文京区(大塚・千石・小石川コース)


踏破記


今日は文京区で3番目となる「大塚・千石・小石川コース」を歩きます。昨日のゴール地点の地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅出入口1からスタートします。これから先のコースではどうなるか分かりませんが、今のところ文京区の一筆書き歩きは続いています。



茗荷谷駅を出て、跡見学園とお茶の水女子大学の間の道路に入ります。

33.付属横坂

付属横坂は、文京区大塚一丁目と二丁目の間の跡見学園とお茶の水女子大学の間を通った先の筑波大学附属中・高校付近から始まって、音羽通りに面した大塚警察署前の交差点に至る長さ約180mほどのS字状に曲がる坂です。音羽ハウスのところでやや急坂になっています。道幅が広く、舗装も綺麗で、歩道の街路樹も美しい気品ある坂として知られています。



付属横坂とは珍しい名前ですが、坂道の両側に跡見学園・お茶の水女子大学、それに坂名の由来になったと思われる筑波大学(かっての東京教育大学)の付属校が並んでいることからある意味妥当なのかもしれません。



大塚警察署前から音羽通りを護国寺まで進み、不忍通りを渡って護国寺西交差点に向かいます。

34.希望の坂

希望の坂は、不忍通りの護国寺西交差点と日大豊山中・高校の中間辺り、区立アカデミー音羽の西側から青柳小学校校門に突き当たる長さ約140mほどのやや急で真っ直ぐの坂道です。坂名は公募により決められました。希望に満ちた子どもたちの将来を願ってこの名前になったそうです。小学校内の通学路に行政の案内板が立っているのは珍しいですね。20年ほど前の写真を見ますと、土台の壁面にカラフルな文字で「希望の坂」と書かれていたようですが、現在は無字になっています。

希望の坂

この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により、昭和五十三年(1978年)につけられました。青柳小学校は大正三年(1914年)旧西青柳町に開校し、町名を校名としました。小学校は昭和三十五年(1960年)高速道路建設のため、現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑が立ち、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望にみちた子どもたちの将来を願って、坂の名を「希望の坂」としました。平成六年(1994年)開校80周年記念に「希望の坂」の歌の発表がありました。“希望の坂の上から元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声 緑に囲まれた 青柳小学校 この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない”。




護国寺の西側の首都高5号池袋線が上空を通る都道435号音羽池袋線に沿って池袋方向に進みます。ここは緩やかな坂道になっていて、小篠坂という名前が付いています。文京区と豊島区にまたがっているため、豊島区の坂道で巡りましたが、坂学会では文京区の坂道に分類されています。今回はパスして次の開運坂に向かいます。

35.開運坂

開運坂は文京区大塚五丁目と六丁目の境界にある長さ約130mほどのクランク状に折れ曲がった緩やかな坂です。護国寺の裏手の住宅地の中に位置し、近くに皇族の豊島岡墓地や大塚先儒墓所などがあります。坂の中程に文京区が設置した平成二十六年版の案内板があります。昭和五十六年に作成された案内板では坂名の由来が不明と記されてあったそうですが、現在の案内板には嘉納治五郎が命名したと書かれています。

開運坂

この坂名は、講道館の創始者で教育家の嘉納治五郎(1860年〜1938年)によって名付けられたとされる。かつて坂上北側に講道館の道場があり、開運坂道場と呼ばれた。また、坂上突き当りには嘉納治五郎邸もあった。講道館とは、嘉納治五郎によって明治十五年(1882年)に創設された柔道の道場であり、柔道の研究教授とその普及振興をはかる教育機関として発展し、現在に至っている。開運坂道場は、嘉納邸に隣接した場所に下富坂道場(小石川区下富坂町。現、文京区小石川一丁目)の建物を移築し、明治四十二年に開場した道場である。開運坂道場には、全国から多くの柔道家が集まり研鑽が積まれた。また、大正期には、ここで女子への柔道指導が本格的に開始された。その後道場は、昭和八年(1933年)に水道橋へ移転した。




開運坂下から護国寺の東側に沿って坂下通りが延びています。そのまま進みますと、坂下通入口交差点で不忍通りに突き当たります。不忍通りが坂になっている中間地点辺りです。

36.富士見坂

富士見坂は、不忍通りの護国寺前交差点付近から春日通りと交差する大塚三丁目交差点付近まで続く長さ約400mほどの緩やかな坂です。周囲に高い建物がなかった江戸時代には、坂上から富士山がよく見えたのが坂名の由来とのことです。現在でも条件がよければビルの間に富士山の山頂付近の姿を見ることができるそうです。

富士見坂

坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正十三年(1924年)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。

   とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにゆくおほつかなかまち
                  会津八一(1881年〜1956年)

   この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
                  窪田空穂(1877年〜1967年)




不忍通りは大塚三丁目交差点で春日通りと交差した先から長い下り坂が続いています。

37.白鷺坂

白鷺坂は、不忍通りの大塚四丁目交差点付近から千石三丁目交差点まで約390mほどに亘って続く緩やかな長い坂です。坂名の由来は、かつてこの辺りは伊達宇和島藩主の下屋敷でしたが、明治時代に荒廃して白鷺の営巣地となったことに因んでいます。坂下の大塚小学校前の塀の外側に、植え込みに埋もれるようにして文京区が設置した案内板が立っています。葉っぱを避けながらカメラを構えるのは至難の業です。

白鷺坂

このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこに出来たこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。

   鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
     そうぜんとして寂しきものを
               古泉千樫(1886年〜1927年)




千石三丁目交差点で左折してプラタナス通りに入ります。通りの名前は、大塚駅付近の道路の街路樹としてプラタナスの木が植えられていることに由来します。

38.砂利場坂

砂利場坂はプラタナス通りから一歩入った二差路の右側に続く長さ約140mほどの真っ直ぐな坂道です。坂上付近で僅かに右に曲がっています。先日巡った宮坂と次に行く猫又坂の間に挟まれて並行するように北東に上っています。護国寺造営の際に砂利取場となっていたためにこの坂名となりましたが、後に開墾されて新田になりました。こんな斜面に田んぼができたのでしょうか?



プラタナス通りを戻って千石三丁目交差点に出ます。白鷺坂は交差点が坂下になりますが、そこから逆に不忍通りは上り坂となります。

39.猫又坂

南西方向から下ってきた白鷺坂は、プラタナス通り(千川通り)と不忍通りが交差する千石三丁目交差点を谷底として、北東に上る猫又坂に引き継がれます。猫又坂は長さ約170mほどの緩やかな直線の坂で、猫股坂とか猫狸坂とも呼ばれます。かって猫又坂は千川にかかる猫又橋に繋がっていたため、橋名にちなんで坂名が付けられました。

猫又坂(猫狸坂、猫股坂)

不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正十一年(1922年)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。また、「続江戸砂子」には次のような話がのっている。むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫狸橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫狸とは妖怪の一種である。




猫又坂の案内板のとなりにふたつの石柱のモニュメントが置かれ、石柱がかっての猫又橋の親柱の袖石であったことが石柱の横に立つ案内板に記されています。

猫又橋 親柱の袖石

この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫狸橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫狸は妖怪の一種である。昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。大正七年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和九年千川は暗渠になり道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。

   騒がしき蛙は土に埋もれぬ
     人にしあれば 如荷に恨まん




千石三丁目交差点から千川通りを東南方向に進みます。千川通りから少し奥に入ったところに簸川神社が鎮座しています。

40.氷川坂

氷川坂は、簸川神社の西側を北東に向かって上る長さ約110mほどの急坂です。氷川神社に接した坂ということでこの名が付けられました。

簸川神社・氷川坂(簸川坂)

・簸川神社
社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞嗚命である。源義家(1039年〜1106年)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄十二年(1699年)この地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、昭和三十三年(1958年)に再建された。境内の幟建一対は江戸時代、善仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。なお、1基は平成十二年久堅町民会の尽力で修復されたものである。

・氷川坂(簸川坂)
氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和九年(1934年)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。




氷川坂は別名簸川坂となっていますが、これは大正時代に神社の名前が氷川神社から簸川神社に改称されたことに因ります。

簸川神社の歴史

創建は第五代孝昭天皇の御宇三年と伝えられる古社です。もとは小石川植物園の地、御殿坂周辺の貝塚の上に鎮座し、八幡太郎源義家公(1039年〜1106年)が奥州平定の祈願に参籠した社とされています。元禄十二年(1699年)に現在の高台に移転し、巣鴨の鎮守と定められ、江戸名所のひとつに数えられていました。明治二十三年十一月、大正天皇陛下(当時東宮)が植物園に御成りの折、御臨拝賜りました。もとは社号に氷川を用いていましたが、大正時代、神主毛利昌教が神社の由緒を出雲の国、簸川にあるとし、氏子中に諮り簸川と改めました。




簸川神社の直ぐ先に小石川植物園があります。正式名称は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園といい、植物に関する様々な研究を行っている東京大学の附属施設のひとつですが、一般にも公開されています。元々は江戸幕府によって開園された小石川御薬園があったところです。幕府は人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永十五年(1638年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しました。その後大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684年)に麻布の薬園を五代将軍徳川綱吉の小石川別邸に移設したものが小石川御薬園になりました。小石川御薬園内には江戸の貧病人のための診療所(小石川養生所)が設けられ、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の「赤ひげ」の舞台となりました。また、甘藷先生こと青木昆陽が飢饉対策作物として享保二十年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った場所としても知られています。



簸川神社と小石川植物園の間に急坂が上っています。

41.網干坂

網干坂は小石川植物園の西側に沿って北に向かう長さ約300mほどのやや急な坂道です。別名を網曳坂といいます。かって坂下の谷は入江になっていて舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが坂名の由来といわれています。

網干坂

白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和九年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。




網干坂の坂下から千川通りを渡った先に教育の森公園があります。傾斜面には水路が設けられ、水車も備わっています。その奥に都心には珍しい原生林のような樹林帯が広がっています。

占春園

この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守山藩松平家の上、中屋敷の地であった。占春園は、この屋敷内にひらかれた庭園の名残りである。「林には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と、四季それぞれの庭の美しさでその名が知られ、当時の江戸三名園の一つに数えられていた。明治三十六年(1903年)、東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が、湯島からこの地に移り、占春園は、校地の一部になった。現在は、筑波大学附属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区民にも公開されている。




教育の森公園は傾斜した敷地にあるため、その北東側に面した道路は坂道になっています。

42.湯立坂

湯立坂は教育の森公園の南東側に沿って上る坂道で、坂下は網干坂に繋がっています。長さ約330mほどの少し左右に曲がる緩やかな傾斜をしています。坂名には暗闇坂とか湯坂という別名があり、昔この坂の下には川が流れていて氷川神社に渡ることができなかったので、神社の氏子は川の手前で湯花を捧げ、この名が付いたとのことです。湯花とは湯の沸騰時に上がる泡のことで、神社で巫女などがこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ浄めました。この儀式を「湯立」といいます。坂上の教育の森公園入口脇に文京区が設置した案内柱がありますが、坂道の案内板が多い中で案内柱は珍しいですね。

湯立坂

「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てゝ渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」

   我方を思ひふかめて小石河いつをせにとかこひわたるらん

道興准后「廻國雑記」(文明十八年【1486年】六月から翌年三月までの北陸、関東、奥州諸国の紀行詩文集)より




湯立坂の中ほどから春日通りと並行して進んだ先に竹早公園があります。

43.団平坂

団平坂は竹早公園と小石川図書館の南東側に沿い、緩やかな直線をした長さ約190mほどの坂道です。別名を丹平坂とか袖引坂といいます。坂名の由来は団平という名前の米突きを商売とする人が住んでいたことに因んでいます。坂下の小石川図書館前に文京区が設置した案内板が立っています。

団平坂(丹平坂・袖引坂)

「町内より東の方、松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候。右は先年門前地之内に団平と申者春米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝、年代等相知不申候」と「御府内備考」にある。団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。この坂の一つ東側の道の途中(小石川5−11−7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治四十五年(1912年)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

   椽先にまくら出させて、
   ひさしぶりに、
   ゆふべの空にしたしめるかな
      石川啄木(直筆ノート最後から2首目)




播磨坂は春日通りから東北東に分岐し、道路の中央が幅広い公園(グリーンベルト)になっています。道路の両側と公園の中には桜の並木が続いていて、文京区有数の花見の名所になっています。桜の季節でなくてもベンチに座って木々を眺めながら休息できます。

播磨坂のさくら並木

この通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状三号線の一部として造られました。江戸時代、この辺りは松平播磨守の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田んぼ」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を「播磨坂」と呼ぶようになりました。立派なさくら並木(現在127本)は、昭和三十五年に「全区を花でうずめる運動」で植えられた若木(樹齢15年)が育ったものです。昭和四十七年からは、毎年4月初めに「文京さくらまつり」が行われ、多くの人々に親しまれています。平成七年(1995年)3月には、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる新しい名所となりました。




公園も含めた道路の幅は半端なく広く、環三通りという呼称が付いています。都内には環状一号から環状八号まで8つの路線があります。環状一号は内堀通りや日比谷通り、環状二号は新大橋通りや外堀通り、環状三号は外苑東通りや目白通り、環状四号は外苑西通りや明治通り、環状五号は明治通りや御苑通り、環状六号は山手通りです。環状七号と環状八号はそのままの道路名です。環状といっても、実際に環状になっているのは環状一号と環状七号だけで、あとは未開通だったり計画自体が環状ではなかったり、環状四号と環状五号のように一部で重なっている路線もあります。環状三号はその象徴的な存在で、播磨坂は戦災復興事業の一環で環状三号の一部として整備されましたがその長さは僅か500mほどしかありません。播磨坂の前後の道路ができず、現在でもぽつんと取り残された状態になっているのです。

環三通り桜並木の由来

かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は、戦後間もない昭和二十二年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和二十八年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成七年には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和四十三年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。




44.播磨坂

播磨坂は春日通りの小石川五丁目交差点から北東に向い、植物園前交差点まで続く長さ約450mほどの右に曲がりながら下る緩やかに長い坂です。別名を桜の坂といいます。かつてこのあたりに松平播磨守の屋敷があり、それが坂道の名前の由来となりました。

播磨坂

この道路は、終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。昭和三十五年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって、「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和四十三年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。




坂下でもうひとつの坂道が合流しています。



45.吹上坂

吹上坂は、春日通りの茗台中学校前交差点から植物園前交差点まで下る長さ約350mほどの緩やかな坂道です。坂上付近に播磨守屋敷があり、そこに極落水という湧き水が吹き上げていたのが村名になり、坂名になったとされています。別名を禿坂といいますが、禿は頭に髪がないことをいい、河童に通じています。近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名によく見られます。播磨坂の坂下は「播磨田圃」といわれた水田が広がり、しかもそこには小石川が流れる寂しい場所でした。

吹上坂

このあたりをかって吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別名「禿坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。

   雑然と鷺は群れつつおのがじし
      あなやるせなき姿なりけり
         古泉千樫(1886年〜1927年)




吹上坂から三百坂に向かう途中の路地に面して小さなお店があり、入店待ちの行列ができています。「NUTTY’S CAFF(ナッティーズ カフ)」という店名で、2019年1月に誕生したカフェ好き絶賛のお店です。Cafe(カフェ)ではなく、Caff(カフ)という聞き慣れない言葉ですが、CaffはイギリスでCafeの略語で、軽食もある気軽なカフェのことだそうです。ちなみに、Cafeはフランス語表記で、Caffeはイタリア語表記なのだそうです。店名からしてイギリス人が経営しているお店のように思えますが、日本人のご家族が経営されていて、細部まで妥協せずこだわりぬいた珠玉のスイーツは娘さんが担当されているそうです。中でも人気は完成に半年以上かかったという「バターミルクパンケーキ」だそうです。男の人も並んでいるのが人気の高さを示していますね。



46.三百坂

三百坂は都立竹早高校の東側に沿って延びる長さ約250mほどの緩やかな坂道です。別名を三貊坂といますが、坂名には由来があります。播磨坂の名前の由来となった松平播磨守が新しく召抱えた者が役に立つかどうかを試すために、主君が登城のときに玄関で目見えさせた後で衣服を改め、この坂で供の列に加わらせるようにしました。坂を過ぎるまでに追いつけなかった場合は遅刻の罰金として三百文を出させたことでこの坂名になりました。

三百坂(三貊坂)

「江戸志」によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。




三百坂から伝通院に向かいます。伝通院の山門前に案内板が幾つか立っています。塔頭(たっちゅう)とは禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院をいいます。処静院は伝通院の塔頭のひとつでしたが、住職の琳瑞和尚が新撰組の前身である浪士隊を支援したことで佐幕派の浪士に三百坂で暗殺されました。佐幕派とは、幕末の動乱期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」という意味です。倒幕派と対比するために佐幕派と呼ばれました。琳瑞和尚は三百坂で暗殺されたんですか。。。

浪士隊結成の地 処静院跡

浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不詐葷酒入門内」の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。文久三年(1863年)2月4日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもとで活動した新撰組の前進(前身?)である。隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(鳩翁)が日付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職に就いた。鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、結成の場所として本院を提供した。後に新撰組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃された。享年34歳であった。現在墓は伝通院にある。また、住職琳瑞も慶応三年(1867年)小石川三百坂で刺殺された。享年38歳であった。




伝通院の隣にある淑徳学園の前から左にカーブする下り坂があります。

47.善光寺坂

善光寺坂は、伝通院前から東の白山通りに向かって淑徳学園の前から善光寺の門前まで続く長さ約200mほどの緩やかな坂道です。坂道に面して、慈眼院(沢蔵司稲荷)と善光寺が隣り合って並んでいます。坂名は善光寺の前を通っていることに由来しています。善光寺は信州の善光寺の分院なので、別名を信濃坂といいます。

善光寺坂

坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長七年(1602年)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治十七年(1884年)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。

   “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)

注記:「はせを」とは芭蕉の署名です。本当は「ばせう」なのですが、芭蕉は敢えてこの表記をしていたようです。

また、この界隈には幸田露伴(1867年〜1947年)・徳田秋声(1871年〜1943年)や島木赤彦(1876年〜1926年)、古泉千樫(1886年〜1927年)ら文人、歌人が住み活躍した。




善光寺坂の坂上に幹の上部がなくなった巨木が聳えています。戦災で損傷したそうですが、生命力の強さを感じます。

文京区指定天然記念物
善光寺坂のムクノキ

樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和二十年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の神木として現在に至っている。樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。




善光寺坂の坂下を右折しますと、すぐ右手に急坂が上っています。坂は途中で直角に曲がっています。

48.六角坂

善光寺坂の坂下からすぐ先を右に折れると途中で直角に曲がった急坂が上がっています。六角坂は長さ90mほどの坂道で、高家の六角氏の邸前を通っていたことが坂名の由来です。

六角坂

「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(「改撰江戸志」)とある。「江戸切絵図」(万延二年【1861年】の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに六角越前守の屋敷があったことがわかる。餌差町は、慶長年間(1596年〜1615年)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕えることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、「アララギ」の編集にあたった「いろは館」があった。




六角坂の坂上から南に向かい、途中で左に折れると急坂が下っています。

49.堀坂

堀坂は長さ70mほどの急坂で、坂の北側に堀内蔵助の邸があったことが坂名の由来になっています。坂下には「こんにゃくえんま」で有名な源覚寺があります。堀坂は元々は宮内坂、又は源三坂と呼ばれていました。旗本の堀内蔵助の二代目の利尚(通称宮内)の邸がこの坂の北側にあったので「宮内坂」と名付けられました。また、此の地の名主だった鎌田源三の名をとって「源三坂」とも呼ばれました。ところが文政の頃に堀家が坂の修理をして「ホリサカ」と刻んだ石柱を建ててから「堀阪」というようになったとのことです。

堀坂(宮内坂・源三坂)

「堀坂は中富坂町の西より東の方。即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に“ほりさか”と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(「新撰東京名所図会」)。この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818年〜1830年)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。




今日のゴール地点の春日駅に着きました。



ということで、「東京23区の坂道を歩く」の「文京区大塚・千石・小石川コース」を歩き終えました。今日訪れた坂道は割と広範囲に散らばっていましたので、結構時間がかかりました。小石川は台地になっていますので、必然的に坂道が多いんですね。文京区は歴史ある坂道が多くて面白いです。





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