豊島区(大塚・駒込コース)


踏破記


今日は豊島区の坂道の後半になる大塚・駒込コースを歩きます。スタート地点は丸ノ内線の新大塚駅です。新大塚駅は豊島区と文京区が複雑に絡み合った町域に位置し、駅の住所も豊島区と文京区の両区にまたがっています。出入口2番から春日通りと反対の方向に進み、大塚公園の脇を抜けてプラタナス通りに出ます。豊島区の大塚駅南口交差点から文京区の千石三丁目交差点までは、街路樹にプラタナスの木が植えられているために「プラタナス通り」とも呼ばれています。



13.宮坂

豊島区南大塚一丁目と文京区千石三丁目の間、プラタナス通りから東北東方向に真っ直ぐに延びる長さ140mほどの坂道が宮坂です。つまり、宮坂は文京区と豊島区の境界に位置します。坂名は、明治時代に此の地に有栖川宮熾仁親王が一時所有していた邸があり、その後の昭和九年(1934年)に尾張屋銀行が宅地開発を行った際に坂道が造成され、有栖川宮を慕って「宮坂」と呼ばれたのが由来になっています。坂名を表示した案内板は設置されていませんが、とあるマンションの入口に「PRATO MIYASAKA」と表示されているのが唯一の痕跡です。



宮坂を上って左手の路地を進んだ先の民家の駐車場の塀に一枚のプレートが貼り付けてあります。初めて見たのですが、区ではなく個人で取付けられたようです。旧丸山町の歴史については、宮坂の途中にもその歴史を記した案内板があります。区の解説では「丸山町」の町名の由来は不明としていますが、個人の解説では「丸く刈り込んだ茶畑を氷川下から望んだことに由来する」とあります。納得の説明ですね。

旧丸山町十九番地(千石3−23−8)

幕末には伊豫大洲藩主・遠江守加藤於菟三郎泰祉の下屋敷であった。明治維新で東京府の管理となり、一帯は茶畑や桑畑が奨励された。丸山町の名は丸く刈り込んだ茶畑を氷川下から望んだことに由来するとも云う。明治三十一年に、川越藩主・松平周防守として幕末の老中職や遣欧使節副使をつとめた子爵・松井(松平)康英が旧肥前平戸藩主・伯爵・松浦詮の巣鴨別邸に隣接するこの一帯、約五千坪を取得した。近くの宮坂(富士見坂)は明治の頃に有栖川威仁親王の別邸があったことに因む。

旧丸山町 (昭和四十一年までの町名)

もと、小石川村の内であった。宝永七年(1710年)町屋を開いた。これより先、火の番役の武士が多くいたので、小石川火の番町といった。明治二年、武家地を多く合併して小石川丸山町とした。名称の由来は、はっきりしない。




更に進みますと、東洋女子学園の前に出ます。女優・作家・歌人など、卒業生は多彩です。体育館の前の路地を巣鴨小学校方向に進むと下り坂があります。

14.さいとう坂

さいとう坂は、「く」の字型に曲がった長さ100mほどの短い坂ですが、坂下に個人または地元自治会が設置したと思われる「さいとう坂」と刻まれた高さ1mほどの石柱状の標識が建っています。この坂は古い道のようですが、実は関東大震災以降に開かれた道です。坂名は、このあたりの土地所有者であった斉藤さんがその一部を寄付したおかげでこの坂が開通したことが由来となっています。坂名の石塔が立てられたのは昭和三十七年とのことです。



さいとう坂を下りて巣鴨小学校の裏手に出ます。細い路地が東福寺の方まで続いています。墓地の中程から左折して少し広い通りに出ます。この通りは「大塚三業通り」と呼ばれています。今では聞き慣れない言葉ですが、三業とは、料理を出す「料亭」と、芸者を抱えて派遣する「芸者置屋」、そして客が芸者遊びを楽しむ「待合茶屋」を合わせた呼び方です。大塚はかっての花街で、大正末期から戦前にかけて大塚には200人以上もの芸者さんがいたそうです。その隆盛は戦後も衰えず、1960年代の高度経済成長期まで続きました。大塚三業通りは、現在は暗渠となっていますが、かっては谷端川が流れていました。矢端川の河岸段丘の崖線に位置していたので、現在も多くの坂道が残っているのです。

15.あさみ坂

あさみ坂は大塚三業通りから北東に上がる、長さ80mほどの短い坂道です。坂名の由来は、坂上に大塚三業の発展に貢献のあった「浅見」という人の家があり、その人の名字を付けたといわれています。




山手線の半地下線路脇に出て巣鴨駅に向かいます。ちなみに、山手線は巣鴨駅では半地下を通っていますが、お隣の大塚駅では高架になっています。これは両駅の高低差を考慮して敷設したためで、山手線の線路は水平に保たれています。巣鴨都営バス車庫の入口で右折し、仰高小学校の塀に沿って進みます。突き当たりを左折した先に下り坂があります。

16.有松坂

有松坂は法成寺の西側から染井霊園に向かう坂で、長さは約110mあります。坂名は、かつて坂上に「有松」という人が住んでいたことに由来するといわれています。




有松坂を下りて曲がりくねった狭い路地を進み、「染井よしの桜の公園」に出ます。染井といえば、日本の桜の代表的品種のソメイヨシノですね。染井よしの桜の公園の中に、ソメイヨシノの桜の木が植えられていて、その前に案内板が置かれています。

染井よしの(ソメイヨシノ・染井吉野)

この公園の周辺は、江戸時代に染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べ、菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地として有名でした。「染井よしの」は、オオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられたといわれ、幕末期から明治初期に「染井」から全国に広まっていきました。ここ駒込の地が、「染井よしの」の発祥地であることを、新たに誕生した公園から、全国に、そして世界に発信していきます。なお、「染井よしの」桜は、昭和四十八年「豊島区の木」に、昭和五十九年「東京都の花」に指定されています。




染井よしの桜の公園のはす向かいに西福寺があります。

西福寺

真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は明らかでないが、「江戸切絵図」や「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」などにも記事があり、駒込に江戸時代から続く寺院である。この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の下屋敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も集住しており、その菩提寺ともなっていた。かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。境内には、明暦元年(1655年)に造られた六地蔵がある。これは「六道」すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれたものであり、豊島区内では最古のものである。墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武(四代目、宝暦七年【1757年】没)の墓がある。政武は樹仙と号し、「増補地錦抄」などを著わした、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、東京都史跡に指定されている。




伊藤政武の墓は墓所の中ほどにあります。どの墓石が伊藤政武の墓なのかは分かりませんでした。

伊藤政武墓

江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込六、七丁目付近)の伊藤三之丞の子として延宝四年(1676年)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を「地錦抄」という。四代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク・ツバキ・カエデ・ツツジ類・アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に「草花絵前集」・「増補地錦抄」・「広益地錦抄」・「地錦抄附録」などがある。宝暦七年(1757年)十月二日八十一歳で死去した。




17.染井坂

染井坂は、豊島区駒込三丁目と六丁目の間、駒込小学校と西福寺墓地の間の坂道で、長さ約65mほどの短い緩やかな坂道です。西福寺墓地のブロック塀に「染井坂 そめいざか」と刻まれた石板が埋め込まれています。坂名はこの付近の旧地名「染井村」に由来します。



染井坂を下りたところを右折して曲がりくねった路地を進みます。女子栄養大学の手前に妙義神社があります。

妙義神社

御祭神
日本武尊・高御産霊神・神功皇后・応神天皇

由緒
文化・文政期(1804年〜1829年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、日本武尊が東征の時に此地に陣営をしき、白雉二年(651年)五月には社を建てて白鳥社と号した、と記されている。これによれば、区内最古の神社ということになる。一方、「妙義坂之神社縁起」の記述によると、新田義貞の大叔父今井惟氏の裔孫、今井茂義が永享の乱(1438年)の折に関東管領上杉憲実へ味方し、その忠功から駒込の地を興えられたという。茂義は、翌年(1439年)八月、本拠地だった上野(群馬県)新田神明邑の神明宮に勧請し、荒廃していた此地に宮廟を造営して当所に祀ったと縁起に記されている。また文明三年(1471年)には、上杉定正の家臣太田道灌より、今井茂義に檀所の跡を宮所とするよう要請があり、その年の五月、道灌が足利成氏との戦の前に当社へ参詣して、神馬・宝剣を捧げ戦勝祈願している。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦で成氏を敗走させた。道灌はさらに文明九年(1477年)豊島勘解由左衛門との戦の折に、そして同十一年(1479年)千葉孝胤の攻略の折にも、当社へ戦勝祈願のため参詣している。こうした古事から「戦勝の宮」とも呼ばれ、信仰を大いに集めた。天正年間(1573年〜1592年)になると、松田尾張守康秀の計りごととして神領ことごとく没収されたが、寛永八年(1631年)二月に今井庸義と源政隆が、荒れ果てた此地に宮殿を造営し小社を建てて宮地に遷したと縁起に記されている。天明六年(1786年)になると、豊後国(大分県)府内藩藩主から、今井家邸地と地続きの妙義社裏地計五千百二十余坪を下屋敷として抱地にしたい旨申し出があり、十代藩主松平左衛門尉近説(松平定信の孫)の代に至るまで、藩の庇護を受けた。明治維新(1868年)後は、版籍奉還と廃藩置県により府内藩から土地が返還された。その後は、大正十二年(1923年)九月、関東大震災で大きな被害を受けたものの、今井三枝子・扶により社殿が再建、地元の方々の協力も得て、昭和五年(1930年)九月に社務所が建てられた。残念ながら昭和二十年(1945年)四月の空襲で全て灰燼に帰したが、空襲後ただちに地元の罹災者五百五十名を、当社を含む今井邸にて収容し、救助救援にあたったことが「豊島区史 通史編二」に記されている。戦後は、氏子崇敬者の協力によって、昭和四十年(1965年)に社殿が、翌年には社務所が再建された。今般、災害発生時の避難所としての役割を兼ね備えるため進めてきた当社造営事業が、令和二年(2020年)に氏子崇敬者総奉賛のもと、めでたく成し遂げられた。




18.妙義坂

JR駒込駅前から女子栄養大学入口付近までの間の本郷通り(旧鎌倉街道)を妙義坂といいます。逆「く」の字型に緩やかにカーブした長さ約260mの坂です。坂名は、近くに妙義神社があることに由来します。坂上の駒込駅前(駒込駅を出て本郷通りを挟んで向かい側)に東京都が設置した標識が建っています。

妙義坂

坂の西方駒込三丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に「日本武尊東征の際此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す」と記されている。




駒込駅を通り抜けて駅の南口バス広場の東側から路地に入り、駒込東公園を目指します。

19.木戸坂

木戸坂は、駒込東公園の東端から公園の縁に沿って下る長さ90mほどの坂道です。坂名は、坂上にある駒込東公園の向い側一帯が幕末の長州出身の木戸孝允の屋敷であったことに由来します。




駒込駅南口に戻ってきました。昨日・今日で豊島区の名前の付いた19の坂道を巡りました。豊島区には崖線が多くあり、そのためにあちこちに急峻な坂道があります。今までは気にも留めなかったのですが、こうして歩いてみると坂道毎に様々な顔を持っていて、新たな発見の連続でした。「東京23区の坂道を歩く」シリーズも楽しめそうです。






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