- E−千住・新田エリア 57.旧水戸街道(千住宿・新宿(金町))コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「E−千住・新田エリア 57.旧水戸街道(千住宿・新宿(金町))コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年3月に改めて歩きました。
スタート地点:北千住駅西口
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1.千住ほんちょう公園
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2.千住追分
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3.清亮寺
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4.荒川土手
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5.千住新橋
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6.荒川土手
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7.万葉公園
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8.水戸橋(水戸公園は誤り)
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9.蓮昌寺
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10.大曲
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11.曳舟川親水公園
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12.亀有一里塚
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13.アリオ亀有店
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14.中川橋
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15.新宿
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16.新水戸街道
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17.葛飾ヴィナシス横広場
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18.金町駅南口広場(金町駅南口横広場は誤り)
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ゴール地点:金町駅南口
スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.千住ほんちょう公園
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千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。
入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。
公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。
園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。
宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。横山家住宅があります。
横山家住宅
横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
蔵の造りが図解されています。
横山家の蔵(非公開です)
江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を
埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。
天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が
わかります。
外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。
外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。
腰巻部分には煉瓦が使われています。
入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。
戸口は街道から一段下がっていて、上にいる客を下から迎える形となっています。
横山家住宅の向かいに、吉田家があります。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。
千住絵馬屋・吉田家
吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。
横山家と吉田家の先に「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。
宿場通りの北端の交差点の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。
その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。
- ポイント2.千住追分
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交差点の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。ここは旧日光街道から水戸・佐倉街道が分岐する千住追分です。
旧水戸街道は、今は路地のような佇まいです。かっては頭上に青空が広がっていたのでしょうけど、今は旧水戸街道の頭上には千代田線と常磐線と東武スカイツリーラインの高架が連なっています。
- ポイント3.清亮寺
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千代田線と常磐線の高架を潜った先に清亮寺があります。清亮寺は日蓮宗の寺院で、久榮山清亮寺と号します。開山は元和五年(1619年)と伝えられ、本尊は一塔両尊四士です。本堂は天保四年(1833年)の再建と伝えられ、山門は昭和六年(1931年)に再建されました。
清亮寺
日蓮宗、久榮山清亮寺と号す。元和五年(1619年)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸街道入口のこの地に創建された。かつて水戸街道に面して古松が茂り、水戸藩主の徳川光圀公が槍を立てかけたという「槍掛けの松」が有名であった。本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦如来、右に多宝如来、四菩薩、四天王、文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の十五躯の木像で構成されている。本堂は天保四年(1833年)再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建造物である。墓域には、庚申塔一基(足立区登録有形民俗文化財)や、明治初頭に日本医学発展のために腑分(解剖)された囚人十一名を供養した解剖人塚(足立区登録有形文化財)がある。また、明治五年(1872年)に千住で生まれ、京都帝国大学教授を務めた著名な歴史学者内田銀蔵博士の墓もある。昭和六年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久榮山」(足立区登録有形文化財)の書は、中国南北朝時代に発展した六朝風の書体を得意とした書家の中村不折によるもので、不折は洋画家としても知られ、夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵を描いた人物でもある。
本堂は総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しています。
かつて山門のすぐ近くに、水戸黄門が槍を立てかけたということから名付けられた「槍かけの松」がありましたが、残念ながら枯れてしまいました。墓地入口付近にある「解剖人墓」は、明治三年(1870年)に小塚原の刑場で処刑された後、ここで腑分け(解剖)された11人の罪人の戒名・執刀日・俗名・年齢を刻み供養しています。明治の外科医学がここから始まったともいえる貴重な資料です。また、明治五年(1872年)に千住中組(現在の千住仲町)で生まれ、東京帝国大学を卒業し、明治三十九年(1906年)に京都帝国大学の教授となり、我が国で経済史学を樹立した経済学者内田銀蔵博士の墓もあります。
「槍掛けの松」 久榮山 清亮寺
清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道(水戸海道)です。江戸時代初期の元和五年(1619年)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道(日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は「名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない」と、粋な計らいをしました。以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。写真は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災
以前に撮影されたものです。大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向う側にまで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。しかし、樹齢三百五十年を数えた名松は、惜しくも昭和二十年ごろに枯れてしまいました。南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた棹石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向う側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶことも出来る貴重な資料といえます。
拡大写真です。
- ポイント4.荒川土手
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清亮寺から荒川の土手に上がります。土手は三段式になっていて、二段目に道路が通っています。
荒川河川敷の荒川千住新橋緑地にある「虹の広場」は、7色のカラーブロックを使って舗装した広場です。中央には荒川で見られる野鳥や魚、昆虫などが描かれた絵タイル103枚が敷かれ、花壇には季節の花が色とりどりに咲きます。また、河川敷を訪れる車椅子利用者や高齢者の方でも気軽に利用できる「だれでもトイレ」もあります。虹の広場周辺には野球場などが多数整備されていて、広々とした空間でスポーツを楽しむことができます。虹の広場では四季折々の花が楽しめる、特に春は約14、000本のチューリップとパンジーが圧巻的な美しさを誇ります。満開になる5月に土手の上から眺めますと、広場の虹の絵を繋ぐようにチューリップが花壇を彩ります。チューリップの色は虹と同じ7色あります。春以外にも、夏にはカンナが見頃となり、夜空には花火が咲きます。秋は区民まつりの会場として訪れる人を楽しませます。
広大な河川敷には、野球場やサッカー場が設けられています。休日には、少年野球大会があちこちで開催されます。
トイレの壁には、足立区のマスコットキャラクターのひとつビュー坊が描かれています。
千住新橋の脇に、足立区生涯学習センターがあります。この建物の4階にある「荒川ビジターセンター(学びピア21)は、川に親しんでもらうことを目的として作られた施設で、荒川とその水系を中心とした自然や歴史、文化など、荒川に関する様々な 情報を発信しています。館内には解説員が常駐する他、荒川に住む生き物や植物や川の変遷・人々の営みなどが分かりやすく写真やパネルで展示されています。また、月に数回、荒川の身近な自然を観察したり、荒川への関心が高まるようなイベントも行われています。
- ポイント5.千住新橋
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荒川放水路が開削される前は、清亮寺から水戸橋の方向に水戸街道が延びていたのでしょうけど、荒川放水路の開削によって水戸街道は分断され、今では千住新橋で荒川を渡って迂回するしか方法はありません。千住新橋は密接した2本の橋で国道4号(日光街道)を通し、橋長446メートル・幅員15.75メートル・最大支間長120メートルの鋼連続箱桁橋です。初代の橋は大正十三年(1924年)に開通し、老朽化に伴って昭和五十八年(1983年)に現在の橋に架け替えられました。
- ポイント6.荒川土手
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千住新橋を渡って、荒川左岸の土手上の遊歩道を進みます。
土手下に下りて河川敷の遊歩道を進みます。荒川の岸辺には緑地帯が設けられています。
荒川千住新橋緑地
荒川の下流部は、流域の人々の暮らしを洪水から守るために、人工的に掘られた川です。しかし、大正年間の通水以降、長い年月の間に植物が生い茂り、いろいろな生き物もすむようになりました。その結果、今では、足立区の中でもっとも自然の豊かな場所となっています。この広場は、荒川をより自然な水辺環境にするため、でこぼこな原っぱや湿地などを作り、魚・昆虫などに身近に触れあえる場となることを目ざしています。やぶや草むら、水たまりなどがたくさんありますが、これらは小さな生き物たちにとって大切な生活の場です。生き物たちをおどろかさないように、そっとのぞいて見てください。生き物たちの興味深い、いろいろな行動や習性が観察できるはずです。足立区や水と緑の公社では、今後とも荒川の自然を守り育てるため、また、自然に親しめる機会が少しでも増えるように、いろいろな調査・研究、観察会などを行っていく予定です。ぜひ協力してください。また、荒川の自然で知っていることがありましたらお知らせください。
昭和五年(1930年)に完成した荒川放水路は、昭和四十年(1965年)の河川法の改正で呼称が「荒川」に変更されました。東武スカイツリーライン線の橋梁名は、現在も「荒川放水路橋梁」と呼ばれ、荒川放水路の名前を残す唯一の橋です。ちなみに、千代田線の綾瀬〜霞ケ関間が開業したのは、昭和四十六年(1971年)4月20日のことでした。
- ポイント7.万葉公園
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東武スカイツリーライン線の荒川放水路橋梁を潜った先で河川敷から土手上の遊歩道に戻り、土手下の平和橋通りに下ります。平和橋通りに面して、小菅万葉公園があります。
小菅万葉公園は、裏門堰親水水路に沿って整備された公園です。裏門堰親水水路は、小菅にある東京拘置所(かっての小菅刑務所跡)脇を流れる水路です。「裏門堰」という名前は江戸時代に設けられていた「小菅御殿」の裏門に由来しています。この水路は元来「古隅田川」という河川の一部で、古隅田川は江戸時代以降は武蔵国と下総国を分ける国境の川でした。綾瀬川が開削されてから古隅田川は流れが細くなり、河川としての役割はほとんどありません。現在では古隅田川緑道となっています。古隅田川の総合案内板があります。
古隅田川(足立・葛飾区)総合案内
<概要>
古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水として利用されてきました。現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川、古隅田川」をテーマに、失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
<位置>
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。また、古隅田川に隣接して5つ公園があり、河添公園・下河原公園は足立区に、袋橋公園・白鷺公園・小管万葉公園は葛飾区に位置しています。
<延長>
古隅田川 約5,450m
裏門堰 約1,100m
現在の東京拘置所の敷地には、かって小菅御殿と称された関東郡代の下屋敷がありました。
小菅御殿跡
小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千余坪にのぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736年)八代将軍吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。さらに小菅籾蔵跡には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれて行きます。
小菅御殿の跡には幕府の小菅銭座なる鋳造所も置かれました。銭を鋳造する材料の鉄材は、小菅御殿に面した古隅田川に架かっていた銭座橋付近から荷揚げされ、小菅御殿の裏門を通って運び込まれました。推測ですが、荷揚げしたところに堰があり、それが「裏門堰親水公園」の名前の由来になったと思われます。銭座橋の親柱は今でも残されているそうですが、現在の裏門堰親水水路とは異なる西小菅小学校近くの道路上にあり、今回は見ることはできませんでした。事前調査が甘かったです。それにしても、小菅御殿の裏門って、どこに位置していたのでしょうね?当時の古隅田川の流路は東京拘置所の正門前辺りも通っていたのでしょうか?
小菅銭座跡
小菅御殿跡の南側(現在の小菅小学校)には安政六年(1859年)から慶応三年(1867年)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久三年(1863年)5月の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く京都・大阪にも回送されました。昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めてはいませんが、今でも「ぜんざ(銭座)橋」と刻んだ石柱が残っています。銭を鋳造する鉄材はこの橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれたということです。
小菅万葉公園の端っこにはポンプらしき施設があります。恐らく、他の場所から水を引いて裏門堰親水水路に流し込んでいるのでしょう。
小菅万葉公園に隣接して東京拘置所があります。
東京拘置所の正門は殺風景ですが、入口横の煉瓦の壁は年季を感じさせます。私は知らなかったのですが、東京拘置所の敷地にはかって煉瓦の鋳造所が建てられ、小菅監獄の囚人達が働いて(働かされて)いたそうです。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県斤含・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。明治五年二月二十六日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に西欧に負けないキ市を造りあげようという意図もありました。明治五年十二月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚レンガの最初でもありました。小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内・霞ヶ関の女王である煉瓦建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡に使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです。
煉瓦塀の奥には大きな石灯籠が置かれています。小菅御殿の栄華を偲ばせます。
旧小菅御殿石燈籠
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736年)7月、伊奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。ェ政四年(1792年)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確ではありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈龍は、昭和五十九年(1984年)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。
同じような内容の古びた案内板もあります
旧小菅御殿石燈籠
石燈籠について
小菅御殿(または千住御殿と称する人もある)は、約三百五十年前、三代将軍家光公がこの地に治山止水農政に優れた関東郡代伊奈半左衛門の下屋敷(土地約十万坪)として与えたものであり、奥州路の諸大名が参府する際の送迎用として、また、将軍の放鷹や鷹狩りの御膳所、九代将軍家重公の御世継時代の養生所等に使われた。その郡代の勲功は上下に讃えられ代々俸勤二百年に及んだが、寛政四年(1792年)第十代伊奈半左衛門忠尊のとき家中不行届で蟄居断絶、領地も没収となり、屋敷も取り払われ天領となった。その後明治十二年(1879年)に約七万坪を利用して小菅監獄(東京集治監)が建てられ、以後小菅刑務所を経て、昭和四十六年(1971年)から東京拘置所敷地として使用されている。ここに置かれている桜御影石の灯籠等は江戸時代初期の作とされ、小菅御殿当時を偶はせ、世の栄枯盛衰の中で当地に静かに立ちつづけた貴重な歴史資料で当所構内に保存されていたが一般の方々に供覧に便ならしめるため。この場所に移した。
平和橋通りは、小菅一丁目15番地の三叉路で二手に分かれます。本線は首都高中央環状線の高架に沿って延び、もう一方は路地となって水戸橋に向かいます。水戸橋に向かう道筋は旧水戸佐倉道になります。
小菅の住宅街に佇む銭湯があります。唐破風屋根の重厚な建物、入口や下駄箱は木製で、内部は番台式・格子天井・小さな箱庭もある伝統的な東京銭湯です。草津湯は火曜日〜土曜日の営業で、15:50〜17:00の約1時間のみ営業している伝説の銭湯です。しかし、諸事情により2024年6月29日をもって廃業したそうです。
- ポイント8.水戸橋
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平和橋通りは綾瀬川の護岸に突き当たります。護岸下に、かっての水戸橋の遺構がモニュメントとなって保存されています。
水戸橋跡地
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624年〜1644年)と考えられています。水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。
【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄十年(1697年)の銘があります。
【水戸佐倉道】
前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保十年(1725年)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
旧水戸橋を渡る神輿の写真が添えられています。
水戸橋は旧水戸橋の上流に架けられたため、平和橋通りは旧水戸街道から逆コの字型に迂回する道筋になっています。
水戸橋は、徳川光圀(黄門)も江戸と水戸を往来したと云われる水戸街道唯一の橋で、名称は水戸街道に由来します。昭和三十年に架橋された水戸橋は水運に使用されていた為、先が見えない程中央部が高く持ち上げられていました。しかし、橋桁が低く橋台が左岸に突出し川幅を狭めている為、平成二十四年(2012年)5月に架け替えられました。欄干には「先代の水戸橋」のレリーフ飾りがあります。
水戸橋を渡って、土手下を見ますと、道路に面して大六天排水場と書かれた施設があります。
排水場というからには水路か暗渠が繋がっている筈です。正門の方からはそれらしきものは見えませんので裏手に回ってみます。すると、ドブみたいな水路が排水場の開口部に繋がっています。このドブのような水路は古隅田川の一部です。古隅田川の川筋は現在の大六天排水場付近で流路を変えて北に向かい、裏門堰親水水路に繋がっていたものと思われます。ただ、その流路は開削された綾瀬川によって消滅し、現在ではその痕跡は確認できません。裏門堰排水場もそうですが、大六天排水場は排水機場と同じ水利施設です。排水機場は水門で堰止められて行き場を失った水路の水を排水する施設のことで、先ほど見た水門らしき構造物から古隅田川に溜まる水を綾瀬川に排水しているものと思われます。
小菅交番前交差点を渡った左手にレンゴーという大阪市に本社を置く会社の工場があります。板紙・段ボールを中心とする紙製の包装資材を製造・販売する企業で、板紙や段ボールの業界では最大手だそうです。
- ポイント9.蓮昌寺
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レンゴーと路地を挟んで蓮昌寺(れんじょうじ)があります。蓮昌寺は日蓮宗の寺院で法光山と号し、鎌倉時代の正安二年(1300年)に松本阿闍梨日念が道昌寺として創建しました。当時は現在地の裏の古隅田川付近にありましたが、慶長十九年(1614年)に現在地に移転しました。慶長十九年(1614年)に三代将軍家光が亀有付近で放鷹の際、境内の蓮花を賞賛して蓮昌寺と称するように命じたので、道昌寺から蓮昌寺に改称したといわれています。明暦二年(1656年)に五世日敢が堂宇を再建し、万治三年(1660年)に六世日円が七面大明神を勧請し、寛政四年(1792年)4月に徳川十一代将軍徳川家斉が鷹狩で使用して以来、将軍家の御膳所に指定されました。文化八年(1811年)に二十一世日隣が鐘楼を再建しましたが、安政二年(1855年)の安政大地震で諸堂が大破し、文久二年(1862年)に二十五世日深の代に再建されました。蓮昌寺は北野武(ビートたけし:映画監督)の実家の菩提寺であり、1999年に北野武の母が亡くなった際には蓮昌寺で葬儀と告別式が営まれました。また、蓮昌寺はいかりや長介(ドリフターズ:音楽家・タレント・俳優)家の菩提寺でもあり、いかりや長介自身の墓所も蓮昌寺にあります。
境内の隅に梵鐘が置かれています。昭和十九年に第二次世界大戦で供出した梵鐘の代わりに、鐘楼を安定させるためにコンクリート製の梵鐘が鐘楼堂に掛けられたそうです。コンクリートで作られたとは思えない出来ですね。現在の鐘楼堂には青銅製の梵鐘が吊されています。
小菅三丁目交差点で都道314号川の手通りを横断します。平和橋通りの脇線は交差点で終端となります。
- ポイント10.大曲
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交差点を渡ってひとつ目の信号で道筋が二手に分かれます。左手の細い道が旧水戸佐倉道になります。
旧水戸佐倉道は、JR常磐線の高架橋が見える辺りから右に大きくカーブしています。この辺りは、大曲(蔵の内)と呼ばれています。
JR常磐線の高架橋沿いの100m位の区間の旧水戸佐倉道は直線になっています。
それを過ぎると二股の分岐路で高架から離れて右にカーブしています。
その後左にカーブして西亀有三丁目交差点で都道467号線(千住新宿町線)に合流しています。丁度半円を描くような道筋になっているのです。
都道467号線(江北橋通り)の合流地点に石碑が建っています。
旧水戸佐倉道
かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が流れていたこのあたりは、江戸時代には千住宿から分岐した水戸佐倉道が通っており、葛飾区新宿で水戸道と佐倉道に分かれていました。現在は西亀有という町名ですが、江戸時代には上千葉村・砂原村といいました。この周辺では、東京低地で数少ない中世の屋敷跡が発掘されており、十四世紀頃から集落があったと推定されています。上千葉・砂原という地名は、現在でも学校や公園の名前として残っています。
- ポイント11.曳舟川親水公園
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江北橋通りを亀有方向に進みます。道上小学校東交差点で曳舟川親水公園と交差します。
曳舟川親水公園は、曳舟川(葛西用水)の面影を残し、水をテーマとして整備された南北延長約3km(亀有から四つ木まで)の公園です。曳舟川は葛飾区から墨田区にかけての川筋で、江戸時代初期には飲料水用水路として利用されました。これが廃止された後は、綱を付けた小船を岸から引いて人々を楽しませる乗合船が登場し、安藤広重の江戸百景にも描かれるなど、江戸の風物詩として知られ、これが曳舟川の名称の由来となっています。曳舟川の名称が付けられた区間は江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修されました。江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は一種の水上交通機関ではありましたが、舟を曳く動力が陸からの人力であるために馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたもので、曳舟は異色の交通機関として人気がありました。また、江戸市中から下総・水戸方面へ行く多くの旅人にも利用されました。他の都市河川と同様に、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)頃までは小魚などの生物が生息している川でしたが、日本が高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み、瀕死の状態となっていました。その後、排水規制等によって水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在していません。葛飾区の区間では、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道となりました。自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もあります。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられています。
曳舟川親水公園
曳舟川は昔、物資や人を運ぶのに重要な川でした。葛飾区では曳舟川の全長約3kmを整備し、区民の皆さんが水と親しめる公園づくりを進めています。
曳舟川が流れていた頃に架かっていた橋の跡地に、当時の橋の周辺の風景を写した写真が石碑埋め込まれています。曳舟古上水橋は、バスの車体と比べると水路の幅は結構広かったんですね。曳舟親水公園は江北橋通りに接する道上小学校東交差点(曳舟古上水橋跡)で終端となります。
曳舟川は主要な街道に隣接して流れていたので、道標も残されています。四ツ木道は、亀有で旧水戸街道(陸前浜街道)に、また手前の四ツ木で下総街道・奥戸街道・立石道に接続し、江戸から北上する日光街道を千住宿までの間補完する迂回幹線道路として利用されていました。水戸佐倉街道は、途中から分岐して成田山新勝寺に至る「成田街道」の隆盛もあって旅人は多かったようです。
- ポイント12.亀有一里塚
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江北橋通りは、旧水戸街道の道筋に当たります。亀有には「旧水戸街道 亀有上宿」の石碑が建てられていますが、これは千住宿と新宿の間に置かれた間宿の位置付けです。
江北橋通りを環七方向に少し進んだところに、旧水戸街道の一里塚跡の碑が建っています。助さん・格さんを従えた水戸光圀公の像が並んでいます。
一里塚跡
一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(1604年)に設置が命じられた江戸時代のものをさします。亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。塚の位置は、ここから東へおよそ10m先にありました。
何度見ても不気味な顔にしか見えません。
- ポイント13.アリオ亀有店
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江北橋通りは、環七の亀有二丁目交差点で終端となります。交差点の角には、アリオ亀有店の巨大なイトーヨーカドーと専門店街が揃うショッピングモールがあります。
ARIOとは、ARIEL(「空気の精」の意)と語尾に「o」を組み合わせた造語で、「Ario」を表す4字には、それぞれ「Amusement:娯楽」・「Relaxation:健康/安らぎ」・「Information:情報発信」・「Originality:創造性」といった意味が込められているとのことです。
- ポイント14.中川橋
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アリオ亀有店の先で、中川に架かる中川橋を渡ります。
中川橋東詰にある小さな公園に、かつて旧中川橋の袂に聳えていたタブの木の切り株がモニュメントとして置かれています。中川を渡る旅人の道しるべとなっていたタブの木ですが、新しい橋をかける際にタブの木の移転も考えられたそうですが、調査の結果不可能と分かりあえなく伐採されたそうです。説明文には当時の写真や絵が載せられていますが、なかなか見事な光景だったようです。
中川橋橋詰のタブの木
〜中川の歴史〜
中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石橋が設置されています。江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
〜タブの木の経緯〜
中川橋東橋詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。しかし、平成四年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。
保存されている旧中川橋の親柱です。
- ポイント15.新宿
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中川橋東橋詰の先の新宿小学校西交差点を右折します。ここは新宿(にいじゅく)の町域になります。新宿(しんじゅく)と間違われやすいですが、「新宿」の町名の由来は、「新居の宿」の略称からといわれています。江戸時代に水戸街道の宿場町だった新宿とその周辺地域を指す地名として「新宿町」という呼称が登場しました。明治初期に郡区町村編制法及び町村制施行時に大規模な町村の整理が行われ、町村は地縁共同体から法的組織である自治体へと転換されることになりましたが、新宿町は合併などを経ることなく、江戸時代の町域がほぼそのまま引き継がれました。明治二十二年(1889年)5月1日に、町村制に基づく自治体としての新宿町が発足しました。昭和七年(1932年)10月1日に周辺町村とともに東京市へ編入され、新設の葛飾区の一部となりました。当初、東京市では区役所設置予定地を区名として採用することを原則としていて、新宿町が区役所設置予定地であったことから「新宿(にいじゅく)区」が最初の区名原案でした。しかし当時の四谷区新宿(しんじゅく)および新宿駅周辺地域と混同される恐れがあるとして不採用になりました。
新宿二丁目を枡形に進みます。西念寺は、文安五年(1448年)に僧浄円が結んだ草庵が前身となって、天文元年(1532年)に覚蓮社法誉によって開山されました。元禄十四年(1701年)に十六世住職尊誉が恵心僧都源信作といわれている阿弥陀三尊を安置して西念寺の本尊としました。江戸時代には、末寺7寺を擁していました。
枡形になった道路の奥まった所に日枝神社があります。日枝神社の創建年代は不明ですが、室町時代末期と推測されています。江戸時代には「山王社」という名称で、水戸街道の宿場町の新宿の鎮守でした。明治時代に「日枝神社」と改称しました。元々は現在地よりも西に位置していましたが、享保十四年(1729年)の中川開削工事のために現在地に移転しました。日枝神社の赤い鳥居は都内では珍しい「神武山王鳥居」と呼ばれるもので、山王信仰関係の神社(山王神社・日枝神社・日吉神社など)にみられる鳥居です。
江戸時代に水戸街道の宿場町だった新宿の痕跡を示すバス停があります。一里塚もあったのでしょうか?
バス停の奥に浄心寺があります。浄心寺は、慶長十九年(1614年)に廓蓮社然誉潮呑和尚が開山し、明呑が開基となって創建されました。江戸時代には、両国回向院と南千住回向院の住職の隠居寺として使用されました。
墓地には、二・二六事件で反乱将兵と戦い殉職した清水与四郎巡査の墓があります。清水巡査が斃れて鮮血に染まった芝生は後に当寺に移植され、平成九年(1997年)に浄心寺から警視庁にプランター1鉢分の芝生が譲られました。
区登録有形文化財
昭和十一年(1936年)2月26日早朝、陸軍内部の皇道派青年将校は武力によるクーデターを図り、1400人余の部隊を出動させて国会・首相官邸一帯を占領し、陸軍上層部に国家改造の断行を要請しました。世にいう2・26事件の発生です。墓背面の碑文によれば、当時警視庁巡査部長の職にあった清水與四郎氏は、総理大臣官邸警戒勤務中にこの事件に遭い、機関銃などの乱射を受けて一命を落としました。この事件の責をとり、岡田啓介内閣は3月に総辞職をしましたが、この霊に報いるため、岡田氏の手によって6月この墓碑が建立されたものです。
- ポイント16.新水戸街道
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新水戸街道という呼称は一般的でなく、通常は「水戸街道」または「国道6号線」と呼ばれています。水戸街道は江戸時代に定められた日本の幹線道路で、五街道に準ずる脇街道のひとつでした。水戸街道は、江戸側の千住宿と松戸宿を経て水戸藩の城下町である水戸を繋ぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。本来、街道は行き先の名称を冠したため、水戸側では江戸街道と呼ばれました。現在、水戸街道は国道6号線の墨田区向島〜千葉県松戸市〜茨城県水戸市までの区間の愛称です。国道6号線は「水戸街道」と呼ばれますが、街道筋が新道・バイパスの開通などにより国道6号線から外れた部分については「旧水戸街道」として区別しています。水戸以北は岩城街道(又は磐城街道)や岩城相馬街道と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていました。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路でしたが、奥州街道ほどには栄えませんでした。明治時代以降は、水戸街道と磐城街道をまとめて「陸前浜街道」と呼称するよう明治政府から通達が出されました。中川大橋東交差点の角に道標が残っています。この地点で水戸街道と佐倉街道が分岐していました。
区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標
この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永二年(1773年)10月から同六年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681年)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。
石碑の正面に「右 奈りだちば寺道」・「左 水戸街道」とあり、左側面に「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」、右側面に「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」、背面には「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで 石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」と刻んであります。
石碑の先に、旧佐倉街道と並行して緑道が延びていて、「金阿弥橋」と書かれた親柱と欄干の一部が残っています。表札のような字体で、後からプレートを貼り付けたような感じです。橋名の由来は定かではありませんが、付近にお寺が多いので「阿弥陀様」の字を頂いたのかなと想像します。
かっての水路の跡のような緑道を進みます。水元から流れていた用水路跡みたいです。
新宿(にいじゅく)小学校の南の変形交差点の一角に地蔵菩薩石仏群があります。この三角地の南側の路地はかつての水戸街道の旧道で、金町あたりで現在の国道6号線筋になって北東へ伸びていました。この旧水戸街道は柴又帝釈天への道でもあり、その為「帝釈道」とも呼ばれています。石仏群の先には帝釈道碑が建っています。自然石で造られたこの帝釈道碑は、明治三十年(1897年)7月に建てられました。
千住から東に向かった水戸街道は、明治時代半ばまで現在の中川橋を渡し船で渡り、新宿村に入り、そこから一旦南に下って新宿日枝神社で東に転じ、現在の水戸街道の辺りで佐倉街道と出合いました。佐倉街道と合わさって北上すると現在地に至るという道筋になっています。従って、この地点は、水戸街道・佐倉街道・帝釈天道と3つの街道が一緒になっていた交通の要衝でした。道路に囲まれた三角地にはベンチがあり、地元のご老人たちが集って世間話に花を咲かせています。
記念碑
地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大龍神石碑を、旧水戸街道道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転。
石仏群の右端に並ぶのは舟型光背型の六地蔵尊です。同時に造立されたもので、造立年は享保三年(1718年)10月と刻まれています。それぞれ部分的な欠損は見られるものの、補修がなされています。
その左には2基の六十六部供養塔と庚申塔があります。右の小さい方の駒型の供養塔は、正面に「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、宝暦十一年(1761年)10月の造立となっています。中央の駒型の供養塔にも「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、こちらは宝永五年(1708年)9月の造立です。「乃至法界自他平等?主安楽即身成仏」とあります、左の駒型庚申塔は、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が描かれていて、享保七年(1722年)11月の造立です。刻銘は「奉建立青面金剛一躯為二世安楽也」とあり、三猿の下には願主名と共に新宿町の銘があります。その左には2基の地蔵菩薩像があり、右の舟型光背型の地蔵菩薩像は宝永三年(1706年)10月の造立で、「奉造立六道能化地蔵菩薩二世安楽処」と刻まれています。左の方は地蔵なのかその他の仏なのかは不明で、右上が大きく欠損し、尊顔も判別がつきません。造立年は宝永七年(1710年)12月と読めます。
地蔵菩薩石仏群で右手の小路に入ります。直ぐ先に踏切があります。
浜街道踏切は総武貨物線の踏切で、旧水戸街道が交差しています。水戸街道は千住から水戸までで、その先の水戸から岩手や宮城の陸前までは陸前浜街道と呼ばれていた道路でした。明治に入り、千住から岩手までを陸前浜街道の名称になった事から、陸前浜街道や浜街道という名前が水戸街道沿いには残っています。
金町駅の手前で旧水戸街道から半円状に分岐した小路があります。
コースマップにはこの小路を通るようになっているのですが、何かの流路の跡のように思えるものの、特に見るべきものはありません。
金町二丁目交差点から(新)水戸街道に出ます。
(新)水戸街道は、金町三丁目交差点で立体交差になっています。その経緯を示した石碑が歩道脇に建っています。
金町立体事業
「金町立体事業」は、深刻な交通渋滞箇所となっていた金町三丁目(京成踏切)と金町広小路の二つの交差点を、連続立体化することによって、交通渋滞の緩和を図った事業です。「金町立体事業」の特徴は、立体事業をきっかけとして、周辺の快適な環境と生活空間を創造し、商店街を活性化させるために、美しい高架橋と町並みをうみだす景観整備に重点をおいている点と、道路空間を活用して駐輪場(葛飾区管理)や共同溝(電気・電話・ガスを一緒に収納する施設)を整備する点にあります。この事業は、昭和四十五年に着手してから完成まで20余年という長い歳月を要してまいりましたが、その間、多数の地権者の方々のご協力をいただきながら、建設省、地元自治体側と金町6号国道対策協議会などの地元住民の方々との十分な意見交換を行なうことによって、ともに、より魅力的な道路となることを目指して進めてまいりました。この「金町立体」が、金町の新たなシンボルとなるとともに、これからの道づくりのお手本となるものと信じております。
[主な事業経緯]
昭和二十一年3月 都市計画決定
昭和四十一年7月 都市計画変更(一部幅員変更)
昭和四十五年度 事業着手
昭和四十七年5月 計画説明開始
昭和四十八年度 用地買収着手
昭和五十六年2月 都市計画変更(立体交差及び一部幅員変更)
昭和五十七年3月 金町立体改築連絡協議会と懇談会開催
昭和六十年4月 建設省、葛飾区、金町6号国道対策協議会で三者会議開催
昭和六十年度 工事着手
平成四年5月 高架部暫定供用(2車線)
平成五年6月 高架部4車線供用
平成七年10月 全体完成
こんな感じです。
- ポイント17.葛飾ヴィナシス横広場
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金町三丁目交差点を横断し、次の信号を左折しますと葛飾ヴィナシス横広場の裏口に出ます。「葛飾ヴィナシス」でネットを検索しても記事は見当たらないのですが、「ヴィナシス金町」で検索すると多数の記事が見つかります。よく分からないのですが、平成二十一年に完成したヴィナシス金町は計画当初は葛飾ヴィナシスと呼ばれていたものの、その後ヴィナシス金町と名称が変更されたのではないかと推測します。
ヴィナシス金町は、金町六丁目地区第一種市街地再開発事業で平成二十一年に誕生しました。
それまで住宅や飲食店が密集していた地区内の環境改善と土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新を目的とし、葛飾区画街路第5号線などの公共施設・超高層住宅・快適な商業空間などの複合施設として整備されました。金町駅周辺地区全体の街作りを先導することを目標に掲げた、葛飾区内で初めての組合施行による再開発です。ヴィナシス金町は、敷地面積約9千u・延べ面積8万u、店舗・住宅・駐車場・公益施設が入居する地上41階・高さ138mの建物です。1階と2階がスーパーマーケット・カルチャーセンター・クリニックモール・金融機関などの商業施設、3階が約5千uの広さをもつ区立中央図書館、低層棟の4階〜7階が自走式で256台収容可能の区営駐車場、高層棟の4階〜39階が住宅になっています。また、地下には住宅用の駐車場・駐輪場と店舗用の駐輪場が整備されています。敷地北側にはカリヨン(12鐘)が設置された広場があり、イベントなどが開催できるようになっています。「ヴィナシス金町」の名称の由来ですが、生まれ変わる金町の象徴として、空に輝く一番星の金星(女神ヴィーナス:Venus)のイメージと、水と緑の街・金町に住む人にとっての憩いの場(オアシス:Oasis)となることを期待して、ヴィナシス(VENASIS)と名付けられました。
ヴィナシス金町ブライトコートの3階には、平成二十一年(2009年)10月17日に開館した区立中央図書館があります。ワンフロアでユニバーサルデザインを取り入れ、年末年始も開館しています。蔵書数は、一般書が約34万冊・児童書が約6万5千冊・雑誌が368タイトル・新聞が38紙・CD/DVD/カセット/ビデオが約1万3千点あります。また閲覧座席数は約450席あります。区立中央図書館は、葛飾区で一番大きな図書館です。
- ポイント18.金町駅南口広場
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金町駅南口広場の一画に、駅前再開発に合わせて2021年に設置されたとんがり帽子のモニュメントが置かれています。ベンチ脇のプレートには、小中学生のアイデアを基に葛飾区が作った「かつしか郷土かるた」の「か」の札が紹介されています。「金町に くらしささえる 浄水場」、命の水を供給し続ける浄水場は地元の誇りです。
〜 とんがりぼうしの取水塔 〜 (金町浄水場の第2取水塔)
このベンチは、金町六丁目駅前地区第一種市街地再開発事業の実施に伴い、金町駅前に創出された空間を活用し、憩いの場、待ち合わせの場として、金町駅前の活気とにぎわいづくりを目的に、再開発事業の竣工にあわせて、金町六丁目駅前地区市街地再開発組合が設置した「デザインベンチ」です。デザインベンチに設置された花壇の花の管理は、葛飾区の「花いっぱいのまちづくり」の活動と連携しています。
■とんがりぼうしの取水塔(金町浄水場の第2取水塔)
<実物の大きさ>
基礎の高さ: 12.20m 塔の高さ: 9.40m
【給水区域】
墨田区、江東区、葛飾区、江戸川区、足立区、荒川区、台東区の大部分及びその他23区の一部(※河川の水量などにより、給水区域が変わることもあります。)
【金町浄水場の水】
金町浄水場では、全量を高度浄水処理した安全でおいしい高品質な水道水をお届けしています。
【金町浄水場の取水塔とは】
江戸川の流れにたたずむ煉瓦造りの塔。とんがりぼうしの取水塔(第2取水塔)は、現在2基ある取水塔のうちの一つです。第2取水塔は昭和十六年に造られ、その少し下流には丸帽子の第1取水塔(昭和三十九年造)があり、江戸川の水を浄水場へ送りつつ、江戸川の豊かであたたかみのある風景も演出しています。映画「男はつらいよ」シリーズや、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の作中にも登場し、その姿は地域のシンボルとして多くの人から親しみを持たれています。(大正十五年の浄水場開設当時にあった第1取水塔は、昭和三十八年から三十九年の拡張工事の際に取り壊されています。)
金町駅南口広場に面して、葛飾柴又について解説した案内板が立っています。
国選定 重要文化的景観 葛飾柴又の文化的景観
重要文化的景観の特徴
中心部
- @帝釈天題経寺
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帝釈天題経寺は、庚申信仰により参詣客を集めた江戸近郊の流行寺の一つでした。江戸時代から近代にかけて、 旧堂を改造、移築しながら新堂を加える独特の造営過程によって整えられたものです。境内からは奈良時代の遺構も発見されています。
- A帝釈天題経寺門前
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帝釈天題経寺の門前は緩やかに湾曲する通りに沿って店頭対面販売形式の店舗が連続しています。周辺農家が副業的に店を営んだことから始まり、その地割や建物形式、販売品目等から、その歴史を読み取ることができます。
周辺部
- B国分道(帝釈道)沿い
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古来、矢切に向かう街道が通る微高地に、柴又八幡神社、真勝寺や旧家が残り、江戸近郊の農村における居住域であったことを伝えています。
- C帝釈天題経寺南方・江戸川河川敷沿い
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帝釈天題経寺の南側から江戸川河川敷に沿った微高地に旧家が存在しています。和洋折衷の建物と和風庭園からなる「山本亭」は関東大震災を機に所有者が移り住み造られました。
縁辺部
- D柴又用水の受水域
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かつて柴又用水やその支流が縦横にめぐっていた農地でした。水路跡に加え、関東大震災を機に移転してきた宝生院を見ることができます。
- E金町浄水場と取水塔
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微高地の北側に位置する金町浄水場は大正十五年に給水を開始し、拡張を繰り返し今日に至ります。
- F江戸川と河川敷
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江戸川とその河川敷は近世・近代にかけて改修が重ねられ、江戸川舟運や渡河交通の拠点となっていました。矢切の渡しがその歴史を伝えています。
葛飾柴又の文化的景観とは
柴又の成り立ち
柴又は葛飾区の東部、江戸川右岸の微高地(海抜約2〜3メートルの土地)に位置しています。6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道は、帝釈道とともに太日川(現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、柴又の南北を走る旧東海道・水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、多くの人や物資が行き交いました。1629年に帝釈天題経寺が開かれ、1779年に帝釈天板本尊が発見されると参詣が急増します。また、1835年に柴又用水が開削されると農作物の生産量が増え、江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。近代、特に関東大震災(1923年)以降の急激な人口増加を背景に、大正時代には金町浄水場の開設、昭和初期には区画整理などが行われました。戦後のさらなる都市化を経て今日に至っています。
重要文化的景観の選定について
文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」「縁辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底としながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた「縁辺部」が取り囲んでいます。各エリアには、それぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、文化的景観を保存するための取り組みを行っていることが認められ、2018年2月13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。
ゴール地点の金町駅南口に着きました。
ということで、足立区で五十七番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 57.旧水戸街道(千住宿・新宿(金町))コース」を歩き終えました。次は足立区で五十八番目となる「E−千住・新田エリア 58.旧日光街道(千住宿・日本橋)コース」を歩きます。
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