- E−千住・新田エリア 58.旧日光街道(千住宿・日本橋)コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「E−千住・新田エリア 58.旧日光街道(千住宿・日本橋)コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年3月に改めて歩きました。
スタート地点:北千住駅西口
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1.ほんちょう公園
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2.宿場通り
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3.千住大橋
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4.素盞雄神社
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5.コツ通り
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6.回向院
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7.延命寺
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8.南千住渡線橋
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9.吉野通り
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10.泪橋
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11.東浅草二丁目
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12.東浅草一丁目
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13.言問橋西
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14.花川戸公園
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15.二天門
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16.浅草寺
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17.雷門
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18.駒形橋
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19.駒形二丁目
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20.駒形一丁目
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21.厩橋
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22.蔵前一丁目
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23.浅草橋
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24.横山町大通り
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25.大伝馬町
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26.室町三丁目南
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27.日本橋
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28.乗船広場
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ゴール地点:日本橋駅出入口B10
スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.ほんちょう公園
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千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。
入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
千住宿 高札場 由来
私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。
石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。
公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。
園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。
- ポイント2.宿場通り
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宿場通りを進みます。サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。「千住で2番」のキャッチフレーズで知られる居酒屋の「大はし」は、明治十年(1877年)創業の老舗です。居酒屋評論家の太田和彦さんが名付けたという”東京三大煮込み”の甘辛い醤油味が染み込んだ牛肉の煮込みが名物で、他にも旬の鮮魚が味わえる大衆酒場です。「やってます」の看板はこの店が発祥だそうです。
ホテル・ココ・グランの1階にドンレミーというアウトレット店があります。ドンレミーは洋菓子工場直営の販売店で、見ためが少し不揃いとか、クレープやロールケーキの切れ端など、味や品質は同じなのに販売することができない商品や店限定の商品など「理由」ありケーキを特別価格で販売しています。特にお得なのは、スポンジの切れ端とかどら焼きの皮とか割れ煎餅とかです。子だくさんの家庭なら、おやつはこれで十分です。私は、北千住が終点のコースを歩く時は必ず立ち寄ってケーキの爆買いをします。
今までは千住宿商店街は「宿場町通り商店街」や「ほんちょう通り商店街」のように通り名で区別されていましたが、2025年11月から千住宿商店街を構成する4商店街で名称を統一し、「千住宿宿場通りゾーン」や「千住宿ほんちょうゾーン」のようにゾーン分けされるようになりました。
北千住駅前通りの手前の路地の入口に、千住宿本陣跡の小さな石碑が建っています。
壁には、千住宿本陣跡の案内板が架けられています。
千住本陣跡とその周辺
この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡(緑色の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。
●明治天皇行在所跡(青色の付近)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。
●千住見番跡(茶色の付近)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。
●丁目境の筋違(赤色の部分)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。
明治天皇行在所跡の標識は見つかりませんでした。千住見番跡の標識も見つかりませんでしたが、この路地のどこかにあったのでしょう。
丁目境の筋違は、宿場町通りを挟んだ路地が少しずれていることで分かります。
北千住駅前通りを横断して、ほんちょう商店街に入ります。2020年12月に竣工した「千住ザ・タワー」は、北千住に数少ない30階建ての超高層マンションです。この地には、ダイエーのディスカウントストア「トポス」がありましたが、2016年11月に閉店し、その跡地が再開発されて誕生しました。
千住ザ・タワーの植え込みの中に、森鴎外旧居橘井堂跡の石碑が建っています。
森鴎外の父静男は、明治十二年(1879年)に南足立郡医となり千住に転居し、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、森鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治十四年(1881年)に下宿を引き払って千住に移り住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」に描写されています。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤めることになり、千住から人力車で通勤しました。明治十七年(1884年)にドイツへ留学し、明治二十一年(1888年)に帰国すると千住の実家に戻りました。翌年森鴎外は結婚して根岸に移り、両親も明治二十六年(1893年)に千駄木に移りました。
千住の鴎外碑
翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。(中略)花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が付いた。宿場の医者たるに安んじてゐる父のレジニアションの態
度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。
森鴎外「カズイスチカ」より
その脇に、解説文があります。
森鴎外旧居 橘井堂医院跡
森鴎外(本名、森林太郎)は近代の文豪として知られています。明治十二年(1879年)に父の静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが 大学を卒業した明治十四年(1881年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」(臨床記録の意味)に描写されています。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。
千住の地名の由来を記した案内板が立っています。
なるほど! 千住「地名」の由来
「千住」という地名の由来には諸説あります。
@ 嘉暦二年(1327年)、勝専寺の中興開基(支援者)である武士・新井図書政次(あらいずしょまさつぐ)が、荒川(現在は隅田川)で千手観音像を見つけたことにちなみ、「せんじゅ」と呼んだという説。
A 室町幕府八代将軍、足利義政の愛妾(あいしょう)である「千寿の前」の出生地であることに因(ちな)むという説。
B かつて千葉氏が住んでいたので「千葉住村」といったのを、のちに略して「千住」といったという説もあります。
いずれも確かな根拠はありませんが、少なくとも徳川家康の入府以前、永禄二年(1559年)には、千住という地名がすでに使われていたことが「北条氏所領役帳」(国立公文書館蔵)に記されています。
惣菜かざまは、千住ほんちょう商店街の激安惣菜店です。何度かテレビに出たこともあるそうで、何もかも安いです。ただ、お弁当の値段はさすがに値上がりしています。
左は2022年当時、右は2026年の店頭風景です。
東京芸術センターは、ほんちょう商店街の外れにある総合施設です。収容人員400名のホールを備え、演劇などの舞台芸術を始め、演奏会やファッションショーなどの芸術活動・シンポジウム・展示会といった多彩なイベントに対応している「天空劇場」や、年間を通して名画の上映を行っている「シネマブルースタジオ」・ミーティングの他、サークル活動や研修会など多目的に利用可能な「会議室・和室」が完備されています。他にも、撮影スタジオとして利用できる「ホワイトスタジオ」・ピアノが設置してある「ピアノラウンジ」・多目的に利用できる「ヨガスタジオ」・レストラン「タピ ルージュ」などの施設もあります。この地には、足立区の前身の千住町時代から庁舎がありましたが、老朽化により、平成八年(1986年)5月に中央本町に移転しました。その跡地に建ったのが東京芸術センターです。
東京芸術センター前の広場に、千住宿問屋場・貫目改所跡の石碑が建っています。
千住宿問屋場・貫目改所跡
旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695年)に設けられました。また、寛保三年(1743年)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂飛び交ったとの話しもあります。江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成十二年(2000年)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
こんな配置になっていました。
東京芸術センターに隣接して、交差点角に足立成和信用金庫があります。足立成和信用金庫は、平成十四年(2002年)12月16日に足立信用金庫と成和信用金庫が合併して誕生しました。入口の横の壁には、巨大な壁画(パンチングアート)が描かれています。パンチングアートとは、大小のドット(点)を大きさやピッチを調整して鉄板やステンレス板などに大小無数の孔を彩る技術をいいます。
「千住川」
長谷川 雪旦(はせがわ せったん)画
(江戸名所図会より 江戸後期の画家 1778年〜1843年)
荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでおります。当時、千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地で、この辺りは高瀬舟の往来で賑わっておりました。当金庫では創立90周年を記念し、本店新築の際、当時の千住の地の賑わいの様子を描いた「千住川」の絵をパンチングアートとし歴史の伝承をしております。
足立成和信用金庫の店頭に芭蕉像が立っています。
芭蕉像 チェンソーカービング〔材:鹿沼の杉〕
私、松尾芭蕉は、三百三十年前、元禄二年三月二十七日(旧暦)、ここ千住を矢立て初めの地として「おくのほそ道」の旅に出ました。道中三日目、鹿沼に着き、笠を新調して古い笠は光太寺に置いて翌朝日光に向かいました。その笠を供養していただいたお寺の「笠塚」には、私の弟子たちも訪れてくれたようです。鹿沼では、今も毎年五月に「芭蕉の笠替え行事」が行われています。また、私は、鹿沼で「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みましたが、その句碑を屋台のまち中央公園内に建てていただきました。私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。どちらも鹿沼の特産ですが、あの時食べたかどうかは忘れてしまいました。今は、「芭蕉の蕎麦餅」というお菓子や「芭蕉の蕎麦ご膳」というメニューもあるそうです。そして、鹿沼は「木のまち」。この像の素材は鹿沼産の杉、チェンソーアーティスト小林哲二さんにチェンソーだけで彫りだしてもらいました。鹿沼市内にはこのような私の木像が五か所に設置されています。足立区と鹿沼市は友好都市(平成四年提携)です。両区市民のスポーツや文化の交流、企業や団体の交流も盛んになりました。私は三日かかりましたが、今は東武鉄道の特急で三駅目、東北自動車道でも短時間です。自然、グルメ、祭りやイベントなど魅力いっぱいの鹿沼に旅し、芭蕉像にも会いに行ってください。私は、三百三十年ぶりに旅立ちの地に立って、両区市の繁栄と道行く人々の旅の安全を祈っています。
足立成和信用金庫の告知分が貼られています。
足立区初の松尾芭蕉木工像設置について
足立成和信用金庫(本店:東京都足立区、理事長:土屋武司)では、本店を置く北千住が松尾芭蕉「奥の細道」出発の地という由縁と、令和元年は奥の細道紀行330年という記念すべき年でもあること、また、地域活性化(商店街・町会)および地域歴史探求への貢献に寄与できればと考え、鹿沼相互信用金庫・鹿沼市・栃木県集成材協業組合の協力のもと、足立区初の松尾芭蕉木工像(全国10体目の木工像展示)を本店入口に設置し、先日引渡し式を執り行いました。当金庫本店へお越しの際は、是非ご覧ください。
足立区と栃木県鹿沼市(友好自治体都市 1992年10月締結)の関係もあり、足立区に本店所在地を置く当金庫と鹿沼市に本店所在地を置く鹿沼相互信用金庫とは、当金庫後援「千本桜まつり」にて鹿沼相互信用金庫のお取引様に出店していただくなど良好な関係にあります。また、鹿沼市は「木のまち鹿沼」としても有名であり、松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で鹿沼市に一泊した折に詠んだ俳句が句碑となり、市内にも5体の芭蕉木工像(チェンソーアーティスト作)が展示されておりますので、鹿沼市へご訪問の際には是非ご覧ください。
足立成和信用金庫前の交差点向かいに、千住高札場跡の石碑が建っています。ここは千住宿の外れに当たったことから高札場が設置されたのでしょう。
その向かいの歩道の植え込みの端に、「千住一里塚跡」の石碑が立っています。旧日光街道で日本橋から二里目の一里塚が設けられていた場所です。昭和四十九年(1974年)に建立されたそうです。
更に旧日光街道を南下します。千住宿の外側には後に掃部宿も設けられ、千住宿と一体になりました。
千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(1625年)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、四キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658年)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。名前の由来は慶長三年(1598年)村を拓き、元和二年(1616年)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(1931年)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
当時の街道図が添えられています。掃部宿の場所の表示はありませんが、高札場から右手の街道筋だったと思われます。尚、江戸時代には荒川放水路は存在しませんでしたので、左端はそのまま街道が延びています。ちなみに、安養院の右手に延びるのは水戸佐倉道、真っ直ぐに延びるのは下妻道、左手に延びる太い道は旧日光街道です。
街道図にもある源長寺は、慶長十五年(1610年)に伊奈忠次が開基となって創立されました。寺名は、忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来となっています。しかし、実質的な創建者は千住の開発者であった石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で開基の座を譲ったとされています。石出吉胤は、千住開発の功により従五位に任ぜられ、石出家は代々名主を務めることになりました。境内に墓所もあります。
源長寺
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598年)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610年)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来である。墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
山門の右手には、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠が残されています。
草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家が建っています。「筆子家」とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建立した墓や供養塔を指します。
多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(1716年〜1735年)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居し、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は、天明九年(1789年)九月二日没した。
墨堤通りの歩道の脇に、掃部堤跡の石碑が建っています。掃部堤(かもんづつみ)は、江戸時代初期の元和二年(1616年)に石出掃部亮吉胤が新田開発の一環として築かれた堤防です。石出掃部亮吉胤は、かつて小田原の北条氏に仕えていた浪人で、徳川将軍家の呼びかけに応じてこの地に入植し、開拓を行いました。この堤防は、武蔵東部に広がる湿地帯を穀倉地帯として開墾するための治水事業として重要な役割を果たしました。掃部堤が築かれた地域は「掃部新田」と呼ばれ、後に千住掃部宿となり、現在の千住仲町など千住南部一帯にあたります。掃部宿は万治元年(1658年)に千住宿に編入され、有力商人が集まる繁栄した町でした。掃部堤は現在の墨堤通りに相当し、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 隅田川関屋の里」にも描かれています。この絵は、当時の掃部堤が交通路としても利用されていたことを示しています。
かっての「やっちゃ場」通りに入ります。千住葱を扱っていた問屋が今も営業しています。
千住ねぎ 葱
(山)柏は「千住葱」の専門の市場で代々やっちゃ場にて問屋業を営んできた。千往葱は白味が長くて甘い高級葱として料亭、レストランにはなくてはならぬ品物である。生産地は越ヶ谷、吉川などの専門農家が作付をしている。皆様も千往葱のお美味しさを是非味って下さい。
千住のまちの歴史が書かれています。
まちの歴史 千住の町並み
「大千住」という言葉があります。千住に住んだ明治の文豪・森鴎外が使った言葉です。日光道中千住宿は品川・新宿・板橋と並んで江戸四宿と言いました。江戸時代の末の人口は約1万人で、第2位の品川宿の6千300人を大きく引き離し最大でした(1844年「宿村大概帳」)。まさに「大千住」です。なぜ千住宿は最大だったのでしょう。答えは今の町並みにあります。町を歩くと宿場風の家とともに古色蒼然たる蔵がたたずんでいます。千住河原町は市場”ヤッチャバ”の故地です。このように見ると千住の町並みの中に宿場と市場が混在している事にお気付きでしょう。千住が最大規模を誇った理由はここにあります。宿という交通機能に加え、市場という物資集散地であったことが千住の繁栄を築きました。物資を保管した蔵は、千住の市場機能を今日に伝えています。では市場が繁栄した要因は何かといえば、足立・葛飾から埼玉の農村が流通圏だったことです。千住宿の古絵図をひも解くと、舎人屋・花又屋という区内の地名や、二合半屋、といった三郷の古名を名乗る店が見えますが、これは流通圏を反映しています(江戸後期「千住宿宿並図」)。千住は農村に支えられ四宿の頂点に君臨したのです。千住は単なる宿場ではない。いまの千住の町並みは、そうした栄光を私たちに語りかけてきます。
日光街道筋に並んでいた商店の配置図があります。
冨岡芳堂の案内板があります。
やっちゃ場と千住の彫刻家 冨岡芳堂
明治二十三年千住二丁目冨岡呉服店の次男として生れる。幼少より芸術を好み彫刻家吉田芳明氏に師事する。大正四年米国サンフランシスコにて開催された万国博覧会に国産代表作品として出展し二等銀牌を受けた。特に旧千住大橋の木橋材(高野槇)による作品は現在も千住の家々に千住の心として大切に保存されている。昭和三十二年没。
やっちゃ場の家々に旧千住大橋の木橋材で作った作品が十一体確認されている。なぜやっちゃ場にはこの様に多いのか。元投師(出仲買人)「油清」の井出忠太郎さんは芳堂と大変親しかった。油清の主要仕入問屋は「谷清」谷塚屋である。谷清を仲介して問屋や仲買人への働き掛けがあったものと思われる。新築祝、誕生祝、快気祝といった時に作った。大橋の長寿にあやかったのではないか。面白いもので作品の残っているのはやっちゃ場の東西の位置の家である。旧陸羽街道に沿った南北の家並には見当らない。おそらく昭和二十年四月の空襲で焼失したのであろう。此の他に千住には掃部宿、一〜五丁目、大川町に十一体散在している。遠く横浜にも一体あり、冨岡家のご子孫の家には高さ1.2m巾の巨大な学問の神様菅原道真候の像が保存されている。何時の日か千住のしかるべき場所に祭り千住の子供達の学業向上に役立てばと考えている。実現すれば芳堂先生も喜ばれる事と思う。
沢山の屋号が書かれた表札の下に鬼瓦が2組置かれています。谷塚屋は、両替商から青果物問屋になった家系です。
土蔵の鬼瓦
やっちゃ場には多くの土蔵があったと思われるが太平洋戦争末期の空襲でほとんどが焼失してしまった。その中で谷塚屋と足立屋の2棟が並んで残りポツンと建っている様はやっちゃ場の名残りを表すシンボルのようであった。この鬼瓦は谷塚屋の鬼瓦で
ある。建立年代は定かではないが永い間青物問屋の財物・文化財(・)想い出の品物等を大切に守り続けて家の繁栄をささえていた。令和元年に2棟同時に解体された。現在はM.メインステージ千住河原町脇に設置。
京成本線の高架の手前に、千住歴史プチテラスがあります。江戸時代から千住宿の北の外れで続いた地漉き紙問屋の横山家の内蔵が1993年に千住河原町に解体移築されました。江戸時代には宿場町として栄えた千住宿跡に現存する貴重な蔵のひとつで、江戸時代後期に建造されたものと伝わっています。蔵の周辺は、歴史プチテラスとして維持され、土日には区民ギャラリーとして公開されています。レトロな雰囲気の建物は、まるでタイムスリップをしたような気分にさせてくれます。
「やっちゃ場」の由来が記されています。
此処は元やっちゃ場南詰
やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。街道の両側に三十数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和十六年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった。と言っても良いだろう。
やっちゃ場で俳諧の普及に努めた為成善太郎は、青物問屋の主人でした。
大喜 元青物問屋 新大阪屋
当主為成善太郎は俳諧を良くし俳号を為成菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
足立市場正門のすぐ横の旧日光街道入口に「千住宿 奥の細道 プチテラス」があります。
平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曾良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。
遥かなる奥の細道へ
道路脇の狭いスペースですが、松尾芭蕉の石像が建っています。芭蕉と弟子の曽良がこの地から奥の細道の旅へ出立した際に、矢立の句を詠んだ時の様子を表わしています。
芭蕉像の足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。
芭蕉と菖蒲園(為成善太郎)の句碑が建っています。芭蕉の句の「鮎の子の白魚送る別れ哉」は、「白魚は、旧暦2月頃に産卵のために川を上る。鮎は、その1ヶ月ぐらい後に遡上すると言われている。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てた。」と解釈されます。
芭蕉とは関係ないですが、千住宿を通った大名行列が描かれています。
大名行列
今をさかのぼること約三百年前より、ここ千住は日光街道の始点として重要な宿駅でありました。日光街道は江戸時代、五街道の一つとして当時最も良く整備された幹線道路でした。そして、奥州・関東の諸大名による参(勤)交代のための大名行列が往来する主要な道でもありました。昨今の近代化に伴い、鉄道が敷かれ、道はアスファルトで整備され当時の面影はほとんどなくなってしまいました。馬や人々の足だけで街道を往来していた日光街道の歴史が少しでも忍(偲?)ばれるよう、ここに大名行列を再現してみました。
足立市場は、東京都中央卸売市場の市場で、千住宿の青物市場として天正年間(1580年頃)から存在していた「やっちゃ場」をルーツとしています。 神田市場・豊島市場(駒込市場)と並び、江戸の三大青物市場のひとつで幕府の御用市場でした。東京都が戦時中の昭和十七年(1942年)に現在地を買収し、千住河原町にあった青果市場荷受組合と西新井村本木町にあった東京北魚市場を収容した総合市場「足立市場」を昭和二十年(1945年)2月11日に開場しましたが、開場2か月後の4月13日の東京大空襲により全焼しました。昭和五十四年(1979年)9月17日には取引量の増加で施設が手狭になり、青果を取り扱う部門を足立区入谷に新設した北足立市場に移転し、足立市場は水産物専門の市場として生まれ変わりました。
足立市場内には一般の人も利用できる5つの食堂があり、市場直送のおいしい海鮮料理などを食べることができます。
武寿司は、プロの板前や市場内で働く人も多く訪れる寿司店です。 同じ魚でも時期によって産地を厳選して仕入れ、店主の目利きは確かです。店主自ら酒蔵に足を運んで選んだ地酒も20種類以上あり、寿司をつまみながら朝飲み・昼飲みも満喫できます。武寿司の店主は、立ち退きのため惜しまれつつ2021年に閉店した南千住のコツ通りにあった三亀鮓の光井さんで、廃業した武寿司の跡を継いで2022年8月から営業しています。
かどのめし屋は、市場の関係者や近隣の会社員などで賑わう海鮮定食屋です。新鮮な魚介類を使った海鮮丼や、大きな天ぷらが目を引く天丼は勿論、昔ながらのシンプルなラーメンや八戸ラーメンも人気です。特に、八戸ラーメンは本場の青森から素材を取り寄せて作る本格派で、都内で八戸ラーメンを食べられる数少ないお店のうちのひとつです。近隣への弁当の配達も行っていて、日替わり定食はその日のうちにすべて売り切れるほど好評です。
しいはし食堂は、兄妹3人で営む庶民的な雰囲気の食堂です。昭和十一年(1936年)に創業した老舗で、親子4代に渡って通う常連客もいるとのことです。メニューには焼き魚や煮魚の他、開化丼やあいかけなどもあります。調理を担当する長男の賢治さんは御年80才で、できるだけ良い素材を使い、手抜きをしないことをモットーに、父親から受け継いだ味を今もなお守り続けています。
市場めしとくだ屋は、仲買人の店主の目利きによる新鮮な魚介をリーズナブルに楽しめる定食屋で、朝8時からオープンしています。丼や定食に付いてくるあら汁は、魚介の旨みが凝縮されて美味です。また、平日17時からは「109Daya(とくだや)」というビストロとなります。朝昼とはまた違ったメニューがいろいろ味わえて、こちらもお勧めです。
- ポイント3.千住大橋
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足立市場のはす向かいに千住大橋があります。千住大橋は隅田川に架かる橋で、国道4号日光街道を通しています。千住大橋は旧橋(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されていて、旧橋の上流側に都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋が並行しています。
旧橋は昭和二年(1927年)に架けられ、新橋は昭和四十八年(1973年)2月に架けられました。旧橋の橋長は91.6mですが、新橋は南千住交差点をオーバーパスする陸橋部が含まれているために橋長は502.5mとなっています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄三年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋でした。当初の橋は、現在より上流200mほどの当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場がったところに架けられました。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次で、橋長は66間(120m)・幅4間(7m)の橋でした。土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。架橋後は単に「大橋」と呼ばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道・奥州街道・水戸街道の街道筋がこの橋に移りました。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めませんでしたが、後に明暦の大火等もあり交通上・安全上のため両国橋などが完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれるようになりました。今でも橋の嬌名プレートには「大橋」とだけ書かれています。
千住大橋
千住大橋は、隅田川に最初に架けられた橋で、徳川家康の関東入国間もない文禄三年(1594年)に、普請奉行伊奈備前守忠次によって架けられた橋です。文禄三年の架設の際に、伊達政宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという高野槇が使われたと伝えられています。その後、流出や老朽により、何度か架け替え、修復を繰り返してきましたが、大正十二年の関東大震災にも焼け落ちることはありませんでした。しかし、震災復興計画にもとづいて、近代化が計られ、昭和二年に現在のようなアーチ式の鋼橋となりました。町の人々は、永年親しんできた旧木造橋に感謝をこめて、その橋杭を火鉢にしたり、千住の彫刻家が仏像などに加工して大切に伝えています。その昔に架けられていた橋の一部と思われる木杭が今もなお、水中に眠っています。時には、桟橋の上から見えるかもしれません。
「伽羅よりもまさる 千住の槇の杭」
古川柳
千住大橋の南詰めに石碑が建っています。
千住大橋
”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(1594年)に架けられた。隅田川の橋の中では一番先に架けられた橋である。当初はただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約百二十メートル)、幅四間(約七メートル)であった。奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。松尾芭蕉が奥州への旅で人々と別れたところもここである。現在の鉄橋は関東大震災の復興事業で昭和二年(1927年)に架けられ、近年の交通量の増大のため昭和四十八年(1973年)新橋が????。
千住大橋を渡った先にも荒川区の案内板が立っています。
あらかわの史跡・文化財
千住大橋
文禄三年(1594年)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、200メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は、昭和二年(1927年)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
千住大橋の脇に大橋公園があります。この地は古くから千住船着き場があったところで、「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所です。松尾芭蕉の「奥の細道」に、「千住といふところで船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。≪行く春や鳥啼魚の目は泪≫是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし」と記されていて、これを記念して奥の細道旅立ちの地として、矢立初めの句碑が建立されました。
史跡
おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を天(矢?)立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送るべし。
歴史と文化の散歩道の案内板もあります。
おくのほそ道と千住
日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄三年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄二年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曾良とともに、千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政三年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。
芭蕉が千住で詠んだ俳句
原文
干しゆと云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて 幻のちまたに離別の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目ハ泪
是を矢立の初として行道なをすゝます 人々ハ途中に立ならひて後かけのミゆる迄ハと見送なるべし
現代語訳
千住というところで舟から上がると、いよいよこれから前途三千里ともいうべき長い旅に出るのだなあ、という感慨で胸がいっぱいになって、この世は夢幻だという思いはするものの、いざこうして別れ道に立つことになると、いまさらながら離別の涙を流すのであった。
春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目も涙にうるんでいるようにみえる。
この句を旅中吟の書きはじめとして、行脚の第一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いで、いっこうに歩みがはかどらない。人々は道中に立ち並んで、われわれの後ろ姿の見えるかぎりはと、見送ってくれているらしい。
出典:堀切実「おくのほそ道 永遠の文学空間」より
「おくのほそ道」の行程図を図示した大きな案内板が立っています。
おくのほそ道行程図
元禄二年(1689年)旧暦3月27日、門人河合曾良を伴い深川を舟で発った松尾芭蕉(1644年〜1694年)は、隅田川をさかのぼり千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸を経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅に出発し
ました。その行程は何と600里余り、日数にして約150日に及ぶ大旅行でした。この紀行が、元禄十五年(1702年)に「おくのほそ道」として刊行され、以後我が国を代表する古典文学作品として親しまれています。芭蕉の旅から300年以上を経た今も、芭蕉およびその文学を追慕する多くの人々が旅立ちの地である千住大橋周辺を訪れます。矢立初めの地で、俳聖の遥かな旅に思いを馳せるよすがとしていただくため、「おくのほそ道行程図」を建てました。
千住を題材にした作品を残した葛飾北斎の富嶽三十六景の案内板もあります。
冨嶽三十六景
「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。
千住大橋を渡った先に案内板が立っています。
千住の河岸
江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(「両岸渡世向書物」荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化二年(1845年)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
Senju River Port
In the Edo period, at the foot of the Senju Ohashi Bridge, shops that handled
commodities such as lumber and miscellaneous cereals using transportation by
water stood in a row along the banks of the Arakawa River. Old documents that
speak to the old families that ran the lumber businesses in this area since olden times still remain. Many lumber wholesalers were located in front of the Kumano Shrine gate. On the shrine grounds remain a stone wash basin (designated cultural property of Arakawa City) and night lights donated by Senju's lumber dealers in 1845, which give a glimpse of the belief of lumber dealers.
- ポイント4.素盞雄神社
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素盞雄神社は、荒川区内で最も広い地域(南千住・三ノ輪地区・三河島地区・町屋地区)の61ヶ町に氏子を持つ神社です。
素盞雄神社
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795年)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間(1751年〜1764年)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳事記」(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。
Susano'o Shrine
This is a guardian shrine with the largest area of Ujiko (parishioners) in Arakawa City, including not only nearby areas but also Arakawa and Machiya Towns. It is commonly referred to as "Tennosama". According to the history of the shrine, in 795, a hallowed stone suddenly gave off a beautiful light that indicated a good sign, and two deities in the form of old men (Susano'o-Okami and Asuka-Okami) appeared in the light pronouncing divine messages. People began worshipping the two deities. The stone that gave off that auspicious light is called "Zuiko Seki". In June every year, the Ten'no-sai Festival is held in which a huge Mikoshi (portable shrine) is swayed from side to side. Until the middle of the 18th century, a quaint tug-of-war ritual was held on the Senju-Ohashi Bridge to divine harvest.
この素盞雄神社のある千住は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句の看板が門前の横にある交番の脇に立っています。
門前の壁には、素盞雄神社の案内板が掲げられています。
平安時代 延暦十四年創建 素盞雄神社
江戸の社寺や名所旧跡を紹介した「江戸名所図会」では、当社は「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されています。「小塚原」とは御祭神が御姿を現された瑞光石のある小高い塚に由来するこの土地の古い地名で、「天王宮」は素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。
御祭神 素盞雄大神
「スサ」は「荒・清浄」を意味し、身に降りかかる罪・穢・災・厄などを荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様です。
御祭神 飛鳥大神
別名 事代主神・一言主神。善悪を一言で判断し得る明智をお持ちです。後世には福の神「えびす様」として崇敬されています。
御鎮座1200有余年。平安時代延暦十四年(795年)4月8日、瑞光石に御姿を現された二柱の御祭神の御神託により創建されました。荒川区南千住・三河島(現在の荒川・東西日暮里一部)・町屋・台東区三之輪の区内で最も広い氏子区域61ヶ町の鎮守です。
門前の壁には、芭蕉を紹介した案内板も掲げられています。
奥の細道
矢立初めの地 千住
− 行く春や鳥啼き魚の目は泪 −
ここ千住は日光道中の初宿。当社より少し北上したところに架かる千住大橋は、江戸で最初に架けられた橋です。浮世絵のなかの大橋も行き交う人々で賑っていますが、旅を住処とした漂泊の詩人・松尾芭蕉も、ここ千住から「奥の細道」へと旅立ちました。この紀行から百三十年後の文政三年、千住宿に集う文人達によって旅立ちの地の鎮守である当社に句碑が建てられました。「奥の細道」矢立初めとなる一節を刻んだこの碑は、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で隅田川の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけています。
矢立とは携行用の筆記具のことで、「行く春や」の句は、「奥の細道」の本文に「これを矢立の初めとして」と記されています。
境内の人工の川の畔に石碑が並んでいます。
素盞雄神社と文人たち
千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多く見られる。この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政三年(1820年)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保十二年(1841年)に建てられた森昌庵追慕の碑である。芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。
Susano'o Shrine and Literary Persons
There are many stone monuments left by literary persons in the Edo period at shrines and temples in the Senju-shuku neighborhood along the Sumida River. Two of those monuments (designated cultural properties of Arakawa City) exist in the precinct
of Susano'o Shrine. The poem monument of Basho was erected in 1820 with the support of Takebe Socho who was a literati painter, a pupil of Tani Buncho and lived in Sekiya (Sumida City), Kameda Hosai who was a Confucian scholar and well-known calligrapher, and others. The monument cherishing the memory of Mori Shoan who was the attending physician of the Ikeda Clan, shogunal retainer, was erected in 1841 with the support of Hasegawa Settan who was a renowned illustrator in Edo, Kato Jakuan who was a haiku poet and essayist lived near the shrine and others. These monuments remind us the exchanges amongst literary people in the Edo period.
奥の細道矢立初めの句碑は、川に架けられた石橋を渡った先の石碑になります。碑文は、建碑以来百七十有余年の風雨により剥落損傷が激しく、判読できないために、平成七年の素盞雄神社鎮座1200年祭に際して復刻されました。
千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみたをそゝく
行はるや鳥啼魚の目ハなみた (行く春や鳥啼き魚の目は泪)
この文章は何を言いたいの?
こんにちは 松尾芭蕉です。深川を出て、いま千住に着きました。いよいよ前途三千里〔奥の細道〕へ出発するのですが、最初の一歩がなかなか出せない問題があります。〔千住の大橋〕南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか?些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地として本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。現実的なことでは川の通行の右左・宿場の大小などですが、詩情豊かな紀行文です。旅は〔他の火〕で、川は生と死の境界、その向こう岸〔彼岸〕へ旅立つ訳ですから・・・。〜 〜 わたくし松尾芭蕉、悩み疲れました。〜 〜 すこし落ち着きたいと思います。丁度この地には、下野(しもつけ)大関様の下屋敷もあり、旅立ちのご挨拶を兼ね、花のお江戸との御別れの宴でも・・・。では、七日間ほど逗留することにします、お籠りも兼ねて。この間、道中笠と杖は使いませんので、ここに掛けておきます。修験出羽三山とも御縁の深いお天王様ご参拝のこれまた御縁。宜しかったら、かぶってみてください。元禄二年(1689年)弥生も末の七日の私:松尾芭蕉が何処に立っていたか、〔千住の大橋〕手前南詰か?向こう北詰か?ぼんやりと春がすみの中から見えてきませんか。
川の脇には大銀杏の木が聳えています。
天王社の大銀杏
素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。「江戸名所図会」にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は、幹の周囲約3.3メートル、高さ約30メートルである。この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
Great Ginkgo Tree in Ten'nosha Shrine
The precinct of this shrine has been called "Asuka Grove" since ancient times and there is a large grove of trees, mainly ginkgo, today. Still practiced today is the custom of offering votive tablets (ema) to make wishes based on the legend that a mother having a drink from brewed bark of this ginkgo tree may increase breast milk.
大銀杏は「子育ての銀杏」と呼ばれ、母乳の出ない婦人がその樹皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願しました。現在では、初宮詣(お宮参り)に際し、絵馬が奉納されています。
素盞雄神社の拝殿は、正面が裏通りに面し、側面が日光街道に面しています。
左側が正面、右側が側面になります。
側面の階段には、夥しい数の絵馬が奉納されています。大銀杏の樹に架けられていた絵馬です。
知っていますか?
天王様のこんなこと
《 七歳までは神の子 》
病死という概念が無かったその昔、「もののけ」という死霊が幼い生命を突然奪いにくると考えられていました。医学がまだ発達していない頃の乳幼児の生存率は低く、《七歳までは神の子》という言葉が伝わっています。それほどまでに乳幼児は死と隣合せだったのです。医療医学の発達したといわれる現代においても、子は「授かりもの」であり、生命は父母双方の先祖から脈々と流れ受け継ぐ「賜りもの」です。初宮諸氏子入りに際し「子育てのイチョウ」に奉納された絵馬は、7年間、御祭神の御加護を願いお供えいたしております。
御祝いのお子様が七歳となる最後の一年は、御神前に最も近い殿内にお供えいたします。そして7年間が過ぎた11月15日七五三詣の日に〔おかげさま〕の感謝の心を込めて浄火によりお焚き上げいたします。
桃の節句の時期には、絵馬の代わりにひな人形が並びます。
神楽殿の中に夥しい数のひな人形が飾られています。「桃の祓 なでもも」と書かれています。左から「後顧(こうこ)の祓」・「中今(なかいま)の祓」・「幸先の祓」と3つの緑の桃が置かれています。なでももというからには撫でることで御神徳が頂けるのでしょう。
知っていますか?
天王様のこんなこと
◆◆◆ 桃の祓 ◆◆◆
汝、吾を助けしが如く、
葦原中国にあらゆる現しき青人草の、
苦しき瀬に落ちて患い惚む時、助くべし。
イザナギノミコトは、死者の国から脱出するとき、桃の実3個を投げつけて追っ手を撃退し、難を逃れました。そして、桃の実に「自分を助けてくれたように、人々が苦しみ困っているときには助けなさい」と告げ、「災厄を祓う偉大なる神霊」という意味のオオカムズミノミコトと名前を授けたことが、我が国最古の歴史書「古事記」に記されています。桃は邪気をはらう霊木として、古くより信仰されています。その花を酒に浮かべて飲めば不老長寿の効があるといわれ、桃の節句や桃太郎の鬼退治、当社創建の4月8日疫神祭に江戸時代から伝わる災厄除けの白桃樹御守も関連するところです。
浄く明るく正しく直く
我が国では、穏やかに、そして清らかな気持ちで日々過ごすことを願い、祈ります。しかしながら、その暮らしの慌ただしさ忙しさのなかでは、知らず知らずに罪を犯し穢に触れ、本来の「浄・明・正・直」の心から遠ざかり、心身の乱れを呼び込むこともあります。「気淑く風和らぎ」の令和御大典を奉祝し、美術鋳金家菓子満氏に依頼し、撫で桃〔桃の祓〕を調製いたしました。3つの桃の実に後顧(こうこ)・中今(なかいま)・幸先(さいき)の祓を託し、《あと・いま・さき》を祓い清めて《清々しく》。
拝殿前には対の狛犬が鎮座しています。尾の形が特徴的な狛犬で、左側は珍しい親子の獅子になっています。
素盞雄神社創建の起源となった「瑞光石」のある小高い塚に、元治元年(1864年)に富士塚が築かれ、浅間神社が祀られました。塚上には20基の奉納碑が伝存し、かっては門前の茶店で疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られていたなど、富士参りの参詣者で賑わいをみせていたことが窺われます。毎年7月1日に山開きが斎行され、当日の一定時間に限り登拝が許されています(天候により中止の場合もあります)。
荒川区指定 記念物・史跡
富士塚
元治元年(1864年)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士様」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボク(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体をよく保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑二十基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。六月朔日(新暦七月一日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。
富士塚の登山道の入口の横に「瑞光石」が祀られています。
知っていますか?
天王様のこんなこと
《 瑞光石 》
御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。文政十二年(1829年)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864年)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。
荒川区が設置した案内板も立っています。
瑞光石
瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。嘉永四年(1851年)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864年)には浅間神社を祀った。万延元年(1860年)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
Zuiko Seki (Auspicious Light Stone)
A hallowed stone suddenly gave off a beautiful light that indicated a good sign, and two deities in the form of old men (Susano'o-Okami and Asuka-Okami) appeared in the light pronouncing divine messages. People resultingly began worshipping the two deities. The stone that gave off that auspicious light is called "Zuiko Seki". The fence surrounding the hallowed place was built in 1851 and the Fujizuka mound was built in 1864. According to the geographical book in the Edo period, there is a
legend that, when the Senju-Ohashi Bridge was under construction, the stone's roots extended to the Arakawa River (present-day the Sumida River), so the bridge piers could not be driven in the ground.
境内の奥に、お地蔵様を中心とした江戸時代の庚申塔三基(区指定文化財)・宝篋印塔などからなる石塔群があります。「江戸名所図会」にも、境内に「ちそう(地蔵)」の表記があり、往時の様子が描かれています。庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる「三尸の虫」が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗があります。人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。素盞雄神社の延宝六年(1678年)建立の庚申塔には、人の罪を「見ざる・言わざる・聞かざる」として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。
荒川区指定有形民俗文化財
庚申塔群三基(寛文十三年銘他) 素蓋雄神社
江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝六年(1678年)銘、寛文十三年(1673年)銘、文化八年(1811年)銘があります。庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。中央の寛文十三年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝六年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化八年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。寛文十三年銘と延宝六年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。
- ポイント5.コツ通り
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国道4号線を横断して、南千住交差点からコツ通りに入ります。
商店やバス停に「コツ通り」の名前が見られます。
日光街道の南千住交差点から泪橋交差点付近までは「コツ通り」ともいわれています。「コツ通り」とは奇妙な名前ですが、道路名の由来については諸説あります。代表的な説は、昔々、一面に人間の背丈程の葦(あし)が生えていた原っぱ(浅韋が原:あさじがはら)に小さな山がところどころにあり、そこが小塚原(コツカッパラ)と呼ばれ【小塚とは、おわんを伏せたような小さな土の山の意味】、それが永い間人々に言い伝えられ、小塚原町という町の名前になり、人々が往来する通りの呼び名になったというものです。現在のコツ通リは、旧日光街道の道筋になります。
日光道中
日光道中は、日本橋を起点に日光を終点とする江戸時代の五街道の一つである。日光街道ともいう。地元では、周辺の古い地名「小塚原(こつかっぱら)」の略称を冠して「コツ通り」と呼ばれている。寛永元年(1624年)、幕府により整備が始められ、全国的な主要幹線として多くの人馬が行き交った。区内では、現在の泪橋交差点から千住大橋までの道筋がこれに相当する。江戸の入口にあたり、日光道中の初宿である千住宿(下宿)が置かれた。明治六年(1873年)からは国道陸羽街道と称し、主要幹線として機能したが、昭和二十七年(1952年)の新道路法の施行により、特例都道第464号言問橋南千住線となった。なお、昭和三十七年以来、日光街道の名称は、国道四号線の宇都宮以南の東京都通称道路名として使われている。
Nikko Dochu Road
Nikko Dochu is one of the five major roads in the Edo period (Tokaido, Nakasendo, Nikko Dochu, Oshu Dochu, and Koshu Dochu). Because it started in Nihonbashi and ended in Nikko, it is also referred to as the Nikko Kaido. Locally, it is called "Kotsu Dori Street", which is derived from the old name of the area "Kotsukahara" (Kozukappara). In 1624, the Shogunate started constructing the Nikko Dochu and, because it was principal thoroughfare of the country, many people travelled along it on foot and horseback. In Arakawa City, the road section from Namidabashi Intersection to Senju-Ohashi Bridge corresponds the Nikko Dochu Being the entrance to Edo, Senju-shuku was established as the first posting station of the Nikko Dochu.
- ポイント6.回向院
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JR線と日比谷線のアンダーパス手前に回向院があります。この辺りは江戸時代には小塚原といわれ、品川の鈴ヶ森とともに処刑場があったところです。寛文七年(1667年)に本所の回向院が牢死者や刑死者等を供養するため、この地に回向院を開創しました。
回向院
回向院は、寛文七年(1667年)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。明和八年(1771年)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。
Eko-in Temple
Eko-in Temple was founded in 1667 by Teiyo Gikan, the chief priest of the original Eko-in Temple in Sumida City to hold services for people who died by the wayside or were put to death. At that time, it was called Jogyo-do. Many patriots including Hashimoto Sanai and Yoshida Shoin, who died in the Ansei Purge, were buried here.
In 1771, Dutch studies scholars, Sugita Genpaku, Nakagawa Jun'an, Maeno Ryotaku and others attended the autopsies of persons who were executed here. As a result, they started translating the anatomy book known in Japan as "Tafel Anatomie", leaving behind great achievements in the medical history of Japan. In commemoration of this, the Kanzo Kinenhi Monument was erected in 1922.
杉田玄白や前野良沢らは、ここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を刊行したといわれています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。
記念碑には、解説文が添えられています。
蘭学を生んだ解体の記念に
明和八年(1771年)三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来てその図を実物とひきくらべ その正確なのにおどろいた。その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに安永三年(1774年)八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた。その機会に、この場所を解体記念碑のために提供されたので、よそおいをあらたにしてここに移し、今日除幕の式をあげた。それは解体新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる。
回向院の本堂右手の一画には、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内らの供養碑が並ぶ史蹟エリアがあります。
荒川区指定記念物(史跡)
小塚原の刑場跡 回向院
小塚原の刑場は、寛文七年(1667年)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1、800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
回向院の史蹟エリアは荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となっていて、一般の方の墓地とは完全に分けられています。史蹟エリアの入口には「田中光顕歌碑」が建っています。碑文には、「偲ぶけふかな 花とちり雪ときえにし 桜田の ますらたけを 九十四叟 田中光顕」と書いてあるそうです。田中光顕は、江戸末期の勤王運動を経て明治政府に出仕し、貴族院議員や宮内大臣等を歴任しました。政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力しました。
史蹟エリアの一番手前には、「磯部浅一・妻登美子の墓」があります。磯部浅一は陸軍士官学校出身の軍人で、二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した人物です。
史蹟エリアの右手手前には、相馬大作の供養碑があります。盛岡藩士の下斗米秀之進を首謀者とする数人は、文政四年(1821年)に参勤交代の途中だった弘前藩主の津軽寧親を暗殺しようとしましたが、密告により未遂に終わりました。その後、江戸に逃亡した主犯の下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて隠れ住みましたが、捕まって文政五年(1822年)8月に小塚原の刑場で獄門の刑に処せられました。
相馬大作の供養碑の隣に、「悪役4人組」の墓石が並んでいます。
「腕の喜三郎」の墓石は拳を握った片腕の形をしていて一風変っています。喜三郎は江戸時代の侠客で、寛文(1661年〜1673年)の頃、江戸神田で旗本奴と喧嘩し、相手を数人切りましたが自分も片腕を切られて落ちんばかりとなったのため、その腕を子分に鋸で切り取らせました。世間はその放胆さに舌を巻き、その後「腕の喜三郎」と名を改めて、その侠勇は四方に轟きました。「腕の喜三郎」の供養碑の隣には、明治初期に最後の斬首刑により死刑が執行された「高橋お伝」の供養碑があります。稀代の悪婦として知られていますが、確かにお伝は殺人という重罪は犯しはしましたが、そこにはクズ男達に弄ばれたという同情すべき点も多くありました。
歌舞伎の題材「天保六花撰」にも描かれた片岡直次郎は、講談や歌舞伎・映画などのモデルにもなった江戸時代後期の無頼漢で、河内山宗春の相棒でした。片岡直次郎の供養碑の隣には、同時代に大名屋敷を専門に荒らした有名な盗賊「鼠小僧次郎吉」の供養碑があります。鼠小僧の供述によると、十年間に荒らした屋敷は95箇所・839回、盗んだ金は三千両余りとのことでしたが、記録でも付けていたのでしょうか。
史蹟エリアの一番奥には、「橋本左内の墓」があります。「左内」は通称で、号を「景岳」といいました。
橋本景岳先生の生涯と墓所の由来
橋本景岳先生は、天保五年(1834年)三月十一日、福井藩の藩醫橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳又は黎園といった。幼少の時から學問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒學を學び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭學を修め、その見識は當時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓發録」は、嘉永元年、十五歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されてゐる。嘉永六年(1853年)のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽因の身となり、翌六年十月七日、江戸傳馬町の獄内において死刑に處せられて、二十六歳の短い生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。先生刑死の日、同藩の長谷部恕連は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといつて、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久三年(1863年)五月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治二十六年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、さらに昭和八年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至つた。套堂の向つて右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治十八年、先生と信仰のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が蒙額したものである。
墓所の横には巨大な「橋本景岳之碑」が建てられています。明治十八年(1885年)、福井藩士及び門下の人々によって建立されたものです。
史蹟エリアの一番奥左に「吉田松陰の墓」があります。文久三年(1863年)、高杉晋作等の門人により長州藩主の別邸に改葬され、明治十五年(1882年)に松陰神社が創建されています。墓石は文化財として保存されています。
吉田松陰の墓石のすぐ右手に、安政の大獄により処刑された頼三樹三郎の墓があります。吉田松陰とともに改葬されていて、墓石は文化財として保存されています。墓石には、三樹三郎の号「鴨崖」の名が刻まれています。
- ポイント7.延命寺
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回向院とJR常磐線の高架を挟んで延命寺があります。延命寺は、元々は回向院の境内の一部でした。明治時代に常磐線の敷設により南北に分断されて飛地となり、回向院と分離して昭和五十七年(1982年)に創建されました。
小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し切り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。首切地蔵は、寛保元年(1741年)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(1896年)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。
Kozukappara Execution Ground Site and Kubikiri Jizo Statue
In the Edo period, Kozukappara Execution Ground was assigned for official executions, burial and memorial service for the dead without relatives, testing of swords, autopsies, etc., as well as a burial place for the horses of the Tokugawa Shogunate. When the execution ground was abolished at the beginning of the Meiji period, the site was divided into the precinct of Eko-in Temple,
a public graveyard, and a residential area. Kubikiri Jizo (Beheaded Jizo) statue was erected in 1741 for thepurpose of offering memorial service for the dead without relatives. The Lotus Sutra was put inside the statue. The Jizo was moved to the current location from the south side of the railway tracks to make way for the Tsuchiura Line, present-day Joban Cargo Line, in 1895. It is said that festivals held three times a month here with show-booths and stalls that drew throngs of people.
延命寺の山号は回向院と同じ「豊国山」で、建物も回向院と同様に鉄筋コンクリート造になっています。延命寺の境内は小塚原刑場の跡地にあり、刑死者の菩提を弔う「首切地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像があります。
延命寺の宗派は浄土宗ですが、髭題目という日蓮系宗派独特の書体で書かれた「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔も存在します。
荒川区指定 有形文化財・歴史資料
題目塔(元禄十一年二月中浣五日銘)
元禄十一年(1698年)二月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等100基以上が確認されている。十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶応三年(1867年)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(1896年)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。
- ポイント8.南千住渡線橋
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南千住駅から泪橋方面へ渡る南千住渡線橋は、行き来する貨物列車を間近に見ることができる人気スポットです。一般の旅客列車の路線図や時刻表には載っていない貨物専用のJR隅田川貨物駅は、明治三十年に日本鉄道会社隅田川貨物扱所として解説され、明治三十四年には一般貨物も扱うようになり、隅田川駅になりました。南千住四丁目の全敷地面積の約50%を占める東京ドーム5個分の広大な敷地(22万5000u)の中にあり、30本以上もある線路の先には巨大コンテナターミナルがあります。その貨物列車を入れ替える操作場の線路上をまたぐように架かる跨線橋が「南千住渡線橋」です。貨物列車のマニアにとっては聖地と言っていいような場所になっています。昔は跨線橋はなく、大きな踏切がありました。そのため、貨物列車が通る際は踏切は大変混雑していました。それを解消するために、貨物線路の下に道路を通す立体交差(アンダーパス)ができ、自動車はスムーズに通行できるようになりました。
現在は、歩行者用エレベータまたは自転車用スロープを使って渡線橋に上がり下りできます。
南千住渡線橋を下りた右手に、都営バス南千住自動車営業所があります。南千住自動車営業所は、都電22系統のみを管轄していたかっての都電南千住電車営業所の跡地を利用して開設されました。
- ポイント9.吉野通り
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都道464号言問橋南千住線は、台東区と荒川区を結ぶ特例都道で、通称「吉野通り」と呼ばれます。吉野通りは、全区間が旧日光街道・旧奥州街道の道筋になります。
- ポイント10.泪橋
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泪橋交差点の名称は、かって近くを流れていた思川に架かっていた泪橋に由来しています。泪橋と同じような由来を持った橋は、品川区を流れる立会川に架かっている「涙橋」があります。涙橋の名が定着したのは、慶安四年(1651年)に東海道沿いに置かれた鈴ケ森刑場と関係があります。恋のために放火の罪を犯し、井原西鶴の「好色五人女」や歌舞伎で知られるようになった「八百屋お七」、徳川吉宗の落とし胤と称して世を騒がした山伏とされる「天一坊」らが処刑された場所です。橋は刑場に向かう道中に位置していたため、護送されてきた罪人をひそかに見送りに来た親族はここで涙を流しながら別れたといわれ、やがて橋も涙橋と呼ばれるようになったと伝わっています。文京区の本郷四丁目にも「別れの橋」がありました。加賀屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス)から流れ出していた小川に架かっていた橋で、この橋を谷底として江戸市中側が「見送り坂」、追放された罪人が振り返るのが「見返り坂」と呼ばれていました。
思川と涙橋
思川は南千住三丁目の東南部にあった堀。農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、明治通り北側に沿って流れ、橋場の渡しの北で隅田川に合流していた。源頼朝がこの川で馬を洗ったことから、古くは駒洗川と呼ばれていたという。文明十八年(1486年)京都聖護院門跡の道興准后が思川を訪れ、「うき旅の道になかるる思ひ川涙の袖や水のみなかみ」(「廻國雑記」)と詠んだ。思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。橋名の由来は、小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。
The Omoigawa River and Namidabashi Bridge
The Omoigawa River was actually a canal that once existed in the southeastern part of Minamisenju 3-chome. It branched off the Otonashi River to supply agricultural water and flowed along the north side of Meiji Dori Street until merging with the Sumida River on the north side of the ferry at Hashiba. Since Minamoto no Yoritomo, a military commander in the Kamakura period, washed his horse in this river, it was called the Komaarai (horse washing) River in olden days. The Namidabashi Bridge crossed the Omoigawa River where it was met by the Nikko Dochu, one of the five major roads in the Edo period. The bridge is said to have gotten its name Namida (tears) because condemned convicts going to the execution grounds in Kozukappara shed tears before leaving this world as they crossed the bridge or their acquaintances cried as they bid them a last farewell.
- ポイント11.東浅草二丁目
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東浅草二丁目は、主に商店や事業所・住居が混在する地域です。この地域は東浅草一丁目と共に東浅草を構成しています。台東区の北東部に位置し、東側を吉野通り(東浅草二丁目交差点から東浅草交番前交差点まで)、西側を土手通り(吉原大門交差点から地方橋交差点まで)に挟まれた町域になっています。
- ポイント12.東浅草一丁目
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東浅草一丁目は東浅草二丁目の南側に位置し、東側を吉野通り(東浅草交番前交差点から浅草高校前交差点まで)、西側を山野堀公園に挟まれた逆三角形の町域になっています。
吉野橋の親柱は、かって山谷堀に架かっていた橋の名残です。山谷堀の水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸から三ノ輪を通って隅田川まで続いていました。埋め立てられる前の山谷堀には9つの橋があり、吉野橋は隅田川から三番目の橋でした。江戸時代には新吉原遊郭への水上路となり、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「よろず吉原、山谷堀」とも歌っていました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされ、山谷堀の界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば山谷堀を指すくらいに有名な場所でした。船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったといわれています。河口岸には有明楼などの料亭があり、芸者遊びなどもできたそうです。江戸三座があった猿若町(現在の浅草六丁目辺り)に近かったため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれていました。しかし、明治時代になって遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し、1975年までには全て埋め立てられました。現在では、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。
山谷堀公園は山谷堀を埋め立てて造られたために細長い形状をしています。公園には様々な植物が植栽されています。数多くのサクラが育ち、例年3月下旬から4月上旬のお花見シーズンには一面がピンク色に彩られ、混雑する隅田公園よりも隠れた桜の名所として数多くの花見客が訪れています。
浅草は革問屋が集まる、レザーファンにとっては聖地です。靴・鞄・ベルトなど台東区の革製品の出荷量は日本一で、その拠点は浅草が中心となっています。江戸時代に同業の職人や問屋が集まり、各地で町が形成され、現在の皮問屋街の礎となりました。
言問橋西交差点脇に、神輿・太鼓・山車・獅子舞用品などの祭礼具の製造販売や修理・復元・貸し出しを行っている宮本卯之助商店の本社があります。文久元年(1861年)に初代清助が土浦で創業し、明治二十六年に4代卯之助が浅草聖天町に店を構えました。一般的な和太鼓(長胴太鼓)だけでなく、能・歌舞伎・雅楽用の太鼓や鳴り物まで幅広く製造しています。三社祭を始め、多くの神社・町会の神輿を「宮本重義」の作人名で製作しています。また、宮内庁楽部をはじめ、全国の神社・仏閣・歌舞伎座・国立能楽堂・日本武道館などに楽器を提供しています。浅草神社の本社神輿(一之宮・二之宮・三之宮)も宮本卯之介商店の作です。
- ポイント13.言問橋西
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言問橋西は、「江戸通り」と「言問通り」が交わる交差点で、正面に東京スカイツリーを見ることができる絶景ポイントです。「言問橋」は隅田川に架けられた橋で、国道6号線(言問通り)が通っています。橋が架けられる前は、この場所に「竹屋の渡し」という渡船場がありました。言問橋は、大正十一年(1923年)に発生した関東大震災の復興事業として架橋された425の橋のひとつです。両岸から伸びる桁(突桁)が川の中の2つの橋脚を支点として中央の桁(吊桁)を支持する上路形式のゲルバー橋で、両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれました。「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
名にし負はば
いざこと問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
という歌に因むといわれていますが、業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」のことであり、言問橋との直接の繋がりはないようです。東京大空襲により、言問橋上で多数の犠牲者が出たのには理由があります。東京大空襲の際、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとしました。しかし対岸の向島・本所地区もすでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となり、そこに焼夷弾が落ちたことにより多数の死傷者を出したのです。
◆言問橋 【橋長】238.7m 【幅員】22m 【構造】3径間ケルバー鈑桁橋
この橋の言問(こととい)の名は、伊勢物語で名高い在原業平(ありわらのなりひら)の歌の「名にし負はば いざ言問はん都鳥」の一句に縁をもっています。左岸の三囲(みめぐり)神社や長命寺、旧水戸藩邸の公園に続く桜の並木も江戸以来の名所です。ここの上と下に、“竹屋の渡し”と“山の宿の渡し”があり、その中間に大震災の復興事業として昭和三年(1928年)にこの橋が架けられました。
◆竹屋の渡し
待乳山聖天(まつちやましょうでん)下から隅田川を渡り、対岸の三囲神社のところまで往復していた渡しです。竹屋の渡しは英泉の描いた「江戸八景。隅田川の落雁」に残されています。この渡しは、昭和になっても存続してい(まし)たから寿命の長い渡しでしたが、言問橋が竣工するとともに姿を消しました。言問橋と桜橋のほぼ中間、隅田公園内の台東スポーツセンター手前の広場に“竹屋の渡し跡”碑があります。
言問橋西交差点の角に、すき焼きの名店「ちんや 浅草本店」があります。ちんやは、明治十三年(1880年)に浅草の地に料理屋として創業し、明治三十六年(1903年)にすき焼きの専門店となりました。日本を代表するすき焼き店で、店舗の老朽化により2021年8月に一時休業しましたが、2022年3月18日(浅草の誕生日)に再開しました。併設する精肉店では、国産黒毛和牛の雌牛を一頭買いした牛肉をはじめ、すき焼き折詰、豚ロースやハンバーグなどを販売しています。
江戸通りを右折して、東参道・二天門通りに入ります。
- ポイント14.花川戸公園
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通りの北側と南側に分断されて花川戸公園があります。「花川戸」の地名について解説した案内板が立っています。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草花川戸一・二丁目
本町は、昭和九年(1934年)、この地にあった町を整理統合し誕生した。浅草花川戸一丁目は、浅草花川戸町大部、同馬道町四丁目東部、同馬道町六丁目南側一部、山ノ宿町南隅を合した。浅草花川戸二丁目は、浅草馬道町六丁目東部、同猿若町一丁目南側一部、同山ノ宿町大部からなった。町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。昭和四十年(1965年)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・二丁目になった。
公園の入口に、花川戸公園についての解説を記した「歴史と文化の散歩道」の案内碑が建っています。
花川戸公園
この花川戸公園は、昭和二十五年に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。昭和六十二年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に護りながら、未来の人々にも愛されつづけられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である姥ケ池を、公園の修景に配慮して表わしたものである。また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られて来た文化的な事物を表わしている。
花川戸公園にはふたつの見所があります。ひとつは姥ヶ池跡です。
案内板が立っています。
東京都指定旧跡
姥ヶ池
姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
Historic Places
Ubagaike (Ubagaike Pond)
Ubagaike Pond used to be a large pond leading to the Sumida River in the past, but was reclaimed in 1891 and converted to a park by former Asakusa Ward. Its name is derived from the legend concerned with a stone pillow owned by Myoonji Temple (a sub-temple of Sensoji Temple). According to the legend, an old woman and her daughter lived in a house at Asajigahara. The old woman was killing many travelers with stone pillow, who were taken by her daughter asking for a night's lodging. When a traveler stayed there, the daughter acted as substitute for him in order to dissuade the old woman and killed by her with stone pillow. The old woman deeply lamented and threw herself into the pond. Afterwards, village people called it "Ubagaike" (mean old woman's pond).
もうひとつは、市川団十郎の十八番の「助六」の歌碑です。助六の歌碑は、九世市川団十郎が自作の歌を揮毫して、明治十二年(1879年)に浅草の仰願寺に建立しましたが、関東大震災で崩壊し、長く土中に埋もれていたものが発見され、昭和三十三年(1958年)にこの地に再建されました。
助六歌碑
碑面には、
助六にゆかりの雲の紫を
弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。歌碑は、明治十二年(1879年)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1−4−6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713年)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832年)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間870)に墓がある。
BALLAD MONUMENT OF "SUKEROKU"
The role of Sukeroku in the Kabuki play of the same name, which is one of the 18 classical pleces of Kabuki, has been played by the actors succeeding the name of Danjuro since Ichikawa Danjuroll played the role for the first time in 1713. The ballad monument was erected at the Koganji Temple in 1879 by DanjuroIX and other people in commemoration of a man called Sunaga Hikobei in Nihonbashi, who offered much back-up to Danjuro IX. It collapsed in the Great Earthquake of 1923 and was left buried for a long time. It was re-discovered, however, and was moved to this location thanks to the efforts of the sons of the caretakers at the time of the original erection of the monument.
「履物問屋街発祥碑」の石碑も建っています。履物問屋街発祥碑は、花川戸公園内に平成二年(1990年)に建立されました。江戸時代後期の天保改革で、天保十三年(1842年)に日本橋から猿若町に幕府公認の芝居小屋「中村座」・「市村座」・「河原崎座」(後に「森田座」)が移転してきました。「猿若三座」と呼ばれ、役者や芝居関係者が多く住んだこともあり、和装履物問屋が軒を並べました。これが「花川戸」の問屋街発祥の誕生の要因となりました。現在でも、「江戸通り」沿いなどに、靴や鞄など革製品を取り扱っている専門店70店余りが軒を連ねる「花川戸靴・はきもの問屋街」があります。年末には「花川戸はきだおれ市」が開かれています。
花川戸公園は 中央を道路が横切るために南北に分断されています。その南側の公園内に奇妙な石のオブジェが置いてあります。
石の舟
旧福井中学校の礎石を基盤として、その上に大きな玉石を設置しました。その石には浅草小学校の子供たちと制作チームスタッフが造ったブロンズの人や動物の頭部(顔)が埋め込まれています。台東区の公共施設の礎石を過去として、玉石を地球とみたて、皆で造った人間や動物がその地球に生きる多くの生物の今を意味して、それらが東京スカイツリーを眺め見つめることで未来に思いを巡らします。
- ポイント15.二天門
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浅草寺に入ります。現在の二天門は慶安二年(1649年)に浅草寺の東門として創建されました。当初は境内にあった東照宮の随身門でしたが、明治十七年(1884年)に神仏分離によって随身門に安置されていた随身像が浅草神社に遷座した際、名称を随身門から二天門と改められました。扁額の「二天門」の文字は、太政大臣の 三条実美の筆になるものです。二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されています。平成二十二年(2010年)に改修を終え、創建当時の鮮やかな姿に蘇りました。
二天門[にてんもん](重要文化財)
この二天門は、慶安二年(1649年)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(1618年)に建立されたが、寛永八年(1631年)と同十九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。二天門は昭和二十五年、国指定重要文化財に指定された。
Nitenmon Gate (Important Cultural Property)
Nitenmon Gate was evidently built circa 1649 as the east gate of Senso-ji Temple, but throughout the Edo period it was considered the zuishinmon (guarded gate) of Tosho-gu Shrine, which was built to the west of Senso-ji's Kannondo Hall, hence guardian statues were housed on either side of the gate. Tosho-gu Shrine was built at Senso-ji in 1618, but was destroyed in fires along with other buildings at the Senso-ji Temple complex in 1631 and 1642, after which Tosho-gu was relocated to Momijiyama inside Edo Castle. After the decree forbidding the fusion of Shinto and Buddhism was issued, the guardian statues at the gate were re-imagined as Jikoku-ten and Zojo-ten, which are two of the four main protective deities (called ten in Japanese, from Sanskrit deva), hence the name of the gate was changed to Nitenmon, or the "Gate of the Two Deities".
The two statues currently flanking the gate were made in the early Edo period
(the latter half of the 17th century) by the Buddhist sculptor Yoshida hyoubu of Kyoto's Shichijo district (they are now designated by Tokyo Prefecture as Tangible Cultural Properties). They were moved in 1957 from Chokushimon Gate at Kan'ei-ji Temple's Genyuin Mausoleum (the mausoleum to Tokugawa Ietsuna, the 4th Tokugawa shogun). In 1950 Nitenmon Gate was designated as a National Important Cultural Property.
二天門の左右に祀られた持国・増長の二天像は、昭和三十二年(1957年)に上野寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像です。門に向かって右が持国天で、左が増長天です。持国天と増長天は四天王に数えられる仏さまで、四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られます。持国天は東方を、増長天は南方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多いようです。向かって右側の持国天は、左手を上げて密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢を取っています。向かって左側の増長天は持国天と対称的な姿勢を取り、右手に法具を掲げ、左手は腰に当てています。元来は全身に華やかな彩色が施されていて、今でも顔や鎧に古来の鮮やかさが残されています。どちらも「寄木造」という鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られています。
右側が持国天、左側が増長天です。
二天門の前に手水鉢があります。
手水鉢 江戸時代 安永六年(1777年)
「手水鉢」とは、社寺の参拝前に手を清めるために置かれる鉢のことである。鉢の側面には「安永六年(1777年)に観世音千百五十年法会供養の日に臨時連中によって寄附された」とあり、推古三十六年(628年)のご本尊さまご示現から数えて1150年を祝う記念法会のために、明和六年(1769年)に設置された浅草寺の消防組織である「臨時連中」によって献じられたと推定できる。また銘文に「随身門前」とあり、文化十年(1813年)に編纂された「浅草寺志」にも「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ると判明する。現在は使われていないが、江戸時代の多くの人々がここで手を清め、観音さまや三社さまにお参りをされたことであろう。
二天門を入った右手に浅草神社が鎮座しています。浅草神社の主祭神は、浅草寺の創建に関わった土師真中知・檜前浜成・檜前竹成で、この三人の霊をもって「三社権現」あるいは「三社様」と称されるようになりました。推古天皇三十六年(628年)3月18日に漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かりました。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになりました。その後土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺としました。これが浅草寺の始まりです。土師真中知の没後に真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが浅草神社の起源であるとされています。
浅草神社
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649年)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868年)三社明神、同六年浅草神社と改称した。現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
ASAKUSA SHIRINE
The Asakusa Shrine had its origin in the joint enshrinement of Hinokuma no Hamanari, Hinokuma no Takenari, who picked up the image of Kannon, the main idol of the Sensoji Temple, from the Sumida River, and Haji no Matsuchi, who made the image as the target of the people's worship. The present shrine building was reconstructed by Tokugawa Iemitsu in December 1649. It is highly rated as the representative building of the Gongen structure of the early Edo Era, and has been designated as an important cultural asset of the nation. The Sanja Festival, held in May every year, is one of the three biggest festivals in Tokyo.
浅草神社の由緒書きがあります。
浅草総鎮守 浅草神社(三社様)
御祭神
土師真中知命(はじのまなかちのみこと)
檜前浜成命 (ひのくまのはまなりのみこと)
檀前武成命 (ひのくまのたけなりのみこと)
御神徳
家内安全・商売繁昌・心願成就
御由緒
推古天皇三十六年(628年)三月十八日の朝、漁師の檜前浜成・武成兄弟が、浅草浦(現在の隅田川)で漁労に精を出していたところ、その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけで、幾度か海中に投げ入れ場所を変えても同じ事の繰り返しです。流石に兄弟は不思議に思い、その尊像を捧持(ほうじ:ささげもつ)して今の駒形より上陸し槐の木の切株に安置しました。当時、郷土の文化人であった土師真中知に一見を請うたところ、現世御利益の尊い聖観世音菩薩の仏像であると告げられました。土師氏は間もなく剃髪して僧侶となり、自宅を新たに寺と構え、先の観音像を奉安し、供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の起源となります。後世となり土師氏の子孫が聖観世音菩薩の夢告を蒙り、郷土発展の功労者である祖先等を浅草寺の傍らに鎮守するようにと告げられ、前述三氏を郷土神として祀る三社権現社が茲に創建されました。奇しくも、明治元年の神仏分離により社名を三社明神社と改め、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められました。そして今でも、氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。
御社殿
現在の御社殿は慶安二年(1649年)に徳川三代将軍家光公より寄進・建立されたもので、本殿に幣殿を附属させ、渡りの間で繋いだ拝殿からなる権現造り風の様相を呈し、柱や壁等各部の漆塗りと随所には極彩色を用いた彫刻・刳形(くりかた・くりがた:建築物や家具などの表面の継ぎ目を覆ったり、装飾を施したりするために使われる建材)が施され、その細部に至る手法は時代の象徴を示しています。江戸の大火をはじめ関東大震災や東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、昭和二十一年に国宝建造物に、更に昭和二十六年には国の重要文化財に指定され、江戸初期を代表して現存する貴重な木造建築物です。これまでも各時代に修復作業が度々行われており、現代においては昭和三十六〜三十八年の昭和の修営、平成六〜八年の平成の大修営に依って、その壮厳さが見事に復刻再現されました。
三社祭
浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やかな神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。祭礼最終日は、「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、早朝より神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、日没後に境内に戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終わります。祭礼期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、神社では各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。
現在の社殿は徳川家光が再建したものです。
社殿前には2組の狛犬が並んでいます。手前の狛犬はとても大きく、千住にあったやっちゃ場(市場)の鎮守として建てられた千住河原町稲荷神社の高さ1.5m・幅1mほどの大きさの足立区内で最も大きな狛犬の台座やノミ使いが浅草神社の狛犬とそっくりなため、同じ石工が造ったのではないかといわれています。
鳥居を潜った横にある夫婦狛犬は、一般的に一対が参道を挟み向き合って設置されるものとは異なり、寄り添って佇む様相から「良縁」・「夫婦和合」・「恋愛成就」のご利益があるとされています。この夫婦狛犬は江戸初期に作られ、形状が珍しく大変貴重なもので、1700年前後に建立されたものとされています。
境内の一画に、久保田万太郎の句碑「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」という碑が建っています。その隣に、寄り添うように川口松太郎の「生きると いうこと むずかしき 夜空かな」という碑も建っています。久保田万太郎(明治二十二年【1889年】11月7日〜昭和三十八年【1963年】5月6日)は日本の小説家・劇作家・俳人で、浅草生まれの耽美派(三田派)の新進作家として登場し、築地座を経て文学座創立に参加しました。新派・新劇・歌舞伎の脚色や演出と多方面に活動を展開し、日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなしました。小説・戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍しました。文人俳句の代表作家としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰しました。川口松太郎(明治三十二年【1899年】10月1日〜昭和六十年【1985年】6月9日)は浅草生まれの小説家・劇作家で、芸道物・明治物・時代物・現代風俗物などを広く執筆しました。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説を執筆して多くの読者を獲得しました。また、松田昌一の名前で映画や演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めました。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当して昭和期の新派に欠かせない人気作家となりました。作品の多くは新派の代表的演目となり、第1回直木賞を受賞し、映画化されて大流行した「愛染かつら」の作者としても知られています。川口松太郎は、久保田万太郎を終世の師と仰いでいました。
川口松太郎句碑
川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸二生レル。昭和十年第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ、小説脚本二名作多ク、文壇劇壇二多大ナ足跡ヲシルス。特二新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニョッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス。這般ノ功績ニヨリ三十八年菊池寛賞受賞。四十年芸術院会員。更二四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞。四十八年文化功労者ニ叙セラレル。最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後、昭和六十年六月九日永眠ス。行年八十五才。三回忌二因ミ、故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲ブ。
生きると いうこと
むずかしき 夜寒かな
粧太夫は吉原の遊女でしたが、蕋雲の号を持つ教養高い女性でした。
粧太夫碑(蕋雲女史書の柿本人麻呂歌碑)
ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島かくれゆく船をしぞ思う
有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。蕋雲は文化年間(1804年〜1817年)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を贈られたほどの人物であった。この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化十三年(1816年)八月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和二十九年十一月、現在地に移された。
MONUMENT TO YOSO-OITAYU
(In memory of K.N.H Miss Zuiun,
using calligraphy inscribed one of his Waka poems on this monument)
Honobonoto Akasi no ura no asagiri ni
sima kakureyuku hune wo sizo omou
The famous Man-yo poet, Kakinomoto no Hitomaro inscribed this poem in ancient Japanese phonetic characters (Man-yo-gana) using the calligraphy of Miss Zuiun, an intellectual of that period. She was a courtesan and called Yoso-oi Tayu. Zuiun was her pen name. She was an excellent calligraphist, Waka poetess, and a caltured woman, who was often depicted in coloured woodblock prints. This monument was offered to Hitomaro-sha (a shrine to worship Kakinomoto no Hitomaro) in August of 1816 by Yoso-oi Tayu who adored Hitomaro. The shrine was destroyed after the Meiji Restoration, except for this monument which was moved here in November of 1954.
浅草には牧場があったそうです。
江戸・東京の農業 檜前の馬牧
大宝元年(701年)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治十九年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Hinokuma Horse Ranch
In the reign of the Emperor Monmu (701~), there were established throughout the country 39 National Cattle Farms to raise cows and horses and 32 Imperial Horse Farms to supply horses to the Imperial Household. Historical record tells that there were three farms in Tokyo, i.e. Hinokuma Horce Ranch which is estimated to
be here in Asakusa, Ukishima Cow Ranch at Honjo and Kanzaki Cow Ranch at Ushigome. With the advent of western civilization from the late Edo era, an increasing population of milk cows were reared at many towns of Asakusa area.
- ポイント16.浅草寺
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浅草神社に隣り合って浅草寺があります。浅草寺の本堂(観音堂)は、ご本尊の聖観世音菩薩を祀る中心堂宇です。慶安二年(1649年)に徳川家光が願主となって再建された旧本堂は昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲により焼失しましたが、その後全国の信徒からの浄財によって、昭和三十三年(1958年)に現在の本堂が再建されました。旧本堂を基本にして鉄筋コンクリート造りで建てられ、入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高であるために遠方からも望むことが出来ます。かつては現在の3倍の重量の本瓦で葺かれていましたが、安全強化のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、平成二十二年(2010年)に営繕が完了しました。本堂へ上がる階段の上部にせり出した向拝には、直径4.5mの大提灯が吊られています。
本堂の手前には宝蔵門があり、雷門と同じ「小舟町」の大提灯が吊られています。関東大震災まで日本橋は江戸の魚河岸であり、界隈は「江戸湊」として繁栄を誇っていました。江戸湊は諸国の産物が集まる荷揚場であり、集散地でもありました。その地続きである小舟町には産物を扱う商人が店を構え、財をなしていました。大提灯はこの商人らが小舟町の繁栄と信徒の心意気を示したもので、 万時二年(1659年)に小舟町の町名を大書きした大提灯を浅草寺に奉納したのが始まりです。その後も三百年以上の歴史と伝統を連綿として今に受け継いでいます。前回は、江戸開府四百年にあたる平成十五年十月に新調奉納されました。この大提灯は、当時の小舟町の繁栄を今に伝えるもののひとつになっています。
境内には旧二天門(宝蔵門の前身)の礎石が残されています。
旧仁王門礎石
慶安二年(1649年)十二月二十三日、旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により、再建落慶した旧仁王門(国宝指定 現宝蔵門と同規模)は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(1945年)三月十日の東京大空襲により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。その後、現本堂に続き昭和三十九年(1964年)四月一日、仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭い、ひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は10〜15cm径の玉石と粘土で突き固められていました。江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑
として受継ぎたいと存じます。
今では子供が迷子になってもマイクで親が呼び出せますが、江戸時代には張り紙で情報交換をしていたそうです。宝蔵門の脇に石柱が建っています。
迷子しるべ石
昔迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。安政七年(1860年)三月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和二十年の空襲で倒壊したため、昭和三十二年に再建された。
本堂と宝蔵門の間を通って西方向に進みますと、左手に五重塔が空高く聳えています。浅草寺に塔が始めて建立されたのは本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶五年(942年)のことで、武蔵守平公雅によると伝えられています。本堂に向かって西側に三重塔、東側に五重塔が建ち、ふたつの塔が左右に配された「薬師寺式伽藍」ではなかったかと考えられています。この塔は長久二年(1041年)に火災によって倒壊しましたが、長い年月を経て寛永十二年(1635年)に再建されました。しかし、寛永十九年(1642年)に再び火災により焼失し、徳川家光により慶安元年(1648年)に五重塔は再建されましたが、三重塔は復興されませんでした。この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残っています。江戸時代には、上野寛永寺五重塔・芝増上寺五重塔・谷中天王寺五重塔と共に、「江戸四塔」として親しまれました。昭和二十年3月14日に東京大空襲により焼失し、現在の塔は昭和四十八年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りの回廊式塔院の上に五重塔を建てるという「塔院造り」の方法で再建されました。
五重塔
そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。浅草寺五重塔は、天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和二十年三月の戦災によって惜しくも焼失した(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)。以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和四十八年に現在の五重塔を再建するに至った。地上からの高さは約五十三メートルある。
The Five-storied Pagoda
This pagoda, founded in 942, was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648. It burned in 1945 during World War II and was reconstructed in 1973. On that occasion, memorial tablets of devout believers who had passed away were placed in the pagoda's foundation, and a bone relic of the Buddha presented by Sri Lanka was placed in the topmost storey of the pagoda.
現在の五重塔は本堂の西側に建てられていますが、かつてはその場所に三重塔が建てられていました。しかし、寛永八年(1631年)に焼失し、慶安元年(1648年)に再建された旧五重塔は本堂の東側に建てられました。その礎石が残っています。
旧五重塔跡
五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。この場所は、江戸時代の慶安元年(1648年)、徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。浅草寺の五重塔は、天慶五年(942年)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。また、歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られ、朱塗り・碧瓦(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(1945年)の戦災で惜しくも焼失した。
五重の塔の南側には、「伝法院」があります。伝法院は、浅草寺の本坊(寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を指します)である伝法心院の通称です。客殿・玄関・書院などからなり、回遊式庭園は小堀遠州の作と伝えられています。
伝法院(名勝・重要文化財)
伝法院は浅草寺の貫首が居住する本坊の称号である。客殿は安永五年(1776年)、玄関は翌六年の建築である。客殿は大規模な方丈形式の建物で、仏壇を広く構える内陣三室を並べた平面構成に特徴があり、本尊阿弥陀如来坐像(台東区指定文化財)を安置する。六月の山家会(伝教大師の忌日法要)、十一月の霜月会(天台大師の忌日法要)をはじめ、故人の追善供養、寺内徒弟の加行などが行われる。台所・小書院・大書院・新書院は明治後期から大正期に復興した建造物である。伝法院の主要建物六棟は平成二十七年に国重要文化財に指定された。建物の背後には、大池泉を中心とする池泉庭園があり、江戸時代初期の作庭と考えられている。伝法院庭園として平成二十三年に国名勝に指定された。池には京都表千家の茶室、不審庵を模した天祐庵(東京都指定文化財)がある(非公開)。
Denbo-in Hall (Places of Scenic Beauty/ Important Cultural Property)
Denbo-in Hall is the name of the residence of the head abbot of Senso-ji Temple. The main reception hall was built in 1776, and the main entrance was completed in 1777. The building is in the shape of a large square. The composition of the hall is remarkable for its planar arrangement of the three rooms making up the inner sanctuary, with a particularly large Buddhist alter. The principle image of the hall is a seated Amitabha Buddha (Designated Cultural Property of Taito City). Various rites and rituals are held here throughout the year. The kitchen and libraries were added to the complex in the Meiji and Taisho periods (late 19th to early 20th centuries). The six main structures that make up Denbo-in Hall were designated in
2015 as National Important Cultural Properties. Behind the structures is a garden centered on a large pond. The garden is thought to have been constructed in the early Edo period (17th century). In 2011 the garden was designated as a nationally-recognized scenic spot. On the edge of the pond is a teahouse called Tenyu-an (Cultural Property designated by the Tokyo Metropolitan Government; not open to the public) of the Omotesenke school of tea, which was built to resemble the Fushin-an
Teahouse in Kyoto.
伝法院通りから見た伝法院の正門です。案内板は仲見世通りに面して立っています。
浅草寺の歴史を記した案内板が掲示されています。浅草神社の由緒書と似ていますね。
一、浅草のあけぼの
浅草は利根川・荒川・入間川が運ぶ土砂の堆積によって作られた。古墳時代末期に人々が住んでいたことは、浅草寺の本坊・伝法院(でんぼういん)に残る「石棺」が示している。この東京湾に面した浅草は、はじめ漁民と農民の暮らす小さな村であったろうが、やがて隅田川舟運による交通の要衝として、また、観音様の示現による霊地として歴史的あけぼのを迎えるのである。
二、ご本尊の示現
「浅草寺縁起」によれば、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、隅田川(当時の宮戸川)で魚を捕る檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が一躰の仏像を感得した。
三、浅草寺の草創
二人の漁師が感得した仏像を郷司の土師中知(はじのなかとも。名前には諸説ある)に示した処、聖観世音菩薩像とわかった。そこで、この兄弟は深く帰依し、中知は自ら出家し、自宅を寺に改めて尊像を祀ったのが浅草寺の始まりである。この三人を祀ったのが「浅草神社(三社さま)」である。一方、そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという伝承もあった。
四、慈覚大師中興の開山となる
ご本尊が示現して十七年後、大化元年に勝海上人(しょうかいしょうにん)が浅草寺に来られ、観音堂を建立し、ご本尊を秘仏と定めた(秘仏の由来)。その後、天安元年(857年)慈覚大師円仁(えんにん)が比叡山(天台宗の総本山)より来寺し、ご秘仏に代わる本尊ならびに「御影版木(みえいのはんぎ)」を謹刻された。版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るものだろう。
五、平公雅堂塔伽藍を建立
平安時代中期、天慶五年(942年)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、浅草寺に参拝した。その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、その願いがかなったことから、そのお礼に堂塔伽藍を再建し、田地数百町を寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったことから、浅草寺が天台宗の法の流れに属していたことが知られる。
六、源頼朝の参詣
治承四年(1180年)、源頼朝は平家追討に向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えた際、浅草寺に参詣して戦勝を祈った。やがて鎌倉に幕府を開いた後も信仰を寄せた。鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては浅草から宮大工を召している。このように武将や文人らの信仰を集めた浅草寺の霊名は次第に全国に広まっていった。
七、徳川将軍の篤い保護
天正十八年(1590年)江戸に入った徳川家康は天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を寄進した。元和四年(1618年)には家康を祀る「東照宮」の造営を認め、随身門(現、二天門)も建立されるなど浅草寺への信任は篤かった。寛永年間に観音堂が炎上した際も徳川家光により慶安二年(1649年)再建された。以後、関東大震災にも倒壊せず、国宝観音堂として参詣者を迎えた。だが、昭和二十年の東京大空襲により焼失、現在の本堂は昭和三十三年に再建された。
八、江戸時代 境内と奥山の賑わい
江戸の繁栄とともに浅草寺の参詣者も増え、やがて江戸随一の盛り場となった。江戸文化の最盛期、境内には百数十の神仏の祠堂(しどう)が建ち並ぶ庶民信仰の聖地となる一方、奥山では松井源水のコマ廻し、長井兵助の居合抜き、のぞきからくり、辻講釈などの大道芸や見世物が参詣者を喜ばせ、水茶屋・揚枝店・矢場(やば)なども立ち並んだのである。さらに春の節分をはじめ季節の行事は大変な賑わいを呈した。明治に入って、浅草寺の境内地は「浅草公園」となり、その第六区が興行街となって日本の映画史、演劇史の上に大きな足跡を残した。同十五年鉄道馬車が開通、同二十三年には浅草一帯を眼下に望む「十二階」が開業されるなど、浅草は文明開化のさきがけを誇った。
九、浅草寺の寺舞
戦後、東京の復興は浅草の復興でもあり、地元の祈りでもあった。昭和三十三年に本堂が再建されたことを記念して「金龍の舞(きんりゅうのまい)」、昭和三十九年には宝蔵門(旧仁王門)の落慶記念に「福聚宝の舞(ふくじゅたからのまい)」、昭和四十三年には東京百年祭を記念して「白鷺の舞(しらさぎのまい)」が、それぞれ浅草寺縁起や浅草芝居の由来を受けて創作され、縁日に奉演されている。
浅草仲見世商店街(浅草寺 表参道)は、浅草寺の山門「雷門」から「宝蔵門」までの約250mの石畳の参道に飲食店や土産物店などが軒を連ねる商店街で、約90店舗が参道を挟んで建ち並び、浅草寺への参拝者や国内外からの観光客で連日賑わいをみせています。仲見世の歴史は古く、始まりは元禄から享保年間(1688年〜1735年)頃といわれ、日本でも最も古い商店街のひとつとしても知られています。商店街には「人形焼」や「雷おこし」の銘菓を扱う老舗はもちろん、伝統工芸品を扱うお店などお土産選びにもぴったりのお店が並んでいます。飲食店も多いのですが、食べ歩きは禁止なので購入したらお店の周辺または移動して食べるなど注意が必要です。仲見世の店舗が閉店した後の夜には、1989年に完成した「浅草シャッター壁画」を見ることができ、こちらも見どころのひとつとなっています。浅草の歴史を東西約400mにも及ぶ絵巻物を鑑賞することができます。
- ポイント17.雷門
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深紅の山門に吊された大提灯は雷門の象徴です。浅草を訪れた観光客は、例外なく大提灯をバックにした写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。
山門を護る雷神様の前に雷門の案内板が立っています。
雷門(風雷神門)
天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・ 五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(1865年)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
Kaminarimon Gate
The Kaminarimon Gate ("thunder gate"), standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji, is Asakusa's most famous landmark. Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin (wind god) and Raijin (thunder god), from which the gate gets its name. The original gate was erected in 942 but burned down several timesover the centuries. The one standingtoday was built in 1960, donated by Japanese entrepreneur Konosuke Matsushita (1894-1989).
雷門広場には浅草寺の案内板が立っています。英語表記の案内文を最後まで読んだ外国人はまずいないでしょう。
聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏) 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ、ご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
*ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794年〜864年、浅草寺中興開山・比叙山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔勝の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。
SENSO-JI (Asakusa kannon Temple)
History and Mission of Senso-ji
In 628, Japan's capital was at Asuka (present-day Nara Prefecture) and what would become Tokyo was still mostly uninhabited grasslands. Two fishermen, Hinokuma Hamanari and his brother Takenari, were on the Sumida River one day when they heard a command from the heavens to cast their net. When they brought the net up, they saw that they had caught a golden statue of Bodhisattva Kannon.
Hearing of this from the Hinokuma brothers, village headman Haji Nakatomo decided that he would become a devout believer in Bodhisattva Kannon. He took vows as a Buddhist priest, remade his home into a temple and spent the rest of his life practicing Buddhism. This episode marks the birth of Tokyo's oldest temple and the start of Senso-ji's history.
In 645, the renowned Buddhist priest Shokai visited Asakusa and built a hall for the worship of Bodhisattva Kannon; that makes him the actual founder of Senso-ji. After having a mysterious dream one night, Shokai decided that Bodhisattva Kannon should be hidden from human view, and it has remained so ever since. Word of blessings bestowed by Bodhisattva Kannon spread far and wide, and many people who had heard of this came to worship at Senso-ji from all over Japan. As a result, Asakusa flourished and grew into a large district.
In the mid-ninth century, Ennin (794-864), the highest-ranking priest of Enryaku-ji, the head temple of the Tendai School of Buddhism, visited Senso-ji, created a statue of Bodhisattva Kannon identical to the hidden one and called its spirit into the new statue. Senso-ji, thus further developed by Ennin, attracted devout faithful not only among commoners but also famous samurai and persons of culture. Designated a sacred site of prayer for the shogunate by shogun Tokugawa Ieyasu (1543-1616), founder of the Edo shogunate, Senso-ji reached a peak of prosperity.
Over the intervening centuries until today, Senso-ji has remained a center of culture and worship in Tokyo. It continues to be influential in people's lives, and with millions of people visiting it every year, it is one of Japan's most familiar temples.
Senso-ji and Asakusa are intimately linked. The two names are written using the same Chinese characters (浅草) but pronounced differently, "senso" being the Chinese pronunciation and "asakusa" the native Japanese pronunciation.
About Bodhisattva Kannon
Over the years, Buddhism, which originated in the fifth century BCE, diverged into two main branches: Hiinayaana (today called Theravaada), which holds that adherents should faithfully follow the teachings of founder Buddha Shakyamuni to reach enlightenment themselves, and Mahaayaana, which teaches that the faithful should not only seek their own enlightenment but also help the suffering. Mahaayaana Buddhism spread from India to China and Korea and eventually to Japan. In that process, according to various interpretations of the Buddha's teachings, various figures of worship emerged, such as Buddhas, who had already achieved enlightenment, Bodhisattvas, who were the people's saviors as they continued religious practice in order to attain enlightenment and become Buddhas, and so on. Believers in Buddhism gave these figures concrete forms, creating sculptures of them which they worshipped.
Bodhisattva Kannon is one among many Bodhisattvas, and since early times has been widely worshipped by Japanese in particular. Bodhisattva Kannon is also the most merciful of the Bodhisattvas, sent to relieve human misery on earth. Many Japanese believe that their hopes and pleas will reach this deity.
In particular, the Bodhisattva Kannon worshipped at Senso-ji has been an unparalleled source of benefits and miracles over the centuries, and has saved and protected countless people since its appearance in this world.
Faith in the Bodhisattva Kannon, which has supported Senso-ji and drawn many people to this temple, consists of opening one's heart and living by the merciful spirit of Bodhisattva Kannon and at the same time showing mercy to others in daily life. We hope that visitors to Senso-ji will join their hands in prayer, receive the merciful spirit of the Bodhisattva Kannon into their hearts and pray that they can bestow that mercy upon others.
雷門の左手の像は「天竜像」です。
天龍像
天龍・金龍の二像は雷門の守護神として奉納された。謹刻者は平櫛田中(1872年〜1979年)及び菅原安男(1905年〜2001年)の両氏である。両像は「金龍山」という当山の寺号に因み、龍神を天龍・金龍の男女二体に擬人化したものである。この天龍像は皮の腰鎧をつけ、右手に独鈷杵、左手に金珠を持った男神像である。青色を中心に彩色を施し、材は木曽檜を用いる。高さは293cm、重さは250kgである。両像は御本尊示現1350年記念の年である昭和五十三年(1978年)3月19日に奉安され、供養法要が厳修された。
Ten-Ryu
This "Ten-Ryu" statue was sculptured by Denchu Hiragushi and Yasuo Sugawara in 1978. It is the personification of the dragon god symbolizing Senso-ji.
"Ten-Ryu", the male god statue made of kiso cypress, wears a leather waist armor, has Tokkosho in his right hand and a gold prayer bead in his left hand. The statue is 2.93 meters high and almost 250 kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, "Ten ryu" and Kin-ryu" are enshrined in "Kaminari-Mon".
雷門の右手の像は「金竜像」です。
金龍像
天龍・金龍の二像は雷門の守護神として奉納された。謹刻者は平櫛田中(1872年〜1979年)及び菅原安男(1905年〜2001年)の両氏である。両像は「金龍山」という当山の寺号に因み、龍神を天龍・金龍の男女二体に擬人化したものである。この金龍像は裙(くん:女性が腰から下にまとう衣)をはき、胸飾をつけ左手に銀珠を持つ女神像である。白色を中心に彩色を施し、材は木曽檜を用いる。高さは274cm、重さは200kgである。両像は昭和五十三年(1978年)3月19日に松下グループの有志の方々によって奉安され、供養法要が厳修された。
This "Kin-Ryu" statue was sculptured by Denchu Hiragushi and Yasuo Sugawara in 1978. It is the personification of the dragon god symbolizing Senso-ji.
"Kin-Ryu", the goddess statue made of kiso cypress, wears a inner garment named Kun, dresses up, and has a silver prayer bead in his left hand. The statue is 2.74 meters high and almost 200 kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, "Ten-Ryu" and Kin-Ryu" are enshrined in "Kaminari-Mon"
- ポイント18.駒形橋
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駒形橋は、昭和二年(1927年)に竣工した隅田川にかかる橋で、浅草通りが通っています。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因んでいます。現在の橋は、関東大震災後の復興計画によって初めて架橋されました。それ以前は、この場所に「駒形の渡し」がありました。
駒形橋西詰に、記念碑らしきモニュメントと案内碑が建っています。
駒形橋
駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要地で、“駒形の渡し”のあったところである。江戸の巷説に有名な
君はいま 駒形あたり ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災(1923年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(1927年)に完成した。歌人、正岡子規の和歌にも、
浅草の林もわかず 暮れそめて
三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
駒形堂は、駒形橋西詰の浅草寺の飛地境内にある小堂です。本尊は馬頭観音立像(秘仏)で、浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったといわれています。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間・宝形造で、平成十五年(2003年)に建て替えられました。堂は元々は隅田川に向かって建てられていましたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、隅田川には背を向けた形になっています。本尊は毎月19日の縁日に開扉され、法要が行われます。台東区の案内板です。
駒形堂
「浅草寺縁起」によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(942年)で、建立者は安房守平公雅。名称由米には、
- @
- 隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(「江戸名所図会」)
- A
- 観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(「燕石雑誌」)
- B
- 駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(「大日本地名辞典」)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれ
た。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
Komagata-do Temple
According to the recorded history of Senso-ji Temple, Komagata-do Hall was built in 942. is the Buddhist saint Bato Kanzeon. The principal image The hall appears in pictures by woodblock artists such as Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. Although it is small, the hall was famous in old Edo (Tokyo). In 1923 it was burnt down during the Great Kanto Earthquake, and it was rebuilt in 1933.
浅草寺の案内板です。
ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
Komagatado Hall
Komagatado Hall is the temple built in the place where the principal image bodhisattva Syo-Kannon) of Senso-ji appeared from the Sumida river and was enshrined about fourteen hundreds years ago. This area has been a port town and there were many inns for sailors and ferries. Since the medieval period people who wanted to go on a pilgrimage to Senso-ji by ship visited Komagatado Hall before going to the main hall of Senso-ji. The principal image of Komagatado Hall is the god of traffic safety,
bodhisattva "Bato-Kannon". The present temple was reconstructed in 2003.
境内の隅に、古びた石碑が並んで建っています。その横に案内板が立っています。
東京都指定有形文化財(古文書)
浅草観音戒殺碑
駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。このため元禄五年(1692年)、当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権僧正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。「御府内備考」によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(1759年)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和二年(1729年)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。台石は昭和八年修補時のもので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高183.5cm、正面幅61cm。銘文は「浅草寺誌」や「江戸名所図会」にも収載される。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。
Tangible cultural property (ancient documents)
Asakusa Kannon Kaisatsu no Hi
Komagatado Hall is a part of Sensoji Temple. It is considered to be a sacred place where the statue of ShoKanzeon Bosatsu, which is the principal object of worship of Sensoji Temple, was found in the Sumida River. Because of this discovery, a law was issued in 1692 to forbid killing of fish and birds in, the area. In commemoration of the law Kaisatsu no Hi was erected in 1693 with Senzon, the 4th Gonno Sojo of Sensoji
Temple, as the petitioner. The area where the killing of animals was forbidden was around Komagatado Hall. The designated area was about ten blocks(about 1km) along the river from Suwa town as the south limit to Syoden-gishi as the north limit. According to the book "Gofunai Biko (Notes on Edo)," Kosatsu (public notice) were built in Suwa and Syoden town. The building of Komagatado Hall where Kaisatsu no Hi was erected had been burnt down several times in the Edo period. Kaisatsu no Hi had collapsed as well. In 1759 the monument was erected again with the building, The current monument was excavated in 1927 after the Great Kanto Earthquake and was repaired in 1983 when
Komagatado Hall was rebuilt. It is not clear whether the repaired monument is the original one or the reerected one in 1759. The body of the monument is made of andesite and it is in the form of plate with the round top. The front surface and both sides were polished, but the back surface is unfinished. The pedestal stone was added during the repair in 1933, and all surfaces are polished. The total height 183.5cm and the front width 61cm. The inscription is listed in "Sensoji Shi (The chronicle of on Sensoji Temple)" and "Edo Meisho Zue (Illustrated guide of famous Edo sites)." It is a valuable material to show us the circumstances around religion in Genroku era and the conditions of the neighboring areas.
「戒殺」とは、殺生を禁ずるという意味らしいです。この辺りで浅草寺の観音様がご示現されたといわれていますので、隅田川の周辺を禁漁・禁猟区にしたのでしょう。
駒形堂は池波正太郎の作品にも登場しています。
池波正太郎作品の舞台
駒形堂と酒飯・元長
池波正太郎の作品には駒形堂のあたりを舞台にした作品があります。大川(隅田川)に面した駒形堂のあたりは、その昔、船着場や船宿などがあり賑わいをみせていました。船で浅草寺参詣に訪れた人は、駒形堂にお参りしてから浅草寺に向かったといわれています。「剣客商売」では、駒形堂の裏にある設定で酒飯・元長という店がたびたび登場します。橋場の料亭・不二楼の料理人・長次と座敷女中・おもとが夫婦となり、独立して開いた店。長次とおもとの仲は、不二楼の主人夫婦も認めるところで、秋山小兵衛が仲立ちとなり祝言をあげました。店名は長次とおもとの一字ずつをとって小兵衛が名づけました。居酒屋でも飯屋でもない小料理屋といったところで、秋山一家がたびたび利用し、さまざまな物語がこの店を舞台に展開します。このあたりは小説のみならず、のちにテレビドラマとして映像化された池波正太郎作品の舞台としても登場しています。
- ポイント19.駒形二丁目
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江戸通りを挟んで、駒形橋西詰交差点から厩橋交差点までふたつの町域が延びています。江戸通りに面した東側が駒形二丁目で、西側が駒形一丁目です。駒形二丁目は、江戸通りと隅田川に挟まれた狭い町域なこともあって特にめぼしい建物はありません。
- ポイント20.駒形一丁目
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それに比べて、駒形一丁目の町域には多くの名所が多くあります。
「世界のカバン博物館」は、世界約50ヶ国から収集された希少価値の高いコレクションをはじめ、カバンの歴史・カバンづくりの技術、文化に触れることができるミュージアムです。著名人から寄贈されたカバンの展示や企画展なども行われます。
駒形の名物といえば、「駒形どぜう」ですね。駒形どぜうの創業は、十一代将軍徳川家斉公時代の享和元年(1801年)です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客で繁盛したといわれています。初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド「江戸名物酒飯手引草」(現在のミシェランガイド)には、駒形どぜうの名が記されています。やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災・第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。現在、江戸の味と建物は六代目へと引き継がれています。
お店の前には、この店を贔屓にしていた久保田万太郎の句を記した石碑が置かれています。確か、人形町の「玉ひで」にもショーウインドウに久保田万太郎のポートレートが置かれていたような。。。
久保田万太郎の句碑
神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり
久保田万太郎の石碑
久保田万太郎先生は市井のひとを愛し とくに また ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した ここに駒形どぜう 越後屋 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで 先生をしたう情は まことに涙ぐましいものがあるが 昭和四十一年初夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に当たって 駒形どぜうの店の前に いま 先生の句碑を立てる 旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑を立てられたことは さだめし先生も喜ばれていることと思われる ここにつつしんでこれをしるす者は おなじく浅草ッ子のひとり
殺風景なオフィスビルが続く一画に、ドラえもん・アンパンマン・ウルトラマン・仮面ライダーなどのカラフルなアニメ像が置かれた特徴的な建物があります。2004年に誕生したバンダイの本社ビルです。滑らかにウェイブするフォルムと、頂部の花火をみるデッキの形が外観上の特徴となっています。壁面の滑らかな表情をつくるアルミパネルとガラスが織りなす姿は、プレス成形したバンダイ製品が持つ工業製品としての精緻さを建築の表現に投影できればと追求したデザインです。ビルの1階と2階には「おもちゃのミュージアム」を併設しています。
江戸通りの左手に小さな神社があります。毛筆で書かれた長〜〜〜い文章の由緒板が立てられています。一字でも書き間違えたら一巻の終わりでしたね。
諏訪神社
当社の創祀は定かではありませんが、口碑に依りますと、承久の乱のあと信濃国諏訪郡に住んでいたある神主が諏訪大社の神霊を当地に奉斎したのに始まると云われています。諏訪の信仰が東国に広まるのは鎌倉時代中頃と云われ、当時諏訪大社は鎌倉幕府より、箱根権現や伊豆山権現、三島大社と共に、特別の尊崇を受けていたのです。それは諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し、祈祷の効を積んだからである。従がって頼朝も諏訪大社を武家守護の神として崇敬したのです。又後白河法皇の染塵秘抄にも関より東の軍神として鹿島大社と香取大社を挙げ、三番目に諏訪大社を記しています。その後幕府の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得、宗領とし諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏得宗家の支援によって、諏訪大社の御分社を奉斎すると共に支配する所領地にも御分社を奉斎し、神主を招き神事を執行してきたと伝われています。当社に残されています社史には当社は、天正年間神職が数代に亘って奉仕してきた事が伝えられおり、諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し、風祭りの神事が行われていた事が分っています。江戸時代に入ると浅草寺との関係が生れ、その寺領内に当社が鎮座しており、浅草寺の十二衆徒の一院である修善院が別当となり、当社をお守りしてきました。尚、当地は現在駒形となっていますが江戸時代以来諏訪町と呼ばれてきたのです。再訂江戸鹿子には近年度々の回禄によりて社頭は形の如くなれども、神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀とぞと記されています。
- ポイント21.厩橋
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厩橋交差点で春日通りと交差します。右手には厩橋が見えます。厩橋全体には、馬を連想させるレリーフなどが施されています。橋名の由来は、隅田川の西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」に因んでいます。厩橋が架かる前の江戸時代には、「御厩の渡し」で対岸と行き来していました。昔から渡し船の転覆事故が多く、「三途の渡し」と揶揄されていたこともありました。
- ポイント22.蔵前一丁目
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蔵前一丁目交差点で蔵前橋通りと交差します。
蔵前という地名は江戸幕府の米倉があったことに由来していますが、年配の方には相撲の蔵前国技館の方が馴染みがあるのではないでしょうか?現在の両国国技館の先代にあたる蔵前国技館は昭和二十九年(1954年)に完成し、相撲だけでなくレスリングやボクシングの興業、それに柔道・剣道の大会なども行われました。キャンディーズのコンサートも行われたんですね。しかしながら、昭和五十九年(1984年)9月場所を最後に閉館し、跡地は都の下水道局の施設になっています。
旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草蔵前
本町は昭和九年(1934年)、それまであった九ヵ町を整理統合してできた。蔵前という町名が最初に付いたのは、浅草御蔵前片町で、元和七年(1621年)のことである。幕府の米蔵があったことから付けられた。この米蔵は幕府の直轄領地から送られた米を収納するため、鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地して元和元年のころ造られた。当時、浅草御蔵などと呼ばれ、六十七棟もの蔵があつたことから、約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。蔵前橋のたもとに浅草御蔵跡碑がある。かつて米蔵のあったところである。
広場には、もうひとつの案内板が立っています。ここには、江戸時代に幕府の天文台が置かれていたのだそうです。夜の明かりが乏しかった時代ですから、天文観測には十分な条件だったのでしょう。
天文台跡
この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台・浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782年)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6メートル、高さ約9.3メートルの築山の上に、約5.5メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは9メートルだったという。幕末に活躍した浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所・蕃書調所・洋書調所・開成所・開成学校・大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。天文台は、天保十三年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
THE RUINS OF AN ASTRONOMICAL OBSERVATORY
On the west side of this spot, covering the entire area in 21, 22, 23, 24 and some
area of 19, 25, 26 of Asakusabashi 3-chome, there used to be an astronomical
observatory which was a facility for the Edo feudal government to practice such
things as astronomy, calendrical art, surveying, editing topography, and
translating foreign books in the second half of the 18th century. The astronomical observatory was moved from Ushigome and rebuilt in 1782. It was originally a facility of the Tenmon-gata public office, which made calendars. It was needed for astronomical observations to produce accurate calendars. According to a historical document called Shitendai-no-ki, the astronomical observatory was about a 5.5 square meters (about 6 yd. sq.) and was built on an artificial hill which was approx 9.3 meters (about 31 ft.) in height. The circumference of the hill was about 93.6 meters (about 103 yd.) and there were 43 stone steps with handrails on both sides. The Katsushika-Hokusai (an 'ukiyoe'artist) drew a scene called Torigoe-no-Fuji (Mt. Fuji seen from Torigoe) in his Fugaku-Hyakkei series (100 scenes of Mt. Fuji), showing Asakusa Astronomical Observatory with Konten-gi, an instrument to measure astronomical positions, against Mt. Fuji. This observatory was abolished by the Meiji Government in 1869.
須賀神社は、推古天皇九年(600年)に創建されたといわれ、江戸時代には「牛頭天王社」・「祇園社」・「蔵前天王社」・「団子天王社」と様々な名称で呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に「須賀神社」と改称されました。「団子天王社」の由来は、団子を奉納する祭礼があったことに因んでいます。江戸時代には、須賀神社周辺に札差が軒を連ねていて、氏子にも多くの札差がいました。そのため、須賀神社への金品の寄進が多く、祭礼は大いに賑わったといわれています。札差は、江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業とした者をいいます。浅草の蔵前に店を出し、米の受け取り・運搬・売却による手数料を取る他、蔵米を担保に高利貸しを行って大きな利益を得ました。札差の「札」とは米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差して順番待ちをしていたことから、札差と呼ばれるようになりました。
- ポイント23.浅草橋
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浅草橋は台東区に位置し、JR総武線と都営浅草線が通る交通の要所です。秋葉原や浅草にも近く、古くから商業の街として発展してきました。現在も、問屋街としての伝統を持ちつつ、新しいカフェやオフィスが増え、活気のあるエリアとなっています。浅草橋は主に「浅草橋駅」を中心としたエリアを指します。具体的には、東は隅田川、西は昭和通り、北は蔵前、南は秋葉原・神田エリアに隣接していて、オフィスや問屋が立ち並ぶ一方で、住宅やカフェ、工房なども点在し、多様な顔を持つ街となっています。現在地名となっている浅草橋ですが、橋そのものも存在します。橋の方の「浅草橋」は、神田川に架かる橋のひとつで、江戸時代から交通の要所として利用されてきました。初代の橋は木造で、度重なる洪水や火災によって何度も架け替えられてきました。明治時代には石造りの橋に改修され、現在の橋は昭和四年(1929年)に架けられました。現在も歴史を感じさせるデザインが残され、近隣の風景と調和しながら多くの人に利用されています。浅草橋は江戸時代から物流の拠点として栄えていました。特に、江戸城の外郭を守る「浅草御門」の近くに位置していたことから、見張り所が設置されるなど、交通の要所として重要な役割を担っていました。この時代には、日本橋と並ぶ問屋街としても発展し、特に繊維業が盛んで、多くの商人がこの地で商売を営んでいました。現在でも残る「人形問屋街」の歴史も、この頃から始まったといわれています。「まちしるべ」の案内板によりますと、旧浅草橋の町域は神田川より北側になっています。靖国通りと神田川に挟まれた狭い町域は日本橋か神田に属するのですね。
旧町名由来案内
下町まちしるべ 旧浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
浅草橋の北詰に小さな公園があり、植栽の中に「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附は、江戸時代に36ヵ所あった江戸城の警備施設である見附門のひとつです。外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」と呼ばれたこともありました。石碑の裏面に説明文が記されていますが、殆ど読みとれません。【碑文はネットからの転載になります】
浅草見附跡
浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永十三年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和九年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。
神田川に架かる浅草橋を渡ります。橋の上流・下流には多くの屋形船が係留されていますが、宴会のお客さんは戻ってきたのでしょうか?浅草橋はかなりの年期が入っていて、親柱も朽ちそうになっています。現在の浅草橋は昭和五年1月に竣工しました。ちなみに、浅草橋親柱の橋名板は関東大震災の復興当時からのものです。東京大空襲の戦禍にも耐え、架設以来90年以上も実用に供されているとは驚きです。そろそろ架け替え時では?
浅草橋交差点を渡った先の神田川の南側は日本橋馬喰町二丁目地域ですが、そこに関東郡代の屋敷がありました。
郡代屋敷跡
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
江戸通りは、浅草橋交差点で靖国通りと交差します。交差点の標識には、浅草橋交差点が靖国通りと京葉道路の起点になるように標示されていますが、行政上の起点は両国橋とのことです。どちらが正しいのでしょうか?
- ポイント24.横山町大通り
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江戸通りと清杉通りと清洲橋通りに囲まれた三角形の町域が日本橋横山町です。北東から南西にかけて横山町大通りと新道通りが走り、衣料・雑貨関連の問屋が軒を連ねています。横山町大通りの一部区間は江戸時代の日光・奥州街道で、近隣に投宿する旅人向けの小間物問屋・紙煙草入問屋・地本双紙問屋等が軒を連ねていました。永禄二年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に、石井某の知行として五貫三百文・江戸横山分とあり、これが横山町の由来と考えられています。
江戸時代から商人の街として知られた横山町ですが、そのルーツは江戸時代初期に横山町の大部分を占めていた寺(築地に移転した西本願寺もありました)が明暦の大火(1657年1月に江戸市街の大半を焼いた大火事)の後に浅草他に移転し、その跡地に商家が開かれたことに遡ります。明暦の大火後の復興計画の一環で、横山町の中央を通る奥州街道(本町通り)は江戸のメインストリートとして幅7間(13.8メートル)に広げられ、両国橋の袂の中央区側には、後に江戸一番の繁華街と称される両国広小路が設けられ商業が活発になりました。横山町も和装小物・薬種・書物などの各種問屋が軒を並べ、堀留と並ぶ江戸の代表的な問屋街となっていきました。昭和初期の大恐慌時に現金問屋が誕生し、主に繊維を中心とする問屋が主流となり、現在では日本最大級のファッション問屋街となっています。
- ポイント25.大伝馬町
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日本橋地域の北部に位置する大伝馬町は東西方向に長い町域で、街の中央部を東西に横断する道路は旧奥州街道こと大伝馬本町通りと呼ばれます。「伝馬」とは、江戸時代の制度で、人や荷物を馬に乗せ、次の宿駅や目的地まで運んでいく制度のことです。より多くの馬を準備していた方を大伝馬町、少ない方を小伝馬町と名付けられました。大伝馬町では、家康の命を受けた名手・馬込勘解由が伝馬役として活躍し、馬込家が代々伝馬役を勤めました。
旧日光街道の碑が建っています。大伝馬町は、江戸最大の繊維問屋街として名を馳せるようになり、往時「木綿店」と通称された一角には、江戸時代には木綿問屋が74軒あり、その中でも6割以上が伊勢国(現在の三重県)の店が占め、かつ松坂出身の店が多くありました。
旧日光街道本通り
江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり、木綿問屋が軒を連ねて殷賑(いんしん:非常に賑やかで活気に満ちていること)を極めた。
大伝馬町は、蔦屋重三郎が地本問屋の蔦屋耕書堂を日本橋通油町の奥州街道沿いに店を構えていたことでも知られています。蔦屋重三郎は安永二年(1773年)に吉原大門の前に書店を開き、初めは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)を販売して出版から出版業に関わり、山に蔦の印の箱看板を出して蔦重と呼ばれていました。天明三年(1783年)に日本橋通油町(現在の日本橋大伝馬町)に移転し、山東京伝・曲亭馬琴・十返舎一九などの作家や絵師を抱えていました。浮世絵を出版し、喜多川歌麿と東洲斎写楽を見出しました。
蔦屋重三郎「耕書堂」跡
この地域には、江戸時代中期の出版業者である蔦屋重三郎(1750年〜1797年)の書肆(出版業者兼本屋)「耕書堂」がありました。寛延三年(1750年)に新吉原(現在の台東区千束)に生まれた重三郎は、後に喜多川氏蔦屋の養子になり、新吉原大門口五十軒道に書肆を開業しました。安永三年(1774年)には、吉原の案内書である「吉原細見」の版元になり、さらに黄表紙などの刊行を行いました。天明三年(1783年)九月には、通油町(現在地付近)に進出し、黄表紙・洒落本・狂歌本・錦絵などを刊行して、有力な地本(江戸で出版された双紙類)問屋になりました。葛飾北斎の「画本東都遊」には、「絵草子店」としてその店先の光景が描かれています。重三郎は江戸の人々の嗜好を汲むことに長けており、戯作者としては朋誠堂喜三二・大田南畝・恋川春町・山東京伝など、絵師としては勝川春章・鍬形寫ヨ・葛飾北斎などの作品を次々に刊行しました。さらに、喜多川歌麿を見出してその庇護者となって大成させるなど、江戸一流の版元として数多くの実績を残しました。寛政三年(1791年)には、寛政の改革の出版統制による弾圧を受け、身上半減の闕所処分(財産半分没収)とされてしまいます。しかし、それ以降も書肆としての活動を続け、寛政六年から翌年にかけて東洲斎写楽の役者絵などを刊行しました。
Tsutaya Juzaburo "Koshodo" Site
In this area, there was a publishing house/bookstore called "Koshodo" owned by Tsutaya Juzaburo, a publisher in the middle of the Edo period (1750 to 1797).
Born in Shinyoshiwara (currently Senzoku, Taito-ku) in 1750, Juzaburo was adopted into the Kitagawa family, which operated a shop named "Tsutaya."Juzaburo opened his publishing house/bookstore in Shinyoshiwara, Ohmonguchi. He became the publisher of "Yoshiwara Saiken," a guidebook of the Yoshiwara entertainment district in 1774, and began publishing kibyoshi (illustrated storybooks with yellow covers). After moving his operations to Toriabura-cho(currently in the present location) in September 1783, he published kibyoshi, sharebon
(novelettes about the pleasure quarter), kyokabon (humorous poems) and nishikie (multi-colored woodblock printing), becoming a leading wholesaler of books published in Edo including soshi (illustrated storybooks). A scene of the storefront of his publishing house/bookstore was drawn as an "illustrated storybook store" in "Ehon - Azumaasobi" painted by Katsushika Hokusai.
Juzaburo was good at grasping the tastes of people in Edo, publishing in sequence the works of popular writers including Hoseido Kisanji, Ota Nanpo, Koikawa Harumachi and Santo Kyoden and painters like Katsukawa Shunsho, Kuwagata Keisai and Katsushika Hokusai. Moreover, as a first-rate publisher in Edo, Juzaburo produced many results such as discovering Kitagawa Utamaro and
helping to make him successful, as his patron. In 1791,due to the oppression under the control on publication in the Kansei Reforms, Juzaburo was forced to pay a large monetary penalty (half of his property was confiscated). However, he continued the activities of his publishing house/bookstore, and published
yakushae (actor prints)painted by Toshusai Sharaku in 1794 and 1795.
享和二年(1802年)に出版された葛飾北斎の「絵本東都遊」には、店先の様子が描かれています。
首都高1号上野線の手前に、小津和紙の建物があります。植え込みの中に、石碑が建っています。
小津の起源
伊勢商人、小津清左衛門長弘は、当時江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に、承応二年(西暦1653年)創業しました。爾来、幾多の事業の変遷を経て「紙商小津」として現在に至って居ります。
The Origin of Ozu
In 1653 (the second year of Jo-ou in Edo Period), Ozu Seizaemon-Nagahiro,
a merchant from Ise, laid the foundation of his business here in Odenma-cho,
then the hub of commercial activities in the capital Edo. Since then, after engaging in different trades, Ozu has become known as "the paper merchant Ozu" to this date.
その隣には、和紙の原料となる代表的な「コウゾ」の木が植えられています。
日本橋本町は「くすりの街」で知られ、大手製薬企業の本社や外資系の製薬企業などが多く立地しています。徳川家康は、江戸に入府した天正十八年(1590年)8月に大規模な土木工事に取り組み、9月には市街地を造成する「町割」を始めます。この時に最初に町割が行われたのが今の日本橋本町でした。日本橋本町は江戸で最初に開かれた町だったのです。その後、家康は慶長八年(1603年)に幕府を開き、江戸の町がどんどん形作られるにつれ、全国の商工業者が江戸へと集まり始めました。その中には薬に関する商いを行っていた薬種商もいました。家康は日本橋周辺を町の中心部と定め、商工業者には業種別に集まって住むようお触れを出し、薬種商は日本橋本町三丁目付近に住むこととされました。こうして日本橋本町は、関東の薬品取引の中心地となっていきました。
- ポイント26.室町三丁目南
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室町三丁目南交差点を左折して中央通りに出ます。「日本橋室町」の地名は、京都の室町にならったという説と、商家が多く集まっていて、その土蔵(室)が建ち並んでいたためという説があります。
日本橋の袂に人魚の銅像が鎮座し、横に案内板が立っています。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩千魚を荷場げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心とLて、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用Lて運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぷりをうかがうことができます。
Remains of the Nihonbashi Riverside Fish Market
Fresh fish and other seafood for consumption in the capital were unloaded for three centuries at the market that operated along the bank of the Nihonbashi River between the Nihonbashi and Edobashi bridges. The Nihonbashi Riverside Fish Market originated in the early Edo period as a sales point for fish left over from the supplies sent to the shogun and daimyos lived in Edo castle town by the fishers of Tsukudajima. The riverbank later became the core of a very busy fish trading district sprawling across the Honfuna-cho, Odawaracho and Anjincho neighborhoods (the present Muromachi 1-chome and Honmachi 1-chome area). The center of activity was the market area along the Nihonbashi River where numerous boats docked, fully laden with fish from nearby coastal waters. Lined with fish shops that throbbed with negotiations in the high-spirited style characteristic of Edoites, with daily transactions totaling as much as a 1000 ryo (equivalent to about 16 kilograms of silver), it was one of the liveliest spots in the city of Edo. During Edo period, the seafood brought in along the Nihonbashi River was sold to dealers aboard the hiratabune (flatboats) pulled up to the wharf along the riverbank, then displayed on stands at shops on the street side of the riverbank warehouse buildings for sale to the food trade. When Tokyo was rebuilt after the Great Kanto Earthquake of 1923, the market was relocated to Tsukiji on the Sumida River, and the Tsukiji Fish Market of Tokyo Metropolitan Central Wholesale Market continues to flourish as the city's seafood wholesaling center. As a reminder of the prosperous trading era of this site, a historical monument was erected in 1954 by people who had been affiliated with the old market, with a summary of the more than 300 years of history from the founding to the relocation of the Nihonbashi Riverside Fish Market.
- ポイント27.日本橋
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日本橋は東海道のみならず、中山道や日光街道など、江戸期に五街道と呼ばれた主要街道の起点とされました。
道の起点としての日本橋
中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目
日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られています。慶長八年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治四十四年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変わりました。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈しています。
架橋当時の日本橋です。
屋根付きの立派な案内板があります。銅板に彫られた江戸時代の風景画と碑文は年代物のようで、錆びてとても見づらいですね。
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
現在もここには日本国道路元標が置かれ、都心から各方面に向かう国道の起点となっています。
日本橋 附東京市道路元票(一基)
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奧州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附指定(つけたりしてい:国宝や文化財として国から指定されている物件の価値を補完するために追加で指定すること)を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan
It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI,Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of the bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun. The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.
街道の起点ということは、同時に里程の起点でもあり、江戸時代に全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。 橋は慶長八年(1603年)の架橋といわれています。家康が江戸城東側にあたるこの付近一帯を埋め立て、町割を施した際に架橋されたのでしょう。名称の由来については諸説ありますが、諸国へ通じた起点という意味のようです。
日本国道路元標
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・コ川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この復製も同時に制作・設置されたものです。東京道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化に指定されています。
Zero Milestone in Japan
Nihonbashi Bridge was built in 1603 and designated by the Edo Shogunate government as the starting point of five major roads in Japan. The present Nihonbashi Bridge, built in the Renaissance style in 1911, is a double-arched bridge made of stone. The calligraphy engraving "Nihonbashi" on the plaques on each of the four newel posts is based on the work of Yoshinobu Tokugawa, the last Shogun. In 1972, the original "Zero MiIestone of Tokyo City", formerly located in the middle of Nihonbashi Bridge was transferred to this square for preservation and replaced by a memorial plaque. The characters "Zero Milestone of lapan" on the plaque were taken from the writing of the then Prime Minister and Nobel Peace Prize winner, Eisaku Sato. Both "Zero Milestone of Tokyo City" and Nihonbashi Bridge, which calebrated its eighty-eighth anniversary in 1999, are designated important cultural assets of Japan.
現在の橋は明治四十四年架橋の石造二連アーチ橋で、欄干の中央に麒麟、両端に獅子をあしらった青銅製の装飾がつき、平成十一年から国の重要文化財の指定も受けています。
- ポイント28.乗船広場
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日本橋の橋詰には、南東側に「滝の広場」・南西側に「花の広場」・北東側に「乙姫広場」・北西側に「元標の広場」と命名された広場が設けられています。ここは、滝の広場で、乗船広場があります。
日本橋橋詰の愛称
日本橋の歴史は、慶長八年(1603年)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治四十四年4月に完成し平成三年4月には80才を迎えました。これを記念し、平成二年7月から平成三年5月にかけて広場の整備を行い、平成三年5月には完成式典が行われました。整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。
滝の広場には、滝をイメージした壁が設けられています。
日本橋架橋100周年に合わせ、滝の広場に隣接して平成二十三年4月3日に船着場が整備されました。
船着場は、日本橋に縁のある歌舞伎役者の坂田藤十郎さんと市川團十郎さんの名前から「双十郎河岸」と命名されました。
昭和通りと中央通りに挟まれた日本橋一丁目界隈では大規模な再開発が行なわれています。その中心となるのが52階建て・高さ284mの超高層タワーです。施工は清水建設が担当していますが、最近の都内の超高層ビルの建設は殆ど清水建設の独壇場ですね。竣工は令和八年3月31日の予定です。
ゴール地点の日本橋駅に着きました。駅の構内に日本橋の案内板が掲示されています。
日本橋
江戸の日本橋がはじめて架けられたのは、慶長八年(1603年)といわれ、翌年には、諸街道の起点と定められました。日本橋一帯には、魚河岸、米河岸、材木河岸などがつくられ、また、幕府の陸上輸送を担当する伝馬役所が橋の近くに設けられました。江戸時代後期の日本橋の規模は、全長28間(約51メートル)、幅4間2尺(約8メートル)で、明治六年(1873年)に、車道と歩道が設けられた西洋式木橋に架け替えられました。明治四十四年(1911年)、石造の二重アーチ橋が開橋し、国の重要文化財にも指定されています。日本橋駅では、「橋の街」をデザインコンセプトに、駅とまちを繋げ、江戸の日本橋風景を思い描いていただこうと、日本橋駅の中心に橋の一部を再現しました。
Nihonbashi Bridge
Nihonbashi Bridge is believed to have been originally built in 1603. The follwoing year, the bridge was designated as the focal point of the nation's highway network. Riverside quarters for merchants, rice brokers and timber
dealers, as well as the fish market, were established in the surrounding area. A public office of the feudal government, responsible for land transport, was also built near the bridge. During the late Edo Period (19th century), Nihonbashi
Bridge was approximately fifty one meters in length and some eight meters in width. In 1873, it was replaced with a western-style wooden bridge with a roadway and separate sidewalk. The stone double arch bridge opened in 1911 and has since been designated as a national important cultural property. Under the design concept of "bridge town", a replica of part of Nihonbashi bridge has been reproduced in the center of Nihombashi station, connecting the station to the
town. It is reminiscent of the landscape of Nihonbashi during the Edo period.
ということで、足立区で五十八番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 58.旧日光街道(千住宿・日本橋)コース」を歩き終えました。次は足立区で五十九番目となる「E−千住・新田エリア 59.千住ほんちょう公園・隅田公園コース」を歩きます。
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