- E−千住・新田エリア 55.あだち五色桜の散歩みちコース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「E−千住・新田エリア 55.あだち五色桜の散歩みちコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年3月に改めて歩きました。
スタート地点:北千住駅西口
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1.千住ほんちょう公園
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2.学びピア
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3.大川町氷川神社
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4.千住公園
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5.帝京科学大学
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6.尾竹橋
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7.尾久の原公園
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8.尾久橋
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9.扇大橋
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10.あだち五色桜の散歩みち
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11.鹿浜橋
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12.荒川河川敷
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13.都市農業公園
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ゴール地点:都市農業公園バス停
スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.千住ほんちょう公園
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千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。
入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。
公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。
園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。
宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。横山家住宅があります。
横山家住宅
横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
蔵の造りが図解されています。蔵は母屋の奥に建っています。
横山家の蔵(非公開です)
江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を
埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。
天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が
わかります。
外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。
外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。
腰巻部分には煉瓦が使われています。
入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。
戸口は街道から一段下がっていて、上にいる客を下から迎える形となっています。
横山家住宅の向かいに、吉田家があります。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。
千住絵馬屋・吉田家
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。
横山家と吉田家の先に「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。
宿場通りの北端の交差点の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。
その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。
交差点を左折した先に、「まるせん」という持ち帰り専門の焼き鳥屋さんがあります。とにかく1本あたりの価格が安い!安すぎる!安すぎて、驚きですが、身はちゃんとしっかりしていて焼き鳥は美味しいです。他の串も100円以下とかなので、コスパは最高です。
焼き鳥屋さんのはす向かいに安養院があります。安養院は、西林山長福寺安養院と号し、鎌倉時代に北条時頼が創建したと伝えられます。元々は元宿(現在の千住元町)にありましたが、慶長三年(1598年)に兵火で焼失した後、現在地に移転しました。江戸時代、徳川幕府の将軍は鷹狩のために江戸郊外のこの地を度々訪れていて、安養院は「御膳所」(休憩場所)に充てられました。
安養院
当寺は鎌倉時代に北条時頼が創建し、北条氏政の祈願所であったとも伝わる。もと千住元町(小名釜佛耕地)にあったという。山号を西林山、寺号を長福寺と称した。慶長三年(1598年)、現在地に移り、後に寺号を安養院と改めた。本尊の銅造阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代制作と思われ、背面に宝永四年(1707年)九月二十六日の修理銘がある。中世にさかのぼる仏像として足立区登録有形文化財(彫刻)になっている。その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師坐像・密教用法具・真言密教の経典・古文書等が保存されている。中興開基第一世は真言宗の賢智上人で、北条の臣高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で寺運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の檀林となり、多くの仏弟子を世に送った。本堂は関東大震災で倒壊し、翌年の大正十三年、第二十二世良道僧正によって再建されたものである。
境内には、石で叩くと「カンカン」と音がすることから「カンカン地蔵」と呼ばれる地蔵があります。
令和四年(2022年)、千住寿町にあった銭湯「大黒湯」(1929年創業・2021年6月廃業)の唐破風屋根などが安養院に移築され、屋根に付け替えられることになりました。
- ポイント2.学びピア
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安養院の先の荒川の堤防に面した風光明媚な場所に足立区生涯学習総合施設(愛称:学びピア21)が建っています。1〜3階は足立区立中央図書館、4階は足立区環境情報プラザと足立区生涯学習振興公社、4〜5階には足立区生涯学習センター、6階には放送大学東京足立学習センター、7階には地域包括支援センター「千住本町」が併設されています。学びピア21は、あらゆる世代、あらゆるニーズに合った生涯学習が提供できる施設となっています。生涯学習センターでは、区内13の生涯学習施設の基幹施設として、高度で専門的な学習をはじめ、暮らしに役立つ学習、様々な学習情報の提供など、区民ニーズや社会的な課題に対応した多様な生涯学習を実施しています。
この地には、かって千住旭小学校がありました。千住旭小学校は、昭和十五年(1940年)8月28日に開校し、平成三年(1991年)4月1日に千寿第一小学校と統合して足立区立千住本町小学校が開校しました。千住本町小学校の敷地は千寿第一小学校の跡地を利用したため、千寿旭小学校は廃校となりました。その跡地に学びピア21が建てられたのです。
- ポイント3.大川町氷川神社
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国道4号線を渡って、路地を進んだ先の荒川土手の手前に氷川神社があります。氷川神社の創建は永仁二年(1294年)で、鎮座する地名を冠して大川町氷川神社とも称されます。元々は千住五丁目の川田耕地にありましたが、荒川放水路建設工事の区域に含まれたため、大正四年(1915年)に遷座しました。
参道の左手に、旧千住新橋の親柱が保存されています。
旧千住新橋の標柱
この石柱は、旧千住新橋の親柱である。千住新橋は、明治四十四年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年より同十三年までの永い歳月と、119万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ452.7メートル、幅7.2メートル、鋼板桁の近代橋であった。その後昭和三十二年に幅17メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることとなったのである。架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
親柱の橋名には「?んぢゆ志んはし」と書いてあるようなないような。隣の石碑には「千住新橋?碑」と書いてあるようなないような。
氷川神社は、千住七福神の布袋尊を奉祀しています。布袋尊は人びとに幸せを分け与える福の神で、七福神のうちの布袋様として親しまれています。布袋尊は、中国の唐時代に実在した契此という名のお坊さんがモデルになっています(布袋という名前は、契此がいつも大きな布の袋をかついでいたことに由来します)。生涯にわたって中国の各地を放浪していた契此は、いつもニコニコした笑顔で人びとに接する心豊かで楽天的な人物であったそうです。お布施でもらった生活必需品を大きな袋に入れて持ち歩き、必要な人に分け与えていたと言い伝えられています。契此には未来の出来事や天気を予知するという不思議な能力もあり、最後は仙人(布袋尊)になりました。布袋尊は後に日本に伝わり、江戸時代以降、七福神のメンバーに名を連ねるようになりました。布袋尊は、福徳円満の神さまとして、今でも大きな人気を集めています。氷川神社の布袋尊は平成二十年(2008年)に長円寺から移転され、1月1日から1月7日にかけて千寿七福神巡りが行われていて、受授品を用意して参拝者を迎えています。
お祭の時期ではないと思いますが、神輿庫の扉が開けられています。例年お正月の元旦に初担ぎの神輿渡御が行なわれます。
氷川神社の祭神は素戔嗚尊・倉稲魂命で、例大祭が9月15日に行われます。式典では、拝殿の上から神職や氏子による豆撒きが行われます。豆撒きの中身は、豆・みかん・菓子・カップ麺・カレーのルーなど食品類が中心で、豆撒きが終わると子供たちにみかんが配られます。
拝殿の脇に、天保十四年(1843年)に建立された紙すき碑が建っています。荒川放水路(現在の荒川)の建設に伴って、碑は大正六年(1917年)に境内に移転し、再建されました。碑には、当初の問屋21軒の名前が記され、昭和五十七年(1982年)12月10日に足立区登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。千住四丁目にある足立区登録有形民俗文化財の横山家住宅は、この問屋のひとつで、「松屋」(当主は佐助)を営んでいました。江戸時代の千住宿の最大の産業は、流通業(問屋業)であり、中でも問屋制家内工業であった地漉紙(古紙を再利用する再生紙)の生産差配と流通が盛んでした。江戸時代は鎖国政策のため海外から使用済みの紙が輸入されることがなく、京都や大阪で使用された紙は貴重な資源でした。天保十四年6月29日、千住の地漉紙問屋が奉行所に呼びだされ、供給不足により高騰していた地漉紙を増産し潤沢にするように命じられました。その後、地漉紙問屋たちが緊急生産し、7月7日に奉行所に報告したことで、江戸府内の地漉紙不足が解消されました。この碑には、このことが誇らしく書かれています。「氏+山」の漢字は見当たりません。「代+山」ならありますが、「岱のすき立」の意味が分かりません。
紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。この歌碑は、天保十四年(1843年)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に、丸永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より?(岱?)のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせきするわさは田をつくるひなの賤らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが、稲作りにも劣らない仕事であるという自賛の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年に移転し、再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
氷川神社内にある富士塚は川田富士と名付けられ、荒川放水路ができる前は千住川田の浅間神社にありました。文化七年(1810年)に築造され、昭和四十三年(1968年)に氷川神社の境内に移築されました。「大川町氷川神社富士塚」の名称で、昭和五十七年(1982年)12月16日に足立区登録有形民俗文化財(富士塚)に登録されていました。
千住川田浅間神社冨士塚
冨士塚は文政七年(1824年)築造。祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在地に移築復元され今日に至っている。塚は、冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。山頂に、天保二年(1831年)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(1824年)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年七月一日祭礼が行われる。
富士塚が現在の地に移築されたのは明治百年の年に当たる昭和四十三年(1968年)でした。この石碑はそれを記念するために建てられたものと思われますが、文字は判読できません。
富士塚の高さは3メートルほどあり、山頂には、天保二年(1831年)と記された石祠があります。石祠はいくつかあり、文政七年(1824年)のものには、「丸藤惣同行、富士山三十三度大願成就」と記されています。江戸には、富士講が八百八講あったとされ、千住の講は丸藤千住十三夜同行です。丸藤とは、元講の名前で、千住は地名、十三は、食行身禄行者の命日、法行を夜行うということから講名がつけられました。千住の富士講は、享保期から活動が見られ大正九年(1920年)頃に最も活発に行われていました。千住地域には、大川町氷川神社・千住神社・柳原稲荷神社に富士塚があります。そこに山があるからには登らなければなりますまい。
登山道には手すりがなく、岩を掴みながらの上り下りは結構手強かったです。
- ポイント4.千住公園
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氷川神社の裏門から退出し、住宅地の路地を進みます。路地を進んだ左手に千住公園があります。千住公園は、子供の遊び場が豊富な公園です。園内には遊具・じゃぶじゃぶ池・ボール遊びのできる広場などがあり、広い敷地でのびのびと遊ぶことができます。公園の周囲は煉瓦色のパーゴラで囲まれ、夏には緑の屋根になります。
4色の円柱に守られた子どもに人気の丸いじゃぶじゃぶ池は、夏には幼児用のプールになります。暑い日に、無料で安全に水遊びができるスポットとして、多くの親子連れに利用されています。
日陰のベンチにすわって休憩したり、子どもを見守ったりできます。
広場と複合遊具やブランコがあり、夏以外のシーズンも親子で遊びに行ける公園です。
また、大人が利用できるコンテンツも豊富です。ほぼ毎朝ラジオ体操が開催されているほか、高齢者向けの運動イベント「パークで筋トレ」も隔週で開催、健康器具も設置されています。大人から子供まで体を動かせる公園です。
らくらく健康器具 スプリングバー
ぶら下がりや懸垂運動をしましょう。スプリングがとびついた時のショックを柔らげてくれます。
らくらく健康器具 1208
ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。
公園のある千住大川町と川田耕地の関わりを記した案内板が立っています。
千住大川町と川田耕地
千住大川町は、昭和七年10月1日、それまでの東京府南足立群(郡?)から東京市への編入によって千住大字大川町区域の町名として誕生しました。この名前は、その前年、 昭和六年1月1日に行われた千住町字名地番整理により、川田耕地(旧千住町大字五丁目の字)を中心に、西耕地(旧千住町大字一丁目から五丁目の字)全佛耕地(旧千住大字四丁目と五丁目の字)の3耕地で構成された大字大川町に由来しています。また、大川町という名は、荒川放水路の沿岸であることにちなんで付けられたものと言われています。川田耕地は、荒川放水路が開削される以前は、現在の千住大川町の北半分から梅田三丁目付近までにいたる広い地域を占め、家屋や田園がありました。放水路の工事によって、ここに住む人々の住居や浅間神社は、移転を余儀なくされましたが、現在でも石碑や祭太鼓などに川田の名前は伝えられています。
元千住公園の直ぐ先に古風な銭湯があります。「タカラ湯」の銭湯の名の通り、軒下には宝船の彫り物が掲げられています。タカラ湯は、昭和十三年(1938年)に建てられたという見事な門構えに加え、「キングオブ縁側」と称される日本庭園を望む立派な縁側や、昭和の風情が残る開放感と清潔感のあるお風呂など、数々の魅力で老若男女に愛されています。
タカラ湯から道なりに進みますと、墨堤通りに出ます。道路の向かい側に元宿堰稲荷神社があります。創建は宝暦四年(1754年)で、昭和二十年(1945年)11月に元宿神社の境内社に編入され、昭和二十二年(1947年)2月に元宿神社から独立しました。旧社名は「千住四本煙突守護社」で、昭和三十九年(1964年)に閉鎖された東京電力千住火力発電所を鎮守する鎮守社として、企業発展の守護者とされています。
元宿堰稲荷神社の脇には元宿圦という堀がありました。千住火力発電所の燃料を運び込むための運河だと思っていましたが、昔からあった堀だったんですね。
ここは元宿堀があった場所
江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。昭和十年頃までの元宿堀は、荒川(通称隅田川)への船の出入り口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事等を経て現在の形になりました。
現在、帝京科学大学の本館が建っている場所には、元宿小学校がありました。
葛飾北斎はこの場所から冨嶽三十六景「武州千住」を描きました。
冨嶽三十六景 「武州千住」 千住浮世絵顕彰碑
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
墨堤通りに面してこじゃれたイタリアンがあります。周辺はさほど賑やかな雰囲気はなく、場所的には恵まれていませんがお料理は評判なようです。トラットリアイルセイは北千住でも穴場的なお店らしく、特にランチのラザニアセットがお勧めとか。ワインはどうかな?
- ポイント5.帝京科学大学
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元宿圦跡の道路を隅田川方向に進みます。右手に帝京科学大学千住キャンパス本館の建物があります。
2010年4月に開設された千住キャンパスは、隅田川を臨むウォーターフロントに建ち、附属動物病院(アニマルケアセンター)・カフェテリアやコンビニ・各学科の実習室や講義室を併設した「本館」・本館と緑の道で結ばれた2号館と階段教室がある3号館、そして2015年3月に完成した7号館から構成されています。これらの建物は環境保護への取り組みや省エネルギー化にも配慮し、同時に地域との融合やコミュニケーションを育てる場として考えられています。
帝京科学大学千住キャンパス本館が位置するこの地と元宿堀を挟んだ対岸には、かって千住火力発電所がありました。千住火力発電所は、4本の煙突が眺める場所によって本数が変化するおばけ煙突で知られていました。帝京科学大学千住キャンパス本館の入口に、おばけ煙突のモニュメントが展示されています。
お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument
「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
モニュメントの脇に、4本の煙突の模型が建っています。壁には、見る角度によって煙突の本数が異なって見えた様子が表示されています。
左上から時計回りに1本(3本に見える)・2本・3本・4本と煙突の数が変化しています。
お化け煙突は、上から見ると菱形に配置されていたために、見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えました。1本に見えるのは千住の旧区役所(現在のあだち産業芸術プラザ)方向と、本木一丁目27番南側の荒川左岸(北側)の2方向でした。発電所は、現在の千住桜木一丁目13番北側の荒川(現隅田川)左岸に大正十五年(1926年)1月に建設され、煙突の高さは83.82メートルあり、レンガで出来ていました。その後、昭和三十年代に周囲を鋼板で補強しました。しかし、老朽化と効率化のため昭和三十八年(1963年)に発電所が閉鎖され、翌年秋から解体工事を実施し、11月末には完全に姿を消してしまいました。お化け煙突は、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」で全国的に知られるようになった他、漫画や文芸作品にも数多く取り上げられて親しまれました。
お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument
「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和二十八年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率のよい発電所が建設されたことから、昭和三十八年3月に現役を退きました。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
当時の写真も添えられています。左側の写真には、元宿小学校で煙突の外周が滑り台として使われていた頃の様子が映っています。
これは4本に見えますね。
これは3本に見えますね。
これは遠くから見ると2本に見えたかもしれません。
どこから見ても1本には見えませんが、遙か遠くからだと1本に見えたのかもしれません。
隅田川に接する河原には千住桜木わんどがあります。「わんど」とは、川の本流と繋がっていますが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことです。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっています。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えています。漢字では、「湾処」と表記されます。
- ポイント6.尾竹橋
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尾竹橋は隅田川に架かる橋で、尾竹橋通り(都道313号線)を通しています。橋名は、北詰の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因んでいます。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていましたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから、この名で呼ばれたとされています。付近は千住や西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和九年3月に関東大震災後の復興事業の一環として架橋されました。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで、当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)でした。太平洋戦争中には、金属供出によって高覧が撤去されるなどしましたが、戦災をくぐりぬけ、現在の橋は平成四年(1992年)に架け替えられたものです。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。
尾竹橋を渡った先の町屋六丁目交差点を右折して、かって存在した都道459号線に入ります(都道459号尾久町屋線は平成二十年【2008年】に廃止されています)。竹藪の生い茂った民家の塀の前に案内板が立っています。
あらかわの史跡・文化財
新渡し
現在の町屋五丁目と六丁目の境付近から足立区千住桜木二丁目との間を結んでいた。明治三十年の里道の巡視報告書に既に記載されており、明治後期ころから昭和前期にかけて、足立区西新井方面への渡しとして多くの人々に利用された。東方にあったお竹の渡しに対して、新たに設けられたので新渡しと称したという。昭和九年に尾竹橋が架橋され、次第に衰微し廃止された。
隅田川の護岸と道路に挟まれた一画に、馬頭観音を祀った祠が並んでいます。かつて、このあたりは秣場(まぐさば)と呼ばれていて、その中に上尾久村の馬捨場がありました。そこに祀られていた馬頭観音や荒川区内最古の庚申塔などがスーパー堤防の建設によって平成十二年(2000年)にこの場所に移設されました。
あらかわの史跡・文化財 上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目3612番地、3484番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石造物がここに移設された。かって、荒川沿いのこのあたりは、秣場と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋納が求められた。明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で使用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841年)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また、開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638年)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
祠の前には、左右に各地から集められた石仏や石碑が並んでいます。
案内板にある馬頭観音と荒川区最古の庚申塔は右側の祠内に納められているようで、見ることは出来ませんでした。ネットから転載させて頂いた右側の写真の手前左の駒型の馬頭観音は天保十二年(1841年)の馬頭観音で、奥に立つ板碑型の石仏は寛永十五年(1638年)12月に造立された荒川区最古の板碑型庚申塔です。
馬頭観音は馬頭観世音とも呼ばれ、仏教における菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身のひとつです。頭部に馬の頭を戴き、忿怒の姿をしているのが特徴です。六観音のひとつにも数えられ、特に畜生道を救済するとされています。馬頭観音はサンスクリット語でハヤグリーヴァと呼ばれ、「馬の首」を意味します。ヒンドゥー教の最高神ヴィシュヌが馬の頭に変化して敵を倒した神話が起源とされています。馬頭観音は、馬の守護神として古くから信仰されてきました。近世以降は、馬の供養塔や墓標として数多く祀られ、動物愛護の守護としても信仰されています。無病息災・動物救済・厄除け・旅行安全などのご利益があるとされています。日本では、馬頭観音の石仏や石碑が数多く残されています。特に、馬が移動や荷運びの手段として重要だった時代には、路傍や馬捨場などに供養塔として建立されました。
- ポイント7.尾久の原公園
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尾久の原公園は、大正時代から続いた旭電化(現:ADEKA)尾久工場跡地に造られた荒川区内では唯一の都立公園です。戦後、東京都が工場跡地を買収し、敷地の東半分が公園として整備され、平成五年(1993年)6月1日に開園しました。敷地面積は約6万u以上あり、サクラ・アシ・チガヤ・ミソハギなど、512本・1、986株の樹木が植樹されています。公園は、豊かな水辺の環境を活かして整備され、雨水が溜まってできた池と湿地の周辺はアシなどの湿生植物が生い茂り、希少植物の生育地となっています。野鳥や約30種類のトンボ、池にはザリガニやカエルなどが生息し、東京都のレッドリストにも掲載されています。また、芝生広場・水辺で遊べる流れ・じゃぶじゃぶ池が整備されていて、遊具などの施設はあまりありませんが、四季折々の自然に触れながら遊ぶことができます。
尾久の原公園一帯は、かって十三坊塚と呼ばれていました。
十三坊塚
この付近はかつて十三坊塚と呼ばれていた。文政十一年(1828年)刊の「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久村に高さ五尺(約150cm)ばかりの塚が四ヶ所、下尾久村に高さ五尺、周囲七・八尺(約210cm・240cm)の塚が八ヶ所あり、それらを「十三坊塚」と呼んだという。この内、下尾久村にあった砂利塚からは太刀と具足が出土したと記されている。この塚は両村の境にあったと思われ、上尾久村には「十三房」という小字があった。十三坊塚は全国に分布し、境界の目安や、村境において災いや疫病・害虫の進入を防ぐ役割を果たしていたものと推測されている。塚は大正六年に旭電化の敷地となって消滅した。「旭電化通り」の名は、この地にあった旭電化工業尾久工場にちなむ。
尾久の原公園を散策します。流れ(じゃぶじゃぶ池)は、毎年7月下旬から8月末頃の夏休みの期間に稼働します。期間中は多くの子供達が遊びに来て、一日中賑わう施設です。
芝生広場では、ピクニック気分でシートを広げてお昼寝をするなど、憩いの場となっています。
尾久の原公園は桜の名所として知られています。しだれ桜が多いようです。「獅子吼」と「櫻」の関係がよく分かりません。普通は「枝垂れ桜」と書くんですがね。
獅子吼櫻(ししくさくら)
しだれさくら
2026年3月に再訪した時は桜の花は未だ咲き始めの状態で、お花見には早いようでした。
公園の中央には、昔湿地だった名残としてトンボ池と呼ばれる池があります。数多くのトンボの貴重な生息地となっています。
尾久の原公園のトンボたち
池の水源は、雨水です。渇水期、池は平上がります。日照、気温など気象に左右されます。いままで、8年間に確認されたトンボは32種。都内屈指のトンボ生息地です。
今は葦が枯れて僅かな水面が顔を出しているだけですが、春になると葦の生い茂った自然の池になります。
尾久の原公園の水辺の案内
●尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。
●水辺の水源は、主に園内に降った雨水です。多様な環境を作り出すため、水深は均一にしてありません。また、大雨の時は、外に水を流す仕組みになっています。
●この水辺は、【水辺T】と【水辺U】の区域にわけることができます。
【水辺T】は防水シートや補助水源(工業用水)によって、常に水がある状態の区域です。ここでは乾燥が続いても、トンボ等の水生昆虫生育に適した、一定の水位を確保しています。
【水辺U】は従来どうり自然の摂理にまかせた区域です。時期によっては水が無くなることがあります。
公園の園路に沿って、公園を取り囲むように区民などが植樹した木を含めておよそ200本のソメイヨシノやシダレザクラが立ち並び、毎年4月には「シダレザクラ祭り」を開催され、多くの花見客が訪れます。
尾久の原公園から隅田川の河川敷に降りていきます。隅田川は、街と川辺を直立ではなくなだらかな坂でつなぎ、川沿いをテラスのように歩けるようになっています。このテラスは「隅田川テラス」と呼ばれています。隅田川テラスというと屋形船が通る浅草の辺りが有名ですが、実は隅田川が通る幾つもの区にまたがり、総延長32kmにわたって整備されています。
尾久の原公園から隅田川テラスに降りた辺りに、「隅田川旧防潮堤」のモニュメントが建っています。スーパー堤防の整備の際、昭和三十二年から昭和五十年にかけて建設されたコンクリート製の防潮堤の一部を残し、これまで幾多の台風や洪水から地域を守ってきた直立の防潮堤を後世に伝えるために保存・展示しているものです。
旧防潮堤は、昭和三十二年から昭和五十年にかけ、隅田川の高潮や洪水を防ぐために造られました。まっすぐ上に向かって細くなるので、「カミソリ堤防」とも呼ばれたそうです。カミソリ堤防は安心ではあるものの、溢れた水だけでなく、隅田川の眺めも遮ってしまいました。江戸の昔から川辺を散歩したり、水遊びをしたり、舟で魚を獲ったりと人々が親しんできた隅田川から日常の暮らしを遠ざけてしまう結果になったのです。プレートには、江戸時代の隅田川の風景も添えられています。
隅田川旧防潮堤
東京都は隅田川の高潮や洪水の対策として、昭和三十二年からコンクリート防潮堤建設に着手し、昭和五十年に概成しました。その結果、隅田川は高潮や洪水に対する危険性が大幅に減少しましたが、川とまちは分断されてしまい、都民は隅田川から遠ざけられてしまいました。このため、現在、東京都では隅田川を高潮や洪水に対し、より安全で都民が河川と親しめる潤いのある水辺環境に配慮したスーパー堤防へと造りかえています。このモニュメントは隅田川スーパー堤防の整備にあたり、これまで幾多の台風、洪水から地域を守ってきた直立の防潮堤を後世に伝えるため、その一部を保存するものです。下の絵図は、「江戸名所花暦」に綴られている「尾久原桜草」です。隅田川では船に乗った人たちが網を引き、競って白魚を獲っています。河岸では一面に咲いた桜草を行楽客が摘んでいる様子が描かれています。
そこで持ち上がったのが、「カミソリ堤防」を「スーパー堤防」へと造り変える計画です。その背景には、下水道の整備などによって、昭和五十年代には汚染されていた隅田川の水質が戻り、中止されていた花火大会やレガッタ大会も復活するなど、川との繋がりを求める機運の高まりがありました。スーパー堤防とは、緩やかな丘で川と街を繋ぎ、氾濫から防ぐという安全面での目的をより高めつつ、人が川により親しみやすいように考えられた堤防です。この盛り土による対処には、地盤沈下で失った地盤の高さを取り戻すという考え方も含まれています。新たな堤防の事業は、隅田川のカミソリ堤防の完成から僅か5年後の昭和五十五年から開始されました。荒川区内では、8地区・約8kmのスーパー堤防の整備を進めていて、現在までに4kmの整備が完了しています。これは、隅田川沿いでは荒川区がスーパー堤防の整備率No.1の実績となっています。
尾久の原公園の西側に洋風な建物群が並んでいます。東尾久浄化センターは、三河島水再生センターで高度処理した水をさらに高度処理し、隅田川へ放流する施設です。三河島水再生センターから自然流下で送られた水は、微生物膜を形成したろ材を有する砂ろ過施設(生物膜ろ過法)を通過することで、溶解性の浮遊物質などが除去されます。東尾久浄化センターで処理された高度処理水の一部は三河島水再生センターへ戻され、機械の冷却水やトイレ用水などとして利用されています。施設は可能な限り地下に構築し、地上構造物は隣接する都立公園やスーパー堤防との調和を配慮したデザインになっています。
- ポイント8.尾久橋
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隅田川の土手下から尾久橋に階段で上がります。「斜路」階段という言い方は初めて聞きました。自転車を引いて上り下りするための斜路が付いた階段という意味のようです。階段の脇にかって存在した渡しの案内板が立っています。
これより北に約50メートル 熊野の渡し
東尾久8丁目と足立区小台1丁目を結んだこの渡しは、昭和二十五年3月まで近隣の住民に親しまれ利用されていた。
尾久橋は隅田川に架かる橋で、尾久橋通りを通しています。北岸は足立区小台1丁目で、南岸は荒川区東尾久8丁目になっています。隅田川に架かる橋ですが、北岸部で荒川に架かる扇大橋と連続するような形になっています。橋名は、先ほどの案内板にあった「熊野の渡し」に由来しています。架橋に際しては、予定地の地盤が軟弱だったため、3径間連続鋼床版箱桁橋が採用され、昭和四十三年(1968年)に幅員12.0メートルの橋として上流側が完成し、その後昭和五十四年(1979年)に下流側に拡張工事が行われました。
尾久橋は本来隅田川に架かる橋ですが、隅田川と荒川に挟まれた土地が狭小なために荒川に架かる扇橋と繋がっています。橋の脇には日暮里・舎人ライナーの足立小台駅があり、橋の上にはバス停が設けられています。橋の真ん中でバスが停車すると交通に支障が出ると思うのですが。
- ポイント9.扇大橋
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扇大橋は尾久橋と繋がって尾久橋通りを通しています。橋長は445.4mで、昭和五十年(1975年)7月1日に下り線、昭和五十四年(1979年)に上り線が竣工しました。荒川左岸側は足立区扇、右岸側は足立区小台の町域になっていて、橋名は左岸側の地名に因んでいます。
扇大橋に隣り合って下流側には日暮里・舎人ライナーの荒川橋梁が並行して架橋されていて、南詰に足立小台駅・北詰に扇大橋駅があります。北詰では、首都高中央環状線を立体交差で越えて建設されたため、車窓からの眺めは飛行機に乗っているような感じを受けます。日暮里・舎人ライナーは、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道(AGT)で、荒川区の日暮里駅から足立区の見沼代親水公園駅までを結び、平成二十年(2008年)3月30日に開業しました。日暮里・舎人ライナーはコンピュータ制御による自動運転を行う新交通システムで、23区北東部の9.7km・13駅を結んでいます。ルートは、ほぼ全区間に渡って尾久橋通りの直上を通り、日暮里・西日暮里近辺や荒川付近を除いて概ね直線の軌道となっています。路線名は、東京都交通局と東京都地下鉄建設が一般公募を行い、選考委員会の審議を経て「日暮里・舎人ライナー」と決定されました。
- ポイント10.あだち五色桜の散歩みち
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扇大橋を渡ったところで土手上の遊歩道を上流に向って進みます。土手の上には、扇大橋から鹿浜橋の手前まで、二段になって桜の若木が植えられています。
足立の平成五色桜
東京の桜の名所を目指します
現在の足立区江北付近一帯は、明治後期から昭和初期にかけて、様々な品種の桜が植えられていた桜の名所でした。ピンク、白等「五色のかすみが棚びくように見える」ということから、「荒川の五色桜」と呼ばれていましたが、堤防工事や公害等の影響を受け、昭和二十年(1945年)頃には姿を消してしまいました。足立区では、当時の97品種の中から現存する品種を堤防の一部(約4.5km)に植え、「足立の平成五色桜」として桜の名所の復活を目指しています。
江北橋から扇大橋の間に復活した櫻
荒川包(アラカワニオイ)
花色:白、大きさ:中輪
三好学教授が、もと江北村役場の庭で発見、命名した。花に芳香があるがさほど強くない。
有明(アリアケ)
花色:白、大きさ:大輪
江戸時代初期から知られている桜。白色大輪の花を咲かせる美しい桜で、花には芳香がある。
鬱金(ウコン)
花色:黄緑、大きさ:大輪
花色がウコンという植物の根茎を使って染めた色(鬱金色)に似ている。
関山(カンザン)
花色:濃紅、大きさ:大輪
花色が濃紅色で美しく、生育もよいので海外でも広く栽培されている。
御衣黄(ギョイコウ)
花色:黄緑、大きさ:中輪
昔、天皇や貴人の衣服を御衣といい、その色が黄緑色だったことに由来。
麒麟(キリン)
花色:濃紅、大きさ:中輪
関山と非常によく似た品種。古くから知られている桜で、きりん桜として江戸時代の園芸書にもその名が記載されている。
江北勾(コウホクニオイ)
花色:淡紅、大きさ:中輪
三好学教授が発見、命名した。花には芳香があり若芽と花のコントラストが非常に美しい。
松月(ショウゲツ)
花色:淡紅、大きさ:大輪
透き通るような淡紅色の非常に綺麗な花を咲かせる。外側の花弁ほど色が濃くなる。
朱雀(スザク【シュジャク】)
花色:淡紅、大きさ:大輪
京都の朱雀にあったのでこの名がついたといわれている。花が下垂する点が特徴。
駿河台匂(スルガダイニオイ)
花色:白、大きさ:大輪
江戸の駿河台の一庭園にあったといわれる。芳香が非常に強い品種。
手毬(テマリ)
花色:淡紅、大きさ:大輪
手鞠のように花つきがよく、ボリューム感がある。
普賢象(フゲンゾウ)
花色:淡紅、大きさ:大輪
雌しべの先端が曲がっており、その様子が普賢菩薩が乗っている象の鼻に似ていることから名付けられた。
増山(マスヤマ)
花色:淡紅、大きさ:大輪
白色大輪の美しい花で、葉化した雌しべが目立つ。塩釜や水晶に近い品種と推定される。
それぞれの桜の木には、植樹に寄附をしたオーナーの氏名とメッセージがひとつづつ記されています。我が子の成長を見守るようですね。
桜の木が植えられている土手上の区間は、「あだち五色桜の散歩みち」と名付けられています。
あだち五色桜の散歩みち
かつて、桜の名所として賑わった「荒川堤の五色桜」を復活させたい・・・。そう願う多くの人の思いが実り、約600本の桜が植えられました。荒川沿いに誕生した桜並木をみんなで大切に育みたいと、2016年、「あだち五色桜の散歩みち」と名づけました。
"We want to revive the Cherry Blossom Trees of Arakawa River." The wish of many local people has been fulfilled and so about 600 cherry trees of various kinds and colours have been planted along the river. We named this promenade as
"Adachi Goshikizakura no Sanpomichi Walk" in 2016.
江北橋は都道307号江北橋通りを通し、荒川左岸(北側)は足立区江北・右岸(南側)は足立区宮城の町域になっています。橋名は北側にあった旧村名の「江北」に由来しています。橋長は449メートルで、中央部分がアーチ型になっています。王40系統や東43系統を始め、多くの都バスの走行経路となっています。
最初の橋は大正十二年(1923年)4月21日に木桁橋として架けられ、架橋された場所は蛇行する隅田川の流路形状から俗に「天狗の鼻」と呼ばれていた場所の丁度先端に位置していました(隅田川が荒川に接している湾曲したところです)。しかし、架橋直後の9月1日の関東大震災で損傷したために、大正十四年(1925年)5月に同じ形式の橋に架け替えられました。現在の橋は旧橋の約300メートル下流に架け替えられましたが、東京オリンピックの影響もあって工事が遅れ、着工から5年半の時間を要しましたが、昭和四十一年(1966年)6月21日に開通しました。
江北橋の直ぐ上流に五色桜大橋が架かっています。五色桜大橋は、首都高速中央環状王子線が荒川を渡る場所に架けられた橋で、平成十四年(2002年)に完成しました。橋の長さは146.2mで、世界で初めて路面が上下2層になっている「ダブルデッキニールセンローゼ桁橋」です。下流の江北橋と重なった時の景観を考慮して、アーチ型のデザインとなっています。橋名の由来は、かつてこのあたりが明治から昭和初期に「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所だったことから名付けられました。
東京の桜の開花は先週でしたので期待して来たのですが、花を咲かせている桜の木はこの1本だけでした。
荒川の五色桜について解説した案内板が立っています。
荒川の五色桜
五色桜の由来
足立区地先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治十九年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色桜」の名がつけられたと言われています。花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽しませ、広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。
五色桜の復活
戦後、世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和五十六年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の各公園に植えられています。そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、国土交通省をはじめとして関係団体の協力によりこの里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越え時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。
あだち五色桜の散歩みちの脇には和歌や俳句が書かれた掲示板が立っています。
万葉集の中から桜の花をおりこんだ代表的な秋を紹介します。古事からの桜に寄せる情緒がしのばれます。
見渡せば春日の野辺に霞立ち
咲き匂へるは桜花かも (巻十−一八七二)
青丹よし奈良の都は咲く花の
にほふが如く今盛りなり 小野老 (巻三−三二八)
鶯の鳴き散すらむ春の花
何時しか君と手折りかざさむ 大伴家持(巻十七−三九六六)
万葉集・・・・現存する最古の歌集。759年までの400余年間の
長歌、短歌、漢詩などを収録したもの
俳句もあります。
俳句の中から桜の花をおりこんだものを紹介します。
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
木のもとに汁も鱠も桜かな 芭蕉
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
花の山歌よむ人や踊る人 友尚
八重桜製菓工場に咲けば菓子 山口誓子
- ポイント11.鹿浜橋
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鹿浜橋は、荒川(荒川放水路)に架かる都道318号環状七号線(通称:環七通り)の水道道路併用橋です。鹿浜橋は、大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる橋では最上流に位置し、荒川の河口から18.75kmの地点に架かっています。完成したのは昭和四十年(1965年)で、総延長は922.0メートル・橋長は451.3メートルです。本橋部を挟むように右岸側に長さ244.6メートル・左岸側に長さ226.1メートルの取り付け道路を有しています。また、水道道路併用橋でもあり、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本・工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持ちあわせています。首都高速道路川口線の鹿浜橋出入口とも接続し、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の鹿浜一・二丁目を繋いでいます。橋名は旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田に因んでいます。鹿浜の地名の由来は諸説ありますが、鹿浜は江戸時代に「シシハマ」と呼ばれていました。「鹿(シシ)」の語源は危険な獣の総称、「浜(ハマ)」は水を含んだ土地のことです。この辺りは獣が住む湿地で、後に「シシ」が「シカ」に変化して「鹿浜(シカハマ)」になったという説が有力です。
- ポイント12.荒川河川敷
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鹿浜橋北詰で土手上の遊歩道が分断されています。環七が通る過密道路なので、歩行者のために横断歩道を設けるのは交通の阻害になるとされたのでしょう。なので、鹿浜橋の手前で土手上から河川敷の遊歩道に下り、鹿浜橋を潜ります。荒川河川敷は、雄大な荒川沿いに広がり、開放感のある整備された遊歩道はウオーキングやサイクリングに最適です。
鹿浜橋の先で河川敷から土手上の遊歩道に戻ります。
遊歩道の脇に、荒川堤櫻の記念碑が建っています。
荒川堤五色桜碑 一基
五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。
ワシントンからの里帰り桜が植えられています。
ワシントンからの「里帰り桜」
足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
冬の快晴の日には、足立区内からも富士山の姿を見ることができます。夕日が富士山の山頂付近に沈み、あたかもダイヤモンドが台の上で輝くように見える現象は「ダイヤモンド富士」と呼ばれています。この現象が観察できるのは、足立区内では11月と1月で、これまで足立区役所庁舎や都市農業公園などで観察されています。また、富士山への良好な眺望が得られる地点を選出した、国土交通省の「関東の富士見百景」では、都市農業公園など荒川下流の5地点が選ばれ、紹介されています。
関東の富士見100景
富士山の見えるまちづくり
地点名 荒川下流からの富士
芝川は足立区と埼玉県川口市の境界を流れる一級河川です。荒川との合流部には芝川水門橋が設置されています。
- ポイント13.都市農業公園
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都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。
入口の正面には、都市農業交流館があります。
館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。
都市農業交流館前の広場には藤棚が設けられ、暑い時期には日陰の休息所になります。
園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。
江北五色桜
昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。
花は一輪も咲いていませんが、これが関山の木だそうです。
Cerasus(Sato−zakura Group)’Sekiyama’
サトザクラ 関山
関山。サトザクラの園芸品種。花は花弁が20−45個あり紅紫色です。雌しべは2個で葉化します。盃状の樹形になります。
バラ科
芝川沿いには梅林もあります。
生きものとの共生 梅林
かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。
子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。
首都高の高架下に面した公園の東側にはひょうたん型の小さな池があります。
池
この池は雨が降ると公園内の雨水がたまるようにできています。ためた水はろ過機(右隣りの建物内)によってろ過されて池に戻されます。こうしてろ過された池の水はポンプで送られ、流れの水や水田、畑などの灌水に使われています。また大雨のときには川の増水を少しでもおさえるため、川への排水をとめて池とコミュニティ広場(芝生広場)に雨水をためるという雨水流出抑制の役割もあります。
池の先には、「人と自然の共生館」があります。
人と自然の共生館
「自然と遊ぶ、自然に学ぶ、自然と共に生きる」をテーマにしている都市農業公園。足立区でかつてひろがっていた農の風景を思い起こさせる田んぼや畑で、無農薬やコンパニオンプランツなど、自然の仕組みを活かした有機的な栽培に取り組んでいます。
人と自然の共生館では
無農薬であるために、都市農業公園の田んぼや畑では様々な生きものを発見することができます。それらは、誰かがわざわざ連れてきたわけではありません。くらしやすい環境ができることで集まった生きものたちが、お互いにかかわり合いながら一緒に生きています。人と自然の共生館ではそんな生きものや植物の身近な関係やしくみを、楽しみながら多くの人に知ってもらいたいと考えています。レクチャールーム内や田んぼ、畑での展示をはじめ、温室やハーブ園に育つ植物、そしてスタッフと一緒に行う生きもの探しや葉っぱ遊びといった自然体験など、様々な方法でお伝えしています。「花の名前が知りたい」「つかまえた虫の名前を知りたい」といった質問だけでなく、みなさんが公園の中で見つけた面白いもの、素敵だと思うものがあったらぜひ共生館のスタッフまで教えてくださいね!
人と自然の共生館には、温室が付属しています。
都市農業公園の温室
この温室では熱帯〜亜熱帯原産の植物を中心に栽培しています。中でもフルーツとして食べる植物や、スパイスとして利用する植物、加工品の原材料になる植物など、私たちの豊かな生活につながりの深い植物も取り入れています。お店に並ぶ前には、どんな花や葉をつけているのでしょうか。知っている名前があれば、よく観察してみてください。
●バナナ(バショウ科)
1.5m以上の大きな葉をつけます。多年生の草本植物のため1度しか花と実をつけませんが、この温室では多い時で1株から150本ほどのバナナができます。
●スターフルーツ(カタバミ科)
6月〜8月頃盛んにピンク色の可愛らしい花をつけ、その名の通り、断面が星の形をした実が見られます。夏は野外で、冬は温室内で管理しています。
●イランイラン(バンレイシ科)
花は精油や香水の原料になります。「イランイラン」という名前は、タガログ語(フィリピンの言語の1つ)で 「花の中の花」という意味を持ちます。原産国では10mを超える高木になるため、この温室では鉢植えでの管理をしています。
●カルダモン(ショウガ科)
カレーやチャイなどに使うスパイスとして名前が知られています。上品で強い香りから「スパイスの女王」と呼ばれ、インド料理では欠かせないスパイスです。種子をスパイスとして利用しますが、葉を触ると甘い香りがします。
建物の外にはハーブ園があります。
田んぼもあります。稲刈りの後で切り株から生えてくる「ひつじ」・「二番穂」が見られます。
畑には様々な作物が植えられています。大麦や小麦などは今時どこにも見かけませんね。
足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2026年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。
旧増野製作所長屋門
現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。
裏から見るとこんな感じです。
高台には古民家が移築・保存されています。
旧和井田家住宅(母屋) 一棟
この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。
今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。
間取りが詳しく説明されています。
足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅
概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。
間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。
- 【カミコウカ】
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トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
- 【イタノマ@】
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イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
- 【イタノマA】
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小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
- 【オク・ザシキ】
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これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
- 【カッテ】
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現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
- 【コメビツ】
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米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
- 【レンガ】
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移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
- 【井戸】
-
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。
母屋と長屋門の間に井戸が見えます。
旧和井田家住宅の歴史
- 1855年
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安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
- 1868年
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後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
- 1923年
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関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
- 1945年
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東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
- 1965年頃
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茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
- 1980年頃
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居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
- 1983年
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足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
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都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
-
- 2007年
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移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。
まだまだ先の行事ですが、端午の節句の飾り付けがしてあります。
季節の装い 端午の節句
旧暦の5月5日は、現在の6月にあたり、じめじめとして、食あたりや病気も多い時期でした。端午の節句には、無病と健康を祈る意味合いが強く、昔から薬草として使われていた菖蒲にちなんで「菖蒲の節句」とも呼ばれます。古く平安貴族の間では、薬玉を送りあう風習もあったようです。その後、武家の間で「菖蒲」を「勝負」と読みかえ、武勇の節句ともとらえられるようになりました。五月人形(鎧・兜)が飾られるのはそのためです。今では広く、子どもたちの健康と成長を願う行事となって
います。
ハナショウブ
*菖蒲にはサトイモ科の菖蒲と、アヤメ科の花菖蒲があり、「菖蒲の節句」や「菖蒲湯」につかう薬効があるとされる菖蒲は、サトイモ科の菖蒲の方を指します。
荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。せっかくなので、さくらのソフトクリームを頂こうかと思ったのですが売り切れでした。でも、チョコのソフトクリームも美味しかったです。
数は少ないですが、遊具も設置されています。
日米で桜を寄贈して100周年の記念植樹があります。
日米桜寄贈100周年記念植樹
100年の歴史に由来する3本の苗木を植樹しました。これまでの100年に思いをはせるとともに、日米交流のさらなる礎となることを願っています。
○ レーガン桜の穂木から育てた苗木
○ 桜のお礼としてアメリカから贈られたハナミズキの原木の種から育てた苗木
○ 100周年を記念してアメリカから贈られた桜の穂木から育てた苗木
※穂木とは良品種を増やすために、元となる桜から採取した枝のこと。
荒川の五色桜 100年の歴史
☆ はじまり
明治十八年、荒川の氾濫により千住大橋は流出し、付近一帯は大洪水にみまわれました。当時の沼田村の長は荒廃した荒川堤を修復し、記念として多種類の里桜を約3、000本植樹しました。最盛期の桜並木は濃紅色、紅色、淡紅色、白色、黄色などの花々が咲き誇り、その風情が「五色の雲がたなびくがごとし」と表現されたことから、いつしか「荒川の五色桜」と呼ばれるようになりました。
☆ アメリカへ
明治四十三年、日本の桜の美しさに感動した体験を持つ当時のタフトアメリカ合衆国大統領夫人をはじめ、多くの方々の尽力により、荒川の五色桜から採取した穂木から育てた苗木が、ワシントンDCポトマック河畔に植樹されました。
☆ 途絶えた荒川の五色桜
明治四十三年、氾濫を繰り返す荒川の放水路掘削工事をきっかけとして多くの桜が伐採・移植されました。以降、「荒川の五色桜」は衰退の一途をたどり、昭和二十二年にはその姿を消してしまいました。
☆ そして復活 〜里帰り桜〜
昭和二十七年、復活を望む声とともにアメリカから桜の穂木が贈られ、最初の里帰りが実現しました。昭和五十六年、区制50周年を機に区は五色桜の里帰りに本格的に取り組み、ワシントンDCから桜の穂木35品種、約3、000本を採取し、区内の公園などに植樹しました。昭和五十七年、レーガン大統領夫人から贈られた苗木は「レーガン桜」として、都立舎人公園に植樹しました。
ゴール地点の都市農業公園バス停に着きました。バス停広場の桜だけは満開でした。
ということで、足立区で五十五番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 55.あだち五色桜の散歩みちコース」を歩き終えました。次は足立区で五十六番目となる「E−千住・新田エリア 56.千住一周名所コース」を歩きます。
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