文京区(弥生・本郷・湯島コース)


踏破記


今日は文京区で5番目となる「弥生・本郷・湯島コース」を歩きます。昨日のゴール地点の都営根津神社入口バス停からスタートします。これから先のコースではどうなるか分かりませんが、今のところ文京区の一筆書き歩きは続いています。



根津神社の正門のはす向かいから始まる路地をクランク状に進むと突き当たりの右手に急階段が上がっています。

71.お化け階段

お化け階段は長さ約15mほどで、途中で”く”の字に曲がっています。かつては幅が狭く、薄暗い階段でしたが、拡幅工事が行われて元々あった階段の横に手すりの付いた新しい階段が整備されました。古い階段はどうなったかといいますと、階段の途中でコンクリート壁に塞がれ、”く”の字に曲がる場所の手前で行き止まりになりました。古い階段と新しい階段で石段の高さが異なり、階段下から行き止まりまでの段数は、古い階段では25段、新しい階段では24段になるため、古い階段から上がって行き止まりのところで新しい階段に移ると25段+(それより先の)15段で上りは合計40段になります。下りは新しい階段だけを使いますので、(階段上からの)15段+24段で39段になるわけです。そんなら上りも新しい階段だけを使えばいいんじゃないかと言われればその通りなんですけど。

と、1時間以上もかけて導き出した結論なんですけど、そもそもお化け階段といわれ始めたのは拡幅工事が行なわれる以前のことです。なので、私の結論は全くの見当違いでした。実際のところは、“く”の字に曲がるところの踏み石が浅く小さい石だったため、上りと下りの段数が違ったのだと説明されています。ん?ますます意味がわからなくなりました。

階段下から古い階段と新しい階段を繋いで上がってみます。40段ありますね。



階段上から新しい階段だけを使って下りてみます。39段でした。これを確かめるのに20〜30分を費やしました。はたから見たら、何てヒマ人なんだろうと思われたでしょうけど。



お化け階段を上がり、左手に進みますと坂道の上に出ます。

72.異人坂

異人坂は長さ約60mほどの緩やかな坂道です。坂名の由来は、明治時代に坂上に東大のお雇い外国人教師の官舎があり、不忍池や上野公園への散策ルートになっていたため、外国人が多く上り下りした坂ということで異人坂と呼ぶようになったそうです。

異人坂

坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治九年(1876年)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。異人坂を下りきった東側に、明治二十五年(1892年)高林レンズ工場が建てられた。今の二丁目13番付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。




異人坂を下り、不忍通りの根津一丁目交差点を右折しますと、言問通りに長い上り坂が延びています。坂の途中に案内板が立っています。

73.弥生坂

弥生坂は長さ約290mほどの緩やかな上り坂です。坂名の由来は、明治初年に“向ヶ丘弥生町”に新しい坂道が造られた際に、町名から名付けられたとのことです。

弥生坂(鉄砲坂)

かつて、このあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615年〜1624年)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、 小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。明治二年(1869年)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治五年(1872年)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政十一年(1828年)3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。

   名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
                          徳川斉昭




最初の交差点の角に旧町名案内板が立っています。

旧向ヶ岡弥生町 (昭和四十年までの町名)

江戸時代は、御三家水戸藩の中屋敷であった。明治二年新政府に収用され、明治五年町屋ができて、向ヶ岡弥生町と名づけた。町名のいわれは、文政十一年(1828年)3月10日・水戸家九代徳川斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。

「ことし文政十余りーとせといふ年のやよいの十日さきみだるさくらがもとにかくはかきつくこそ」

と述べ、次の歌が刻まれていた。

   名にしおふ春に向ふが岡なれば
      世にたぐひなはなの影かな

明治十七年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。




交差点の角には立派な石碑も建っています。「弥生式土器」って、社会科の教科書で見たことがあるような気がしますね。

東京大学浅野地区遺跡案内

東京大学浅野地区の名称は、明治二十年(1887年)「本郷区向ヶ岡弥生町に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分がその後、大学敷地となったことに由来しています。浅野南門を入ったところには、「向ヶ岡弥生町」の町名由来となったとされる「向岡記碑」が置かれています。これは、文政十一年(1828年)3月10日に水戸藩主徳川斉昭によって碑文が書かれ、水戸藩中屋敷に建てられたもので、かつては工学部10号館の西側にありました。浅野地区は、「弥生時代の名称の由来となった土器が発見された「弥生町遺跡群」の一角にあたり、弥生時代の遺跡が確認されました。国指定史跡の「弥生二丁目遺跡」及び武田先端知ビルに設置された遺跡の解説は、自由に見学ができます。また、浅野地区では明治時代の遺跡も確認されています。このうち、武田先端知ビルでは、明治十年(1877年)から演習を開始した警視局(現警視庁)射的場が確認され、弾丸が出土しました。





そういえば、異人坂に隣り合っていた上り坂の親柱に、「浅野侯爵家建設」って記されていましたね。



私は間違えて最初の交差点で左折して時間を大分ロスしたのですが、正しくは最初の交差点でなく、本郷通りの本郷弥生交差点のひとつ手前の交差点を左折すると、東大弥生キャンパスの南端に沿って長い下り坂が延びています。

74.暗闇坂

暗闇坂は長さ約290mほどの緩やかな坂道で、江戸時代には樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったことが坂名の由来になっているようです。東京大学には、本郷地区に浅野・弥生・本郷の3つのキャンパスがあります。一般的には、本郷キャンパスでは赤門と正門が知られていますが、暗闇坂に面するのは「弥生門」です。暗闇坂のどこかに案内板が立っているそうですが、どこを探しても見つかりませんでした。

暗闇坂

江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。江戸の庶民は、単純明解にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山五丁目の京華女子高校の裏側にもある。この坂の東側鹿野氏邸(弥生2−4−1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめ込まれている。華宵は、晩年鹿野氏の好意でこの邸内で療養中、昭和四十一年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艷で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。




弥生門のはす向かいには弥生美術館があります。弥生美術館は、弁護士の鹿野琢見氏によって1984年6月に創設された私立美術館で、高畠華宵・竹久夢二・中原淳一など、大正・昭和初期の画家の作品を蒐集・展示しています。高畠華宵は画家で、大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得ました。鹿野琢見氏は少年時代に高畠華宵の絵「さらば故郷!」に励まされ、上京して勉学に励み弁護士となりました。華宵の恩に報いるため、華宵作品の精力的な収集を行い、また晩年には不遇となっていた華宵を引き取って、この地で亡くなるまで面倒をみました。弥生美術館の前の塀にはめ込まれた石碑の冒頭の4行は、自分の絵に影響を受けたとする鹿野琢見氏に対する高畠華宵の心からの返答です。

あの絵が、可憐な少年少女の日のあなたの心によき影響を与えたということは、私として何よりもうれしいことです。華宵
画家 高畠華宵の碑

優美華麗あるいは凛々しく可憐なさし絵で大正昭和にかけ青春期にある人々との共感を呼び、その画風一世を風靡した不出世の画家高畠華宵の画業を讃え、その人となりを追慕しここにこの碑を建てた

略歴 華宵

 名は幸吉 明治二十一年4月6日愛媛県宇和島に生る 明治末期から大正昭和にわたり さし絵 口絵 広告絵 郵便絵等麗筆を揮う 昭和四十一年7月31日 この地に没す 享年78歳  華宵会 




1990年には鹿野琢見氏によって隣接する竹久夢二美術館が開設され、竹久夢二の作品が展示されています。竹久夢二美術館と弥生美術館は内部に連絡通路があり、行き来ができると供に、入館券で両方の美術館を観覧できるようになっています。



不忍通りの手前に境稲荷神社があり、その入口脇に井戸が保存されています。

境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸

境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469年〜1486年)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池ノ端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、「江戸志」など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和十五年に再び掘り出し、とくに昭和二十年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。

SAKAIINARI SHRINE AND BENKEI KAGAMI WELL

Sakaiinari Shrine is a legendary shrine that is believed by many residents today that have been first built in the mid 15th Century and burnt down and rebuilt time and time again. Toward the north side of the shrine is a well which was founded by Benkei who is a follower of a famous Samurai Minamoto no Yoshitsune in the late 12th Century and passed down through him from generation to generation. This well has be been long known to its delicious water, and during the big air raid in 1945, the well was a great saviour providing water to drink for many victims of fire.




不忍池西交差点の先から旧岩崎邸の煉瓦塀に沿って坂道が上がっています。

75.無縁坂

「無縁坂」は、1970年代にヒット曲を連発したグレープの6枚目シングルのA面に収録された曲です。1975年に発売され、無縁坂における年老いた母に対する息子の想いを歌った、さだまさし作詞・作曲の名曲です。森鴎外の「雁」にも登場します。そういうことで、無縁坂は一度訪れてみたいと思っていましたが、はからずも実際に目にすることになりました。無縁坂は不忍池から旧岩崎邸庭園の北側を通り、長さは約240mほどの緩やかな上り坂です。坂名は、かって坂上に無縁寺があったことに因んでいます。別名は、武縁坂・武辺坂といいます。

無縁坂

「御府内備考」に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候申伝・・・」とある。団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品「雁」の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その「雁」に次のような一節がある。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく・・・」

坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

   不忍の 池の面にふる春雨に
      湯島の台は 今日も見えぬかも

岡麗(本名三郎・旧本郷金助町生まれ【1877年〜1951年】・墓は向丘二丁目高林寺)





天神下交差点を右折して春日通りに出ますと、緩やかに湾曲した坂道が上がっています。

76.切通坂

切通坂は、湯島駅・御徒町駅方面から湯島天満宮に至る春日通りの緩やかな傾斜の坂です。長さは約270mほどで、坂名は江戸時代に新しく湯島の台地を切り開いてできた坂であることに因んでいます。

切通坂

「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三・四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道であったが、明治三十七年(1904年)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯境内を出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木




切通坂の中程に石川啄木の歌碑と当時の苦しかった生活ぶりを記した石碑が置かれています。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木


この歌は、石川啄木(1886年〜1912年)の明治四十三年(1910年)の作で、「悲しき玩具」に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この(昭和五十五年)三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。




湯島天満宮は東京の代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っています。受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段も学問成就を願う人や修学旅行の生徒達で賑わっています。境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った藤原亮子・小畑実による湯島の白梅は戦中時の歌として大ヒットしました。歌のタイトルのように、境内の約300本の梅の木のうち約8割は白梅となっています。

77.天神夫婦坂

天神夫婦坂は、切通坂の途中から湯島天満宮の裏門(登竜門)をくぐって上下をつなぐ階段で、階段の上は湯島天満宮の本殿裏になります。長さは約17mほどで、20段弱の階段の先に登竜門があり、さらにその上が十数段の階段になっています。別名を天神新坂といいます。天神夫婦坂の名前の由来は、男坂(石坂)と女坂の中間の傾斜なので夫婦坂になったとのことです。



境内には、「都々逸之碑」とか「新派碑」とか「文房至宝の碑」とか「講談高座発祥の地」とか、いろいろな記念碑が建っています。その中に古めかしい瓦斯灯が建っています。オリンピック聖火リレーの火はギリシャのオリンピアで採火されると聞いていたのですが、パラリンピックでは、「パラリンピック聖火はみんなのものであり、パラリンピックを応援する全ての人の熱意が集まることで聖火を生み出す」という国際パラリンピック委員会の理念に基づいて、日本各地で独自の方法で採火されるんですね。

東京2020パラリンピック聖火リレー

文京区の火 【Flame of Bunkyo City】

東京2020パラリンピック競技大会の聖火は、全国各地から集められた火が1つになって創られます。文京区は、令和三年8月20日に湯島天満宮境内の瓦斯灯から採火しました。この「文京区の火」は、誰もがさらに生き生きと活躍できる未来へ向けて、木遣りの掛け声とともに、東京2020パラリンピック競技大会へ送り出されました。

Tokyo 2020 Paralympic Torch Relay

The torch for the Tokyo 2020 Paralympic Games was created by combining flames from across the country. Bunkyo City contributed a flame from a gas lamp on the grounds of Yushima Tenmangu Shrine on August 20, 2021. To the sound of cheers, this Flame of Bunkyo City was carried to the Tokyo 2020 Paralympic Games with the hope for an inclusive barrier-free future.

瓦斯灯 【Gas Lamps】

瓦斯灯は、明治の時代を象徴する文明開化のシンボルです。特に湯島天満宮の瓦斯灯は、泉鏡花の小説「婦系図」を主題にした楽曲「湯島の白梅」にも登場し、全国に広く知られています。境内に5基あった瓦斯灯は昭和四十年頃には撤去されましたが、昭和五十六年に再設置されました。今では瓦斯灯の価値が再評価され都内各所で見られるようになりましたが、この瓦斯灯はその先駆けとなりました。

The gas lamp was a symbol of modern civilization during the Meiji Era. The gas lamp of Yushima Tenmangu Shrine was known widely across Japan with the work “The Romance of Yushima” that tells the story recounted in Kyoka IZUMI's novel “Onna Keizu". The 5 lamps that were on the grounds were removed in the mid 1960s but restored in 1981. Its charm rediscovered, the gas lamp can be seen in many parts of Tokyo today, but the lamp at Yushima Tenmangu Shrine preceded all of that.




大きな神社には男坂と女坂がありますが、湯島天神では男坂のことを天神石坂と呼んでいます。ちなみに、神田明神の明神男坂(明神石坂)と明神女坂は千代田区に含まれています。

78.天神石坂

天神石坂は長さ約15mほどの急階段で、別名を天神男坂といいます。湯島天神参拝のための坂で、すぐ脇にある緩やかな女坂に対比して男坂と呼んでいます。

天神石坂(天神男坂)

三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。




天神石坂上の左手に緩やかな階段が下っています。

79.女坂

天神夫婦坂・天神石坂となれば天神女坂ですよね。しかし、正式な坂名は女坂で、天神女坂は別名になっています。女坂は長さ約40mほどの緩やかな階段で、途中に2ケ所ほど息継ぎのための平坦な踊り場があります。階段下に、北島三郎さんが揮毫された「おんな坂」とだけ書かれた石碑が建っています。「おんな坂」がどこの坂を指すのかわかりませんが、歌っている原田悠里さんが北島三郎音楽事務所に所属していることで、私的に設置されたものと思われます。



本殿に参拝してから、正門から退出します。表門の手前に湯島神社の案内板が置かれています。

湯島神社

湯島神社は菅原道真公を祀ったもので湯島天満宮又は、湯島天神の名で有名です。菅公の徳は全国に浸潤し天神様と尊ばれ全国に祀られて、学問の神様として敬われています。伝えられるところでは文和四年(1355年)湯島郷民の勧請に始まり文明十年(1478年)太田道灌が修建したといわれています。青松が茂る神境に野梅が盛んに香り風雅に富んだ所として古くから名を知られ、その後江戸幕府の朱印地になり、林道春、新井白石等の多くの学者に文神とし崇められました。境内の梅は一時枯れましたが、現在では、地元民の篤志により、数百本の梅樹が植えられ、2月から3月に行われる梅まつりにはみごとな花と香りで参拝者、観賞者を楽しませています。また梅園の中には、満天下の子女の紅涙をしぼらせた「婦系図」のゆかりの地として里見淳外16名の文筆家ら旧知関係者によって昭和十七年(1942年)9月7日に泉鏡花の筆塚が設立されました。

YUSHIMA SHRINE

Commonly known as the Yushima Tenjin, Yushima Shrine stands on a ridge above Kiridoshi-zaka slope. The shrine is said to have been founded in 1355 and was afterward restored by Dokan Ohta in 1478. The grounds are dotted with a large number of Japanese plum trees and commands a fine view of the streets below the east cliff. It is well known that such literary scholars as Doshun Hayashi and Hakuseki Arai worshipped the shrine as the "Shrine of Literature". The plum trees at one time nearly withered, but the donation of hundreds of young trees by the local community has succeeded in retaining the fame of the shrine. The annual “Ume-Matsuri", the Plum Festival, in February through March still claims attention of the nation-wide plum admirers.




鳥居の脇には由緒書きも掲示されています。

湯鳥神社由緒

御祭神菅原道真公 天之手力雄命
例祭日 五月二十五日

湯島神社は湯島天満宮、湯島天神として全国津々浦々まで知られている。雄略天皇の勅命により、御宇二年(458年)一月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのかはじまりで、降って正平十年(1355年)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め、本社に勧請した。文明十年(1478年)十月太田道灌これを再建し、天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翼十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世の続き文教大いに賑わうようにと暮公の遺風を仰ぎ奉ったのである。その後林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など、学者丈人の参拝もたえることなく続いた。徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心として、当天満宮を崇敬したのである。明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月後世に残る総檜木造りで造営された。




湯島天神の正門から蔵前橋通りの清水坂下交差点までの道路は坂道の宝庫です。

80.中坂

中坂は、湯島中坂上交差点から昌平橋通りの湯島中坂下交差点まで延びるかなり急な下り坂です。長さは約170mほどで、別名を仲坂といいます。妻恋坂と天神石坂との間にある坂ということでこの坂名になりました。坂の途中にあるホテルプランタンの向い側に案内板が立っています。

中坂(仲坂)

「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂の間なれば呼名とすといふ」とある。江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。また、「新撰東京名所図会」には、「中坂は、天神町一丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。

   まゐり来て、とみにあかるき世なりけり。
      町家の人のその顔がほ
         (釈超空)




中坂と並行して東方向に下る急な階段があります。

81.実盛坂

実盛坂は「さねもりざか」と読みます。別名は貝坂といいます。長さは約20mほどで、階段上から見下ろすと足がすくむような非常に急な傾斜になっています。実盛塚・首洗いの井戸・産湯の井戸などが坂下にあったという斎藤実盛(長井別当とも呼ばれます)にまつわる伝説があり、それに基づいて実盛坂という坂名になりました。私が訪れた時はちょうど階段の改修工事が行なわれていて、石段は剥ぎ取られていたようですが、傾斜のきつさは見て取れました。工事の邪魔にならないように案内板を写真に収めました。案内板が階段上の歩道際にあったのがラッキーでした。

実盛坂

「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永二年(1183年)源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。湯島の“実盛塚”や“首洗いの井戸”の伝説は、 実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。




実盛坂の少し南側に幅の広い緩やかな下り坂が延びています。

82.三組坂

三組坂は、三組坂上交差点から昌平橋通りの三組坂下交差点まで延びる長さ約200mほどの下り坂です。徳川家康付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地一帯を与え、「三組町」の町名となり、この町内の坂であることから三組坂の坂名になりました。

三組坂

元和二年(1616年)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。その後、元禄九年(1696年)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和四十年(1965年)4月以降、今の湯島三丁目となった。




三組坂の途中にある湯島ファースとビルの横から北に下る坂があります。

83.ガイ坂

ガイ坂は長さ約45mほどのビルの谷間の短い坂で、別名を芥坂(ごみざか)といいます。旧三組町の裏通りの横町にあり、ゴミを処理する捨場であったことから、珍しいガイ坂という坂名になりました。「ガイ」とは「崖」の音読みと思われ、切り立った崖から塵を捨てたのが坂名の由来になったのでしょう。ちなみに、文京区の坂名でカタカナなのは、このガイ坂と千駄木にあるアトリエ坂のふたつです。



三組坂の更に南側に緩やかな坂が東方向に下っています。

84.妻恋坂

妻恋坂は、妻恋神社の前から昌平橋通りまで延びる長さ約210mほどの下り坂です。大超坂・大長坂・大帳坂・大潮坂など、多くの別名があります。妻恋神社の前を通る坂であることから、妻恋坂という坂名になりました。妻恋坂のどこかに案内板が立っているとのことですが、見つかりませんでした。案内板には次のように書いてあるそうです。

妻恋坂

大超坂・大潮坂・大長坂と別名を多く持つ坂である。「新撰東京名所図会」に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり、大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふという」とある。この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り、坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が旧湯島天神町から移ってきてからである。




妻恋神社とはロマンチックな名前ですが、名前の由来は悲しい物語に因んでいます。

妻恋神社

祭神は、倉稲魂命・日本武尊・弟橘媛命の三柱である。

江戸時代に当社に伝わった縁起によると、その昔、日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことを起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近辺のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。当社は、関東総司とも称したほか、江戸時代後期に作られた「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられ、高い社格を有した。




妻恋坂の坂下付近から階段と坂道が組み合わさった小道が北の方角に延びています。

85.立爪坂

立爪坂は、妻恋坂の途中から妻恋神社の東側を北に入る狭い道で、長さは約60mほどあります。妻恋坂から直ぐに7段の石段があり、その先は緩やかな坂道になっていて、最上部は再び13段の階段になっています。階段の上はフェンスを隔てて東都文京病院(旧小平記念東京日立病院)の敷地になっています。爪先を立てて上る坂という意味で立爪坂の名前になりました。昔はそれだけ急な坂だったのでしょう。別名を芥坂(ごみざか)といいますが、ガイ坂と同じように近くにゴミ捨て場があったのでしょう。



妻恋坂交差点から清水坂下交差点までの蔵前橋通りは緩やかな上り坂になっています。

86.新妻恋坂

新妻恋坂は長さ約250mほどで、昭和四年に開通した蔵前橋通りの坂です。以前からあった妻恋坂の南側に並行して通っているために、坂名に「新」が冠されました。



湯島天神から下ってきた坂道は蔵前橋通りと交差します。

87.清水坂

清水坂は、清水坂下交差点の手前の長さ約100mほどの急坂です。明治時代、ここの土地は清水精機会社の所有でした。大正時代に入ってから清水精機社は土地を町に提供し、坂道を整備しました。この功績を称えて「清水坂」の坂名が付けられました。坂下近くに「清水坂」と刻まれた石柱が建っているとのことですが、見落としました。

清水坂

江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(1657年)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永六年(1853年)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人たちが、 清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。




清水坂下交差点を右折し、蔵前橋通りを西に向かいます。

88.横見坂

横見坂は、清水坂下交差点からひとつ先の交差点を北方向に上る坂です。別名を横根坂といい、長さは約110mほどあります。江戸時代に坂の西横に富士山がよく見えたので「横見坂」と名付けられました。

横見坂(横根坂)

「御府内備考」に、「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するとこ ろから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治三十年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。その作品「春」の中に、「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で「文政書上」には、百数十軒の麹屋が数えられている。




蔵前橋通りに面して、「お茶の水おりがみ会館」があります。店頭と店内にはカラフルな折り紙が多数展示されています。とても精巧な折り紙揃いですので、一見の価値はあります。

お茶の水おりがみ会館

文京区湯島一丁目 教育折り紙発祥の地

徳川家康が江戸に入府したころ、湯島一丁目あたりは「樹木谷」と呼ばれるほどに樹木が繁茂していました。そのことは「御譜内備考」に記されています。お茶の水おりがみ会館/ゆしまの小林は、初代小林幸助がこの地で襖紙加工業を独立開業したことに始まります。明治十八年(1885年)の内閣制度創設にともない、近代教育制度も導入されるようになり、湯島一丁目界隈には多くの教育機関が設立、移転され始めます。初代文部大臣の森有礼(1847年〜1889年)は「教育制度の一大改革」に、ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル(1782年〜1852年)の理念「恩物」のひとつである折り紙を日本の幼児教育にも取り入れます。この時、命を受けて正方形の折り紙を製造したのが当時の小林染紙店、後のお茶の水おりがみ会館/ゆしまの小林です。長い染紙業の歴史の中には、黒門町の師匠でおなじみの八代目桂文楽が紙を染めていた時代があったことも自伝「あばらかべっそん」のなかでつづられています。幕末から明治を駆け抜けた絵師、河鍋暁斎が小林染紙店の隣に仮住まいしていたとも言われています。

Ochanomizu Origami Kaikan / Yushima no Kobayashi Since 1858
NPO International Origami Center

The Origin of Ochanomizu Origami Kaikan, now known as an enjoyable paper-house all over the world, is a paper dyeing company along the history of Yushima no Kobayashi. The founder, Kousuke Kobayashi, set up the business of Fusuma (paper sliding door of traditional Japanese house) paper processing here at Yushima. In 1885 (Meiji-18), the first Minister of Education, Arinori Mori adopted the "paper folding" which was the one of the German educator, Friedrich Wilhelm August Frobel's principles as "Spielgabe (gift) "to the Modern Educational Guideline of Japan. Thus, the Minister Mori ordered Yushima no Kobayashi to produce colored square paper for Japanese children. And this is how it was started to produce origami paper for education in Japan and we still keep producing our original designed paper at our studio in this building now.




横見坂と蔵前橋通りを挟んで南に向かう上り坂があります。

89.樹木谷坂

樹木谷坂は、蔵前橋通りから東京ガーデンパレスの東側を通って本郷通りの東京医科歯科大学北門の前に抜ける脇道の蔵前橋通り寄りの坂道です。長さは約90mほどで、別名を地獄谷坂といいます。徳川家康が江戸に入府した当時はこの坂下一帯の谷は樹木が繁茂していました。そこに通じる坂ということで樹木谷坂の名が付けられました。谷底は地獄への道というような感じだったのかと思いましたが、単なる訛りによる名前の変化のようです。

樹木谷坂

地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島一丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。「御府内備考」には、「樹木谷三丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明十九年(1487年)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。なお、湯島一丁目の地に、明治十四年(1881年)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創立した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。




本郷通りのサッカーミュージアム入口交差点から北に向かう通称本郷サッカー通りは、日本サッカーミュージアム付近で谷になっていて、そこから南北に上る坂になっています。

90.笠谷坂

傘谷坂は長さ約170mほどの緩やかな坂で、傘作りの職人が多く住んでいた窪地だったことから、その下り坂と上り坂を総称して「傘谷」とか「傘坂」の名前が付けられました。

傘谷坂

傘谷をはさんで、向き会う二つの坂をいう。改撰江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正十二年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、

   ”あさはかに 家居移しし悔心 このやけあとに 立ちて嘆かゆ”とよんだ。




残念ながら日本はサッカーワールドカップの決勝トーナメントでクロアチアに敗れてしまいましたが、今後もサッカーミュージアムには多くのファンが訪れることでしょう。



本郷通りの神田明神参道入口付近から湯島聖堂の北側を通って神田明神下交差点付近まで下り坂になっています。

91.湯島坂

湯島坂は長さ約210mほどの緩やかな本郷通りの坂で、別名を明神坂・本郷坂といいます。湯島聖堂と神田明神の間を通る坂であることから、湯島坂・明神坂の名前が付いたと思われます。



本郷通りから湯島聖堂の東側に沿って外堀通りに抜ける坂があります。

92.昌平坂

昌平坂は長さ約95mほどの緩やかな坂で、別名を昌平脇坂・団子坂といいます。江戸時代に昌平黌が開所した時は、学問所周辺の三つの坂はひとしく「昌平坂」と呼ばれました。その後、3つの坂名に分れましたが、この坂は昌平坂の名前を引き継ぎました。

昌平坂

湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。元禄七年(1694年)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。

   萬代の秋もかぎらじ諸ともに
      まうでゝ祈る道ぞかしこき




昌平坂が外堀通りに突き当たったところから、聖橋の下まで神田川沿いに上り坂が延びています。

93.相生坂

相生坂は長さ約180mほどの緩やかな坂で、かって昌平坂と呼ばれた3つの坂のひとつでした。神田川を挟んで対岸の駿河台の淡路坂と並ぶことから、相生坂と名付けられました。ただ、現在でも昌平坂の別名はあるようです。

相生坂(昌平坂)

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

   これやこの孔子の聖堂あるからに
      幾日湯島にい往きけむはや     法月歌客




湯島聖堂の入口奥に、湯島聖堂の歴史を記した案内板が立っています。

史跡 湯島聖堂 孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡

  • 湯島聖堂と孔子

    孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省済寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。


  • 昌平坂学問所跡

    寛政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。

  • 近代教育発祥の地

    明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

  • 現在の湯島聖堂

    もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。




ということで、文京区5番目の「弥生・本郷・湯島コース」を歩き終えました。



本郷台地というだけあって、今日歩いた弥生・本郷・湯島地域だけでも沢山の坂がありました。単なる坂道だけではなく、歴史ある坂もあり、面白かったです。お化け階段の謎は未だに解けませんが。。。





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