E−千住・新田エリア 61.隅田川七福神コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「E−千住・新田エリア 61.隅田川七福神コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年9月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年1月3日に改めて歩きました。

スタート地点:北千住駅西口

 1.ほんちょう公園

 2.源長寺

 3.墨堤通り

 4.関屋駅

 5.曙町公園

 6.東京未来大学

 7.堀切駅

 8.多聞寺

 9.白髭神社

10.向島百花園

11.長命寺

12.弘福寺

13.三囲神社

14.東京スカイツリー

15.吾妻橋

16.隅田公園

ゴール地点:東武浅草駅


スタート地点の北千住駅西口から歩き始めます。



ポイント1.ほんちょう公園

千住ほんちょう公園は旧日光街道の宿場通りに面した公園で、かってこの地域は日光街道の宿場町として栄え、その歴史も感じられる公園となっています。



入口の奥には高札場が再現されていて、その由来が記されています。江戸時代には、いろいろな禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。

千住宿 高札場 由来

私たちの街千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597年)人馬引継駅として以来のことだといわれています。江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではありません。特に寛永二年(1625年)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。




石造りの土台の上に、千住宿史跡・旧跡案内図があります。あまりに大きいので、俯瞰しずらいですね。



公園は、平成元年に手作り郷土大賞を受賞しています。



園内には、赤と青でペイントされたタコのすべり台があり、子供たちの人気者となっています。他には複合遊具やブランコもありますが、どれもカラフルな色使いで楽しい気分になります。園内には植栽や植え込みも多く、自然にも触れられる公園です。



宿場通りを進みます。サンロード宿場通りとの分岐点の北側は「宿場通り」、南側は「宿場町通り」になっています。「千住で2番」のキャッチフレーズで知られる居酒屋の「大はし」は、明治十年(1877年)創業の老舗です。居酒屋評論家の太田和彦さんが名付けたという”東京三大煮込み”の甘辛い醤油味が染み込んだ牛肉の煮込みが名物で、他にも旬の鮮魚が味わえる大衆酒場です。「やってます」の看板はこの店が発祥だそうです。



バードコートは、ミシュラン1つ星に輝いたことで知られる焼き鳥の名店です。締まった肉質と旨みが評判の奥久慈しゃもを使用し、繊細な職人技で焼き上げた串は絶品です。丸鶏で仕入れるため希少な部位も並ぶほか、鶏を丸ごと楽しめるコースも人気です。店主自ら生産地に赴いたというブルゴーニュワイン、焼き鳥に合うようメーカーと調整したアウグスビールなど、あらゆる品にこだわりが光ります。それぞれの生産者の思いを大切にした、絶妙な味わいを堪能できます。



ホテル・ココ・グランの1階にドンレミーというアウトレット店があります。ドンレミーは洋菓子工場直営の販売店で、見ためが少し不揃いとか、クレープやロールケーキの切れ端など、味や品質は同じなのに販売することができない商品や店限定の商品など「理由」ありケーキを特別価格で販売しています。特にお得なのは、スポンジの切れ端とかどら焼きの皮とか割れ煎餅とかです。子だくさんの家庭なら、おやつはこれで十分です。私は、北千住が終点のコースを歩く時は必ず立ち寄ってケーキの爆買いをします。



今までは千住宿商店街は「宿場町通り商店街」や「ほんちょう通り商店街」のように通り名で区別されていましたが、2025年11月から千住宿商店街を構成する4商店街で名称を統一し、「千住宿宿場通りゾーン」や「千住宿ほんちょうゾーン」のようにゾーン分けされるようになりました。



北千住駅前通りの手前の路地の入口に、千住宿本陣跡の小さな石碑が建っています。



壁には、千住宿本陣跡の案内板が架けられています。

千住本陣跡とその周辺

この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。

●千住本陣跡(緑色の部分)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。

●明治天皇行在所跡(青色の付近)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。

●千住見番跡(茶色の付近)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。

●丁目境の筋違(赤色の部分)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入をつけていたのですが一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。




明治天皇行在所跡の標識は見つかりませんでした。千住見番跡の標識も見つかりませんでしたが、この路地のどこかにあったのでしょう。



丁目境の筋違は、宿場町通りを挟んだ路地が少しずれていることで分かります。



北千住駅前通りを横断して、ほんちょう商店街に入ります。2020年12月に竣工した「千住ザ・タワー」は、北千住に数少ない30階建ての超高層マンションです。この地には、ダイエーのディスカウントストア「トポス」がありましたが、2016年11月に閉店し、その跡地が再開発されて誕生しました。



千住ザ・タワーの植え込みの中に、森鴎外旧居橘井堂跡の石碑が建っています。



森鴎外の父静男は、明治十二年(1879年)に南足立郡医となり千住に転居し、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、森鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治十四年(1881年)に下宿を引き払って千住に移り住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」に描写されています。その後、三宅坂の東京陸軍病院に勤めることになり、千住から人力車で通勤しました。明治十七年(1884年)にドイツへ留学し、明治二十一年(1888年)に帰国すると千住の実家に戻りました。翌年森鴎外は結婚して根岸に移り、両親も明治二十六年(1893年)に千駄木に移りました。

千住の鴎外碑

翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。(中略)花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が付いた。宿場の医者たるに安んじてゐる父のレジニアションの態 度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。

森鴎外「カズイスチカ」より




その脇に、解説文があります。

森鴎外旧居 橘井堂医院跡

森鴎外(本名、森林太郎)は近代の文豪として知られています。明治十二年(1879年)に父の静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが 大学を卒業した明治十四年(1881年)には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」(臨床記録の意味)に描写されています。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。




千住の地名の由来を記した案内板が立っています。

なるほど! 千住「地名」の由来

「千住」という地名の由来には諸説あります。

@ 嘉暦二年(1327年)、勝専寺の中興開基(支援者)である武士・新井図書政次(あらいずしょまさつぐ)が、荒川(現在は隅田川)で千手観音像を見つけたことにちなみ、「せんじゅ」と呼んだという説。
A 室町幕府八代将軍、足利義政の愛妾(あいしょう)である「千寿の前」の出生地であることに因(ちな)むという説。
B かつて千葉氏が住んでいたので「千葉住村」といったのを、のちに略して「千住」といったという説もあります。

いずれも確かな根拠はありませんが、少なくとも徳川家康の入府以前、永禄二年(1559年)には、千住という地名がすでに使われていたことが「北条氏所領役帳」(国立公文書館蔵)に記されています。




惣菜かざまは、千住ほんちょう商店街の激安惣菜店です。何度かテレビに出たこともあるそうで、何もかも安いです。ただ、お弁当の値段はさすがに値上がりしています。



東京芸術センターは、ほんちょう商店街の外れにある総合施設です。収容人員400名のホールを備え、演劇などの舞台芸術を始め、演奏会やファッションショーなどの芸術活動・シンポジウム・展示会といった多彩なイベントに対応している「天空劇場」や、年間を通して名画の上映を行っている「シネマブルースタジオ」・ミーティングの他、サークル活動や研修会など多目的に利用可能な「会議室・和室」が完備されています。他にも、撮影スタジオとして利用できる「ホワイトスタジオ」・ピアノが設置してある「ピアノラウンジ」・多目的に利用できる「ヨガスタジオ」・レストラン「タピ ルージュ」などの施設もあります。この地には、足立区の前身の千住町時代から庁舎がありましたが、老朽化により、平成八年(1986年)5月に中央本町に移転しました。その跡地に建ったのが東京芸術センターです。



東京芸術センター前の広場に、千住宿問屋場・貫目改所跡の石碑が建っています。

千住宿問屋場・貫目改所跡

旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋場は元禄八年(1695年)に設けられました。また、寛保三年(1743年)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂飛び交ったとの話しもあります。江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。

この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成十二年(2000年)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。




東京芸術センターに隣接して、交差点角に足立成和信用金庫があります。足立成和信用金庫は、平成十四年(2002年)12月16日に足立信用金庫と成和信用金庫が合併して誕生しました。入口の横の壁には、巨大な壁画(パンチングアート)が描かれています。パンチングアートとは、大小のドット(点)を大きさやピッチを調整して鉄板やステンレス板などに大小無数の孔を彩る技術をいいます。

「千住川」

長谷川 雪旦(はせがわ せったん)画
(江戸名所図会より 江戸後期の画家 1778年〜1843年)

荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでおります。当時、千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地で、この辺りは高瀬舟の往来で賑わっておりました。当金庫では創立90周年を記念し、本店新築の際、当時の千住の地の賑わいの様子を描いた「千住川」の絵をパンチングアートとし歴史の伝承をしております。




足立成和信用金庫の店頭に芭蕉像が立っています。

芭蕉像 チェンソーカービング〔材:鹿沼の杉〕

私、松尾芭蕉は、三百三十年前、元禄二年三月二十七日(旧暦)、ここ千住を矢立て初めの地として「おくのほそ道」の旅に出ました。道中三日目、鹿沼に着き、笠を新調して古い笠は光太寺に置いて翌朝日光に向かいました。その笠を供養していただいたお寺の「笠塚」には、私の弟子たちも訪れてくれたようです。鹿沼では、今も毎年五月に「芭蕉の笠替え行事」が行われています。また、私は、鹿沼で「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みましたが、その句碑を屋台のまち中央公園内に建てていただきました。私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。どちらも鹿沼の特産ですが、あの時食べたかどうかは忘れてしまいました。今は、「芭蕉の蕎麦餅」というお菓子や「芭蕉の蕎麦ご膳」というメニューもあるそうです。そして、鹿沼は「木のまち」。この像の素材は鹿沼産の杉、チェンソーアーティスト小林哲二さんにチェンソーだけで彫りだしてもらいました。鹿沼市内にはこのような私の木像が五か所に設置されています。足立区と鹿沼市は友好都市(平成四年提携)です。両区市民のスポーツや文化の交流、企業や団体の交流も盛んになりました。私は三日かかりましたが、今は東武鉄道の特急で三駅目、東北自動車道でも短時間です。自然、グルメ、祭りやイベントなど魅力いっぱいの鹿沼に旅し、芭蕉像にも会いに行ってください。私は、三百三十年ぶりに旅立ちの地に立って、両区市の繁栄と道行く人々の旅の安全を祈っています。




足立成和信用金庫の告知分が貼られています。

足立区初の松尾芭蕉木工像設置について

足立成和信用金庫(本店:東京都足立区、理事長:土屋武司)では、本店を置く北千住が松尾芭蕉「奥の細道」出発の地という由縁と、令和元年は奥の細道紀行330年という記念すべき年でもあること、また、地域活性化(商店街・町会)および地域歴史探求への貢献に寄与できればと考え、鹿沼相互信用金庫・鹿沼市・栃木県集成材協業組合の協力のもと、足立区初の松尾芭蕉木工像(全国10体目の木工像展示)を本店入口に設置し、先日引渡し式を執り行いました。当金庫本店へお越しの際は、是非ご覧ください。

足立区と栃木県鹿沼市(友好自治体都市 1992年10月締結)の関係もあり、足立区に本店所在地を置く当金庫と鹿沼市に本店所在地を置く鹿沼相互信用金庫とは、当金庫後援「千本桜まつり」にて鹿沼相互信用金庫のお取引様に出店していただくなど良好な関係にあります。また、鹿沼市は「木のまち鹿沼」としても有名であり、松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で鹿沼市に一泊した折に詠んだ俳句が句碑となり、市内にも5体の芭蕉木工像(チェンソーアーティスト作)が展示されておりますので、鹿沼市へご訪問の際には是非ご覧ください。




足立成和信用金庫前の交差点向かいに、千住高札場跡の石碑が建っています。ここは千住宿の外れに当たったことから高札場が設置されたのでしょう。



その向かいの歩道の植え込みの端に、「千住一里塚跡」の石碑が立っています。旧日光街道で日本橋から二里目の一里塚が設けられていた場所です。昭和四十九年(1974年)に建立されたそうです。



更に旧日光街道を南下します。千住宿の外側には後に掃部宿も設けられ、千住宿と一体になりました。

千住掃部宿(せんじゅかもんじゅく)

千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(1625年)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、四キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658年)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。名前の由来は慶長三年(1598年)村を拓き、元和二年(1616年)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(1931年)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。




当時の街道図が添えられています。掃部宿の場所の表示はありませんが、高札場から右手の街道筋だったと思われます。尚、江戸時代には荒川放水路は存在しませんでしたので、左端はそのまま街道が延びています。ちなみに、安養院の右手に延びるのは水戸佐倉道、真っ直ぐに延びるのは下妻道、左手に延びる太い道は旧日光街道です。



ポイント2.源長寺

街道図にもある源長寺は、慶長十五年(1610年)に伊奈忠次が開基となって創立されました。寺名は、忠次の戒名「勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士」が由来となっています。しかし、実質的な創建者は千住の開発者であった石出吉胤で、代官頭(後の関東郡代)の忠次に花を持たせる意味で開基の座を譲ったとされています。石出吉胤は、千住開発の功により従五位に任ぜられ、石出家は代々名主を務めることになりました。境内に墓所もあります。

源長寺

浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598年)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610年)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽した郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来である。墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大坂冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。




山門の右手には、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠が残されています。



草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子家が建っています。「筆子家」とは、江戸時代に寺子屋で教えを受けた生徒たちが、師匠の死後にその遺徳を偲んで建立した墓や供養塔を指します。

多坂梅里先生追悼碑

寺子屋の発祥は享保年中(1716年〜1735年)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居し、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法まで全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。梅里先生は、天明九年(1789年)九月二日没した。




ポイント3.墨堤通り

墨堤通りの歩道の脇に、掃部堤跡の石碑が建っています。掃部堤(かもんづつみ)は、江戸時代初期の元和二年(1616年)に石出掃部亮吉胤が新田開発の一環として築かれた堤防です。石出掃部亮吉胤は、かつて小田原の北条氏に仕えていた浪人で、徳川将軍家の呼びかけに応じてこの地に入植し、開拓を行いました。この堤防は、武蔵東部に広がる湿地帯を穀倉地帯として開墾するための治水事業として重要な役割を果たしました。掃部堤が築かれた地域は「掃部新田」と呼ばれ、後に千住掃部宿となり、現在の千住仲町など千住南部一帯にあたります。掃部宿は万治元年(1658年)に千住宿に編入され、有力商人が集まる繁栄した町でした。掃部堤は現在の墨堤通りに相当し、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 隅田川関屋の里」にも描かれています。この絵は、当時の掃部堤が交通路としても利用されていたことを示しています。



墨堤通りは、墨田区吾妻橋の浅草通りと清澄通りの交差点から、足立区千住桜木の尾竹橋通りの千住桜木町交差点に至る延長7kmの都道です。墨堤通りの起点付近には墨田区役所があり、隅田川沿いに北上して、京成関屋駅や牛田駅、千住大橋駅の前を通って、西新井橋の手前で終点になります。起終点付近は往復2車線ですが、向島付近から日光街道の交点までは4〜6車線の道路です。



墨堤通りに面して区立の千住仲町公園があります。



面積3、240平方メートルの敷地の中央には、噴水広場が設けられています。広場を取り囲むように様々な遊具が点在しています。園内には数多くのサクラの木が植えられていて、毎年桜の季節には絶好のお花見のスポットとなっています。桜の花に続いて、足立区の花となっているチューリップの花を見ることもできます。



公園の入口の脇に、葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景で千住地域を画題にした3枚のうちの1枚「隅田川関屋の里」の顕彰碑が立っています。オランダ商館の医師としてシーボルトが来日した当時、日本の絵師は幕府の許可なしに外国人のために絵を創作することは国禁になっていましたが、葛飾北斎(1760年〜1849年)は文政九年(1826年)に「日本風俗画」15枚を描きました。シーボルトは出版した自著「Nippon」の挿図に「北斎漫画」の図柄を用いました。1867年のパリ万国博覧会で浮世絵が紹介され、その奇抜で動的な構図・軽妙な人物の動き・その表情・衣装描写の精緻さがヨーロッパの芸術家たちに驚愕を与えました。北斎に影響を受けた画家には、ビンセント・ヴァン・ゴッホやエドガー・ドガなどがいて、ドガは「北斎漫画」を参考にした人物像を描いています。また、アンリ・リヴィエールは、「冨嶽三十六景」に触発されて「エッフェル塔三十六景」を描きました。音楽家のクロード・ドビュッシーも「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。このようにしてヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた北斎は、世界的に評価が高く、1960年にはウィーンで開催された世界平和評議会において、世界の文化巨匠として顕彰され、また、1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」で「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」として、日本人でただ一人選ばれています。

冨嶽三十六景
「隅田川関屋の里」
千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760年〜1849年)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いて(い)ます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。




「掃部宿」を冠した施設名があります。今でも江戸時代の痕跡が残っているんですね。



外壁に様々な種類のネジのイラストが描かれている建物があります。「ネジの高瀬」と呼称する高瀬工業の事業所らしいです。会社の詳細は分かりませんが、たかがネジ、されどネジですね。



JR線のアンダーパスを潜った先に、ピザ店があります。「AD’ACCHIO(アダッキオ)」は、天然酵母で作るこだわりの生地とイタリアから運んだ薪窯で焼き上げるナポリピッツァ、それに小粋な南イタリア料理が味わえる一軒家のピッツェリア&トラットリアのお店です。



京成関屋駅と墨堤通りを挟んだ反対側に広大な空き地があります。千住大川端地区開発計画は、足立区関屋町に建設される地上29階〜地上38階・高さ105m〜約140m・総戸数約2、100戸・4棟構成の超高層タワーマンション群です。立地は、南側を隅田川、北側を京成本線に挟まれたフットサル場やカート場・タクシー営業所などからなる東京製鉄の「アメージングスクエア」跡地に位置しています。この再開発計画では、土地利用転換により道路などの都市基盤の整備と合わせて、環境にやさしく多様な住宅を中心とした住商複合の市街地を形成することを目指しています。また、スーパー堤防や土地の高度利用によるオープンスペースの整備により地域の防災性向上を図り、隅田川の水辺の潤いと緑豊かな魅力ある市街地環境を創出することを目標にしています。



ポイント4.関屋駅

京成電鉄本線の京成関屋駅は、昭和六年(1931年)に開設されました。東武鉄道伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の牛田駅と道路を挟んで向かい合っていて、連絡運輸が行われている連絡駅となっています。所在地は千住曙町ですが、駅名は隣接する千住関屋町に由来しているものと思われます。



京成関屋駅と堀切菖蒲園の間には、荒川に架かる荒川橋梁があります。



荒川橋梁は周辺の長年の地盤沈下により、荒川の増水時には鉄橋スレスレまで水が迫っていました。この問題を抜本的に解決すべく、荒川で最大の弱点だった京成本線荒川橋梁の架け替え工事が始まっています。令和元年(2019年)10月の台風第19号による増水で、荒川橋梁の線路のスレスレまで水が迫りました。この箇所は線路を通すために堤防が一段低くなっていますので、ここが決壊すると東京の東部一帯は水没してしまうのです。現在は、暫定措置として、周辺の堤防の高さに比べて低い堤防部分に特殊堤(パラペット)が設置されています。架け替え工事の施工手順は複雑で、完成までに10年近くかかるそうです。

令和元年東日本台風時の状況

■戦後最大雨量(3日間流域平均)を記録した令和元年東日本台風による洪水では、
 ピーク時の水位が橋梁の桁下高まで、あと約1.2mの高さまで上昇しました。
■これを契機として、足立区・葛飾区は、「京成本線荒川橋梁に関する水防協議会」を設置し、
 令和二年7月以降、継続して水防訓練を実施しています。

京成本線荒川橋梁架替事業(事業概要)

京成本線荒川橋梁周辺の堤防高さ
■京成本線荒川橋梁は、荒川放水路の開削工事の際に架設されました。その後、広域的な地盤沈下が発生したため、
 対策として堤防のかさ上げを行いましたが、橋梁及び周辺の堤防の高さは低いままとなっています。
■現在、橋梁の桁下高は周辺の堤防の高さに対して約3.7m低く危険な状態となっています。
■事業の目的は、洪水を安全に流下させるために堤防をかさ上げすることで、堤防のかさ上げに支障な京成本線
 荒川橋梁及び綾瀬川橋梁の架替工事を行うものです。

事業期間・事業範囲・総事業費

■荒川の河口から10.67kmに位置する京成本線荒川橋梁は、昭和六年に架設され、
 東京都の京成上野駅と世界の玄関口である千葉県の成田空港を結ぶ重要な路線であり、
 京成電鉄全体では年間延べ約29、300万人(2019年度実績)が利用しています。
■橋梁の高さが低く、洪水の安全な流下の阻害となっている京成本線荒川橋梁を約15m上流に架け替えします。
■新橋に切替えた後、現橋の橋台を撤去し、周辺の堤防の高さに比べ低い堤防のかさ上げ・拡幅を行います。
■新橋への架替えに伴い、京成関屋駅から堀切菖蒲園駅までのアプローチ部の改良も行います。
■令和五年2月1日時点の買収部分における用地取得率は、約80%です。




最終的にはこのようなイメージになるそうです。鉄橋の位置が上流側にずれることで、接続する線路の軌道も変えなくてはならず、工事もさることながら土地の買収も大変なことと察します。



ポイント5.曙町公園

墨堤通りから住宅地の路地を入った先に、千住曙町公園があります。道路を挟んで別々の公園のようにも見えますが、ひとつの公園です。



東側の敷地は緑が豊かで、春になると園内の木々の葉が生い茂り、日陰スペースがたくさんできます。大きな広場と健康器具があり、健康器具では3種類のストレッチ運動を行なうことが出来ます。



西側の敷地には、ブランコやすべり台などの遊具があります。トイレはありませんが、水道がありますので泥で汚れても帰る前に手を洗うことができます。



ポイント6.東京未来大学

千住曙町公園の先に東京未来大学があります。東京未来大学は2007年に開学し、「心理学」を幅広く学び、保育士や心理スペシャリストを目指せる4年制の私立大学です。足立区の中学校統合に伴い、2004年度をもって廃校になった区立第二中学校の校舎を改修・増設して利用しています。第二中学校の校舎は、テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズの舞台である「桜中学校」のロケ地として使われました。



開学時には「こども心理学部」のみでしたが、2012年に「モチベーション行動科学部」が開設されました。名誉学長に、2016年に亡くなった心理学の分野で知られた多湖輝氏が就任していました。



ポイント7.堀切駅

東京未来大学の裏手に堀切駅があります。東武スカイツリーラインの堀切駅は「相対式ホーム」になっています。相対式ホームとは、複線区間で2つの線路の両側にホームが配置され、それぞれが向かいあっているものをいいます。堀切駅の場合は、荒川の土手側に東口があり、跨線橋を渡った西側に西口があります。



隅田川と荒川を繋ぐ隅田水門があります。



現在の隅田川は、かつては荒川の本流でした。明治四十四年(1911年)から昭和五年(1930年)にかけて、洪水であふれた水を安全に流すために荒川放水路が新しく造られ、北区岩淵水門から下流を隅田川と称するようになりました。隅田水門は、堀切橋のすぐ下流にあり、旧綾瀬川と荒川の合流点に位置しています。普段は隅田川に通じる舟運に利用され、増水時は水門を閉め、東京への水害を防止する役割を果たしています。大正十三年(1924年)に竣工し、今でも現役の水門として活躍しています。

隅田水門

増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。

荒川が放水路として人工的につくられるまで、このあたりは旧綾瀬川が隅田川に合流する場所でした。旧隅田水門は、荒川と隅田川を往来する舟運の要衝として大正十三年(1924年)に建設されました。現在の隅田水門は昭和四十四年(1969年)に改築されたもので、今も多くの船が行き来しています。

●完成年:    昭和四十四年(1969年)
●場所:     東京都墨田区墨田地先
●ゲートの大きさ:高さ8.35mx幅10.0mx1門(たたみ約50畳分)
●ゲートの重さ: 34トン
●ゲート開閉時間:約10分
●操作水位:   荒川水位A.P.+2.15mで隅田川へ流入したとき
         (荒川平常時水位より約0.9m上昇したとき)

A.P.:「Arakawa Peil」の略。東京湾岸島にある量水標の位を基準とした基本水準面のことで、
     荒川などが水位の基準として採用しています。標高(T.P.)0mのとき、A.P.+1.134mとなります。




ポイント8.多聞寺

堀切駅から東武スカイツリーラインの線路に沿って進み、曲がりくねった細い路地を抜けて多聞寺に着きます。多聞寺は、天徳年間(957年〜961年)に創建され、当初は現在の隅田川神社付近に位置し、「大鏡山明王院隅田寺」と称し、本尊は不動明王でした。天正年間(1573年〜1593年)に、当時の住職だった鑁海によって現在地に移され、「隅田山吉祥院多聞寺」に改称し、本尊も毘沙門天に変更されました。多聞寺は墨田区内の最北端にあり、関東大震災や戦災で被害を免れたため、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残りです。



多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804年〜1818年)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月期間中は七福神巡りで賑わいます。

隅田川七福神コース案内板
多聞寺 毘沙門天

多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。




山門右側にある「毘沙門天」の案内碑は、当時向島に在住していた榎本武揚の筆によるものです。



多聞寺の山門は木造茅葺切妻造四脚門の様式をとり、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、墨田区内最古の建造物と考えられています。享保三年(1718年)に焼失し、現在の山門はその後に再建されました。

墨田区指定有形文化財
多聞寺山門

多聞寺山門は、木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二年(1649年)の建立後、享保三年(1718年)二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(1803年)二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代は十八世紀を降らない、との判断が得られています。これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています(ただし後年幾度か改修が行われています)。多聞寺山門は、このように、建立年代が江戸時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。

注記:
山号額「隅田山」(正法金對書)の裏に「明和九辰三月吉日造営」、「現住法印興應代」、「願主 瀧澤逸平 規知」と刻まれています。このため、現存する山門を明和九年(1772年)の造営物と見る説もあります。

Tamonji-Sanmon

Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a gabled thatched roof. It is thought to have been built in around the middle of 18th century, and is a precious cultural asset that preserves traditional Japanese architectural techniques to the present day.




お寺の案内板には、注記の方を採用しているみたいです。

多聞寺の山門

山門中央の「隅田山」と記された山号額の裏に「明和九年」(1772年)と彫られており、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれる形式の門です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったことが察せられます。その後、享和三年(1803年)の火災、安政二年(1855年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、排仏毀釈、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆(人間自身が作り出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えてきました。これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。




山門を入った右手に六地蔵が並んでいます。六地蔵とは、六道の思想に基づいて地蔵菩薩の像を6体並べて祀ったものです。

<墨田区登録文化財>
六地蔵坐像

この六地蔵像は総高約150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。欠損や修復の跡がみられますが、僧覚誉理慶(利慶)が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安樂を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。隅田村地蔵講中の数年間にわたる作善行為を知り得る、貴重な資料といえます。六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713年)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(1716年)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。




その手前には、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨や平成三年(1991年)に西日暮里で発見された戦災樹木が屋外展示されています。



浅草国際劇場の鉄骨です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨

昭和二十年(1945年)3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は”炎の夜”と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)。この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的”証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖が戦争の実相を伝える”証人たち”に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。




戦災樹木です。焼損した樹木の展示は珍しいですね。

戦災の証言者

パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための掘削により発見されました。東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。

Monument of World War II

The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Mikawashima) (former address 4-3420, 3421 Arakawa-ku (former address where the construction of a new building had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of Pearl Harbor, the 46th year from the end of World War II. There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945. Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from 11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 a.m. April 14, 1945. The bombs dropped were high quality bombs, 81.9t and The damaged area spread 139 places incendiaries 2037.7t containing Nishinippori. This an appeal for precious life. tree that was burnt in the war makes Now we should try to build a peaceful country forever under the peaceful constitution.




多聞寺には狸に纏わる伝承があることから、「たぬき寺」とも呼ばれています。境内の左手には、悪さをした化け狸を葬った狸塚があります。案内板によれば、江戸時代以前は多聞寺のある辺りは草木の生い茂る河原で、毒蛇や「牛松」という大木の根元の穴に住み着いた妖怪狸など多数の妖怪がいる恐ろしい場所でした。そこで、鑁海和尚はその穴を塞ぎ、寺院を建立して妖怪を追い払うことにしましたが、化け狸の悪戯は酷くなるばかりでした。ある晩、和尚の夢に大入道が現れ、手を引くよう脅しました。そこで和尚が一心に本尊を拝むと、毘沙門天の使いが妖怪狸の前に現れ、説得を試みました。次の朝、二匹の狸が門前で死んでいるのを見つけた和尚と村人は彼らを哀れみ、牛松や狸の供養のために塚を築いたということです。

狸塚のいわれ

むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また、「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪理がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどろくような大入道があらわれて、
「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと村人を食ってしまうぞ。」
とおどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心に御本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。
「おまえの悪行は、いつかおまえをほろばすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった狸への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。




多聞寺に隣接して隅田香取神社があります。隅田香取神社は、隅田川神社の分社として、大神輿が保管されています。



左が大神輿、右が中神輿のようです。小さな神社ですが、立派な神輿ですね。水神社と書かれたプレートが付けられていますが、水神社は隅田川の総鎮守とされる隅田川神社のことです。神輿庫はお正月に開帳されるようで、ラッキーでした。



隅田香取神社から道なりに進みますと、鐘ヶ淵通り出ます。交差点の手前に円徳寺があります。円徳寺は曹洞宗の寺院で、駒込吉祥寺13世離北良重和尚が慶長十八年(1613年)に開山したと伝えられています。山門が朱色で塗られているため、赤門寺とも呼ばれています。



境内には、寛文十二年(1672年)銘の庚申供養塔があります。三猿を彫り出した台座に舟形光背を持つ庚申阿弥陀立像は墨田区の指定文化財です。

<墨田区登録文化財>
庚申塔(寛文十二年十一月一日銘)

十干十二支で庚申は六十日に一度めぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴して供養し、一夜を寝ずに明かす行事を「庚申待」という。人の身中に潜む三尸という虫がこの夜の眠っている間に抜け出し、人界での諸悪を天帝に告げるため、人は寿命を縮めるとされている。近隣の者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑したりして夜明けを待つ。また、この夜は村人にとっては数少ない楽しみのひとつでもあった。この庚申塔は区内でもかなり大きなものであり、舟型光背・蓮華座に釈迦如来像を配し、台座にも三猿を彫出していて、優品に属する。銘を「寛文十二壬子歳十一月一日 奉造立庚申待供養現当二世安樂所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田村の有力者名が二十七名も彫られており、多数の村人たちが結集し、信心の証しとして造立したことがわかる。




交差点を渡った先の墨田二丁目交差点で、古代東海道と鎌倉街道下の道が交差していました。古代東海道は鐘ヶ淵駅の西口前から分岐してこの交差点に繋がっていたのです。

武蔵・下総を結んだ古代東海道

東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九〜十世紀と想定されます。「大日本地名辞書」に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880年)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また、葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和二年(835年)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが「伊勢物語」東下りの場面です。在原業平が「名にしほは いざ事とはむ宮こ鳥 わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。




交差点を直進して鎌倉街道に入ります。正福寺は、慶長七年(1602年)に宥盛によって開山されました。歴代住職の中に猫好きがいて、多くの猫を飼っていたことから「猫寺」と呼ばれていました。



正福寺の門前に「首塚」と呼ばれる祠があります。



天保四年(1833年)に隅田川の浚渫工事をした際、多くの人骨が発見されました。とりわけ頭蓋骨が多かったことから、葬った所を「首塚」と呼ぶようになりました。それから、首から上の部分の病気を治すご利益があるといわれるようになったそうです。これらの人骨の由来は謎ですが、正福寺によると「南北朝時代からの戦死者の頭骨を葬った」とのことです。

首塚地蔵尊

天保四年(1833年)、洪水の危険を防ぐための隅田川橋場附近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬し、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。

このお堂は、真言宗中興の祖興教大師(覚鑁上人)八百五十年御遠忌(平成四年十二月十二日)記念事業の一環として、平成二年八月檀信徒一同により再建、奉納されたものである。




こぶし児童遊園の中にタイル絵があります。絵の内容からして、梅若丸の伝説を描いたものと思われます。



墨堤通りに面した梅若公園に案内板が立っています。

東京都指定旧跡
梅若塚

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています。

Historic Places
Umewakazuka (The Mound of Umewaka)

Umewakazuka is said to be a grave of Umewakamaru, who is known for a Noh song "Sumida River" concerns to his legend. According to this legend, Umewakamaru was an orphan of Yoshida Shosho Korefusa. Studying in Mount Hiei, he was kidnapped by a slave-dealer Shinobuno Tota. On the way Tota took him to Oshu (present Tohoku region), Umewakamaru got sick and died on the bank of Sumida River. A high monk of Tendai Sect, Chuen, felt a pity for his death and buried him in a mound. This is said to be the mound of Umewaka. Mokuboji Temple is originated from Sumidain Umewakadera Temple which was built beside the mound made by Chuen. Mokuboji Temple and the mound had been located around here, but were both moved to the current place due to the construction of the disaster prevention facilities.




案内碑もあります。

梅若塚

梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たつね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

Umewakazuka
(The Mound of Umewaka)

Umewakazuka is said to be the grave of Umewakamaru, a legendary figure known from the Noh song "Sumida-gawa" (Sumida River). According to legend, Umewakamaru was the child of Yoshida Shosho Korefusa of Kitashirakawa in Kyoto. While training at Mount Hiei, he was kidnapped by a slaver named Shinobuno Tota, who tried to take him to Oshu (in modern Iwate Prefecture in northern Japan). Along the way, Umewakamaru became very ill and died on the banks of the Sumida River. Saddened by this death, high monk Chuen of the Tendai school of Buddhism built this grave, Umewakazuka.

「梅若塚と木母寺」

木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀塚」

妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。

「梅若権現御縁起」

「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝七年(1679年)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵しており、展示されています。

「隅田川物」

謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。




鎌倉街道から墨堤通りに出ます。現在の墨堤通りは、かっての古代東海道の「下の道」でした。

下の道

承和二年(835年)の太政官符に「武蔵国下総両国境、住田河四艘・・・」の記載がみられます。住田渡(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正三年(1914年)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。




白鬚橋東詰交差点の北東側にレストラン「カタヤマ」があります。レストラン「カタヤマ」は、墨田区でステーキといえばこのお店の名前が必ず出てくると言っても過言ではない、墨堤通り沿いに位置する庶民的な洋食屋さんです。こちらのお店は主に前沢牛とオージービーフのステーキを中心にしているのですが、かなりお手頃な価格で美味しいステーキが味わえます。なので家族連れも多く、店内はいつも賑わっています。その為、休日に来店する際は多少待つことになります。でも、外で待つのではなく、お店の隣に待合用のスペースが用意されていますので大丈夫。お肉は国産かオージー、それぞれ4段階から選ぶことが出来ます。こちらのお店はステーキの美味しさを追求した結果、駄敏丁カット(ダビンチョウカット)というカット方法を考案し特許まで取得しているそうです。駄敏丁カットとは、下処理した肉を棒状に切断後、筋や余分な脂肪を取り除き、分厚くても柔らかい肉を形成するためのカット方式なんだそうです。



ポイント9.白髭神社

白鬚橋東詰交差点を渡り、更に墨堤通りを進んだ先に白鬚神社があります。



白鬚神社は、天暦五年(951年)に慈恵大師が近江国の琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祀ったことが始まりとなっています。主祭神は猿田彦命で、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として人気です。白鬚神社は、かつては白鬚の森と呼ばれた緑の美しい場所にあり、向島八景・隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人・文化人の詩碑や墓碑などが数多く残されています。

白鬚神社

祭神 猿田彦大神
   天照大御神  高皇産霊神
   神皇産霊神  大宮能売神
   豊由気大神  健御名方神

由緒
天暦五年(西暦951年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髪の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。




白鬚神社は旧寺島村の鎮守で、隅田川七福神の寿老神(寿老人)を祀っていることでも知られています。お正月には初詣と合わせて、江戸時代新春の行楽「隅田川七福神めぐり」も行われています。



寿老神様は拝めませんでしたが、案内板が立っています。

白鬚神社 寿老神

白鬚神社は往古の寺島村の鎮守であって、祭神を昔風に平たく申し上げると白鬚大明神である。江戸時代の終りに近く、町人文化が全盛の時期、当村の百花園に集っては風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近縁の寺社に寿老人が見つからない。そこで機知を働かせ、鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生したわけである。寿老神は、人びとの安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されている。




お正月には、大神輿が開帳されます。毎年六月第一週週末に白鬚神社の例大祭が行なわれますが、三年に一度の「ほんまつり」には本社神輿「拾参番」が町内を巡幸します。白鬚神社の大神輿の屋根には「拾参番」と書かれた札(駒札)が掛けられ、小神輿には「八番」と書かれた札が掛けられています。この番号は、旧寺島村内の白鬚神社・高木神社・長浦神社の三神社が合同で神輿渡御をした時代の並ぶ順位を示した印です。当初は三神社で合計十三基の神輿でしたので、最後を渡御する白鬚神社の大神輿は必然的に「十三番」の札を掛けることとなり、以来「拾参番」と呼ばれています。また子供神輿は八基で、やはり最後を渡御することから、小神輿は「八番」の札を掛けるようになりました。



境内には多くの石碑が建っています。富士塚はありませんが、向島の冨士講について記した案内板が立っています。

<墨田区登録文化財>
山玉向島講社の碑

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年(1875年)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922年)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。




「黒人塚」と書かれた供養塔が建っています。てっきり、向島に住んでいた黒人のお墓かと思いましたが、実際は日本人の石碑だそうです。「塚」は墓の意味で使われることもある言葉で、アフリカ系の黒人の墓ではないかと憶測されましたが、実際は「黒人」と号した日本人のものです。浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で、本名を斯波孟雅といいました。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたといわれています。応募者は入花料を収め、この塚は歌碑とのことです。享保から寛政までを生き、色黒でお歯黒までしていて、昔の本にはしばしば名前が出てきます。



鷲津毅堂の碑があり、毅堂の業績が刻まれています。鷲津毅堂は幕末・明治の漢学者です。文政八年(1825年)に尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父・祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。20歳の頃に江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853年)に久留米藩に仕え、次いで尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられて国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868年)に朝廷より権弁事を任ぜられ、明治二年(1869年)に大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事・司法少記官・東京学士会々員に列するなど、明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882年)に司法権大書記官となりますが、同年10月5日に58歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美・撰文は三島毅・書は巌谷一六によります。

鷲津毅堂之碑

この石碑は、幕末から明治にかけて活躍した官僚、鷲津毅堂(1825年〜1882年)の事績を称えるために建立されました。太政大臣三條実美によって書かれた立派な篆額を掲げています。明治十六年(1883年)10月の紀年銘によれば、碑文は当時東京大学教授であった三島中洲が執筆し、修史館監事の巖谷一六が浄書しました。碑文彫刻は、井亀泉こと酒井八右衛門によるものです。碑文によれば、毅堂は尾張国丹羽郡丹羽村(現愛知県一宮市)出身の郷士で、二十歳の頃に父親を亡くしたことから、家の再興を熱願した母親の希望に沿い、伊勢の著名な儒学者であった猪飼敬所に学びました。そして、後に江戸へ出て幕府の学問所(昌平黌)に学び、嘉永六年(1853年)に久留里藩(現千葉県君津市)に出仕しました。また、その後は尾張藩に仕官し、藩学明倫堂の督学(学事監督)を務めたほか、藩主徳川慶勝の側近くに仕えて激動の時期の藩政を支えました。そして、維新に際して藩より推薦を受けて新政府に出仕し、その後は文部省や司法省などに勤めました。永井荷風の外祖父としても知られています。




この地方の名産に、寺島ナスがありました。

江戸・東京の農業 寺島ナス

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688年〜1704年)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。享保二十年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(野菜の意味)とす。」また、文政十一年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)

Terajima village around this Shirahige Shrine was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as 'Terajima Nasu'. Farmers shipped their products by boats to the markets of Senju, Honjo-Yotsume and Kanda, etc.




白髭神社の隣に北斎の案内板が立っています。今戸の瓦焼きの様子と対岸の白髭明神社の鎮守の森が描かれています。現在の場所とは反対の視点です。

白髭の(きじ)松 今戸の夕烟 −絵本隅田川両岸一覧−

「絵本隅田川両岸一覧」は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリーズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白髭明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40〜47歳頃の作品です。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River Third Volume
(Total of Three Volumes): Shirahige no Kijimatsu Imado no Yu-Keburi

The Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River is a series of comical tanka prints consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the Sumida River from Takanawa to Yoshiwara, and this print comes from the third volume. The right-hand side of the print shows roof slates being fired under an autumn sunset in Imado (currently Imado, Taito-ku), as well as two people carrying the slates while conversing and a boat loaded with slates. A copse of trees around the Shirahige Myojin Shrine (currently the Shirahige Shrine), which is known for its scenic beauty, can be seen in the distance, and the movement of a white egret on the right-hand side provides an accent. Katsushika Hokusai created this print between the age of 40 and 47.




案内板の近くに、西川春洞の案内板が立っています。西川春洞は、明治時代から大正時代にかけて活躍した江戸生まれの書家で、漢魏六朝を始め各体に抜きんで、その門に学ぶ者は2、000名といわれました。明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁したのは日下部鳴鶴ですが、これに拮抗する唯一の大きな系列を形成したのが春洞です。今日の漢字書道界の基礎はほとんどこの2人の系列を中心につくられました。春洞の代表的な門弟は、諸井春畦・諸井華畦・武田霞洞・安本春湖・花房雲山・中村春坡・豊道春海で、春洞門七福神と称されました。

西川春洞・寧住居跡

西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年(1847年)日本橋の家で生まれました。幼い頃、書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地(寺島村1207番)に居を構え、多くの弟子を養成しました。春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。春洞の息子寧は、明治三十五年ここに生まれ、寺島小学校(現第一寺島小学校)に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に書家として初めて文化勲章を受賞しました。平成元年五月目黒区中町で没しました。

(なお、住居跡は階段下約三十メートル先の右側の辺りです)




ポイント10.向島百花園

向島百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804年〜1830年)に造られた庭園です。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢で、交遊のあった江戸の文人・墨客の協力を得て、旗本多賀氏の元屋敷跡である向島の地に花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。開園当初は360本のウメの木が主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどでした。その後、ミヤギノハギや筑波のススキなど、詩経や万葉集などの中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものといわれています。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で文人趣味豊かな庭として小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。昭和五十三年10月には、文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。早春の梅・水仙・福寿草から始まり、春・夏・秋の山野草、秋の萩など四季それぞれの花の野趣に満ちた庭園で、園内では季節に応じて春の七草・大輪朝顔展・虫ききの会・月見の会などが催され、日本の四季の風情を味わえます。2022年に訪れた時はコロナ禍で閉園していましたが、2026年に再訪した時は再開されていました。

向島百花園

江戸の町人文化が花開いた文化・文政(1804年〜1830年)、骨董商を営んでいた佐原鞠塢は、交友のあった江戸の文人墨客の協力を得て、当園を創設しました。開園当初には多くの梅が植えられ、その後、詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲く草庭となりました。百花園とは、一説では「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとされます。昭和十三年(1938年)、東京市に寄付され、翌年公開が開始されました。昭和二十年(1945年)の空襲では甚大な被害を受けましたが、昭和二十四年(1949年)に復旧しました。昭和五十三年(1978年)10月に、国の名勝及び史跡の指定を受けました。向島百花園は、庶民的で文人趣味豊かな庭として、江戸時代より今日まで受け継がれてきた花園です。

Mukojima-Hyakkaen Gardens

In the Bunka-Bunsei Period (1804-1830), when the cultural lives of the townspeople of Edo began to thrive, Sahara Kikuu, a wealthy antiques dealer, established this garden with the help of other aficionados of the arts. When the garden first opened, its main feature was its many ume, or Japanese plum, trees. In later years, many different flowers and plants mentioned in classic Chinese and Japanese works of literature and poetry were collected, enabling visitors to enjoy their blooms throughout the year. One theory is that the name "Hyakkaen" was chosen to mean " a garden with a hundred flowers that bloom throughout the four seasons". In 1938, the owner donated the garden to the City of Tokyo, and it was officially opened to the public in 1939. The garden sustained major damage in the air raids of 1945 but was restored in 1949. In October 1978, it was designated by the national government as a place of scenic beauty and historical significance. Mukojima-Hyakkaen Gardens have been passed down from the Edo era to the present day as a garden with the common touch and a rich sense of the men of letters ho helped build it.




入口の前に巨大な石碑が建っています。

東京市碑
向島百花園来由の碑

名勝向島百花園ハ文化元年佐原鞠塢ノ開創スル所ニシテ風流文雅・名所トシテ聞ユルコト久シ鞠塢ハ仙臺ノ人江戸ニ出テテ骨董商ヲ営ミ北野屋平兵衛ト称ス性園圃ノ枝ニ通シ文墨ノ才ニ富メリ晩年産ヲ治メ寺島村多賀氏ノ舊地三千餘坪ヲ購ヒテ閑居スルヤ自ラ鋤鍬ノ労ヲ執リ文苑ノ名士ト胥諮リテ梅樹竝ニ四季百花ノ粹ヲ蒐メ詩韻豊力ナル花園トナス春夏秋冬花開カサルナク東西南北客争ヒ来リ花屋敷百花園ノ名普ク世ニ布クニ至レリ然ルニ明治以来(しばしば)出水ノ厄ニ羅リ園景遂ニ荒廃ニ瀕スルヤ故小倉常吉氏ハ深ク之ヲ惜ミ大正ノ初資ヲ投シテ園地ヲ収メ舊景ヲ保存シ他日公開ノ意図ヲ有セラレシヤ不幸易簀セラレタルヲ以テ未亡人小倉乃?刀自ハ其意思ヲ継承シ昭和十三年十月園地一切ヲ挙ケテ東京市ニ寄附セラレタリ本市ハ寄贈者ノ芳志ヲ體スルト共ニ曩ニ昭和八年史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ指定セラレタル本園保存ノ趣旨ニ遵ヒ鋭意之カ復讐ヲ図り今ヤ公開ヲ見ルニ際シ茲ニ其来由ヲ記シ以テ後世ニ傳フ




向島百花園には隅田川七福神のうち福禄寿があり、江戸の昔から谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、年の始めの七福神巡りが恒例の行事になっています。

隅田川七福神

文化元年(1804年)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでたい数字とされている。七難即減、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれてある。




正門を入った先に庭門があります。庭門の扁額は蜀山人による揮毫で、門柱には大窪詩仏が書いた「春夏秋冬花不断」と「東西南北客争来」の聯があります。



福禄寿尊は園内の小さな祠に祀られています。福禄寿は、道教で強く希求される3種の願い:幸福(漠然とした幸福全般のことではなく、血の繋がった実の子に恵まれること)・封禄(財産のこと)・長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものです。宋の道士・天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされます。容姿は、背が低く長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている姿とされています。



福禄寿という桜の品種もあるそうです。福禄寿は、荒川堤で栽培されていたサトザクラ系の代表的品種で、七福神の中の福禄寿の名前を持つたいへん縁起の良い桜です。 花はピンク〜淡紅色の八重咲きで大輪、花弁がねじれたように波打ち、房状にまとまって咲くため優美な雰囲気を醸し出します。4月上旬に開花します。



園内には多くの句碑や歌碑が建てられています。芭蕉の俳句の意味は、「長い冬が過ぎ去って、梅が咲き始めた。それだけでも十分春を喜ぶのだが、加えて月も出た。これで早春の役者は十分に揃ったのである。」と、おだやかな季節の移り変わりをゆったりと表現したものです。尚、「はせを」とは芭蕉の署名で、本来ならば「ばせう」と書くところ、「仮名遣いのルール」よりも、美意識・言葉の美しさ・句としての姿・自己のセンスを優先したのだと考えられています。

芭蕉 「春もやや」の句碑

春もやや けしきととのう 月と梅      はせを




山上臣憶良の歌碑には、秋の七草を詠んだ2首が書かれています。秋の七草を現代風に書くと、「ハギ(萩)、オバナ(尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)」となります。最後の「朝貌」には諸説あります。そのまま読めば「アサガオ」ですが、さすがに季節に難があります。他にムクゲ、ヒルガオなどの説もありますが、一般には「キキョウ」とされています。この秋の七草は、春の七草と違って「食べる」ものではありません。野花が咲き乱れる野を散策して、目で楽しみ、それをまた歌に詠んだりして楽しむ。そういう中で「これぞ」と山上憶良がとりあげたのがこの七つの野花で、いわば「鑑賞」と思ったらいいでしょう。

秋の七草 山上臣憶良

其の一 秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数うれば 七種(ななくさ)の花
    (秋の野に咲いている花を指を折って数えると次の七種類の花が美しい。)

其の二 芽(はぎ)の花 乎花葛花(をばなくずばな) 嬰麦(なでしこ)の花 
       姫部志(をみなへし) また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花

註 朝貌の花については、諸説があり、今日のききょう、むくげ、ひるがお、あさがお等があげられている。




ちなみに、春の七草と夏の七草も植えられています。

春の七草には、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろがあります。

夏の七草には、きく、ききょう、蓮、おみないし、しますすき、小車煎翁があります。他にもいろいろありますが。



春の七草が籠に植えられています。松の内が明ければ、七草粥で食しますね。



園内の東側奥には細長い池があります。池の一画にはハナショウブなどの花が咲き、夏にはハンゲショウなども楽しめます。



園内には沢山の石碑が建っています。「しのぶ塚」は、初代河竹新七を追善したものです。

しのぶ塚

隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。




「きょうげん塚」は、二代河竹新七を追善した碑です。

きょうげん塚

二世河竹新七、俳名に基水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を超えて明治二十五年の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。




向島百花園の藤棚は規模は小さいですが、よく知られています。藤は5月上旬頃に棚全体に花房が下がり、見頃を迎えます。「萩のトンネル」は初秋を彩る向島百花園の名物で、全長約30メートルには紅白の「ミヤギノハギ」と「シロバナハギ」の2種類のハギが咲き誇ります。



地蔵坂通りの名称は、墨堤通りとの分岐点に子育地蔵堂があることに因んでいます。



子育地蔵堂建立の経緯が案内板に書かれています。

子育地蔵堂

この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804年〜1818年)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(1832年)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。御堂前の坂は、明治四十四年(1911年)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。昭和八年(1933年)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。




左側の写真の庚申塔の左隣の石碑が「子育地蔵尊御由来」碑です。右側の写真の細長い石柱が「子育地蔵尊御堂建立百年御忌供養塔」です。



墨堤通りから地蔵坂通りが分岐する交差点の角に、“日本一のきびだんご”の看板を掛けた「吉備子屋」があります。きびだんごの専門店で、茶屋風の店内に置かれたリアカーで作られたビー玉大の団子は、注文をしてから串に刺さったきびだんごを茹でてきな粉をまぶしてくれます。栄養価の高いタカきびで作られた団子はとてもやわらかで、お店特製のきな粉がたっぷりとかけられた団子は優しい味わいでほっこりします。お店で食べていくことも、お持ち帰りすることもできます。私は観ていませんが、「孤独のグルメ」にも登場したそうです。昔話の「桃太郎」を読んだ息子さんの「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたそうです。



墨堤通りに面して、「志”満ん草餅(じまんくさもち)」のお店があります。東京の草餅といえば「志”満ん草餅」と言われるくらい知られ、明治二年(1869年)に隅田川の渡船場横で茶店として創業した当時は墨堤のよもぎを手摘みして草餅を作っていたそうです。時代が進むと衛生面からしっかり管理・栽培されたよもぎを使うようになりましたが、東日本大震災後に福島などのよもぎが手に入らなくなり、さらに気候の変化からよもぎが取れない地域が出てきたそうです。現在では主に北海道からよもぎを取り寄せていますが、よもぎは傷みやすいので、収穫後すぐに送ってもらわないと中から熱を持って風味が落ちてしまい、北海道からの輸送には気を遣うそうです。



墨堤通りがカーブして首都高向島線の高架下に入る交差点の角に小さな野球場があります。



プロ野球公式戦通算868本のホームラン、13年連続を含む15回のホームラン王、1シーズン55ホームランなど、前人未到の大記録を打ち立てた元読売ジャイアンツの王貞治選手が少年時代に野球に明け暮れたのが、終戦後の1949年に「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生した日本で最初の少年野球場の隅田少年野球場でした。墨田区に生まれた王選手は少年時代から飛び抜けた長打力があり、よくホームランボールが隅田川に飛び込んでいたために虫取り網で拾っていたそうです。隅田公園少年野球場の入り口ゲートには、王選手の代名詞とも言える一本足打法のレリーフが掲げられています。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は、昭和二十四年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。




今なら二刀流の大谷選手といったところでしょうか?



少年野球場に隣り合って、「言問団子」のお店があります。

言問団子と郡司大尉

江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん 都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治十一年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。また、この裏手にある桟橋からは、明治二十六年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

The dumplings that inspired the naming of Kototoi Bridge and Kototoi Street
Kototoi Dango and Lieutenant Gunji

This district was originally named Kototoi-ga-oka by a gardener Toyama Sakichi, inspired by the word kototoi (to speak or exchange words) in a poem penned by Ariwara no Narihira. Toyama went on to build the Narihira Shrine and open a dumpling store, where Kototoi Dango (dumplings) were born. In 1893, an expedition bound for the Kuril Islands was launched from a jetty near here under the command of Lieutenant Gunji.




こんな団子です。



交差点から首都高向島線の高架下までの墨堤通りの左手の小広場には、1月なのに桜が咲いています。春に加えて晩秋から初冬にかけて咲く「十月桜」という品種なんだそうです。

@ジュウガツザクラ(十月桜)

春と秋の二季咲きの桜である。この桜は10月頃から咲き始め、暖地では冬の間も断続的に咲き続け、4月上旬に最も多く咲く。花弁は十数枚で、中輪、八重咲き、淡紅色であり、花弁の縁も薄い紅色である。また、がく筒が紅色でつぼ型、冬に咲く花は小さく、花梗(かこう=花を付けている柄の部分)も短い。春に咲く花はやや大きく花梗も長い。この桜はエドヒガンの系列でコヒガンの雑種とされている。十月ごろから咲くのでこの名が付けられた。園芸品種名の「アウツムナーリス」は「秋の〜」を意味している。

Jugatsuzakura

These are cherry blossom trees in spring and fall two seasons. These flowers begin to bloom from around October, and continue to bloom intermittently during winter in warm regions, and bloom most in early April. There are more than ten petals, middle and double-blooming flowers, light mazenta color, the edges of the petals are light mazenta also. In addition the calyx cylinders are mazenta in color and have a pot type. The lowers that bloom in winter are small, the flower stalks (the part of the pattern with flowers attached) are shorter than in spring. During Spring flowers are slightly large and the flower stalks are long. This cherry trees are family of Edohigan and regarded as hybrid of Kohigan. Because it blooms from October, this name was given "Autumnalis" of Scientific name is meaning "autumn".




この小広場には、多くの石碑や案内板があります。隅田川レガッタの案内板が立っています。

艇庫とレガッタ
レガッタによる隅田川の賑わい

レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。明治十六年(1883年)日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、昭和四十二年(1967年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。

Boathouses and Regatta - vibrant Sumida River with Regatta

Regatta was the most popular sport among students in Meiji era and Taisho era. The birthplace in Japan is Sumida River. After the first regatta race in Japan took place in Mukojima in 1883 (Meiji 16), it began to be played frequently among schools and companies. And Sumida River became the center of regatta race. Since a number of boathouses were built along the river, people called the place "Village of boathouse" (Many of those boathouses located between present Metropolitan Expressway route 6 Mukojima-on-ramp and Indoor Swimming Pool.) Once regatta race took place, a crowd of people gathered and filled the riverside. However, the last boathouse (Hitotsubashi-University' s boathouse) has moved out in 1967 (Showa 42) because of water pollution, boathouses no longer exist along the river since then. In recent years, regatta race in Sumida River revives as water is purified. Regatta is going to regain the former life.




野口雨情の石碑が建っています。

立札

   都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。




巨大な石碑が建っています。

墨田区登録有形文化財 墨堤植桜之碑

晩年この近所に別荘を設けた明治期の著名な実業家、大倉喜八郎は、墨堤の桜をこよなく愛していました。しかし堤の上は山中とは違い、周りに樹体を保護する樹々がなく、桜樹は風や砂塵にさらされ短命でした。このためしばしば補植が行われてきたものの、墨堤にはどうしても樹勢が衰えた株や枯れ朽ちた株が目立ち、喜八郎が別荘を設けた頃には、特に江戸時代の古木はほとんど失われていました。そこで喜八郎は墨堤の桜を再生すべく知友成島柳北と図り、墨堤の桜の保護に尽力し始めていた同人サークル(白鴎社)や地元の人びとに協力を求め、明治十六年(1883年)十月に一千株の補植を実現させました。ここに立つ石碑は、右様の成事を記念して、明治二十年(1887年)五月に墨堤言問亭(当時は言問團子屋とも)の側に建立されました。元来柳北に建碑の意思があり、彼がそれを果たさぬまま没したことから、安田善次郎が喜八郎たちに呼びかけ、遺志完遂を図ったのでした。そして水難を避けるべく明治二十九年(1896年)八月に安全の場所に移され(移設地は未詳)、四代将軍徳川家綱の命による播種に端緒をみると伝わる墨堤の桜の来由と人びとがたゆみなく続けてきた補植の事跡を永く伝承する有名の記念碑となりました。当碑は、平成十一年(1999年)八月五日付けで墨田区登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。




同様の趣旨の案内板も立っています。

墨堤植桜之碑と桜勧進
住民が育てた墨堤の桜

江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

"Shokuou-no-Hi" in Bokutei and "Sakura-Kanjin" - Cherry trees grown by local people

Bokutei established a reputation as a good place of cherry blossom viewing in Edo era. Those cherry trees had planted only around Suijin shrine (current Sumidagawa shrine). From 1800s, volunteers in local village planted many cherry trees along the river to the South. A row of cherry trees in Bokutei was gradually extended to "Chomei-ji temple", "Mimeguri shrine", and it reached "Makura Bridge" in about 1880. During the time, there was also a donation for planting cherry trees called "Sakura-Kanjin" promoted by those volunteers. It is curved on "Shokuou-no-Hi (monument)" that cherry trees in Bokutei were loved by local people.




陶芸家として知られる三浦乾也の案内板が立っています。

三浦乾也 旧居・窯跡

天賦の才に恵まれ、若くして乾山6代を襲名した。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。嘉永六年(1853年)、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、翌安政元年(1854年)、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。安政三年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。この功業により厚遇され、同藩には万延元年(1860年)まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。明治八年(1875年)、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、特に簪の珠は「乾也玉」の名で流行した。

三浦乾也

文政四年(1821年)〜明治二十二年(1889年)。徳川の御家人の長男として江戸の新両替町(銀座)で生まれる。幼くして伯母夫婦に引き取られる。養父井田吉六は将軍家斉に召され、庭焼を行うほどの高名な陶工であった。12歳でその 手ほどきを受け、15歳で終生の師と仰ぐ乾山焼5代西村(みゃく)庵(あん)に入門。吉六とともに修行。24歳で乾山6代を襲名。江戸焼物を代表する陶工として活躍、68歳で没す。

A potter who also mastered the art of shipbuilding
Residence of Miura Kenya

Miura Kenya (1821-1889) studied under Kenzan pottery master Nishimura Myakuan from the age of 15, and at 24 took up his former master's post. In 1854 he went to Nagasaki to learn shipbuilding together with Katsu Kaishu, and by 1857 he had completed a Western-style battleship, the Kaisei Maru in Sendai Clan.




小広場の先に、「長命寺桜もち」で知られる「山本や」があります。「山本や」の桜もちの由来は、創業者の山本新六が享保二年(1717年)に大川の土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。その頃から桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い、花見客に桜もちが大いに喜ばれました。これが江戸に於ける桜もちの始まりです。「もち」は小麦粉製の薄皮、「小豆」は北海道産、「葉」は西伊豆の松崎産オオシマザクラという創業以来変わらない素材と製法で作られています。



こんな餅です。



「山本や」の2階には、かって正岡子規が仮寓していました。

正岡子規 仮寓の地(長命寺桜もち)

One of the foremost poets of Japan's modern era
Temporary Residence of Masaoka Shiki

   向じま 花さくころに 来る人の
      ひまなく物を 思ひける哉
   (「無何有洲七草集」女郎花の巻「寄隅田川名所恋」)

近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んでいる。

   花の香を 若葉にこめて かぐはしき
      桜の餅 家つとにせよ

明治二十八年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折も

   から山の 風すきふなり 古さとの
      隅田の櫻 今か散るらん

と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。

本名:正岡常規(幼名:升)
慶応三年(1867年)〜明治三十五年(1902年)。松山市生まれ。大学予備門、東京帝国大学で、尾崎紅葉や夏目漱石らと知り合う。結核のため、大学を中退。新聞記者として日清戦争に従軍。その後、近代俳句の発展に尽くすが、35歳で亡くなる。

Masaoka Shiki (1867-1902) studied together with novelists Ozaki Koyo and Natsume Soseki, but was forced to withdraw from university with tuberculosis. As a newspaper journalist he covered the Sino-Japanese war from the front lines. Subsequently he worked to develop modern Haiku poetry, but passed away at the age of 35.




ポイント11.長命寺

見番通りに入った先に、「長命寺桜もち」の由来となった長命寺があります。長命寺は、元和元年(1615年)頃の創建と伝えられる天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。



寛永年間(1624年〜1644年)に三代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た際、急に腹痛を起こしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといわれています。今も長命水石文や復元された井戸が残っています。



長命寺は、隅田川七福神のうち弁財天を安置しています。

長命寺 弁財天

当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。




弁財天は、七福神の一柱で、もともとはインドのヒンドゥー教の女神サラスヴァティーに由来する水の神様です。川のせせらぎの音にちなんで音楽の神、また流れる水のように弁舌がさわやかであることから弁才(巧みに話す能力)や学力・記憶力の向上、芸術にもご利益があるとされています。日本では財宝神としての側面に信仰が集まり、「弁財天」と表記されることが多いです。



境内には、松尾芭蕉句碑・十返舎一九の狂歌碑・著名人の墓など多くの石碑があります。松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑は、芭蕉が44歳の貞亨四年(1687年)、「笈の小文」の旅の途中に名古屋の夕道邸で開かれた「雪見句会」で詠まれた句です。

   いささらは 雪見にころふ 所まて

雪で滑って転ぶところまで手に手をとって、雪見に出かけようというような意味らしいです。雪の上で下駄を履いて歩くと、下駄の歯と歯の間に詰まった雪が雪だるまのようにだんだんと大きくなり、やがて歩けないほど雪塊が大きくなって雪上の下駄履き散歩人は転んだりします。雪で滑って転ぶのではなく、下駄に付いた雪のせいで転ぶのです。

墨田区登録有形文化財
松尾芭蕉「いざさらば」の句碑(雪見の句碑)

「江戸名所図会」によれば、長命寺境内にはかつて竹藪があり、そこは俳人雲津水国(1682年〜1734年)が建てた芭蕉庵の旧跡として有名でした。また、そこには松尾芭蕉の雪見の句を刻んだ柱状の記念碑も建てられていました。その旧跡との関係は不明ですが、ここにある石碑にも、次のように芭蕉の雪見の句が刻まれています。

   いさゝらハ 雪見にころふ(転ぶ) 所まて

背面にある銘文によれば、この石碑は三代仲祇徳が安政五年(1858年)に建立したものと考えられます。俳聖松尾芭蕉や宝井其角から影響を受けた俳人稲津祇空(1663年〜1733年)とその弟子初代仲祇コ(1702年〜1755年)の霊を祀るために建立されたようです。この句碑は、書体が優美で、かつこの地域にゆかりの文化を伝える文化財であるとして、昭和五十九年(1984年)三月十五日に墨田区登録有形文化財に登録されました。




石碑が3基並んでいます。一番右側の石碑は、浮世絵師の勝川春英を顕彰するために建てられた「勝川春英翁略伝の碑」です。

<墨田区登録文化財>
「勝川春英翁略傅」の碑

勝川春英は宝暦十二年(1762年)に生まれ、新和泉町(現在の中央区日本橋)に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子春好のあと勝川派を牽引しました。文政二年(1819年)五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。右の碑は、文政八年(1825年)春英の七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。題額と撰文は江戸時代後期の国学者石川雅望によります。碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨で締めくくら れています。春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。

The monument of the biographical sketch of Katsukawa Shun-ei

Katsukawa Shun-ei was born in 1762 and trained as an ukiyo-e artist under Katsukawa Shunsho, with the pseudonym of Kutokusai. He succeeded his senior pupil Shunko who had taken over from Shunsho, leading the Katsukawa School and died in 1819 at the age of 58. In 1825, 6 years after Shun-ei's death, his disciples erected the monument. The text was formulated by Ishikawa Masamochi, a scholar in Native Studies in the latter period of the Edo era. The text introduces Shun-ei's year of birth and death, his personality and episodes in his life. In addition, it states the reason for the erection of the monument. It is considered a fundamental historic material of Shun-ei biography. The Katsukawa School was good at actors and sumo wrestlers' prints and their unique profile depiction caught on at that time. Shunro who later used the pseudonym of Hokusai, trained at the same school as Shun-ei and produced various genres of work after leaving the Katsukawa School.




安田善次郎と共に、現在の明治安田生命保険相互会社を設立した成島柳北の石碑がレリーフ入りで建っています。成島柳北は、幕末の江戸幕府で将軍侍講・奥儒者・文学者となり、明治時代にはジャーナリストとして活躍しました。森家の養子となり大目付となった次兄の森泰次郎の孫に俳優の森繁久弥がいます。

柳北仙史之像碑(成島柳北の碑)

柳北仙史とは、明治期の代表的な新聞記者で、実業家としても知られた成島柳北(1837年〜1884年)を指します。ここに立つ石碑は、この人物の事績を称えたもので、柳北が急逝した翌年の明治十八年(1885年)に共済五百名社(現明治安田生命)の名義で建立されました。撰文は、僧侶で仏教学者でもあった大内青巒によるもので、当時内閣大書記官で修史館の監事も務めた巖谷一六が筆を揮いました。成島柳北は、代々徳川将軍家の奥儒者を務めた成島家に生まれ、将軍の侍講を務めるかたわら、徳川家正史(徳川実紀)の編纂を指揮したほか、慶応年間(1865年〜1868年)には幕府の外国奉行や会計副総裁を務めました。時代が明治に移ると、明治七年(1874年)に「朝野新聞」を創刊し、政府による言論弾圧を厳しく批判するなど、言論界で重要な役割を果たしました。また、ヨーロッパ視察を通じて相互共済制度の意義をいち早く理解し、明治十三年(1880年)には安田善次郎に協力して共済五百名社を設立しました。なお、柳北は、慶応四年(1868年)ごろ向島に隠棲しました。墨田区立言問小学校(向島五丁目)が晩年を過ごした住居跡として知られています。ここ向島において、柳北は特に墨堤の桜並木の再生に尽力した人物としても有名です。




石碑が沢山並んだ一番奥の土盛りの上に出羽三山信仰の碑が置かれています。区の文化財指定を受けた貴重なものです。建立の目的は不明ですが、向島・本所北部と浅草に及ぶ隅田川両岸地域における出羽三山信仰と地域住人の結びつきを示しています。

<墨田区登録文化財>
出羽三山の碑

出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山、湯殿山、羽黒山の総称で、古来より山岳信仰や修験道の霊場として発展してきました。本碑は文政十一年(1828年)四月に建立されましたが、この時期を含む江戸時代後期には、主に東北、関東地方で講を組織する人々が増え、江戸においても三山登拝を行う人々が少なからずいたといわれています。本碑は、盛土をして高くした上に建てられています。当初の建立地は不明ですが、長命寺によれば、大正十二年(1923年)頃にはすでに現在地にあったようです。碑の正面中央には、胎蔵界大日如来を表す種子アーンクと「湯殿山」の文字が彫られています。そして、向かって右側に阿弥陀如来を表す種子キリークと「月山」の文字を、左側には観世音菩薩を表す種子サと「羽黒山」の文字をそれぞれ配しています。また、左下には揮毫者と思われる「空居」の号が刻まれています。出羽三山を崇拝し祀る習慣の定着が、こうした石碑の建立につながったと分かります。一方、裏面には、日付とともに建立に関係した人々七十九名の名前が居住地ごとに刻まれています。中には判読困難な文字もありますが、浅草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋村新田、須崎村、小梅村、中之郷村の人々の名前を確認することができます。江戸時代後期に隅田川をはさむ向島・本所北部と浅草方面に出羽三山信仰が普及し、そこに暮らした人々が信仰を共有していたことがうかがえます。現在区内では、出羽三山信仰に関係する資料の発見例が少ないため、本碑は貴重な資料といえます。




雑草に埋もれて、女優・歌手の木の実ナナさんの小さな歌碑が建っています。木の実ナナさんは墨田区東向島の鳩の街と呼ばれた歓楽街近くの出身です。歌手としては、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」が大ヒットしました。

木の実ナナ

風のように踊り
  花のように恋し
     水のように流れる




ポイント12.弘福寺

長命寺の直ぐ先に弘福寺があります。弘福寺は黄檗宗(本山は京都万福寺)の寺院で、山号は牛頭山、本尊は釈迦如来です。江戸時代前期の延宝元年(1673年)に黄檗宗の僧鉄牛道機により開山され、稲葉正則が開基となって香積山弘福寺を現在地に移して建てられました。黄檗宗は、日本の三禅宗のうち、江戸時代初期に来日して明朝復興を願った隠元隆gを開祖とする一宗で、本山は隠元隆gが開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺です。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で罹災しましたが、昭和八年(1933年)に再建されました。



弘福寺は、松雲作といわれる釈迦如来像を本尊とし、山門や本堂の屋根などに唐風の建築様式をみることができます。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにありました。名入り根付、咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」などがよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいます。



弘福寺には、隅田川七福神の布袋像が祀られています。「墨田川七福之内 布袋尊」と彫られた石碑の隣には、七福詠碑が置かれています。

  何々や 袋の中の 年の卒 七福詠」

隅田川七福神は、文化年間(1804年〜1818年)造園の向島百花園に集った文人達の発案とされています。百花園主の佐原鞠塢が所有していた福禄寿の陶像にちなみ、正月の楽しみごととして機知を働かせ、北から毘沙門天(多聞寺)、寿老神(白鬚神社)(そのものがご神体なので寿老人ではなく、寿老神)、福禄寿(向島百花園)、弁財天(長命寺)、布袋尊(弘福寺)、恵比寿・大国神(三囲神社)を七福神として結びつけたと伝わっています。明治三十一年(1898年)、向島の人々が榎本武揚ら著名人を巻き込んで隅田川七福会を結成し、一巡り約4kmの順路が整備されました。明治四十一年(1908年)には、当時の政府要人が揮毫した七福神案内碑が建立され、今日に至るまで多くの参拝客が訪れています。七福神の各尊像は、現在正月元旦から七草までの間のみ開帳されています。

隅田川七福神コース案内板
弘福寺 布袋尊

黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗禅の性格に深くかかわるのである。布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるきることがなかった。その無欲恬淡(てんたん:物事に執着しないこと)として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。




門前に、「淡島寒月旧居跡」の案内板があります。

淡島寒月旧居跡

父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治十七年(1884年)、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。明治二十六年(1893年)頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。

A multi-talented author and artist
Residence of Awashima Kangetsu

Awashima Kangetsu (1859-1926) is known for both his literature and paintings. His father, Chingaku, was also a painter. He helped popularize the works of Ihara Saikaku in the course of mentoring novelists Koda Rohan and Ozaki Koyo. He is also said to have inspired Natsume Soseki's use of the name "Mizushima Kangetsu" in the novel I am a Cat.




弘福寺の梵鐘は墨田区で確認されている最古のもので、貞享五年(1688年)6月に鋳造されました。現在の鐘楼は安政大地震で倒壊後、昭和八年(1933年)5月に再建されたものです。梵鐘は江戸時代の地誌「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」などにも登場し、人々によく知られていました。



亀の上に石碑が乗っています。鳥取藩八代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑ですが、お墓は関東大震災を機に、昭和五年(1930年)に鳥取藩主池田家墓所に改葬されました。



境内の小さな祠には、石造りの爺像と婆像からなる「咳の爺婆尊」が祀られていて、風邪やインフルエンザの予防を祈願する参拝者が訪れています。制作した江戸時代の禅僧風外の名が「風(邪)の外」に通じるとして、風邪除けのご利益があると信じられるようになりました。きっとコロナにも効果抜群だったことでしょう。



見番通りという名前は、通りの入口付近に置屋の見番所があるところから付けられたようです。「置屋」とは、芸者や遊女を抱えている家のことで、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向けるところです。「見番」とは、その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称をいいます。また、芸者を登録したり、客席に出る芸者の取り次ぎをしたり、玉代の計算などの事務を扱うこともあります。



向嶋墨堤組合は見番のようなので、これが通りの名前の由来になったのでしょう。

向嶋墨堤組合

江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成二十四年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。

Affiliates include 16 restaurants and more than 100 geigi performers
Mukojima Bokutei Cooperative

Mukojima managed to resist the wave of modernization that swept Japan in the Meiji era, and retains the spirit of old Edo to this day. The Mukojima Bokutei Cooperative works to preserve the historical district, schooling geigi-performing artists in the traditional arts and overseeing traditional restaurants.




見番通りに面して赤煉瓦塀があります。今は駐車場になっているようですが、煉瓦工場にしては狭すぎるし、個人宅にしては立派過ぎるし、元は何だったのでしょうか?



ポイント13.三囲神社

見番通りに面して三囲神社(みめぐりじんじゃ)があります。墨田区の観光案内板には次のように紹介されています。

三囲神社

元禄六年(1693年)の江戸かんばつの折、俳人・宝井其角が句を詠み奉納すると、翌日大雨が降ったと伝えられています。境内には、「雨乞いの句碑」があります。また、隅田川七福神の恵比寿・大国神が祀られています。

Mimeguri-jinja Shrine (Sumidagawa-shichifukujin)

Haiku poet Takarai Kikaku is said to have dedicated a reading of his poem here as an offering during the Edo drought of 1693, triggering a great rain the following day. The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event. The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth, farmers, agriculture, rice, and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen, good luck, and workingmen), two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.


三囲神社の創立年代は不詳ですが、当初は田中稲荷と称していました。言い伝えによれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴した際に小さな祠のいわれを聞き、社壇を改築しようと掘ったところ壺が出土しました。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像がありました。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3度回って死にましだ。これが「三囲」の名称の由来とされています。元禄六年(1693年)に起きた旱魃の際、俳人宝井其角が偶然当地を訪れました。地元の人々の哀願により、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や 田を見めくりの 神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日になって雨が振りました。このことから三囲神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出した際に守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀しました。元々は牛嶋神社の隣にありましたが、洪水で流され、隅田川に堤が築かれることになった時に南へ少し移動しました。その堤のために、対岸から見ると鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれました。

三囲神社

弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあった。文和年間(1352年〜1356年)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現われた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成二十一年(2009年)に三越池袋店の閉店に伴い、シンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。日照りが続いていた元禄六年(1693年)、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠みこんだ

   「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」

の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。

Home to the guardian deity of the Mitsui family
Mimeguri Shrine

This shrine was choosen by the great merchant family Mitsui when they started operating in Tokyo. "Mimeguri" means "three times around". It derives from a 1300s legend about a priest Genkei in West Japan who witnessed a magical white fox running around a recently unearthed sculpture of an old man mounted on a white fox three times, and then disappearing.




神社の石垣には、三越の創始者だった日比美勲の歌が彫られています。

日比翁助 石垣の歌碑

   いしがきの 小石大石持合ひて 御代は
      ゆるがぬ 松ヶ枝の色          日比美勲

日比翁助は号を美勲と称し、三越呉服店の会長・わが国近代的百貨店の創始者であった。茲来百年、松を新たに植え、旧観を復した。




鬼平犯科帳でも登場しています。

三囲神社(三囲稲荷社)

三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。




三囲神社は、隅田川七福神のうち大國神と恵比寿神の二神を祀っています。



ちなみに、大國神と大黒天は元は全く別の神様です。大國神は日本の神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)で、日本の神様です。地主神社の主祭神でもあり、縁結びの神・土地守護の神として篤い信仰を集めています。一方の大黒天はマハーカーラという荒々しいインドの神で、日本に伝わって密教の守護神となり、お寺の台所や食堂の神として祭られました。七福神の「だいこくさま」は大黒天の方になります。七福神のうち日本起源の神様は、恵比須神だけです。寺院で祭られる「だいこくさま」は外来の神の大黒天で、神社では大國神(大国主命)となります。



案内板が立っています。

隅田川七福神コース案内板
三圍神社 大國神 恵比寿神

三圍神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人びとによって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。




境内に入ると、右手に古い石造物が建っています。

最古の紀年銘

藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永三年(1707年)に奉納した当神社で最も古い年代を示す石造物




昭和十七年(1942年)に建てられた三圍講による三囲神社の由緒書が石碑に刻まれています。

由緒

一 東京市本所區向島二丁目七番地鎮座
一 村社 三圍神社
一 御祭神 宇迦能魂命
一 御祭日 例祭 四月九日

  三井總元方 三井銀行 三井物産株式會社 三井鉱山株式會社 株式會社三越

  右總元方始め各株式會社交替に正五九の小祭を受持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ

當社の草創は実に壹千餘年前の事にして其間(しばしば)の変遷あり。元亀年間大災に罹り社殿を再建し、慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる。霊験妙なるが中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ、翌日大雨あり。之より御神徳天下に普く。特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三圍大神の信仰厚く當家の守護神と仰ぎ、享保元年三井高治・三井高久・三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞。請け捧け奉り又享保十二年五月には従二位卜部朝臣兼敬に請ひて更に霊璽を當社に遷し、鎮め奉り田地を捧げ社地を拡張し、神殿瑞垣を改築せり。爾来二百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ、敬神以て今日に至る迄昔の隋々に當社の維持経営に努め、又三圍講を創設して祭祀に力を致す。境内末社多く中にも大國神・恵比寿神は隅田川七福神の一として其名高く、額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め、又樹間に(テン)綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬すべし。




大旱魃の折、宝井其角が読んだ句が石碑に刻まれています。

<墨田区登録文化財>
宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)

元禄六年(1693年)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の「五元集」にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。其角は寛文元年(1661年)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(1777年)に建立されたものが摩滅したので、明治六年(1873年)に再建されたものです。




おとなしそうに鎮座した狛犬がいます。

三囲のコンコンさん

目尻のさがった温和な表情をここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。
享和二年(1802年)の奉納




三囲神社は、享保年間に三井家が江戸における守護社として定めました。三井家は、「三囲」が「三井」の井を囲う→「三井を守る」として、「越後屋(現在の三越)」の本支店に三囲神社の分霊を祀り、大いに崇敬をしました。享保元年(1716年)に正一位の神階を賜り、享保八年(1723年)に三井家三代目当主である三井高房によって社殿が造営され境内整備が行われました。こうして小梅村の鎮守としてだけでなく、江戸を代表する豪商である三井家の守護社として崇敬を集めることとなりました。明治六年に社号を「三囲稲荷社」から「三囲神社」に改称しました。明治十七年には社殿の大修繕が行われ、この時の社殿が現存しています。社殿前の石灯籠の火袋には三つ穴(「∴」)の文様が入っています。右側の石灯籠が欠けているようですが。



三越のシンボルであるライオン像があります。

三囲のライオン像

三越の旧池袋店から移した三越のシンボルであるライオン像は、大正三年当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各支店に設置されているライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオンである。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は大いに発展し、明治二十九年三越呉服店につながる。




ライオン像の右側には、三越の商標を彫り込んだ石造物が置かれています。

(右)
【越】は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壷の台石に彫られ、【越】の範形といわれる。明治二十九年から昭和の初期まで実際につかわれていた。


(左)
ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したのだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。




境内には多くの句碑が建っています。

宗因白露の句碑

「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化九年(1812年)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。宗因は慶長十年(1605年)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙洒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。




三囲神社の隅田川に面した鳥居は堤の下に建っていますが、それでも鳥居の上部は対岸から眺められたのでしょう。

<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大 鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。




三角形のミニ鳥居が移設されています。

三角石鳥居

三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある。




富田木歩の句碑が建っています。富田木歩は2歳の時に高熱を発した後、両足が不自由になり歩くことが出来なくなりました。身体の障害と貧困のために小学校に通うことが出来ず、カルタやメンコで文字を覚えました。姉たちは花街に身を売られて芸妓となり、父が亡くなり、弟が結核で逝き、花街に身を売られ半玉になった妹も結核に倒れ、木歩も感染し、やがて母が亡くなるという過酷な境涯を送りました。句には、「亡き人々を夢に見て」との前書きがあります。大切な家族を次々と失った木歩は、亡き人々のことをふと夢に見ることがあったのでしょう。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのでしょう。たとえ夢の中でのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できたのです。それはどれほど懐かしく、嬉しい再会であったことでしょう。「夢に見れば死もなつかしや」と詠み、死の側・あの世の側から己の人生を照らし出すという木歩の心を占める思いは、死というものに対する親しさや懐かしさでした。しかし、たとえ這って動く生活だとしても、家族を次々に失ったとしても、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きるということを放棄したりはしませんでした。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないでしょうか。平明な言葉で、誰にでも分かる表現で、己の境涯を深々見詰め、言葉に紡ぐ木歩。その簡潔な言葉が読む人の心に自然に静かに浸透してきます。

富田木歩句碑

夢に見れば死もなつかしや冬木風

(裏面)
大正拾参年九月一日の一周年に於て富田木歩慰霊の為建之      友人一同




親子のような石像が祀られています。老夫婦の像だそうです。

老翁老嫗の石像

元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。




見番通りから路地に入る角に「すみだ郷土文化会館」があります。

すみだ郷土文化資料館

隅田川を中心とした墨田区の歴史伝統文化を紹介し、その遺産を継承していくことを目的とした「ふるさと博物館」。保存資料はもとより、模型やマルチメディアなどを駆使しさまざまな趣向をこらして紹介されています。

Sumida Heritage Museum

This hometown museum was established to introduce visitors to the history and traditional culture of Sumida Ward with a focus on the Sumida River, thereby helping ensure that the area's rich legacy will be passed on to future generations. Visitors can enjoy a range of preserved historic materials as well as elaborate exhibits including models and multimedia displays.




入口の脇には、戦争中に墨田区で使用されていた防火用水の石桶が展示されています。

防火用水
岡本郁雄氏寄贈

防火用水は、空襲による被害を防ぐ目的で設置された用水桶です。戦時期に各家に配られた防空マニュアル「時局防空必携」(大日本防空協会発行)には、「空襲は必ず受けるもの」として、一戸あたり100リットル以上の水を常備する必要性が記されており、自治体や町会の指導の下で数多くの防火用水が設置されました。展示している防火用水は、本所区(現墨田区)東駒形の岡本家に昭和十七年〜昭和十八年(1942年〜1943年)ころ設置されたもので、戦時中はこの用水を用いて頻繁に防空訓練が行われていました。しかし、昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲では、300機以上ものB29爆撃機によって想定をはるかに超える量の焼夷弾が投下され、猛火が町を襲ったため、用水の備えは全く役に立たなかったそうです。寄贈者の岡本氏は空襲の際、関東大震災の記憶を持つ母親の機転で、あらかじめ地域で決められていた避難所に避難せず、人の避難する方向とは反対の場所に避難したため、一命をとりとめましたが、住居は全焼し、この防火用水だけが焼け跡に残りました。戦後、多くの防火用水は廃棄され、現在では目にすることが難しくなっていますが、東京都内で最も大きな空襲被害を受けたこの地域の戦争の記憶を後世に伝える、貴重な資料であるといえます。




すみだ郷土文化資料館がある場所には、かって佐多稲子が住んでいました。

佐多稲子旧居跡

本名:佐田イネ(明治三十七年【1904年】6月1日〜平成十年【1998年】10月12日)
「キャラメル工場から」を雑誌「プロレタリア藝術」に発表。プロレタリア文学の新しい作家として認められる。戦後は、婦人民主クラブの創立に奔走、民主化運動に貢献した。作品は映画やテレビドラマになったものもある。昭和五十九年(1984年)に朝日賞受賞。

小学生の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町52番地(現在、隅田公園内)の家に身を寄せることになる。牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。これらの経験が、後に「キャラメル工場から」という作品にまとめられ、出世作となった。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる「私の東京地図」には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりとしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは其角の家だ、と子ども心にも知っていた」

A leading figure in women's proletarian literature
Residence of Sata Ineko

Sata Ineko (1904-1998) launched her career with the novella From the Caramel Factory, and soon became part of the new wave of proletarian literature. After WWII she strove to establish the Women's Democratic Club, contributing significantly to the democratization movement in Japan.




見番通りから国道6号水戸街道に出ます。国道6号線はすぐ先の言問橋東交差点で左方向に直角に曲がりますが、そのまま直進します。



左手に常泉寺があります。

常泉寺

慶長元年(1596年)に牛島村の草創者の一人である高橋新右衛門が開基、弟の仙樹院日是贈上人が開山した日蓮正宗の寺院。江戸中期に六代将軍家宣公(在職1709年〜1712年)の御台所・天英院殿が帰依し、寺料30石が給されるようになり繁栄。この時期に大伽藍を築き、境内には本行坊、本種坊、本住坊の三つの塔頭があった。嘉永六年(1853年)には、島津斉彬公が十三代将軍家定公(在職1853年〜1858年1の御台所となる養女、篤姫輿入れ成就を祈願している。当時、隣地は水戸藩下屋敷で幕府からは葵御紋の使用を許され、高い格式を誇っていた。篤姫は輿入れ直前に天英院殿の生家で境内に墓所もあった近衛家と養子縁組しており、これが縁で落飾して天璋院殿となった後も篤い信仰を寄せている。昭和三年(1928年)、言問橋の完成に伴い、言問通りが境内の中央を横切ることになり、国は代替地を提案してきたが、古刹としての歴史を重視し、寺域を縮小して現在地にとどまった。境内には江戸の儒学者で医者の朝川善庵の墓やドイツなど海外で研究を重ね、日本で初の薬学博士となった尾張犬山藩士、下山順一郎の記念碑などがある。

Enjoyed a devoted following among the family of the Tokugawa shogunate
Josen-ji Temple

This Nichiren Shoshu Buddhist temple was established in 1596 by Takahashi Shin'emon, one of the founders of Ushijima village. The first head priest was his brother Senjuin-Nichize-Zoshonin. The temple had many devotees among the Tokugawa Shogunate, including Teneiin, the wife of the 6th Shogun lenobu, and Atsuhime, the wife of the 13th Shogun Iesada.




朝川善庵墓の案内板が立っています。

東京都指定旧跡
朝川善庵墓

朝川善庵(1781年〜1849年)は江戸後期の儒学者です。名は鼎、善庵は号です。天明元年(1781年)、片山兼山の末子として江戸に生まれますが、早くして父を亡くし、母の再嫁先の医師朝川黙翁の姓を名乗ります。山本北山に学び、黙翁に伴われ京阪へ遊学しました。さらに寛政十年(1798年)、長崎に赴きその後南九州にも遊歴します。平戸藩松浦家の厚遇を受け、弘化三年(1846年)には将軍にも謁見し名を高めました。清国の船が下田に漂着した際には代官江川氏に招かれ清人と筆談したこともあります。嘉永二年(1849年)六十九歳で没しました。

Historic Places
Asakawa Zen-an Haka
(The grave of Asakawa Zen-an)

Asakawa Zen-an (1781-1849) is a Confucian in the late Edo period. His first name was Kanae and pseudonym was Zen-an. He was born as the last child of Katayama Kenzan in Edo. After the death of Zen-an's father in his childhood, his mother remarried Asakawa Mokuo, a doctor; Zen-an took Mokuo's surname. He learned Confucianism from Yamamoto Hokuzan, and thereafter he accompanied Mokuo to Kyoto and Osaka. He also traveled to Nagasaki in 1798 and then in the South Kyushu. Zen-an was warmly welcomed by the Matsuura clan of Hirato Domain. He raised his reputation since he had received in audience by Shogun in 1846. Furthermore, when a ship of Qing Dynasty drifted ashore Shimoda, Zen-an communicated in writing with the people on board, at the request of the local governor of that place. He died at 69 in 1849.




ポイント14.東京スカイツリー

東京スカイツリーは、平成二十四年(2012年)5月22日に開業した電波塔で、足元には複合商業施設も併設されています。高さ634m、自立式電波塔としては世界一となり、350mと450mの展望台からは関東一円を見渡す大パノラマが広がります。

TOKYO SKYTREE was opened on May 22, 2012. At the foot of this tower, a commercial complex is located. The height is 634m, which is the world's tallest free-standing structure. From the observation platforms at the height of 350m and 450m, a huge panoramic view of the Kanto Area can be enjoyed



東武橋を渡って浅草通りに出ます。吾妻橋一丁目交差点で右折して雷門通りに入ります。吾妻橋の手前に、明治十九年(1886年)に創業された、「芋きん」で有名な和菓子屋の満願堂の支店があります。タイミングが合えば、ガラス窓越しに「角きんつば」を焼いている様子を見ることができます。食べたことはありませんが、「皮は薄くやわらか、餡はたっぷりとしてふくよかで口当たりもまろやか」な味わいとのことです。ちなみに、「きんつば」は、元々は大阪で考案された菓子ですが、日本刀の鐔のように円く平らに形をしていて、大坂では「ぎんつば(銀鐔)」と呼ばれていたそうです。その製法が江戸時代初期に大阪から江戸に伝わると「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由から、名前が「きんつば」に変わったとされています。江戸っ子は何でも見栄を張りますからね。



ポイント15.吾妻橋

吾妻橋が初めて架橋されたのは安永三年(1774年)10月17日で、それまでは「竹屋の渡し」と呼ばれた渡し舟が隅田川を往復していました。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、明和六年(1769年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成しました。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残っています。天明六年(1786年)7月18日の洪水の際に永代橋や新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で吾妻橋は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったといわれています。橋名は当初「大川橋」と呼ばれましたが、これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことに因んでいます。しかし、江戸の東にあるために町民たちには俗に「東橋」と呼ばれていて、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となったという説があります。何れにしても、明治九年(1876年)6月17日に木橋として最後の架け替えが行われた際に、正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。この最後の木橋は明治十八年(1885年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて吾妻橋の橋脚に衝突し、吾妻橋も一緒に流失してしまいました。そのために明治二十年(1887年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。鋼製プラットトラス橋で、人道橋・鉄道(東京市電)橋・車道橋の3本が平行して架けられていました。大正十二年(1923年)9月1日の大正関東地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、昭和六年(1931年)に現在の橋に架け替えられました。



吾妻橋東詰の袂に鬼平犯科帳の案内板が立っています。

鬼平情景 吾妻橋(大川橋)

江戸時代、両国橋・新大橋・永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)・幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社ヘの参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。




水上バス浅草発着場から隅田川を隔てて、東京スカイツリーの全景が眺められます。両脇の建物は、墨田区役所とアサヒビールタワーです。アサヒビールタワーの隣にはスーパードライホールが建っています。スーパードライホールは、吾妻橋の袂にあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建設され、昭和六十四年/平成元年(1989年)に竣工しました。屋上には名物となっている巨大モニュメントが設置されています。燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語で金の炎の意味)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされています。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホールは聖火台をイメージしたものだといわれています。当初の構想では、炎がビルを貫くような形に建てるつもりだったそうですが、構造上問題があり、炎の部分が横向きになったということです(あくまで噂です)。その特徴的な形状から、「うんこビル」・「うんちビル」の愛称でも呼ばれています。



吾妻橋西詰の袂に、GTS観光アートプロジェクトのひとつである「そらちゃん」の像が建っています。大理石の彫刻にガラスとモザイクを組み合わせた作品です。「そらちゃん」は招き猫で、両目と胸のハートには色ガラスの凹レンズがはめ込まれていて、東京スカイツリーや周辺の風景が小さくいくつも映ることでおもしろいパノラマが楽しめます。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS[東京藝術大学・台東区・墨田区]観光アートプロジェクト2010−2012

GTS観光アートプロジェクトは、平成二十二年度より平成二十四年度までの3年間の計画で行われた、東京藝術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)による三者共催の地域連携プロジェ クトです。浅草と東京スカイツリーを結ぶ隅田川両岸地域は、江戸時代から桜の名所であり、浅草寺を始めとした由緒ある名所・旧跡が数多く点在するエリアです。GTS観光アートプロジェクトは、東京スカイツリーの建設にあわせて浅草と東京スカイツリーをアートで結ぶため東京スカイツリーのビューポイントに環境アート作品を12作品設置しました。地域の観光とあわせてアート巡りの旅をお楽しみください。




ここにも池波正太郎の作品に登場する吾妻橋の案内板が立っています。

池波正太郎作品の舞台
大川橋(吾妻橋)

この橋は安永三年(1774年)に、町人が幕府の承認を得て架けられました。正式名称は「大川橋」でしたが、江戸の東に位置する、または、江戸から東へ向かう意味の「東橋」から転じて、「吾妻橋」と表記され、明治九年(1876年)に正式に名称が変更されました。大川(隅田川)に架かる大川橋(吾妻橋)は池波正太郎作品の舞台として様々な物語に登場します。「剣客商売」の「暗殺」では、秋山大治郎と四谷の弥七が、橋上で旗本・杉浦丹後守に雇われた浪人たちに襲われます。「仕掛人・藤枝梅安」では御用聞き・豊治郎が旗本・安部長門守の手の者に襲われ重傷を負い、通りかかった藤枝梅安が外科医・堀本桃庵のところへ豊治郎を担ぎ込みます。大川橋(吾妻橋)は小説のみならず、のちにテレビドラマとして映像化された池波正太郎作品の舞台としても登場しています。




ポイント16.隅田公園

隅田公園は、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災により壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)・錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備されました。

関東大震災
復興大公園
隅田公園

関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。震災復興公園として、国は「水辺の公園」の隅田公園、「工業地の公園」の錦糸公園、「商業地の公園」の浜町公園、これら3か所の大公園を整備しました。また、東京市は52か所の小公園を整備しました。大公園は、園内周囲を緑陰樹で囲み、散策や休養をしやすいように整備されたほか、園内の一角に運動施設(水泳場、競技場、運動場等)も設置され、広く一般に利用されました。台東区には、大公園である隅田公園と、小公園が15か所あります。大震災はいつ発生するかわかりません。普段から災害時の備蓄や避難の方法等を家族で話し合い、また地域での防災訓練に参加しましょう。

The Great Kanto Earthquake of 1923
Large Reconstruction Parks
Sumida Park

Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. The national government subsequently developed three large parks as part of reconstruction efforts: Sumida Park along the banks of the Sumida River, Kinshi Park in an area that was mainly industrial at the time, and Hamacho Park in a commercial district. Similarly, the then City of Tokyo also developed 52 small parks. Surrounded by shade trees, the large parks were designed with strolling and relaxation in mind. Also featuring athletic facilities such as pools, sports grounds, and playgrounds, the parks are widely used by the public. Taito City has a large park, Sumida Park and 15 small parks. Disasters strike without warning. Plan ahead with your family for emergency preparations such as stockpiles, evacuation routes, emergency communications, etc., and join community emergency drills.




その後、昭和五十年(1975年)4月に管理が東京都から墨田区・台東区へ移管されました。長らく両岸の公園は直結しておらず、言問橋を介してのみ連絡していましたが、昭和六十年(1985年)の桜橋の開通により園路が結ばれました。また、令和二年(2020年)には東武鉄道隅田川橋梁に併設された歩道橋「すみだリバーウォーク」によっても結ばれることになりました。公園内には約700本の桜が植えられていて、日本さくら名所100選に選定され、毎年桜祭りが開催されています。 約1キロメートルにわたる隅田川両岸の桜並木は八代将軍徳川吉宗の計らいにより植えられ、江戸時代から花見シーズンには多くの出店が列び賑わいます。入ったことはありませんが、地下には長さ116m・幅7m・高さ2.5mの直線の空間があり、写真・絵画・彫刻・書道・華道・その他各種の展示会等が催されるそうです。



ゴール地点の東武浅草駅に着きました。



ということで、足立区で六十一番目のコースとなる「E−千住・新田エリア 61.隅田川七福神コース」を歩き終えました。次は足立区で六十二番目となる「E−千住・新田エリア 62.南千住・上野公園名所コース」を歩きます。




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