少ない材料を使用 これまでより少ない時間・ 災害に備えながらCO2を
少ない人数で製造 吸収して環境貢献
荒川下流河川事務所のカーボンニュートラル実現へ向けた取り組み
環境にやさしい根固めブロック
荒川下流河川事務所では洪水などから河川の護岸を守るため「根固めブロック」を備蓄しています。この根固めブロックは、大成建設(株)、日建工学(株)の技術を用いたもので、製造→備蓄→供用の各段階でCO2を吸収し脱炭素社会の実現に貢献します。
ブロック製造時 備蓄時 供用時
CO2を固定した材料を混ぜて 大気からCO2を吸収 パネルに藻が繁茂して
コンクリートブロックを製造 CO2を吸収
災害時に備えて、ヘリポートも設けられています。
ヘリポート Heliport
●ヘリポートとは
ヘリポートはヘリコプターが使用するための「飛行場」で、航空機の離発着する飛行場の一種とされています。飛行機が離発着する空港と違い、長い滑走路を必要としないのが特徴です。消防組織法では消防責任を市町村が負うこととしており、政令指定都市の消防機関の一部は自ら消防活動や急病人を搬送するためのヘリコプターを保有・運航をしています。東京都の場合は、市町村から委託を受けて東京消防庁が保有・運航をしています。
●設置の目的
ヘリポートはドクターヘリ、消防ヘリ、防災ヘリなどが緊急時に救援要員や物資の搬送をすることを目的としています。国土交通省では、災害発生直後の被害状況の把握や応急復旧活動に素早く広い範囲に対応できる対策の一部として、各地方整備局に専用ヘリコプターの導入を進めています。
災害時に物資の輸送の拠点となる「リバーステーション」、その物資の輸送路となる「緊急用河川敷道路」、ヘリコプターの離着陸などに必要な「ヘリポート」など、荒川下流域では災害発生に備え河川の輸送ネットワークの整備を進めています。
荒川を解説した案内板が立っています。
@荒川知水資料館(amoa)
荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成十年(1998年)3月にオープンしました。荒川の洪水リスク、氷害の歴史や自然環境等の情報発信をしているほか、学校を対象に館内の説明や様々な学習支援を行っています。
◆青山士と荒川放水路
荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士[1878年〜1963年]がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と旧岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に旧岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、旧岩淵水門はびくともしませんでした。
A旧岩淵水門
旧岩淵水門は、岩淵水門の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時は舟航に支障を与えないよう設けられたもので、大正十三年(1924年)に完成しました。水門には、幅約9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化及び水門の高さ不足のため、役割は岩淵水門にうつりました。
B岩淵水門
岩淵水門は、旧岩淵水門より300mほど下流にあり、隅田川の起点に位置しています。旧岩淵水門が、大正十三年(1924年)に完成してから60年余りを経て老朽化が進んだこともあり、昭和五十七年(1982年)に新しく岩淵水門が建設されました。岩淵水門の役割は、荒川の洪水が隅田川へ流入するのを防止すること、平常時には浄化のための水を隅田川へ流すこと、および舟運の確保などです。なお、岩淵水門は青水門、旧水門は赤水門と呼ばれています。
岩淵水門から上流方向を見ますと、旧岩淵水門(赤水門)の脇に荒川からの取水路があり、現在はこちらから荒川の水を取り込んでいます。一方、下流方向を見ますと、岩淵水門の先で新河岸川が合流していて、荒川からの分水を併せて現在の隅田川を形成しています。
こんな感じです。
岩淵水門(青水門)から、直ぐ上流にある旧岩淵水門(赤水門)に向かいます。旧岩淵水門(赤水門)は、その色から通称「赤水門」と呼ばれています。大正五年(1916年)に着工し、大正十三年(1924年)10月に完成しました。RC造(一部S造)で、9メートル幅のゲート5門で構成されています。昭和三十五年(1960年)3月には、通船のために5番ゲートが改造されました。完成以来、最大2メートル以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終えましたが、地元の人などから惜しまれ保存されることになりました。水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。
旧岩淵水門
旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治四十四年から昭和五年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正五年から大正十三年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和五十年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和五十七年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成十九年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成二十年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
近くから見上げると、今でも大迫力です。
東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治四十三年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正五年(1916年)に着工し、同十三年(1924年)に竣工した。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和三十三年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和二十年代後半からの東京東部地域一体(帯?)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和三十五年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和四十八年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和五十七年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
水門は橋の役割を果たしていて、島状になっている荒川赤水門緑地に渡ります。奇妙な塔が荒川を見下ろすように建っています。
月を射る
青野正
材質 リバーテン鋼
平成八年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映る美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
巨大な石碑が建っています。戦前、此の地において「全日本草刈選手権大会」が開催されたのだそうです。
由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為の有志相図り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全国に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万餘名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮親であった。大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永遠に傅ふるため農業團体其他篤志家の寄付を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
旧岩淵水門が完成して通水した際に、昭和天皇がこの場所から視察されたそうです。
摂政宮殿下御野立之跡
大正十三年 十月廿五日
(大正十三年10月25日に荒川放水路通水後の様子を摂政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。)
- ポイント14.知水資料館
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旧岩淵水門から土手下に降りたところに「荒川知水資料館(amoa)」があります。荒川知水資料館は、荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館で、荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースとなっています。
資料館の入口の脇に、荒川放水路完成記念碑が置かれています。
荒川放水路は、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川です。全長22km・川幅約500mで、大正二年(1913年)から昭和五年(1930年)までの17年がかりの難工事でした。この工事では30名近くの犠牲者が出て、記念碑には犠牲者を悼む言葉がプレートに記されています。工事を指揮したのは内務省土木技官の青山士で、青山士は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者でした。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ拂(はらう)ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ
荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の爆牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。
資料館の脇に巨大な石の構造物が展示されています。閘門とは、水面に高低差ある河川や運河の間で船の行き来をおこなう場合に設置する施設です。
船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
資料館の左手に柵で囲われた一画があり、コンクリートで固めた石積みの上に小さな祠のようなものが建っています。京成押上線荒川橋梁は、京成押上線の八広駅−四ツ木駅間にあり(約448m)、大正十二年に荒川放水路掘削に伴って架設されました。この松杭は、約75年間、橋を支える基礎として地中に埋まっていたものです。
京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2、224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和三十年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成三年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成十一年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。
歴史と文化の散歩道でも訪れましたね。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治四十三年(1910年)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正十三年(1924年)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。
The Arakawa, River & Iwabuchi Sluice Gate
The flood-prone Arakawa River was finally tamed in 1924 with the completion of the Iwabuchi Sluice Gate and the Arakawa Canal. This ended the ever-present threat of flooding to the low-lying areas downstream. Construction of the gate and canal required considerable technological expertise, and the chief engineer for the project used his hands-on experience gained while on a visit to the Panama Canal
Construction Project as a guide.
資料館は3階建てで、テーマ毎にフロアが分かれています。
資料館には、荒川に関する様々な資料が展示されています。3階には、図書室と荒川流水模型の屋上展示施設があります。図書室は、河川工学者で知られる宮村忠氏の著作や蔵書が収蔵されています。
宮村忠文庫へようこそ!
ここは、河川工学者として多方面で活躍された、関東学院大学の名誉教授故・宮村忠先生(2022年ご逝去)の著作や蔵書を公開するコーナーです。宮村先生は荒川に関する造詣も深く、「荒川放水路変遷誌」の編纂をはじめ、荒川下流河川事務所の事業や荒川知水資料館の取り組みにも積極的にご協力くださいました。そのご縁から、ご遺族のご厚意により先生の著作や蔵書をご寄贈いただくこととなり、2023年10月に「宮村忠文庫」としてオープンする運びとなりました。
荒川流水模型は、ボタンの操作やパーツを取り外すことによって、荒川の水の流れを学習することができます。
荒川流水模型
この模型は、上流のダムから下流までの荒川を簡単に表現しています。川岸や川底の違いによる水の流れの観察や、水門や堰、堤防などの施設の機能を体験学習することができます。
●この模型の使い方
@ このパネルを読んで、それぞれの役割を学習してください。
A 取りはずし式パーツのボックスの説明パネルを読んで、実験の方法を学習してください。
B このパネルの右上の「スタートボタン」を押して、実験を始めましょう。
階段の壁には、荒川についての夥しい数の新聞の連載の切り抜きが貼られています。
「荒川新発見」の初回号の記事です。
治水、利水そして自然
荒川新発見
東京都板橋区と埼玉県戸田市を結ぶ笹目橋の上空。荒川を見下ろすと広大な水面が広がる=写真。平成九年(1997年)に完成した面積5.8平方キロメートルの荒川第一調整池。「彩湖」の愛称を持つ人工の湖だ。主な目的は下流域の洪水防止。荒川の増水時には、東京ドーム32杯分に相当する三千九百万立方メートルの水をため込める。この水は、首都圏の水道用水にも利用される。その一方で注目されているのが、首都圏で最大規模の「野鳥の楽園」をつくる試み。湖のうち幸魂大橋より下流部分を自然保全ゾーンとして、護岸に土をかぶせ、昔の武蔵野にあった樹木を植えて、全面立ち入り禁止にした。一度、破壊された自然は、よみがえるのか。これは壮大な実験だ。市民団体「戸田の川を考える会」のメンバーは、彩湖が工事中だった十四年前から周辺の自然環境の変化を観察し続けてきた。代表の大石昌男さん(60)によると、生態系の頂点に立つ猛禽(きん)類のコミミズク、チョウゲンボウなどが、「立ち入り禁止の区域には、他の公園とは違ってマムシもいれば、ノネズミもいる。だからこそ猛禽類が生きられる」と大石さん。また、今年は魚がいないはずの湖でワカサギが大発生。メンバーを驚かせた。保全ゾーンに隣接して建つ彩湖自然学習センターの伊藤裕厚・指導主事は「生まれたばかりの“自然”です。十年、二十年後に、どのように変化するか、だれにも予想できないのではないですか」。荒川の中流域には、ほかにも朝霞調節池、北本市、川島町付近の河川敷に生まれた「荒川ビオトープ」、熊谷市の県立大麻生公園一帯など九力所あまりの自然保護区域がある。一方で、彩湖上流には「第二調整池」の建設計画もあるが、同計画は今、公共事業見直しの流れの中で、岐路に立つ。どこまでの自然を残し、また再生し、治水、利水と折り合いをつけるか。激しくせめぎ合っているのが都市河川・荒川の現実だ。
XXX
新連載「荒川新発見」は、今後四週にわたって、航空写真で荒川をさかのぼり、その後、水源の奥秩父・甲武信ヶ岳から流域を歩き下る旅を始めます。
(写真・鍔山英次、文・坂本充孝)
写真の説明です。
荒川の流れにそそり立つ巨大な六堰頭首工。右の階段状水路は魚道。六十年間にわたり中流域の田畑を潤してきたが、機能が低下したため二年後には新しく生まれ変わる=埼玉県花園町
荒川放水路開削のキッカケになった出来事について解説してあります。
荒川の水害と放水路の誕生
明治四十三年(1910年)、荒川に起きた大洪水がきっかけとなって、東京を水害の恐怖から救うための新たな放水路の建設計画が持ちあがりました。岩淵から中川の河口まで全長22km、幅500mにおよぶ大規模な放水路をつくり、洪水時には本流側(隅田川)の増水をおさえるために岩淵水門を閉め、あふれた水の大部分をこの人工河川でいっきに海まで流してしまうという計画です。工事には、多くの資材と労力がついやされ、当時、世界でも最新の技術や機械が導入されました。20年の歳月をかけて完成した放水路は、荒川の“本流”に認められたいまも、首都圏を洪水の危険から守りつづけています。
荒川放水路開削の工事で忘れてはならない人物が、青の水門脇の案内板にあった青山士です。
青山士と荒川放水路
荒川放水路の建設にあたり、その工事責任者として実際に現場で指揮をとったのが、戦前の内務省土木局を代表する技師・青山士(あきら)です。青山はパナマ運河の建設工事に参加した唯一の日本人技師で、そこで学んだ当時最先端の土木技術は放水路工事、なかでも旧岩淵水門の基礎工事に遺憾なく発揮されています。青山はまた、内村鑑三を人生の師とあおぐ敬虔なクリスチャン技師としても知られています。”ひろく世のため民のため”となる治水土木の仕事を天職とこころえ、その生涯をかけた土木人生において、つねに公正・清廉な指導者でありつづけました。
青山士の業績がパネルで解説されています。
パナマ運河の建設に参加した日本人技師
明治三十六年(1903年)大学を卒業した青山士は、当時”世界最大の土木工学的実験場”といわれたパナマ運河開削工事に参加するため単身渡米します。現地では、熱帯ジャングルのなかでの測量や地質調査に従事した後、実力が認められて運河最大のガツン閘門の側壁(ウィングウォール・アプローチウォール)の設計・施工を任せられました。パナマ滞在七年半、青山は運河の完成間近にして帰国します。しかし、唯一の日本人技師として、世紀の大工事に参加した経験と実績は、当時の世界最先端の土木技術ばかりでなく、アメリカ流の民主主義にもとづく技術者精神・倫理観を日本にもたらしたのです。
岩淵水門の建設に情熱を傾けた内務技師
帰国後、内務技師として荒川放水路開削工事に身を投じた青山士は大正四年(1915年)放水路のかなめとなる岩淵水門工事に着手しました。底無しの軟弱地盤のため、放水路工事中の最難関といわれた岩淵水門の設計・施工にあたって、青山は国内では新技術の鉄筋コンクリート工法を導入します。パナマ運河ガツン閘門工事の経験を生かし、内務省首脳部の反対を押し切っての決断でした。青山の設計・施工した岩淵水門は、その後の関東大震災や戦後の地盤沈下にも耐え抜き、新水門ができるまでの長い間、首都圏を洪水の危険から守り続けました。
荒川放水路とパナマ運河について、パネルで解説されています。
荒川放水路とパナマ運河
世界最大規模の土木事業パナマ運河建設の技術とノウハウが荒川放水路に息づく。
◆パナマ運河の建設には青山士も参加
パナマ運河は、太平洋と大西洋を結ぶ全長約80kmに及ぶ閘門式運河です。その建設工事は1904年にアメリカ合衆国によって着手され、1914年に完成しました。その後、2007年から2016年にかけて拡張工事を行っています。熱帯雨林が広がりマラリヤや黄熱病といった風土病も潜む、パナマ地峡を切り拓いての建設工事。難題も多いその現場は「世界最大の土木工学的実験場」と呼ばれるほどでした。明治三十六年(1903年)に東京帝国大学土木工学科を卒業した青山士は、この工事に参加するため単身渡米します。熱帯の厳しい環境、また人種差別も根強くある中で土木技術者として測量や地質調査に従事。やがて実力が認められ、運河最大の閘門・ガツン閘門の側壁(ウィングウォール・アプローチウォール)の設計・施工を任されるまでになります。青山はパナマに7年半滞在した後、運河の完成間近の明治四十四年(1911年)に帰国します。世紀の大工事に参加した彼の経験は、世界最先端の土木技術と、アメリカ流の民主主義に基づく技術者精神・倫理観を日本にもたらしました。
開削工事で実際に使用されたトロッコが展示してあります。
放水路掘削工事で活躍したナベトロ(小型トロッコ)
荒川放水路工事に関連した新中川・新綾瀬川の付け替え工事の際、主に活躍した小型トロッコ。土砂を入れるバケットの部分がナベ(鍋)に似ていることからナベトロと呼ばれ、約500台が稼動していました。80年以上も前のことです。鋳鉄製、ナベの容積は、0.6立方メートル(1合積)とトロッコとしては小柄。小回りが効き、狭い場所でも使えるのが特徴で、積み荷を降ろすときはナべごとひっくり返します。荒川放水路工事(1911年〜1930年)では、水路の掘削・浚渫土量が2、000万立方メートルを超え、さらに築堤土量も1、200万立方メートル以上にのぼりました。当時、この大量の土砂運搬が、放水路工事の最重要課題となっていました。
荒川放水路で最大の弱点だった京成本線荒川橋梁の架け替え工事が始まっています。令和元年(2019年)10月の台風第19号による増水で、荒川橋梁の線路のスレスレまで水が迫りました。この箇所は線路を通すために堤防が一段低くなっていますので、ここが決壊すると東京の東部一帯は水没してしまうのです。現在は、暫定措置として、周辺の堤防の高さに比べて低い堤防部分に特殊堤(パラペット)が設置されています。
令和元年東日本台風時の状況
■戦後最大雨量(3日間流域平均)を記録した令和元年東日本台風による洪水では、
ピーク時の水位が橋梁の桁下高まで、あと約1.2mの高さまで上昇しました。
■これを契機として、足立区・葛飾区は、「京成本線荒川橋梁に関する水防協議会」を設置し、
令和二年7月以降、継続して水防訓練を実施しています。
京成本線荒川橋梁架替事業(事業概要)
京成本線荒川橋梁周辺の堤防高さ
■京成本線荒川橋梁は、荒川放水路の開削工事の際に架設されました。その後、広域的な地盤沈下が発生したため、
対策として堤防のかさ上げを行いましたが、橋梁及び周辺の堤防の高さは低いままとなっています。
■現在、橋梁の桁下高は周辺の堤防の高さに対して約3.7m低く危険な状態となっています。
■事業の目的は、洪水を安全に流下させるために堤防をかさ上げすることで、堤防のかさ上げに支障な京成本線
荒川橋梁及び綾瀬川橋梁の架替工事を行うものです。
事業期間・事業範囲・総事業費
■荒川の河口から10.67kmに位置する京成本線荒川橋梁は、昭和六年に架設され、
東京都の京成上野駅と世界の玄関口である千葉県の成田空港を結ぶ重要な路線であり、
京成電鉄全体では年間延べ約29、300万人(2019年度実績)が利用しています。
■橋梁の高さが低く、洪水の安全な流下の阻害となっている京成本線荒川橋梁を約15m上流に架け替えします。
■新橋に切替えた後、現橋の橋台を撤去し、周辺の堤防の高さに比べ低い堤防のかさ上げ・拡幅を行います。
■新橋への架替えに伴い、京成関屋駅から堀切菖蒲園駅までのアプローチ部の改良も行います。
■令和五年2月1日時点の買収部分における用地取得率は、約80%です。
防災に関するパネルもあります。
防災備品も展示されています。水はひとり当たり一日3リットル必要なんだそうです。私はワインを1本追加しないといけません。
新河岸川に架かる新志茂橋の手前から川沿いに細い遊歩道が延びています。私が持っている古い地図では「志茂橋」と表示されていますが、志茂橋は昭和五十五年(1980年)に架けられましたが、耐震性の問題があるとして、国土交通大臣になった北区選出の政治家の主導で改修工事をし、平成二十五年(2013年)8月に新たな橋として「新志茂橋」と名付けられました。そろそろ地図を買い換えないと。
土手側の遊歩道は、両側に桜の並木が続いていて、春には桜のトンネルとなります。
- ポイント15.岩淵橋
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新志茂橋の上流に岩淵橋が架かっています。名前の由来は、この辺りの町名の岩淵町に因んでいると思われます。岩淵橋の堤防側の親柱には古風な字体で嬌名が書かれていますが、反対側の親柱には真新しいプレートが貼られています。新志茂橋と同じように最近改修されたのでしょうか?
岩淵橋の上流に新荒川大橋が架かっています。新荒川大橋は、埼玉県川口市舟戸町と東京都北区岩淵町との間の荒川と新河岸川に架かる橋で、国道122号線(岩槻街道・北本通り)を通す2本の橋です。この地には、かって「川口の渡し」と呼ばれる日光御成街道に属する船三艘を有する官設の渡船が対岸を結んでいました。渡船場は、「岩淵の渡し」や付近に善光寺があることから「善光寺の渡し」とも呼ばれ、安永九年(1780年)頃には存在していたと考えられています。源義経がこの地を渡ったという記録(義経記)も残されています。近くに名所である善光寺があり、江戸市民が信州に行かずとも善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったといわれています。しかし、明治二十四年(1891年)に「舟戸の船橋」と呼ばれる舟橋が開設されたことから、明治三十八年(1905年)に廃止されました。大正時代から着手された荒川改修事業により河道が現在の位置を通るようになり、川に堤防が築かれました。また、今まで現在の朝霞水門付近で荒川に合流していた新河岸川が下流側に荒川に並行するように開削され、岩淵で隅田川に合流するよう改修されました。新荒川大橋はその河川改修事業を契機として架設されることになり、昭和三年(1928年)9月16日に開通しました。現在の橋は今までの橋より上流側の位置に架けられ、昭和四十一年(1966年)10月19日に開通しました。上り線は昭和四十五年(1970年)10月に開通し、旧橋は下り線として使われています。
- ポイント16.北本通り
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新荒川大橋が通す国道122号線の埼玉県側は「岩槻街道(さいたま市岩槻区から都県境まで)」と呼ばれ、東京都側は「北本通り(都県境から北区の王子駅前交差点まで)」と呼ばれています。私は「きたもと通り」と読むのだとばかり思っていましたが、正しくは「きたほん通り」と読みます。
新荒川大橋の南詰は東京都と埼玉県の境界になっています。
かつて、赤羽側橋詰には小山酒造株式会社があり、「丸眞正宗」を醸造する東京都23区内に2軒しかない造り酒屋でしたが、平成三十年(2018年)2月28日に廃業しました。創業者の小山新七は埼玉県の酒蔵の次男に生まれ、家業の手伝いとして岩槻街道で酒を運び行き来していました。その際に赤羽・岩淵で酒造に適した湧水が発見されたのを契機に、明治十一年(1878年)に株式会社小山本家酒造から独立する形で小山酒造株式会社として創業しました。後に、国道122号線となる岩槻街道の憩いの場ともなったといわれています。平成二十八年(2016年)7月に港区に東京港醸造が開業するまで、東京23区内に唯一残る造り酒屋でした。
- ポイント17.新河岸川沿い道路
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北本通りを渡り、新河岸川の堤防に沿った道路を進みます。河川敷はテニス場になっています。北区営の新河岸川庭球場は、ハードコートが5面あり、ナイター設備はありません。東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道「赤羽岩淵駅」から徒歩約6〜7分のところに位置していますので、いつも利用者がプレイしています。
新河岸川に3本の鉄橋が架かっています。一番手前(下流側)の橋は電車線で、昭和四十三年(1968年)に開通し、京浜東北線が通っています。中央の橋は列車線で、昭和三年(1928年)に開通し、宇都宮線・高崎線(上野東京ライン)が通っています。一番奥(上流側)の橋は貨物線で、昭和二年(1927年)に開通し、東北貨物線・湘南新宿ラインが通っています。
鉄橋の先から川沿いの細い路地に入ります。中の橋は人道橋ですが、割と横幅があります。何の変哲もない橋ですが、特命戦隊ゴーバスターズとか、仮面ライダー電王の劇場版とか、特撮番組では他に実写版美少女戦士セーラームーンや、特撮以外のドラマでも撮影に使用されたとのことです。
北赤羽駅は埼京線の駅で、埼京線の開設と同時に、昭和六十年(1985年)9月30日に開業しました。駅の構造は、島式ホーム1面2線を有する高架駅で、ホームは新河岸川の上、浮間橋のすぐ隣(南側)に架かっています。川の真上に架かっている駅舎は、旧中川に架かっている都営新宿線の東大島駅だけかと思っていましたが、北赤羽駅もそうなんですね。改札口は川を挟んで上り赤羽方に「赤羽口」、下り大宮方に「浮間口」の2か所があります。
- ポイント18.浮間橋
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埼京線の高架の直ぐ隣に浮間橋が架かっています。浮間橋は新河岸川に架かる橋です。新河岸川は埼玉県と東京都を流れる一級河川で、荒川水系隅田川の支流です。武蔵野台地北部に降った雨を集めた伏流水や入間川からの水田用水を水源とする赤間川が埼玉県川越市上野田町の八幡橋付近で新河岸川と名前を変え、川越の市街地の北側を回り込むように流れた後で、川越市大字砂付近で不老川、川越市大字南田島付近で九十川と次々に流れ込む支流を合わせながら荒川の西岸沿いを流れ、北区の岩淵水門先で隅田川に合流します。
橋の袂に記念碑が建っています。
浮間橋の碑
荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。時の明治政府は、明治四十三年(1910年)八月の大水害をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。改修では、洪水時の四分の三の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、もとの荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台四丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計六千円を拠金して架橋を依頼し、昭和三年(1928年)五月に幅二間、長さ六十五間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。橋は昭和九年(1934年)に幅八メートルの銅板鋼桁橋になり、昭和十五年(1940年)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線、埼京線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設および顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和六十年(1985年)九月に現在の浮間橋の脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。地元の人たちによって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋のかかわりを永く後世に伝えています。
大きい方の石碑は、近衛師団工兵大隊が浮間橋を建設したことを記念する「旧浮間橋建設記念碑」です。現在の浮間橋は昭和五十九年(1984年)に架けられたものですが、最初にこの場所に浮間橋が架けられたのは昭和三年(1928年)5月のことで、架橋したのは近衛師団工兵大隊です。荒川と新河岸川に囲まれ交通手段を渡船に頼らざる得なかった浮間地区の人々は、近衛師団工兵大隊に当時のお金で計六千円を拠金し、工兵隊は幅2間、長さ65間半の木造の橋を新河岸川に架けました。碑文は漢文で書かれていますが、以下は現代文に直したものです。
浮間橋
東京郊外にある浮間の里はサクラソウで有名です。北には横にとても長い水路がありました。西南は清流があり、緑樹には靄がかかっていました。北足立は岩淵と合併しましたが、この地は孤島の如く渡船で移動をしなければなりませんでした。橋が架かればいいのにと思っていた里の民は金六千を醵金しました。町は軍に架橋を依頼し、近衛工兵は全力を尽くして施工しました。そして、今日この長蛇の川を渡るための橋が完成しました。
小さい石碑は古びていますが、昭和六十年に造立されました。
旧浮間橋建設記念碑が国鉄新幹線建設工事に伴い移設されることとなり、国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の際、新浮間橋脇に建立される事となった。今般旧浮間橋建設記念碑移設工事完了した事を記念し、小碑を立てる。
- ポイント19.浮間緑地
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高架沿いの道路を浮間舟渡駅方向に進みます。道路の右手に細長い公園が広がっています。
浮間一丁目緑地には遊具はありませんが、緑の中を散策したり、ベンチに座ってのんびり休憩することができる公園です。公園の敷地内には、沢山の樹木が植わっていますので、太陽が眩しい季節でも木陰で涼しく過ごすことができます。
広場は子どもたちが走りまわって遊べるほどの大きさで、トイレも整備されていますので、お休みの日に家族でゆっくり訪れるのもいいかも。
- ポイント20.浮間公園
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浮間公園に着きました。浮間公園は、東京都北区浮間二丁目と板橋区舟渡二丁目の境にある浮間ヶ池を中心にした都立の都市公園(総合公園)です。江戸時代から明治時代にかけて、浮間付近で荒川は大きく南に蛇行していました。昭和三年(1928年)頃に荒川が直線化された際、荒川の旧流路の一部が取り残され、その名残りとして浮間ヶ池ができました。それまで荒川の左岸側(埼玉県側)だった浮間は、このとき右岸側(東京府側)になりました。浮間ヶ池はU字蛇行部の西の一部にあたり、池の東にある現在の浮間地区が荒川改修で埼玉県側から移った町域に相当します。昭和四十二年(1967年)、東京都は浮間ヶ池を含めた周辺地域を都立浮間公園としました。昭和六十年(1985年)に浮間舟渡駅が開業すると、浮間公園の入り口は駅前広場と道路一つを隔てて相対する現在の姿になりました。
こんな感じです。
公園面積の約40%を占める浮間ヶ池では、コイやヘラブナなどの釣りが無料で開放され、一年中釣人が絶えません。池の畔には公園のシンボルとして設置された風車が一基あります。風車は公園の見どころのひとつで、季節によってさまざまな景色を見せてくれるほか、期間限定でライトアップが行われることもあります。
ゴール地点のJR埼京線浮間舟渡駅に着きました。
ということで、足立区で三十九番目のコースとなる「C−南西エリア 39.西新井さかえ公園から浮間公園コース」を歩き終えました。次は足立区の「D−南東エリア」で最初のコースとなる「D−南東エリア 40.小菅・荒川河川敷・五反野親水緑道コース」を歩きます。
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