E−千住・新田エリア 51.千住名所巡りコース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「E−千住・新田エリア 51.千住名所巡りコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年5月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年2月に改めて歩きました。

スタート地点:北千住駅西口

 1.千住本町公園

 2.千住宿本陣跡

 3.森鴎外旧居跡

 4.千住貫目改所

 5.源長寺

 6.大橋公園

 7.松尾芭蕉像

 8.千住歴史プチテラス

 9.千住仲町公園

10.柳原千草園

11.東京未来大学

12.荒川河川敷

13.清亮寺

14.名倉医院

15.横山家・絵馬屋

16.千住本町公園

ゴール地点:北千住駅西口


スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。



ポイント1.千住本町公園

千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。


サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。


公園内に利用ガイドの案内板が2つ立っていますが、内容が微妙に違います。全部守ることに超したことはありませんが。



入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。

千住宿 高札場 由来

私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。




石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。



公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。



園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。



「千住で2番」のキャッチフレーズで知られる居酒屋の「大はし」は、明治十年(1877年)創業の老舗です。居酒屋評論家の太田和彦さんが名付けたという”東京三大煮込み”の甘辛い醤油味が染み込んだ牛肉の煮込みが名物で、他にも旬の鮮魚が味わえる大衆酒場です。「やってます」の看板はこの店が発祥だそうです。



ホテル・ココ・グランの1階にドンレミーというアウトレット店があります。ドンレミーは洋菓子工場直営の販売店で、見ためが少し不揃いとか、クレープやロールケーキの切れ端など、味や品質は同じなのに販売することができない商品や店限定の商品など「理由」ありケーキを特別価格で販売しています。特にお得なのは、スポンジの切れ端とかどら焼きの皮とか割れ煎餅とかです。子だくさんの家庭なら、おやつはこれで十分です。私は、北千住が終点のコースを歩く時は必ず立ち寄ってケーキの爆買いをします。



宿場町通りには、かって参勤交代で旧日光街道を通った大名の家紋を記したプレートが立っています。

千住宿を通った大名とその家紋

堀田家 下総 佐倉【現・千葉県佐倉市】 11万石

堀田氏は代々老中を出した名門で、幕末の正睦はとくに有名です。佐倉は一時蘭学の中心となり、この中から順天堂病院なども興りました。




ポイント2.千住宿本陣跡

北千住駅前通りの手前の路地の入口の壁に案内板が架けられています。

千住本陣跡とその周辺

この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。

●千住本陣跡(緑色の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。

●明治天皇行在所跡(青色の付近)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。

●千住見番跡(茶色の付近)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。

●丁目境の筋違(赤色の部分)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。




宿場町通りに面して、千住宿本陣跡の小さな石碑が建っています。



明治天皇行在所跡の標識は見つかりませんでした。千住見番跡の標識も見つかりませんでしたが、この路地のどこかにあったのでしょう。



丁目境の筋違は、宿場町通りを挟んだ路地が少しずれていることで分かります。



北千住駅前通りを横断して、ほんちょう商店街に入ります。2020年12月に竣工した「千住ザ・タワー」は、北千住に数少ない30階建ての超高層マンションです。この地には、ダイエーのディスカウントストア「トポス」がありましたが、2016年11月に閉店し、その跡地が再開発されて誕生しました。



ポイント3.森鴎外旧居跡

千住ザ・タワーの植え込みの中に、森鴎外旧居橘井堂跡の石碑が建っています。



森鴎外の父静男は、明治十二年(1879年)に南足立郡医となり千住に転居し、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、森鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治十四年(1881年)に下宿を引き払って千住に移り住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」に描写されています。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤めることになり、千住から人力車で通勤しました。明治十七年(1884年)にドイツへ留学し、明治二十一年(1888年)に帰国すると千住の実家に戻りました。翌年森鴎外は結婚して根岸に移り、両親も明治二十六年(1893年)に千駄木に移りました。

千住の鴎外碑

翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。(中略)花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が付いた。宿場の医者たるに安んじてゐる父のレジニアションの態 度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。

森鴎外「カズイスチカ」より




その脇に、解説文があります。

森鴎外旧居 橘井堂医院跡

森鴎外(本名、森林太郎)は近代の文豪として知られています。明治十二年(1879年)に父の静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが 大学を卒業した明治十四年(1881年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」(臨床記録の意味)に描写されています。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。




千住の地名の由来を記した案内板が立っています。

なるほど! 千住「地名」の由来

「千住」という地名の由来には諸説あります。

@ 嘉暦二年(1327年)、勝専寺の中興開基(支援者)である武士・新井図書政次(あらいずしょまさつぐ)が、荒川(現在は隅田川)で千手観音像を見つけたことにちなみ、「せんじゅ」と呼んだという説。
A 室町幕府八代将軍、足利義政の愛妾(あいしょう)である「千寿の前」の出生地であることに因(ちな)むという説。
B かつて千葉氏が住んでいたので「千葉住村」といったのを、のちに略して「千住」といったという説もあります。

いずれも確かな根拠はありませんが、少なくとも徳川家康の入府以前、永禄二年(1559年)には、千住という地名がすでに使われていたことが「北条氏所領役帳」(国立公文書館蔵)に記されています。




惣菜かざまは、千住ほんちょう商店街の激安惣菜店です。何度かテレビに出たこともあるそうで、何もかも安いです。昔はお弁当が確か210円だったと思うのですが、さすがに今は値上がりしています(十円の位ですが)。



東京芸術センターは、ほんちょう商店街の外れにある総合施設です。収容人員400名のホールを備え、演劇などの舞台芸術を始め、演奏会やファッションショーなどの芸術活動・シンポジウム・展示会といった多彩なイベントに対応している「天空劇場」や、年間を通して名画の上映を行っている「シネマブルースタジオ」・ミーティングの他、サークル活動や研修会など多目的に利用可能な「会議室・和室」が完備されています。他にも、撮影スタジオとして利用できる「ホワイトスタジオ」・ピアノが設置してある「ピアノラウンジ」・多目的に利用できる「ヨガスタジオ」・レストラン「タピ ルージュ」などの施設もあります。この地には、足立区の前身の千住町時代から庁舎がありましたが、老朽化により、平成八年(1986年)5月に中央本町に移転しました。その跡地に建ったのが東京芸術センターです。



ポイント4.千住貫目改所

東京芸術センター前の広場に、千住宿問屋場・貫目改所跡の石碑が建っています。

千住宿問屋場・貫目改所跡

旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695年)に設けられました。また、寛保三年(1743年)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂飛び交ったとの話しもあります。江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。

この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成十二年(2000年)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。




こんな配置になっていました。



東京芸術センターに隣接して、交差点角に足立成和信用金庫があります。足立成和信用金庫は、平成十四年(2002年)12月16日に足立信用金庫と成和信用金庫が合併して誕生しました。



巨大な壁画(パンチングアート)が描かれています。パンチングアートとは、大小のドット(点)を大きさやピッチを調整して鉄板やステンレス板などに大小無数の孔を彩る技術をいいます。

「千住川」

長谷川 雪旦(はせがわ せったん)画
(江戸名所図会より 江戸後期の画家 1778年〜1843年)

荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでおります。当時、千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地で、この辺りは高瀬舟の往来で賑わっておりました。当金庫では創立90周年を記念し、本店新築の際、当時の千住の地の賑わいの様子を描いた「千住川」の絵をパンチングアートとし歴史の伝承をしております。




足立成和信用金庫の店頭に芭蕉像が立っています。

芭蕉像 チェンソーカービング〔材:鹿沼の杉〕

私、松尾芭蕉は、三百三十年前、元禄二年三月二十七日(旧暦)、ここ千住を矢立て初めの地として「おくのほそ道」の旅に出ました。道中三日目、鹿沼に着き、笠を新調して古い笠は光太寺に置いて翌朝日光に向かいました。その笠を供養していただいたお寺の「笠塚」には、私の弟子たちも訪れてくれたようです。鹿沼では、今も毎年五月に「芭蕉の笠替え行事」が行われています。また、私は、鹿沼で「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みましたが、その句碑を屋台のまち中央公園内に建てていただきました。私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。どちらも鹿沼の特産ですが、あの時食べたかどうかは忘れてしまいました。今は、「芭蕉の蕎麦餅」というお菓子や「芭蕉の蕎麦ご膳」というメニューもあるそうです。そして、鹿沼は「木のまち」。この像の素材は鹿沼産の杉、チェンソーアーティスト小林哲二さんにチェンソーだけで彫りだしてもらいました。鹿沼市内にはこのような私の木像が五か所に設置されています。足立区と鹿沼市は友好都市(平成四年提携)です。両区市民のスポーツや文化の交流、企業や団体の交流も盛んになりました。私は三日かかりましたが、今は東武鉄道の特急で三駅目、東北自動車道でも短時間です。自然、グルメ、祭りやイベントなど魅力いっぱいの鹿沼に旅し、芭蕉像にも会いに行ってください。私は、三百三十年ぶりに旅立ちの地に立って、両区市の繁栄と道行く人々の旅の安全を祈っています。




足立成和信用金庫の告知分が貼られています。

足立区初の松尾芭蕉木工像設置について

足立成和信用金庫(本店:東京都足立区、理事長:土屋武司)では、本店を置く北千住が松尾芭蕉「奥の細道」出発の地という由縁と、令和元年は奥の細道紀行330年という記念すべき年でもあること、また、地域活性化(商店街・町会)および地域歴史探求への貢献に寄与できればと考え、鹿沼相互信用金庫・鹿沼市・栃木県集成材協業組合の協力のもと、足立区初の松尾芭蕉木工像(全国10体目の木工像展示)を本店入口に設置し、先日引渡し式を執り行いました。当金庫本店へお越しの際は、是非ご覧ください。

足立区と栃木県鹿沼市(友好自治体都市 1992年10月締結)の関係もあり、足立区に本店所在地を置く当金庫と鹿沼市に本店所在地を置く鹿沼相互信用金庫とは、当金庫後援「千本桜まつり」にて鹿沼相互信用金庫のお取引様に出店していただくなど良好な関係にあります。また、鹿沼市は「木のまち鹿沼」としても有名であり、松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で鹿沼市に一泊した折に詠んだ俳句が句碑となり、市内にも5体の芭蕉木工像(チェンソーアーティスト作)が展示されておりますので、鹿沼市へご訪問の際には是非ご覧ください。




足立成和信用金庫前の交差点向かいに、千住高札場跡の石碑が建っています。ここは千住宿の外れに当たったことから高札場が設置されたのでしょう。



更に旧日光街道を南下します。千住宿の外側には後に掃部宿も設けられ、千住宿と一体になりました。

千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)

千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(1625年)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、四キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658年)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。名前の由来は慶長三年(1598年)村を拓き、元和二年(1616年)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(1931年)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。




当時の街道図が添えられています。掃部宿の場所の表示はありませんが、高札場から右手の街道筋だったと思われます。尚、江戸時代には荒川放水路は存在しませんでしたので、左端はそのまま街道が延びています。ちなみに、安養院の右手に延びるのは水戸佐倉道、真っ直ぐに延びるのは下妻道、左手に延びる太い道は旧日光街道です。



ポイント5.源長寺

街道図にもある源長寺は、慶長十五年(1610年)に伊奈忠次が開基となって創立されました。寺名は、忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来となっています。しかし、実質的な創建者は千住の開発者であった石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で開基の座を譲ったとされています。石出吉胤は、千住開発の功により従五位に任ぜられ、石出家は代々名主を務めることになりました。境内に墓所もあります。

源長寺

浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598年)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610年)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来である。墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。



山門の右手に縦半分写っているのが、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠でしょうか?


草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家が建っています。「筆子家」とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建立した墓や供養塔を指します。

多坂梅里先生追悼碑

寺子屋の発祥は享保年中(1716年〜1735年)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居し、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は、天明九年(1789年)九月二日没した。




源長寺で右折して墨堤通りに入り、千住宮元町交差点で日光街道と交差します。



交差点の角に坂本龍馬の肖像画が立っています。龍馬の妻だった佐那が開業した灸治院がここにあったそうです。

千葉灸治院跡地
千葉道場での龍馬と千葉佐那

1853年千葉道場に入門した坂本龍馬は千葉定吉の次女佐那と恋仲になり、両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸を出立し京都で横死する(1867年)。

佐那は龍馬の形見の袖を、生涯離さずこの千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。

千住仲町千葉灸治院跡地に
「千葉佐那 坂本龍馬 二人の千葉道場での姿像」

縁あって足立区千住仲町に灸治院を開業し、この地で生涯を終えた千葉佐那さん。来る人々に、私は坂本龍馬の妻ですと語り続けたその心を偲び、二人が共に過ごした千葉道場での二人の姿を像とし、ここ灸治院跡地に建立し、佐那の切ない想いを永遠に伝え、千住、足立の人共に心を一つとするものです。本事業は、「足立区公益法人まちづくりトラスト」によるご協力を頂きたく要請するものです。




千住大橋は隅田川に架かる橋で、国道4号日光街道を通しています。千住大橋は旧橋(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されていて、旧橋の上流側に都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋が並行しています。旧橋は昭和二年(1927年)に架けられ、新橋は昭和四十八年(1973年)2月に架けられました。旧橋の橋長は91.6mですが、新橋は南千住交差点をオーバーパスする陸橋部が含まれているために橋長は502.5mとなっています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄三年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋でした。当初の橋は、現在より上流200mほどの当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場がったところに架けられました。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次で、橋長は66間(120m)・幅4間(7m)の橋でした。土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。架橋後は単に「大橋」と呼ばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道・奥州街道・水戸街道の街道筋がこの橋に移りました。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めませんでしたが、後に明暦の大火等もあり交通上・安全上のため両国橋などが完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれるようになりました。今でも橋の嬌名プレートには「大橋」とだけ書かれています。



ポイント6.大橋公園

この地は、古くから千住船着き場があったところで、「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所です。 松尾芭蕉の「奥の細道」に、「千住といふところで船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。≪行く春や鳥啼魚の目は泪≫是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし」と記されていて、これを記念して奥の細道旅立ちの地として、矢立初めの句碑が建立されました。

史跡
おくのほそ道矢立初の碑

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
   行春や鳥啼魚の目は泪
是を天(矢?)立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送るべし。




歴史と文化の散歩道の案内板もあります。

おくのほそ道と千住

日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄三年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄二年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曾良とともに、千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政三年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。

芭蕉が千住で詠んだ俳句

原文

干しゆと云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて 幻のちまたに離別の泪をそゝく

   行春や鳥啼魚の目ハ泪

是を矢立の初として行道なをすゝます 人々ハ途中に立ならひて後かけのミゆる迄ハと見送なるべし

現代語訳

千住というところで舟から上がると、いよいよこれから前途三千里ともいうべき長い旅に出るのだなあ、という感慨で胸がいっぱいになって、この世は夢幻だという思いはするものの、いざこうして別れ道に立つことになると、いまさらながら離別の涙を流すのであった。

春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目も涙にうるんでいるようにみえる。

この句を旅中吟の書きはじめとして、行脚の第一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いで、いっこうに歩みがはかどらない。人々は道中に立ち並んで、われわれの後ろ姿の見えるかぎりはと、見送ってくれているらしい。

出典:堀切実「おくのほそ道 永遠の文学空間」より




「おくのほそ道」の行程図を図示した大きな案内板が立っています。

おくのほそ道行程図

元禄二年(1689年)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644年〜1694年)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発し ました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。この紀行が、元禄十五年(1702年)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かな旅に思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。




千住を題材にした作品を残した葛飾北斎の富嶽三十六景の案内板もあります。

冨嶽三十六景
「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。




大橋公園と国道4号線を挟んだ向かい側に足立市場があります。足立市場は、東京都中央卸売市場の市場で、千住宿の青物市場として天正年間(1580年頃)から存在していた「やっちゃ場」をルーツとしています。 神田市場・豊島市場(駒込市場)と並び、江戸の三大青物市場のひとつで幕府の御用市場でした。東京都が戦時中の昭和十七年(1942年)に現在地を買収し、千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場「足立市場」を昭和二十年(1945年)2月11日に開場しましたが、開場2か月後の4月13日の東京大空襲により全焼しました。昭和五十四年(1979年)9月17日には取引量の増加で施設が手狭になり、青果を取り扱う部門を足立区入谷に新設した北足立市場に移転し、足立市場は水産物専門の市場として生まれ変わりました。



足立市場内には一般の人も利用できる5つの食堂があり、市場直送のおいしい海鮮料理などを食べることができます。かどのめし屋は、市場の関係者や近隣の会社員などで賑わう海鮮定食屋です。新鮮な魚介類を使った海鮮丼や、大きな天ぷらが目を引く天丼は勿論、昔ながらのシンプルなラーメンや八戸ラーメンも人気です。特に、八戸ラーメンは本場の青森から素材を取り寄せて作る本格派で、都内で八戸ラーメンを食べられる数少ないお店のうちのひとつです。近隣への弁当の配達も行っていて、日替わり定食はその日のうちにすべて売り切れるほど好評です。



市場めし とくだ屋は、仲買人の店主の目利きによる新鮮な魚介をリーズナブルに楽しめる定食屋で、朝8時からオープンしています。丼や定食に付いてくるあら汁は、魚介の旨みが凝縮されて美味です。また、平日17時からは「109Daya(とくだや)」というビストロとなります。朝昼とはまた違ったメニューがいろいろ味わえて、こちらもお勧めです。



しいはし食堂は、兄妹3人で営む庶民的な雰囲気の食堂です。昭和十一年(1936年)に創業した老舗で、親子4代に渡って通う常連客もいるとのことです。メニューには焼き魚や煮魚の他、開化丼やあいかけなどもあります。調理を担当する長男の賢治さんは御年80才で、できるだけ良い素材を使い、手抜きをしないことをモットーに、父親から受け継いだ味を今もなお守り続けています。



ポイント7.松尾芭蕉像

足立市場正門のすぐ横の旧日光街道入口に「千住宿 奥の細道 プチテラス」があります。

平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曾良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。
   遥かなる奥の細道へ




道路脇の狭いスペースですが、松尾芭蕉の石像が建っています。芭蕉と弟子の曽良がこの地から奥の細道の旅へ出立した際に、矢立の句を詠んだ時の様子を表わしています。



芭蕉像の足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。



芭蕉と菖蒲園(為成善太郎)の句碑が建っています。芭蕉の句の「鮎の子の白魚送る別れ哉」は、「白魚は、旧暦2月頃に産卵のために川を上る。鮎は、その1ヶ月ぐらい後に遡上すると言われている。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てた。」と解釈されます。



芭蕉とは関係ないですが、千住宿を通った大名行列が描かれています。

大名行列

今をさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最も良く整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参(勤)交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍(偲?)ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。




ポイント8.千住歴史プチテラス

京成本線の高架を潜った先に、千住歴史プチテラスがあります。江戸時代から千住宿の北の外れで続いた地漉き紙問屋の横山家の内蔵が1993年に千住河原町に解体移築されました。江戸時代には宿場町として栄えた千住宿跡に現存する貴重な蔵のひとつで、江戸時代後期に建造されたものと伝わっています。蔵の周辺は、歴史プチテラスとして維持され、土日には区民ギャラリーとして公開されています。レトロな雰囲気の建物は、まるでタイムスリップをしたような気分にさせてくれます。



「やっちゃ場」の由来が記されています。

此処は元やっちゃ場南詰

やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった。と言っても良いだろう。




プチテラスに句碑があった為成善太郎は、青物問屋の主人でした。

大喜 元青物問屋 新大阪屋

当主為成善太郎は俳諧を良くし俳号を為成菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。




沢山の屋号が書かれた表札の下に鬼瓦が2組置かれています。谷塚屋は、両替商から青果物問屋になった家系です。

土蔵の鬼瓦

やっちゃ場には多くの土蔵があったと思われるが太平洋戦争末期の空襲でほとんどが焼失してしまった。その中で谷塚屋と足立屋の2棟が並んで残りポツンと建っている様はやっちゃ場の名残りを表すシンボルのようであった。この鬼瓦は谷塚屋の鬼瓦で ある。建立年代は定かではないが永い間青物問屋の財物・文化財(・)想い出の品物等を大切に守り続けて家の繁栄をささえていた。令和元年に2棟同時に解体された。現在はM.メインステージ千住河原町脇に設置。




日光街道筋に並んでいた商店の配置図があります。



千住葱を扱っていた問屋が今も営業しています。

千住ねぎ 葱

(山)柏は「千住葱」の専門の市場で代々やっちゃ場にて問屋業を営んできた。千往葱は白味が長くて甘い高級葱として料亭、レストランにはなくてはならぬ品物である。生産地は越ヶ谷、吉川などの専門農家が作付をしている。皆様も千往葱のお美味しさを是非味って下さい。




千住のまちの歴史が書かれています。

まちの歴史 千住の町並み

「大千住」という言葉があります。千住に住んだ明治の文豪・森鴎外が使った言葉です。日光道中千住宿は品川・新宿・板橋と並んで江戸四宿と言いました。江戸時代の末の人口は約1万人で、第2位の品川宿の6千300人を大きく引き離し最大でした(1844年「宿村大概帳」)。まさに「大千住」です。なぜ千住宿は最大だったのでしょう。答えは今の町並みにあります。町を歩くと宿場風の家とともに古色蒼然たる蔵がたたずんでいます。千住河原町は市場”ヤッチャバ”の故地です。このように見ると千住の町並みの中に宿場と市場が混在している事にお気付きでしょう。千住が最大規模を誇った理由はここにあります。宿という交通機能に加え、市場という物資集散地であったことが千住の繁栄を築きました。物資を保管した蔵は、千住の市場機能を今日に伝えています。では市場が繁栄した要因は何かといえば、足立・葛飾から埼玉の農村が流通圏だったことです。千住宿の古絵図をひも解くと、舎人屋・花又屋という区内の地名や、二合半屋、といった三郷の古名を名乗る店が見えますが、これは流通圏を反映しています(江戸後期「千住宿宿並図」)。千住は農村に支えられ四宿の頂点に君臨したのです。千住は単なる宿場ではない。いまの千住の町並みは、そうした栄光を私たちに語りかけてきます。




ポイント9.千住仲町公園

再び源長寺前の交差点に出て、右折して墨堤通りを進みます。JR線のアンダーパスの手前に千住仲町公園があります。



千住仲町公園は、墨堤通りに面する区立の公園です。



面積3、240平方メートルの敷地の中央には、噴水広場が設けられています。広場を取り囲むように様々な遊具が点在しています。園内には数多くのサクラの木が植えられていて、毎年桜の季節には絶好のお花見のスポットとなっています。桜の花に続いて、足立区の花となっているチューリップの花を見ることもできます。



公園の入口の脇に、葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景で千住地域を画題にした3枚のうちの1枚「隅田川関屋の里」の顕彰碑が立っています。オランダ商館の医師としてシーボルトが来日した当時、日本の絵師は幕府の許可なしに外国人のために絵を創作することは国禁になっていましたが、葛飾北斎(1760年〜1849年)は文政九年(1826年)に「日本風俗画」15枚を描きました。シーボルトは出版した自著「Nippon」の挿図に「北斎漫画」の図柄を用いました。1867年のパリ万国博覧会で浮世絵が紹介され、その奇抜で動的な構図・軽妙な人物の動き・その表情・衣装描写の精緻さがヨーロッパの芸術家たちに驚愕を与えました。北斎に影響を受けた画家には、ビンセント・ヴァン・ゴッホやエドガー・ドガなどがいて、ドガは「北斎漫画」を参考にした人物像を描いています。また、アンリ・リヴィエールは、「冨嶽三十六景」に触発されて「エッフェル塔三十六景」を描きました。音楽家のクロード・ドビュッシーも「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。このようにしてヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた北斎は、世界的に評価が高く、1960年にはウィーンで開催された世界平和評議会において、世界の文化巨匠として顕彰され、また、1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」で「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ一人選ばれています。

冨嶽三十六景
「隅田川関屋の里」
千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いて(い)ます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。




JR線のアンダーパスを潜った先に、ピザ店があります。「AD’ACCHIO(アダッキオ)」は、天然酵母で作るこだわりの生地とイタリアから運んだ薪窯で焼き上げるナポリピッツァ、それに小粋な南イタリア料理が味わえる一軒家のピッツェリア&トラットリアのお店です。



ポイント10.柳原千草園

京成関屋駅と東武牛田駅の手前の踏切を渡った先で右折し、住宅地の中を進むと柳原千草園があります。



柳原千草園は、隅田川と荒川に挟まれた位置にある区立の公園で、1989年6月4日に開園しました。この地には、かって丸三製紙株式会社千住工場がありました。園内は「春の広場」「夏の庭」「秋・冬の山」に分けられ、それぞれの季節ならではの植物を楽しめます。

柳原千草園案内図

この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年六月に開園しました。住宅や工場が混在し、密集している地域の中で、身近に水と緑に親しめるとともに、自然の植物が観察できる公園として計画しました。左図のように、季節ごとに植物の様々な姿が見られるように配植し、サクラやシャクナゲ、モミジ、水辺の草花など、数々の植物が植えられていることから、公園名を「柳原千草園」と命名しました。




「春の広場」では、サクラやスイセンなどが3月ごろから咲き始めます。



「夏の庭」では、シャクナゲやアジサイなどの花が5月ごろから咲き始めます。東屋や池を巡る回廊も設置されています。



「秋・冬の山」では黄葉・紅葉するものや、実のなる草木が訪れる人を出迎えます。一年を通して、四季折々の植物が楽しめる憩いのオアシスです。



併設の遊具広場には、滑り台や幼児用(3才から6才向け)ブランコや砂場もあります。



柳原千草園は野良猫の天国のようです。よく太っていますね。



柳原千草園を出て京成本線のガード下を抜けた先の住宅地に、千住曙町公園があります。道路を挟んで別々の公園のようにも見えますが、ひとつの公園です。



東側の敷地は緑が豊かで、春になると園内の木々の葉が生い茂り、日陰スペースがたくさんできます。大きな広場にベンチが数台設置されていて、子どもたちが走り回ったり元気に遊んでいる姿をゆっくり座って見守れます



西側の敷地には、ブランコやすべり台などの遊具があります。トイレはありませんが、水道がありますので泥で汚れても帰る前に手を洗うことができます。



ポイント11.東京未来大学

千住曙町公園の直ぐ先に東京未来大学があります。東京未来大学は2007年に開学し、「心理学」を幅広く学び、保育士や心理スペシャリストを目指せる4年制の私立大学です。足立区の中学校統合に伴い、2004年度をもって廃校になった区立第二中学校の校舎を改修・増設して利用しています。第二中学校の校舎は、テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズの舞台である「桜中学校」のロケ地として使われました。



開学時には「こども心理学部」のみでしたが、2012年に「モチベーション行動科学部」が開設されました。名誉学長に、2016年に亡くなった心理学の分野で知られた多湖輝氏が就任していました。



東武スカイツリーライン堀切駅前の跨線橋を渡ります。眼下に東武線特急の爆走を見ることができます。



跨線橋の右手に隅田水門があります。現在の隅田川は、かつては荒川の本流でした。明治四十四年(1911年)から昭和五年(1930年)にかけて、洪水であふれた水を安全に流すために荒川放水路が新しく造られ、北区岩淵水門から下流を隅田川と称するようになりました。隅田水門は、堀切橋のすぐ下流にあり、旧綾瀬川と荒川の合流点に位置しています。普段は隅田川に通じる舟運に利用され、増水時は水門を閉め、東京への水害を防止する役割を果たしています。大正十三年(1924年)に竣工し、今でも現役の水門として活躍しています。

隅田水門

増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。

荒川が放水路として人工的につくられるまで、このあたりは旧綾瀬川が隅田川に合流する場所でした。旧隅田水門は、荒川と隅田川を往来する舟運の要衝として大正十三年(1924年)に建設されました。現在の隅田水門は昭和四十四年(1969年)に改築されたもので、今も多くの船が行き来しています。

●完成年:    昭和四十四年(1969年)
●場所:     東京都墨田区墨田地先
●ゲートの大きさ:高さ8.35mx幅10.0mx1門(たたみ約50畳分)
●ゲートの重さ: 34トン
●ゲート開閉時間:約10分
●操作水位:   荒川水位A.P.+2.15mで隅田川へ流入したとき
         (荒川平常時水位より約0.9m上昇したとき)

A.P.:「Arakawa Peil」の略。東京湾岸島にある量水標の位を基準とした基本水準面のことで、
     荒川などが水位の基準として採用しています。標高(T.P.)0mのとき、A.P.+1.134mとなります。




ポイント12.荒川河川敷

荒川の緩やかな土手風景は、たびたび映画やテレビドラマの舞台となり、荒川の代名詞的な風景といえます。特に、堀切橋周辺の荒川が一望できる土手は、昭和五十四年(1979年)から放映された武田鉄矢主演のテレビドラマ、「3年B組金八先生」のロケが行われた場所です。ドラマは、荒川近くの中学校が舞台となっていて、荒川の土手や河川敷でのシーンがたびたび映し出され、特にドラマのオープニングで土手を歩くシーンは有名です。



荒川放水路で最大の弱点だった京成本線荒川橋梁の架け替え工事が始まっています。令和元年(2019年)10月の台風第19号による増水で、荒川橋梁の線路のスレスレまで水が迫りました。この箇所は線路を通すために堤防が一段低くなっていますので、ここが決壊すると東京の東部一帯は水没してしまうのです。現在は、暫定措置として、周辺の堤防の高さに比べて低い堤防部分に特殊堤(パラペット)が設置されています。

令和元年東日本台風時の状況

■戦後最大雨量(3日間流域平均)を記録した令和元年東日本台風による洪水では、
 ピーク時の水位が橋梁の桁下高まで、あと約1.2mの高さまで上昇しました。
■これを契機として、足立区・葛飾区は、「京成本線荒川橋梁に関する水防協議会」を設置し、
 令和二年7月以降、継続して水防訓練を実施しています。

京成本線荒川橋梁架替事業(事業概要)

京成本線荒川橋梁周辺の堤防高さ
■京成本線荒川橋梁は、荒川放水路の開削工事の際に架設されました。その後、広域的な地盤沈下が発生したため、
 対策として堤防のかさ上げを行いましたが、橋梁及び周辺の堤防の高さは低いままとなっています。
■現在、橋梁の桁下高は周辺の堤防の高さに対して約3.7m低く危険な状態となっています。
■事業の目的は、洪水を安全に流下させるために堤防をかさ上げすることで、堤防のかさ上げに支障な京成本線
 荒川橋梁及び綾瀬川橋梁の架替工事を行うものです。

事業期間・事業範囲・総事業費

■荒川の河口から10.67kmに位置する京成本線荒川橋梁は、昭和六年に架設され、
 東京都の京成上野駅と世界の玄関口である千葉県の成田空港を結ぶ重要な路線であり、
 京成電鉄全体では年間延べ約29、300万人(2019年度実績)が利用しています。
■橋梁の高さが低く、洪水の安全な流下の阻害となっている京成本線荒川橋梁を約15m上流に架け替えします。
■新橋に切替えた後、現橋の橋台を撤去し、周辺の堤防の高さに比べ低い堤防のかさ上げ・拡幅を行います。
■新橋への架替えに伴い、京成関屋駅から堀切菖蒲園駅までのアプローチ部の改良も行います。
■令和五年2月1日時点の買収部分における用地取得率は、約80%です。




荒川河川敷は、豊かな自然と多様なレクリエーションが楽しめるエリアです。ウォーキングやサイクリングに最適な遊歩道が整備されていて、大人から子どもまで楽しめるスポットが集中しています。河川敷の広場では、よくフライングディスクの練習をしている大学生を見かけます。フライングディスクは回転させて投げて遊ぶ円盤(ディスク)、あるいは円盤を用いた競技の名前です。円盤は通常プラスチック製で、直径約20センチメートルから25センチメートル程度のものが多く、手で勢いよく回し投げると揚力が生じるよう設計されていて、そのまま手で受け止められる。用具が手軽で、どこでも練習できるため、男女問わず楽しめるスポーツです。



荒川を跨ぐ東武線の鉄橋の手前で河川敷を出て土手に上がり、土手下から旧水戸街道の道筋に出ます。



ポイント13.清亮寺

清亮寺は日蓮宗の寺院で、久榮山清亮寺と号します。開山は元和五年(1619年)と伝えられ、本尊は一塔両尊四士です。本堂は天保四年(1833年)の再建と伝えられ、山門は昭和六年(1931年)に再建されました。

清亮寺

日蓮宗、久榮山清亮寺と号す。元和五年(1619年)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸街道入口のこの地に創建された。かつて水戸街道に面して古松が茂り、水戸藩主の徳川光圀公が槍を立てかけたという「槍掛けの松」が有名であった。本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦如来、右に多宝如来、四菩薩、四天王、文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の十五躯の木像で構成されている。本堂は天保四年(1833年)再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建造物である。墓域には、庚申塔一基(足立区登録有形民俗文化財)や、明治初頭に日本医学発展のために腑分(解剖)された囚人十一名を供養した解剖人塚(足立区登録有形文化財)がある。また、明治五年(1872年)に千住で生まれ、京都帝国大学教授を務めた著名な歴史学者内田銀蔵博士の墓もある。昭和六年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久榮山」(足立区登録有形文化財)の書は、中国南北朝時代に発展した六朝風の書体を得意とした書家の中村不折によるもので、不折は洋画家としても知られ、夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を描いた人物でもある。




山門にある「久榮山」の扁額は中村不折の書です。



本堂は総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しています。



かつて山門のすぐ近くに、水戸黄門が槍を立てかけたということから名付けられた「槍かけの松」がありましたが、残念ながら枯れてしまいました。墓地入口付近にある「解剖人墓」は、明治三年(1870年)に小塚原の刑場で処刑された後、ここで腑分け(解剖)された11人の罪人の戒名・執刀日・俗名・年齢を刻み供養しています。明治の外科医学がここから始まったともいえる貴重な資料です。また、明治五年(1872年)に千住中組(現在の千住仲町)で生まれ、東京帝国大学を卒業し、明治三十九年(1906年)に京都帝国大学の教授となり、我が国で経済史学を樹立した経済学者内田銀蔵博士の墓もあります。

「槍掛けの松」 久榮山 清亮寺

清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道(水戸海道)です。江戸時代初期の元和五年(1619年)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道(日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は「名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない」と、粋な計らいをしました。以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。写真は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災 以前に撮影されたものです。大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向う側にまで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。しかし、樹齢三百五十年を数えた名松は、惜しくも昭和二十年ごろに枯れてしまいました。南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた棹石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向う側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶことも出来る貴重な資料といえます。




拡大写真です。



ポイント14.名倉医院

土手を下りた先に、江戸時代から骨接ぎで名を馳せた名倉医院があります。

千住名倉医院

骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716年〜1736年)に千住へ移り、明和七年(1770年)に業祖名倉直賢が接骨医を開業したと伝わる。三代尚壽が嘉永元年(1848年)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と交流した。特に四代彌一の交流は幅広く、松方正義、橋本雅邦、菱田春草、横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派絵師・村越向栄と親交し美術や文化の遺産を伝えた。千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。




広場の奥には、立派な長屋門と蔵が残っています。



診察室は日本家屋の中にあるのかな?



名倉医院の直ぐ先に、下妻街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て下妻街道の旅に出たのでした。



その先の四つ角の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て水戸街道と佐倉街道の旅に出たのでした。



四つ角の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。



その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。



宿場通りに入ります。右手に「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。



ポイント15.横山家・絵馬屋

宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。横山家住宅があります。

横山家住宅

横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。




蔵の造りが図解されています。

横山家の蔵(非公開です)

江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を 埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。

天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が わかります。

外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。

外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。

腰巻部分には煉瓦が使われています。

入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。




戸口は街道から一段下がっていて、上にいる客を下から迎える形となっています。



家屋の奥には白壁の蔵が残っています。



横山家住宅の向かいに、吉田家があります。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。

千住絵馬屋・吉田家

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。




ポイント16.千住本町公園

千住本町公園に戻ってきました。



バードコートは、ミシュラン1つ星に輝いたことで知られる焼き鳥の名店です。締まった肉質と旨みが評判の奥久慈しゃもを使用し、繊細な職人技で焼き上げた串は絶品です。丸鶏で仕入れるため希少な部位も並ぶほか、鶏を丸ごと楽しめるコースも人気です。店主自ら生産地に赴いたというブルゴーニュワイン、焼き鳥に合うようメーカーと調整したアウグスビールなど、あらゆる品にこだわりが光ります。それぞれの生産者の思いを大切にした、絶妙な味わいを堪能できます。



ゴール地点の北千住駅西口に戻ってきました。



ということで、足立区で五十一番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 51.千住名所巡りコース」を歩き終えました。次は足立区で五十二番目となる「E−千住・新田エリア 52.小台・宮城・新田巡り隅田川コース」を歩きます。




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