2023年七福神巡りコース
- コースのご紹介
-
七福神
七福神とは、インド伝来の仁王経の中にある「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する福徳の神として信仰される七人の神の組み合わせです。日本では、大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人とされており、それぞれがヒンドゥー教・仏教・道教・神道など様々な背景を持っています。寿老人は福禄寿と同体異名として除き、吉祥天を加えることもあります。東京では、正月三が日・松の内・小正月までの期間、あるいは通年に亘って七福神詣が定着し、特にお正月の期間中は年頭の風物詩になっています。
2023年の七福神詣の四番目は山手七福神です。山手七福神は江戸から目黒不動・瀧泉寺への参詣道沿いに祀られた七福神を巡拝するもので、江戸で最初の七福神霊場とされています。新宿山ノ手七福神との混同を避けるため「元祖山手七福神」とも呼ばれますが、各寺院の表示や参詣の栞などでは「江戸最初・山手七福神」としています。
踏破記
東京メトロ南北線の白金高輪駅から山手七福神巡りを始めます。ちなみに、駅名は「しろがね」ではなく、「しろかね」と読みます。一方、「シロガネーゼ」は「ミラノっ子」を意味するイタリア語 の「Milanese(ミラネーゼ)」をもじって、光文社発行の女性向け月刊誌「VERY」の編集者だった相沢正人が1998年に作った造語です。「シロガネーゼ」は、バブル景気後半頃よりマスコミや不動産業者などが仕掛け人となって白金・白金台の高級住宅地化が促進されたこともあり、その後ファッション誌やワイドショーを中心にマスメディアで頻繁に取り上げられることとなりました。基本的に「シロガネーゼ」は「白金やその隣接エリアで生まれ育ち、高収入の夫を持つ、あるいは高収入の仕事を持つ」とされています。古くからの白金の住民は、女性誌によって作り出された「シロガネーゼ」に対して読みのことも含めて冷ややかな見方をしている人も多いとのことです。私も「シロガネ」と言って、白金在住のお友達に鼻で笑うように注意されました。
最初は覚林寺です。覚林寺は桜田通りから目黒通りが始まる清正公前交差点の脇にあります。山手七福神を祀るお寺には、必ず門前に「江戸最初山手七福神」の看板が立てられています。門前にないお寺もありますが。
-
毘沙門天を祀った毘沙門堂は、山門を入った左手にあります。
覚林寺【毘沙門天】
覚林寺は日蓮宗の古刹で、「清正公」という愛称で親しまれています。「清正公」とは加藤清正公のことです。清正公の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、境内に清正公を祀っています。武人の誉れ高い清正公にあやかり、「人生のさまざまな苦悩に打ち勝つ」というご利益を求めて参拝客が多く訪れます。毘沙門天は山門を入った左手のお堂に安置されています。
二番目は瑞聖寺です。長〜〜〜い参道を抜けた先の、目黒通りからかなり奥まった場所にあります。
-
布袋尊は本堂右手の扉の奥に鎮座しておわします。
瑞聖寺【布袋尊】
瑞聖寺は寛文十一年(1671年)に創建された禅宗黄檗宗のお寺です。本殿にあたる大雄宝殿は宝暦七年(1757年)に再建されました。東京大空襲の被害にあった東京で江戸時代から残る仏教建築として貴重な存在であり、国指定の重要文化財に指定されています。布袋像はこの堂宇の右側の仏壇に祀られています。
三番目は妙円寺です。参道は転げ落ちそうな下りの急坂になっています。通常、七福神は一社に一神ですが、妙円寺には福禄寿と寿老人の二神が祀られています。
-
福禄寿と寿老人をお祀りしたお堂は参道を下った右手にあります。堂内は撮影禁止になっています。
妙円寺【福禄寿・寿老人】
妙円寺は江戸時代初期の元和元年(1615年)の開創で、妙見大菩薩像は霊験あらたかなことから「開運妙見」とも呼ばれています。福禄寿と寿老人の像が祀られているのは本堂右手にある妙見堂です。妙見大菩薩を中心に、寿老人と福禄寿が両脇に立っておわします。
四番目は大円寺です。目黒駅の先の行人坂の左手のなかほどにあります。行人坂は急峻な下り坂になっています。
-
大円寺には大黒天が祀られています。
大円寺【大黒天】
大円寺のご本尊は伝教大師作と伝えられる大黒天です。大円寺は江戸城裏鬼門にあたることから徳川家康をモデルにした「大黒天」が祀られ、「江戸の三大黒天」として崇拝されています。大黒天は七福神のひとつで、狩衣に似た服を着て大黒頭巾をかぶり、左肩に大袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵の上に座る神様です。ご利益には、五穀豊穣・子孫愛育・出世開運・商売繁盛などがあります。
大円寺の本堂の左手には夥しい数の石仏が並んでいます。「大円寺石仏群」と呼ばれ、これらの石仏は「明和の大火」による焼死者を供養するために天明年間(1781年〜1788年)に造られました。明和の大火とは、明和九年(1772年)2月に大円寺から出火し、江戸市中の三分の一にあたる628町に延焼し、一万四千人もの焼死者を出した江戸の三大火事のひとつで、「目黒行人坂の火事」ともよばれています。ちなみに、残りのふつの火事は、「明暦の大火」と「文化の大火」です。明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれ、とある振袖を持っていた人が病気でバタバタと倒れて亡くなっていたので、怨霊がいると思った本妙寺の住職が振袖を燃やして供養した時に炎が風によって家に燃え移り火事となったといわれています。この火事によって江戸城の天守閣も焼失しました。文化の大火は文化三年(1806年)に芝車町(現在の港区)から出火し、風によって京橋・日本橋・上野方面を焼き払い、1200人の死者を出した大火です。この火事は、「牛町火事」や「車町火事」とも言われています。「天和の大火(八百屋お七の放火の原因となった火事)」は三大火事には入っていないんですね。
東京都指定有形文化財(歴史資料)
大円寺石仏群
明和九年(1772年)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦三年(1657年)の振袖火事、文化三年(1806年)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられている。「新編武蔵風土記稿」には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建 立されたと記されている。大円寺境内の北東側斜面に、520躯(身に區)の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝暦十三年(1763年)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1781年)以降の造立と思われる。嘉永元年(1848年)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。像高は、釈迦三尊像が147cm〜155cm、十大弟子像が55cm〜126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。
Tangible cultural property (Historical Material)
Daienji Sekibutsu Gun
In 1772 there was a great fire that burnt the city center of Edo and the fire was speculated to start in Daienji Temple. It is called "the fire of Gyoninzaka" which is one of three major fires of Edo (the others are the fire of Furisode in 1657 and the fire of Kuruma-cho in 1806). According to "Shinpen Musashi Fudo Kiko (a topography written around 1804 to 1829)", the statues of five hundred Arhats were built for victims of the Fire of Gyoninzaka. Along the slope at the northeast side of the Daienji Temple, 520 stone statues are enshrined. The statues of 10 Chief Disciples and the statues of 16 Arhats surround the statues of Shaka Nyorai with the statues of Monju Bosatsu on the left and Fugen Bosatsu on the right. Behind those statues, 491 statues of Arhats are lined up. There is an inscription of 1763 as the year of construction on some of 500 Arhats, but most of the statues were put up after 1781, which is the year inscribed on the statue of Syaka Nyorai. It is considered that these stone statues of Buddha were enshrined at the current location when Daienji Temple was rebuilt in 1848. The statues of Shaka Sanzon (three main statues) are from 147 to 155cm in height and the statues of 10 Chief Disciples are from 55cm to 126cm in height. The statues of 16 Arhats are 95cm in height, the statues of 500 Arhats about 37cm in height. According to the inscription that could be deciphered, these statues were built also for victims other than those in the Fire of Gyoninzaka. In addition, donations were widely solicited and the current stone statues of Buddha had been gradually made. These statues are a valuable source to know the history of disasters in Edo period.
大円寺は八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもあります。吉三とは歌舞伎や芝居などで知られる八百屋お七が恋した寺小姓です。吉三に逢いたいあまり自宅に火を放ってしまったお七は放火の罪で火刑に処されてしまいます。お七の処刑後、出家した吉三は西運と名を改め、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せると、明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音までの往復十里の道のりを念仏を唱えながら通うという一万日の行を発願しました。雨の日も風の日も、首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参し、27年5か月をかけてこれを成し遂げました。その夜に西運の夢枕にお七が現れます。その時の姿を模したのがお七地蔵で、明治初めごろ廃寺になって大円寺に吸収された明王院から仏像などと共に移され、阿弥陀堂の中に阿弥陀三尊と共に安置されています。ちなみにお七のお墓は文京区にある円乗寺に、お七の苦しみを代受苦としてその身に受けているほうろく地蔵は文京区の大円寺にあります。西運に深い関心を持っていた大円寺の住職であった福田実衍師は、昭和十八年に大円寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらいましたが、その一部が木枯らし吹きすさぶ中を念仏鉦を力一杯たたき念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑となり、境内に建っています。
八百屋お七と吉三(西運)
江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和二年(1682年)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。しかし、短い避難生活のこと、やがて離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。
(か:梵字)地蔵菩薩ご真言
おん。かかか。びさんまえい。そわか。
Oshichi and Kichiza (Saiun)
At the time of the big fire of 1682 (Tenwa 2, Edo-era), Oshichi, a daughter of vegetable shop owner, took refuge at a nearby temple called Enrinji. There she fell in love with a temple page, Kichiza. At the time, Oshichi was 16, Kichiza was 18.
When her refuge life ended she became separated from Kichiza. Upset, Oshichi set fire to her own house, thinking that she would be able to see Kichiza again. Even though the fire was small, arson was a serious crime at that time. Oshichi was dragged through the town and burned at the stake, at the Suzugamori execution ground (Ooi, Shinagawa Ward). After this, Kichiza shaved his head and changed his name to Saiun, and went on a chanting pilgrimage to pray for Oshichi. Upon returning to Edo (Tokyo), Saiun deified Amida Sanzon (Amitabha triad), at Myo-ou-in temple (currently Gajoen, located at the bottom of the hill from Daien-ji) and Saiun started ascetic practice of visiting the temple every other day for 10,000 days, (Kakuyanissan Ichimannichi gyo), during which he walked from Myo-ou-in in Meguro to Sensou-ji in Asakusa. It was approx 40km round trip, he did this while beating a gong, no matter what the weather was. It took him 27 years and 5 months to complete this practice. On the night of completion, Oshichi appeared in his dream and told him that she was now resting in peace. Her image from this dream was made into a statue called Oshichi-zou. Today you can see it in the building called Amida-dou at Daien-ji.
行人坂下の左手には広大な敷地のホテル雅叙園東京があります。同じ敷地に建つアルコタワーは雅叙園のシンボル的建物です。雅叙園は明治十三年まで此の地にあった明王院の敷地跡の一部を占めています。
雅叙園の入口脇に、「お七の井戸のシダレザクラ」と呼ばれている一本の桜の木が植えられています。樹高は7メートル・枝張りは6メートル・幹周りは1メートルの八重紅枝垂れ桜で、しだれ桜の中でも特に人気の高いエドヒガン系の品種です。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられています。
お七の井戸
八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺院は、現在のホテル雅叙園東京エントランス付近から庭園に架(か?)け明治十三年(1880年)頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。
五番目は蟠竜寺です。山手通りに架かる歩道橋の真下にあります。
-
蟠竜寺の辨財天は「岩屋弁財天」と呼ばれています。その名の通り、本堂右手奥の岩屋の中に鎮座しておわします。
蟠竜寺【岩屋弁財天】
蟠竜寺は、行人坂にあった称明院が宝永六年(1709年)に現在地に移され、改名再建されたお寺です。本尊の阿弥陀如来像は東京都の重要文化財に指定されています。岩屋弁財天は本堂の右手の岩窟の中に安置され、音楽・弁才・財福が授けられると信仰されています。
現在では岩屋の弁財天はいつでも拝観することができますが、弁天堂の弁財天は七福神巡りの時期しか拝観することはできません。
山手七福神は6社で構成されていますので、瀧泉寺が最後となります。
-
瀧泉寺の恵比寿神はお寺の境内の端っこの参道を挟んだ反対側の御堂に鎮座されておわします。
瀧泉寺【恵比寿神】
瀧泉寺は今から千年以上前の平安時代に開基されました。江戸時代には徳川家光の信仰も篤く、53棟にも及ぶ大伽藍が建立されました。そのきらびやかさは「目黒御殿」と称されるほどでした。千葉の成田不動尊・熊本の木原不動尊と並び、日本の三大不動のひとつに挙げられています。恵比寿神は境内の外れの三福堂に祀られています。御開帳は、七福神巡りの時期と毎月28日の縁日に行なわれます。
ということで、2023年七福神巡りの四番目のコース「山手七福神」を歩き終えました。ゴールは瀧泉寺の境内にあるバス停にしようかと思ったのですが、発車時刻が合わず五反田駅まで歩きました。
戻る