23区の清掃工場巡りコース
- コースのご紹介
23区の清掃工場
豊島清掃工場
渋谷清掃工場
目黒清掃工場
港清掃工場
品川清掃工場
大田清掃工場
多摩川清掃工場
世田谷清掃工場
千歳清掃工場
杉並清掃工場
練馬清掃工場
光が丘清掃工場
板橋清掃工場
北清掃工場
足立清掃工場
葛飾清掃工場
江戸川清掃工場
新江東清掃工場
有明清掃工場
中央清掃工場
墨田清掃工場
東京23区の清掃工場
かって、東京の生ゴミは江東区などの湾岸地帯の埋め立て地にトラックで運び、そのまま埋めるという今では考えられないことをしていました。その結果、埋め立て地周辺の衛生環境は悪くなり、埋立地もすぐにいっぱいになってしまいました。悪臭とハエの繁殖により、埋め立て地周辺の住宅地は悲惨なことになっていたのです。こうして東京ゴミ戦争が勃発し、長年の闘争の結果、23区内各地に生ゴミ焼却のための清掃工場が建てられるようになりました。しかし、様々な事情により清掃工場の建設が困難な区もあり、現在では23区内に21ケ所の清掃工場がが稼働しています(目黒・江戸川の清掃工場は建替え中で休止)。区内に1ケ所というのが原則ですが、大田区・世田谷区・練馬区・江東区は2ケ所に清掃工場が設置されています。清掃工場が全く設置されていない区は、新宿区・中野区・千代田区・文京区・台東区・荒川区です。清掃工場は地元住民にはなかなか受け入れられないため、その立地は地図を見るとよくわかりますが、都心にはほぼなく、海沿いや郊外にある場合がほとんどです。ちなみに、清掃工場をひとつ建設するにはおおよそ、200〜300億円かかるといわれています。焼却炉の負担が大きいため、その耐用年数は25〜30年ほどです。生ゴミは年中絶えることはなく排出されますから、一斉に建替えることはできず、順繰りに建替えを行なっています。清掃工場をランキング形式にしてみますと、
・一番大きい工場は、江東区の新江東清掃工場
・一番小さい工場は、渋谷区の渋谷清掃工場
・一番古い工場は、江東区の有明清掃工場(平成七年12月竣工)
・一番新しい清掃工場は、杉並区の杉並清掃工場(平成二十九年9月竣工)
となります。
踏破記
一日目:池袋駅から目黒駅まで(豊島清掃工場・渋谷清掃工場・目黒清掃工場)
23区の清掃工場を一筆書きで回ろうという無謀とも思える試みですが、歩く前に戦略を立てます。清掃工場の立地地図を眺めてみますと、何だか”の”の字に見えます。地図上では概ね23区の外周にそって清掃工場が並んでいるのですが、豊島・渋谷・目黒の各清掃工場は都心を南北に貫いて立地しています。つまり、豊島・渋谷・目黒の各清掃工場に立寄ってから時計回り、又は反時計回りに巡れば効率的という訳です。ということで、豊島清掃工場をスタート地点に選びます。池袋駅の西口から飲み屋さんがひしめく線路沿いに進み、JR・東武線の線路を跨ぐ池袋大橋を渡り、橋の途中で人道橋に入って反対側に出ると、そこに豊島清掃工場があります。清掃工場の出入口は、「健康プラザとしま」の高層ビルの裏手の道路に面しています。清掃工場には、ゴミの焼却によって発生する排ガスを綺麗にした状態で大気に放出するために煙突が備えられています。清掃工場の煙突は47メートルの比較的低いものから、210メートルの高層のものまで様々です。その中で最も高い煙突を備えているのが豊島清掃工場です。豊島清掃工場は都内有数の繁華街の一角にあり、近くにはサンシャイン60(高さ239メートル)があることから、煙突の高さが210メートルになりました。豊島清掃工場は、山手線その他と埼京線と川越街道・首都高速5号池袋線に囲まれた三角地帯に立地しています。出口もわかりずらいのですが、何とか明治通りに出ます。あとは渋谷まで一本道です。そういえば、ここのところ何度も明治通りを歩いていますね。渋谷清掃工場は東交番前交差点を右折して都営バス車庫の向かいに立地しています。清掃工場の全面には、かって東急東横線の高架がありました。現在はその跡地に商業施設が造られ、カーブした線路跡をなぞるように建物も湾曲しています。渋谷区といえば、都心も都心、繁華街、高級住宅地などなど、昔だったら清掃工場を区内に造るなんて考えられないことでした。どういう経緯があったかわかりませんが、代官山にほど近いこの地に建ったんですね。23区内で最も規模が小さいとのことですが、それでも見上げるような高さの建物と煙突は再開発で建設中の渋谷駅周辺の超高層ビルとよく似合っています。渋谷清掃工場から山手線の線路を跨ぐ人道橋を渡って線路沿いに進みます。恵比寿西一丁目交差点から恵比寿南交差点に出て、更に恵比寿南三丁目交差点で高台に進みます。この辺りは高台から目黒川に急激に落ち込んでいく崖線になっています。別所坂を下りて目黒川沿いに進むと中里橋の向こう側に建替え中の目黒清掃工場があります。目黒清掃工場は平成三年(1991年)に完成し、四半世紀の稼働後、平成二十九年(2017年)から建替え工事が始まり、来年令和五年(2023年)に竣工する予定になっています。現在は試験運転が開始された頃ではないかと思います。目黒清掃工場から「目黒のサンマ祭り」会場の田道広場公園横を通り、権之助坂を上がって、目黒駅で今日の歩きを終えます。池袋から渋谷までの明治通りは結構長かったですね。
二日目:目黒駅から昭和島駅まで(港清掃工場・品川清掃工場・大田清掃工場)
池袋〜渋谷間は都心ということもあって歩きやすかったのですが、今日歩く湾岸地帯の港・品川・大田の清掃工場は今まで行ったことがなく、やや不安な気持ちです。港清掃工場へは、目黒駅から目黒通りを進み、日吉坂上交差点から八芳園横の桑原坂を下って明治学院前交差点で国道1号桜田通りを横断し、高輪消防署のレトロな建物を眺めて国道15号線に出ます。本当は高輪ゲートウエイ駅を突っ切って風穴の開いたNTTドコモ品川ビルの辺りに出れば近道なのですが、そうもいかないので品川駅まで行って港南口と東口を結ぶ自由通路を抜け、北上して新港南橋と港南大橋を渡って港清掃工場の横に出ます。港清掃工場は波形の建物と幅広い煙突の優雅なデザインを取り入れ、角張った清掃工場の建物のイメージと全く異なっています。建屋のデザインは睡蓮の花をイメージしているのだそうです。平成十一年(1999年)に完成し、焼却能力は一日当たり600トン、煙突の高さは周辺が海に面していますので、約130メートルとやや低くなっています。港清掃工場を出て、品川埠頭への連絡道である都道480号線を南下します。途中に東京入国管理局の特徴ある建物があります。小菅の東京拘置所の建物の形状と似てますね。若潮橋を渡って八潮に入ります。湾岸線が北東からカーブしてきたところに品川清掃工場があります。煙突の表面に模様が付いていて、遠くからでもよく見えます。湾岸道路を横断し、東側の歩道に入ります。そこから約3キロメートル弱、高いフェンスに囲われたJRの大井車両基地が延々と続いています。何十本もある留置線路上には新幹線の車両が並んでいます。新幹線の車両は16両で1編成なのですが、それが幾つも縦に連なっています。大井車両基地は、山陽新幹線の博多開業に伴う車両の増加を見越し、東京貨物ターミナル駅の隣接地に新幹線車両の留置・仕業検査・修理を行う場として昭和四十八年(1973年)9月に開設されました。大井車両基地と湾岸道路に挟まれた歩道は人気がなく、歩道の両側は背の高い雑草が生い茂っています。雑草の間をかき分けて進むといった感じです。ちなみに、この区間ですれ違ったのはたったの一人でした。もしもイケナイ人だったらと思うとゾッとします。大田市場の西門前を通り、長大な京浜大橋を渡ります。京浜島に入り、最初の交差点を左折し、北大通りを東に進みます。大田清掃工場は京浜島の端っこに立地しています。京浜島は羽田空港のすぐ手前に位置していますので、滑走路に着陸直前の飛行機は車輪を下ろした状態で頭の上を飛んでいきます。大田清掃工場は北大通りに面して4ケ所の入口があります。歩道からは清掃工場に付きものの高い煙突が見当たりません。どうやら、清掃工場裏手の運河に面したところに煙突が建っているようです。4番目の入口の奥に、かろうじて煙突が見えました。大田清掃工場は辺鄙なところに立地していますので、近場にはバス停意外に鉄道駅がありません。仕方がないので京和橋を渡って昭和島に入り、鉄鋼団地の中を通って東京モノレールの昭和島駅に辿り着きます。今までは大回りして駅の西側に出ていたのですが、こっちの道が随分と近道です。今日は出足が遅かったので、昭和島駅に辿り着いたのは16時前で、辺りには秋の夕日が侘しく射していました。大井車両基地辺りを歩いていた時は今夜家に帰れるのかと恐怖心が沸いていましたが、なんとか夕暮れ前に電車に乗れて良かったです。清掃工場巡りはかなり過酷なお散歩になりそうです。
三日目:昭和島駅から田園調布駅まで(多摩川清掃工場)
今日は曇りながら雨が降る心配はなさそうです。昨日の続きで、昭和島駅から出発します。昨日は東口で中断しましたが、今日は西口から歩き始めます。昭和島駅は乗降客が少ないためか、10月1日から終日駅係員が不在となっています。昭和島駅は、元々は昭和島車両基地への職員の通勤利用のために一部の列車を停車させていましたが、昭和六十年(1985)年2月に乗務区などの現業部門を浜松町から昭和島車両基地へ集約するのを契機に、車両基地周辺への工場利用者などの利便促進も兼ねて、一部の列車については一般客の乗降が可能な無人駅として開業しました。全ての普通列車が昭和島駅に停車するようになったのは平成四年(1992年)のことです。駅から少し羽田よりに進み、横断歩道を渡って、首都高1号羽田線高架下の人道トンネルを抜けますと目の前に昭和島運動場が拡がっています。今日は土曜日なので、野球場は子供達で一杯です。運動場の先には大森東避難橋が運河の上に架かっています。橋を渡りますと、水門の奥に旧呑川の跡地に造られた緑地公園が延びています。「東京の河川を歩く」でも訪れましたね。夫婦橋から国道15号(第一京浜)に沿って進み、南蒲田交差点を右折して環八に入ります。そのまま環八を進み、新蒲田二丁目交差点から西に延びる住宅地の小路をズンズン歩きます。矢口三丁目交差点で国道1号(第二京浜)を越え、多摩川小学校前から、旧堤通りに出ると多摩川清掃工場はすぐ先の右手にあります。規模は中くらいといった感じです。現在の多摩川清掃工場は三代目で、平成十五年6月に竣工しました。三代目の工場は建替え方式をとらず、既存の工場建屋をできるだけ活用し、プラントのみを更新する「プラント更新」の方式が採用されました。灰溶融施設もこの時に併設されました。煙突の高さは約100メートル、焼却能力は150トンの炉2基で一日当たり計300トンです。どちらかといえば、中規模の部類になるかと思われます。今日は世田谷・千歳の清掃工場まで行こうかと思っていましたが、昭和島駅から多摩川清掃工場まで2時間もかかり、環八沿いの世田谷・千歳の清掃工場の近くに適当な鉄道駅がないことから、田園調布駅で今日の歩きを終えることにします。本当のところは、竜王戦二日目の藤井聡太先生の対局が観たかったのです。早く帰って正解でした。夕方には双方1時間以上も残して決着がつきました。結果は?藤井竜王が広瀬八段に圧勝でした!
四日目:田園調布駅から高井戸駅まで(世田谷清掃工場・千歳清掃工場・杉並清掃工場)
曇天で日にちが空きましたが、今日は先日の中断地点の田園調布駅からのスタートになります。昨日から北風が吹き、お天気は回復したものの寒い朝です。田園調布駅から環八に出て、ひたすら北上します。九品仏・尾山台・等々力・上野毛を経て瀬田の交差点を歩道橋で渡ります。快晴なので富士山が拝めるかなと思ったのですが、西の方角にはビルが建て込んでいて見えません。東名高速に繋がる首都高3号線を越えると、その先には砧公園の緑の森が広がっています。青空の下で公園の芝生には保育園児や幼稚園児のグループが休憩中です。砧公園の北側に面して、世田谷清掃工場があります。道路を挟んで世田谷市場もありますね。世田谷市場は青果と花きを扱っています。世田谷清掃工場は煙突が奥に引き込んだ配置になっていて、砧公園側からはちょっと見えずらくなっています。ちなみに、煙突の高さは100mほどだそうです。世田谷清掃工場は昭和四十四年(1969年)に初代の工場が稼働を開始し、その後6年の建替え期間を経て、平成二十年(2008年)に新工場が竣工しています。新工場で採用されたガス化溶融炉は都内初とのことです。環八に戻って、更に北上します。世田谷区内2ケ所目の千歳清掃工場の煙突は遠くからでも目立つ高さです。千歳清掃工場は23区内で戦後初めて稼働した清掃工場で、昭和三十年から運転を開始しました。その後、二代目は昭和四十六年に、現在の三代目は平成八年に稼働を開始しました。一日当たり600トンの焼却能力を持ち、余熱は隣接する千歳温水プールに配給しています。更に更に北上し、京王井の頭線の高井戸駅の向かいにある杉並清掃工場に着きました。杉並清掃工場は、かの有名な「東京ゴミ戦争」の舞台となったところです。東京都と地元住民との間で勃発したゴミ戦争ですが、裁判所の和解勧告もあって、昭和五十七年(1982年)に初代の清掃工場が完成しました。一日当たり600トン、予備も合わせると900トンの焼却能力を持っていました。その後、煙突を除く処理棟が建替えられ、平成二十九年(2017年)に新工場が稼働を開始しました。新工場棟には「東京ごみ戦争歴史みらい館」が開設され、東京ゴミ戦争に関わる様々な資料が展示され、また映像で当時の様子を紹介しています。私も初めて見ましたが、その生々しいゴミ戦争の記録と資料の充実ぶりには驚くばかりでした。
”東京ごみ戦争”を知っていますか?
昭和三十年代、高度経済成長期を迎えた日本の人々の生活は、モノが豊かになると同時に大量の「ごみ」を出すライフスタイルに変化しました。急激に、爆発的に増加した「ごみ」は大問題になりました。大量のごみ処理のために早急に清掃工場を建設しなければならない東京都、ある日突然清掃工場の建設予定地になり激しい反対運動を展開した高井戸の住民、当時23区の「ごみ」が集中し深刻な環境被害を受けていた江東区、住民と行政を追い詰めた「ごみ」に対し、昭和四十六年(1971年)、美濃部東京都知事は「ごみ戦争」を宣言するに至りました。高井戸の住民はなぜ激しい反対運動を実施したのか、住民と行政はどのようにしてこの難局を乗り越え、どのようなことを学んだのか。初代杉並清掃工場は「東京ごみ戦争」の渦中にあった住民と行政が、衝突しながら話合い、歩み寄り、協力へと進み建設を実現した工場です。当館は、「住民と行政との協働」へのみちすじを拓いた杉並清掃工場の歴史と教訓を後世に伝え、未来へ活かすために設置しました。
Have you heard of the "Tokyo Waste War"?
Starting in the mid-1950s, Japan entered a period of rapid economic growth which transformed people's daily lives by offering them greater material abundance. At the same time, however, this new lifestyle also generated a greater abundance of waste. This sudden and explosive increase in waste created a major problem. On the one hand, the Tokyo Metropolitan Government determined that an incineration plant needed to be built quickly in order to dispose of the large volume of waste being produced, while on the other hand the residents of Takaido were vigorously protesting the sudden and unexpected selection of their community as the proposed site for this plant. Meanwhile, Koto City was reeling from the serious nvironmental harm caused by the concentration of waste being dumped on it from Tokyo's 23 municipalities. This disagreement between government and residents over waste eventually reached a boiling point in 1971, when then-Governor Minobe Ryokichi declared a "war on waste." Why did the residents of Takaido protest so vigorously? How were the residents and the government able to overcome their deadlock, and what was learned from this experience? The first Suginami Incineration Plant was built at the height of the Tokyo Waste War. This was possible because residents and the government did not let their conflict prevent them from engaging in meaningful dialog, compromise and cooperation. The story of how this path to cooperation between residents and government was opened is recounted here in this building, which has been established to share the history and lessons of the Suginami Incineration Plant with future generations.
資料室で時間を費やしましたので、今日は高井戸駅で歩きを終えます。「東京ごみ戦争歴史みらい館」は、ゴミ問題に限らず、行政と住民が様々な問題に向き合う際に参考となる貴重な指針を教示してくれる施設です。多くの人がこの施設を訪れて知恵をもらうことを願います。
五日目:高井戸駅から高島平駅まで(練馬清掃工場・光が丘清掃工場・板橋清掃工場)
今日は昨日に引き続いて「23区の清掃工場巡りコース」その5を歩きます。昨日の中断地点の井の頭線高井戸駅前の環八歩道に下り立ちます。今日はちょっと冷えますが、晴れの予報でお散歩日和です。今日の目標は、練馬区の練馬清掃工場と光が丘清掃工場の2ケ所を訪れることです。高井戸駅から環八をひたすら北上します。人見街道・井の頭通り・五日市街道と交差し、荻窪橋で善福寺川を渡ります。その先で中央線の線路にぶつかります。車道は地下道で線路下をくぐり抜けられますが、歩道は行き止まりになっていて、右にカーブして荻窪駅方向に進むしかありません。それでは遠回りになりますので、左手の道路を少し進みますと線路下に人道トンネルが見つかりました。そこをくぐると、光明院(通称:萩寺)の境内横に設けられた細い通路に出ます。何度も通ったところです。光明院を出て、再び環八に沿って進みます。環八と青梅街道が立体交差する四面堂交差点の名前は、光明院の御堂が起源とされています。環八は、早稲田通りと交差する清水三丁目交差点の手前から練馬区の環八南田中交差点先の練馬トンネル接続地点まで地下の井荻トンネルになります。トンネルの地上部分は緑化され、換気のための巨大な塔が北と南の2ケ所に設けられています。環八南田中交差点で環八は右にカーブしますが、そのまま直進して笹目通りを北上します。「笹目」の名前は、開通当時に埼玉県戸田市大字の笹目を通っていたことに由来します。谷原交差点で左折し、目白通りを関越自動車道の練馬インター方向に進みます。北原通りと合流する三軒寺交差点を右折しますと、右手に練馬清掃工場が見えてきます。煙突が特徴的で、下部に見晴台のような窓がついています。最下部は蔦で覆われ、煙突に蔦が絡まっていて大丈夫かいな?と思いますが、大丈夫なのでしょう。建物も綺麗で、ゴミの焼却場にはとても見えません。
練馬清掃工場から練馬区2つ目の光が丘清掃工場に向かいます。住宅地の路地をくねくねと曲がりながら進みますと、再び笹目通りに出ます。高松六丁目交差点の先から右折して四季の香公園に出て、光が丘五丁目交差点を右に進むと光が丘清掃工場の前に出ます。光が丘清掃工場は建替工事が令和三年3月に竣工したばかりで、ピッカピカの最新鋭工場です。こちらの煙突の下部も何かの植物で覆われています。私が見たところ、こういう煙突は練馬区の2工場だけのようです。今日はここまでにしようかと思ったのですが、光が丘駅から帰ると乗り換えが面倒です。未だ午後の1時過ぎなので、予定していなかった板橋清掃工場にも行ってみようと思います。光が丘公園の南側をぐるっと回って田柄高角交差点から公園の東側を北に進みます。赤塚新町小のところで板橋区になります。赤塚新町三丁目交差点で川越街道に入り、その先の成増二丁目交差点を右折して松月院通りを進みます。松月院は、房総に勢力を持っていた武将の千葉自胤が康正二年(1456年)に現在の千葉県の市川から赤塚城に移り、その後此の地にあった古寺の宝持寺を自身の菩提寺として定めて土地を寄進し、松月院と改名したのが始まりであるといわれています。幕末には砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆に因んでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれました。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、この松月院の名を有名なものにもしました。松月院は板橋十景に選ばれるなど、板橋区内でも由緒ある寺院として知られています。首都高池袋線を越えますと、左手に広大な赤塚公園、右手に巨大な高島平団地の高層住宅が林立しています。高島平団地の敷地面積は36.5ha,総戸数は10、170戸で、日本住宅公団(現在のUR)が手掛けた団地の中では最大の規模(戸数)を誇っています。当時の郊外型団地に多かった5階建ての住宅とは違って、11〜14階建ての高層住宅が38棟もあり、3万人の住民が移り住みました。板橋清掃工場は都営三田線高島平駅の北東に位置しています。工場の裏手には前谷津川緑道が通っています。そんな川があったとはちっとも知りませんでした。正門はバス通りに面しています。現在の板橋清掃工場は三代目で、平成十四年(2002年)に竣工しました。稼働を始めてから20年が経過しますが、建物はとても綺麗です。何より、工場の敷地内には多くの樹木が植えられていて、森の中の工場といった感じです。高島平駅に着いたのは午後の3時過ぎでした。今日はよく歩きました。3万歩を越えたのも久しぶりです。高島平駅から次の北区の北清掃工場まではかなり距離があります。ルートを調べておかないと。
六日目:高島平駅から都営北車庫前バス停まで(北清掃工場)
今日は秋晴れの予報です。風もなく、小春日和といった感じです。今日は先日の続きで高島平駅東口から歩き始めます。昨夜ルートを調べた際には、高島平駅から北に進み、徳丸橋を渡って新河岸中央通りを東に向かい、浮間舟渡駅から埼京線沿いに進んで環八に入り、赤羽交差点から北本通りに入るのが一番分かりやすいように思えました。ところが、三田線の電車に乗って高島平駅に向かっている間にもう一度地図を見てみますと、そのルートはかなり大回りになっています。そこでなるべく最短ルートにしようと、高島平駅の前を通っている高島通りを東に進み、中山道手前の交差点を右折し、御成塚通りを進むことにしました。「御成塚」は古墳で、その痕跡が近くの志村公園内に残っているそうです。寛永十二年10月7日、徳川三代将軍の家光がこのあたりで鹿狩りをしたという記録もあります。また、八代将軍の吉宗は人一倍狩りが好きだったとのことで、盛土で塚を築いてその頂上に椅子を置いて腰掛け、狩りをするところに合図を送ったり、また自分も弓を持って狩りをしたのだそうです。今では想像もつきませんが、この辺りには古くは鶴や雁、鴨などがたくさん住んでいたようです。今日のところは御成塚はパスします。環八を横断し、志村二丁目交差点から城山通りに入らず、見次公園脇の道路を進みます。見次公園の名称は、中世の志村城の城主だった篠田五郎の家臣見次権兵衛に由来します。この辺りは崖線にあたっているため、道路から急峻な斜面が下りていて、その先にはボート遊びもできる大きな池があります。見次公園上交差点で左折し、福寿通りを東に進みます。道路の両側にはTOPPAN(凸版印刷)の敷地が広がっています。TOPPANは大日本印刷と国内の印刷業界を二分し、世界最大規模の総合印刷会社です。中山道を横断し、善徳寺前交差点を右折して、島下公園のところから、廃線となった軍用貨物の線路跡を利用して造られた赤羽緑道公園に入ります。ここは何度も通ったところです。そのまま道なりに進むとURの赤羽台団地(現在は「ヌーヴェル赤羽台」)の中に入ります。隣接して東洋大学赤羽台キャンパスが完成間近です。新キャンパスは、赤羽台中学校(桐ヶ丘中学校と統合)の跡地に建設されていて、TRONの生みの親である坂村健が学部長を務める情報連携学部が入ることになっています。ちなみに、設計は隈研吾氏が担当しています。さすがに木造の建物ではありませんが。突き当たりの階段を下りて、赤羽駅の西口に出ます。自由通路を通って東口に出ますと、呑兵衛横町に出ます。立ち飲みの「いこい」は、店内はもとより、道路上に置かれたテーブルも酔客で超満員です。路地を巡って北清掃工場の裏手に出ます。いつも北本通りの方からばかり見ていたのですが、煙突は裏手の方から見た方が間近に感じられて迫力があります。私は北清掃工場の煙突はレトロなデザインで好きなのですが、2022年から建替工事が始まり、全ての施設を解体して建て直されることになっています。敷地内に清掃車が停まっていますので、未だ稼働はしているのかもしれません。新工場は同規模になる予定ですが、煙突はどんなデザインになるのでしょうね。今日は頑張って足立清掃工場まで行こうかと思っていましたが、竜王戦第三局の二日目が行なわれています。一日目は広瀬八段が優勢だったので、藤井聡太先生が負けるのを見たくないし・・・と思いつつ、どうにも我慢できず、今日はここで歩きを中断することにします。すぐ近くの志茂駅から帰るのもいいのですが、目の前に都バスの車庫がありますので、今日はバスで帰ることにします。で、家に帰って踏破記を書きながらABEMAをちらちら見ていましたら、藤井先生が互角から優勢になり、勝勢になり、遂に勝利しました。早く帰って正解でした!
七日目:都営北車庫前バス停から東武花畑五丁目バス停まで(足立清掃工場)
今日は10月31日、ハロウインですね。最近は31日より前の土日にハロウイン仮装を行なうところが殆どです。平日の会社帰りに特殊メイクやキモイ仮装をして街を練り歩くのは時間的に難しいですからね(ところが、今夜のテレビを観ていましたら、渋谷はソウルに匹敵する位の人混みでした)。でも、土曜日なんかだと翌日がお休みなので、つい羽目を外して朝までドンチャン騒ぎをやってしまいがちです。29日夜に起きたソウルの大惨事もそのような気分の高揚が関係しているのかもしれません。東京でも29日の昼間は大人から子供まで様々な仮装をした人達が都心を練り歩いていました。1年に1回しか着ないのに、大金はたいてグッズを揃えるのもどうなんでしょうね。ブラジルでは、1年の稼ぎを全てカーニバルで散財してしまうそうですが、日本も何れそうなるかも。それはさておき、土曜日の藤井聡太先生の大逆転劇の興奮も覚めやらぬ中、今日は北清掃工場の次の足立清掃工場を目指します。都営北車庫前バス停を出発し、北本通りを神谷陸橋に向けて進みます。神谷陸橋で北本通りと環七が立体交差します。環七が通る神谷陸橋は、そのまま隅田川に架かる新神谷橋に繋がっています。隅田川を渡ると、殺風景な街並みを抜け、今度は荒川に架かる鹿浜橋を渡ります。鹿浜橋は荒川の両岸間451m(取り付け道路を含めた総延長は922m)に架かっていて、アーチもケーブルもない平坦な構造をしています。鹿浜橋を渡ると、目の前を首都高川口線の高架が通っています。もう二度と来ないだろうと思っていた都市農業公園を抜けて、高架に沿って北に進みます。流通センター北交差点で右折し、舎人公園の北端を通って東に進めば足立清掃工場に辿り着きます。何回も通ったところなので、交差点の名前だけ注意していれば間違えることはないでしょう。と、何か結構歩いたなぁと思っていたら、いつの間にか足立区と埼玉県の境界を流れる毛長川に突き当たってしまいました。地図で確認しますと、流通センター北交差点は遙か前に通り過ぎています。距離にして1km位でしょうか。戻る時間を勘案すると、30分は余計に歩いてしまいました。気を取り直して、歩き直します。舎人公園から先は足立区の散歩道で百万回位通ったので間違えようがありません。足立清掃工場の紅白に塗り分けられた煙突は130mの高さがあり、周辺に高い建物がないために、ソールズベリーの大尖塔と同様にどこからでもよく見えます。煙突は清掃工場の奥の東武スカイツリー線の高架近くに建っていますので、表門から眺めるよりも都営団地の北側の小路から見上げた方が迫力があります。煙突は大分年季が入っていて、そろそろ建て替えを考えてもよさそうです。今日は西新井駅まで歩こうかと思っていたのですが、気が変わって花畑団地にあるベルクスに立寄ることにします。ベルクスは足立区を本拠地とする地元スーパーで、品添えが豊富な上に激安です。八百屋さんからスタートしたらしく、特に野菜はメチャ安です。私の関心はワインとお魚ですが、どちらも他のスーパーの追随を許しません。この時期、運が良ければハガツオの刺身に出会えます。ハガツオ(歯鰹)はカツオに似ていることから名付けられましたが、実際はスズキ目・サバ科に分類される魚です。地方によって、キツネ・キツネガツオ・サバガツオ・シマガツオ・スジガツオ・ホウセンなどとも呼ばれます。スーパーのお魚売り場には滅多に並びませんが、ベルクスではこの時期たまに売られているんですよね。今日はどうかな?と思ってわざわざ立寄ったのですが、ありました!しかも大量に!刺身にするとネットリとした舌触りで超美味です。スパークリングワインには最高のお供です。というわけで、3パック(1匹半)も買い込んでしまいました。今夜はワインが進む・進むの進む君ですぅ。結局、食べきれませんでした。半分食べるのがやっとで、残りは明日に持ち越しです。生ものなので大丈夫かなぁ。。。
八日目:東武花畑五丁目バス停から都営新宿線瑞江駅南口まで(葛飾清掃工場)
一昨日訪れた足立清掃工場は東京の北端に位置していますので、23区の清掃工場巡りは西側半周を踏破したことになります。今日は花畑五丁目バス停から葛飾清掃工場を目指します。葛飾清掃工場は足立区と中川を挟んだ対岸の葛飾区にありますので、どこかで中川を渡らないといけません。ところが、中川は案外と橋が少ないのです。そこで、内匠橋を渡って花畑運河(花畑川)沿いに進み、葛西用水を南下して大谷田橋交差点で左折し、飯塚橋を渡るルートを選びました。花畑運河は以前はドブ川でしたが、最近改修工事が進み、見違えるように綺麗になりました。花畑運河は昭和六年(1931年)に綾瀬川と中川を結ぶ運河として開削されました。葛西用水親水水路と中居堀親水水路の水源となっていますが、現在は水質保持のために綾瀬川と接続する花畑水門は閉じられています。葛西用水は、江戸幕府が万治三年(1660年)に天領開発の一環として、関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路です。利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として使われ、その後も新田開発が行われるたびに延長や取水口の遷移を行い、最終的に一貫した用水路として完成したのは100年後の1760年代になってからでした。現在は暗渠化されていますが、かって亀有から墨田区内の区間は亀有上水・曳舟川と呼ばれていました。見沼代用水・愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称され、疏水百選にも選定されています。大谷田橋交差点は環七が陸橋で跨ぎ、その下を五差路が交差する巨大交差点です。交差点の東南側は広大な中川水再生センターの敷地になっていて、その上部は中川公園として開放されています。中川に架かる飯塚橋は足立区と葛飾区を結ぶ数少ない橋のひとつです。橋を渡った先の左手に葛飾清掃工場があります。北側に子ども動物広場、東側に水元スポーツセンター公園が隣接しています。葛飾清掃工場は歴史が古く、昭和三十九年(1964年)に初代工場、昭和五十一年(1976年)に二代目工場、そして平成十八年(2006年)に現在の三代目工場が稼働を開始しました。高層ビルの少ない葛飾区北部にあって、白と青の波型に塗り分けられた巨大な煙突は中川対岸の足立区側からもよく見えます。葛飾清掃工場の近くには適当な駅がありませんので、金町駅まで歩くことにします。岩槻橋交差点まで真っ直ぐに進み、右折して金町駅方向に進みます。途中、金町中学校の手前の交差点で左折し、路地を進んで金町駅北口に到着します。今日はここで歩きを終える予定でしたが、まだ午後の1時過ぎでしたので頑張って先に進むことにします。金町駅から柴又街道に入ります。左手には金町浄水場の広大な敷地が広がっています。東京都の東部地域に水道水を供給する一大浄水場です。金町浄水場は、江戸川の表流水を1日平均約80万トン採水・処理し、都内計12区の約250万人に水道水を供給しています。敷地面積は東京ドーム5.5個分にも相当します。1985年に厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれ、中でも江戸川右岸に2基ある取水塔はトンガリ帽子とドーム状の屋根で有名です。寅さんの映画「男はつらいよ」シリーズや漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場しています。柴又街道は道筋が南北に通っていますので、東西方向の鉄道路線と何箇所かで交差します。交差した近くには、京成金町線の柴又駅・北総鉄道の新柴又駅・京成本線の京成小岩駅・総武本線の小岩駅、そして都営新宿線の瑞江駅があり、途中で歩きを中断しても電車で帰れます。何処で歩きを中断してもいいなと思っていたのですが、結局日暮れになって瑞江駅の近くに来ました。金町から2時間40分、花畑五丁目バス停から約6時間・3万歩余りの行程でした。結構疲れましたが、頑張って距離を稼いだのでこの先は少し楽になるでしょう。次の江戸川清掃工場までは瑞江駅から直ぐです。達成感に溢れて家に帰り、改めて23区の清掃工場の配置図を眺めていましたら、重大なことに気が付きました。ナント、墨田清掃工場を抜かしていたのです。23区の外周ばっかりに気をとられていたので、少し内側にある墨田清掃工場が盲点になっていたんですね。そんなら葛飾清掃工場→墨田清掃工場→江戸川清掃工場の順に巡れば効率的に回れたのですが。仕方がないです。瑞江駅から墨田清掃工場に戻って江戸川清掃工場に向かうのは余りに効率が悪すぎます。最適なルートは頭を休ませてから考えましょう。
ところで、このような複数箇所を一筆書きで回る最適解をもとめるのが、いわゆる「巡回セールスマンの問題」です。巡回セールスマンの問題は、都市の集合と各2都市間の移動コスト(たとえば距離)が与えられたとき、全ての都市をちょうど一度ずつ巡り出発地に戻る巡回路のうちで総移動コストが最小のものを求める(セールスマンが所定の複数の都市を1回だけ巡回する場合の最短経路を求める)組合せ最適化問題です。「都市」を「清掃工場」に置き換えれば私が悩んでいることと同じです。この問題は2000年にクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題の一つとして出された「P≠NP予想」に含まれ、この問題に対しては100万ドルの懸賞金がかけられましたが未だに未解決です。21世紀中に解決されるかどうかも定かではない数学上の超難問です。最新の超高速コンピューターを使っても、都市の数が20を越えると最適解を求めるのは時間的に困難と言われています。23区の清掃工場は21箇所ありますので、私の頭では最適な巡回ルートを見つけるのは絶対に不可能だといえます。
九日目:都営新宿線瑞江駅南口から新木場駅まで(江戸川清掃工場・新江東清掃工場)
一晩寝て頭を休めて考え直してみたのですが、葛飾清掃工場→墨田清掃工場→江戸川清掃工場のルートが最短らしいとは推測できるのですが、瑞江駅まで来た以上、瑞江駅→墨田清掃工場→江戸川清掃工場→新江東清掃工場か、瑞江駅→江戸川清掃工場→墨田清掃工場→新江東清掃工場のどちらかしかなさそうです。一旦後者のルートにしようと決めて江戸川清掃工場に向けて瑞江駅を出発しました。瑞江駅から篠崎街道を横断して江戸川に面した江戸川清掃工場までは30分ほどで到着しました。江戸川清掃工場は現在建て替え工事中で、工場棟は巨大なパネルに覆われ、煙突部分は上部が足場で囲われて解体工事真っ最中です。敷地全体が高い工事用の塀に囲まれていて、工場名を示すプレートすら見えません。未練は残りますが、超大回りして墨田清掃工場に向かいます。新大橋通りを歩いている時に、墨田清掃工場を最後にして、先に新江東清掃工場→有明清掃工場→中央清掃工場の順に巡った方が良いのではないかと考えが変わりました。巡回セールスマンの問題の解が分かっていれば悩まなくて良かったのですが。ということで、葛西工業高校前交差点を左折し、環七に入ります。そのまま真っ直ぐに南下し、環七の起点である葛西臨海公園前交差点で右折し、湾岸道路を西に向かいます。私が愛用しているこの辺りの地図は2万分の一の縮尺で、荒川に架かる荒川河口橋まで遠く感じます。荒川河口橋は河口だけあって長大な長さで、橋長は840mもあります。でも、視界は360°開け、都心部から東京湾まで一望できます。新江東清掃工場は荒川河口橋を渡りきったすぐ右手の夢の島に位置しています。夢の島とはロマンを感じますが、実際は1950年代後半から1970年代前半に埋立中だった処分場の名称で、当時は清掃工場の焼却処分が間に合わず、廃棄されるごみの約7割が未処理でそのまま埋め立てられていました。夢の島どころか、生ゴミの島だったのです。新江東清掃工場はそんな広大な敷地に建っていますので、都心の清掃工場のように道路に面して入口があるということはなく、工場まで長い清掃車専用の取付道路が延びていて、どこに入口があるのかも分かりません。なので、工場名を記したプレートは見えませんでした。夢の島緑道公園の中を通って、明治通りの起点である夢の島交差点で左折し、新木場駅で今日の歩きを終えます。急な予定変更でしたが、改めて23区の清掃工場の配置図を見ますと、墨田清掃工場を最後に廻したのもあながち間違いではなかったような気がします。正解は巡回セールスマンの問題が解決した後でわかるでしょうけど。
十日目:新木場駅から八広駅南口まで(有明清掃工場・中央清掃工場・墨田清掃工場)
今日は湾岸エリアの有明清掃工場と中央清掃工場を巡ろうと思います。ちょっと曇って日差しは弱いですけど、雨の心配はなさそうです。新木場駅から明治通りの起点になる夢の島交差点を左折し、湾岸道路に沿って進みます。湾岸道路の北側は、夢の島一丁目〜三丁目に町域が設定されています。夢の島一丁目には夢の島競技場とか夢の島運動広場があり、運動公園となっています。夢の島二丁目にも陸上競技場やコロシアムがあり、湾岸道路沿いは夢の島緑道公園になっています。夢の島三丁目には少年野球場もありますが、敷地の殆どは新江東清掃工場が占めています。1938年に当時の海を埋め立てて巨大な水陸両用空港「東京市飛行場」を建設する計画がありましたが、戦局が厳しくなって計画は資材不足のため中止となりました。1947年になり、使い道が未定だった東京湾埋立14号地に「夢の島海水浴場」がオープンし、この時からこの地が「夢の島」と呼ばれるようになったのです。当時の東京湾は高度経済成長による水質汚染が起こる前で、とてもきれいな海でした。ビーチにはヤシの木が植えられ、「東京のハワイ」として宣伝され、家族連れなどで賑わいました。しかし、たび重なる台風被害や財政難により、僅か3年で閉鎖されてしまいます。その後、巨大遊園地を作る計画などもありましたが頓挫し、7年間放置されました。その後、日本は高度経済成長期に突入します。国民の生活は日増しに豊かになり、人口は爆発的に増え始めました。しかし、それに伴い都内で発生するゴミの量も急増し、それまでの処分場ではまかないきれなくなりました。そこで、1957年からのゴミの埋め立て処分場として選ばれたのが夢の島でした。東京都は江東区に対し、ゴミによる公害を防ぐことを公約していましたが、当時のゴミの処分は、生ゴミなども燃やさずにそのまま投棄するというものでした。東京で出たゴミの7割が江東区に集まり、毎日5000台の収集車で運ばれたため、夢の島はあっというまにゴミで覆われました。江東区内では渋滞や交通事故が多発し、収集車から道路へとこぼれた生ゴミや汚汁が悪臭を発生させ、夢の島からやってきたハエやネズミが住民の生活をおびやかしました。極めつけは1965年で、夢の島のゴミの山の中から発生したハエの大群が江東区の住宅街に襲来しました。ありとあらゆるものにハエが群がり、小学校では授業もままならないほどだったといい、この被害は4カ月以上も続きました。これは全国的なニュースで取り上げられ、夢の島は「ゴミの島」や「ハエの天国」として広く知られるようになりました。その間、都はヘリコプターでの殺虫剤の散布などを行っていましたが効果はなく、ついに消防隊に要請し、重油を撒いて夢の島一帯のゴミを焼き払う「夢の島焦土作戦」が決行されました。同年11月に2万個の毒団子によるネズミの殲滅作戦を行い、翌年になって夢の島はゴミの埋立地としての役目を終えました。しかし、ゴミ問題はその後も続き、杉並区でのゴミ戦争を経て、23区内各所に清掃工場が新設されたことから、ようやく終結に向かったのです。昭和四十四年(1969年)に、それまでの俗称だった「夢の島」が正式な行政地名として採用され、現在に至っています。湾岸道路をずんずん進み、有明テニスの森公園の裏手にやってきました。道路を挟んだ反対側には現代アートのような鋭い角度をした巨大な煙突が聳えています。よくよく煙突を眺めてみますと、丸い円とその下に四角いポチポチが縦に並んでいます。昼間なのでよく分かりませんが、夜になると時計の表示がなされるとのことです。丸い円には小さな光源が12個配置されていて、赤く点灯する数によって何時がわかるようになっています。丸い円の下に並んでいるポチポチは全部で11個あり、5分経過するごとに1個ずつ黄色く点灯します。時刻表示の方が簡単で分かりやすいと思うのですがね。有明清掃工場は平成七年に稼働を開始し、一日当たり400トンの焼却能力があります。ちなみに、同じ江東区内にある新江東清掃工場は平成十年に稼働を開始しましたが、一日当たりの焼却能力は1800トンもあります。新江東清掃工場が如何に巨大な施設かが分かりますね。豊洲市場の間を通り、晴海運河を跨いで環二通りが通る豊洲大橋を渡って晴海に向かいます。東京オリンピックの選手村がマンションとして分譲された晴海フラッグですが、現在でも巨大なマンションが続々と建設中です。その目の前に中央清掃工場があります。中央清掃工場は平成十三年に稼働を開始し、一日当たり600トンの焼却能力があります。少なくとも、人口が急増している晴海地区の生ゴミ処理は問題なくできるでしょう。今日はここで歩きを終える予定でしたが、思いのほか時間がかからなかったので、巡り残した墨田清掃工場にも行けるのではないかと思い立ちました。湾岸地域から東京の北部に位置する墨田区までどれ位時間がかかるのか分かりませんが、キリよく終わらせるためにもチャレンジしてみたいと思います。晴海通りを進み、春海橋を渡って豊洲に入ります。ユニシスの前で晴海通りと別れ、豊洲橋と釣舟橋を経由し、深川ギャザリアの先で永代通りに入ります。東陽町駅の先で南砂緑道公園に入り、南砂三丁目交差点で明治通りに合流します。買い物客で賑わう砂町銀座商店街を横目にひたすら北上し、亀戸駅を過ぎて向島警察署入口交差点から中井堀通りに入ります。途中で右折して中平井橋通りに入り、新平井橋公園の中を通って墨田清掃工場に着きます。旧中川に面した墨田清掃工場は平成十年に稼働を開始し、一日当たり600トンの焼却能力があります。他の工場は300トンの焼却炉2基で600トンというケースが多いのですが、墨田清掃工場は焼却炉1基で600トンを処理します。点検時とか故障時はどうするのでしょうか?
ということで、23区の清掃工場を全て見て回りました。清掃工場というと汚いとか環境に悪いとか思われがちですが、私が見たところ、建物(特に煙突)は芸術的な美しさをしており、都心の単調で味気ない高層ビルに比べると何倍も魅力があります。敷地内には植樹がされていて、外部から見ると森の中の工場のようです。現在の生活には必要不可欠な施設でもあり、機会があれば是非工場見学などにも訪れてみたいものです。
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