文京区(小日向・春日コース)
踏破記
今日は文京区で2番目となる「小日向・春日コース」を歩きます。折角ですので、昨日のゴール地点の地下鉄有楽町線江戸川橋駅出入口3からスタートします。本当のところは出入口1aが最初の坂道である鷺坂には近いのですけどね。これから先のコースではどうなるか分かりませんが、とりあえず文京区の一筆書き歩きは保たれています。
江戸川橋で神田川を渡り、目白坂下南交差点近くの路地に入ります。
- 16.鷺坂
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路地に入って直ぐのところから坂道が始まっています。坂道は高い石垣の角で直角に向きを変えますが、その曲がり角に案内板が立っています。
鷺坂
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者【1892年〜1981年】)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。足元の石碑は、久世山会が昭和七年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
案内板の下には、「2008年都市景観賞」と書かれたプレート貼られ、その下には坂名を彫り込んだ趣のある石碑が建っています。ゴミ袋は興ざめですが。
2008 都市景観賞【ふるさと景観賞】
鷺坂は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残した坂として人々に親しまれ、「坂の街・文京」の景観づくりに貢献しています。
鷺坂は石垣の角で直角に向きを変えた後で、更に坂上で右方向に曲がっています。クランク状のかなりの急坂です。鷺坂の全体の長さは70mほどになりますかね。
鷺坂を登り切った先は平坦な道路が延びています。その先で別の道路にぶつかっています。何やら案内板らしきものが立っているのが遠目にも分かります。
- 17.大日坂
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近づいて行きますと、道路は坂道になっていて、案内板の表面には「大日坂」と大書きされています。大日坂は、大日坂下交差点から北方向に上る長さ110mほどの坂道で、別名「八幡坂」ともいわれます。案内板の裏面に坂名の由来が記してあります。
大日坂
「・・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)。この「大日堂」とは寛文年中(1661年〜1673年)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。
この町に遊びくらして三年居き
寺の墓やぶ深くなりたり 折口信夫(筆名・釈超空(1887年〜1953年)
案内板が立っている場所はちょうど大日坂の中間地点のようです。
大日坂の坂下の交差点手前の階段上に妙足院という小さなお寺があり、その入口の石段横に縦長の案内板が立っています。書いてある文字は殆ど読み取れませんが、ネットの情報を加味して復元しました。
大日坂
坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文二年(1662年)といわれている。その後何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。
大日坂下交差点から東に向かって進みます。とあるビルの前に、「黒田小学校・文京区立第五中学校跡地」の案内板が立っています。
黒田小学校・文京区立第五中学校 跡地
黒田小学校は、明治十一年(1878年)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。当時、水道端二丁目(現水道二丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功労による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。東京府はその篤志を伝えるため、校名を黒田学校とした。当初の校舎は、南北2棟の木造で8教室であった。昭和十一年(1936年)建て替えられて鉄筋コンクリート造り3階建てとなった。黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、各界に多くの卒業生を送った。卒業生の中には、松平恒雄(外交官、政治家)、永井荷風(小説家)、黒澤明(映画監督)などがいる。昭和二十年、空襲で校舎は内部が全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になった。文京区立第五中学校は、昭和二十二年4月、六三制による区立中学校の一つとして、区立小日向台町小学校内に設置された。一方、旧黒田小学校の校舎は戦災者の集団住宅となっていたが、昭和二十四年から内部の改修が行われると同時に生徒の移転が始まり、翌年には全生徒が移り独立校舎となった。創立時の教育目標は、民主的で文化的な人間の育成を目指すというものであった。その後改訂を経て、心身共にたくましい人、高い知性と豊かな情操をもつ人、骨身を惜しまず働く人、社会に貢献し信頼される人、といった教育目標を設定した。平成二十一年(2009年)3月、生徒数の減少により第五中学校は第七中学校と統合し、文京区立音羽中学校となった。ここに文京区立第五中学校は惜しまれつつ廃校となり、黒田小学校以来の歴史を閉じた。
その隣には「黒田小学校縁起」と書かれた石碑も置かれています。
黒田小学校縁起
われらの母校黒田小学校は明治十一年二月ここ小日向水道町八十六番地に創建された。その校名は当時水道端二丁目に居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米二千石を東京府に献納し、もって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運日に隆盛に赴き、昭和十一年七月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り三階建となし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしめることとなったが、昭和二十年五月二十五日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰し(た)ために翌二十一年三月廃校となり、ここに春風秋雨七十年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが今校庭に立って黒田小学校が明治大正昭和にわたり幾多有為の人材の揺籃(ゆりかごの意味)として国運の興隆に寄与した光輝ある歴史を回顧すれば感慨を禁じ得ない。すなわちわれら卒業生有志相謀りここに碑を建てて永く恩師旧友を偲ぶよすがとするものである。
区立五中前交差点から文京江戸川橋体育館の横を通って小日向神社前まで緩やかな坂道が延びています。
- 18.服部坂
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服部坂は、文京江戸川橋体育館の横を北方向に上る長さ100mほどの坂です。体育館の入口横の壁に案内板が貼られています。さきほど見た黒田小学校と文京区立第五中学校についても触れられています。
服部坂
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治二年(1869年)に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、「日和下駄」に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・・」と書いている。坂下にある旧文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。
服部坂の坂上に小日向神社が鎮座しています。小日向神社は、小日向の鎮守として栄えた氷川神社と、古くからこの地域の氏神さまとして里人に親しまれていた八幡神社(田中八幡)が明治二年(1869年)に合祀されて小日向神社と改称されました。戦災で社殿は焼失しましたが、戦後になって仮殿で復興し、昭和三十八年には現在の本殿が再建されました。
小日向神社のはす向かいにある福勝寺の前に下り坂があります。
- 19.横町坂
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横町坂は長さ100mほどの緩やかな下り坂です。坂名の由来は、武家屋敷の間を通る横町の坂であったためとされています。
生西寺の前に少し傾斜のある坂道が通っています。
- 20.薬罐坂
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薬罐坂は左右に曲がって上る長さ120mほどの坂で、別名を野(カン:むじな編に干)坂といいます。野狐のことを野罐(野カン)といいますが、野狐が出て人をたぶらかすようなもの寂しいところなのでこの坂名になったといわれています、その野罐が薬罐に変化したものと思われます。
薬罐坂から南方向に進みますと、称名寺の東脇に沿ってクランク状に折れ曲がった下り坂があります。
- 21.荒木坂
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荒木坂は長さ100mほどの少し急な坂です。坂名の由来は、かつて坂上に荒木志摩守殿屋敷があったことに因んでいます。
荒木坂と巻石通り
称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。「江戸砂子」によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡五丈程(約15m)、巾貮間貮尺程(約4m)」(「御府内備考」)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治十一年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治三十四年(1901年)までで、以後は水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
金富小学校と国際仏教学大学院大学の間に緩やかな坂が上っています。国際仏教学大学院大学の広大な敷地は徳川慶喜公の屋敷跡で、徳川慶喜終焉の地でもあります。
- 22.今井坂
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今井坂は、金富小学校と国際仏教学大学院大学の間を北に上る長さ120mほどの緩やかな上り坂です。別名を「新坂」といいます。釈超空の歌はあちこちに出てきますね。
今井坂(新坂)
「改撰江戸志」には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711年〜1716年)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。今井坂の名のおこりは、「続江戸砂子」に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。この坂の上、西側一帯は、現在国際仏教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治三十四年(1901年)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正二年(1913年)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。
この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり (釈 超空)
(この町とは旧金富町をさす)
釈超空は、民俗学者で国文学者の折口信夫(1887年〜1953年)が歌や詩・小説などの創作ものを発表するときに使用したペンネームです。旧金富町の町名案内板が立っています。
旧町名案内 旧金富町 (昭和三十九年までの町名)
明治二年、小石川金杉水道町の一部、小石川富坂新町、小日向金剛寺門前町、多福院門前町の4町を合併した。町名は、金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。明治五年、さらに付近の土地を加えた。金剛寺坂上に、俗に鶯谷というところがあった。ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(南畝)が住んでいた。また、小説家永井荷風は明治十二年、旧金富町45番地(現・春日2−20−25あたり)に生れ、少年時代を過ごし、このあたりから伝通院周辺は、荷風の心のふるさとであった。小学校は黒田小学校(現・五中の地)を卒業した。
この町に遊びくらして三年居き
寺の墓やぶ深くなりたり (釈超空)
巻石通り交差点のひとつ先に、北方向に向かう坂があります。
- 23.金剛寺坂
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金剛寺坂は、巻石通りから地下鉄丸ノ内線を越えて本田労働会館脇を通る長さ110mほどの坂道です。別名、 新鳶坂・蝙蝠坂とも呼ばれます。坂名の由来は、江戸時代にこの坂の西側に金剛寺という禅寺があり、その脇を通る坂であったことに因んでいます。夏目漱石の小説「それから」で主人公の代助が三千代に会うためによく上る急勾配の坂がこの金剛寺坂でした。小説の中でもこの名前で登場します。
金剛寺坂
江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。この坂の東寄り(現・春日2−20−25あたり)で、明治十二年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和二十年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。荷風は、昭和十六年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。
寿永元年(1182年)の春に源頼朝が東国平定に向かった際、船をこの台地の松に繋ぎとめてまどろんでいました。その時に牛に乗った菅神(道真)が現れ、ふたつの幸福を授けるとご神託を受けました。その年の秋に長男頼家が誕生し、翌年には平家を西海に追払うことが出来たことから、源頼朝は元暦元年(1184年)にこの地に社殿を創建し、牛天神北野神社が創建されたといわれています。東都七福神の一社となっています。
御由緒書
御社名 北野神社(牛天神)
御祭神 菅原道真公
御例祭 五月二十五日
当社は寿永三年の昔、右大将源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。
- 24.牛坂
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牛坂は、牛天神(北野神社)の西側から北側に回り込む長さ90mほどの急坂で、別名を潮見坂・鮫干坂・蠣殻坂などとも呼ばれます。坂下から北方向に上り、途中から東方向に折れています。坂名の由来は、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があったことに因んでいます。坂の中ほどに案内板が立っています。
牛坂
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蠣殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる(牛石はもと牛坂下にあった)。「江戸志」には、「源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に管神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。」と記されている。
神田川が東向きから南向きに流路を変える大曲から白鳥橋を渡った先の安藤坂交差点から伝通院前交差点まで、逆”く”の字型に曲がった急坂があります。
- 25.安藤坂
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安藤坂は、春日一丁目と二丁目の間を、坂下付近東北東、途中から北北東に上る長さ310mほどの交通量の多い坂道です。網干坂・安藤殿坂などとも呼ばれていました。網干坂は、かって坂下の入り江で漁業が行われていたことに因んでいます。安藤殿坂は、江戸時代に坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んでいます。安藤坂には、かって都電39系統が上り下りしていました。都電39系統は早稲田電停から大曲を経てこの坂道を上り、伝通院前で右折して冨坂を下り、東冨坂(真砂坂)を上り、湯島の切通坂を下り、広小路を経て厩橋に至る、坂道と関係が深い路線でした。
安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、明治四十二年(1909年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
春日通りの富坂上交差点から富坂下交差点まで緩やかに曲がったなだらかな坂が下っています。
- 26.富坂
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富坂は長さ380mほどで、別名を飛坂とか西富坂と呼ばれています。かつて旧水戸藩邸付近に鳶(トビまたはトンビ)が多数いたために”とび坂”と呼ばれ、これが転じて”富坂”になったといわれています。春日町交差点から本郷方向に向かって上がる坂は東富坂になっていて、西富坂は伝通院から春日町交差点に向かって下りる坂ということで両者が区別されました。
富坂
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、”アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 【1876年〜1926年】)
茗荷谷駅の手前にある茗台中学校の脇から急階段が丸ノ内線の車両基地の方向に下っています。
- 27.庚申坂
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庚申坂は、茗台中学校の西脇から地下鉄丸ノ内線のガード下に下りる長さ45m・約30段の急階段です。坂名の由来は、かって坂下に庚申の碑があったことに因んでいます。現在はそれらしき庚申塔は見当たりません。庚申坂を下りた先に、かって切支丹屋敷があったため、別名を切支丹坂と呼ばれていますが、本物の切支丹坂は地下鉄のガード下を潜った先の坂です。
庚申坂
「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・略・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名”庚申坂”。昔、坂下に庚申の碑あり・・・・」「東京名所図会」。庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり、天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従って、切支丹坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。「・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・これが真の切支丹坂なり」「東京名所図会」。
とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)
丸ノ内線は後楽園駅付近で地下から地上に出て、この付近では高架になっています。地下鉄の下に人間が通るトンネルがあるというのは面白いですね。高架下のガードなら他にもありますが。
- 28.切支丹坂
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トンネルを抜けた先は雪国。。。ではなく切支丹坂が上がっています。切支丹坂は長さ80mほどの住宅地の中の坂で、別名を幽霊坂といいます。鎖国令から4年後の寛永二十年(1643年)、宣教師ジョセフ・カウロ一行10人が九州に到来して捕らえられ、江戸に送られました。この坂上にあった宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷に牢(切支丹屋敷)が造られ、ここにジョセフ・カウロ一行が収容されました。屋敷は寛政四年(1792年)に廃止されました。
切支丹坂を上がって坂上で右折した先の建物の前に「切支丹屋敷跡」の石碑と案内板が立っています。屋敷というと特別待遇の居住地という感じがしますが、実体は牢屋でした。
東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡
キリシタン屋敷は正保三年(1646年)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シド
ッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保九年(1724年)焼失し、以降再建されず、寛政四年(1792年)に屋敷は廃止されました。
Historic Places
Kirishitan Yashiki Ato
(Remains of Kirishitan Yashiki)
Here is the place of Kirishitan Yashiki that had been the residence for interning
Christians, and where they were forced to abandon Christianity. The residence was built in 1646 in the suburban residence of Inoue Chikugo no Kami Masashige who was the chief officer of investigation and interrogation to Christians. It consisted of the prison and row house where they were basically allowed to spend in safety, given Japanese names. They communicated their extensive knowledge into the isolated Japan. Giovanni Battista Sidotti, the last stowaway of Christian missionary into Japan, was also interned here and interrogated by Arai Hakuseki. The residence had
no internee after him, and was burned down in 1724. Thereafter it was never rebuilt, and was eventually abolished in 1792.
切支丹屋敷跡から住宅地の路地を抜けた先に曲がりくねった急坂が下りています。
- 29.蛙坂
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蛙坂は、貞静学園短期大学の東を地下鉄丸ノ内線の線路沿いに曲がりながら下る、長さ90mほどの急坂です。かつて坂の東は湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの屋敷内にも古池があって、そこにも蛙が住みついていました。この坂で左右の蛙の合戦があったために蛙坂 と呼ぶようになったといわれています。蛙が転じて「復坂:かえるざか」という別名もあります。
蛙坂(復坂)
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸誌)。「御府内備考」には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている。
蛙坂下から丸ノ内線の高架下を左手に回り込むと、拓殖大学の縁に沿って”く”の字のように曲がった緩やかな坂が上がっています。
- 30.茗荷坂
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茗荷坂は深光寺入口から始まる長さ210mほどの坂で、昔はこの辺りで茗荷が多く栽培されたために付いた坂名です。
茗荷坂
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
茗荷坂から春日通りに行くには、丸ノ内線の高架下に設けられたふたつのトンネルのどちらかを通り、それぞれの先にある坂を上っていきます。
- 31.釈迦坂
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釈迦坂は左側のトンネルの先から続き、崖に沿ってくねくねと曲がる長さ85mほどの上り坂です。坂名の由来は、坂の崖の上に徳雲寺があり、その釈迦の石像が坂から見えたのに因んでいます。
釈迦坂
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。「御府内備考」によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永七年(1630年)に開山された。「新撰江戸志」に寺伝に関する記事がある。境内に大木の椎の木があった。元禄年間(1688年〜1704年)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。 明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺になっている。
丸ノ内線の高架下の右側のトンネルを通った先に藤寺があります。藤寺は傳明寺の通名です。傳明寺は寛永元年(1624年)に創建され、徳川家光が鷹狩りの際に傳明寺の藤を上覧し、藤寺と呼ぶよう命じたといわれています。
- 32.藤坂
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藤坂は春日通りを挟んで播磨坂の延長上に長さ75mほどの短い坂で、別名が富士坂とか禿坂となっています。藤寺(傳明寺)の前の坂であることが坂名の由来になっています。
藤坂(富士坂・禿坂)
「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいえり、」(「改撰江戸志」。藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。「東京名所図絵」には、寺伝として「慶安三年寅年(1650年)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。「続江戸砂子」に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には名木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
藤寺のみさかをゆけば清水谷
清水ながれて蕗の薹もゆ (金子水穂)
藤坂を上り、春日通りに出ますと、反対側には文京区の桜の名所として知られる播磨坂が続いています。
今日のゴール地点の茗荷谷駅に着きました。
ということで、「東京23区の坂道を歩く」の「文京区小日向・春日コース」を歩き終えました。小日向は台地上に位置し、周辺から上る由緒ある坂道が沢山あります。あまり歩いたことのない坂道が多かったのですが、新たな発見があって面白かったです。
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