2023年七福神巡りコース

コースのご紹介
 
七福神

七福神とは、インド伝来の仁王経の中にある「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する福徳の神として信仰される七人の神の組み合わせです。日本では、大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人とされており、それぞれがヒンドゥー教・仏教・道教・神道など様々な背景を持っています。寿老人は福禄寿と同体異名として除き、吉祥天を加えることもあります。東京では、正月三が日・松の内・小正月までの期間、あるいは通年に亘って七福神詣が定着し、特にお正月の期間中は年頭の風物詩になっています。

2023年の七福神詣の最後は新宿山ノ手七福神です。新宿山ノ手七福神は昭和初期に創設されたと伝えられていて、ご朱印の他にご神体(ミニ御尊像)と宝船も頒布されています。お正月の期間だけでなく一年を通して巡ることができますが、御朱印などの対応はお正月の幕の内の期間以外は各札所によって異なりますので注意が必要です。

踏破記

新宿山ノ手七福神巡りは飯田橋駅からスタートします。地下鉄の飯田橋駅には多くの出入口がありますが、今回は神楽坂に面した出入口B3を使います。




最初は善國寺です。善国寺は神楽坂の坂上近くにある朱門が特徴的なお寺です。安土桃山時代の文禄四年(1595年)に池上本門寺第十二代貫主だった日惺上人により馬喰町に創建されました。度々火災に見舞われ、麹町を経て寛政五年(1793年)に神楽坂に移転しました。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺と共に、江戸三毘沙門と呼ばれました。現在は新宿山ノ手七福神の一社になっています。善国寺で縁日に露店などが出るようになったのは明治二十年(1887年)頃からのことで、東京における境内露店発祥の地とされています。



毘沙門天は本堂の中央の仏龕(ぶつがん)の中におわします。毘沙門天はインドの神で、四天王の一神です。怒りの相を現わし、甲冑をつけ、矛を持った姿をなされています。本堂の前に案内板が立っています。

新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺の毘沙門天像

「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄四年(1595年)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。




二番目は経王寺です。経王寺は慶長三年(1598年)に武蔵国豊島郡市ヶ谷田町(現在の新宿区市谷田町付近)で尊重院日静が開山し、日法作とされる大黒天像を身延山久遠寺から移して創建されました。寛文八年(1668年)に、明暦三年(1657年)に発生した明暦の大火後の復興に伴う江戸拡張のため、市ヶ谷川田久保町に移転しました。享保十年(1725年)に火災が類焼して堂宇を焼失しますが、享保十四年(1729年)頃までに堂宇が再建され、明治十年(1877年)4月12日に火災で再び堂宇を焼失しました。



大黒天はお堂の奥の仏龕の中におわします。経王寺の大黒天は、日蓮聖人の高弟の一人ですぐれた仏師でもあった日法上人が彫った木像です。新宿区の有形文化財にもなっています。江戸の大火など度重なる火災に遭っても焼失からまぬがれたために、「火伏せ大黒」と呼ばれ、江戸庶民の人気を集めていたそうです。全身が黒い大黒天は、目に見えない大きな幸せを闇にまぎれて運んでくださいます。お寺の入口の階段横に案内板が立っています。

新宿区指定有形文化財 彫刻
経王寺の大黒天像

新宿山ノ手七福神のひとつで、日法上人の作、慶長三年(1598年)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。高さ十二センチの木造の立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち、台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから「火防せ大黒」として、また「新宿山ノ手七福神」の大黒天として崇敬されている。




三番目は永福寺です。永福寺は曹洞宗の寺院で、慶安元年(1648年)に創建されたと伝えられています。



福禄寿は本堂の向かいの小祠の中に立っておわします。

永福寺【福禄寿】

嘉永年間(1848年〜1854年)に豊玉村に居住し植木師をしていた鈴木源蔵が信州善光寺に参詣した帰り道、犀川の岸辺で福禄寿に似た奇石を拾いました。源蔵は深く喜びこの石を家宝とし、秘蔵して日々礼拝供養を怠らずにいると日ごとに家は栄えました。昭和九年に秘宝を公開することにし、福禄寿を永福寺に移転し安置しました。福禄寿は本堂向かいの社に祀られています。




四番目は厳嶋神社です。厳嶋神社は源義家(八幡太郎)が創建したといわれる歴史ある神社で、源義家が苦難を切り抜けたという伝承と、境内参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天(ぬけべんてん)」と通称され、江戸六弁天にも数えられています。南側の鳥居の横に案内板が立っています。

厳嶋神社・抜弁天

一、由来

白河天皇の御代、応徳三年(1086年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳嶋神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)

二、江戸時代

参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。江戸幕府の地誌大久保絵図(安政四年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた。




厳嶋神社には弁財天が祀られています。ご神体は御簾の奥に鎮座されておわします。

厳嶋神社【弁財天】

抜弁天は今はもう地名のようになってしまったが、その昔は源義家が祈願した厳島神社があった。この近くを旧鎌倉街道が通っていたために源義家の伝説があるのだといわれる。 境内が南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜くための弁天社、いわゆる抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天、山の手七福神の一つに数えられた。神社付近一帯は、江戸時代の犬小屋跡である。




確かに、参道はふたつの鳥居を南北に抜けています。



五番目は法善寺です。法善寺は日相上人が創建し、鳥取城主松平(池田)伯耆守綱清が中興開基したといわれています。境内に安置してある七面明神は池上本門寺に帰依していた伯耆守綱清から献上されたもので、法華宗独特の七面信仰江戸進出の最初のものとされています。



寿老人は、本堂の右手にある建物の中に安置されています。木の枝で半分お隠れになっておわします。

法善寺【寿老人】

法善寺は日蓮宗の寺院で、正式名を「春時山光晴法善寺」といいます。法善寺に祀られている七面明神とは山梨県身延山の北にそびえる七面山に住む女神のことで、日蓮宗総本山身延山久遠寺の鎮守でもあります。唐風の衣裳に宝冠をかぶり、左手に火炎如意宝珠、右手に鍵を持ちます。鍵は正法を開いて人々を救うことを意味し、宝珠は仏に献上して成仏を約束された品といわれています。中正院日護上人の作と伝えられ、万治年間(1658年〜1660年)に駿河国から移され、江戸で最初にまつられた七面明神とされています。寿老人は本堂右手の庫裏に祀られています。




六番目は稲荷鬼王神社です。天保二年(1831年)に、大久保村の氏神であった稲荷神と熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となりました。熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社となっています。大祭で担がれる宮御輿は鬼面が彫られた珍しいものです。祭神は、稲荷神の宇迦之御魂神、鬼王権現の月夜見命・大物主命・天手力男命です。大久保村が祀っていた神々(火産霊神など)も明治時代に合祀されています。神社の名前から誤解されやすいのですが、「鬼」を祭神としているわけではありません。この他、平将門の幼名が「外都鬼王」・「鬼王丸」といったことから、鬼王の名前を取ったという伝承もあります。



恵比寿様は境内の左手の開運恵比寿神社に祀られています。恵比寿様に参った後、脇にあるかえる石に水をかけてさすると「よき運にかえる」とか「金にかえる」と言われています。そして最後にもう一度、恵比寿様を参拝するのが、正式な参拝方法だそうです。

稲荷鬼王神社【恵比寿】

稲荷鬼王神社には恵比寿が祀られています。元々は承応二年(1653年)に戸塚の諏訪神社境内の福瑳稲荷を勧請したもので、天保三年(1832年)に当地の百姓田中清右衛門が熊野から勧請した鬼王権現と合祀した神社です。江戸時代から豆腐を供えれば湿疹・腫れ物に特効があるとされてきました。




開運恵比寿神社の鳥居の上に宝船が乗っかっています。鳥居の上の置物って初めて見ました。

開運恵比寿神社の鳥居の上には、恵比寿様の福財を積まれた恵比寿船が安置されています。鳥居をくぐるときに、当社の恵比寿様を江戸時代にお祀りしていた二尊院に伝わっていたご神歌

   「うみやまの 数のたからの大久保の
    恵比寿おおかみ まもりたまえや」

を口ずさみ、或いは心の中で唱えて、大神様の福徳、御利益をいただいてください。 を




稲荷鬼王神社の裏口に高さ2mほどの富士塚があり、登山道の五合目・九合目に溶岩ボク石の塚が建っています。築造は昭和五年(1930年)と比較的新しく、「西大久保富士」と呼ばれています。



最後の七番目は太宗寺です。大宗寺は内藤家の菩提寺であっただけでなく、江戸六地蔵のひとつである銅造地蔵菩薩が鎮座し、その他にも史跡満載のお寺です。

新宿ミニ博物館 内藤新宿太宗寺の文化財

太宗寺は、慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。かつての内藤新宿の仲町に位置し、「内藤新宿の閣魔」・「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閣魔像・奪衣婆像や、江戸の出入ロに安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では、太宗寺に伝えられる文化財や、内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。




境内には「新宿ミニ博物館 内藤新宿太宗寺の文化財」と題した詳細な案内板が立っています。

@甲州道中と内藤新宿

内藤新宿の開設

コ川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行いました。甲州道中(甲州街道)は、慶長九年(1604年)頃に整備が行われたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄十年(1696年)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。このあたりには、文禄三年(1595年)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596年)頃に太宗寺が創建され、元和二年(1615年)頃には四谷大木戸(現四谷四丁目交差点)も開設されました。またェ永二年(1625年)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661年〜1672年)には「内藤宿」と呼ばれ、かなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。さて、この願いは翌元禄十一年(1698年)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。こうして「内藤新宿」は、元禄十二年(1699年)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院[新宿区若葉2−8]にあり、区指定史跡に指定されている)。

宿場の様子

「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。宿場は大きく三つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄十五年(1702年)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子供合埋碑」が、成覚寺[新宿2−15−18]にあり、区指定有形文化財に指定されている)。

宿場の廃止と明和の立返り

このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保三年(1718年)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。その後、度重なる再興の願いにより、明和九年(1772年)に宿場は再興されました。

A太宗寺の創建と内藤家

太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵[太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永六年(1628年)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。これが縁で、寛文八年(1668年)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。太宗寺は、元禄十五年(1702年)文化二年(1805年)の火災や、関東大震災・第二次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。また「内藤新宿のお閻魔さん」・「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、藪入りには縁日が出て賑わいました。現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼茶羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。

B太宗寺の文化財

太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像・奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)・切支丹灯籠(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますが、このほかにもつぎのような文化財があります。

太宗寺の曼荼羅

曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた図像をいいます。太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15日・16日に本堂で公開されています。

観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅)

通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。紙に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(描表装)です。製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。

無量寿経曼荼羅・阿弥陀経曼荼羅

紙に描かれており、ともに総高203cm・全幅195cmの掛軸となっています。製作年代・作者についてはわかりませんが、「大曼荼羅」よりやや新しいものと推定されます。なお、両作品とも図幅周囲に白色の帯が設けられ、図像の説明が記されています。

涅槃図

釈迦の入滅(死)を描いた図像で、娑羅双樹の下、中央に北枕で横たわる釈迦を、周囲には嘆き悲しむ弟子や鳥獣などを描いています。総高185cm・全幅175cmの掛軸で、明治三十一年(1898年)4月に奉納されたものです。

十王図

地獄思想に基づき、冥土に君臨し死者の罪状を審判する10人の王を描いたもので、1人を1幅に描き、合計10幅の掛軸となっています。紙に描かれ、寸法は10幅とも総高116cm前後、全幅58cm前後です。製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代末頃のものと推定されます。

内藤家墓地出土品

昭和二十七年(1952年)に東京都の区画整理事業に伴い、内藤家墓所が改葬された際に出土した副葬品約400点です。内容は鏡・煙管・かんざし・小刀・懐中時計などの金属製品72点、硯などの石製品4点、漆器・仏像・筆などの木製品6点、眼鏡などのガラス製品3点、陶器・ミニチュアなどの陶磁製品33点、布製品1点、土製品12点、古貨幣約200点です(非公開)。

塩かけ地蔵

願かけの返礼に塩をかける珍しい風習のある地蔵尊です。造立年代や由来については、はっきりしません。




太宗寺文化財の一番目の銅造地蔵菩薩坐像は大宗寺で最も目立つお寺のシンボルです。私は、江戸六地藏は現存しない永代寺の地蔵像を除いて五地蔵を巡りましたが、大宗寺の銅像は一番サイズが小さいものの、インパクトがありますね。

太宗寺の文化財@ 東京都指定有形文化財 彫刻
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地藏のひとつ)

江戸時代の前期に、江戸に出入口六ヶ所に造立された「江戸六地藏」のひとつです。銅造で、像高は267センチメートル、正徳二年(1712年)九月に「江戸六地藏」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。「江戸六地蔵」は、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は七万二千名以上におよんでいました。この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。

品川寺 品川区南品川3−5−17  宝永五年(1708年)造立
東禅寺 台東区東浅草2−12−13 宝永七年(1710年)造立
真性寺 豊島区巣鴨3−21−21  正コ四年(1714年)造立
霊巌寺 江東区白河1−3−32   享保二年(1717年)造立
永代寺 江東区富岡1−15−1   享保五年(1720年)造立

東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)

江戸六地蔵の由来は、本像の内部に奉納されていた刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一駆(く)ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、五躯が残っています。六地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、三番目として正コ二年(1712年)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267cmです。本体には、かって鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

Tangible Cultural Properties (Sculpture)
Dozo Jizo Bosatsu Zazo (Edo Roku Jizo no Hitotsu)
Designated in 1921

According to a copy of the "printed book of the brief history of the erection of the statues of Edo Six Jizoson," which was dedicated inside the statue, the origin of the Edo Six Jizoson is as follows. Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to Jizo Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizo in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizo was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were cast by Caster Ota Suruganokami Fujiwara Shogi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eidaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues. The jizo at Kasumigasekizan Honkakuin Taisoji Temple was erected as the third jizo in 1712. The height of the statue is 267cm, the shortest among the 6 statues of jizo. The main body used to be gold-plated. The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.




案内板にあった太宗寺文化財の二番目の閻魔像はこの赤い閻魔堂に鎮座されておわすようです。



案内板には恐ろしい閻魔像の写真が添えられています。この目で睨まれたら身が竦みますね。

太宗寺の文化財A 新宿区指定有形民俗文化財 閻魔像

木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子供のしつけのため参拝されたりしました。文化十一年(1814年)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては藪入り(一月と七月の十六日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。また、弘化四年(1847年)三月五日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(1850年)に奉納したものです。現在は、お盆の七月十五日・十六日に御開扉されています。




案内板にも記されていた太宗寺文化財の三番目の奪衣婆像は閻魔像と一緒に閻魔堂におわします。奪衣婆は閻魔大王に仕えていますからね。でも、「衣をはぐ」のと「妓楼の商売神」がどう関係しているのでしょうか?

新宿区指定有形民俗文化財 奪衣婆像

閻魔堂内左手に安置されている座像です。木造彩色で総高は240cm、明治三年(1870年)の製作と伝えられます。奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。




個別の案内板はありませんが、塩かけ地蔵です。まだまだ塩が足りませんね。



布袋尊は太宗寺境内の西側にある不動堂に三日月不動像と一緒に奉祀されています。

太宗寺【布袋尊】

太宗寺は浄土宗の寺院で、慶長元年(1596年)頃に太宗という僧が開いた草庵「太宗庵」が前身です。内藤家五代目の正勝が寛永六年(1629年)に没し、太宗寺へ埋葬され、以後歴代の墓所になりました。境内は「新宿ミニ博物館」として、江戸六地蔵のひとつである「銅造地蔵菩薩坐像」の他、「閻魔像」・「奪衣婆(だつえば)像」・「内藤家墓所」・「キリシタン灯籠」・「内藤家墓地出土品」などが見学できます。閻魔堂の備え付けの釦を押すとライトが点滅する仕組みになっており、陰影のある怒りの形相が現れてきます。布袋尊は地蔵菩薩像とは反対側の不動堂に三日月不動像と一緒に安置されています。




太宗寺文化財の五番目の三日月不動像と新宿山の手七福神の布袋尊像について、不動堂の前に案内板が立っています。

太宗寺の文化財D 新宿区指定有形文化財 彫刻 三日月不動像

額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。なお、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。

太宗寺の文化財D 新宿区指定有形文化財 彫刻 新宿山の手七福神 布袋尊像

新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比須神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)・法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。




ということで、2023年七福神巡りの六番目のコース「新宿山ノ手七福神」を歩き終えました。今日で松の内は終わりとなりますので、今年の七福神巡りも今回で終了です。ゴール地点の新宿三丁目駅から帰宅します。






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