- E−千住・新田エリア 53.千住七福神巡りコース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「E−千住・新田エリア 53.千住七福神巡りコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年元旦に改めて歩きました。
スタート地点:北千住駅西口
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1.千住本町公園
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2.千住本氷川神社
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3.東京芸術センター
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4.氷川神社
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5.千住仲町公園
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6.稲荷神社
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7.八幡神社
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8.千住神社
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9.元宿神社
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10.千住公園(千住町公園は誤り)
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11.氷川神社
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12.生涯学習センター
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13.千住本町公園
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ゴール地点:北千住駅西口
スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.千住本町公園
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千住本町公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。
サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。
入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。
公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。
園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。
- ポイント2.千住本氷川神社
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千住本氷川神社は、千葉氏によって徳治二年(1307年)に牛田(千住曙町)の地に創建され、江戸初期に現在地に分社を建立しました。明治四十三年(1910年)、荒川放水路建設の際に牛田氷川神社を合祀しました。
旧社殿は、昭和五十九年(1984年)11月14日に足立区の有形文化財(建造物)に登録されました。向拝は千鳥破風(ちどりはふ)、唐破風(からはふ)の二重破風で形成されていて、頭貫(かしらぬき)や虹梁(こうりょう)の部分には、龍や鳥類の彫刻が施されています。
千住本氷川神社旧社殿
千住本氷川神社は、徳治二年(1307年)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治四十三年(1910年)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和四十五年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間(1.8メートル)余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒回りは二重(垂木)となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。
千住本氷川神社は、千寿七福神の大黒天を奉祀しています。千寿七福神巡りは、千住で居酒屋を営む氷見富次さんらが中心となり、平成五年(1993年)に7つのご神体を揃えて開始されました。
千住本氷川神社の境内では、毎朝6時半からラジオ体操が行われています。 昭和二十七年に当時の千寿第一小学校(現在の千寿本町小学校)の夏季休暇中のラジオ体操の場として境内を貸したのが始まりで、昭和三十年頃からは年中無休の行事となり、現在も続いています。境内には、年中無休のラジオ体操が開始されてから三十周年を記念した石碑が建てられています。
千住本氷川神社の祭神は素盞鳴尊で、天照大神の弟神であり、八頭蛇退治で知られているように智・仁・勇の徳を具えた神です。本殿は、昭和四十五年に鉄筋コンクリート銅板葺きで新築されました。
境内には、「年越しの大祓」で使われた茅の輪が残っています。
茅の輪
六月・十二月の大祓いに罪穢を又疫病を祓う祭具であるが、本神社の祭神素盞鳴尊の八頭の大蛇退治に起因すると言われている。即ち茅の輪は、大蛇を形どって輪とし、これを潜り越える事によって自らの罪穢を祓い疫病も避けられると信じてきた。故に昔は小さい茅の輪を腰につけて外出したと言う。當時の言動の中で絶対と言うことの無い私どもにとって敬虔な気持ちでの反省の区切りと魂を清める神事として行いたい。作法は茅の輪前で一礼し、茅の輪をくぐり左に廻り次に、茅の輪をくぐり右へ廻り、次にもう一度茅の輪をくぐり、左に廻り終わって神前に進んで参拝する。
みな月の夏越の祓いする人は
千歳のいのち伸ふと言うなり
みとがめを祓いつくして歳の暮
身に新玉の春ぞ迎うる
宿場町通りと国道4号日光街道の間の路地を進みます。建物の壁に、新聞か雑誌の切り抜きをベタベタと貼った建物があります。看板には、「幸せごはん 芳味」とかかれています。外見は異様ですが、普通の定食屋さんだそうです。定食の内容は、玄米御飯・ひじき煮・きんぴら炒め・長芋と味噌汁・小鉢・お新香など、食品添加物を使わない健康食が出されるとのことです。
徳多和良(とくだわら)は、北千住を代表する名店です。長い間、洗練された和食を立ち飲みスタイルで楽しむことができる「割烹くずし」として人気を集めていましたが、2023年10月に一旦閉店し、改装を経て2024年1月にリニューアルオープンしました。リニューアル後は立ち飲みではなく着席スタイルのお店となり、ランチ営業も始められました。
2022年に訪れた当時のメニューです。有名店にしては驚くほど安いですね。
徳多和良の直ぐ先にある勝専寺(しょうせんじ)は、山門の色が赤いことから別名「赤門寺」と呼ばれています。勝専寺は、新井政勝により元仁元年(1224年)に開基されました。寺名は開山の勝蓮社専阿が由来となっています。新井政勝の父である新井政次が荒川(現在の隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だといわれています。この千手観音は勝専寺の寺宝となっていて、地名「千住」の由来ともいわれています。江戸時代は、鷹狩のために訪れた江戸幕府の将軍のみならず、日光例幣使や輪王寺門跡の休憩所や宿泊施設の役割を果たしました。境内には明治時代に再建された鐘楼があり、再建に際して時の鐘が聞こえる南足立・南葛飾・北豊島の三郡から資金を募ったとのことです。その側壁に記念の碑文がはめ込まれていますが、題字の「鐘楼建築記念碑」は日本亡命中の朝鮮国の政治家金玉均の筆になるものです。
三宮神山大鷲院勝専寺
「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260年)勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。ほかに一月と七月の十五・十六日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789年)の木造閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治十二年(1879年)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。
東京芸術センターのひとつ北側の裏通りに、「千住町役場跡」の石碑が建っています。現在は「あだち産業センター」になっていますが、かっては旧足立区役所の敷地の一部でした。
- ポイント3.東京芸術センター
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東京芸術センターは、ほんちょう商店街の外れにある総合施設です。収容人員400名のホールを備え、演劇などの舞台芸術を始め、演奏会やファッションショーなどの芸術活動・シンポジウム・展示会といった多彩なイベントに対応している「天空劇場」や、年間を通して名画の上映を行っている「シネマブルースタジオ」・ミーティングの他、サークル活動や研修会など多目的に利用可能な「会議室・和室」が完備されています。他にも、撮影スタジオとして利用できる「ホワイトスタジオ」・ピアノが設置してある「ピアノラウンジ」・多目的に利用できる「ヨガスタジオ」・レストラン「タピ ルージュ」などの施設もあります。この地には、足立区の前身の千住町時代から庁舎がありましたが、老朽化により、平成八年(1996年)5月に中央本町に移転しました。その跡地に建ったのが東京芸術センターです。
東京芸術センター前の広場に、千住宿問屋場・貫目改所跡の石碑が建っています。
千住宿問屋場・貫目改所跡
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695年)に設けられました。また、寛保三年(1743年)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂飛び交ったとの話しもあります。江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成十二年(2000年)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
こんな配置になっていました。
東京芸術センターに隣接して、交差点角に足立成和信用金庫があります。足立成和信用金庫は、平成十四年(2002年)12月16日に足立信用金庫と成和信用金庫が合併して誕生しました。
巨大な壁画(パンチングアート)が描かれています。パンチングアートとは、大小のドット(点)を大きさやピッチを調整して鉄板やステンレス板などに大小無数の孔を彩る技術をいいます。
「千住川」
長谷川 雪旦(はせがわ せったん)画
(江戸名所図会より 江戸後期の画家 1778年〜1843年)
荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでおります。当時、千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地で、この辺りは高瀬舟の往来で賑わっておりました。当金庫では創立90周年を記念し、本店新築の際、当時の千住の地の賑わいの様子を描いた「千住川」の絵をパンチングアートとし歴史の伝承をしております。
足立成和信用金庫の店頭に芭蕉像が立っています。
芭蕉像 チェンソーカービング〔材:鹿沼の杉〕
私、松尾芭蕉は、三百三十年前、元禄二年三月二十七日(旧暦)、ここ千住を矢立て初めの地として「おくのほそ道」の旅に出ました。道中三日目、鹿沼に着き、笠を新調して古い笠は光太寺に置いて翌朝日光に向かいました。その笠を供養していただいたお寺の「笠塚」には、私の弟子たちも訪れてくれたようです。鹿沼では、今も毎年五月に「芭蕉の笠替え行事」が行われています。また、私は、鹿沼で「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みましたが、その句碑を屋台のまち中央公園内に建てていただきました。私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。どちらも鹿沼の特産ですが、あの時食べたかどうかは忘れてしまいました。今は、「芭蕉の蕎麦餅」というお菓子や「芭蕉の蕎麦ご膳」というメニューもあるそうです。そして、鹿沼は「木のまち」。この像の素材は鹿沼産の杉、チェンソーアーティスト小林哲二さんにチェンソーだけで彫りだしてもらいました。鹿沼市内にはこのような私の木像が五か所に設置されています。足立区と鹿沼市は友好都市(平成四年提携)です。両区市民のスポーツや文化の交流、企業や団体の交流も盛んになりました。私は三日かかりましたが、今は東武鉄道の特急で三駅目、東北自動車道でも短時間です。自然、グルメ、祭りやイベントなど魅力いっぱいの鹿沼に旅し、芭蕉像にも会いに行ってください。私は、三百三十年ぶりに旅立ちの地に立って、両区市の繁栄と道行く人々の旅の安全を祈っています。
足立成和信用金庫の告知分が貼られています。
足立区初の松尾芭蕉木工像設置について
足立成和信用金庫(本店:東京都足立区、理事長:土屋武司)では、本店を置く北千住が松尾芭蕉「奥の細道」出発の地という由縁と、令和元年は奥の細道紀行330年という記念すべき年でもあること、また、地域活性化(商店街・町会)および地域歴史探求への貢献に寄与できればと考え、鹿沼相互信用金庫・鹿沼市・栃木県集成材協業組合の協力のもと、足立区初の松尾芭蕉木工像(全国10体目の木工像展示)を本店入口に設置し、先日引渡し式を執り行いました。当金庫本店へお越しの際は、是非ご覧ください。
足立区と栃木県鹿沼市(友好自治体都市 1992年10月締結)の関係もあり、足立区に本店所在地を置く当金庫と鹿沼市に本店所在地を置く鹿沼相互信用金庫とは、当金庫後援「千本桜まつり」にて鹿沼相互信用金庫のお取引様に出店していただくなど良好な関係にあります。また、鹿沼市は「木のまち鹿沼」としても有名であり、松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で鹿沼市に一泊した折に詠んだ俳句が句碑となり、市内にも5体の芭蕉木工像(チェンソーアーティスト作)が展示されておりますので、鹿沼市へご訪問の際には是非ご覧ください。
足立成和信用金庫前の交差点の向かいの歩道の植え込みの端に、「千住一里塚跡」の石碑が立っています。旧日光街道で日本橋から二里目の一里塚が設けられていた場所です。昭和四十九年(1974年)に建立されたそうです。
その向かい側には、千住高札場跡の石碑が建っています。ここは千住宿の外れに当たったことから高札場が設置されたのでしょう。平成元年(1989年)に建立されたそうです。
東京芸術大学(東京藝術大学)は、上野公園に本部を置く日本の国立芸術大学で、略称は藝大または芸大です。明治二十年(1887年)に図画取調掛と音楽取調掛をそれぞれ改組した東京美術学校と東京音楽学校を前身として、昭和二十四年(1949年)に新制大学として設置されました。日本の芸術系大学における最高峰と位置付けられ、少数精鋭に対する密度の高い指導を通して第一級の芸術家・教育者・研究者を養成・輩出しています。
千住キャンパスは平成十八年(2006年)9月に開設され、大学院音楽研究科音楽文化学専攻の一部と音楽学部音楽環境創造科が置かれています。主な施設としては、試聴室としての国際規格に基づき設計されデジタルコンソールを備えた音響制作スタジオ・教育目的にアナログミキシングコンソールが導入された録音調整室・浮き床構造や空調設計により室内騒音を抑えるとともに演奏者にとっても理想的な音響となるよう設計された大規模録音スタジオ・22.2マルチチャンネル音響の制作に対応した中規模スタジオ・ダンスや演劇などのイベントに対応できるホールがあります。
芸大千住キャンパスの向かいから路地を進みます。住宅地の中に、私のHPと同じ名前のイタリアンレストランがあります。夫婦二人で営む「WINE & DINE Vinogris」は、豚牛鶏はもちろん、羊・馬・猪・鹿など、様々な肉を使った自家製ハムを常時10種類用意しています。ラインナップは季節によっても変わり、合計で50種類以上にもなるのだそうです。カカオ・マーマレード・イカ墨をサラミに練り込むなどの自家製ならではの創意工夫が様々な料理で楽しめます。肉だけでなく、足立市場で仕入れた魚や野菜を使った料理も充実しています。ソムリエが厳選した500本のワインが揃い、好みの1本を選ぶアドバイスもしてくれます。因みに、私のHPのタイトルは、高島屋のお客様向け刊行物の題字から借用しました。「Osanpo」は、食べ過ぎ・飲み過ぎで太った体をダイエットするために始めたお散歩で追加したものです。
- ポイント4.氷川神社
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地名を冠して仲町氷川神社とも称される氷川神社は、延喜年間(901年〜923年)に創建されました。元々は現在地よりも南東の牛田寄の元宮という所に里人が勧請しましたが、その後に荒廃していました。慶長三年(1598年)に石出掃部介義胤がこの地を支配し、元和二年(1616年)に荒川水除堤を作る時に、この神社の土地がその敷地にあたるために、現在地に遷座し、社殿を建てると共に、改めて武蔵国一の宮氷川神社の御分霊を勧請してこの地の鎮守としました。案内板にある「戊戌年」とは、西暦年を60で割って38が余る年をいいます。
MOD(YEAR、60)=38
となる年ですかね。
仲町氷川神社
仲町氷川神社は素戔嗚尊を祭神とし、社伝によれば元和二年(1616年)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝えられている。
- 関屋天満宮碑
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関屋天満宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社 小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故二鳥居二関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」 とある。関屋から移転した時代は不明である。文化四年(1807年)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが造立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。
- 金銅装神輿
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総高224.5cm、胴部幅63.5cm、基部幅116cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
- 弁天像供養庚申塔
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境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(1689年)重陽(旧暦九月)二十八日の日付を持ち、十名の造立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされている。昭和五十八年十二月に区登録有形民俗文化財となった。
- 四神文鏡(天保戊戌年在銘)
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天保九年(1838年)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。付属する鏡立は、嘉永七年(1854年=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録 文化財(工芸品)となった。
仲町氷川神社は、千寿七福神の弁財天を奉祀しています。
千寿弁財天(千寿七福神)
祭神 市杵島比売命
弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。この弁天像は供養庚申塔として元禄二年(1689年)に造塔されたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています。
弁財天様は、洞の中に鎮座おわしています。
- ポイント5.千住仲町公園
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仲町氷川神社のはす向かいに、墨堤通りに面して区立の千住仲町公園があります。
面積3、240平方メートルの敷地の中央には、噴水広場が設けられています。広場を取り囲むように様々な遊具が点在しています。園内には数多くのサクラの木が植えられていて、毎年桜の季節には絶好のお花見のスポットとなっています。桜の花に続いて、足立区の花となっているチューリップの花を見ることもできます。
公園の入口の脇に、葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景で千住地域を画題にした3枚のうちの1枚「隅田川関屋の里」の顕彰碑が立っています。オランダ商館の医師としてシーボルトが来日した当時、日本の絵師は幕府の許可なしに外国人のために絵を創作することは国禁になっていましたが、葛飾北斎(1760年〜1849年)は文政九年(1826年)に「日本風俗画」15枚を描きました。シーボルトは出版した自著「Nippon」の挿図に「北斎漫画」の図柄を用いました。1867年のパリ万国博覧会で浮世絵が紹介され、その奇抜で動的な構図・軽妙な人物の動き・その表情・衣装描写の精緻さがヨーロッパの芸術家たちに驚愕を与えました。北斎に影響を受けた画家には、ビンセント・ヴァン・ゴッホやエドガー・ドガなどがいて、ドガは「北斎漫画」を参考にした人物像を描いています。また、アンリ・リヴィエールは、「冨嶽三十六景」に触発されて「エッフェル塔三十六景」を描きました。音楽家のクロード・ドビュッシーも「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。このようにしてヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた北斎は、世界的に評価が高く、1960年にはウィーンで開催された世界平和評議会において、世界の文化巨匠として顕彰され、また、1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」で「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ一人選ばれています。
冨嶽三十六景
「隅田川関屋の里」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いて(い)ます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
墨堤通りを西に進み、源長寺前の交差点で左折し、その先で右折して墨堤通りと平行する小路に入ります。源長寺は、慶長十五年(1610年)に伊奈忠次が開基となって創立されました。寺名は、忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来となっています。しかし、実質的な創建者は千住の開発者であった石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で開基の座を譲ったとされています。石出吉胤は、千住開発の功により従五位に任ぜられ、石出家は代々名主を務めることになりました。境内に墓所もあります。
源長寺
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598年)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610年)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来である。墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
山門の右手に縦半分写っているのが、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠でしょうか?
草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家が建っています。「筆子家」とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建立した墓や供養塔を指します。
多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(1716年〜1735年)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居し、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は、天明九年(1789年)九月二日没した。
- ポイント6.稲荷神社
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小地の突き当たりに、河原稲荷神社があります。小地から入ると、1830年に建立された鳥居が建っています。国道4号日光街道に面した入口にも銅鳥居があり、こちらは1969年に建立されたものです。
河原稲荷神社は、主祭神を倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とする千住河原町の鎮守で、かつて神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ「やっちゃ場」と呼ばれた千住青物市場の産土神社として崇敬されてきた神社です。社殿は1966年築で、鉄筋コンクリート造銅板葺きになっています。戦火により建造物や記録等が焼失したため創建年月日等は不明であるものの、天正四年(1576年)頃には創建されていたと考えられています。
河原稲荷神社は、千寿七福神の福禄寿を奉祀しています。お正月には、七福神巡りをする参拝者で賑わいます。
「やっちゃ場」の旦那衆が威信をかけて造らせた狛犬は、足立区で最大のものとのことです。
狛犬
狛犬は高麗犬とも書く。コマというのは異国を意味しているので、高麗の字を宛てたようである。狛犬は石などで造り、御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で、自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽(あうん)の一対。口を開けている方が阿で、雄という口を閉じているのが雌。何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の柏犬。台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
嘉永三年(1850年)に鋳造された天水槽には、当時この地域に住んでいた人々の名前が記されています。
天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ85cm・直径98cm・上部の円周281cm・下部の円周262.5cmで、やや下へつぼまり、上部に幅6cm・厚さ6cmの縁取りがある。千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ、東京の北門市場としてその名を馳せていた。嘉永三年(1850年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中、傘下の一派御乎長講による寄進である。水槽には青物問屋等の講員名が記名されている。右水槽29名、左水槽21名(重複除く)総計50名。鋳造工らしき者2名、書は徹齋である。御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。
神輿庫に展示されている戦火を逃れた金銅装大神輿は、区の有形文化財に登録されています。「明治未四年」とは、未年(ひつじどし)の明治四年という意味です。
金銅装神輿(千貫神輿)
足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り、露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり、頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし、四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが、江戸神輿の形式を受けつぎ、細工や装飾も見事で美しい。総高238.5センチ・胴部高72.5センチ・基部方123.0センチと大きく、通称千貫神輿と呼ばれているが、実際の重量は450貫であり、この大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では、昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が多勢いたので二天で担いだ神輿である。
千貫神輿の右隣に、小さい神輿が二基ならんでいます。「錺」は、「かざり」と読みます。
神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」
二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。「祭礼の神輿が町中巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め、二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。江戸後期の造形性がよく現れていて、特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり、陰刻銘で表に「千住川原町」、裏に「天保五甲午歳細工人錺師宮有」とある。
境内には明治三十九年(1906年)の「千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑」が残されています。
千住市場創立三百三十年碑
明治三十九年五月二十二日、千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り、各々に大鼓を備えつけ、これを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿を呼ばれる大神輿を二天で担ぎ、少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米の記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは、吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野地方今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。記述の頭取とは、会長、組合長で、伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云い、お祭りともなれば当番の問屋が二・三軒潰れた。千貫神輿は現存する。
千住宮元町交差点の角に坂本龍馬の肖像画が立っています。龍馬の妻だった佐那が開業した灸治院がここにあったそうです。
千葉灸治院跡地
千葉道場での龍馬と千葉佐那
1853年千葉道場に入門した坂本龍馬は千葉定吉の次女佐那と恋仲になり、両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸を出立し京都で横死する(1867年)。
佐那は龍馬の形見の袖を、生涯離さずこの千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。
千住仲町千葉灸治院跡地に
「千葉佐那 坂本龍馬 二人の千葉道場での姿像」
縁あって足立区千住仲町に灸治院を開業し、この地で生涯を終えた千葉佐那さん。来る人々に、私は坂本龍馬の妻ですと語り続けたその心を偲び、二人が共に過ごした千葉道場での二人の姿を像とし、ここ灸治院跡地に建立し、佐那の切ない想いを永遠に伝え、千住、足立の人共に心を一つとするものです。本事業は、「足立区公益法人まちづくりトラスト」によるご協力を頂きたく要請するものです。
2022年に訪れた時は、木碑も建っていました。
千葉佐那 千葉灸治院跡
千葉佐那(さな子)と千住中組の千葉灸治院
坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組(現千住仲町)に明治維新後の明治十九年(1886年)から暮らす。学習院女子部の舎監となり、この地で千葉灸治院を開業、生業とした。
千葉佐那[天保九年(1838年)生・明治二十九年(1896年)10月15日59才病没]
北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女。小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。龍馬より3才年下である。16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた龍馬と知り合う。文久三年(1863年)、龍馬は千葉佐那の事を姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、龍馬の死を知った後も龍馬の事を思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。
- ポイント7.八幡神社
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八幡神社の正式名称は白幡八幡宮といい、源義家が奥州征伐に赴く際に戦勝祈願を願って渡裸川(とらがわ)の渡し場に源氏の旗印である白旗を立てたことが始まりといわれています。渡裸川の渡し場は、現在の千住大橋のやや上流にあり、現在は隅田川となっていますが、古くは裸になって徒歩で渡った事から渡裸川と呼ばれるようになりました。源義家は源頼義の嫡男で、「石清水八幡宮(京都府八幡市)」で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされています。義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ていて、武門の棟梁としての血脈として神話化されていきました。八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、勧請の時期は不明ですが、千住仲町の氷川神社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った神社)として信仰され始めました。古くは大師道沿いにありましたが、明治四十一年(1908年)に現在地に社殿が建てられ、移転しました。
八幡神社は、千住七福神のうちの一社で、武運長久・勝運、厄災除けに福徳がある毘沙門天を祀っています。
八幡神社
白幡八幡宮が正式名称との事です。諸説ありますが、源義家が奥州征伐に赴く際に武運長久を願って渡し場に白旗を立てたことが始まりと言われています。第十五代応神天皇として即位された誉田訳命(ほんだわけのみこと)、別名「八幡の皇子」様が祭られています。ここ千住宮元町の八幡神社は、明治四十一年(1908年)この地に建立されましたが、昭和二十年(1945年)戦災により焼失、昭和三十四年(1959年)再建されました。以来、千住宮元町の鎮守様として武運長久、勝運、厄災除けの神様として、見守っていただいています。
毘沙門天
中国においては四天王のうち、武神・守護神とされており、北の守りをつかさどります。日本では四天王像として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼びます。日本でも武神・守護神で有り、室町時代後半では京都の商人が毘沙門天像を買い求めたことにより、商売繁盛したことから金運や勝負事の神様、はては無病息災の神様の一面まで加わりました。七福神の一尊とされたのもこの頃からです。
- ポイント8.千住神社
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国道4号線千住警察署入口交差点から小路に入った左手に千住神社があります。千住(千寿)に集落が形成され始めた延長四年(926年)丙戌年に、土地鎮護と五穀豊饒を祈って伏見稲荷から分霊を勧請して稲荷神社(千崎稲荷とも称されます)が創立されました。永承六年(1051年)、源義家は奥州征伐の際に荒川(現在の千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現在の千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されています。更に、弘安二年(1279年)己卯年に、武蔵国一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社が創立されました。明治六年(1873年)に氷川神社と稲荷神社が合祀されて西森神社となり、大正四年(1915年)に千住神社と改称されました。現在の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)と宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)です。寛永年間に千住が日光街道の第一宿となり、千住神社はがその西方にあったため、西の森ともいわれました。
千住神社
およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926年)に稲荷の神が勧請され、千崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279年)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873年)、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915年)に千住神社と改称した。祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀り、明治七年に区内唯一の郷社に列せられた。当氏子の厚い信仰と熱誠により昭和三十三年(1958年)九月、現在の神殿(権現造り・流れ作り・神明造りの三者混合)が完成した。千住神社では、元禄八年(1695年)の御本社再建に際して掲示された開帳木札(足立区登録有形文化財)、大正天皇ご即位と改元を記念して千住一丁目の有志が作らせた獅子頭(足立区登録有形民俗文化財)が保存されているほか、神田囃子睦会(足立区登録無形民俗文化財)も活動している。境内には、千住神社富士塚(足立区登録有形民俗文化財)のほか、松尾芭蕉の句碑や、森鴎外の師佐藤元萇が撰文した「西森神社之碑」、大戦中の防空壕などもあり、千住の歴史を物語っている。
鳥居の手前に、大晦日の茅の輪くぐりで使用された茅の輪が残っています。茅の輪は、茅(ちがや)というイネ科の植物で編んだ直径数メートルの輪のことです。茅の輪くぐりは、心身を清めて災厄を祓い、無病息災を願う行事です。茅の輪くぐりの由来は、日本神話にあります。備後国(広島県東部)を旅していた素戔嗚尊が宿を探していた時に、蘇民将来という人物は貧しい暮らしをしながらも素戔嗚尊を手厚くもてなしました。数年後、素戔嗚尊は再び蘇民将来のもとを訪れ、「病が流行ったら茅で輪を作り、腰につけて難を逃れなさい」と教えました。その後、教えを守った蘇民将来は難を逃れることができたそうです。それが茅の輪くぐりの由来とされています。昔は茅の輪を腰につけて無病息災を願いましたが、江戸時代初期頃には、現在のように大きな輪をくぐるようになりました。茅の輪くぐりは年に2回毎年同じ日に行われます。1年の半分が過ぎた6月の晦日(みそか)に行なわれるのは「夏越の祓(なごしのはらえ)」と呼ばれています。1年の最後の日にあたる12月の大晦日に行なわれるのは「年越の祓(としこしのはらえ)」で、夏越の祓と年越の祓の2つを合わせて「大祓(おおはらえ)」といいます。どちらも災厄を祓い清める儀式です。
昭和二十年(1945年)4月の戦災で木造建築物は焼失しましたが、昭和三十三年に社殿が再建され、徐々に建物が再興・建築されました。
由緒
- 祭神
- 須佐之男命 宇迦之御魂命
- 例祭日
- 九月十五日
- 創立
-
当神社は千住に集落が形成され始めた、延長四年(926年)土地鎮護と五穀豊焼を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承六年(1051年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、ニッ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。弘安二年(1279年)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為に、鎌倉時代より江戸時代には、ここをニッ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が、鷹狩りを行ったという記事が、随所に記録されている。寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治五年十一月十八日、両社は、村社と定められ、更に翌六年六月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の郷社と定めらこれ、更に大正四年十二月十五日以来、千住神社と改称した。昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。
千住神社は、千寿七福神の恵比寿神を奉祀しています。台座が回転する珍しい仕組みになっています。
千住宿 千寿七福神 願かけ恵比寿
願かけの方法
一、まず、恵比寿様を男性は左へ三回、女性は右へ三回まわす。
二、神像(恵比寿様)の祈願箇所を、願いを念じながら白いハンカチで三回なでる。
三、そのハンカチを持ち帰り、ご自宅で神像をなでた箇所と同じ箇所、ご自分の体をハンカチで念じてなでる。
祈願内容と恵比寿神像の位置
商売繁盛・社運隆昌・金運 鯛・胸
家内安全・合格祈願 頭
恋愛成就・縁結び(就職) 胸
芸能・スポーツ上達 腕・脚
病気平癒 患われている箇所
子宝安産 腹
開運招福・健康成就 顔
厄除け 肩
江戸中期に富士信仰が盛んになり、「江戸八百町講中八百万人」といわれ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚が造られました。宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあって、大正十二年(1923年)に浅間神社を勧請し、千住富士と呼ばれる富士塚を建立しました。それ以来、富士信仰の文化が千住神社でも脈々と受け継がれてきました。富士塚は、毎年富士山の山開きに合わせて七月一日のみ参拝可能になっています。足立区の全富士塚に登頂しようと思っていたのに、残念!
千住富士 御祭神 木花咲耶比売命
七月一日のみ登拝可。江戸中期に富士信仰が盛んになり、「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚がつくられました。宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。
(現在の富士塚は、昭和十一年再築)
なかなかの迫力です。
千住神社には多くの境内末社があります。
末社 <火伏せ三社>
昭和六年一月建立。もともと夫婦銀杏の下にあったが、昭和二十年四月の東京大空襲で、千住宮元町のあらゆる建物が焼失した中で、木造としてたった一棟、奇跡的に焼け残ったのが、この三社である。三社御祭神それぞれの御神徳とともに、火伏せの神、火防守護の神としての御神威もあり、崇敬されています。
三社御祭神 三峯神社 伊邪那美命
倭建命
恵比寿神社<幸福神社> 事代主命(えびす様)
大国主命(大黒様)
八幡神社 品陀別氣命(応神天皇)
天満宮は菅原道真公をお祀りしています。
末社<天満宮>
御祭神 菅原道真
「天神さま」と呼ばれ、学問や芸能上達の神として、古くより親しまれています。
稲荷神社は、食を司る神社です
末社 <稲荷神社>
御祭神 宇迦之御魂命
元々は稲の精霊を神格化された神で、名前の「宇迦」は、「食(うけ)」と同じ意味で食物のことをさし、五穀・食物を司る神として尊ばれ、家内安全、商売繁昌、開運の御神徳は、多くの人々から崇敬を得ています。
狛犬は、江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたものですが、その狛犬の姿は「子を抱える」・「子を護る」とても珍しい姿をしています。これは祭神の御神徳、家内安全・商売繁盛・子孫繁栄(良縁)・無病息災(厄除)が強かったことが理由のひとつとされています。
狛犬
江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたものであるが、その狛犬の姿が”子を抱える””子を護る”とても珍しい姿であります。これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特に灼かであったことによることが理由の一つとされています。
子護りの狛犬
江戸時代に奉納され、全国的にも珍しい子を抱えた姿になっております。家内安全・安産・良縁。狛犬像に触れられて、御神コ・御守護をお受けになられて下さい。
境内の中央にご神木が聳えています。
生命の大切さを伝える不屈のイチョウ
昭和二十年四月十日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
夫婦銀杏と呼ばれるご神木もあります。
御神木
この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
かっては樹林が繁茂し、境内は昼なお薄暗かったそうです。
足立区指定 第25号 保存樹林
昔より当地には二つの森があり、926年神社が建立された以降、二ツ森、西森と呼ばれていた。旧考録に、江戸時代に代々の将軍が、二ツ森で鷹狩りを行ったことが記録されている。また、明治初期頃まで古老杉が繁茂し、日中でもなお薄暗く、女性や子供一人では奥まで行けなかったと、語り継がれている。先の大戦によって、樹木の大部分が焼失をしたが、氏子有志の植樹により、現在の鎮守の杜の姿となっている。
防空壕の跡が遺されています。
防空壕
昭和二十年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
芭蕉の句碑が建っています。「物言えば唇寒し秋の風」とは、余計な発言をした後に後悔や寂しさが残ったり、災いを招いたりするという意味の松尾芭蕉の俳句です。この句は、口を開くと秋の冷たい風が唇に触れて寒々しい気分になる、という情景描写から、人の欠点を批判したり、不用意な発言をした後に後悔する気持ちや、それが原因で争い事や災難を招くことを戒めています。
千住神社を出て、千住竜田町交差点で墨堤通りに入ります。千住桜木町交差点のひとつ手前の交差点で右折し、小路に入ります。元宿神社の入口前の歩道に「里帰り桜」の石碑が建っています。
桜土手
現在、千住地域の南部を走る都道補助119号線は、従来、元和二年(1616年)に石出掃部助吉胤が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。大正十二年(1923年)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(1931年)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
- ポイント9.元宿神社
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都道補助119号線から、元宿神社の参道が細長く延びています。
元宿神社
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れねばならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
参道の入口に太子堂の小さな洞があります。太子堂は、聖徳太子の像を祀った仏堂のことです。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されています。
太子堂(千住元町)
荒陵八十八ヶ所霊場 五番札所
開創年 明治四十四年(1911年)
葛飾区史によると、明治四十四年「荒川二十一ヶ所霊場」と「綾瀬二十一ヶ所霊場」を元に開創されたようだ。開創者は不明。同じ時期に行われた荒川放水路開削工事の影響で霊場巡拝は根付かなかった。開創当時の五番札所は、隅田村多聞寺であったが、大正十一年、掃部宿西裏不動堂に移り、本宿の人々がそれを引き継ぐかたちで、大正十四年太子像を造立し、すでに神仏分離が行われていたので、鳥居の外に祀ったものと思われる。現在は、堂字のみ、廃寺、札所の異動などが多く霊場としての活動は行ってはいない。
本宿神社は、普段は静かですが、お正月には初詣の人たちで混雑します。
左が元旦、右が6月の境内の風景です。
本宿神社は、千住七福神の寿老人を奉祀しています。寿老人は、右手に宝杖を持ち、「無病息災」「延命長寿」「ぼけ封じ」の神様です。家族を病気やケガから守り、開運長寿とぼけ封じに御利益があります。
北千住では、毎年元旦に千住七福神を構成する社の町会が神輿を担ぐのが恒例になっています。神輿は、このあと訪れる大川町氷川神社から千住神社まで練り歩きます。今年は元旦のお節もそこそこに頑張って来たのに、着いた時は神輿が出立した後でした。残念!ちなみに、担ぎ上げの神社は毎年大川町氷川神社のようですが、動画を見ますと担ぎ手にはいろんな町会が入り交じっています。担当する町会が準備・接待その他を行なうことになっているのでしょうか?
−第49回− 初担ぎ 千住祭連絡会
令和八年一月一日(水)十二時〜担ぎ上げ 大川町氷川神社(土手下)
元宿神社の直ぐ先の帝京大学分館の角を右折して、南側にひとつ入った小路を進みます。左手に古風な銭湯があります。「タカラ湯」の銭湯の名の通り、軒下には宝船の彫り物が掲げられています。タカラ湯は、昭和十三年(1938年)に建てられたという見事な門構えに加え、「キングオブ縁側」と称される日本庭園を望む立派な縁側や、昭和の風情が残る開放感と清潔感のあるお風呂など、数々の魅力で老若男女に愛されています。
- ポイント10.千住公園
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千住公園は、子供の遊び場が豊富な公園です。園内には遊具・じゃぶじゃぶ池・ボール遊びのできる広場などがあり、広い敷地でのびのびと遊ぶことができます。公園の周囲は煉瓦色のパーゴラで囲まれ、夏には緑の屋根になります。
4色の円柱に守られた子どもに人気の丸いじゃぶじゃぶ池は、夏には幼児用のプールになります。暑い日に、無料で安全に水遊びができるスポットとして、多くの親子連れに利用されています。
日陰のベンチにすわって休憩したり、子どもを見守ったりできます。
広場と複合遊具やブランコがあり、夏以外のシーズンも親子で遊びに行ける公園です。
また、大人が利用できるコンテンツも豊富です。ほぼ毎朝ラジオ体操が開催されているほか、高齢者向けの運動イベント「パークで筋トレ」も隔週で開催、健康器具も設置されています。大人から子供まで体を動かせる公園です。
公園のある千住大川町と川田耕地の関わりを記した案内板が立っています。
千住大川町と川田耕地
千住大川町は、昭和七年10月1日、それまでの東京府南足立群(郡?)から東京市への編入によって千住大字大川町区域の町名として誕生しました。この名前は、その前年、 昭和六年1月1日に行われた千住町字名地番整理により、川田耕地(旧千住町大字五丁目の字)を中心に、西耕地(旧千住町大字一丁目から五丁目の字)全佛耕地(旧千住大字四丁目と五丁目の字)の3耕地で構成された大字大川町に由来しています。また、大川町という名は、荒川放水路の沿岸であることにちなんで付けられたものと言われています。川田耕地は、荒川放水路が開削される以前は、現在の千住大川町の北半分から梅田三丁目付近までにいたる広い地域を占め、家屋や田園がありました。放水路の工事によって、ここに住む人々の住居や浅間神社は、移転を余儀なくされましたが、現在でも石碑や祭太鼓などに川田の名前は伝えられています。
- ポイント11.氷川神社
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氷川神社の創建は永仁二年(1294年)で、鎮座する地名を冠して大川町氷川神社とも称されます。元々は千住五丁目の川田耕地にありましたが、荒川放水路建設工事の区域に含まれたため、大正四年(1915年)に遷座しました。
参道の左手に、旧千住新橋の親柱が保存されています。
旧千住新橋の標柱
この石柱は、旧千住新橋の親柱である。千住新橋は、明治四十四年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年より同十三年までの永い歳月と、119万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ452.7メートル、幅7.2メートル、鋼板桁の近代橋であった。その後昭和三十二年に幅17メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることとなったのである。架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
氷川神社は、千住七福神の布袋尊を奉祀しています。布袋尊は人びとに幸せを分け与える福の神で、七福神のうちの布袋様として親しまれています。布袋尊は、中国の唐時代に実在した契此という名のお坊さんがモデルになっています(布袋という名前は、契此がいつも大きな布の袋をかついでいたことに由来します)。生涯にわたって中国の各地を放浪していた契此は、いつもニコニコした笑顔で人びとに接する心豊かで楽天的な人物であったそうです。お布施でもらった生活必需品を大きな袋に入れて持ち歩き、必要な人に分け与えていたと言い伝えられています。契此には未来の出来事や天気を予知するという不思議な能力もあり、最後は仙人(布袋尊)になりました。布袋尊は後に日本に伝わり、江戸時代以降、七福神のメンバーに名を連ねるようになりました。布袋尊は、福徳円満の神さまとして、今でも大きな人気を集めています。氷川神社の布袋尊は平成二十年(2008年)に長円寺から移転され、1月1日から1月7日にかけて千寿七福神巡りが行われていて、受授品を用意して参拝者を迎えています。
氷川神社の祭神は素戔嗚尊・倉稲魂命で、例大祭が9月15日に行われます。式典では、拝殿の上から神職や氏子による豆撒きが行われます。豆撒きの中身は、豆・みかん・菓子・カップ麺・カレーのルーなど食品類が中心で、豆撒きが終わると子供たちにみかんが配られます。
拝殿の脇に、天保十四年(1843年)に建立された紙すき碑が建っています。荒川放水路(現在の荒川)の建設に伴って、碑は大正六年(1917年)に境内に移転し、再建されました。碑には、当初の問屋21軒の名前が記され、昭和五十七年(1982年)12月10日に足立区登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。千住四丁目にある足立区登録有形民俗文化財の横山家住宅は、この問屋のひとつで、「松屋」(当主は佐助)を営んでいました。江戸時代の千住宿の最大の産業は、流通業(問屋業)であり、中でも問屋制家内工業であった地漉紙(古紙を再利用する再生紙)の生産差配と流通が盛んでした。江戸時代は鎖国政策のため海外から使用済みの紙が輸入されることがなく、京都や大阪で使用された紙は貴重な資源でした。天保十四年6月29日、千住の地漉紙問屋が奉行所に呼びだされ、供給不足により高騰していた地漉紙を増産し潤沢にするように命じられました。その後、地漉紙問屋たちが緊急生産し、7月7日に奉行所に報告したことで、江戸府内の地漉紙不足が解消されました。この碑には、このことが誇らしく書かれています。「氏+山」の漢字は見当たりません。「代+山」ならありますが、「岱のすき立」の意味が分かりません。
紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。この歌碑は、天保十四年(1843年)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に、丸永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より?(岱?)のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせきするわさは田をつくるひなの賤らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが、稲作りにも劣らない仕事であるという自賛の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年に移転し、再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
氷川神社内にある富士塚は川田富士と名付けられ、荒川放水路ができる前は千住川田の浅間神社にありました。文化七年(1810年)に築造され、昭和四十三年(1968年)に氷川神社の境内に移築されました。「大川町氷川神社富士塚」の名称で、昭和五十七年(1982年)12月16日に足立区登録有形民俗文化財(富士塚)に登録されていました。
千住川田浅間神社冨士塚
冨士塚は文政七年(1824年)築造。祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在地に移築復元され今日に至っている。塚は、冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。山頂に、天保二年(1831年)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(1824年)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年七月一日祭礼が行われる。
富士塚の高さは3メートルほどあり、山頂には、天保二年(1831年)と記された石祠があります。
石祠はいくつかあり、文政七年(1824年)のものには、「丸藤惣同行、富士山三十三度大願成就」と記されています。江戸には、富士講が八百八講あったとされ、千住の講は丸藤千住十三夜同行です。丸藤とは、元講の名前で、千住は地名、十三は、食行身禄行者の命日、法行を夜行うということから講名がつけられました。千住の富士講は、享保期から活動が見られ大正九年(1920年)頃に最も活発に行われていました。千住地域には、大川町氷川神社・千住神社・柳原稲荷神社に富士塚があります。
- ポイント12.生涯学習センター
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国道4号線の高架下を通った先の荒川の堤防に面した風光明媚な場所に足立区生涯学習総合施設(愛称:学びピア21)が建っています。1〜3階は足立区立中央図書館、4階は足立区環境情報プラザと足立区生涯学習振興公社、4〜5階には足立区生涯学習センター、6階には放送大学東京足立学習センター、7階には地域包括支援センター「千住本町」が併設されています。学びピア21は、あらゆる世代、あらゆるニーズに合った生涯学習が提供できる施設となっています。生涯学習センターでは、区内13の生涯学習施設の基幹施設として、高度で専門的な学習をはじめ、暮らしに役立つ学習、様々な学習情報の提供など、区民ニーズや社会的な課題に対応した多様な生涯学習を実施しています。
この地には、かって千住旭小学校がありました。千住旭小学校は、昭和十五年(1940年)8月28日に開校し、平成三年(1991年)4月1日に千寿第一小学校と統合して足立区立千住本町小学校が開校しました。千住本町小学校の敷地は千寿第一小学校の跡地を利用したため、千寿旭小学校は廃校となりました。その跡地に学びピア21が建てられたのです。
学びピア21のすぐ先に、安養院があります。安養院は、西林山長福寺安養院と号し、鎌倉時代に北条時頼が創建したと伝えられます。元々は元宿(現在の千住元町)にありましたが、慶長三年(1598年)に兵火で焼失した後、現在地に移転しました。江戸時代、徳川幕府の将軍は鷹狩のために江戸郊外のこの地を度々訪れていて、安養院は「御膳所」(休憩場所)に充てられました。令和四年(2022年)、千住寿町にあった銭湯「大黒湯」(1929年創業・2021年6月廃業)の唐破風屋根などが安養院に移築され、屋根に付け替えられることになりました。
安養院
当寺は鎌倉時代に北条時頼が創建し、北条氏政の祈願所であったとも伝わる。もと千住元町(小名釜佛耕地)にあったという。山号を西林山、寺号を長福寺と称した。慶長三年(1598年)、現在地に移り、後に寺号を安養院と改めた。本尊の銅造阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代制作と思われ、背面に宝永四年(1707年)九月二十六日の修理銘がある。中世にさかのぼる仏像として足立区登録有形文化財(彫刻)になっている。その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師坐像・密教用法具・真言密教の経典・古文書等が保存されている。中興開基第一世は真言宗の賢智上人で、北条の臣高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で寺運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の檀林となり、多くの仏弟子を世に送った。本堂は関東大震災で倒壊し、翌年の大正十三年、第二十二世良道僧正によって再建されたものである。
境内には、石で叩くと「カンカン」と音がすることから「カンカン地蔵」と呼ばれる地蔵があります。
左奥の地蔵様です。
安養院のはす向かいに、「まるせん」という持ち帰り専門の焼き鳥屋さんがあります。とにかく1本あたりの価格が安い!安すぎる!安すぎて、驚きですが、身はちゃんとしっかりしていて焼き鳥は美味しいです。他の串も100円以下とかなので、コスパは最高です。
四つ角の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て水戸街道と佐倉街道の旅に出たのでした。
四つ角の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。
その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。
宿場通りに入ります。右手に「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。
宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。
千住絵馬屋・吉田家
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。
吉田家の向かいに、横山家住宅があります。
横山家住宅
横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
蔵の造りが図解されています。
横山家の蔵(非公開です)
江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を
埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。
天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が
わかります。
外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。
外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。
腰巻部分には煉瓦が使われています。
入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。
戸口は街道から一段下がっていて、上にいる客を下から迎える形となっています。
家屋の奥には白壁の蔵が残っています。
- ポイント13.千住本町公園
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千住本町公園に戻ってきました。
バードコートは、ミシュラン1つ星に輝いたことで知られる焼き鳥の名店です。締まった肉質と旨みが評判の奥久慈しゃもを使用し、繊細な職人技で焼き上げた串は絶品です。丸鶏で仕入れるため希少な部位も並ぶほか、鶏を丸ごと楽しめるコースも人気です。店主自ら生産地に赴いたというブルゴーニュワイン、焼き鳥に合うようメーカーと調整したアウグスビールなど、あらゆる品にこだわりが光ります。それぞれの生産者の思いを大切にした、絶妙な味わいを堪能できます。
ゴール地点の北千住駅西口に戻ってきました。
ということで、足立区で五十三番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 53.千住七福神巡りコース」を歩き終えました。次は足立区で五十四番目となる「E−千住・新田エリア 54.千住川巡りコース」を歩きます。
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