- E−千住・新田エリア 56.千住一周名所コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「E−千住・新田エリア 56.千住一周名所コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年2月に改めて歩きました。
スタート地点:北千住駅西口
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1.千住本町公園
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2.名倉医院
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3.安養院
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4.氷川神社
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5.タカラ湯
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6.元宿神社(元宿公園は誤り)
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7.千住桜木町公園(千住桜木公園は誤り)
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8.千住芸術村
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9.スポーツ公園
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10.石洞美術館
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11.橋戸神社(橋戸公園は誤り)
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12.大橋公園
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13.松尾芭蕉像
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14.稲荷神社
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15.源長寺
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16.墨堤通り
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17.柳原千草園
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18.東京電機大学
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ゴール地点:北千住駅東口
スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.千住本町公園
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千住本町公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。
サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。
入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。縦に置いた方が見やすいかも。
公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。
園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。
千住本町公園を出て、東側の路地を荒川方向に進みます。
路地の右手に長円寺があります。長円寺は、江戸時代初期に出羽国湯殿山の行者の雲海によって開山されました。雲海が持っていた定朝の作といわれる薬師如来像が本尊で、秘仏となっています。かつての長円寺の境内は広く、山門から一直線に延びる道は、境内の中の参道だったといいます。その参道に沿ってカラタチの生け垣が続いていたことから「からたち寺」の異名を持っています。境内には魚籃観音堂があり、魚籃観音が安置されています。元々は隣の氷川神社の御神体(本地仏)でしたが、明治時代の神仏分離で長円寺に移されました。
長円寺
新義真言宗の当寺は、延享元年(1744年)の縁起によると、寛永四年(1627年)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶとあり、後に賢俊が開山したという。九代将軍徳川家重の延享年間(1744年〜1748年)、十六世栄照の代は殊に栄えた。本尊は、木造の薬師如来小立像であり、定朝風の名作である。当寺の山号を記した扁額「月松山」(足立区登録有形文化財)は、明治二年(1869年)、当地の寺子屋「群雀堂」三代の校主、正木健の筆である。「心香尼碣」は、同じく二代校主、正木大助(櫟蔭)の撰文で、正木氏の遠戚にあたる心香尼の人となりを叙したものである。また、石造魚藍観音立像(足立区登録有形文化財)、乳泉石及び箱(足立区登録有形民俗文化財)、貞享三年(1686年)銘の庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)があるほか、享保十七年(1732年)の宝篋印塔、目やみ地蔵等がある。境内の「八十八か所巡り毛彫石碣」は、芸術の香り高い作品であり、民俗信仰を知る上で、貴重なものである。
扁額「月松山」は、正木健の筆になります。
小さな洞に魚藍観音立像が祀られています。
庚申塔と八十八か所巡り毛彫石碣が並んでいます。
長円寺に隣り合って氷川神社があります。千住四丁目氷川神社は、元禄四年(1691年)に創建され、明治四十二年(1909年)に元宿八幡神社を合祀したと伝えられています。祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・品陀別命(ほんだわけのみこと)です。明治五年(1872年)落成の山車は、高さ7.53m・幅3.6m・3層からなり、3層目には静御前が扇をかざした人形が置かれました(足立区指定有形民俗文化財)。この山車は文化十四年(1817年)の亀田鵬斎の筆による幟とともに足立区立郷土博物館に保管されています。宝暦元年(1751年)に千住宿で開業した寺子屋「群雀堂」の二代目正木大助の生い立ちを記した「正木櫟蔭事績碑」(嘉永五年【1852年】建立)や高正天満宮の由来と「群雀堂」を開いた正木氏について記された「高正天満宮縁起碑」(元治元年【1864年】建立)は足立の教育を語る上で貴重な資料です(共に足立区登録有形文化財)。
「正木櫟蔭事績碑」です。
正木櫟蔭事績碑
宝暦元年(1751年)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑である。父昌房が千住に居住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦十二年(1762年)元旦に生まれた大助は幼いころから学問に秀で、十二歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、六十六歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。大助は天保十二年(1841年)十二月、八十歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫が、その評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され、息子建には銀五錠の褒章が与えられたことも記されている。この事績碑は、塾主三代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永五年(1852年)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。平成二年一月、足立区有形文化財に登録された。
「高正天満宮縁起碑」です。
高正天満宮縁起碑
氷川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主高梨氏の系譜や、高正天満宮の由来について詳しく述べている。千住四丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになった。昌房の孫、正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を、それぞれの一字をとって高正天満宮と号することにしたという。正木氏は、昌房以来、代々寺子屋「群雀堂」の経営にあたり、二代目塾主、大助(正本櫟蔭)の代には大いに発展し、来塾するものが毎日百人ほどもいたという。元治元年(1864年)に建立されたこの碑は、三代目正木建の撰文によるものであり、天満宮の由来はもとより、寺子屋開塾に至る経緯がうかがわれる貴重な資料である。平成二年(1990年)一月、足立区登録有形文化財とした。
- ポイント2.名倉医院
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荒川土手の手前に、江戸時代から骨接ぎで名を馳せた名倉医院があります。
入口の脇に案内板が立っています。
千住名倉医院
骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716年〜1736年)に千住へ移り、明和七年(1770年)に業祖名倉直賢が接骨医を開業したと伝わる。三代尚壽が嘉永元年(1848年)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と交流した。特に四代彌一の交流は幅広く、松方正義、橋本雅邦、菱田春草、横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派絵師・村越向栄と親交し美術や文化の遺産を伝えた。千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。
広場の奥には、立派な長屋門と蔵が残っています。
交差点の手前に、下妻街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て下妻街道の旅に出たのでした。
宿場通りの北端の交差点の四つ角の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て水戸街道と佐倉街道の旅に出たのでした。
水戸・佐倉街道の標柱の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。
その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。
交差点を右折した先に、「まるせん」という持ち帰り専門の焼き鳥屋さんがあります。とにかく1本あたりの価格が安い!安すぎる!安すぎて、驚きですが、身はちゃんとしっかりしていて焼き鳥は美味しいです。他の串も100円以下とかなので、コスパは最高です。
- ポイント3.安養院
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焼き鳥屋さんのはす向かいに安養院があります。安養院は、西林山長福寺安養院と号し、鎌倉時代に北条時頼が創建したと伝えられます。元々は元宿(現在の千住元町)にありましたが、慶長三年(1598年)に兵火で焼失した後、現在地に移転しました。江戸時代、徳川幕府の将軍は鷹狩のために江戸郊外のこの地を度々訪れていて、安養院は「御膳所」(休憩場所)に充てられました。
安養院
当寺は鎌倉時代に北条時頼が創建し、北条氏政の祈願所であったとも伝わる。もと千住元町(小名釜佛耕地)にあったという。山号を西林山、寺号を長福寺と称した。慶長三年(1598年)、現在地に移り、後に寺号を安養院と改めた。本尊の銅造阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代制作と思われ、背面に宝永四年(1707年)九月二十六日の修理銘がある。中世にさかのぼる仏像として足立区登録有形文化財(彫刻)になっている。その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師坐像・密教用法具・真言密教の経典・古文書等が保存されている。中興開基第一世は真言宗の賢智上人で、北条の臣高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で寺運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の檀林となり、多くの仏弟子を世に送った。本堂は関東大震災で倒壊し、翌年の大正十三年、第二十二世良道僧正によって再建されたものである。
境内には、石で叩くと「カンカン」と音がすることから「カンカン地蔵」と呼ばれる地蔵があります。
令和四年(2022年)、千住寿町にあった銭湯「大黒湯」(1929年創業・2021年6月廃業)の唐破風屋根などが安養院に移築され、屋根に付け替えられることになりました。
正面の額には大黒様が彫られています。
路地に面したこちらが正門かな?
安養院の先の荒川の堤防に面した風光明媚な場所に足立区生涯学習総合施設(愛称:学びピア21)が建っています。1〜3階は足立区立中央図書館、4階は足立区環境情報プラザと足立区生涯学習振興公社、4〜5階には足立区生涯学習センター、6階には放送大学東京足立学習センター、7階には地域包括支援センター「千住本町」が併設されています。学びピア21は、あらゆる世代、あらゆるニーズに合った生涯学習が提供できる施設となっています。生涯学習センターでは、区内13の生涯学習施設の基幹施設として、高度で専門的な学習をはじめ、暮らしに役立つ学習、様々な学習情報の提供など、区民ニーズや社会的な課題に対応した多様な生涯学習を実施しています。
この地には、かって千住旭小学校がありました。千住旭小学校は、昭和十五年(1940年)8月28日に開校し、平成三年(1991年)4月1日に千寿第一小学校と統合して足立区立千住本町小学校が開校しました。千住本町小学校の敷地は千寿第一小学校の跡地を利用したため、千寿旭小学校は廃校となりました。その跡地に学びピア21が建てられたのです。
- ポイント4.氷川神社
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国道4号線を渡って、路地を進んだ先の荒川土手の手前に氷川神社があります。氷川神社の創建は永仁二年(1294年)で、鎮座する地名を冠して大川町氷川神社とも称されます。元々は千住五丁目の川田耕地にありましたが、荒川放水路建設工事の区域に含まれたため、大正四年(1915年)に遷座しました。
参道の左手に、旧千住新橋の親柱が保存されています。
旧千住新橋の標柱
この石柱は、旧千住新橋の親柱である。千住新橋は、明治四十四年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年より同十三年までの永い歳月と、119万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ452.7メートル、幅7.2メートル、鋼板桁の近代橋であった。その後昭和三十二年に幅17メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることとなったのである。架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
親柱の橋名には「?んぢゆ志んはし」と書いてあるようなないような。隣の石碑には「千住新橋?碑」と書いてあるようなないような。
氷川神社は、千住七福神の布袋尊を奉祀しています。布袋尊は人びとに幸せを分け与える福の神で、七福神のうちの布袋様として親しまれています。布袋尊は、中国の唐時代に実在した契此という名のお坊さんがモデルになっています(布袋という名前は、契此がいつも大きな布の袋をかついでいたことに由来します)。生涯にわたって中国の各地を放浪していた契此は、いつもニコニコした笑顔で人びとに接する心豊かで楽天的な人物であったそうです。お布施でもらった生活必需品を大きな袋に入れて持ち歩き、必要な人に分け与えていたと言い伝えられています。契此には未来の出来事や天気を予知するという不思議な能力もあり、最後は仙人(布袋尊)になりました。布袋尊は後に日本に伝わり、江戸時代以降、七福神のメンバーに名を連ねるようになりました。布袋尊は、福徳円満の神さまとして、今でも大きな人気を集めています。氷川神社の布袋尊は平成二十年(2008年)に長円寺から移転され、1月1日から1月7日にかけて千寿七福神巡りが行われていて、受授品を用意して参拝者を迎えています。
氷川神社の祭神は素戔嗚尊・倉稲魂命で、例大祭が9月15日に行われます。式典では、拝殿の上から神職や氏子による豆撒きが行われます。豆撒きの中身は、豆・みかん・菓子・カップ麺・カレーのルーなど食品類が中心で、豆撒きが終わると子供たちにみかんが配られます。
拝殿の脇に、天保十四年(1843年)に建立された紙すき碑が建っています。荒川放水路(現在の荒川)の建設に伴って、碑は大正六年(1917年)に境内に移転し、再建されました。碑には、当初の問屋21軒の名前が記され、昭和五十七年(1982年)12月10日に足立区登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。千住四丁目にある足立区登録有形民俗文化財の横山家住宅は、この問屋のひとつで、「松屋」(当主は佐助)を営んでいました。江戸時代の千住宿の最大の産業は、流通業(問屋業)であり、中でも問屋制家内工業であった地漉紙(古紙を再利用する再生紙)の生産差配と流通が盛んでした。江戸時代は鎖国政策のため海外から使用済みの紙が輸入されることがなく、京都や大阪で使用された紙は貴重な資源でした。天保十四年6月29日、千住の地漉紙問屋が奉行所に呼びだされ、供給不足により高騰していた地漉紙を増産し潤沢にするように命じられました。その後、地漉紙問屋たちが緊急生産し、7月7日に奉行所に報告したことで、江戸府内の地漉紙不足が解消されました。この碑には、このことが誇らしく書かれています。「氏+山」の漢字は見当たりません。「代+山」ならありますが、「岱のすき立」の意味が分かりません。
紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。この歌碑は、天保十四年(1843年)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に、丸永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より?(岱?)のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせきするわさは田をつくるひなの賤らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが、稲作りにも劣らない仕事であるという自賛の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年に移転し、再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
氷川神社内にある富士塚は川田富士と名付けられ、荒川放水路ができる前は千住川田の浅間神社にありました。文化七年(1810年)に築造され、昭和四十三年(1968年)に氷川神社の境内に移築されました。「大川町氷川神社富士塚」の名称で、昭和五十七年(1982年)12月16日に足立区登録有形民俗文化財(富士塚)に登録されていました。
千住川田浅間神社冨士塚
冨士塚は文政七年(1824年)築造。祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在地に移築復元され今日に至っている。塚は、冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。山頂に、天保二年(1831年)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(1824年)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年七月一日祭礼が行われる。
富士塚の高さは3メートルほどあり、山頂には、天保二年(1831年)と記された石祠があります。石祠はいくつかあり、文政七年(1824年)のものには、「丸藤惣同行、富士山三十三度大願成就」と記されています。江戸には、富士講が八百八講あったとされ、千住の講は丸藤千住十三夜同行です。丸藤とは、元講の名前で、千住は地名、十三は、食行身禄行者の命日、法行を夜行うということから講名がつけられました。千住の富士講は、享保期から活動が見られ大正九年(1920年)頃に最も活発に行われていました。千住地域には、大川町氷川神社・千住神社・柳原稲荷神社に富士塚があります。そこに山があるからには登らなければなりますまい。
登山道には手すりがなく、岩を掴みながらの上り下りは結構手強かったです。
氷川神社の裏門から退出し、住宅地の路地を進みます。
路地を進んだ左手に千住公園があります。千住公園は、子供の遊び場が豊富な公園です。園内には遊具・じゃぶじゃぶ池・ボール遊びのできる広場などがあり、広い敷地でのびのびと遊ぶことができます。公園の周囲は煉瓦色のパーゴラで囲まれ、夏には緑の屋根になります。
4色の円柱に守られた子どもに人気の丸いじゃぶじゃぶ池は、夏には幼児用のプールになります。暑い日に、無料で安全に水遊びができるスポットとして、多くの親子連れに利用されています。
日陰のベンチにすわって休憩したり、子どもを見守ったりできます。
広場と複合遊具やブランコがあり、夏以外のシーズンも親子で遊びに行ける公園です。
また、大人が利用できるコンテンツも豊富です。ほぼ毎朝ラジオ体操が開催されているほか、高齢者向けの運動イベント「パークで筋トレ」も隔週で開催、健康器具も設置されています。大人から子供まで体を動かせる公園です。
らくらく健康器具 スプリングバー
ぶら下がりや懸垂運動をしましょう。スプリングがとびついた時のショックを柔らげてくれます。
らくらく健康器具 1208
ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。
公園のある千住大川町と川田耕地の関わりを記した案内板が立っています。
千住大川町と川田耕地
千住大川町は、昭和七年10月1日、それまでの東京府南足立群(郡?)から東京市への編入によって千住大字大川町区域の町名として誕生しました。この名前は、その前年、 昭和六年1月1日に行われた千住町字名地番整理により、川田耕地(旧千住町大字五丁目の字)を中心に、西耕地(旧千住町大字一丁目から五丁目の字)全佛耕地(旧千住大字四丁目と五丁目の字)の3耕地で構成された大字大川町に由来しています。また、大川町という名は、荒川放水路の沿岸であることにちなんで付けられたものと言われています。川田耕地は、荒川放水路が開削される以前は、現在の千住大川町の北半分から梅田三丁目付近までにいたる広い地域を占め、家屋や田園がありました。放水路の工事によって、ここに住む人々の住居や浅間神社は、移転を余儀なくされましたが、現在でも石碑や祭太鼓などに川田の名前は伝えられています。
- ポイント5.タカラ湯
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元千住公園の直ぐ先に古風な銭湯があります。「タカラ湯」の銭湯の名の通り、軒下には宝船の彫り物が掲げられています。タカラ湯は、昭和十三年(1938年)に建てられたという見事な門構えに加え、「キングオブ縁側」と称される日本庭園を望む立派な縁側や、昭和の風情が残る開放感と清潔感のあるお風呂など、数々の魅力で老若男女に愛されています。
- ポイント6.元宿神社
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タカラ湯の先で右折し、帝京大学分館の角で左折して都道補助119号線を進みます。元宿神社の入口前の歩道に「里帰り桜」の石碑が建っています。
都道補助119号線は、かっての桜土手の跡を通っています。
桜土手
現在、千住地域の南部を走る都道補助119号線は、従来、元和二年(1616年)に石出掃部助吉胤が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。大正十二年(1923年)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(1931年)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
都道補助119号線から、元宿神社の参道が細長く延びています。
元宿神社
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れねばならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
参道の入口に太子堂の小さな洞があります。太子堂は、聖徳太子の像を祀った仏堂のことです。聖徳太子は仏教を篤く敬い保護したため、日本仏教興隆の祖として宗派を問わず信仰されています。様々な寺院に聖徳太子像を安置した堂があり、仏像同様篤く信仰されています。
荒川綾瀬辺八十八カ所霊場 五番 大師堂(千住元町)
元宿神社前の小さなお堂「大師堂」のいわれ
・略して荒綾八十八カ所あるいは両河講とも呼ばれていた。
・四国霊場八十八カ所にならって、御詠歌はすべて四国霊場の歌を?用している。
・始まり 明治四十五年十月。この時は「五番 隅田村多聞寺」であった。
・五番は、大正十一年には、掃部宿西裏不動堂となった。
・元宿の大師像には「大正十四年」と記入がある。おそらく、この年に大師像を建立して
お堂を建てたものであろう。多聞寺や不動堂は都合が悪くなったので、元宿の人たちがそれを受け継ぐために
大師像を造立したのではないだろうか。すでに神仏分離が行われていたので、
元宿神社の境内ではなく、鳥居の外に祀ったのかもしれない。
・次に、大正十五年、小菅の吉沢さんという人が、八十八カ所のすべてに案内道標を建てた。
この道標には「五番 元宿 大師堂」と刻んである。
・昭和七年、南足立郡は足立区となり、元宿という町名も千住元町と改められた。
・昭和七年の巡拝案内には「五番 千住町元町 麻利支天」と書いてある。
・昭和十年の御詠歌集には「五番 千住元町大師堂」と記載されている。
お手本となったのが四国霊場八十八カ所であるから、御詠歌はそのまま借用してお参りしていた。四国霊場の五番は、地蔵寺でその本尊は地蔵菩薩である。御詠歌は
「ろくどうの のうけのぢぞう だいぼさつ みちびきたまへ このよのちのよ」
(六道の 能化の地蔵大菩薩 導きたまえ この世 後の世)
・荒綾八十八カ所の五番も、この御詠歌が使われているのがおもしろい。
荒綾八十八カ所の五番は、放水路開削による変遷の中で、町を失った元宿の人々が、荒綾八十八カ所の第五番を引き受け、八幡神社を元宿神社として残し、小さなお堂に大師像を祀って、新たな町のより所としたのではないだろうか。荒川放水路の開削で、浅間社は大川町の富士塚に移転し、立ち退きを余儀なくされた人々の思いは「感旧碑」に刻み、村の鎮守八幡神社は消えた村の名前に改めて元宿神社として今も伝えられている。そして新たな千寿七福神の寿老神を祀り、江戸時代の初期から開拓してきた人々の思いが残る元宿神社界隈である。
元宿神社は、普段は静かですが、お正月には初詣の人たちで混雑します。
元宿神社は、千住七福神の寿老人を奉祀しています。寿老人は、右手に宝杖を持ち、「無病息災」「延命長寿」「ぼけ封じ」の神様です。家族を病気やケガから守り、開運長寿とぼけ封じに御利益があります。
元宿神社の縁起を記した石碑が建っています。
元宿神社縁起
夫れ(そもそも)当社の祭神は信州川中島八幡宮の分霊甲斐武田氏の臣鈴木氏の帰農と共に天正元年当所に鎮座せらる明治の末神社合祀令により氷川神社に合祀せられたらも住民の熱意は稲荷神社と合祀して昭和九年官許を得たり大正八年拾月拾五日住民據金(きょきん)とし社地山林五畝十五歩と代金五百六拾圓を以つて買戻し更に隣地を買収し又社格を昇して村社とせり。昭和の敗戦により社格は失せたり。(スイ)も住民の信仰は彌々高し茲に縁起を誌し以つて後生の資とす。
墨堤通りに出ます。道路の向かい側に元宿堰稲荷神社があります。創建は宝暦四年(1754年)で、昭和二十年(1945年)11月に元宿神社の境内社に編入され、昭和二十二年(1947年)2月に元宿神社から独立しました。旧社名は「千住四本煙突守護社」で、昭和三十九年(1964年)に閉鎖された東京電力千住火力発電所を鎮守する鎮守社として、企業発展の守護者とされています。
元宿堰稲荷神社の脇には元宿圦という堀がありました。千住火力発電所の燃料を運び込むための運河だと思っていましたが、昔からあった堀だったんですね。
ここは元宿堀があった場所
江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。昭和十年頃までの元宿堀は、荒川(通称隅田川)への船の出入り口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事等を経て現在の形になりました。
現在、帝京科学大学の本館が建っている場所には、元宿小学校がありました。
葛飾北斎はこの場所から冨嶽三十六景「武州千住」を描きました。
冨嶽三十六景 「武州千住」 千住浮世絵顕彰碑
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
墨堤通りに面してこじゃれたイタリアンがあります。周辺はさほど賑やかな雰囲気はなく、場所的には恵まれていませんがお料理は評判なようです。トラットリアイルセイは北千住でも穴場的なお店らしく、特にランチのラザニアセットがお勧めとか。ワインはどうかな?
千住桜木町交差点を左折して、尾竹橋通りを進みます。
尾竹橋公園は、隅田川に架かる足立区の尾竹橋の北西の隅田川沿いに位置する区立の公園です。
面積が16、871平方メートルの広々とした敷地内に、すべり台などの遊具や砂場が点在しています。大人には懐かしい雲梯やシーソーなどで遊ぶこともできます。他にも、少年野球場やテニスコートなどのスポーツ施設を備えていて、各種の運動に利用できます。また夏季にはじゃぶじゃぶ池が開放され、子ども達が歓声を上げながら水遊びをしています。
公園内に、「千住北魚市場跡」の石碑が建っています。千住大橋の袂にある足立市場の前身となる市場で、大正十四年(1925年)に開設されました。昭和十年に東京市が中央卸売市場の足立分場を計画し、それを受けて昭和二十年に移転しました。
尾竹橋通りを横断して隅田川の土手に上がります。土手下には千住桜木わんどがあります。「わんど」とは、川の本流と繋がっていますが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことです。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっています。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えています。漢字では、「湾処」と表記されます。
尾竹橋は隅田川に架かる橋で、尾竹橋通り(都道313号線)を通しています。橋名は、北詰の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因んでいます。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていましたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから、この名で呼ばれたとされています。付近は千住や西新井大師への渡船場として栄えてきた場所であり、昭和九年3月に関東大震災後の復興事業の一環として架橋されました。当時の橋は長さ132m、幅10.2mで、当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)でした。太平洋戦争中には、金属供出によって高覧が撤去されるなどしましたが、戦災をくぐりぬけ、現在の橋は平成四年(1992年)に架け替えられたものです。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。
帝京科学大学千住キャンパス本館が位置するこの地と元宿堀を挟んだ対岸には、かって千住火力発電所がありました。千住火力発電所は、4本の煙突が眺める場所によって本数が変化するおばけ煙突で知られていました。帝京科学大学千住キャンパス本館の入口に、おばけ煙突のモニュメントが展示されています。
お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument
「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
モニュメントの脇に、4本の煙突の模型が建っています。壁には、見る角度によって煙突の本数が異なって見えた様子が表示されています。
右側の写真で、左上から時計回りに1本(3本に見える)・2本・3本・四本と煙突の数が変化しています。
お化け煙突は、上から見ると菱形に配置されていたために、見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えました。1本に見えるのは千住の旧区役所(現在のあだち産業芸術プラザ)方向と、本木一丁目27番南側の荒川左岸(北側)の2方向でした。発電所は、現在の千住桜木一丁目13番北側の荒川(現隅田川)左岸に大正十五年(1926年)1月に建設され、煙突の高さは83.82メートルあり、レンガで出来ていました。その後、昭和三十年代に周囲を鋼板で補強しました。しかし、老朽化と効率化のため昭和三十八年(1963年)に発電所が閉鎖され、翌年秋から解体工事を実施し、11月末には完全に姿を消してしまいました。お化け煙突は、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」で全国的に知られるようになった他、漫画や文芸作品にも数多く取り上げられて親しまれました。
お化け煙突モニュメント Obake Entotsu Monument
「お化け煙突」は、大正十五年1月から昭和三十八年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和二十八年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率のよい発電所が建設されたことから、昭和三十八年3月に現役を退きました。千住火力発電所は、昭和三十九年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。
当時の写真も添えられています。左側の写真には、元宿小学校で煙突の外周が滑り台として使われていた頃の様子が映っています。
これは4本に見えますね。
これは3本に見えますね。
これは遠くから見ると2本に見えたかもしれません。
どこから見ても1本には見えませんが、遙か遠くからだと1本に見えたのかもしれません。
煙突の一部は、この地にあった足立区立元宿小学校で滑り台として使われていました。
帝京科学大学千住キャンパス本館の脇には、水路の跡のような道路が延びています。これは先ほど訪れた元宿堰稲荷神社の案内板に解説のあった本宿堀を埋め立てて造成したものと思われます。千住火力発電所が操業していた頃は、発電所の燃料となる石炭を隅田川から船運で運び入れるのに使われたのかもしれません。
隅田川の土手に面して、帝京科学大学の校舎と広大な運動場があります。2010年4月に開設された千住キャンパスは、隅田川を臨むウォーターフロントに建ち、附属動物病院(アニマルケアセンター)・カフェテリアやコンビニ・各学科の実習室や講義室を併設した「本館」・本館と緑の道で結ばれた2号館と階段教室がある3号館、そして2015年3月に完成した7号館から構成されています。これらの建物は環境保護への取り組みや省エネルギー化にも配慮し、同時に地域との融合やコミュニケーションを育てる場として考えられています。
- ポイント7.千住桜木町公園
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帝京科学大学7号館の先に、隅田川の土手を活かした千住桜木町公園があります。
面積4、442平方メートルの広々とした敷地内には、赤い三角屋根から直線や曲線を描いてすべり下りるカラフルな色彩のすべり台や、プランコなどの遊具が点在しています。
公園の周囲には数々の種類の木々や芝生が植栽され、緑が多く落ち着いた雰囲気が漲っています。桜の蕾も大分膨らんできました。
公園内には、先ほど訪れたおばけ煙突のモニュメントが展示されています。
おばけ煙突の由来
「おばけ煙突」を知っていますか。昭和三十年代当時、東京の下町でシンボル的存在だった千住火力発電所の煙突、それが通称「おばけ煙突」です。4本の煙突は菱形に配置されていたため、見る角度によって4本だったり、3本だったり、2本や1本にも見え、そんな名前がついたそうです。また、時々思い出したように煙を吐く煙突を見て、いつしか近所の人々がつけたという話もあります。とにかく場所によって本数が変わり、いつ煙を吐くかわからないこの煙突のことをいつしか「おばけ煙突」と呼ぶようになったのです。
公園入口のゲートで当時のおばけ煙突の大きさを体感できます。ゲート天井には煙突の配置を示した天窓があります。登り棒はおばけ煙突の配置となっています。見え方が変化する地点を探してみましょう。
再びチャレンジです。これは4本に見えますね。
これは3本に見えますね。
これは遠くから見ると2本に見えたかもしれません。
どこから見ても1本には見えませんが、遙か遠くからだと1本に見えたのかもしれません。
- ポイント8.千住芸術村
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千住桜木町公園から墨堤通りに出ます。丁度、墨堤通りが三日月状に湾曲した千住緑町交差点の角に千住芸術村があります。「村」といっても、ここにあるのは1軒の住宅です。NPO法人千住芸術村は、足立区千住地域にある不動産市場に載らない空き家を再生して、若手のアーティストやクリエーターを招致し、若い芸術家たちにアトリエとして利用してもらうことで、千住を芸術の町にしようと活動しています。2009年1月に設立され、東京芸大の学生らの協力を得ながら15年間で15棟が登録され、目標は88棟で、ゆくゆくは「千住88ヵ所」を作り、四国お遍路のように、歩いて巡る芸術の街にすることを目指しています。「Organon ceramics Studio(オルガノン・セラミックススタジオ)」は、2014年8月2日(土)にオープンした、週末だけ開く小さな陶芸教室です。「Organon」とは、古代ギリシア語で「知識を獲得するための手段や道具」を指す言葉です。手を動かし、土や釉と向き合う教室での時間が、日々新しい世界の観え方や感じ方をもたらすひとつの道具になれればという思いから名付けられました。
陶芸教室は千住旭町に続いて2つ目で、2009年に築52年の精肉店を区の助成金を受けて改装し、東京藝大生4人のアトリエ「スズロハコ」として出発しました。教室を主宰する陶芸作家の瀬川辰馬さんが自身のアトリエと住居を兼ねて、新たに自ら改装しました。1階の道路側の壁は半透明の素材を使い、自然光でも十分明るい作りになっています。水と粘土を使う陶芸作業では、床がコンクリートの打ちっぱなしであることと、排水フィルターの工事が必要ですが、賃貸の建物では難しく、「都内で陶芸ができる環境はない。ここは完璧に近い」と瀬川さんは語ります。「陶芸を使って面白いことができるか」という試みによる教室で、「渋いイメージではなく作りたいものを作る。自由であるべき」というのが瀬川さんの考えです。ボタンやアクセサリーを作りたいというお客さんもいるそうです。陶芸体験教室は土日のみ開催されます。
- ポイント9.スポーツ公園
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墨堤通りを進んだ先に千住スポーツ公園があります。
千住スポーツ公園は運動場中心の公園で、屋外にはテニスコート3面(オムニコート・ナイター設備あり)、運動場(少年サッカー用1面・200メートルトラック)があります。運動場では、低学年のラグビー体験など単発のイベントも実施されています。
北側の建物内には、弓道場(6射28メートル)や、可動式相撲場となるホール・会議室があります。
南側には、健康遊具が多数設置されているエリアがあり、遊びながら運動不足を解消できます。「TIMBERFORM」とは、木材を加工して作られた製品や構造物、またはその製造技術を指す言葉です。
TIMBERFORM フィットネスルート
スタート
このフィットネス・ルートには、1から13までのステーションがあります。各ステーションでエクササイズを規則正しく実施することで、柔軟性・スタミナ・筋力・呼吸循環器系の機能を高めることができます。このフィットネスルートは、あなたの体力やコンディションに合わせて、各ステーションの間を歩いたり、ジョギングしたり、走ったりして矢印の方向にステーションの番号順に進んで下さい。フィットネス・ルートの各ステーションにはそこで行うエクササイズの方法が図示してあります。初級者、中級者、上級者の3段階のレベルに分けてくり返し、回数が示してありますので、あなたの体力やコンディションに合ったレベルのものを実施して下さい。
呼吸循環器系のコンディショニング(心拍数の目標値)
フィットネスレベルを効果的に高めるためには、心拍数の目標値の範囲内でエクササイズすることです。目標値は、最大心拍数の70〜80%を示しています。あなたの最大心拍数は年令・健康状態、体力のレベルに依って決まります。右下表の目安値は、非常に健康で、体力のある人達に基づいて作成されたものですからあなたの状態に合せて個人的に調整する必要があります。まず、あなたの心拍数の目標値を年令に合せて決めて下さい。そしてスタート前、フィットネスルートの途中で3回、それにゴール直後に10秒間の心拍数を数えて下さい。何度もチェックすることでこのフィットネスプログラムのあなたのやり方が適切かどうかわかります。フィットネスルートの途中で数えた心拍数が目安値以下であればもう少しエクササイズを激しくして下さい。逆に目安値を超えておればペースを落してゆっくり運動されることをお勧めします。
一番目のフィットネスは「ヒールフレックス」です。
TIMBERFORM Fitness Route
Station 1 HEELーFLEX ヒールフレックス
肩の高さのハンドルを両手で握って下さい。まっすぐに立って右足を後ろへ引き、左足のひざと股関節をポストの方に移動させます。そして右足のひざを少し曲げたままでゆっくりと右足のかかとを地面につけてストレッチします。指示通りの時間ストレッチし、つぎに足を入れかえてくり返しましょう。
効果:ふくらはぎの筋肉とアキレス腱をストレッチし、足首を柔軟にします。
二番目のフィットネスは「トウー・タッチ」です。器具は使いません。
TimberForm Fitness Route
Station 2 TOEーTOUCH トウー・タッチ
肩幅に足を開いて立ち、両手を広げ右手の指先が左足のつま先に触れるように、上体をななめに前屈させて下さい。もとにもどし、つぎに左手の指先が右足のつま先に触れるようにします。以下くり返しましょう。
効果:ハムストリングス腰と股関節の筋肉をストレッチします。
三番目のフィットネスは「ニー・グリップ」です。器具は使いません。
TimberForm Fitness Route
Station 3 KNEEーGRIP ニー・グリップ
両足をそろえ背すじを伸ばして立って下さい。片方のひざを引き上げ、両手でひざをかかえ込み、ゆっくり胸の方へ引きつけます。つぎにもとにもどし、もう一方のひざで同じようにくり返しましょう。
効果:ハムストリングス臀部とひざの周囲の筋肉をストレッチします。
四番目のフィットネスは「ストラドル・ジャンプ」です。器具は使いません。
TimberForm Fitness Route
Station 4 STRADDLEーJUMP ストラドル・ジャンプ
両腕を体側におき、両足をそろえて直立して下さい。そしてとび上がって両足を開きながら、頭上に両手をもってきて合わせます。つぎにもう一度とび上がってもとの姿勢にもどします。以下くり返しましょう。
効果:全身の筋肉と関節をリラックスさせます。
五番目のフィットネスは「ホップ・オーバー」です。
TimberForm Fitness Route
Station 5 HOP−OVER ホップ・オーバー
両足をそろえ両腕を前後に振って、ホップをくり返しながら木をとびこえていきましょう。
効果:ふくらはぎ、大腿部、足首の筋肉を強くします。
六番目のフィットネスは「レッグ・フレックス」です。
TimberForm Fitness Route
Station 6 LEG−FLEX レッグ・フレックス
ひざの高さが、それより高いコラムを選んで、片足をコラムの上にのせて下さい。ゆっくりコラムの上に立ち上がり一度静止してからおります。つぎに足をかえて同じ動作をくり返しましょう。
効果:ひざ、大腿部、臀部の筋肉を強くします。
七番目のフィットネスは「アーム・ストレッチ」です。
TimberForm Fitness Route
Station 7 ARMーSTRECH アーム・ストレッチ
足を地面につけたままで簡単にとどく高さのリングをつかんで下さい。両足を浮かさないでリングにぶら下がり、からだで円を描きます。つぎに反対方向でくり返します。
効果:肩、胸と背中の筋肉を柔軟にします。
八番目のフィットネスは「ボールト・オーバー」です。
TimberForm Fitness Route
Station 8 VAULTーOVER ボールト・オーバー
腰の高さくらいでチャレンジする位置を決め、両手で手すりをつかんで下さい。両足をそろえたままで手すりをとびこし、手すりの反対側におります。以下くり返しましょう。
効果:脚、腕、上半身の筋肉を強くします。
九番目のフィットネスは「プッシュ・オフ」です。
TimberForm Fitness Route
Station 9 PUSH−OFF プッシュ・オフ
自分の能力に合わせてバーを選んで下さい。一番低いバーが最もむつかしくなります。背すじをまっすぐ伸ばしたままで、腕を伸ばしてバーを握ります。つぎに肘を曲げてからだを支えたあと、もとの姿勢にもどります。以下くり返しましょう。
効果:肩、上腕三頭筋、上背部の筋肉を強くします。
十番目はなくて、十一番目のフィットネスは「アーム・ウオーク」です。
TimberForm Fitness Route
Station 11 ARM−WALK アーム・ウオーク
ステップでバーの上に上がり、両腕を伸ばして平行棒を握って下さい。両腕でからだを支えながら前へ進み、端までいってステップでおります。
効果:手首、腕、肩の筋肉を強くします。
十二番目のフィットネスは「ヒップ・フレックス」です。
TimberForm Fitness Route
Station 12 HIP−FLEX ヒップ・フレックス
左ひざは胸の下に、右足は後ろへ伸ばし、上体を前に倒して支持バーを握って下さい。ゆっくり股関節を前にしずめ、指示通りの時間ストレッチします。つぎに足を入れかえてくり返しましょう。
効果:股関節の筋肉をストレッチします。
十三番目のフィットネスは「ビーム・ウオーク」です。
TimberForm Fitness Route
Station 13 BEAM−WALK ビーム・ウオーク
平均台に上がり、地面に落ちないように、両腕を広げてバランスをとりながら端まで歩いておりましょう。
効果:バランスと調整力を高めます。
如何でしたか?器具を使わないフィットネスもありますので、お散歩の合間にでも試してみて下さい。公園は桜並木も美しいので、春は特にお勧めです。
千住スポーツ公園から京成本線の高架に沿って千住大橋駅に向かいます。駅の構内を抜けた先に交通広場があります。かって、千住大橋駅の南西側に隣接してニッピとリーガルコーポレーションの本社があり、周辺は工場地帯でした。平成二十一年(2009年)3月にリーガルコーポレーションが土地を売却し、UR都市機構とニッピが開発の主体となり、「ポンテグランデTOKYO」と名付けられた大規模な再開発が行なわれました。「ポンテグランデ」はイタリア語で「大きな橋」を意味していて、地区の東側に近接する千住大橋に因んでいます。東西に賑わいの景観軸となる道路「かつら並木ニッピ通り」、南北に緑の景観軸となる歩道「ポンテグランデ緑道」が通り、駅前には交通広場が設けられました。交通広場の真ん中には高野槇のシンボルツリーが植えられています。
交通広場のシンボルツリー 「高野槙」
交通広場の中央に見える立ち木は、交通広場のシンボルツリーとして植樹した常緑針葉樹「高野槙」です。和歌山県の高野山に多いことに由来する命名です。高野槙は、”水に強くて朽ちにくいことから、橋の支柱として利用されていました。「千住大橋」は、徳川家康から普請奉行に任じられた伊奈備前守忠次が、文禄三年(1594年)、荒川(現在の隅田川)に架橋した木造橋「大橋」がその始まりです。大橋はその後流失のたびに架け替えられ、江戸時代を通じて維持されました。当時、多くの人々から名橋と謳われたその力強い姿は、江戸の名所として浮世絵師や画師たちの題材に度々取り上げられました。この千住の大橋の橋杭材として用いられたのが高野槙です。昭和二年(1927年)、金属製のアーチ橋に架け替える際、木造橋を惜しんだ千住の人々は、その橋杭を素材とした彫像製作を地元の木彫家に依頼しました。以後作品は家々で守られ、大橋の歴史を今日に伝えています。なお、当時の木造橋の橋杭三本は、現在でも千住大橋の橋下の水中に見ることができます。高野槙は千住大橋さくら公園にもシンボルツリーの一本として、植樹されています。
ちなみに、木造橋の橋杭三本は千住大橋の橋下の隅田川の水中に残っています。
水面に浮ぶ三個のブイの謎
それは木橋時代の橋杭が水中に三本眠っている事を示している。千住の大橋は徳川家康が文禄三年(1594年)に隅田川に初めて架けた橋で、橋の木枝は架橋を進言したと言う伊達政宗が腐食に強いとされる高野槇を提供したという。昭和二年に震災復興計画で木橋より頭上の鉄橋に掛替た時に残った杭橋である。その水中より引抜かれた橋杭を材料にして、千住生まれの彫刻家冨岡芳堂(1890年〜1957年)が恵比寿大黒天などを作っている。これらの作品は現在も元やっちゃ場の家々を中心に千住の町家に大切に保存されている。
※戦前までは橋杭は小学校の校庭の片隅に有り、子供達の遊び場だったが、戦争の困(混?)乱時に鉄は供出、木はかまどで灰になった。
交通広場の向かいには、「ポンテポルタ千住」という商業施設が平成二十六年(2014年)4月18日に開業しました。ポンテポルタ千住は、ポンテグランデTOKYOの玄関口につくられたショッピングモールで、施設名はイタリア語の「ポンテ(橋)」と「ポルタ(門)」と地域名称の「千住」を付加して命名されました。駅から徒歩1分のアクセスの良いこの立地で、地域の人々に交流と賑わいの場を提供したいという思いが込められています。ポンテポルタ千住はスーパーマーケット・カフェ・飲食店・衣料品・雑貨などの専門店からなり、日常使いから休日のお出かけスポットとしても利用することができます。
- ポイント10.石洞美術館
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交通広場と道路を挟んだ向かい側に石洞(せきどう)美術館があります。石洞美術館は、美術工藝を通しての国際間の文化交流・相互理解の促進・我が国文化の向上を図るため、平成十八年(2006年)4月に公益財団法人美術工芸振興佐藤基金によって設立されました。所蔵品は、佐藤千壽の収集したコレクションを核としていて、美術館の名称は佐藤の雅号「石洞」から採っています。石洞美術館が入っている建物は千住金属工業株式会社(はんだ製造)の本社ビルですが、銅板葺きおろしの屋根、煉瓦タイル貼の平面六角形のユニークな建物です。また、館内はグレーを基調としたシックな作りになっていて、工藝品が見やすいように配慮しています。スロープで1階と2階の展示空間を繋いでいることも石洞美術館の特徴のひとつです。佐藤千壽(1918年〜2008年)は、千住金属工業株式会社の社長・会長を歴任した実業家で、十代後半から美術品を収集し、古染付やイスパノ・モレスク、茶の湯釜など、特徴的なコレクションを作りました。その収集品は多岐にわたりますが、何れも愛らしい作品ばかりです。また、その収集品からは、陶芸家や鋳金作家など多くの芸術家との交流を伺い知ることができます。
敷地内には喫茶店も併設されています。
茶館妙好
この喫茶店は障害者が自立して自分達の力で運営しています。身体の一部に不自由なところがあっても、それを素直に受けとめ明るい心で前向きに生きる善良な人達ばかりです。そういう人を宗教的には妙好人と申します。ほんのひととき此所でお休み頂くだけでなにか心洗われる思いがするでしょう。末永く御愛顧をお願いします。
- ポイント11.橋戸神社
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石洞美術館から路地を入った先の隅田川の護岸下に橋戸神社があります。
橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(1490年)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。文禄三年(1594年)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。文久三年(1863年)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
橋戸稲荷神社の縁起を記した石碑が建っています。
橋戸稲荷神社縁起
この社は、延長四年(926年)に創建された。千住では、歴史の古い神社である。初めは、千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。祭神、倉稲魂命と(称)し、本殿は延徳二年(1490年)、拝殿は文久二年(1862年)に建立された。現在の本殿は、土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。懐古本殿500年奉祝天皇陛下御即位大典(皇紀2650年)を記念し、総代・氏子中が集い祝祭をあげ茲に緑起の碑を建立する。
拝殿の扉の横には、漆喰の彫刻のレプリカ(?)が置かれています。
本物の伊豆の長八の鏝絵は、本殿の扉の裏側にあるみたいで、年に3回ご開帳し、2月3日・5月15日・9月秋祭り前後の日曜日に見ることができるとのことです。
狛犬はキツネのようです。
- ポイント12.大橋公園
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橋戸稲荷神社のすぐ先に大橋公園があります。この地は古くから千住船着き場があったところで、「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所です。松尾芭蕉の「奥の細道」に、「千住といふところで船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。≪行く春や鳥啼魚の目は泪≫是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし」と記されていて、これを記念して奥の細道旅立ちの地として、矢立初めの句碑が建立されました。
史跡
おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を天(矢?)立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送るべし。
歴史と文化の散歩道の案内板もあります。
おくのほそ道と千住
日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄三年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄二年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曾良とともに、千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政三年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。
芭蕉が千住で詠んだ俳句
原文
干しゆと云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて 幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目ハ泪
是を矢立の初として行道なをすゝます 人々ハ途中に立ならひて後かけのミゆる迄ハと見送なるべし
現代語訳
千住というところで舟から上がると、いよいよこれから前途三千里ともいうべき長い旅に出るのだなあ、という感慨で胸がいっぱいになって、この世は夢幻だという思いはするものの、いざこうして別れ道に立つことになると、いまさらながら離別の涙を流すのであった。
春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目も涙にうるんでいるようにみえる。
この句を旅中吟の書きはじめとして、行脚の第一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いで、いっこうに歩みがはかどらない。人々は道中に立ち並んで、われわれの後ろ姿の見えるかぎりはと、見送ってくれているらしい。
出典:堀切実「おくのほそ道 永遠の文学空間」より
「おくのほそ道」の行程図を図示した大きな案内板が立っています。
おくのほそ道行程図
元禄二年(1689年)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644年〜1694年)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発し
ました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。この紀行が、元禄十五年(1702年)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かな旅に思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。
千住を題材にした作品を残した葛飾北斎の富嶽三十六景の案内板もあります。
冨嶽三十六景
「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
大橋公園のはす向かいに千住大橋があります。千住大橋は隅田川に架かる橋で、国道4号日光街道を通しています。千住大橋は旧橋(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されていて、旧橋の上流側に都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋が並行しています。旧橋は昭和二年(1927年)に架けられ、新橋は昭和四十八年(1973年)2月に架けられました。旧橋の橋長は91.6mですが、新橋は南千住交差点をオーバーパスする陸橋部が含まれているために橋長は502.5mとなっています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄三年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋でした。当初の橋は、現在より上流200mほどの当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場がったところに架けられました。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次で、橋長は66間(120m)・幅4間(7m)の橋でした。土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。架橋後は単に「大橋」と呼ばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道・奥州街道・水戸街道の街道筋がこの橋に移りました。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めませんでしたが、後に明暦の大火等もあり交通上・安全上のため両国橋などが完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれるようになりました。今でも橋の嬌名プレートには「大橋」とだけ書かれています。
千住大橋
千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正十二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」
古川柳
大橋公園と国道4号線を挟んだ向かい側に足立市場があります。足立市場は、東京都中央卸売市場の市場で、千住宿の青物市場として天正年間(1580年頃)から存在していた「やっちゃ場」をルーツとしています。 神田市場・豊島市場(駒込市場)と並び、江戸の三大青物市場のひとつで幕府の御用市場でした。東京都が戦時中の昭和十七年(1942年)に現在地を買収し、千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場「足立市場」を昭和二十年(1945年)2月11日に開場しましたが、開場2か月後の4月13日の東京大空襲により全焼しました。昭和五十四年(1979年)9月17日には取引量の増加で施設が手狭になり、青果を取り扱う部門を足立区入谷に新設した北足立市場に移転し、足立市場は水産物専門の市場として生まれ変わりました。
足立市場内には一般の人も利用できる5つの食堂があり、市場直送のおいしい海鮮料理などを食べることができます。
武寿司は、プロの板前や市場内で働く人も多く訪れる寿司店です。 同じ魚でも時期によって産地を厳選して仕入れ、店主の目利きは確かです。店主自ら酒蔵に足を運んで選んだ地酒も20種類以上あり、寿司をつまみながら朝飲み・昼飲みも満喫できます。武寿司の店主は、立ち退きのため惜しまれつつ2021年に閉店した南千住のコツ通りにあった三亀鮓の光井さんで、廃業した武寿司の跡を継いで2022年8月から営業しています。
かどのめし屋は、市場の関係者や近隣の会社員などで賑わう海鮮定食屋です。新鮮な魚介類を使った海鮮丼や、大きな天ぷらが目を引く天丼は勿論、昔ながらのシンプルなラーメンや八戸ラーメンも人気です。特に、八戸ラーメンは本場の青森から素材を取り寄せて作る本格派で、都内で八戸ラーメンを食べられる数少ないお店のうちのひとつです。近隣への弁当の配達も行っていて、日替わり定食はその日のうちにすべて売り切れるほど好評です。
しいはし食堂は、兄妹3人で営む庶民的な雰囲気の食堂です。昭和十一年(1936年)に創業した老舗で、親子4代に渡って通う常連客もいるとのことです。メニューには焼き魚や煮魚の他、開化丼やあいかけなどもあります。調理を担当する長男の賢治さんは御年80才で、できるだけ良い素材を使い、手抜きをしないことをモットーに、父親から受け継いだ味を今もなお守り続けています。
市場めしとくだ屋は、仲買人の店主の目利きによる新鮮な魚介をリーズナブルに楽しめる定食屋で、朝8時からオープンしています。丼や定食に付いてくるあら汁は、魚介の旨みが凝縮されて美味です。また、平日17時からは「109Daya(とくだや)」というビストロとなります。朝昼とはまた違ったメニューがいろいろ味わえて、こちらもお勧めです。
- ポイント13.松尾芭蕉像
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足立市場正門のすぐ横の旧日光街道入口に「千住宿 奥の細道 プチテラス」があります。
平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曾良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。
遥かなる奥の細道へ
道路脇の狭いスペースですが、松尾芭蕉の石像が建っています。芭蕉と弟子の曽良がこの地から奥の細道の旅へ出立した際に、矢立の句を詠んだ時の様子を表わしています。
芭蕉像の足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。
芭蕉と菖蒲園(為成善太郎)の句碑が建っています。芭蕉の句の「鮎の子の白魚送る別れ哉」は、「白魚は、旧暦2月頃に産卵のために川を上る。鮎は、その1ヶ月ぐらい後に遡上すると言われている。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てた。」と解釈されます。
芭蕉とは関係ないですが、千住宿を通った大名行列が描かれています。
大名行列
今をさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最も良く整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参(勤)交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍(偲?)ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。
京成本線の高架を潜った先に、千住歴史プチテラスがあります。江戸時代から千住宿の北の外れで続いた地漉き紙問屋の横山家の内蔵が1993年に千住河原町に解体移築されました。江戸時代には宿場町として栄えた千住宿跡に現存する貴重な蔵のひとつで、江戸時代後期に建造されたものと伝わっています。蔵の周辺は、歴史プチテラスとして維持され、土日には区民ギャラリーとして公開されています。レトロな雰囲気の建物は、まるでタイムスリップをしたような気分にさせてくれます。「やっちゃ場」の由来が記されています。
此処は元やっちゃ場南詰
やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった。と言っても良いだろう。
プチテラスに句碑があった為成善太郎は、青物問屋の主人でした。
大喜 元青物問屋 新大阪屋
当主為成善太郎は俳諧を良くし俳号を為成菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
沢山の屋号が書かれた表札の下に鬼瓦が2組置かれています。谷塚屋は、両替商から青果物問屋になった家系です。
土蔵の鬼瓦
やっちゃ場には多くの土蔵があったと思われるが太平洋戦争末期の空襲でほとんどが焼失してしまった。その中で谷塚屋と足立屋の2棟が並んで残りポツンと建っている様はやっちゃ場の名残りを表すシンボルのようであった。この鬼瓦は谷塚屋の鬼瓦で
ある。建立年代は定かではないが永い間青物問屋の財物・文化財(・)想い出の品物等を大切に守り続けて家の繁栄をささえていた。令和元年に2棟同時に解体された。現在はM.メインステージ千住河原町脇に設置。
日光街道筋に並んでいた商店の配置図があります。
千住葱を扱っていた問屋が今も営業しています。
千住ねぎ 葱
(山)柏は「千住葱」の専門の市場で代々やっちゃ場にて問屋業を営んできた。千往葱は白味が長くて甘い高級葱として料亭、レストランにはなくてはならぬ品物である。生産地は越ヶ谷、吉川などの専門農家が作付をしている。皆様も千往葱のお美味しさを是非味って下さい。
千住のまちの歴史が書かれています。
まちの歴史 千住の町並み
「大千住」という言葉があります。千住に住んだ明治の文豪・森鴎外が使った言葉です。日光道中千住宿は品川・新宿・板橋と並んで江戸四宿と言いました。江戸時代の末の人口は約1万人で、第2位の品川宿の6千300人を大きく引き離し最大でした(1844年「宿村大概帳」)。まさに「大千住」です。なぜ千住宿は最大だったのでしょう。答えは今の町並みにあります。町を歩くと宿場風の家とともに古色蒼然たる蔵がたたずんでいます。千住河原町は市場”ヤッチャバ”の故地です。このように見ると千住の町並みの中に宿場と市場が混在している事にお気付きでしょう。千住が最大規模を誇った理由はここにあります。宿という交通機能に加え、市場という物資集散地であったことが千住の繁栄を築きました。物資を保管した蔵は、千住の市場機能を今日に伝えています。では市場が繁栄した要因は何かといえば、足立・葛飾から埼玉の農村が流通圏だったことです。千住宿の古絵図をひも解くと、舎人屋・花又屋という区内の地名や、二合半屋、といった三郷の古名を名乗る店が見えますが、これは流通圏を反映しています(江戸後期「千住宿宿並図」)。千住は農村に支えられ四宿の頂点に君臨したのです。千住は単なる宿場ではない。いまの千住の町並みは、そうした栄光を私たちに語りかけてきます。
- ポイント14.稲荷神社
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旧日光街道から左手の路地に入ったところに河原稲荷神社があります。路地から入ると、1830年に建立された鳥居が建っています。国道4号日光街道に面した入口にも銅鳥居があり、こちらは1969年に建立されたものです。
河原稲荷神社は、主祭神を倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とする千住河原町の鎮守で、かつて神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ「やっちゃ場」と呼ばれた千住青物市場の産土神社として崇敬されてきた神社です。社殿は1966年築で、鉄筋コンクリート造銅板葺きになっています。戦火により建造物や記録等が焼失したため創建年月日等は不明であるものの、天正四年(1576年)頃には創建されていたと考えられています。
河原稲荷神社は、千寿七福神の福禄寿を奉祀しています。お正月には、七福神巡りをする参拝者で賑わいます。
「やっちゃ場」の旦那衆が威信をかけて造らせた狛犬は、足立区で最大のものとのことです。
狛犬
狛犬は高麗犬とも書く。コマというのは異国を意味しているので、高麗の字を宛てたようである。狛犬は石などで造り、御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で、自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽(あうん)の一対。口を開けている方が阿で、雄という口を閉じているのが雌。何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の柏犬。台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
嘉永三年(1850年)に鋳造された天水槽には、当時この地域に住んでいた人々の名前が記されています。
天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ85cm・直径98cm・上部の円周281cm・下部の円周262.5cmで、やや下へつぼまり、上部に幅6cm・厚さ6cmの縁取りがある。千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ、東京の北門市場としてその名を馳せていた。嘉永三年(1850年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中、傘下の一派御乎長講による寄進である。水槽には青物問屋等の講員名が記名されている。右水槽29名、左水槽21名(重複除く)総計50名。鋳造工らしき者2名、書は徹齋である。御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。
神輿庫に展示されている戦火を逃れた金銅装大神輿は、区の有形文化財に登録されています。「明治未四年」とは、未年(ひつじどし)の明治四年という意味です。
金銅装神輿(千貫神輿)
足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り、露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり、頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし、四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが、江戸神輿の形式を受けつぎ、細工や装飾も見事で美しい。総高238.5センチ・胴部高72.5センチ・基部方123.0センチと大きく、通称千貫神輿と呼ばれているが、実際の重量は450貫であり、この大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では、昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が多勢いたので二天で担いだ神輿である。
千貫神輿の右隣に、小さい神輿が二基ならんでいます。「錺」は、「かざり」と読みます。
神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」
二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。「祭礼の神輿が町中巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め、二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。江戸後期の造形性がよく現れていて、特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり、陰刻銘で表に「千住川原町」、裏に「天保五甲午歳細工人錺師宮有」とある。
境内には明治三十九年(1906年)の「千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑」が残されています。
千住市場創立三百三十年碑
明治三十九年五月二十二日、千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り、各々に大鼓を備えつけ、これを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿を呼ばれる大神輿を二天で担ぎ、少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米の記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは、吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野地方今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。記述の頭取とは、会長、組合長で、伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云い、お祭りともなれば当番の問屋が二・三軒潰れた。千貫神輿は現存する。
千住宮元町交差点の角に坂本龍馬の肖像画が立っています。龍馬の妻だった佐那が開業した灸治院がここにあったそうです。
千葉灸治院跡地
千葉道場での龍馬と千葉佐那
1853年千葉道場に入門した坂本龍馬は千葉定吉の次女佐那と恋仲になり、両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸を出立し京都で横死する(1867年)。
佐那は龍馬の形見の袖を、生涯離さずこの千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。
千住仲町千葉灸治院跡地に
「千葉佐那 坂本龍馬 二人の千葉道場での姿像」
縁あって足立区千住仲町に灸治院を開業し、この地で生涯を終えた千葉佐那さん。来る人々に、私は坂本龍馬の妻ですと語り続けたその心を偲び、二人が共に過ごした千葉道場での二人の姿を像とし、ここ灸治院跡地に建立し、佐那の切ない想いを永遠に伝え、千住、足立の人共に心を一つとするものです。本事業は、「足立区公益法人まちづくりトラスト」によるご協力を頂きたく要請するものです。
2022年に訪れた時は、木碑も建っていました。
千葉佐那 千葉灸治院跡
千葉佐那(さな子)と千住中組の千葉灸治院
坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組(現千住仲町)に明治維新後の明治十九年(1886年)から暮らす。学習院女子部の舎監となり、この地で千葉灸治院を開業、生業とした。
千葉佐那[天保九年(1838年)生・明治二十九年(1896年)10月15日59才病没]
北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女。小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。龍馬より3才年下である。16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた龍馬と知り合う。文久三年(1863年)、龍馬は千葉佐那の事を姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、龍馬の死を知った後も龍馬の事を思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。
- ポイント15.源長寺
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千住宮元町交差点から墨堤通りに入った先に源長寺があります。源長寺は、慶長十五年(1610年)に伊奈忠次が開基となって創立されました。寺名は、忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来となっています。しかし、実質的な創建者は千住の開発者であった石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で開基の座を譲ったとされています。石出吉胤は、千住開発の功により従五位に任ぜられ、石出家は代々名主を務めることになりました。境内に墓所もあります。
源長寺
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598年)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610年)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来である。墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠でしょうか?
草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家が建っています。「筆子家」とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建立した墓や供養塔を指します。
多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(1716年〜1735年)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居し、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は、天明九年(1789年)九月二日没した。
- ポイント16.墨堤通り
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墨堤通りは、墨田区吾妻橋の浅草通りと清澄通りの交差点から、足立区千住桜木の尾竹橋通りの千住桜木町交差点に至る延長7kmの都道です。墨堤通りの起点付近には墨田区役所があり、隅田川沿いに北上して、京成関屋駅や牛田駅、千住大橋駅の前を通って、西新井橋の手前で終点になります。起終点付近は往復2車線ですが、向島付近から日光街道の交点までは4〜6車線の道路です。
墨堤通りに面して区立の千住仲町公園があります。
面積3、240平方メートルの敷地の中央には、噴水広場が設けられています。広場を取り囲むように様々な遊具が点在しています。園内には数多くのサクラの木が植えられていて、毎年桜の季節には絶好のお花見のスポットとなっています。桜の花に続いて、足立区の花となっているチューリップの花を見ることもできます。
公園の入口の脇に、葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景で千住地域を画題にした3枚のうちの1枚「隅田川関屋の里」の顕彰碑が立っています。オランダ商館の医師としてシーボルトが来日した当時、日本の絵師は幕府の許可なしに外国人のために絵を創作することは国禁になっていましたが、葛飾北斎(1760年〜1849年)は文政九年(1826年)に「日本風俗画」15枚を描きました。シーボルトは出版した自著「Nippon」の挿図に「北斎漫画」の図柄を用いました。1867年のパリ万国博覧会で浮世絵が紹介され、その奇抜で動的な構図・軽妙な人物の動き・その表情・衣装描写の精緻さがヨーロッパの芸術家たちに驚愕を与えました。北斎に影響を受けた画家には、ビンセント・ヴァン・ゴッホやエドガー・ドガなどがいて、ドガは「北斎漫画」を参考にした人物像を描いています。また、アンリ・リヴィエールは、「冨嶽三十六景」に触発されて「エッフェル塔三十六景」を描きました。音楽家のクロード・ドビュッシーも「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。このようにしてヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた北斎は、世界的に評価が高く、1960年にはウィーンで開催された世界平和評議会において、世界の文化巨匠として顕彰され、また、1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」で「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ一人選ばれています。
冨嶽三十六景
「隅田川関屋の里」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いて(い)ます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
JR線のアンダーパスを潜った先に、ピザ店があります。「AD’ACCHIO(アダッキオ)」は、天然酵母で作るこだわりの生地とイタリアから運んだ薪窯で焼き上げるナポリピッツァ、それに小粋な南イタリア料理が味わえる一軒家のピッツェリア&トラットリアのお店です。
- ポイント17.柳原千草園
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京成関屋駅の先で墨堤通りから離れ、京成本線の高架下を潜って柳原千草園に向かいます。柳原千草園は、隅田川と荒川に挟まれた位置にある区立の公園で、1989年6月4日に開園しました。この地には、かって丸三製紙株式会社千住工場がありました。
園内は「春の広場」「夏の庭」「秋・冬の山」に分けられ、それぞれの季節ならではの植物を楽しめます。
柳原千草園案内図
この公園は、製紙工場跡地を足立区が買収し、平成元年六月に開園しました。住宅や工場が混在し、密集している地域の中で、身近に水と緑に親しめるとともに、自然の植物が観察できる公園として計画しました。左図のように、季節ごとに植物の様々な姿が見られるように配植し、サクラやシャクナゲ、モミジ、水辺の草花など、数々の植物が植えられていることから、公園名を「柳原千草園」と命名しました。
「春の広場」では、サクラやスイセンなどが3月ごろから咲き始めます。
「夏の庭」では、シャクナゲやアジサイなどの花が5月ごろから咲き始めます。東屋や池を巡る回廊も設置されています。
「秋・冬の山」では黄葉・紅葉するものや、実のなる草木が訪れる人を出迎えます。一年を通して、四季折々の植物が楽しめる憩いのオアシスです。
併設の遊具広場には、滑り台や幼児用(3才から6才向け)ブランコや砂場もあります。
コースマップとは少し異なりますが、大踏切通りから学園通りに入ります。
足立学園の手前から路地に入った先に、もうひとつの千住芸術村があります。こちらは、2013年にオープンした千住旭町の拠点です。瑞風工藝社は、彫金作家2人のアトリエ兼レンタルギャラリースペースで、現代生活をポジティブにしてくれるアート&クラフトの魅力を発信しています。
- ポイント18.東京電機大学
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東京電機大学は、明治四十年(1907年)9月11日に東京市神田区で廣田精一と扇本眞吉が創設した電機学校を起源としています。昭和十四年(1939年)に専門学校令により、「東京電機高等工業学校」が開校し、昭和十九年(1944年)に「電機工業専門学校」と改称し、第二次世界大戦後の学制改革に伴い、昭和二十四年(1949年)の学制改革で現在の「東京電機大学」となりました。大学キャンパスは創立からおよそ100年の間、東京の神田地区に立地していましたが、平成二十四年(2012年)に神田錦町から北千住駅東口前の東京千住キャンパスに移転しました。東京千住キャンパスは、26、221uの敷地に、大学本部・1号館・2号館・3号館(体育館・トレーニング室・武道場)・4号館・5号館・東京千住アネックス(体育館)・千住東グラウンド(フットサルコート・テニスコート)が配置されています。令和五年(2023年)時点で、5学部5研究科を設置するなど、理工系の大学として発展しています。
構内には外部との仕切りはなく、都心のビル街のような雰囲気です。
カシオ創業者の言葉が掲示されています。
「技術は冒険ではない。必ずできる、という確信です」 −樫尾俊雄<発明家、カシオ創業メンバー>
エジソンの伝記に感動し、発明家を志した樫尾俊雄氏。TDUの前身、電機学校での勉強がその後の開発で生きたと回想。常に自分の頭で考え、物事の本質を追究。7年をかけて計算機を、そして電卓、時計、電子楽器を完成させる。さらに時間は1秒ずつの足し算と考え、電卓の技術を応用し1974年、世界初の自動カレンダー機能を搭載した腕時計「カシオトロン」を完成。1983年には耐衝撃腕時計「G−SHOCK」に発展し、時計の世界観を塗り替えた。CASIOブランドは世界中に定着した。まだ世界が気づいていない「必要」を「発明」すると語っていた樫尾俊雄氏からの言葉。「夢を夢で終わらせず、夢を現実にする。ロマンを感じませんか?」
広場の脇にヒマラヤ杉が植えられています。
旧神田キャンパス本館のヒマラヤ杉
このヒマラヤ杉は、本学園の創立者の一人である廣田精一先生にゆかりがあるとも云い伝えられており、昭和のはじめ旧神田キャンパス本館玄関の両脇に植樹され、長きに亘り幾多の教職員や学生たちを見守ってきたもののうちの1本です。平成二十四年四月東京千住キャンパスの開設および旧神田キャンパスの閉鎖にともない、平成二十五年三月四日に、千住および鳩山の地に1本ずつ移植され、さらなる学園の発展を見守ることとなりました。
ゴール地点の北千住駅東口に着きました。
ということで、足立区で五十六番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 56.千住一周名所コース」を歩き終えました。次は足立区で五十七番目となる「E−千住・新田エリア 57.旧水戸街道(千住宿・新宿(金町))コース」を歩きます。
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