豊島区(池袋・目白・高田・雑司が谷コース)


踏破記


最初は東京で最も急勾配な坂を含む、豊島区の池袋・目白・高田・雑司ヶ谷地区の坂道を巡ります。スタート地点の池袋駅西口から要町通りを真っ直ぐに進み、山手通りと交差する要町一丁目交差点手前に位置する祥雲寺を目指します。



1.祥雲寺坂

祥雲寺坂は、池袋三丁目と西池袋五丁目の間に位置する長さ150mほどの要町通りの坂で、坂名は祥雲寺の前にある坂ということに由来します。坂名を書いた標識はありませんが、坂の途中の交差点に「祥雲寺坂」の名前が残っています。

瑞鳳山祥雲寺

祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正久によって、永禄七年(1564年)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始りで、開山は吉祥寺安充和尚である。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。天正十八年(1590年)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。寛永六年(1629年)に信州松本藩主戸田氏が壇越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。宝永六年(1709年)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚かり、戸田氏最初の壇越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と号した。当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に(より)焼失した。現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正十七年(1589年)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓がある。




要町一丁目交差点の手前に、要町通りと谷端川緑道が交差しています。緑道を南方向に進んで、西武池袋線の線路手前で左折し、南東方向に路地を進みますと目白通りに出ます。目白通りを東に進みますと目白駅となり、駅の横に目白駅前交番があります。

2.銀鈴の坂

銀鈴の坂は目白駅前交番のすぐ西側の階段で、途中で直角に曲がる、長さ12mほどの短い階段です。平成十六年(2004年)に道路通称名として設定されました。



銀鈴の坂は急階段なので、バリアフリーのエレベーターが階段の下に設置されています。その横に目白駅の歴史を解説した案内板が掲げられています。「銀鈴の坂」の名前の由来が記されていますね。案内板の横には、かって目白駅にあった階段の一部がモニュメントとして展示されています。

目白駅と地域(「銀鈴の塔」エレバーター設置によるバリアフリー化を記念して)

目白駅周辺は、武蔵野台地の南向きの斜面に位置し、江戸時代には入会地として下高田村と下落合村の農家の人々が共に使う、谷あいの土地でした。西方には湧水源があり、南方に流れる清流が用水となっていました。この谷あいを整地して、明治十八年(1885年)3月16日に目白駅(目白停車場)が開業しました。目白駅は、豊島区(高田町、長崎町、西巣鴨町、巣鴨町を合わせて、豊島区が発足したのは1932年10月1日で、最初にできた鉄道駅です。

また日本で初めて造られた、線路の上に駅舎がある橋上駅は、1922年に改築竣工した目白駅であると言われています。この橋上駅の建造に伴い公道として整備されてきた道筋には、平成十七年(2005年)に清らかな湧水を偲ぶ「銀鈴の坂」という愛称がつけられました。「銀鈴の坂」は、歴史を想いながら親しみ深いまちづくりを目指す、通称名設定がなされた豊島区の区道です。

目白駅は、日本鉄道という私鉄の品川・赤羽間を結ぶ路線の中ほどに位置し、品川からは横浜と新橋に接続し、赤羽からは高崎方面に至り、さらに青森までつながる予定の、汽車で貨物輸送をすることを目的とした幹線の駅の一つでした。しかし周辺で近郊農業を営む地域にある目白駅に貨物列車は停まらず、単線を走る1日数便の旅客列車の1885年の乗客数は、1日あたり13人ほどでした。最初の駅舎は、当時、清戸道と呼ばれた目白通りより5mほど低い、このプレートの右手の線路やホームのあるあたりにありました。

やがて、東京の都市生活者のための交通網の整備も急激に進み始め、明治三十六年(1903年)には、池袋と田端を結ぶ路線も開通し、品川・赤羽間の路線とあわせて、山手線となりました。山手線は明治三十九年(1906年)に国有の鉄道となり、明治四十二年(1909年)には電化されました。さらに、山手線を複々線化し環状運転をするための工事が進められ、その工事に伴い、大正十一年(1922年)に、目白駅は橋上駅となりました。目白通りと、 小さな広場を介してつながる位置に、改札が置かれました。

目白駅周辺には、日本女子大学校(1901年)、学習院(1908年)、目白中学校(1909年)、成蹊女学校(1917年)、自由学園(1921年)、川村女学院(1924年)、東洋音楽学校(1924年)等の学校が設置され、地域は学校とともに発展したという特色があります。また府営住宅(1921年)、近衛町(1922年)、目白文化村(1922年)等の、まとまった宅地開発が始まり、次第に東京の中心部に通勤する人々のベッドタウンとなっていきました。大正十一年(1922年)の目白駅の乗客は、1日あたり7000人を超えています。

目白駅は昭和三年(1928年)に、第2代橋上駅に改築され、関東大震災前後から激増した、郊外に生活の地を求める人々の利用に応えました。豊島区は、第二次世界大戦末期の空襲で甚大な被害に遭いましたが、目白駅駅舎は、かろうじて焼けませんでした。昭和六十二年(1987年)に、目白駅は、国鉄の分割民営化に伴いJR東日本の駅となりました。現在の目白駅と目白橋の竣工は、平成十二年(2000年)です。この時、駅舎にホームへ連絡するエレベーター・エスカレーターが設置され、駅舎内のバリアフリー化が実現しました。

そして本年令和二年(2020年)、豊島区は、目白駅西南の方面からも誰もが安全に目白通りや駅に向かえるように、またこちらに来られるように、「銀鈴の坂」の下のこの場所にエレベーターを設置しました。名称は「銀鈴の塔」です。塔の上部には、シンボルとなる銀鈴をつり、定刻には音楽を流します。「銀鈴の塔」が、多くの人々に親しまれるエレベーターとなることを願っています。

小さな鉄道遺産

1922年に竣工した目白駅の、コンクリート製の「階段」の一部が右隣に展示されています。骨材の石の大きさが、よく分かります。基礎には、1914年に竣工した東京駅と同じように、水に強い松の長い丸太の杭が、多数用いられていました。




銀鈴の坂を下りた先に、細長い坂道が続いています。

3.豊坂

豊坂は、「く」の字型に曲がった長さ40mほどの坂道で、坂上の右手には名前の由来となった小さな神社が祀られています。



豊坂稲荷神社という名称の由来が神社の御由緒板に記されています。

御由緒

当稲荷神社は、明治四十一年九月の学習院の東京府下高田村(目白)への移転に伴い、現在の学習院大学の構内地からこの土地に遷坐された。明治七年三月東京府より高田村氏神氷川神社の附属社に定められた。朝日が燦燦と当たり、豊かで栄える御神徳を戴ける神社であることから、豊坂(栄)稲荷神社とも言われている。この場所の字の名は明治期には金湧沢と言われており、その名の通り目白の池は湧水の地であった。境内には百一歳翁の揮毫による金湧沢の碑がある。商売繁盛・合格祈願・家内安全・諸願成就の御神徳のある神社である。後(御?)祭神は若宇賀乃女命と木花咲耶姫命の二柱の神様であり、初午祭・浅間祭が執り行われている。境内社に市来島神社を合わせお祀りしている。御祭神の市来島姫命は氷川神社の主祭神である素盞鳴尊の御息女であり、宗像三女神の神様である。芸能・美術・文化に関わり深く、御神徳をお授け戴ける神様である。




目白駅の東隣には、坂道を挟んで学習院大学の広大な敷地が広がっています。

4.学習院椿の坂

学習院大学の西門脇の植え込みの中に、学習院大学の沿革が記された案内板が立っています。

学習院

学習院は、明治十年(1877年)に華族会館による私立の華族学校として設立され、のち宮内省所轄の官立学校となり、皇族・華族の子弟の教育にあたった。戦後は学校法人経営の私立学校となり、今日に及ぶ。現在地には明治四十一年(1908年)に四谷区尾張町より移転した。江戸時代この辺は眺望のすぐれた場所の一つで、富士見茶屋という休み茶屋があり、広重の浮世絵にも描かれている。構内にある、高田村砂利場一帯の水田灌漑に利用された溜池は、堀部安兵衛が高田馬場仇討ちのあと、この池で刀の血を洗ったという伝説が後年になって生まれ、「血洗の池」と呼ばれるようになった。高田周辺の地誌「若葉の梢」の著者金子直徳が文化七年(1810年)に建てた「目にかゝる時や殊更五月富士」という芭蕉の句碑や、「是ヨリ左ぞうしがや、右ほり之内」と刻んだ道標などもある。また、学習院長であった乃木希典が築いた神壇(東京都指定旧跡)も残されている。これらの文化財以外にも、歴史的建造物も多く残されている。明治四十一年の目白移転時の建物として、正門をはじめ、乃木が院長として起居していた旧総寮部(現乃木館)や厩舎(昭和二年【1927年】移築)が残されているほか、旧図書館(現北別館・明治四十二年【1909年】築)、旧理科特別教場(現南一号館・昭和二年【1927年】築)、旧中等科教場(現西一号館・昭和五年【1930年】築)などがある。これらの歴史的建造物は、平成二十一年(2009年)五月に国登録有形文化財に登録された。




学習院椿の坂は、目白駅の東側と学習院大学の西側の間に挟まれ、山手線に平行して長さ450mほど延びる長い坂です。学習院に椿の生垣が続くことから、目白街づくり活動で選ばれ、平成十六年(2004年)に道路通称名として設定されました。別名を西坂といいますが、これは坂の途中にある西坂門に由来しているものと思われます。



私は見逃しましたが、坂の途中の植え込みの中に「学習院椿の坂記念植樹」という説明板があり、次のように書かれているそうです。

学習院椿の坂記念植樹

ツバキ ’タマノウラ’

ツバキの園芸品種です。長崎県の五島列島福江島で発見されたもので、花は一重の紅色で白色の覆輪です。

緑深い学習院の西門から南南西への坂道には紅白の美しい椿が続く。「学習院椿の坂」の名称は’目白街づくり活動’で選ばれた名前です。




学習院下交差点から学習院大学の南側に沿って東に向かい、明治通りと都電荒川線を越えて高田の町域に入ります。この付近は目白通りから急峻な崖が続いていて、多くの坂道が連なっています。

5.のぞき坂(胸突坂)

目白通りに面した副都心線雑司ヶ谷駅出入口の真向かい、豊島区高田2丁目17番と18番の間に目白通りから南に下るのぞき坂の入口があります。のぞき坂は、明治通りと平行して、その50mほど東側を通る長さ210mほどの坂道です。東京で最も急な坂と言われるだけあって、坂上から覗き込むと恐怖感を感じるほどの急坂です。雪の日には絶対に車では下りられない急坂です。別名は胸突坂・急坂・眼鏡坂だそうですが、上る時は胸突き八丁で、下る時は滑り台です。のぞき坂の名前の由来は、坂の上から坂の途中・坂の下にかけて急に角度を変えているので坂上からの見通しができず、途中まで行かないと坂下が見通せないために「のぞき坂」になったとのことです。




のぞき坂の100mほど東側の鬼子母神表参道入口の向かい、高田一丁目と高田二丁目の間にもうひとつの坂道の入口があります。

6.宿坂

宿坂は旧鎌倉街道の坂道で、坂下には“目白不動”で知られる金乗院があります。長さは230mほどで、のぞき坂とほぼ同じですが、坂上から坂下までなだらかに傾斜していますので、のぞき坂ほどの急坂ではありません。砂利場坂・浅間坂・暗闇坂など、いくつかの別名があります。宿坂の名前は、中世の頃「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていたことに由来しています。昔、練馬方面から江戸に来るときは、ここで一泊しなければなりませんでした。



坂下にある目白不動(金乗院)は江戸五色不動巡りでも訪れましたね。山門前に「宿坂道」と書かれた案内板が立っています。

宿坂道

中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836年)出版の「江戸名所図会」には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。また金子直徳著「若葉の梢」(寛政十年【1798年】)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。




目白通りから不忍通りが分岐する目白台二丁目交差点から北西に70mほど手前に、南に下る坂道があります。

7.稲荷坂

稲荷坂は別名浅間坂と呼ばれる、長さ150mほどの道幅の狭い坂道です。坂上の個人の住宅の庭先にお稲荷さまの小さな祠があり、これが坂名になったといわれています。お稲荷さまは高田稲荷大明神と呼ばれていたそうで、戦前は参詣する人もあったようですが、今はひっそりしています。坂下で富士見坂に合流しています。




目白台二丁目交差点に面した酒屋さんと写真館の間から豊島区と文京区の境界線を南に下り、高田方面に通じる坂があります。

8.富士見坂

富士見坂は長さ120mほどの急坂で、坂の入口付近の民家の塀に「明治百年記念 富士見坂 高田富士見会」と書かれた石板が埋め込んであります。名前の由来は、昔は坂上から富士山が眺望できたからとのことです。現在は都心の高層ビルが地平線を覆い尽くし、富士山は望めなくなっています。




これまでの坂道は、何れも目白通りに面して入口がありました。坂道の途中から枝分かれしている坂道もあります。

9.日無坂

日無坂は富士見坂の坂上付近から東へ分岐し、階段状に下る長さ160mほどの細い坂道です。豊島区と文京区との境界を成し、江戸時代からの歴史ある坂道です。道幅の狭い坂であったため、両側の樹木の枝葉で日光が遮られ、日無坂という坂名になったといわれています。別名、東坂とも呼ばれます。




目白台二丁目交差点から不忍通りを日本女子大の校舎を横手に見ながら進み、護国寺西交差点に着きます。横断歩道もあるのですが、カメラアングルを考えて、あえて歩道橋に上がります。車がひっきりなしに通る交通量の多い道路ですね。

10.小篠坂

不忍通りの護国寺西交差点から護国寺の墓地沿いに延びる道幅の広い都道435号音羽池袋線の坂です。緩く長い坂が約310m続き、上空には首都高5号池袋線が通り、地下には 地下鉄有楽町線が通っています。このあたりは文京区と豊島区が複雑に入り組んでいて、坂は両方の区にまたがっています。坂下の歩道橋付近に文京区が設置した案内板が立っています。案内板にありますように、この坂道が開かれた当時は道端に笹が生い繁っていたことが坂名の由来になっているようです。尚、案内板には書かれていませんが、別名に「乞食坂」という名前もあるみたいです。単なる音の変化?

小篠坂(小笹坂)

豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった”幕府の御鷹部屋御用屋敷”から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る道として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ「窪田空穂」は、次のようによんでいる。

雑司が谷 繁き木立に降る雨の
      降りつのりきて 音の重しも




小篠坂から豊島区と文京区の境界となる路地を西に進みます。お店の前に発砲スチロールの空箱が山積みされている魚屋さんがあります。周囲にはそんなに住宅は見当たらないのですが、何故か繁盛しているようです。規模は小さいですが、桜新町にある「鮮魚平澤」みたいな感じの魚屋さんです。気になるので入ってみましたら、仲卸的な品揃えでお値段は手頃。ワインのお供用に平目を調達しました。



日本女子大の蔦が絡まる学生寮の先に雑司が谷弦巻通り商友会が続いています。弦巻通りは、かって豊島区と文京区との間を流れていた弦巻川を暗渠化してできた道路です。現在では川の痕跡は全く残っていません。雑司が谷一丁目6番と7番の間を北北東に上る坂道があります。

11.南坂

坂道の長さは110mほどで、坂名の由来は不明です。何処にでもあるといった感じの住宅地の中の坂道です。




南坂を上っていくと、すぐ先で雑司が谷霊園の南西端に出ます。少し先の高台に、御嶽山清立院宝城寺があります。

12.御嶽坂

御嶽坂は、清立院の南側を東西に「く」の字型にぐるっと回る長さ100mほどの坂道で、別名を三丈(当て字?)坂といいます。坂名ですが、清立院の山号が御嶽山で、境内に御嶽神社を祀っていることに由来するそうです。




ということで、「東京23区の坂道を歩く」の記念すべき第一回「豊島区(池袋・目白・高田・雑司が谷コース)」を歩き終えました。もっと簡単に紹介しようと思っていたのですが、ついついのめり込んでしまって長文になってしまいました。「東京23区の散歩道を歩く」は未作成のコースが鬼のように残っているし、二股掛けて大丈夫でしょうか?






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