E−千住・新田エリア 54.千住川巡りコース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「E−千住・新田エリア 54.千住川巡りコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年2月に改めて歩きました。

スタート地点:北千住駅西口

 1.千住本町公園

 2.名倉医院

 3.虹の広場

 4.荒川河川敷

 5.堀切駅

 6.千住曙町公園

 7.千住大川端公園

 8.隅田川遊歩道

 9.旅立ちの芭蕉像

10.千住大橋駅

11.千住スポーツ公園

12.千住桜木町公園(千住桜木公園は誤り)

13.おばけ煙突モニュメント

14.尾竹橋公園

15.荒川土手

ゴール地点:日暮里・舎人ライナー足立小台駅東口


スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。



ポイント1.千住本町公園

千住本町公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。



サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。



入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。

千住宿 高札場 由来

私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。




石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。縦に置いた方が見やすいかも。



公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。



園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。



宿場通りに出て、荒川土手方向に進みます。宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。横山家住宅があります。

横山家住宅

横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。




蔵の造りが図解されています。家屋の奥には白壁の蔵が残っています。

横山家の蔵(非公開です)

江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を 埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。

天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が わかります。

外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。

外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。

腰巻部分には煉瓦が使われています。

入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。




横山家住宅の向かいに、吉田家があります。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。

千住絵馬屋・吉田家

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。




宿場通りの北端近くに「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。



宿場通りの北端の交差点の四つ角の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て水戸街道と佐倉街道の旅に出たのでした。



交差点に面して、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。



その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。



交差点の直ぐ先に、下妻街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て下妻街道の旅に出たのでした。



ポイント2.名倉医院

荒川土手の手前に、江戸時代から骨接ぎで名を馳せた名倉医院があります。



入口の脇に案内板が立っています。

千住名倉医院

骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716年〜1736年)に千住へ移り、明和七年(1770年)に業祖名倉直賢が接骨医を開業したと伝わる。三代尚壽が嘉永元年(1848年)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と交流した。特に四代彌一の交流は幅広く、松方正義、橋本雅邦、菱田春草、横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派絵師・村越向栄と親交し美術や文化の遺産を伝えた。千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。




広場の奥には、立派な長屋門と蔵が残っています。



ポイント3.虹の広場

荒川の土手に上がります。荒川河川敷の荒川千住新橋緑地にある「虹の広場」は、7色のカラーブロックを使って舗装した広場です。中央には荒川で見られる野鳥や魚、昆虫などが描かれた絵タイル103枚が敷かれ、花壇には季節の花が色とりどりに咲きます。また、河川敷を訪れる車椅子利用者や高齢者の方でも気軽に利用できる「だれでもトイレ」もあります。虹の広場周辺には野球場などが多数整備されていて、広々とした空間でスポーツを楽しむことができます。夏の夜空には花火が上がり、秋は区民まつりの会場として訪れる人を楽しませます。



虹の広場では四季折々の花が楽しめ、特に春は約14、000本のチューリップとパンジーが圧巻的な美しさを誇ります。満開になる5月に土手の上から眺めますと、広場の虹の絵を繋ぐようにチューリップが花壇を彩ります。チューリップの色は虹と同じ7色あります。夏にはカンナが見頃となります。



トイレの壁には、足立区のマスコットキャラクターのひとつ、ビュー坊が描かれています。



ポイント4.荒川河川敷

荒川河川敷に設けられた遊歩道を下流に向かって進みます。昭和五年(1930年)に完成した荒川放水路は、昭和四十年(1965年)の河川法の改正で呼称が「荒川」に変更されました。東武スカイツリーライン線の橋梁名は、現在も「荒川放水路橋梁」と呼ばれ、荒川放水路の名前を残す唯一の橋です。ちなみに、千代田線の綾瀬〜霞ケ関間が開業したのは、昭和四十六年(1971年)4月20日のことでした。



荒川河川敷は、豊かな自然と多様なレクリエーションが楽しめるエリアです。ウォーキングやサイクリングに最適な遊歩道が整備されていて、大人から子どもまで楽しめるスポットが集中しています。荒川緊急用河川敷道路は、震災時の緊急用復旧活動や緊急用物資の輸送に利用できるように荒川の両岸の河川敷に設けられていて、緊急用船着場などと接続しています。平成十四年(2002年)に荒川河口から笹目橋までの全線が完成し、河口から埼玉県内まで荒川の緊急用河川敷道路のみで物資等を輸送することができるようになりました。この緊急用河川敷道路は、普段はサイクリングやジョギングを楽しめるコースとして利用されています。

緊急用河川敷道路

この道路は、大地震等災害時に復旧活動や緊急物資を輸送するための施設です。災害時は、復旧活動等の妨げとなる行為を禁じます。平常時は、河川管理及び他の利用に支障とならない範囲で利用が可能です。




河川敷の広場では、よくフライングディスクの練習をしている大学生を見かけます。フライングディスクは回転させて投げて遊ぶ円盤(ディスク)、あるいは円盤を用いた競技の名前です。円盤は通常プラスチック製で、直径約20センチメートルから25センチメートル程度のものが多く、手で勢いよく回し投げると揚力が生じるよう設計されていて、そのまま手で受け止められる。用具が手軽で、どこでも練習できるため、男女問わず楽しめるスポーツです



荒川放水路で最大の弱点だった京成本線荒川橋梁の架け替え工事が始まっています。



鉄橋の錆び付き具合から見ても、架け替え時かも。



令和元年(2019年)10月の台風第19号による増水で、荒川橋梁の線路のスレスレまで水が迫りました。この箇所は線路を通すために堤防が一段低くなっていますので、ここが決壊すると東京の東部一帯は水没してしまうのです。現在は、暫定措置として、周辺の堤防の高さに比べて低い堤防部分に特殊堤(パラペット)が設置されています。新しい鉄橋は現在の鉄橋に隣接して上流側に架けられるようです。

令和元年東日本台風時の状況

■戦後最大雨量(3日間流域平均)を記録した令和元年東日本台風による洪水では、
 ピーク時の水位が橋梁の桁下高まで、あと約1.2mの高さまで上昇しました。
■これを契機として、足立区・葛飾区は、「京成本線荒川橋梁に関する水防協議会」を設置し、
 令和二年7月以降、継続して水防訓練を実施しています。

京成本線荒川橋梁架替事業(事業概要)

京成本線荒川橋梁周辺の堤防高さ
■京成本線荒川橋梁は、荒川放水路の開削工事の際に架設されました。その後、広域的な地盤沈下が発生したため、
 対策として堤防のかさ上げを行いましたが、橋梁及び周辺の堤防の高さは低いままとなっています。
■現在、橋梁の桁下高は周辺の堤防の高さに対して約3.7m低く危険な状態となっています。
■事業の目的は、洪水を安全に流下させるために堤防をかさ上げすることで、堤防のかさ上げに支障な京成本線
 荒川橋梁及び綾瀬川橋梁の架替工事を行うものです。

事業期間・事業範囲・総事業費

■荒川の河口から10.67kmに位置する京成本線荒川橋梁は、昭和六年に架設され、
 東京都の京成上野駅と世界の玄関口である千葉県の成田空港を結ぶ重要な路線であり、
 京成電鉄全体では年間延べ約29、300万人(2019年度実績)が利用しています。
■橋梁の高さが低く、洪水の安全な流下の阻害となっている京成本線荒川橋梁を約15m上流に架け替えします。
■新橋に切替えた後、現橋の橋台を撤去し、周辺の堤防の高さに比べ低い堤防のかさ上げ・拡幅を行います。
■新橋への架替えに伴い、京成関屋駅から堀切菖蒲園駅までのアプローチ部の改良も行います。
■令和五年2月1日時点の買収部分における用地取得率は、約80%です。




荒川の緩やかな土手風景は、たびたび映画やテレビドラマの舞台となり、荒川の代名詞的な風景といえます。特に、堀切橋周辺の荒川が一望できる土手は、昭和五十四年(1979年)から放映された武田鉄矢主演のテレビドラマ、「3年B組金八先生」のロケが行われた場所です。ドラマは、荒川近くの中学校が舞台となっていて、荒川の土手や河川敷でのシーンがたびたび映し出され、特にドラマのオープニングで土手を歩くシーンは有名です。



隅田川と荒川を繋ぐ隅田水門があります。



現在の隅田川は、かつては荒川の本流でした。明治四十四年(1911年)から昭和五年(1930年)にかけて、洪水であふれた水を安全に流すために荒川放水路が新しく造られ、北区岩淵水門から下流を隅田川と称するようになりました。隅田水門は、堀切橋のすぐ下流にあり、旧綾瀬川と荒川の合流点に位置しています。普段は隅田川に通じる舟運に利用され、増水時は水門を閉め、東京への水害を防止する役割を果たしています。大正十三年(1924年)に竣工し、今でも現役の水門として活躍しています。

隅田水門

増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。

荒川が放水路として人工的につくられるまで、このあたりは旧綾瀬川が隅田川に合流する場所でした。旧隅田水門は、荒川と隅田川を往来する舟運の要衝として大正十三年(1924年)に建設されました。現在の隅田水門は昭和四十四年(1969年)に改築されたもので、今も多くの船が行き来しています。

●完成年:    昭和四十四年(1969年)
●場所:     東京都墨田区墨田地先
●ゲートの大きさ:高さ8.35mx幅10.0mx1門(たたみ約50畳分)
●ゲートの重さ: 34トン
●ゲート開閉時間:約10分
●操作水位:   荒川水位A.P.+2.15mで隅田川へ流入したとき
         (荒川平常時水位より約0.9m上昇したとき)

A.P.:「Arakawa Peil」の略。東京湾岸島にある量水標の位を基準とした基本水準面のことで、
     荒川などが水位の基準として採用しています。標高(T.P.)0mのとき、A.P.+1.134mとなります。




ポイント5.堀切駅

東武スカイツリーラインの堀切駅は「相対式ホーム」になっています。相対式ホームとは、複線区間で2つの線路の両側にホームが配置され、それぞれが向かいあっているものをいいます。堀切駅の場合は、荒川の土手側に東口があり、跨線橋を渡った西側に西口があります。



堀切駅の裏手に東京未来大学があります。東京未来大学は2007年に開学し、「心理学」を幅広く学び、保育士や心理スペシャリストを目指せる4年制の私立大学です。足立区の中学校統合に伴い、2004年度をもって廃校になった区立第二中学校の校舎を改修・増設して利用しています。第二中学校の校舎は、テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズの舞台である「桜中学校」のロケ地として使われました。



開学時には「こども心理学部」のみでしたが、2012年に「モチベーション行動科学部」が開設されました。名誉学長に、2016年に亡くなった心理学の分野で知られた多湖輝氏が就任していました。



ポイント6.千住曙町公園

東京未来大学の角を左折した先に、千住曙町公園があります。道路を挟んで別々の公園のようにも見えますが、ひとつの公園です。



東側の敷地は緑が豊かで、春になると園内の木々の葉が生い茂り、日陰スペースがたくさんできます。大きな広場にベンチが数台設置されていて、子どもたちが走り回ったり元気に遊んでいる姿をゆっくり座って見守れます。



西側の敷地には、ブランコやすべり台などの遊具があります。トイレはありませんが、水道がありますので泥で汚れても帰る前に手を洗うことができます。



「隅田川に唯一残るもの」がふたつあります。ひとつは以前に紹介した日本化薬東京工場(足立区新田)と対岸の研究所(北区志茂)を結ぶ渡し船で、日本化薬従業員専用なので一般の乗客は乗れませんが、今でも渡し船として存在しています。もうひとつは、旧綾瀬川の隅田川への合流地点の足立区千住曙町にある伊澤造船です。現在の綾瀬川は葛飾区堀切付近から荒川と並行した後に中川に合流していますが、荒川放水路が掘削される前は隅田川に合流していました。荒川放水路掘削で末端部にあたるここが分断されてしまい、分断された部分が旧綾瀬川となっています。 荒川放水路ができたことで、隅田川は荒川の本流ではなくなりましたが、かつてはここから上流が荒川で下流が隅田川と名称が変わる境界でした。伊澤造船の創業は明治十年(1877年)ですから、もうすぐ創業150周年を迎えます。創業した明治初期は、隅田川だけで20〜30の造船所があったそうですが、徐々に姿を消し、唯一この会社だけが残っています。現在の業務はほとんどが整備だそうですが、時々新造船の建造も行なわれています。



千住曙町交差点を左折して川の手通りに入ります。



ポイント7.千住大川端公園

千住汐入大橋北詰の脇から隅田川沿いに千住大川端公園が延びています。



千住大川端公園は、隅田川最後の渡し船である「汐入の渡し」の船着場近くに整備された公園です。例年4月下旬から5月上旬には赤や薄桃・白などの色鮮やかなツツジが斜面を覆います。



園内にはタイル張りの階段状の滝が整備されていて、暑い夏でも涼しさを感じられます。対岸の高層ビルと千住汐入大橋を眺めながら、川沿いでのんびり過ごすのにぴったりです。



千住大川端地区開発計画は、足立区関屋町に建設される地上29階〜地上38階・高さ105m〜約140m・総戸数約2、100戸・4棟構成の超高層タワーマンション群です。立地は、南側を隅田川、北側を京成本線に挟まれたフットサル場やカート場・タクシー営業所などからなる東京製鉄の「アメージングスクエア」跡地に位置しています。この再開発計画では、土地利用転換により道路などの都市基盤の整備と合わせて、環境にやさしく多様な住宅を中心とした住商複合の市街地を形成することを目指しています。また、スーパー堤防や土地の高度利用によるオープンスペースの整備により地域の防災性向上を図り、隅田川の水辺の潤いと緑豊かな魅力ある市街地環境を創出することを目標にしています。



ポイント8.隅田川遊歩道

隅田川テラスは、その名の通り隅田川の両岸に整備された親水テラス・遊歩道です。2002年に訪れた時も2026年に再訪した時も途中で「工事中につき通行止め」の看板が立っていました。でも、コースマップではこの辺りで土手に上がって隅田川から離れるようになっていますので、階段を上ります。



看板の先に千住関屋ポンプ所が建設されていますので、その影響かも。

浸水被害から街を守るために

工事件名 千住関屋ポンプ所建設工事
工事目的 千住関屋ポンプ所は、既設千住、千住西ポンプ所流域の雨水流出量の増大に対応するために設ける雨水ポンプ所で、
     足立区千住、千住大川町、千住仲町、日ノ出町等の雨水を吸揚し、隅田川に放流する施設です。
     また、合流式下水道の初期汚濁負荷を削減するため、雨水貯留池を設置するものです。
     本工事は、上記施設の躯体の一部を築造するものです。




マンションの角を左折した先に、関屋公園があります。関屋公園は、沢山のマンションに囲まれた場所にあり、小学校や保育園も隣接しています。遊具エリアには、小さい子どもでも遊びやすい遊具も沢山あり、巨大な歯車のような個性的なコンビネーション遊具は高さも控えめです。鉄棒やブランコ・砂場といった人気の遊具も揃っています。ロッキング遊具は新幹線とパンダの2種類あり、乗り物好きも動物好きも楽しめます。遊具エリアとフリースペースの間には、背の高い木が茂る緑道があり、色とりどりの花や紅葉や木の実など、季節ごとの自然を堪能できます。中央には築山もあり、冒険気分が味わえます。



足立市場の手前に、斜めに延びた遊歩道があります。

やっちゃば緑道

千住の青物市場の起源は古く天正の頃にさかのぼるといわれ、江戸中期以降は、神田・駒込とならぶ江戸の三大市場であった。往時、旧日光街道に面した千住河原町かいわいは、「やっちゃやっちゃ」のセリのかけ声で賑わった。この緑道は、市場が昭和十六年に東京市に移管された後、建設された引込鉄道の跡地を足立区が譲り受け整備したものである。




大正初期のやっちゃばの様子です。



足立市場の裏門から入ります。競りはとっくに終わり、今は人影も見えません。ターレーも充電所に並んでいます。



足立市場の場内に、市場の守護神を祀る千潮金刀比羅宮が鎮座しています。明治時代、橋戸町内には水天宮が二社ありました。ひとつは現在の足立市場内にあり、もうひとつは橋戸稲荷境内地にありました。橋戸稲荷境内地の水天宮は池の小さな祠でした。周囲は隅田川北岸の湿地帯で、満潮時や降雨増水時には池に祠が浮かび上がっていました。崇敬者は膝まで水に漬りながら参詣する有様で、浮島金刃比羅様の異名がありました。大正時代、東京府北豊島郡南千住町字汐入にあった千住鮮魚販売所(現在の足立市場の前身)内に、伏見稲荷神社から分霊を戴き、千潮稲荷神社が創建されました。関東大震災以後、千潮稲荷神社は足立区内を何ヶ所か移転した後、昭和二十年(1945年)に現在の足立市場の敷地内に仮遷座しました。その後、水産と青果の業者が「講」を作り、昭和二十九年(1954年)に4年計画で敷地を整備して、この場所に鎮座しました。千潮稲荷神社は、昭和四十一年(1966年)に足立市場内にあった水天宮(金刀比羅宮)と合祀され、現在の「千潮金刀比羅宮」になりました。ちなみに、合祠の際に橋戸稲荷の氏子らによって水天宮の本殿と拝殿は敷石まで含めて橋戸稲荷神社へと持ち去られ、市場内の跡地には御神体と土地のみが残りました。その後、市場内の跡地に社殿が再建されました。ご祭神は、大物主命(オオモノヌシノミトコ)・安徳天皇・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)で、本務社は素盞雄神社です



鳥居をくぐって右側には「塚田社記」と記された石碑があり、この社の縁起が刻まれているようですが、文字が細かくて読めません。その隣には「千潮稲荷」と題された縁起碑があり、元となった千潮稲荷神社の由緒が刻まれています。



足立市場は、東京都中央卸売市場の市場で、千住宿の青物市場として天正年間(1580年頃)から存在していた「やっちゃ場」をルーツとしています。 神田市場・豊島市場(駒込市場)と並び、江戸の三大青物市場のひとつで幕府の御用市場でした。東京都が戦時中の昭和十七年(1942年)に現在地を買収し、千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場「足立市場」を昭和二十年(1945年)2月11日に開場しましたが、開場2か月後の4月13日の東京大空襲により全焼しました。昭和五十四年(1979年)9月17日には取引量の増加で施設が手狭になり、青果を取り扱う部門を足立区入谷に新設した北足立市場に移転し、足立市場は水産物専門の市場として生まれ変わりました。



足立市場内には一般の人も利用できる5つの食堂があり、市場直送のおいしい海鮮料理などを食べることができます。



武寿司は、プロの板前や市場内で働く人も多く訪れる寿司店です。 同じ魚でも時期によって産地を厳選して仕入れ、店主の目利きは確かです。店主自ら酒蔵に足を運んで選んだ地酒も20種類以上あり、寿司をつまみながら朝飲み・昼飲みも満喫できます。武寿司の店主は、立ち退きのため惜しまれつつ2021年に閉店した南千住のコツ通りにあった三亀鮓の光井さんで、廃業した武寿司の跡を継いで2022年8月から営業しています。



かどのめし屋は、市場の関係者や近隣の会社員などで賑わう海鮮定食屋です。新鮮な魚介類を使った海鮮丼や、大きな天ぷらが目を引く天丼は勿論、昔ながらのシンプルなラーメンや八戸ラーメンも人気です。特に、八戸ラーメンは本場の青森から素材を取り寄せて作る本格派で、都内で八戸ラーメンを食べられる数少ないお店のうちのひとつです。近隣への弁当の配達も行っていて、日替わり定食はその日のうちにすべて売り切れるほど好評です。



しいはし食堂は、兄妹3人で営む庶民的な雰囲気の食堂です。昭和十一年(1936年)に創業した老舗で、親子4代に渡って通う常連客もいるとのことです。メニューには焼き魚や煮魚の他、開化丼やあいかけなどもあります。調理を担当する長男の賢治さんは御年80才で、できるだけ良い素材を使い、手抜きをしないことをモットーに、父親から受け継いだ味を今もなお守り続けています。



市場めしとくだ屋は、仲買人の店主の目利きによる新鮮な魚介をリーズナブルに楽しめる定食屋で、朝8時からオープンしています。丼や定食に付いてくるあら汁は、魚介の旨みが凝縮されて美味です。また、平日17時からは「109Daya(とくだや)」というビストロとなります。朝昼とはまた違ったメニューがいろいろ味わえて、こちらもお勧めです。



ポイント9.旅立ちの芭蕉像

足立市場正門のすぐ横の旧日光街道入口に「千住宿 奥の細道 プチテラス」があります。

平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曾良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。
   遥かなる奥の細道へ




道路脇の狭いスペースですが、松尾芭蕉の石像が建っています。芭蕉と弟子の曽良がこの地から奥の細道の旅へ出立した際に、矢立の句を詠んだ時の様子を表わしています。



芭蕉像の足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。



芭蕉と菖蒲園(為成善太郎)の句碑が建っています。芭蕉の句の「鮎の子の白魚送る別れ哉」は、「白魚は、旧暦2月頃に産卵のために川を上る。鮎は、その1ヶ月ぐらい後に遡上すると言われている。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てた。」と解釈されます。



芭蕉とは関係ないですが、千住宿を通った大名行列が描かれています。

大名行列

今をさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最も良く整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参(勤)交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍(偲?)ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。




プチテラスから国道4号線を横断歩道で渡ります。横断歩道の南側には、隅田川に架かる千住大橋があります。千住大橋は旧橋(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されていて、旧橋の上流側に都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋が並行しています。旧橋は昭和二年(1927年)に架けられ、新橋は昭和四十八年(1973年)2月に架けられました。旧橋の橋長は91.6mですが、新橋は南千住交差点をオーバーパスする陸橋部が含まれているために橋長は502.5mとなっています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄三年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋でした。当初の橋は、現在より上流200mほどの当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場がったところに架けられました。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次で、橋長は66間(120m)・幅4間(7m)の橋でした。土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。架橋後は単に「大橋」と呼ばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道・奥州街道・水戸街道の街道筋がこの橋に移りました。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めませんでしたが、後に明暦の大火等もあり交通上・安全上のため両国橋などが完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれるようになりました。今でも橋の嬌名プレートには「大橋」とだけ書かれています。



ポイント10.千住大橋駅

横断歩道の北側には、国道4号線を跨いで京成本線の跨線橋が架かっています。千住大橋駅は足立区最南端の駅で、昭和六年(1931年)12月19日に開業しました。当初は相対式ホーム2面2線の構造でしたが、昭和五十二年(1977年)10月に成田空港駅(現在の東成田駅)乗り入れ開始と駅下を通る日光街道(国道4号線)拡幅に合わせて改良工事が行われ、現在の島式ホーム2面4線と待避設備(1・4番線)に変更され、現在の形態になりました。



歯科医院の看板も駅の行き先表示板に合わせています。予防と治療を繋ぐ歯科医院ということでしょうか。



かって、千住大橋駅の南西側に隣接してニッピとリーガルコーポレーションの本社があり、周辺は工場地帯でした。平成二十一年(2009年)3月にリーガルコーポレーションが土地を売却し、UR都市機構とニッピが開発の主体となり、「ポンテグランデTOKYO」と名付けられた大規模な再開発が行なわれました。「ポンテグランデ」はイタリア語で「大きな橋」を意味していて、地区の東側に近接する千住大橋に因んでいます。東西に賑わいの景観軸となる道路「かつら並木ニッピ通り」、南北に緑の景観軸となる歩道「ポンテグランデ緑道」が通り、駅前には交通広場が設けられました。交通広場の真ん中には高野槇のシンボルツリーが植えられています。

交通広場のシンボルツリー 「高野槙」

交通広場の中央に見える立ち木は、交通広場のシンボルツリーとして植樹した常緑針葉樹「高野槙」です。和歌山県の高野山に多いことに由来する命名です。高野槙は、”水に強くて朽ちにくいことから、橋の支柱として利用されていました。「千住大橋」は、徳川家康から普請奉行に任じられた伊奈備前守忠次が、文禄三年(1594年)、荒川(現在の隅田川)に架橋した木造橋「大橋」がその始まりです。大橋はその後流失のたびに架け替えられ、江戸時代を通じて維持されました。当時、多くの人々から名橋と謳われたその力強い姿は、江戸の名所として浮世絵師や画師たちの題材に度々取り上げられました。この千住の大橋の橋杭材として用いられたのが高野槙です。昭和二年(1927年)、金属製のアーチ橋に架け替える際、木造橋を惜しんだ千住の人々は、その橋杭を素材とした彫像製作を地元の木彫家に依頼しました。以後作品は家々で守られ、大橋の歴史を今日に伝えています。なお、当時の木造橋の橋杭三本は、現在でも千住大橋の橋下の水中に見ることができます。高野槙は千住大橋さくら公園にもシンボルツリーの一本として、植樹されています。




ちなみに、木造橋の橋杭三本は千住大橋の橋下の隅田川の水中に残っています。

水面に浮ぶ三個のブイの謎

それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。千住の大橋は徳川家康が文禄三年(1594年)に隅田川に初めて架けた橋で、橋の木枝は架橋を進言したと言う伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った杭橋である。その水中より引抜かれた橋杭を材料にして、千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(1890年〜1957年)が恵比寿大黒天などを作っている。これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町家に大切に保存されている。

※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り、子供達の遊び場だったが、戦争の困(混?)乱時に鉄は供出、木はかまどで灰になった。




交通広場の向かいには、「ポンテポルタ千住」という商業施設が平成二十六年(2014年)4月18日に開業しました。ポンテポルタ千住は、ポンテグランデTOKYOの玄関口につくられたショッピングモールで、施設名はイタリア語の「ポンテ(橋)」と「ポルタ(門)」と地域名称の「千住」を付加して命名されました。駅から徒歩1分のアクセスの良いこの立地で、地域の人々に交流と賑わいの場を提供したいという思いが込められています。ポンテポルタ千住はスーパーマーケット・カフェ・飲食店・衣料品・雑貨などの専門店からなり、日常使いから休日のお出かけスポットとしても利用することができます。



ポイント11.千住スポーツ公園

千住大橋駅から京成本線の高架に沿って進みますと、右手に千住スポーツ公園があります。千住スポーツ公園は運動場中心の公園で、屋外にはテニスコート3面(オムニコート・ナイター設備あり)、運動場(少年サッカー用1面・200メートルトラック)があります。運動場では、低学年のラグビー体験など単発のイベントも実施されています。北側の建物内には、弓道場(6射28メートル)や、可動式相撲場となるホール・会議室があります。



南側には、健康遊具が多数設置されているエリアがあり、遊びながら運動不足を解消できます。桜並木も美しいので、春は特にお勧めです。



ポイント12.千住桜木町公園

千住スポーツ公園から千住桜木町公園に向かいます。千住桜木町公園は、隅田川の東河原にある区立の公園です。



面積4、442平方メートルの広々とした敷地内には、赤い三角屋根から直線や曲線を描いてすべり下りるカラフルな色彩のすべり台や、プランコなどの遊具が点在しています。公園の周囲には数々の種類の木々や芝生が植栽され、緑が多く落ち着いた雰囲気が漲っています。桜の蕾も大分膨らんできました。



公園内には、これから向かうおばけ煙突のモニュメントが展示されています。

おばけ煙突の由来

「おばけ煙突」を知っていますか。昭和三十年代当時、東京の下町でシンボル的存在だった千住火力発電所の煙突、それが通称「おばけ煙突」です。4本の煙突は菱形に配置されていたため、見る角度によって4本だったり、3本だったり、2本や1本にも見え、そんな名前がついたそうです。また、時々思い出したように煙を吐く煙突を見て、いつしか近所の人々がつけたという話もあります。とにかく場所によって本数が変わり、いつ煙を吐くかわからないこの煙突のことをいつしか「おばけ煙突」と呼ぶようになったのです。

公園入口のゲートで当時のおばけ煙突の大きさを体感できます。ゲート天井には煙突の配置を示した天窓があります。登り棒はおばけ煙突の配置となっています。見え方が変化する地点を探してみましょう。




これは4本に見えますね。



これは3本に見えますね。



これは遠くから見ると2本に見えたかもしれません。



どこから見ても1本には見えませんが、遙か遠くからだと1本に見えたのかもしれません。



千住桜木町公園から隅田川の土手に上がります。右手には、帝京科学大学の校舎と広大な運動場があります。2010年4月に開設された千住キャンパスは、隅田川を臨むウォーターフロントに建ち、附属動物病院(アニマルケアセンター)・カフェテリアやコンビニ・各学科の実習室や講義室を併設した「本館」・本館と緑の道で結ばれた2号館と階段教室がある3号館、そして2015年3月に完成した7号館から構成されています。これらの建物は環境保護への取り組みや省エネルギー化にも配慮し、同時に地域との融合やコミュニケーションを育てる場として考えられています。



かって、千住火力発電所の燃料となる石炭を隅田川から船運で運び入れた運河と思われる跡が残っています。



ポイント13.おばけ煙突モニュメント

この地には、かって千住火力発電所がありました。千住火力発電所は、4本の煙突が眺める場所によって本数が変化するおばけ煙突で知られていました。帝京科学大学千住キャンパス本館の入口に、おばけ煙突のモニュメントが展示されています。

お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument

「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。




モニュメントの脇に、4本の煙突の模型が建っています。壁には、見る角度によって煙突の本数が異なって見えた様子が表示されています。


右側の写真で、左上から時計回りに1本(3本に見える)・2本・3本・四本と煙突の数が変化しています。


お化け煙突は、上から見ると菱形に配置されていたために、見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えました。1本に見えるのは千住の旧区役所(現在のあだち産業芸術プラザ)方向と、本木一丁目27番南側の荒川左岸(北側)の2方向でした。発電所は、現在の千住桜木一丁目13番北側の荒川(現隅田川)左岸に大正十五年(1926年)1月に建設され、煙突の高さは83.82メートルあり、レンガで出来ていました。その後、昭和三十年代に周囲を鋼板で補強しました。しかし、老朽化と効率化のため昭和三十八年(1963年)に発電所が閉鎖され、翌年秋から解体工事を実施し、11月末には完全に姿を消してしまいました。お化け煙突は、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」で全国的に知られるようになった他、漫画や文芸作品にも数多く取り上げられて親しまれました。

お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument

「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和二十八年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率のよい発電所が建設されたことから、昭和三十八年3月に現役を退きました。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。




当時の写真も添えられています。



煙突の一部は、この地にあった足立区立元宿小学校で滑り台として使われていました。



尾竹橋は隅田川に架かる橋で、尾竹橋通り(都道313号線)を通しています。橋名は、北詰の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因んでいます。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていましたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから、この名で呼ばれたとされています。付近は千住や西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和九年3月に関東大震災後の復興事業の一環として架橋されました。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで、当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)でした。太平洋戦争中には、金属供出によって高覧が撤去されるなどしましたが、戦災をくぐりぬけ、現在の橋は平成四年(1992年)に架け替えられたものです。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。



尾竹橋の袂には、千住桜木わんどがあります。「わんど」とは、川の本流と繋がっていますが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことです。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっています。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えています。漢字では、「湾処」と表記されます。



ポイント14.尾竹橋公園

尾竹橋公園は、隅田川に架かる足立区の尾竹橋の北西に位置する区立の公園です。



面積が16、871平方メートルの広々とした敷地内に、すべり台などの遊具や砂場が点在しています。大人には懐かしい雲梯やシーソーなどで遊ぶこともできます。他にも、少年野球場やテニスコートなどのスポーツ施設を備えていて、各種の運動に利用できます。また夏季にはじゃぶじゃぶ池が開放され、子ども達が歓声を上げながら水遊びをしています。



公園内に、「千住北魚市場跡」の石碑が建っています。千住大橋の袂にある足立市場の前身となる市場で、大正十四年(1925年)に開設されました。昭和十年に東京市が中央卸売市場の足立分場を計画し、それを受けて昭和二十年に移転しました。



公園内には、里帰り桜が植えられています。

ワシントンからの里帰り桜

足立区江北の一帯は、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。「五色桜」とはソメイヨシノの他に、当時、珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色、濃紅色などに彩どられ、五色の雲がたなびく如く見えたところからこの名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、十二品種三千本の桜苗を、首都ワシントンに贈った話は有名ですが、このときの桜が「五色桜」でした。その後、ワシントンのポットマック公園は世界的な桜の名所となりました。しかし、本家の「荒川の五色桜」は、堤防工事や公害の影響で衰退してしまいました。足立区では、この由緒ある「五色桜」を復活させるため、区制五十周年記念事業として、「桜の里帰り」を計画しました。そして昭和五十六年二月、多くの関係者の努力と米国の協力により、主としてポットマック公園の桜から枝を採取し、三十五品種三千本の「桜の里帰り」が実現しました。ここに植えられている桜は、この里帰りした桜の一部です。区内の緑化、美化のために、みなさんで大切に育てていきましょう。




ポイント15.荒川土手

公園を出て、荒川土手に上がります。



荒川の下流側には西新井橋、上流側には尾久橋通りを通す扇大橋が架かっています。



扇大橋と並んで日暮里・舎人ライナーの都営荒川橋梁が架かっています。都営荒川橋梁は、荒川の河底から橋面までの高さが53.2mもあり、架設当時は荒川に架かる最も高い橋でした。また、架橋場所の左岸側の斜面の傾斜が右岸側より緩慢な地形であることから、左岸側には橋脚を立てて15.545mの上路式単純プレートガーダー橋を別途配置して延長しています。南詰には足立小台駅、北詰には扇大橋駅があります。



扇大橋は、荒川河口から15.5キロメートルの位置に架かる橋で、左岸側堤内地には取り付け道路の斜路がありますが、右岸側では隅田川に架かる尾久橋と直接接続しています。扇大橋は昭和四十九年(1974年)に下り線のみで暫定開通し、上り線は昭和五十四年(1979年)に開通しました。



ゴール地点の日暮里・舎人ライナー足立小台駅東口に着きました。



ということで、足立区で五十四番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 54.千住川巡りコース」を歩き終えました。次は足立区で五十五番目となる「E−千住・新田エリア 55.あだち五色桜の散歩みちコース」を歩きます。




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