文京区(白山・本駒込・千駄木・根津コース)


踏破記


今日は文京区で4番目となる「白山・本駒込・千駄木・根津コース」を歩きます。昨日のゴール地点の都営地下鉄春日駅出入口6からスタートします。これから先のコースではどうなるか分かりませんが、今のところ文京区の一筆書き歩きは続いています。



春日駅を出て、春日町交差点を左折して白山通りを北上します。指ケ谷小入口交差点を左折して路地に入りますと、曲がりくねった路地の先に坂道が上がっています。ちなみに、「指ケ谷」にはいわれがあります。現在の白山一丁目〜五丁目(三丁目は除く)の町域はかっては「指ケ谷町」という地名でした。白山通りの歩道脇に旧町名の由来を記した案内板が立っています。

文京区 旧町名案内 旧指ケ谷町(昭和四十一年までの町名)

古くは、小石川村に属した。元和九年(1623年)伝通院領となった。寛永(1624年〜1644年)のころには、木立の茂った谷地であった。ある時、三代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。ェ永十一年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷一丁目・二丁目・指ヶ谷南片町と称した。明治二年、白山前町の内、千川屋敷・円乗寺・蓮華寺・浄雲寺・正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。


50.伊賀坂

伊賀坂は、白山通りの指ヶ谷小学校入口交差点から小学校の正門前を通り、左右に曲がりながら西に上る長さ約100mほどの坂道です。坂名の由来には、伊賀者の同心衆の組屋敷があったという説と真田伊賀守屋敷があったという説のふたつがあります。

伊賀坂

白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。伊賀者の同心衆の組屋敷があった(「御府内備考」)とか、真田伊賀守屋敷があった(「改撰江戸志」)という二つの説がある。「東京名所図会」では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。




伊賀坂から小石川植物園に向かいます。この辺りの町域は高台にあり、路地が迷路のように入り組んでいます。あっちに行っては行き止まり、こっちに来ても行き止まりといった状態で、なかなか小石川植物園には辿り着けません。結局、高台にある是照院の下をぐるりと大回りしてようやっと小石川植物園の正門前にやって来ました。小石川植物園の正式な名称は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園といい、植物に関する様々な研究を行っている東京大学の附属施設のひとつですが、一般にも公開されています。元々は江戸幕府によって開園された小石川御薬園があったところです。幕府は人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永十五年(1638年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しました。その後大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684年)に麻布の薬園を五代将軍徳川綱吉の小石川別邸に移設したものが小石川御薬園になりました。小石川御薬園内には江戸の貧病人のための診療所(小石川養生所)が設けられ、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の「赤ひげ」の舞台となりました。また、甘藷先生こと青木昆陽が飢饉対策作物として享保二十年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った場所としても知られています。



51.御殿坂

小石川植物園の北東側に沿って上がる坂が御殿坂です。坂名は、かつて此の地に白山御殿があったことに由来します。坂の長さは約200mほどで、別名を大坂・富士見坂・御殿表門坂ともいいます。2002年に撮られた写真を見ますと、坂下のあたりに昭和五十八年6月作成の案内板が立っています。当時は御殿坂の歩道は狭かったようですが、現在では植物園の敷地を削って拡幅され、ブロック塀はコンクリート塀に変わっています。それと共に、案内板も撤去されたようです。ちなみに、案内板には次のように書かれていたとのことです。

御殿坂(大坂、富士見坂)

「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり。むかしは大坂といひしや」(「改撰江戸志」)。「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(「江戸志」)。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722年)園内に“赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同二十年には、青木昆陽が甘薯の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。

   植物園の松の花さへ咲くものを
      離れてひとり棲むよみやこに
           若山牧水(1855年〜1928年)




御殿坂の坂上から平坦な道を進みますと、白山通りの白山下交差点に下る坂があります。

52.蓮華寺坂

蓮華寺坂は愛星幼稚園付近から白山下交差点に下る坂で、長さ約150mほどのやや急な坂になっています。坂名の由来は、坂下で蓮華寺の横を通ることに因んでいます。別名が蓮花寺坂とか御殿裏門坂になっていますが、御殿裏門とは白山御殿の裏手にある坂という意味です。

蓮華寺坂

「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。蓮華寺は、天正十五年(1587年)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという。なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和五十八年(1983年)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。




白山通りは、白山下交差点で二股に分かれます。東側の急坂は旧白山通りで、西側の緩い坂は白山通りになります。旧白山通りは白山下交差点から千石駅前交差点までの延長1kmの往復2車線の道路で、一部は都道・一部は国道になっています。この区間はかっては白山通りでしたが、昭和五十九年(1984年)に白山通りが現在の経路となり、この区間は旧白山通りとなりました。

53.逸見坂

白山下交差点で左手の道幅の広い白山通りを北西方向に進みます。白山通りの北東側には京華中学高等学校と京華商業高等学校を併設した京華学園があります。京華とは、「東京の華」という意味です。京華学園出身者は政界・官界・法曹・実業界・文化界・芸能界など様々な分野で活躍しており、映画監督の黒澤明・画家の前田青邨・歌舞伎役者の尾上松緑・作曲家の武藤徹・経団連初代会長の石川一郎など多士済々です。その京華学園と白山通りを挟んだ向い側の小道を南西に上がる短い坂が逸見坂です。長さは約50mほどで、坂名の由来は坂の途中に逸見某(なにがし)の邸があったことに因んでいます。

逸見坂(へんみざか)

「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(「東京名所図会」)。武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれにあたる。町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林侯綱吉の屋敷)からきている。御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。




京華学園の校舎から少し離れた場所に、昭和三十五年(1960年)4月に京華学園高等学校女子部から独立した京華女子高校があります。その校舎の東脇から東洋大学の裏に抜ける狭い坂道があります。

54.暗闇坂

暗闇坂は民家が入り組む路地裏の長さ約55mほどの緩やかな坂道で、途中で僅かに”く”の字に曲がっています。坂名の由来は、江戸時代に周辺に大名の下屋敷が連なっていて、屋敷と屋敷の間に一本縄のように伸びていた暗く細い道だったことによるとされています。



京華女子高校から白山通りを挟んで斜め先辺りから、白山四丁目と千石一丁目の間に細い坂道が上がっています。

55.一行院坂

一行院坂は、白山通りから一行院に上がる長さ約65mほどのゆるやかな細い坂です。一行院は寛永三年(1626年)に秋元三太夫の屋敷内に創建されたのが起源とされています。そして文化十四年(1817年)に浄土宗の名僧徳本行者によって堂宇が改築され、徳本行者の江戸滞在中の拠点となりました。紀州日高郡の農家に生まれた徳本(幼名を三之丞)は幼い頃からの仏縁により27歳の時に出家し、紀州の山中で昼夜念仏を唱え、難行苦行を重ねた後に諸国を行脚し修行を重ねました。徳本の念仏は木魚と鉦を激しくたたくという独特なもので、徳本念仏と呼ばれました。徳本のもとには大勢の人々が教えを乞い、群参したと伝えられます。文化十一年(1814年)、増上寺大僧正の招請により江戸に下向した徳本は関東一円に絶大な教化力を発揮し、その対象は大名から御殿奥女中・商人・侍・一般庶民に至るまで幅広く、信者たちは徳本を生き仏を拝むがごとく崇めたといわれます。徳本が付与した南無阿弥陀仏の徳本名号は石に刻まれ、現在でも各所に残っています。徳本行者は文政元年(1818年)に一行院で往生しました。



一行院坂から、白山通りに旧白山通りが合流する千石駅前交差点のすぐ先を右折して小道に入ります。小道に入ったすぐ先の左手に駕籠町小学校があります。駕籠町とは奇妙な町名ですが、そのいわれを記した石碑が小学校の向かいにある駕籠町公園の敷地内に建っています。

駕籠町の由来

元禄十年(1697年)江戸幕府は、「御駕籠の者」51人に、この地を与え居住させた。御駕籠の者とは、将軍専用の駕籠をかつぐ人で、長身の者が選ばれた。昔、この辺りは巣鴨村に属していたので、町の名を御駕籠と合わせて巣鴨御駕籠町とした。古老の伝えによれば、将軍御用達のときは、小刀の着帯が与され、秘密保持などの厳格な規定があったと言う。町名に「御」の字がつくのは、将軍との関わりを示す。明治二年(1869年)「御」の字は削除され、小石川駕籠町となった。さらに、昭和三十九年(1964年)町名が整理統合され、親しまれた駕籠町の町名は消え、今では駕籠町小学校・駕籠町公園などに、懐かしいその名が残っている。




さらに進んだ左手に、木々に囲まれた低層の建物が佇んでいます。標札には、「日本アイソトープ協会 仁科記念財団」と表示されています。日本アイソトープ協会は、放射性同位元素のラジオアイソトープの利用に関する技術の向上および普及を図ることを目的に、1951年に発足した使用者・研究者のための公益社団法人です。元々理化学研究所の仁科研究室が行っていた業務を移管した経緯もあり、この旧理化学研究所が所在地になっています。仁科記念財団は、日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線や加速器(サイクロトロン)の研究で業績をあげた日本の現代物理学の父である仁科芳雄(1890年〜1951年)が没した4年後の1955年に原子物理学とその応用分野の振興を目的として設立されました。仁科芳雄が留学先のニールス・ボーアのもとで身に付けた自由な学風は自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げ、仁科の主催する研究室からは朝永振一郎・坂田昌一など多くの学者が巣立っていきました。



本郷通りに出ました。本郷通りは旧岩槻街道の一部です。

将軍御成道 岩槻街道

この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから”将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で”岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子・岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は”本郷通り”である。




上富士前交差点を右折した先の不忍通りが下り坂になっています。

56.神明坂

神明坂は、不忍通りの本駒込五丁目交差点を中心にして東西に延びる坂です。長さは約350mほどの緩やかな坂で、坂名は近くにある天祖神社(旧称:神明社)にあやかって付けられました。坂上近くに東京都が設置した古風な鉄製(銅製?)の案内板が立っています。デザインは妙義坂や目白新坂に置かれていたものと同じですね。

神明坂

このあたりは、旧町名を駒込神明町といった。駒込の総鎮守の天祖神社(旧称神明社)にあやかったものである。現在この坂道は通称不忍通りにあるが。道路の開設は新しく、大正十一年である。町内の坂ということで神明坂と名づけられた。大正の坂、東京の坂である。




神明坂の少し先の駒込稲荷坂下交差点から右手に坂が上がっています。

57.稲荷坂

稲荷坂は、駒込稲荷坂下交差点から本駒込四丁目と五丁目の境界を南方向に上がる長さ約270mほどの坂で、坂上近くの神明公園の前辺りがかなり急な坂になっています。坂名は、坂上にあった旧家の高木家に祀られていた「宗十郎稲荷」に由来します。

稲荷坂

坂の名は、かつてこの辺りにあった「宗十郎稲荷」に由来する。伝承では、この宗十郎稲荷は「おこり」(瘧、間欠熱の一種で多くはマラリアを指す)にご利益があり、「おこり」の罹患者が平癒の願をかけ、全治すると履いて来た草履を脱いで宗十郎稲荷の祠前に奉納したという。また、この坂道は宗十郎稲荷の杉林の中にできた道であり、坂下の田端方面から駒込浅嘉町の駒込土物店へ野菜等を出荷するために百姓が毎朝急いで通った近道であったという。(安政年代駒込富士神社周辺之図図説)




神明公園の先を左折し、不忍通りと並行して坂上の道を進みます。がん・感染症センター都立駒込病院の東端から坂道が下っています。感染症といっても、HIV(エイズ)が専門の医師が多いようです。

58.動坂

動坂は、動坂上交差点から不忍通りの動坂下交差点付近まで下る、本駒込四丁目と千駄木四丁目の間の長さ約200mほどの緩やかな坂です。坂上に日限地蔵堂があり、不動坂と呼ばれるべきところを略して動坂と呼ばれるようになったという経緯があります。坂下の手前に案内板が立っています。

動坂(堂坂)

この坂の由来については下記の通りである。「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(江戸名所図絵)

元和年間(1615年〜1624年)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度のため諸国を回り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光により現在の本駒込一丁目に移された(現南谷寺)。この本尊は江戸時代から五色不動(赤・白・黒・青・黄)として有名である。その跡には日限(ひぎり)地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在、地蔵は徳源院に移されている。明治二十六年お堂の修理中地下より土器・石器が発見され、昭和四十九年には駒込病院敷地からも多数出土している。「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり。よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う」(御府内備考)




坂上の駒込公園前に東京都が設置した案内板が立っているそうですが、私は見落としました。

動坂(不動坂、堂坂)

「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(「江戸名所図会」)。坂上の北側に日限地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込に移った。これが江戸時代有名な五色不動の一つ目赤不動を祀る南谷寺である。


動坂下交差点のすぐ先の千駄木四丁目交差点から南西に坂が上っています。

59.むじな坂

むじな坂(別名:狢坂)は、文京千駄木四郵便局の前から長さ約160mほど続く上り坂です。根津の谷の南側に位置する台地は、かつて千駄木山とか狸山と呼ばれ、狸山に上る坂は「狸坂」と名づけられました。一方、狸坂に平行する坂は「きつね坂」や「むじな坂」と呼ばれるようになったとのことです。



千駄木四丁目交差点の先に千駄木小入口交差点があります。交差点の角にサミットストアがあり、ワールドカップの大一番のコスタリカ戦に備えて大量のビールのお供が売られているのかと思って覗いてみましたが、ごく普通の日曜日の売り場でした。揚げ物テンコ盛りの詰め合わせを期待していたのですがね。ま、コスタリカには惨敗したし、深夜の揚げ物は体に良くありませんからそれでよかったのかも。

60.きつね坂

きつね坂は、サミットストアの北側から千駄木小学校に向かって千駄木三丁目と四丁目の間を上る長さ約130mほどのかなり急な坂道です。坂下部分は少し角々に曲がっていますが、その先は坂上付近の手前までほぼ直線になっています。坂上付近でクランク状に曲がり、その曲がり角に千駄木小学校があります。



道灌山下交差点先の不忍通りから一歩入ったところから坂が上っています。

61.狸坂

狸坂は、長さ約150mほどの坂です。かつてこの坂上一帯は「狸山」と呼ばれ、その狸山に上る坂なのでこの名が付きました。坂上に狸坂の案内板が立っています。

狸坂

このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので、狸坂と名づけられた。狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)がながれて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。土地の人たちは、これを千駄木山の”天狗ばやし”とか”馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。




狸坂の坂上を左折して小道を進みますと、左手に趣のある門の奥に建物があります。半床庵という茶席なのだそうです。茶席とは、茶の湯の会を催す席のことで、茶座敷とか茶室ともいわれます。その催しは茶会と呼ばれます。門が閉っていて中は見えませんでしたが。

東京都指定有形文化財(建造物)
半床庵

半床庵は向板のある一畳二台目の小さな茶席です。別名を「天の川席」といいますが、中央の向板付きの点前座を挟んで客座が相対座している様子を、点前座=天の川、客座=織女星と牽牛星に見立てたもので、その独特の平面が特長的な名席です。点前座右の相伴席側に躙口と、左の貴人座側に下座床と引き違い腰障子が入ります。床柱・中柱とも赤松皮付丸太を用い、特に大きく湾曲した中柱は見事です。中柱の奥は二重釣棚で、下方には竹簀子を渡します。設計は久田流の第四世の久田宗也(不及斎)で、尾張藩士の間宮家の依頼により、江戸時代中期に建てられました。もと名古屋市中川区にありましたが、大正十年に現在地に移築されました。都指定の茶席としては最も古く、かつ保存状態も極めて良好です。都内に残る名席の一つとして貴重です。

Tangible Cultural Property (Building)
Hansho-an
The Middle Edo Period

Tea ceremony room with 1 tatami mat, 2 small sized tatami mats arranged between a board floor, as well as preparation room of 1 tatami mat; with gable roof lined with simplified Japanese tiles which were made respectively by uniting an ordinary broad concave tile and a cylindrical convex one serving as junction for broad tiles, while a portion of deep eaves is lined with simplified Japanese tiles and copper plates; the roof has a shape of pent roof as a whole
2.95 m wide, between the axes of both corner pillars 2.83 m deep, between the axes of both corner pillars

Hansho-an is a small tea ceremony room with 1 tatami mat and 2 small sized tatami mats arranged between a board floor. The tea ceremony room is also called Milky Way Tea Ceremony Room, from an analogy of guests sitting on their designated mats opposite to each other over the mat for host adjacent to the board floor in the center, to the Milky Way in the Chinese legend, in which Vega and Altair are assimilated to legendary deities loving each other, however ordered by the Supreme Ruler of the Celestial World to live apart and allowed to meet each other once a year on July 7. In the tea ceremony room, guests sitting opposite to each other over the mat for host in the center are compared to Vega and Altair, i.e. legendary lovers meeting each other over the Milky Way. The tea ceremony room is characterized by a unique layout of flat. A narrow entrance for the room, at which one has to bend down in order to pass through, is provided on the right hand side of the mat for host, on the side of mats for companions to the main guest, and the decorative alcove behind the host's mat and screen panels high at the hip level or below, sliding side by side respectively along tracks running in parallel are arranged on the noble personality's mat on the left hand side. Logs of Japanese Red Pine which are left natural are used for pillars on the both sides of the decorative alcove and the one standing at the front edge of the host's mat, and in particular the greatly curved pillar at the front edge is a masterpiece. A double shelf is hanged on the backside of the pillar at the front edge, and below the shelf, a bamboo slatted floor is arranged. The tea ceremony room was designed by Hisada Soya (Hukyusai), the Forth Head of Hisada school of tea ceremony, and the construction of the room was commissioned by the Mamiya clan serving for Owari domain in the Middle Edo Period. Previously the room was located in today's Nakagawa Ward, Nagoya City, but was relocated to the today's site in 1921. This is the oldest tea ceremony room among the ones designated by the Metropolitan Government, and preserved in an extremely good condition. The distinguished tea ceremony room is a precious example as the one preserved in the Tokyo Metropolitan Area.




小道を進んだ先の左手に急坂が下っています。

62.大給坂

大給坂(おぎゅうざか)は狸坂の南側に隣接する急坂で、両側を民家に挟まれた狭い坂です。長さは約140mほどあり、坂名はかつて坂上に大給豊後守の屋敷があったことに由来します。坂上に、文京区教育委員会が平成三年3月に設置した案内板が立っていたとのことですが、いくら探しても見つかりませんでした。次の内容だったようです。               

大給坂(おぎゅうざか)

かつて、坂上に大給豊後守の屋敷があったことから、大給坂と名づけられた。大給氏は、戦国時代に、三河国(いまの愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764年)、三河西尾に移封された一族である。現在残っている大銀杏は、大給屋敷の内にあったものである。この辺りの高台を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は、次のようによんでいる。

   ”初冬や 竹きる山の なたの音”   (漱石 1867年〜1916年)




「現在残っている大銀杏」とは、坂上の近くにある千駄木三丁目第二児童遊園内に聳えている老木のことでしょうか?



千駄木駅の北側から不忍通りを一歩入った奥に、金ピカの文字で書かれたプレートが石垣にはめ込まれた須藤公園があります。須藤公園は、須藤家から東京市に寄付された庭園を生かした公園で、高低差のある台地と低地を巧みに生かした公園斜面地には、クスノキなどの大木が豊かな緑をつくりだしています。またその緑を背景として、滝からの水が流れ込む池には藤棚が設けられています。斜面地はササを主体とした植栽となっていますが、野草も生育し、春には可憐な花を咲かせます。須藤公園の敷地は江戸時代の加賀藩の支藩だった大聖寺藩(十万石)の屋敷跡になっています。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治二十二年(1889年)に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和八年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付し、昭和二十五年(1950年)に文京区に移管されました。その須藤公園の南側に沿って西に上る急坂があります。



63.アトリエ坂

文京区には多くの坂道がありますが、カタカナ表記の名前はアトリエ坂のみで、他に英字表記のものとしてS坂があります。他は全て漢字表記か仮名表記になっています。アトリエ坂は長さ約90mほどの急坂で、以前坂の途中に“アトリエ千駄木”という美術教室があったことでこの坂名で呼ばれるようになりました。名付け親は近所に住んでいた詩人の諏訪優氏といわれています。



不忍通りは団子坂下交差点で、西側から団子坂が下り、東側に向かって三崎坂が上っています。

64.団子坂

団子坂は千駄木二丁目と三丁目の間にある長さ約180mほどの緩やかな坂で、団子坂下交差点付近から、団子坂上交差点の先まで上っています。坂の中ほどで北側に少し張り出した弓形に曲がっています。別名を潮見坂・千駄木坂・七面坂といいますが、坂名の由来は坂近くに団子屋があったためとか、悪路のため転ぶと団子のようになるからとかいわれています。

団子坂

潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考)。「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治四十年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。




団子坂上交差点を左に入り、藪下通りを進みます。

藪下通り

本郷台地の上を通る中山道(国道17号線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。




藪下通りに入った直ぐ先の右手に観潮楼跡と表示されたプレートをはめ込んだ石塀が高く聳えています。現在は文京区立の森鴎外記念館になっています。

観潮楼跡

森鴎外(1862年〜1922年、医学博士、文学博士)は明治二十五年(1892年)30歳の時に駒込千駄木町21番地に居を構え、増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付けた。鴎外はこの地において半生を過ごし、「青年」・「雁」・「阿部一族」・「高瀬舟」・「渋江抽斎」など代表作を執筆した。その後、建物は火災や戦災により消失したが「胸像」・「銀杏の木」・「門の石畳」・「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年にあたる昭和三十七年(1962年)に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、平成二十四年(2012年)に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外外記念館を開館した。




森鴎外外記念館の向かいに、崖下から上ってくる急階段があります。

65.しろへび坂

しろへび坂は、千駄木一丁目と二丁目の境界を文京区立第八中学校の北側に沿って上る急階段です。長さは約35mほどあり、階段は上部(20段)・中部(10段)・下部(8段)の3つの区間に分かれ、各部の間は踊り場のように平坦な舗装になっています。階段下の遙か先のビルの間に微かにスカイツリーが見えます。坂名の由来ははっきりしません。

2019 文の京 都市景観賞
ふるさと景観賞
しろへび坂

坂の上から望むと建物の狭間にスカイツリーが姿を現わします。
上中下三段からなる階段状の坂道は、区内に残る急峻な地形を今に伝えています。




第八中学校に隣り合って、崖下に汐見小学校があります。藪下通りを挟んだ反対側の斜面のマンションと民家の間に階段が上がっています。

66.だんだん坂

だんだん坂は、藪下通りの汐見小学校の向い側を西に上る約40段の階段で、長さは約25mほどです。2013年に撮られた写真では、階段の両側に大きな石を積み上げた塀があり、とても趣のある風景になっています。



現在はこの石塀は殆ど取り壊され、マンション側はコンクリート塀、民家側は建て替え工事中でどうなるか分かりませんが、恐らくこちらもコンクリート塀になるのではないかと思われます。土台の強度の点から致し方ないかもですね。



だんだん坂の先の藪下通りは緩やかに曲がりくねった下り坂になっています。

67.汐見坂

汐見坂は長さ約80mほどの坂で、かってはこの辺りも道路に面して石垣が続いていましたが、現在ではごく一部に残っているだけです。2002年に撮られた写真には、坂の途中の西側の石垣の上に大きな自然石に「汐見坂」の文字が彫られた石碑が建っていますが、どこを探しても見付けられませんでした。



藪下通りが日医大つつじ通りに突き当たる手前の日本医科大学付属病院の北側に長い階段が上がっています。

68.解剖坂

解剖坂は、日本医科大学付属病院の北側を西に向かって上がる急坂で、階段の間に坂道設けられている珍しい構造をしています。というか、病院が建替えられる前は、左側は細い坂道、右側は古い石の階段になっていました。最近病院が建替えられましたがその歳に、病院側の敷地を削って幅広の歩きやすい階段が新設されました。なので、以前からあった坂道を両側の階段で挟み込むような構造になったのです。坂道の長さは約45mほどあり、階段の段数は数え忘れました。坂名の由来ははっきりしませんが、医大があるということで名付けられたと思われます。それにしてもギョッとする名前ですね。



本郷通りの向丘一丁目交差点から不忍通りに抜ける道路は、通称「日医大つつじ通り」と呼ばれています。その中ほどに建つ建替えられたばかりの巨大な日本医科大学付属病院の前辺りから根津神社の裏門にかけて緩やかな坂になっています。

69.根津裏門坂

根津裏門坂は根津神社の裏門前を本郷通りから根津の谷に下る緩やかな坂で、長さは約270mほどあります。根津神社の裏門前にあることでこの名前が付きました。根津神社裏門の鳥居前に案内板が立っています。

根津裏門坂

根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永三年(1706年)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。「吾輩は猫である」を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築)




根津神社は根津権現とも称され、元准勅祭社(東京十社)のひとつになっており、つつじの名所としても有名です。



根津神社の正門前から東大球場にかけて上がる急坂は”S”字状に曲がっています。

70.S坂

S坂は、根津神社の正面の大鳥居前から東京大学野球場の裏側を上る長さ約140mほどのやや急な坂で、坂下部分がS字形に曲がっています。坂道の形がS字状であるために、森鴎外が命名して旧一高生たちがこの名で呼んだのが坂名の由来になっています。別名を権現坂または新坂といいます。権現坂は根津権現に因むものと思われます。坂下の大鳥居脇に案内板が立っています。

新坂(権現坂・S坂)

本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説「青年」(明治四十三年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。根津神社現社殿の造営は宝永三年(1706年)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。




S坂の近くには「お化け階段」なる坂道があるそうです。でも事前調査が不十分で、どうやったら辿り着けるのかわかりません。S坂の遙か先まで行ったのですが、それらしき階段は見つかりません。諦めて今日はS坂で終わりにしたいと思います。根津神社から不忍通りに出ました。ここは地下鉄千代田線の千駄木駅と根津駅のちょうど中ほどに位置しています。どちらから帰ろうかと迷ったのですが、目の前に根津神社入口の都営バスの停留所があります。今日は結構歩いたし、駅まで行くのもかったるいので、軟弱にも都バスに乗って帰ることにします。帰ってから調べてみたら、お化け階段は根津神社の大鳥居近くから路地に入れば直ぐのところにあることが分かりました。残念!



ということで、「東京23区の坂道を歩く」の「文京区白山・本駒込・千駄木・根津コース」を歩き終えました。今日訪れた文京区の北側の坂道は割と広範囲に散らばっていましたが、多くは白山通りと不忍通り沿いに環状に位置していましたので、割と効率的に巡れました。白山台地を中心にして、そこに向かって多くの道路が坂になっている感じです。平面地図を見ていると気が付きませんが、立体地図だと実感がわくかも。

踏破記を書き終えた後ですが、金曜日・土曜日は最良の週末となりました。金曜日早朝にはサッカーワールドカップで日本がスペインを撃破して決勝トーナメントに進出!そして、土曜日夕方には藤井聡太先生が竜王位を防衛!お散歩を中止してABEMAを観ていた甲斐ががありました。





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