文京区(本郷・西片・白山コース)


踏破記


今日は文京区で6番目となる「本郷・西片・白山コース」を歩きます。昨日のゴール地点の千代田線の新御茶ノ水駅出入口B1からスタートします。今日は文京区最後のコースになりますので、文京区の坂道巡りは一筆書きで歩き通せたことになります。



お茶の水橋を渡って外堀通りに出て、順天堂大学の西側に出ます。

94.油坂

油坂は外堀通りから順天堂大学の建物の間を通る、長さ75mほどの少し勾配のある坂です。坂上の西側に水道歴史館があります。別名を揚場坂といいますが、神田川の堀端に係留した舟から荷物の揚げおろしをするための荷揚場に通ずる坂道であったことに由来するとのことです。油坂の名前の由来は不明です。荷物が菜種油だったのかな?

油坂(揚場坂)

この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。「新撰東京名所図会」(明治四十年【1907年】)には「元町一丁目と東竹町辺の間を南に下る坂」を油坂と呼ぶとあるが、その名の起こりは詳らかではない。この坂の別名である「揚場坂」については、文政九年(1826年)に江戸の町々から幕府に提出された書上をもとに作られた「御府内備考」に、「揚場坂という里俗地名は本郷元町近辺にはないが、物揚場が神田川のお茶の水河岸にあるため、この揚場道坂を他所の者が揚場坂と唱えた」ということが記されている。これにしたがうと、物揚場(船で運ばれてきた諸物資を揚げおろしする場所)に通じる揚場道坂が、のちに「揚場坂」と呼ばれるようになったものと考えられる。




順天堂大学の建物の前の植え込みに、石碑が置いてあります。明治時代に、医術開業試験を受験するための予備校的な存在だった濟生學舍発祥の地だそうです。

濟生學舎 発祥の地

明治九年(1876年)4月9日に、本郷元町一丁目66番地に長谷川泰(1842年〜1912年)によって「濟生學舎」が開校された。長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主・佐藤尚中に学び、ついで西洋医学所頭取・松本良順に学んだ。佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部の前身)の初代校長(大学大博士)として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。後に校長心得となるが、明治八年、長崎医学校校長に赴任するも、3カ月後に長崎医学校が廃止となり帰京した。佐藤尚中の座右の銘「濟生(広く民の病苦を済う)」の志を継いで、医術開業試験の受験教育を目指す学徒のために佐藤尚中の支援を受け「濟生學舎」を創設した。ここに全国から多数の医師志望者が集まり、その多くが隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受けた。明治十二年冬、火災により濟生學舎の校舎を焼失し、この地の一角に移転。その後、発展した濟生學舎は明治十五年に湯島四丁目8番地(現在のガーデンパレスの地)に移り、本格的な校舎を建設し、明治十九年に薬学部、附属蘇門病院を付設して「東京医学専門学校」と称した。濟生學舎は隆盛の一途をたどったが、明治三十六年(1903年)8月31日、長谷川泰は廃校を告知して28年間の歴史を閉じた。その間、21、000人余の学生が学び、9、600人余の医師を輩出した。濟生學舎が我が国の近代医学黎明期の医学教育、地域医療に果たした役割はきわめて大きなものであった。




油坂から西側に100mほど離れたところから、油坂と並行して北に延びる似たような坂があります。

95.富士見坂

富士見坂は、順天堂大学11号館(センチュリータワー)の西脇から、水道局本郷給水所付近まで北方向に延びる長さ75mほどのやや傾斜のある坂です。江戸時代には周囲に高い建物がなかったので、坂から西方角の地平線上に富士山がよく見えたことが坂名の由来と思われます。



油坂・富士見坂と並行して、元町公園の東側を北に延びる坂があります。ちなみに、この坂の西側にある元町公園と北側に隣接する旧元町小学校の敷地は、一体的に再開発が行なわれる予定で、2024年10月には複合機能を備えた新しい施設が開設されることになっています。なので、坂の西側は工事用の塀で囲われています。

96.建部坂

建部坂は長さ約80mほどのやや傾斜のある坂で、別名を初音坂といいます。坂名の由来は、かつて此の地に建部氏の屋敷があったことに因みます。別名の由来は、建部氏の屋敷に藪が茂り、鶯が季節の最初に鳴く声(初音)がよく聞こえたことに因みます。

建部坂(初音坂)

「新撰東京名所図会」に「富士見坂の北(注・西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永三年(1850年)の「江戸切絵図」で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900u)であった。「御府内備考」に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和九年(1772年)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。




元町公園前から水道橋交差点までの外堀通りは緩やかな下り坂になっています。

97.お茶の水坂

お茶の水坂は、白山通りと外堀通りが交差する水道橋交差点から神田川の北岸沿いに東に上る緩やかな坂です。長さは約190mほどで、お茶の水に上る坂ということで「お茶の水坂」という坂名になりました。

お茶の水坂

この神田川の外堀工事は元和年間(1615年〜1626年)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。「御府内備考」によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治三十四年(1901年)取りはずされた。

   お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
      寒む夜はふけてわれは行くなり
         島木赤彦(1876年〜1926年)




元町公園と昭和一高の間の狭い急坂を上っていきますと、坂上に桜蔭学園の瀟洒な校舎が並んでいます。桜蔭学園は中高一貫教育を行なう私立の女子中学校・高等学校で、中学入試では女子学院中学校・雙葉中学校と共に「女子御三家」といわれています。大学合格実績は全国トップクラスで、毎年多くの生徒が東京大学をはじめとした首都圏の難関大学へ合格しています。医学部など医歯薬理系学部への合格者が多いのも特徴で、2022年の東京大学理科三類の女子合格者20名のうち13名が桜蔭高校出身でした。理科三類合格者数の上位常連校である灘・筑駒・開成を抑えての堂々トップの実績は受験界に衝撃を与えました。



98.忠弥坂

忠弥坂は、昭和一高と桜蔭中高校の間から緩く曲がりながら西に下り、宝生能楽堂横を通って白山通りに出る長さ約150mほどのかなりの急坂です。坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があったことからこの坂名になりました。桜陰学園関係者が「桜陰坂」と呼んでいることもあり、これが別名にもなっています。

忠弥坂

坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。道場のあった場所については諸説がある。“慶安事件" は、忠弥が由井正雪とともに、慶安四年(1651年)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。




白山通りから東側に一歩入った路地の先に、讃岐金刀比羅宮(ことひらぐう)の東京分社が鎮座しています。香川県にある総本宮の金刀比羅宮の参道石段は1368段あり、東京23区の石段の合計よりも多いかも。ちなみに、「金毘羅」は「こんぴら」と読みますが、「金刀比羅」は「ことひら」と読みますね。その違いはよく分かりませんが、「金毘羅」は仏教における守護神を意味し、「金刀比羅」は神社の名称に使われるようです。明治の初めに神社を優遇してお寺を退けるために起こった「廃仏毀釈」の政策が影響しているみたいです。



ちなみに、ちなみに、何故この場所に金刀比羅宮が鎮座しているかといいますと、江戸時代には金刀比羅宮を含むこの辺り一帯が高松松平家の下屋敷になっていたのです。

松平頼重侯下屋敷の跡

この地一帯(東京都立工芸高校・宝生能楽堂・金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷のあったところである。高松松平家は松平頼重を藩祖とし、徳川光圀とは兄弟の関係にあった。雨来現十三代の頼明氏に到るまで松平家は四国にあって教育と経済の振興に力を尽して来た。特筆すべきは十二代顔寿氏で、氏は貴族院議長(1937年〜1944年)として名声をはくし、わが国の議会政治史上一点をとどめ、他方大正大震災の後、旧本郷区の要請で本郷学園を創設し、わが国教育面に大いなる貢献をした。




99.金比羅坂

金比羅坂は金刀比羅宮の北側を東に登る長さ約100mほどの急坂で、桜蔭学園の北側に位置します。安政の頃の絵図によれば、このあたりには青山大膳の上屋敷と松平讃岐の中屋敷が並び、松平家が讃岐の金毘羅さまを庭の一隅に祀っていたことから、明治以降大いに繁盛しました。この坂も屋敷跡の町家作りのなかでできた新坂でした。たまたま金刀比羅宮の傍らにありましたので、この名前が坂名となりました。





100.壱岐坂

壱岐坂は、白山通りの壱岐坂下交差点の手前から路地に入り、壱岐坂通り(新壱岐坂)を斜めに横切って東洋学園大学本郷キャンパスの北側を東西に抜ける坂です。長さは約260mほどあり、緩やかな上り坂になっています。江戸時代に彦坂壱岐守屋敷があったことが坂名の由来になっています。別名として、壱岐殿坂・いきどん坂があります。東洋学園大学本郷キャンパスの裏手(北側)に案内板が立っています。

壱岐坂

「壱岐殿坂」ともいう。江戸時代からある古い坂である。近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説があった。(御府内備考)この古い壱岐坂は、新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。




壱岐坂と新壱岐坂が交差する地点に東洋学園大学の校舎が建っていますが、その壁面に巨大なモザイク画が描かれています。

フェニックス・モザイク 「岩間がくれの菫花」
今井兼次作
1895年〜1987年
建築家・日本芸術院会員・早稲田大学名誉教授

昭和三十六年(1961年)の東洋女子短期大学新校舎建設に際し、学園のシンボルとして陶片モザイク壁画4点が制作され(64年追加、計5作)、これらはタイルとともに学生、校友らの持ち寄った陶器が用いられた。フェニックス・モザイクとは、不要となった日用雑器が芸術作品の中で永遠の輝きを保ち続けることを意味する。この壁画には戦禍から復興途上の本学がウィリアム・ワーズワース「ルーシー詩篇」の一節、「岩間がくれの菫花」に仮託され、ほか複数のイメージが投影されている。今井兼次はフェニックス・モザイクで彩る日本26聖人殉教記念館(長崎)、桃華楽堂(皇居・香淳皇后還暦記念音楽ホール)などの作品を残し、またアントニオ・ガウディを日本に紹介した業績で知られる。校舎の建て替えにあたり、最大の作品「岩間がくれの菫花」を原形のまま保存することとした。




東京ドームシティの真横あたりから東方向に幅の広い坂が上がっています。

101.新壱岐坂

新壱岐坂は、白山通りの壱岐坂下交差点から東洋学園大学前付近まで上る緩やかな坂で、長さは約330mほどあります。坂の中央付近で壱岐坂を分断するように斜めに交差しています。古くからあった壱岐坂に対して、新壱岐坂という名前が付けられました。

新壱岐坂

大正十二年(1923年)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。この坂の中ほどにある東洋学園大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐(殿)坂」という。壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を”新壱岐坂”とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている。




白山通りの壱岐坂下交差点の直ぐ先から東方向に向かう狭い路地に入ると、その先に傾斜のある階段が上がっています。

102.新坂(外記坂)

新坂は長さ約25mほどの階段で、江戸時代に階段上に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、別名をゲキサカ(外記坂)と呼ばていました。古くからあった坂なのに新坂とは不思議ですが、その坂名の由来は不明です。

新坂(外記坂)

区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。「東京案内」に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。「江戸切絵図」(嘉永六年尾張屋清七板)によると、坂上北側に内藤外記(げき)という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。




白山通りと春日通りが交差する春日町交差点の手前に、地下鉄丸ノ内線が地上から地下に入る線路と並行して真砂坂上方向に上がる細い坂道があります。

103.旧東富坂

旧東富坂は、長さ約140mほどの急な坂で、別名を鳶坂・飛坂といいます。トンビがたくさん集まってくることから「鳶坂」といい、訛って「富坂」に変化しました。後に、北側に新設した坂が東富坂(真砂坂)となったため、この急坂は「旧東富坂」と呼ばれるようになりました。

旧東富坂

むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった。東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(「御府内備考」による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治四十一年、本郷三丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。




春日通りの春日町交差点から東南方向に、真砂坂上交差点まで広く緩やかな坂が上がっています。

104.東富坂

東富坂は、春日町交差点から東南方向に上がり、坂上で東方向に向きを変える春日通りの坂です。長さは約320mほどで、護国寺方面から富坂下交差点に下る「富坂」に対して、白山通りを挟んで本郷方面に上る坂は「東富坂」と呼ばれます。別名は真砂坂・東鳶坂といいます。

東富坂(真砂坂)

本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになったという。 現在の東富坂は、本郷三丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、明治四十一年(1908年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。




春日通りに面して一軒の床屋さんがあります。かって石川啄木が2階に間借りしていた場所です(当時の建物は明治村に移築されています)。

啄木ゆかりの喜之床旧跡

石川啄木は、明治四十一年(1908年)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5−5・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治四十二年(1909年)の6月であった。五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。喜之床での生活は2年2か月、明治四十四年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5−11−7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治四十五年(1912年)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。喜之床(理容アライ)は明治四十一年(1908年)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和五十三年(1978年)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和五十五年(1980年)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。

   かにかくに渋民村は恋しかり
   おもいでの山
   おもいでの川        (喜之床時代の作)




本郷通りと春日通りが交差する本郷三丁目交差点の少し北側は僅かに窪んでいます。その地点を境にして、南側から下り坂、北側へは上がり坂になっています。江戸の範囲を現す「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳がありますが、ここで江戸から追放される人を親族が見送ったのでしょう。

105.見送り坂

見送り坂は、かって本郷三丁目交差点から40mほど北側の菊坂の入口近くにあった「別れの橋跡」までの下り坂です。現在では殆ど分かりませんが、この付近は浅い窪みになっていて、菊坂の谷から本郷通りを横切る流れがあり、別れの橋はその流れに架かっていたようです。見送り坂は谷底に至る長さ40mほどの坂道で、江戸を追放された人がこの別れの橋で江戸外に出て行き、南側の坂で親類縁者が見送ったことで「見送り坂」という名前になりました。

別れの橋跡・見送り坂と見返り坂

「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・太田道灌(1432年〜1486年)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と「改撰江戸志」にある。この前方の本郷通りはややへこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が 流れ、菊坂の谷にそそいでいた。「新撰東京名所図会」(明治四十年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷三丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。




106.見返り坂

見返り坂は、かって本郷三丁目交差点から40mほど北側の菊坂の入口近くにあった「別れの橋跡」から北に向かう長さ100mほどの上り坂で、江戸を追放された人がこの別れの橋で江戸外に出て行き、振り返りながら去ったので「見返り坂」といわれました。



「別れの橋跡」の左手から北西に向かって幅の狭い菊坂通りが延びています。

107.菊坂

菊坂は、本郷通りの本郷三丁目交差点先から北西に延び、言問通りの菊坂下交差点方面に抜ける坂道です。長さは約620mほどあり、最初は平坦な道路ですが、途中で緩やかな上り坂になっています。かってこの辺り一帯に菊畑があり、菊作りをする人が多かったためにこの坂名になったといわれています。菊坂通りの途中にある長泉寺の門前の植え込みの中に文京区が設置した案内板が立っています。

菊坂

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(「御府内備考」)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの 長い坂を菊坂といっている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治二十三年(1890年)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。

   寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
      樋口夏子(一葉)




菊坂には多くの文人が住んでいました。通りの街路灯に、著名な文人を解説したプレートが取付けられています。樋口一葉は菊坂を代表する存在です。

当地ゆかりの文人達 樋口一葉 明治五年〜明治二十九年

この坂を下って四百米ほど先の左側、石段を下った辺りに一葉が十八歳から二十一歳頃まで暮らした旧居跡があり、当時の井戸も現存している。東大赤門前に父が旗本屋敷を購入し、割と裕福であった生活も父の死後一転。ここに引っ越し、他人の洗濯や針仕事で母や妹を養いつつ古典を勉強した。近くには彼女の通った伊勢屋質屋の建物がある。主な作品は、うもれ木、大つごもり、たけくらべ、行く雲、にごりえ等。これらの作品は平安文学を思わせる優雅で流麗な擬古文体で、封建制度下の人々の悲劇を的確に描写し、さりげなく描いている。小説家として一流の名声を得た作家で二十四歳の若さで没したのは外国にも稀であろう。生活の悲惨さが結核を悪化させたものであった。




菊坂から一つ目の交差点を過ぎた先に狭い坂道が上がっています。長さは約45mほどの短い坂道で、坂上付近では壁沿いにいろんな物が置いてあるために、人とすれ違うのも難しい道幅です。



108.金魚坂

金魚坂とは奇妙な名前ですが、これは坂上の角にある金魚商兼喫茶店の「金魚坂」に因んでいます。此の地で金魚のお店を開店したのは350年前のことです。店の横の路地が坂道であることから「金魚坂」と呼ばれるようになりました。2003年頃に喫茶店を併設してテレビなどでも紹介されるようになりました。坂の途中には、「珈琲・中国茶 金魚坂 御食事・葉巻」と書かれた味わいのある看板が掲げられています。「葉巻」って、喫煙可ということでしょうか?



坂の途中から金魚店の中が見れるようになっています。店内には所狭しと水槽が置いてあり、沢山の金魚が泳いでいます。金魚すくいもできるそうです。



菊坂の途中から南側の本郷小学校前付近まで南に上る坂があります。

109.本妙寺坂

本妙寺坂は長さ約100mほどの少し傾斜のある坂で、かって菊坂の北側に本妙寺というお寺があり、このお寺に向かって南側から下る坂であったところからこの名が付けられました。

本妙寺坂

この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5−16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦三年(1657年)の火元として有名である。明治四十三年豊島区巣鴨五丁目に移転した。




菊坂から南側の路地に下りる階段は幾つかありますが、とある階段下に「宮沢賢治旧居跡」の案内板が立っています。

宮沢賢治旧居跡

宮沢賢治(明治二十九年【1896年】〜昭和八年【1933年】)は、詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正十年(1921年)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた(右手建物の2F中央付近です)。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集「注文 の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。




菊坂に面して、樋口一葉縁の伊勢屋質店が保存・公開されています。

一葉ゆかりの伊勢屋質店

万延元年(1860年)この地で創業し、昭和五十七年に廃業した。樋口一葉(1872年〜1896年)と大へん縁の深い質店であった。一葉の作品によると、一葉が明治二十三年、近くの旧菊坂町(現本郷四丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治二十六年、下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西片1−17−8)にもどってからも、伊勢屋との縁は続いた。一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は、明治四十年に改築した。土蔵は、外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。

〜 一葉の明治二十六年5月2日の日記から 〜
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。
蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ




菊坂からひとつ南側の路地を左手に入った先に、坂上の真砂中央図書館に向かって急階段が上がっています。

110.炭団坂

炭団坂は、「たどんざか」と読みます。長さは約35mほどで、坂名の由来にはいろいろありますが、炭団などを商売にする人が多かった、あるいは切り立った急な坂で転び落ちて炭団のようになる人がいたなどが言い伝えられています。

炭団坂

本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち、泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遙が明治十七年(1884年)か ら明治二十年(1887年)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。




菊坂の中ほどから北に上る坂道があります。

111.梨木坂

梨木坂は別名「梨坂」といい、長さ約100mほどの少し左右に曲がった坂道です。昔、付近に大きな梨の木があったので梨木坂といったという説と、菊畑がなくなり「菊なし坂」といったという説などがあります。そんなら別名は「無坂」でしょうに。

梨木坂(梨坂)

「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故城の名とす。」と「御府内備考」にある。また、「南向茶話」には「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、「紫の一本」の著者【1629年〜1706年】)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。




菊坂からひとつ南側の路地から直角に曲がり、南方向に上がる坂があります。

112.鐙坂

鐙坂は「あぶみざか」と読みます。長さは約33mほどで、付近に馬の鐙の製作者の子孫が住んでいたからとか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられたなどといわれています。

鐙坂

本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(「江戸志」)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(「改撰江戸志」)などといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。

2011 文の京都市景観賞 ふるさと景観賞 鐙(あぶみ)坂

湾曲した特徴のある坂道は、石積みや豊かな緑、文人の旧居跡などが醸し出す雰囲気が相まって、歴史的な風情のある坂として人々に親しまれ、「坂のまち文京」の景観づくりに貢献しています。




菊坂下交差点の手前から右手奥に、北東に向かって鳳明館の裏手まで、ゆっくり歩いても息が切れるくらいの急坂が上がっています。

113.胸突坂

胸突坂は長さ80mほどで、坂下から”く”の字に曲がっています。かってはこの坂が「菊坂」と呼ばれていましたが、その後現在の菊坂の方に名前を譲って、「胸突坂」となりました。胸突坂の坂名は、急な坂を上る時の姿勢から名付けられました。坂上には本郷地区の歴史的な旅館である鳳明館が建っています。本郷は、かつて東京有数の旅館街で、300軒ほどの下宿屋や旅館があったといわれていますが、現在残っているのは数軒のみになっています。鳳明館は木造2階建の近代和風建築で、最初は明治時代に建てられた建物を利用し下宿屋として開業し、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和二十年に旅館に模様替えしました。各室毎に異なったつくりをしていて、部屋の銘木に合わせた部屋名になっています。今日でも下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝えています。2000年には登録有形文化財に指定されました。ちなみに、鳳明館という旅館名にした理由は、様々な困難から「不死鳥(鳳凰)のように蘇る」という意志を込めて「鳳」、「商売人はどんなときにも泣いちゃいけない」ということで「明」になったそうです。



菊坂下交差点を右折して言問通りに入ります。直ぐ先の右手に急坂が上がっています。電動自転車なら乗ったまま何とか上がれますが、人力ですと手押ししないと上がれません。

114.新坂

新坂は長さ約60mほどで、近くの坂よりも新しくできたので新坂と名付けられたとのことです。

新坂

区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。「御府内備考」に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遙の道でもあったと思われる。




白山通りの西片交差点を東に入って100mほどの先から北方向にくねくねとS字状に曲がった上り坂があります。

115.石坂

石坂は長さ約80mほどで、坂の途中から上は左から右へ湾曲しています。坂名の由来は不明とのことです。石ころだらけの道だったのでしょうか?

石坂

「町内より南の方、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ・・・」「新撰東京名所図会」。この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒組、御先手組の屋敷であった。明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫 理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

−−− 西片町の景 −−−
交番の上にさしおほう桜さきけり
子供らは遊ぶ おまわりさんと
(佐佐木信綱)




白山通りの白山二丁目交差点の手前を東方向に入ると、100mほど先から大きく逆S字状に曲がりながら上る坂があります。

116.新坂

新坂は長さ約120mほどで、江戸時代に坂上にあった旧福山藩主邸へ通じる新しく開かれた坂ということで名付けられました。福山藩主邸へ通じる坂ということで、別名は福山坂となっています。

新坂(福山坂)

「新撰東京名所図会」に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩にちなんで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。坂の上、一帯は、学者町といわれ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。




白山通りから離れ、東側の小道を進みますと、誠之小学校の手前に急階段が上がっています。

117.曙坂

曙坂は長さ約23mほどの急な石段です。かつてこの辺りは「鶏声ヶ窪」と呼ばれ、明治初期に町ができた際に「鶏声暁にときを告げる」にかけて「曙」という町名になりました。坂名もその町名に合わせて名付けられました。別名の「徳永坂」の由来ははっきりしませんが、坂上にでも徳永さんが住んでいたのでしょう。

曙坂

「江戸砂子」によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪といわれるところであった。明治二年(1869年)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で、縁起の良い名称を坂名としたのであろう。この坂は西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和二十二年(1947年)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。




誠之小学校の先の白山一丁目と西片二丁目の境界に沿って短い上り坂があります。

118.胸突坂

胸突坂は長さ約20mほどの少し傾斜のある坂で、別名を峰月坂や新道坂といいます。急な坂道には「胸突坂」の坂名が付けられることが多いのですが、此の坂も急峻な坂であることからこの名前になりました。

胸突坂(峰月坂・新道坂)

「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と「新撰東京名所図会」にある。台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。「胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に三ヶ所ある。この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。




胸突坂と浄心寺坂の間にあって、両方の坂と平行する短い急坂があります。

119.中坂

中坂は長さ約25mほどで、胸突坂と浄心寺坂の間にあることからこの名前が付きました。



中坂の北側にもうひとつ坂道があります。

120.浄心寺坂

浄心寺坂は長さ約170mほどの緩やかな坂で、別名をお七坂または於七坂といいます。浄心寺はここから少し離れた場所にあるので、坂下にある円乗寺に因んで「円乗寺坂」という坂名にした方がよい気がします。円乗寺には八百屋お七のお墓もありますので整合性がとれるように思います。

浄心寺坂

「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)。浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。




円乗寺には八百屋お七のお墓があります。

八百屋お七の墓

お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和二年【1682年】12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和三年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789年〜1801年)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。




お七のお墓は境内の奥に祀られています。今でも墓前には供花が絶えませんね。



白山通りに出ます。白山下交差点から坂上の白山上交差点を経て千石駅前交差点に至る道路は旧白山通りと呼ばれます。

121.薬師坂

薬師坂は、白山下交差点から白山上交差点までの旧白山通りの上り坂をいいます。長さは約280mほどの緩やかなで、別名には薬師寺坂・浄雲寺坂・白山坂などいろいろあります。坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名付けられました。

薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)

「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(「御府内備考」)。坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。「新撰東京名所図会」には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保十五年(1730年)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。




ということで、文京区最期の「本郷・西片・白山コース」を歩き終えました。



今回で文京区の坂道を歩き終えましたが、「文の京」は「坂の宝庫」でもあるということを感じました。どの坂にも歴史的ないわれがあり、それを手繰っていくだけでも面白かったです。尚、歩く前は文京区の坂道の数を「127(消滅した坂道が2つあるので、実際は125)」と書きましたが、歩き終えた後で数えてみましたら、

 ・ 実際に歩いた坂道:      121
 ・ リスト上で重複していた坂道:   1
 ・ 豊島区で既に歩いていた坂道:   3

でした。





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