E−千住・新田エリア 52.小台・宮城・新田巡り隅田川コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「E−千住・新田エリア 52.小台・宮城・新田巡り隅田川コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年2月に改めて歩きました。

スタート地点:日暮里・舎人ライナー足立小台駅東口

 1.隅田川河畔道

 2.小台駅

 3.隅田川河畔道

 4.都営宮城第3アパート

 5.江南中

 6.宮城コミュニティ図書館(平成三十年【2018年】3月13日を最後に閉館しました。現在は更地になっています。)

 7.豊島橋

 8.豊島五丁目

 9.新豊橋

10.新田さくら公園

11.新田橋

12.足立新田高

13.荒川土手

14.鹿浜橋

15.都市農業公園(毎月第一・第三水曜日は休館)

ゴール地点:都市農業公園バス停


スタート地点の日暮里・舎人ライナー足立小台駅東口から歩き始めます。



ポイント1.隅田川河畔道

足立小台駅とケーズデンキの間の通路を隅田川方向に進みます。隅田川の護岸で右折しますと、手前に日暮里・舎人ラーナーの隅田川橋梁、その隣に尾久橋が架かっています。尾久橋は、尾久橋通りを通し、北岸は足立区小台1丁目・南岸は荒川区東尾久8丁目の町域になります。この地域には、かって右岸の上尾久熊野前から左岸の江北村にかけての「熊野の渡し」がありました。尾久橋の橋名は、この渡しに由来しています。架橋に際しては、予定地の地盤が軟弱だったため、3径間連続鋼床版箱桁橋が採用されました。1968年に幅員12.0メートルの橋として上流側が完成し、その後1979年に下流側に拡張工事が行われました。この区間は荒川と隅田川が接近しているため、北岸部で荒川に架かる扇大橋と連続するような形になっています。



遊歩道が整備された隅田川河畔道を上流に向かって進みます。途中で護岸壁が視線よりも高くなり、隅田川は全く見えません。小台1丁目地区は荒川と隅田川に挟まれた水辺環境豊かな地区であり、かつては区内工業の中心地でしたが、平成八年に日暮里・舎人ライナー足立小台駅の開設を契機として、良好な市街地の形成を図っていくため、小台1丁目地区計画が策定されました。令和六年には、高台等を活用した水害時の地域の安全性の向上を目標に加え、堤防整備事業と大規模工場跡地の土地利用転換に合わせて地区整備計画を定める変更が行われました。現在、荒川の一部ではスーパー堤防が整備され、隅田川沿いの一部でも堤防整備が進められています。堤防整備事業と大規模敷地の土地利用転換に合わせて、地区計画整備計画を定めて街造りが進められています。



護岸壁が途切れた先に小台橋が架かっています。小台橋は、小台通りを通し、北岸は足立区小台2丁目・南岸は荒川区西尾久3丁目の町域になっています。架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡しとも称された)」があり、江戸時代から江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていました。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用しました。小台橋が最初に架橋されたのは昭和八年(1933年)で、関東大震災後の都市復興事業により架橋されました。いわゆる「震災復興橋梁」ではありませんが、復興都市計画に基づいて架橋されたものです。その後老朽化によって、平成四年(1992年)に現在の橋に架け替えられました。架け替え工事に際して、既存の橋の下流側に仮設橋を設置し、その後に本橋部分を撤去し新たな橋を設けるという時間と費用の掛かる方法が用いられました。その複雑な工事によって造成された部分を活かして、現在の小台橋の端部分の歩道は広いテラス状になっています。



小台橋を渡ります。橋の欄干には、昔の風景を描いたレリーフが取り付けられています。都電は小台橋を通っていなかった筈なので、この絵は荒川線の電車をイメージしたものと思われます。



小台橋みずき通りを進みます。



ポイント2.小台駅

都道306号線の中央部分に荒川線の線路が敷かれ、交差点を挟んで上りと下りの小台駅が設置されています。



小台駅は、大正二年(1913年)4月1日に、王子電気軌道三ノ輪(現在の三ノ輪橋)〜飛鳥山下(現在の梶原)間の開業時に設置されました。昭和十七年(1942年)2月1日に東京市への事業譲渡によって東京市電荒川線の停留場となりました。翌年7月1日に都制施行によって東京都電車(都電)の停留場となりました。停留場名の「小台」は、駅北側の隅田川を挟んだ対岸の足立区の地名で、小台橋を渡って連絡できます。



小台橋みずき通りを戻って小台橋を渡ります。



小台橋南詰の歩道テラスに銅像が建っています。「空を見る少女」と題された彫刻家の掛井五郎氏が制作したブロンズ像で、半ば横たわるような姿で空を見上げる少女の表情は、どこかとらえどころのないまなざしが印象的です。



小台橋北詰の歩道テラスには2枚の石を重ねたような彫刻が置かれています。巨大な斤のようにも見えますが、何を意図しているのか分かりません。



ポイント3.隅田川河畔道

隅田川河畔道に戻ります。都立小台橋高等学校は昼夜間定時制で、昼間の午前部と午後部、そして夜間の夜間部を設置する三部制となっています。三修制のため修業年限は3年制と4年制の両方から選べます。総合学科の特徴として、多様な科目を選択して普通教育と専門教育を総合的に行うことで、多様な能力・適性などに対応した柔軟な教育を行っているという点があります。「支援教育を行う普通学校」のひとつで、チャレンジスクールに指定されています。チャレンジスクールの特徴としては、小・中学校時代などに不登校経験を持つ生徒や、長期欠席などの原因で高校を中退した生徒を受け入れているという点があります。開校時は仮設校舎での授業を行なっていましたが、2024年4月から新校舎の供用を開始しています。元は都立荒川商業高校という名称でしたが、足立地区チャレンジスクールに指定され、令和四年(2022年)4月1日に小台橋高等学校として開校しました。



隅田川の対岸に、あらかわ遊園の大観覧車が遠望できます。荒川区立あらかわ遊園は、荒川区西尾久にある遊園地で、平成三十年(2018年)12月1日から工事に伴って長期休園中となっていましたが、令和四年(2022年)4月21日に再開園しました。再開直後だったんですね。あらかわ遊園は、大正十一年(1922年)に開園した老舗遊園地で、都内唯一の公営遊園地かつ現存する遊園地では日本で3番目に古い遊園地です。面積は約3万平方メートルあり、隅田川沿いに位置しています。低年齢層の子供が楽しく遊べることに特化していて、アトラクションは定番ものが一通り揃っていますが、小学校低学年層に合わせたレベルで、激しい動作のアトラクションはありません。100円から200円程度という入園料や、アトラクション利用料の安さが特徴です。アトラクション以上に、小動物園やピクニック用の広場・遊具施設・水遊び場などが充実していて、園内の装飾やレイアウトも清楚で、全体的に大型の公園に近い趣きがあり、落ち着いた雰囲気があります。2022年のリニューアルオープン後は、リニューアル前よりも遊具の大型化やバリアフリーに対応し、観覧車のライトアップとイルミネーションや夜間開園も予定されています。この地にはかって煉瓦工場がありましたが、失火で操業を停止した後に私立の遊園地が開園しました。当初は大人向けの温泉大浴場や演芸場・料亭などが中心でしたが、昭和二十五年に荒川区の区立遊園地になり、大改装して現在のような形態になりました。大観覧車は、円環の直径が38m・高さ40mとリニューアル前より大きくなり、ゴンドラは1台6人乗りの計28台で、4台はガラス張りの「スケルトンゴンドラ」となっています。ゴンドラには、クーラーと座席下のヒーターが搭載され、1周約9分で回転します。



江南センターは、区民事務所・住区センター・図書館の複合施設で、平成三十年(2018年)3月26日にオープンしました。住区センターには、学童向けの児童館と高齢者向けの悠々館が併設されています。図書館は、平成三十年(2018年)4月13日に、足立区立宮城コミュニティ図書館が移転して、名称も変更されてリニューアル開館しました。



ポイント4.都営宮城第3アパート

都営宮城第3アパートの手前で隅田川河畔道を下り、北方向に進みます。都営宮城第3アパートは、昭和四十四年(1969年)に建設され、50年以上経過している激渋団地です。昭和の団地で必ず見かけた高い給水塔も残っています。給水塔は、建物よりも高い位置にある水槽に水を貯め、重力を利用して一定の区域に安定した水圧で水を送るための施設です。団地に給水塔が設置されたのは、主に昭和三十年〜昭和五十年です。団地の給水塔は、団地という広いエリアの中で配置まで考慮されていて、団地のランドマークにしようという意図が感じられるところが魅力です。団地によっては、団地内の集会所やお店などがある中心エリアに給水塔を設置しているところもあります。特に高度経済成長期には、地方から大都市へと人が多く集まり、団地に住むようになりました。地縁や血縁でつながっていない人たちの交流を育むため、団地内に集会所や公園などを集約させ、団地のシンボルとして給水塔が設置されることもありました。現在では、ポンプの性能向上に伴って水圧を上げるためにわざわざ高い場所に水を貯める必要がなくなったこともあり、年々給水塔の数は減り続けています。



全棟が南向きなので、年中日当たりはいいのでしょう。看板には、懐かしい石原慎太郎都知事の名前が。



ポイント5.江南中

都営宮城第3アパートのはす向かいに、足立区立江南中があります。江南中は昭和二十八年(1953年)に開校し、現在は生徒数160名で、クラスは各学年2組という小規模校です。



ポイント6.宮城コミュニティ図書館

江南中の少し先に、足立区立宮城コミュニティ図書館があります(ありました)。宮城コミュニティ図書館が足立区の3館目の図書館として開設されたのは昭和三十七年(1962年)2月でした。それ以前に、梅島図書館と千住図書館が開設されていましたが、梅島図書館は昭和四十四年(1969年)に廃館・グレードアップして当時の中央図書館になり、千住図書館は平成十二年(2000年)廃館になりました。なので、図書館として継続しているものの中では宮城コミュニティ図書館が一番歴史のある図書館だったのです。(でした)。しかし、宮城コミュニティ図書館も平成三十年(2018年)3月13日を最後に閉館し、移転したうえで名称を変えて、先ほど通った江南コミュニティ図書館として平成三十年(2018年)4月13日に開館しました。江南コミュニティ図書館の蔵書を見ると、殆どの本は「宮城コミュニティ図書館」と名前の入った蔵書バーコードがついています。



宮城交差点に出て、都道501号線を王子方向に進みます。この通りには多くの都バス路線があります。



ポイント7.豊島橋

宮城交差点の手前に、隅田川に架かる豊島橋があります。豊島橋の北岸は足立区宮城2丁目・南岸は北区豊島5丁目となり、橋名は北区の地名に因んでいます。平成十三年(2001年)に竣工しました。この地には、現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に、鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し(豊島の渡しとも)」があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わっています。最初の豊島橋は、大正十四年(1925年)木橋として架けられました。初代の豊島橋は、荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていましたが、老朽化によって昭和三十五年(1960年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架されました。なお旧江北橋はすぐに撤去されましたが、旧豊島橋は昭和四十二年(1967年)まで存在していました。二代目の鉄橋は平成七年(1995年)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て、平成十三年(2001年)に現在の橋になりました。



2022 年に訪れたときは、橋のリニューアル工事が行なわれていて、まるでレゴブロックのようでした。



ポイント8.豊島五丁目

豊島橋を渡った先は、豊島五丁目の町域になります。「豊島」の地名は、かつてこの地域に深く海が入り込んでいて、多くの島があったことに由来するといわれています。701年に制定された律令制の郡制の後、武蔵国の郡名に用いられた記録が残っています。隅田川が大きく蛇行し、「天狗の鼻」といわれる部分の突端地域になります。



豊島五丁目には、かって日産化学工業の王子工場がありました。日産化学工業王子工場は、明治三十年(1897年)に関東酸曹株式会社がこの地に建てた硫酸・曹達(ソーダ)などを生産する工場が始まりでした。この関東酸曹の王子工場では、日露戦争後の銅の需要増から敷地内に製銅工場も建てられ、第一次世界大戦後の不況で製銅事業を継続できなくなるまで銅が造られていました。その際、銅を精錬する過程で出た゚(からみ・スラグ)を型で固めた「゚煉瓦」も製造され、この販売が副業的な形で行われていました。このため、北区内ではこの゚煉瓦を街中でよく見かけます。その跡地に、昭和四十七年頃から日本住宅公団(現在のUR:都市再生機構)によって、およそ5、000戸の豊島五丁目団地が建設され、現在も当時の建物が残っています。広々とした空間に大型の住棟が並んでいる様には圧倒されます.1号棟から12号棟まであり、3・4・12号棟以外はツインコリダー型と呼ばれる中央に吹き抜けを設けて2列の廊下をもつタイプになっています。また、9・10・11号棟はV字型になっています。当時の建築基準法を遵守して建てられているため、基本的に14階建てとなっていますが、12号棟だけは7階建てです。近年は隅田川が眺められるように親水性を高めた公園が整備され、開放的でダイナミックな団地景観を醸成しています。



団地内には、1・5・6号棟に東豊名店街というショッピングモールがあり、団地住民の日々の買い物に利用されています。



今は懐かしいダイエーのお店も健在です。



豊島五丁目団地と都道501号線を挟んだ反対側は長らく雑草の生い茂る空き地となっていましたが、2019年にスーパーマーケット併設のビバホーム豊島5丁目店がオープンし、巨大なショッピングモールが誕生しました。



豊島五丁目交差点の角に、出版物を全国の書店に届けるために欠かせない機能である日販(日本出版販売)王子流通センターの巨大な建物があります。王子流通センターは1970年に開設された日販最大の流通センターで、書籍(新刊・既刊本及びコミック・文庫・新書)を扱っています。一日の取り扱いは180万冊、新刊は日に300点80万冊を扱い、在庫は約70万点・650万冊の規模となっています。



新豊橋南交差点を右折します。交差点の角に、トンボ鉛筆の本社ビルが建っています。トンボ鉛筆は、鉛筆や消しゴムなどの文房具を製造・販売する企業です。トンボ鉛筆は、日本の鉛筆製造元としては三菱鉛筆と共に大手で、鉛筆を始めとした文房具の「MONO(モノ)」ブランドで知られています。2007年には、消しゴム・修正テープ・スティック糊・テープ糊の国内シェアは1位となっています。「トンボ」を社名にしたのは、昆虫の「トンボ」は昔「あきず/あきつ=秋津、蜻蛉」と呼ばれ、日本も「秋津島(あきずしま)」の古称があることから、日本を代表する鉛筆でありたい、という思いを込めたものです。トンボの商標は昭和二年(1927年)から使用されていますが、英字ロゴは「Tombo」ではなく、末尾にwを付した「Tombow」が使用されています。これは墓を意味する英単語「TOMB」と間違われないようにしたものとされています。



ポイント9.新豊橋

新豊橋で隅田川を渡ります。新豊橋は、平成十九年(2007年)3月26日に供用を開始しました。北岸は東京都足立区新田、南岸は北区豊島で、橋名は両岸の地名に因んでいます。新「豊橋」ではないんですね。



新豊橋は、新時代を象徴する橋として土木学的に評価されています。



2008年度の田中賞を受賞しています。

新豊橋 田中賞(作品部門)受賞

新豊橋は、足立区新田地区と北区豊島地区において、地域に根ざした住民に支持される橋梁とするため、景観委員会と住民委員会を設けて、そのデザインの検討をしてきました。「周辺景観に調和する高さの低いアーチによって補鋼された新しい形式の実現」、「美しい4次曲線を用いた滑らかなアーチ」、「心地よい歩行空間をもたらすデザイン」など、新しい時代を象徴する橋として評価され受賞しました。

「田中賞」とは、昭和四十一年度に創設された日本の橋梁建設部門では最高に栄誉ある賞です。関東大震災後の首都復興に際し、帝都復興院初代橋梁課長として、隅田川にかかる永代橋、清洲橋など東京を象徴する名橋を生み出した、故田中豊博士の功績をしのんで設けられたものです。




2009年度の土木学会デザイン賞を受賞しています。

2009年度
土木学会デザイン賞
最優秀賞
新豐橋
土木學會

新豊橋は、「両岸に建設された建物とのスケールバランス」や「橋の細部まで丁寧にデザインされている」点が高く評価され、最優秀賞に選ばれました。本プレート( 独立行政法人 都市再生機構 寄贈)は、受賞の栄誉を長く後世に伝えるために設置するものです。




ポイント10.新田さくら公園

新田さくら公園は、足立区を流れる隅田川と荒川に挟まれた位置にある区立の公園で、工場跡地に大規模開発された住宅エリアに位置しています。



面積約25、000平方メートルの敷地内には、区内最大級を誇る約16、000平方メートルの芝生広場や大型の遊具があり、子どもたちに人気の公園です。夏のシーズンに開放されるじゃぶじゃぶ池では、シャワーから拭き出した水がさらさらと流れながら、広いプールに水を満たします。浅いプールには小さな子どもでも気軽に入り、水しぶきをあげて遊ぶことができます。また、約1700株・約640平方メートルの広さを占めるバラの花壇もあり、春と秋に見頃を迎えるバラは斜面一面を彩り、園路を歩くと香りも楽しめます。季節ごとに楽しめる公園です。



広い敷地を目いっぱい使ったコンビネーション遊具は贅沢の極みです。新田さくら公園にはそんな大型遊具が設置されています。異なる高さの遊具がいくつも連なっていて、リング状のトンネルや階段などでつながっています。



新田さくら公園のもうひとつの目玉は、全長21mのローラー滑り台です。2017年に実施された「あだちの公園遊具総選挙」では、好きな遊具の第一位に輝いた人気遊具です。滑り台は隅田川の土手の傾斜を活かして設置されています。高低差は緩やかなので対象年齢は3〜12歳に設定されていますが、未就学児には保護者が付き添うよう推奨されています。ローラー滑り台は、見た目より激しいカーブがやみつきになります。スピードがつくと、最後のカーブではまるでジェットコースターに乗った感覚になります。くねくねしたコースを安全に滑るためには、良い姿勢を保つための体幹が必要です。



ポイント11.新田橋

新田橋(しんでんばし)は隅田川に架かる橋で、北岸の足立区新田三丁目と南岸の北区豊島八丁目を繋いでいます。橋名は足立区の新田の地名に因んでいます。現在の橋は、橋長114.0m・幅員9.0mで、昭和三十六年(1961年)3月に竣工しました。この地には、かって「野新田(やしんでん)の渡し(馬場の渡しとも)」という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていました。昭和十四年(1939年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て現在の橋に架け替えられました。珍しいA字型をした橋脚は木橋時代の橋脚を模したものです。



2026年に再訪した時は、新田橋の架け替えに向けた工事が始まっていました。橋の架け替えには、準備期間を含めて20年近くかかるんですね。

新田橋架替整備事業について

事業概要
現在、新田橋の架け替えにあたり、仮橋へのライフライン移設工事を進めています。仮橋については、現在の予定では令和九年度の開通となる見込みです。仮橋の開通後、本橋の架替工事が始まります。本橋は工事着手後、概ね10年後の完成を目指しています。

今までの経過
令和元年度  新田橋仮橋架設工事 着手
令和二年度  新田橋仮橋架設工事 一部完了
令和三年度  スロープ部分の用地取得
令和四年度  スロープ(斜路付階段)設計
令和五年度  スロープ等設置工事

今後の計画
令和六〜八年度  仮橋へのライフライン(電力、水道管等)移設工事及びスロープ等設置工事
令和九年度〜   本橋架替工事




ポイント12.足立新田高

足立新田高は、昭和五十四年(1979年)に東京セロファン紙株式会社(現在の三井化学東セロ株式会社)工場跡地に開校しました。学校名は「江南高等学校」になる予定でしたが、地域住民の要望により「足立新田高等学校」の名称が採用されました。以前は入試で定員割れが相次ぎ、また他校との対立抗争等で風紀が著しく荒廃して一時は中退率が5割を超えるなど学校全体としては惨憺たる状況であり、1997年に開始された都立高再編計画では他学区の底辺校同様に廃校を検討されていました。この状況を改善するために、1997年11月に就任した鈴木高弘校長を中心として大掛かりな改革を実施することとなりました。その具体的な内容は以下の通りです。
  • 分割後期募集の実施と一般入試においての面接導入などの入試改革。
  • 3つの学系の設置(2年次以降に希望の学系を選択させる)。「スポーツ健康系」「福祉教養系」「情報ビジネス系」のいずれか1つに属し、選択した学系の科目群の中から興味のある科目や将来のために必要な科目を選択。また、現在では大学進学希望者に対しての支援も行われ、各学年につき1学級「進学特別クラス」を設置、受験対策の講習や勉強合宿を実施。
  • 制服選択制の導入。
結果的に入試倍率は急上昇し、中退率が大幅に減少した事で学校全体が落ち着きを取り戻しました。それに伴い部活動も活性化し、都立高校では唯一の相撲部や、2年連続3度目となるインターハイ出場を決めた陸上競技部などが好成績を収めています。また野球部は2006年選手権大会東東京大会でベスト4、2007年・2008年はベスト8、2009年ベスト16、2010年ベスト8の実力を持っています。



足立新田高等学校の校章は、古利根川の流れを治めて開拓に励んだ地域の「サクラ草」を象徴しています。三方に広がる葉は真善美へのあこがれを、中心の花は清楚でたかぶらぬ心を表しています。これらは、学校の誇りと自覚の象徴として日々大切にされています



ポイント13.荒川土手

環七に出て、荒川土手に繋がる階段を上がります。



荒川の河川敷は、ゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。場所によっては、利用されていない草地もあります。



ポイント14.鹿浜橋

鹿浜橋は、荒川(荒川放水路)に架かる都道318号環状七号線(通称:環七通り)の水道道路併用橋です。



鹿浜橋は、大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる橋では最上流に位置し、荒川の河口から18.75kmの地点に架かっています。完成したのは昭和四十年(1965年)で、総延長は922.0メートル・橋長は451.3メートルです。本橋部を挟むように右岸側に長さ244.6メートル・左岸側に長さ226.1メートルの取り付け道路を有しています。また、水道道路併用橋でもあり、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本・工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持ちあわせています。首都高速道路川口線の鹿浜橋出入口とも接続し、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の鹿浜一・二丁目を繋いでいます。橋名は旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田に因んでいます。鹿浜の地名の由来は諸説ありますが、鹿浜は江戸時代に「シシハマ」と呼ばれていました。「鹿(シシ)」の語源は危険な獣の総称、「浜(ハマ)」は水を含んだ土地のことです。この辺りは獣が住む湿地で、後に「シシ」が「シカ」に変化して「鹿浜(シカハマ)」になったという説が有力です。


左が荒川の上流側、右が下流側です。


鹿浜橋を渡って荒川の土手上に設けられた遊歩道を進みます。荒川堤は、かって江北五色桜として有名でした。

荒川堤五色桜碑 一基

五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。




冬の快晴の日には、足立区内からも富士山の姿を見ることができます。夕日が富士山の山頂付近に沈み、あたかもダイヤモンドが台の上で輝くように見える現象は「ダイヤモンド富士」と呼ばれています。この現象が観察できるのは、足立区内では11月と1月で、これまで足立区役所庁舎や都市農業公園などで観察されています。また、富士山への良好な眺望が得られる地点を選出した、国土交通省の「関東の富士見百景」では、都市農業公園など荒川下流の5地点が選ばれ、紹介されています。

関東の富士見100景
富士山の見えるまちづくり

地点名 荒川下流からの富士




足立区の公園でよく見かけるワシントンからの里帰り桜の木が植えられています。

ワシントンからの「里帰り桜」

足立区江北の一帯は、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。「五色桜」とはソメイヨシノのほかに、当時珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色、濃紅色などに彩られ、五色の雲がたなびく如く見えたことからこの名がついたといわれています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、十二品種三千本の桜苗を、首都ワシントンに贈った話は有名ですが、このときの桜が五色桜でした。その後、ワシントンのポットマック公園は世界的な桜の名所となりました。しかし、本家の「荒川の五色桜」は、堤防工事や公害の影響で衰退してしまいました。足立区では、この由緒ある「五色桜」を復活させるため、区制五十周年記念事業として、「桜の里帰り」を計画しました。そして昭和五十六年二月、多くの関係者の努力と米国の協力により、主としてポットマック公園の桜から枝を採取し、三十五品種三千本の「桜里帰り」が実現しました。ここに植えられている桜は、この里帰りした桜の一部です。区内の緑化、美化のために、みなさんで大切に育てていきましょう。




芝川は足立区と埼玉県川口市の境界を流れる一級河川です。荒川との合流部には芝川水門橋が設置されています。



ポイント15.都市農業公園

都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。



入口の正面には、都市農業交流館があります。



館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。



園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。

江北五色桜

昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。




芝川沿いには梅林もあります。

生きものとの共生 梅林

かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。




子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。



園内には、田畑・果樹園・温室など、東京郊外で行われていた農業を伝える目的の施設があります。



芽が出たばかりの野菜畑もあります。



足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2026年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。

旧増野製作所長屋門

現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。




裏から見るとこんな感じです。



高台には古民家が移築・保存されています。

旧和井田家住宅(母屋) 一棟

この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。




今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。



間取りが詳しく説明されています。

足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅

概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。

間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。


【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。


母屋と長屋門の間に井戸が見えます。

旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1868年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。




夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。



荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。



ゴール地点の都市農業公園バス停に着きました。



ということで、足立区で五十二番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 52.小台・宮城・新田巡り隅田川コース」を歩き終えました。次は足立区で五十三番目となる「E−千住・新田エリア 53.千住七福神巡りコース」を歩きます。




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