文京区(目白台・音羽・関口コース)


踏破記


足立区の次はどの区にしようかと考えたのですが、最初に歩いた豊島区に隣接する文京区には登録された坂道が127あり、「巡回セールスマンの問題」が解決されていないことには最短ルートを見つけ出すことは不可能だと思っていました。ところが、「巡回セールスマンの問題」は解決できていないものの、うまい方法を考えつきました。坂学会のHPに掲載されている23区の坂道リストには、坂道の住所が付記されているのです。そこで、リストをEXCELに取り込み、住所欄で並べ替えを行なえば、町域・丁目が同一の坂道が連続して並び、狭い範囲ですので最短距離で巡るルートが容易に見つけ出せるというわけです。文京区全体の坂道の最短ルートは求まりませんが、実用上はこの方法で十分な精度と思います。それでは、文京区127(消滅した坂道が2つあるので、実際は125)の坂道に挑戦しましょう!

文京区は、昭和二十二年(1947年)に旧小石川区と旧本郷区が合併して誕生しました。「文の京(ふみのみやこ)」という文字の通り、東京大学を筆頭に大学が多い文教地区と閑静な住宅街が区の多くを占めています。明治時代から夏目漱石や森鴎外・宮沢賢治などの著名な文人・学者や政治家が多く居住しました。出版・印刷のほか、先端医療が盛んで大規模な病院も多く存在します。区内には、日本サッカー協会の本部、講談社などの出版社、東京ドームなどの商業施設、音羽の森や六義園・後楽園・小石川植物園など歴史ある広大な日本庭園があります。高級住宅地が多い中、谷根千(谷中・根津・千駄木)と呼ばれる東京の下町として知られる町域もあります。あまり知られていませんが、文京区内には目黒区・世田谷区・練馬区と共に、JRの駅がひとつも存在しません。JRの線路は山手線の巣鴨駅〜駒込駅間がわずかに通るだけで、この区間を除けばほぼ全域がすっぽりと山手線の内側に入っている唯一の区でもあります。武蔵野台地と神田川などでつくられた低地部が複雑に入り組み、関口台・小日向台・小石川台・白山台・本郷台の5つの台地や谷から成り立ち、坂の多い地域です。坂道マニアにはお宝が詰まっています。

最初に歩く坂は日本女子大の脇を通る不忍通りの清戸坂です。最寄りの都電鬼子母神前電停からスタートします。



鬼子母神前電停から目白通りに入り、日本女子大の方向に歩いていきます。時間帯にもよりますが、歩道にはうら若き乙女達が列をなしています。

1.清戸坂

目白台二丁目交差点から日本女子大学に向かって下る不忍通りの長さ310mほどの区間の坂が清戸坂です。坂の途中に文京区教育委員会による案内板が立っています。

清戸坂(清土坂)

延宝四年(1676年)御三家、尾張徳川家の御鷹場が、中清戸(現清瀬市)につくられた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道は、昔から“清戸道に登る坂”ということで「清戸坂」といわれた。江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。明治十年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には、「官許の牛の乳」と假名と、ローマ字で書かれていたという。


私は見落としてしまったのですが、東京都が設置した案内板もあるそうです。

清戸坂

目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(元清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。坂道の北側に、雑司谷清土村があったので清土坂とも呼ばれた。




幽霊坂という坂名は都内各所にみられます。清戸坂の途中から日本女子大学の東側に沿って南北に通る長さ120mほどの坂が幽霊坂です。特に案内板らしきものは見当たりません。

2.幽霊坂(女子大)

目白通りから分岐し、日本女子大学の東側を南北に通る坂で、坂下で清戸坂に合流しています。かつて坂の西側に本住寺があり、その墓地が竹垣の間から見えたためにこの名前が付いたといわれています。坂の西側は江戸時代には旗本屋敷でしたが、明治三十四年(1901年)に「日本女子大学校」が設立されました。




不忍通りの起点になっている目白台二丁目交差点付近に目白台一丁目遊び場という小さな公園があります。その脇を継ぎ接ぎだらけの舗装の急坂(一部は階段状)が下っています。

3.小布施坂

目白通りの目白台二丁目交差点近くの公園脇を下る長さ270mほどの坂です。坂の入口付近に案内板が立っています。

小布施坂

江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝歴十一年(1761年)に新道として開いた。その道がこの坂である。坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。




日本女子大学の正門傍の日本女子大前交差点から南に急坂が下っています。こちらは舗装したばかりのようで、綺麗な路面になっています。

4.豊坂

豊坂は長さ250mほどの急坂で、坂下でクランク状に屈曲してかなりきついカーブになっています。その曲がり角に案内板が立っています。

豊坂

坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。目白台に住んだ大町桂月は「東京遊行記」に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。

「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」

坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、 流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。




豊川稲荷神社は豊坂下から東に100mほど離れたところに鎮座しています。江戸時代に武蔵国岩槻藩大岡家の下屋敷に祀られた「豊川稲荷」が起源と伝わっていますが、武家屋敷に祀られていた祠が明治維新後に町の守護神になったものは都内に多くあります。



更に東に進みますと、神田川に沿って肥後細川庭園があります。幕末に肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷になり、その後変遷を重ねた後、昭和三十六年(1961年)に都立公園として開園しました(現在は文京区に移管されています)。晩秋となり、庭木には冬囲いの雪吊りが施され、季節を感じさせます。



細川庭園と目白台運動公園の間に細い急坂があります。高い塀に挟まれ、両側には巨木が鬱蒼と葉を茂らせていますので、昼なお暗しといった雰囲気です。ちなみに、3万平方メートル超の敷地の目白台運動公園の一部は田中角栄元首相のかっての目白御殿の敷地でした。相続税が膨らんで物納されたのだそうです。角栄さんが幽霊になって現れることはないとは思いますが。

5.幽霊坂(和敬塾)

幽霊坂は、肥後細川庭園の西側から和敬塾と目白台運動公園の間を上る長さ130mほどの急坂で、戦後細川家が整備して和敬塾に引き継がれた私道です。幽霊坂とはおどろおどろしい坂名ですが、大きな木立が両側にあり、あまり人も通らない寂しい坂道でしたので、この坂道を利用して地域の人たちが肝試しを行ったために幽霊坂と呼ばれるようになったといわれています。現在は地元の住民にもよく利用されていて、急な斜面を乳母車を押して上る母子の姿もしばしば見られます。




幽霊坂から戻って、神田川にそって東に進みます。椿山荘の敷地の西側の塀に沿って幽霊坂と並行するようにもうひとつの急坂が天に延びています。その入口脇に小さな神社があります。神田川の守護神である水神を祀っています。

水神社

祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇。創建の年代は明かでない。「江戸砂子」には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり。」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。




急坂の坂名は胸突坂です。文京区には、「胸突坂」という坂名が白山と本郷にもあります。そのまんまの意味ですからね。

6.胸突坂(目白台)

胸突坂は、西側が肥後細川庭園(熊本藩細川家江戸下屋敷跡)、東側がホテル椿山荘庭園(山県有朋邸跡)という景勝地にある長さ65m(もちょっと長い気がする)ほどの急坂で、あまりに急な階段の坂のため、途中に休憩スペースと腰掛け石が設けられています。坂下には水神社(神田上水の守護神)が鎮座していますので、水神坂とも呼ばれています。

胸突坂

目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。




胸突坂の入口付近には、かつて芭蕉が暮らしたという関口芭蕉庵があります。津藩・藤堂家が神田上水の改修工事を請け負っていたため、松尾芭蕉もこれに携わり、工事現場とか水番屋に暮らしたと伝えられています。今日は休館ならぬ「休庵」の木札が吊り下げられています。日本で唯一の休館日の表現と思います。



坂の上には永青文庫の入口があります。肥後細川庭園の園内からも長い階段を上って行けます。胸突坂と同じ高低差を上るのですから、結構大変です。私は胸突坂から入れるとは知らなかったので2回も永青文庫の建物を見てしまいました。

永青文庫

この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、肥後細川庭園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家約700年の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和二十五年に設立された。昭和四十八年に登録博物館となり一般に展示公開されている。




和敬塾は永青文庫に隣接し、村上春樹の小説「ノルウェイの森」の舞台の一つにもなったことで知られています。株式会社前川製作所の創業者でもある前川喜作によって、「共同生活を通じて社会人としての知性と徳性を備えた人材の育成」を趣旨とし、昭和三十年(1955年)に設立された、男子の大学生・大学院生のための学生寮です。国内外の様々な地域から集まった約400名の学生・院生が共同生活を送っています。特定の大学を対象とした学生寮ではなく、塾生の在籍大学は様々で首都圏の約50大学にのぼります。深い緑に包まれた旧細川侯爵邸の約7千坪の広大な敷地に、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の学生寮を参考にして構想されたと伝えられる東寮・西寮・新南寮・北寮の4つの寮を有しています。

「和敬塾」について

財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。約七千坪の敷地には、学部生寮と大学院生寮、ならびに東京都指定有形文化財の本館(旧細川侯爵邸)があります。常に理想を求める事業家だった前川喜作(1895年〜1986年)によって、昭和三十年(1955年)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活を通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川喜作の希いでした。毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。




目白通りを横断して住宅地の路地に入ります。不忍通りに抜ける手前に緩やかな坂があります。

7.薬罐坂(目白台)

薬罐坂は、目白通りから不忍通りに抜ける道の北半分の長さ190mほどの坂で、かっては野犬や狐の出るような淋しい坂道だった、あるいは薬罐のような化物が転がり出たとの噂さからこの名で呼ばれるようになりました。夜間坂・野(カン:むじな編に干【中国の北方に生息する野犬】)坂・夜寒坂・射干坂などの別名があります。

薬罐坂(夜寒坂)

江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学附属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。やかん坂のやかんとは、野かん(むじなへん【豸】に干)とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869年〜1925年、評論家・随筆家)と、窪田空穂(1877年〜1967年、歌人・国文学者)が住んでいた。

    この道を 行きつつみやる 谷こえて 蒼くもけぶる護国寺の屋根 (窪田空穂)




不忍通りに出て首都高の下を潜り、音羽通りに出ます。大塚警察署の角を右折しますと、西方向にやや右手にカーブした幅の広い坂道が延びています。

8.三丁目坂

音羽通りの大塚警察前交差点から西に入り、首都高速道路をぐぐって同仁美土里幼稚園の前付近まで続く長さ200mほどの坂道です。旧音羽三丁目から西の目白台に上る坂ということで三丁目坂と呼ばれました。坂下の高速道路5号線の下にはかつて弦巻川が流れ、三丁目橋(権三橋)が架かっていました。音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、「新撰東京名所図会」には、「元禄十二年護国寺の領となり町家を起せしに、享保八年之を廃し、また徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより、町名となれり」と記しています。三丁目坂には文京区が設置した案内板が立っているとのことでしたが、どこを探しても見つかりませんでした。




首都高下に設けられた「音羽パークロード600」を江戸川橋方向に進みます。音羽通りから首都高の下を通って西側の目白台に向かう坂道が何本か続いています。音羽通りは標高が低く、目白台は高台なので全ての道路は坂道になるのです。

9.鉄砲坂

三丁目坂の次の坂道は桂林寺の参道で、その次が鉄砲坂になります。鉄砲坂は、「音羽パークロード600」の地図によりますと、日本の私立音楽大学の中で最も古い歴史を持つ東京音大の辻井伸行さんも在籍した付属高校の北側を西に向う坂道と表示されていますが、それらしき学校は見当たりません。代わりに、工事用の塀に囲まれた広い空き地でマンションの新築工事が行なわれています。敷地が1235uといいますから、結構な広さです。後で調べてみましたら、東京音大付属高校は一昨年(2020年)に池袋キャンパスに移転したのだそうです。その跡地がマンションの建設工事現場になっているんですね。鉄砲坂は長さ110mほどの細い急坂です。周囲には古い住宅も建っていて、道路は継ぎ接ぎだらけの路面で整備状況は最悪です。おまけに、東京音大付属高校の寮の取り壊し工事も始まっていて、寮は廃墟と化しています。恐らく、寮の角塀に立っていたであろう案内板も見当たりません。案内板にはこう書いてあったそうです。

鉄砲坂

文京区関口三丁目と目白台三丁目の境。この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。




鉄砲坂の次は、関口台公園を挟んだ南側の坂道です。こちらは鉄砲坂よりも緩やかな傾斜になっています。

10.鳥尾坂

鳥尾坂は首都高高架の西側から始まり、目白台の獨協学園高校と東京カテドラル聖マリア大聖堂の間を抜けて、目白台三丁目交差点で目白通りに繋がっています。長さは170mほどで、途中から僅かに左に曲がりながら上っています。坂下には古い石柱が建っていて、かすかに「鳥尾坂」の坂名が読みとれます。関口台公園の植え込みの中に、文京区が設置した案内板が立っています。

鳥尾坂

この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は獨協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。




鳥尾坂の次は七丁目坂になるのですが、「巡回セールスマンの問題」的には先に音羽通りの東奥にある鼠坂と八幡坂を巡った方が良さそうです。

11.鼠坂

鼠坂は、坂下が音羽一丁目、坂上が小日向三丁目になっていて、音羽の谷から小日向の台地に上る長さ110mほどの長い階段状の坂です。坂下から見上げると、かなりな急階段に感じます。

鼠坂

音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について「御府内備考」には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる(の?)坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠ではなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい...」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。また、“水見坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。




鼠坂から音羽通りに戻ります。音羽といえば、鳩山御殿として知られる鳩山会館ですね。鳩山御殿の敷地は約2、000坪もの広さがあり、音羽通りから高台にある会館まで緩やかにカーブした長いスロープの坂道が続いています。以前訪れた際に会館内を見学したのですが、英国風洋館と薔薇が咲き乱れた庭園は貴族の館のようでした。今日は休館日とのことで、門は開いていますが邸内には入れません。入口横の壁に埋め込まれた古びたプレートに「鳩山家の建物」の説明が記されています。

鳩山家の建物 東京大学教授(近代建築史)藤森照信

文京区の音羽の丘の上に鳩山邸の美しい洋館が姿を現わしたのは、関東大震災の翌大正十三年である。鳩山家は、衆議院議長の和夫(1856年〜1911年)、総理大臣となった一郎(1883年〜1959年)。外務大臣をつとめた威一郎(1918年〜1993年)、さらに衆議院議員の由紀夫(1947年生)、邦夫(1948年生)、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てた。この洋館を建てたのは一郎で、ここを舞台に、戦後政治の画期(古い時代と新しい時代とを区別する区切り)となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行われている。設計を手がけたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883年〜1932年)で、大正・昭和初期を代表守する建築家として知られる。一郎の没後、傷みがひどくなったけれど、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復した。修復に当たり、一郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開されることになった。バラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文夫作の和夫、春子夫妻像、などなど見るべきものは多い。

Hatoyama Family Home
Terunobu Fujimori Professor (Modern Architectural History) Tokyo University

The Hatoyama family's beautiful Western-style residence was built atop a hill in Bunkyo Ward's Otowa in 1924, the year following the Great Kanto Earthquake. The Hatoyama family spawned four generations of statesmen : Kazuo (1856-1911), Speaker of the House of Representatives : Ichiro (1833-1959), Prime Minister : lichiro (1918-1993), Minister of Foreign Affairs : and Yukio (1947- ) and Kunio (1948- ), members of the House of Representatives. This house was built by Ichiro, and it was here that the formation of the Liberal Party (presently the Liberal Democratic Party), a landmark in postwar politics, was planned. It was also here that preliminary preparations were made for the restoration of diplomatic relations with the former Soviet Union, a decision made by Ichiro during his tenure as prime minister. The house was designed by Ichiro's friend Shinichiro Okada (1883-1932), who is known as a representative architect of the Taisho and early Showa periods. After Ichiro's death, the house, which had failen into disrepair, was given a major renovation and restored to its former splendor. On this occasion, memorial rooms were established in honor of Ichiro, his wife Kaoru, who was also an educator, and Iichiro, and the house was opened to the public. The home has much worth seeing, including an English-style exterior with rose gardens in front, stained glass adorned with a pigeon motif, an Adam brother's style drawing room, and sculptures of Kazuo and his wife, Haruko, by Fumio Asakura.




江戸川橋から延びる目白通りが目白坂下交差点で西側に折れますが、その反対方向の路地を少し進むと今宮神社に突き当たります。そこを左手に20mほど進みますと右手に急階段が上っています。階段は直ぐに左手に折れ、その先は民家に隠れて見えません。

12.八幡坂

八幡坂は長さ90mほどの急坂で、明治時代の始めまで今宮神社の地に田中八幡宮があったことにより、八幡坂と呼ばれるようになりました。左に折れた坂上近くには、「石川啄木初の上京下宿跡」の案内板が立っています。坂上を先に進むと鳩山会館の裏手に出ますが、入館するには音羽通りの正門から入らなければなりません。

八幡坂

「八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857年)の切絵図にも八幡坂とあり。」と、東京名所図会にある。明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。




「石川啄木初の上京下宿跡」の案内板は坂上のマンションのゴミ置き場の横の壁に貼られています。どうでもいいのですが、このマンションには駐車場が併設されています。マンションに通じる道路は他にありませんので、車はこの狭い急坂を上り下りするしかありません。超高度な運転技術が必要と、他人ながら気になります。清掃車とか消防車はどうやってここに上がってくるのでしょうかね?その前に、引っ越しはどうやったのでしょうか?

石川啄木初の上京下宿跡

盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治三十五年(1902年)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治三十五年11月1日のことである。その翌日、近くの大館光方に下宿先を移した。啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に椽あり。眺望大に良し。」とある。与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。




目白通りに戻り、目白坂下交差点を渡って首都高の高架下を北側に少し進みます。関口三丁目公園の脇から独協学園中学・高校に向かって伸びる住宅裏の細い階段があります。

13.七丁目坂

坂名は「七丁目坂」ですが、住所は文京区関口三丁目になっています。坂名の由来は、旧音羽七丁目と八丁目の境界にあったのでこの名前が付いて残っているとのことです。長さ75mほどの急階段で、坂上から見下ろすと足が竦みます。案内板は見当たりません。




目白坂下交差点から首都高の高架下を通って関口・目白台に抜ける広くて緩やかな坂があります。

14.目白新坂

目白新坂は椿山荘近くまで続く長さ450mほどの緩やかな長い坂で、途中から北西に向かって弓なりにカーブしています。すぐ南側にある目白坂のバイパスとして造られた坂ということで目白新坂という名前になっています。目白新坂がカーブする地点に東京都が設置した案内板が立っています。都の案内板は鉄製(銅製?)の凝った作りで、区の案内板に比べると相当にお金が掛かっているように思えます。単に、作られた年代が古かっただけかも。

目白新坂

この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治二十年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂に対して目白新坂という。明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽八丁目と同九丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗(土地のならわしとして)又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり」とあり、椿坂、新坂ともいう。




目白新坂のすぐ南に、道幅は狭いですがもうひとつの坂道があります。

15.目白坂

目白坂は首都高の高架下から椿山荘方向に向かって北西に弓なりに上がる長さ430mほどの坂です。別名を不動坂といいます。かつてこの坂の南面に新長谷寺があり、本尊を目白不動尊と称しました。坂名は徳川三代将軍家光が「目白」の号を授けたことに由来します。新長谷寺に祭られていた目白不動尊が南蔵院に移されたのですね。坂下に案内板が立っています。表は大書きした坂名だけで、裏面に坂の歴史が記されています。

目白坂

西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。この坂の南面に、元和四年(1618年)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。「御府内備考」には「目白不動の脇なれば名とす」とある。かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。

    目白台の空を真北にわたる雁
       稀に見る雁の四・五十羽かも   窪田空穂(1877-1967)




江戸川公園を通って有楽町線の江戸川橋駅出入口1aを今日のゴール地点とする予定でしたが、手元の地図に目白坂南交差点の横から延びる路地の先に鷺坂があるのに気づきました。鷺坂は小日向二丁目に位置するので今日の範囲外になるのですが、興味がわいてきて立寄ることにします。鷺坂の先には大日坂があり、こちらにも行ったらキリがありません。鷺坂と大日坂には明日改めて行くことにして、今日のところは大日坂下から神田川を渡った目白通りの反対側の有楽町線江戸川橋駅出入口3で歩きを終えます。



ということで、「東京23区の坂道を歩く」の「文京区目白台・音羽・関口コース」を歩き終えました。実は、「東京23区の坂道を歩く」は「東京のいろいろな散歩道を歩く」のシリーズに含めるつもりで、今日歩いた多くの坂道は豊島区の目白台・高田・雑司が谷地域の坂道と一緒に一度歩いていました。踏破記を書いている時に、「東京のいろいろな散歩道を歩く」には収まりきらないと判断して、新たなシリーズを立ち上げることにしたのです。最初に歩いた時は随分と道に迷ったのですが、二度目なので場所も道順も迷いがなく、今日は割と短時間で歩けました。何度訪れても坂道には興味が尽きません。でも、平坦な道路を歩くのと違って、急坂や急階段を上り下りするのは足腰に負担がかかりますけどね。





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