2023年七福神巡りコース

コースのご紹介
 
七福神

七福神とは、インド伝来の仁王経の中にある「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する福徳の神として信仰される七人の神の組み合わせです。日本では、大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人とされており、それぞれがヒンドゥー教・仏教・道教・神道など様々な背景を持っています。寿老人は福禄寿と同体異名として除き、吉祥天を加えることもあります。東京では、正月三が日・松の内・小正月までの期間、あるいは通年に亘って七福神詣が定着し、特にお正月の期間中は年頭の風物詩になっています。

2023年の七福神詣の第五弾は深川七福神です。深川七福神は江東区深川地域の七社寺に祀られている七福神の巡礼札所です。明治末期ごろに始まり地域民に親しまれてきましたが、戦後は一時中断し、昭和四十五年(1970年)に復活しました。

踏破記

深川七福神巡りは都営地下鉄の森下駅からスタートします。未だお正月の松の内ということもあって、駅前には初詣や七福神詣の人達と思われるグループが集まっています。




最初は深川神明宮です。深川神明宮は、此の地を開拓した深川八郎右衛門により伊勢神宮から分霊を勧請して慶長年間(1596年〜1615年)に創建されました。開拓したばかりでまだ地名がなかったため、徳川家康から八郎右衛門の姓である「深川」を地名にせよと命じられ、これが深川の地名の由来になっています。



寿老神を祀ったお堂は本殿の右横にあります。寿老神は寿老人とも書き、中国道教の神であると共に、中国の老子の化身の神ともいわれています。寿老神は白髪長寿の老人の姿をして杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っています。鹿は長寿を司る寿老神の神使とされ、寿老神は人に延命長寿の福徳を授ける福神として信仰されてきました。

深川神明宮【寿老神】

深川神明宮は、深川で最も古く創建された神社です。大阪摂津の深川八郎右衛門がこの付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として慶長元年(1596年)伊勢皇大神宮の分霊を祀り創建しました。寿老神は深川神明宮の境内の寿老神社に安置されています。




二番目は深川稲荷神社です。深川稲荷神社には布袋尊が祀られています。この付近の旧町名は深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日に深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から船の往来が激しく、この付近一帯に船大工が住んで船の修繕や造船をしていましたのでこの町名が生まれたといわれています。



布袋尊はお堂の奥の仏龕(ぶつがん)の中におわします。御堂の前には布袋尊の石像も鎮座しています。布袋尊は中国五代の頃に浙江省奉化県に実在した契此という高僧といわれています。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いですが腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔で清貧に甘んじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれてきました。また、人の吉凶や晴雨を予知したといわれています。契此は、中国五代の最初の王朝である後梁時代の貞明二年(916年)3月3日に高齢をもって寂しました。中国においては弥勒菩薩の化身として布袋尊が一般に信仰され、絵に描かれ、彫塑に刻まれ、あるいは置物として広く親しまれるようになりました。わが国に伝来した後は、清廉潔白・大気度量を人々に授ける福神として禅画や置物までなって親しまれ、信仰されるようになりました。

深川稲荷神社【布袋尊】

布袋尊の祀られている深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)に創建されました。深川地区では古い神社で、祭神は宇賀魂命・西大稲荷です。深川稲荷神社は無住社(住職や神主が住んでいない寺社)で、町会によって管理運営がなされています。社殿前には、石造りの笑い顔の布袋尊が安置されています。




三番目は龍光院です。龍光院は深川江戸資料館の先の右手にあります。龍光院は慶長十六年(1611年)に近くの雲光院の塔頭として創建されました。当時は「龍光院」というひとつの塔頭ではなく、「法龍院」・「清光院」・「清心院」の三つの塔頭でした。元々は雲光院と共に現在の日本橋馬喰町にありましたが、火事等により度々移転を繰り返し、天和二年(1682年)に現在地に移転しました。その後、享保十九年(1734年)に法龍院と清光院が合併して「龍光院」に改称され、天明八年(1788年)に清心院を吸収合併しました。現在は深川七福神の毘沙門天を祀るお寺として多くの参詣者が訪れています。



毘沙門天は本堂の奥に立っておわします。毘沙門天はインド名バイスラバンナ(ベイシラマダヤ)の音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられて仏神となったものです。経典によりますと、毘沙門天は四天王(持国天・増長点・広目天・多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大勢の夜叉や羅刹を率いて北方を守護していました。常に仏の道場に在って多くの法を聞き、あるいはその福徳の名声が遠く十方に聞こえることから多聞天と訳され、また財を授けることから施財天ともいわれます。その姿は身に甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手には三叉戟(三つまたの鎗)を持ち、忿怒の形相で邪鬼を踏みつけ毘沙門立ちをしています。毘沙門天はわが国では仏教守護から転じて、国土守護の武神として、とくに武将の間に信仰されるようになりました。中でも上杉謙信が毘沙門天を守護神としてあがめ、「毘沙門の申し子」といわれたことや、志貴山の毘沙門天に祈願してうまれた楠正茂が幼名を多聞丸と名づけられたことなどは、あまりにも有名です。また毘沙門天は護法と施福を兼ねる仏神として七福神の一神にも数えられ、民衆に勇気や決断力を与え、財福を授ける福神として広く信仰されています。

龍光院【毘沙門天】

龍光院が現在地に移ったときに鬼門除けとして境内東北角に三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、昭和十一年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。昭和二十年に戦災によって堂宇は焼失しましたが、復興して昭和五十年に木彫の立派な毘沙門天が安置されました。毘沙門天は、通常本堂の本尊の左手に安置されていますので、お正月以外でも本堂の扉を自分で開けてお参りできます。お正月の深川七福神御開帳期間には、本堂内の正面に据えられます。




四番目は円珠院です。円珠院は享保の頃に旗本永見甲斐守の娘のお寄の方が起立し、お寄の方は円珠院殿妙献日寄大姉の法名で享保十五年(1730年)に円珠院に葬られました。



円珠院には大黒天が祀られています。大黒天信仰にはふたつの流れがあります。ひとつは大黒天を大国主命とする流れで、これは多く神社に祀られています。もうひとつはインド名をマハカーラという仏神の大黒天で、これは多く寺院に祀られています。円珠院に安置されているのは仏神の大黒天です。インドのシバ神が悪神を退治した神話から仏教に取入れられ、摩訶迦羅天すなわち大黒天となり、夜叉荼吉尼衆を降伏する大日如来の化身となり、忿怒の戦闘神の姿をしていました。ところが大黒天はしだいに招福の神となり、忿怒の相が、笑顔の姿になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。わが国でもっとも古い有名な大黒天は比叡山の出世大黒といわれる三面六臂の大黒天です。正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天で、これは大黒天が降魔と施福のふたつの面を持っているのを表したものです。その後、大黒天は施福の一面のみが強調され信仰されるようになりました。大黒は大国に通じ、大国主命に結合して福神の形となり、烏帽子と狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし、人々に財宝を授ける福神となっています。米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使になっています。子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。

円珠院【大黒天】

円珠院には享保五年(1720年)11月13日に描かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天も安置されています。境内には石造の破顔大黒天が安置されています。江戸時代から深川の大黒天として有名でした。境内の大黒天はお正月でなくてもいつでも拝観可能になっています。黒い木造の大黒様は小柄で、財宝を授ける福神として威厳に満ちています。本堂の左手には笑い顔の石像の大黒天も安置されています。




五番目は心行寺です。福禄寿が安置されている心行寺は元和二年(1616年)に京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で、開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室の養源院殿です。寛永十年(1633年)に現在地深川寺町に移りました。関東大震災と昭和二十年の戦災により二度も焼失しましたが、昭和四十二年に現在の本堂が再建されました。昭和五十年には福禄寿が安置されている六角堂が完成しました。



福禄寿は心行寺の六角堂に安置されています。福禄寿は星宿の神・南十字星の化身ともいわれていて、長寿をつかさどる人望福徳の福神となっています。一説には、中国の宋の時代の嘉祐年間(1056年〜)に実在した道士であるといわれています。福禄寿は背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれる長寿をつかさどる福神で、杖を右手に、左に長命の鳥と鶴を従え、長命と円満な人格を人々に授ける福神です。また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける神ともいわれています。

心行寺【福禄寿】

心行寺は元和二年(1616年)に京橋八丁堀寺町に創建された浄土宗のお寺で、開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室である養源院殿でした。寛永十年(1633年)に現在の深川寺町に移った由緒ある名刹です。福禄寿は心行寺の寺門を入って本堂左手にある六角堂に安置されています。




六角堂の左手には、平成十六年に造られた福禄寿の石像も置かれています。この中には、移築の際に土中から発見された戦災前の福禄寿土偶が収蔵されています。



六番目は冬木弁天堂です。冬木弁天堂は、木場の材木豪商であった冬木弥平次が宝永二年(1705年)に茅場町から深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。この弁財天は等身大の裸形弁天で、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。冬木弁天は明治三年から一般に参詣を開放し、現在の弁天堂は昭和二十八年に再建されました。



冬木弁天堂には弁財天が祀られています。弁財天はインド名をサラスバティという川の名で、意訳して大弁天・美音天といわれています。この川の神は悪声を変じて美声に変える音楽の神・芸術の神でした。仏教の神となり、才智弁舌の神とされ、最勝王経には「もし財を求むるならば多財を与える」と説かれていました。わが国では弁才天より弁財天として、財宝を施す福の神として信仰されるようになりました。商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の仏神として位置づけられ、池・川・沼・湖などに多く祀られ、蛇が神使とされてきました。また、同経に、弁財天は、智慧・延命・安楽を与えるとと書かれています。江の島・竹生島・厳島の弁財天が昔から有名で、お姿は女神・白色の美顔・頭に宝冠をいだいています。一般には青色の衣を着し、左手には琵琶を抱き、右手でこれを弾いている座像が多いのですが、中には八臂・各手にいろいろな器杖を持っているものもあります。正月最初の巳の日を昔から初巳・初弁天としており、この日は弁財天への参詣者が多く、巳成金という海運のお守りを受けて金持ちになるというならわしとなっています。弁財天を宇賀神として信仰しているところもあります。

冬木弁天堂【弁才天】

木場の材木豪商であった冬木弥平次は、宝永二年(1705年)に茅場町(中央区)から深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに竹生島から移した弁財天を安置しました。この弁財天は等身大の裸形弁天で、年に一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災で焼失しました。冬木弁天は明治三年から一般に参詣を開放し、現在の弁天堂は昭和二十八年に再建されたものです。




最後の七番目は富岡八幡宮です。富岡八幡宮には恵比須神が祀られています。富岡八幡宮は寛永四年(1627年)に当時永代島と呼ばれていた小島に創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と居住地を開き、今日の八幡宮境内・深川公園地・富岡町・門前仲町を含む六万五百八坪の社有地を得ました。以来隅田川両岸一帯(深川及び現在の中央区新川・箱崎地区)の氏子を始め、広く世の崇敬を集めている江戸最大の八幡様で、「深川の八幡様」として親しまれています。



恵比須神は富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されています。エビス神はイザナギノミコトの第三子にあたる蛭子尊であるといわれ、全国のエビス信仰の中心は兵庫県西宮市の西宮神社です。一説によるとエビス神は大国主命の子にあたる事代主命で、釣好きの神であるといわれています。また鯛の故事にちなみヒコホホデミノミコトともいわれます。エビス神は烏帽子をかぶり、狩衣を着て右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱き、岩の上に座った姿をしておられます。最初は航海安全の神として信仰されてきましたが、のちに商売繁盛の神として広く信仰されるようになりました。エビス顔といわれるように、笑顔愛敬・和顔愛語の福徳を人に授け、かつ富財の神として信仰されてきました。また釣り関係の人々の信仰もさかんです。一月十日を初えびす、十日戎ともいい、九日を宵戎、十一日を残り戎といって、西宮神社を中心として関西では多くの参拝客で賑わいます。

富岡八幡宮【恵比須神】

富岡八幡宮は寛永四年(1627年)に当時永代島と呼ばれていた小島に創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立てて社地と居住地を開き、今日の八幡宮境内・深川公園地・富岡町・門前仲町を含む、全部で六万五百八坪の社有地を得ました。恵比須神は富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されています。八幡様といえば江戸三大祭りのひとつ、深川八幡祭りです。境内には、近代日本地図の祖である伊能忠敬像や、石碑では日本一と言われる約20トンもの巨大な横綱力士碑などがあります。




ということで、2023年七福神巡りの五番目のコース「深川七福神」を歩き終えました。ゴール地点の門前仲町駅出入口2のすぐ横には大衆酒場の雄である魚三があります。6日から新年の営業を始めるとの告知文が貼り出してありますが、開店までは未だ3時間あります。今日のところはおとなしく家路につきます。






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