中野区(本町・南台・弥生町コース)


踏破記


今日は昨日に引き続いて、中野区の2番目(最期)のコースを歩きます。

最初に歩く坂は「十貫坂」です。昨日のゴール地点が中野駅南口でしたので、一筆書きの歩きを継続するために中野駅南口からスタートします。



中野駅南口の駅前広場はバスの発着場になっています。三菱UFJ銀行のはす向かいに小さなプレート板がさりげなく掲げられています。江戸時代、中野は江戸に近い直轄支配地として、また鷹狩りの場所として重要な地でした。三代将軍家光は在任中の7年間に29回も中野に鷹狩りに訪れたという記録が残っています。五代将軍綱吉は「生類憐みの令」を発布し、鷹狩りを行ないませんでした。そして中野にはお犬様を養育するためのお囲い御用屋敷(犬小屋)を設けたのです。お囲いは最初に現在のもみじ山文化センターの辺りに造られましたが、直ぐに一杯になり、現在の中野サンモールのあたりに二の囲が増築されました。さらに区役所と警察大学校跡地に三の囲、警察大学校跡地から環状七号線の辺りまでに四の囲、そして今度は南側の中野三丁目全域に五の囲と増築を重ねました。しかし、綱吉の死後、お囲いは直ちに廃止されました。お囲いの敷地は約30万坪(約100ha)にも及び、数万から30万頭の犬が養育されていたといわれています。1年間の総経費は98、000両(現在の価値でおよそ122億円)にも及んだともいわれます。八代将軍吉宗になって再び鷹狩りが復活します。吉宗は犬囲いの跡地に大変気に入った場所があり、「お立て場(休息所)」として紅白の桃を植え、「桃園(とうえん)」と命名しました。やがて桃は咲き、延享の頃(1744年〜1748年)には春の美観が広く江戸の人びとに知られるようになりました。吉宗自身も何回か桃園を訪れたといわれています。一説には、これがお花見の起源になったという話もあります。現在は暗渠化されて遊歩道になっている桃園川の名称も「桃園」の名残りです。

桃園ルネサンス
桃の花見は中野の桃園地域へ

中野の桃園地域は、八代将軍徳川吉宗時代に「桃の園」と呼ばれるほどたくさんの桃の木が植えられ、江戸の名所として見物客を集めたそうです。その歴史を復活させるため、桃園まちづくり小委員会を母体とし、平成九年に本会を発足しました。その後、中野駅南口ロータリーでの桃の花の植樹祭を皮切りに、桃園地域で桃の木をたくさん植えています。




中野駅から中野通りを南下し、十貫坂上交差点に向かいます。

10.十貫坂

十貫坂は、中野通りの十貫坂上交差点から本五ふれあい公園の手前辺りまでの緩やかな下り坂で、途中で”く”の字に曲がっています。長さは約220mほどで、別名を陣観坂といいます。



十貫坂上交差点の脇に地元の方が街路灯を兼ねて2013年に設置した案内柱が建っています。十貫坂の坂名の由来には、中野長者が十貫文の銭を埋めたとか、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったとか、付近から十貫文の入った壷がでてきたとか、幾つかの説があります。中野長者については次のような伝説が残されています。

応永の頃(1394年〜1427年)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日総州葛西に馬を売りに行って高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝し、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。中野の家に帰ってみたところ、あばら家だった我が家は黄金に満ちていました。観音様のご褒美でした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社(新宿公園の隣りにある熊野神社)を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。しかし、悪が栄えることはなく、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正観寺(現在の成願寺)を建て、また、七つの塔を建てて娘の菩提を弔い、つましく信心深い生活に戻りました。

十貫坂の由来

付近から十貫文の入った壺がでてきたという説と中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります




中野通りを更に南下し、方南通りを越えて南台三丁目交差点で右折し、みなみ台商店街を西に進みます。途中で道を間違えて余計な時間を費やしましたが、こんもりと木々が生茂った多田神社の前に出ます。一の鳥居の手前に「多田神社御由緒」と書かれた石碑が置かれています。神社名が「多田神社」ということもあってか、多田満仲公に対する思い入れが相当に強いようです。

多田神社御由緒

満仲公は第五十六代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を賜り、国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその威力は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽くされた事蹟は尠少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第二子は歴史上著名なョ光公であり、第四子ョ信公は平忠常を討ち、関東を平定した。続いてョ義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴き、その凱旋の帰途。寛治六年(1092年)祈願達成の報賽として、大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には、「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長二年社殿を再建。更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治十四年改築し、また明治四十年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦後氏子の急増により昭和三十五年社殿を改築したのが現在の社である。




階段を上がって本殿の前に進みますと、絵馬板の横に雑色村と多田神社の関わりを記した案内板が立っています。

雑色村と多田神社

現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は、約九百年前、寛治六年(1092年)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(1591年)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。




多田神社の東側から宝福寺にかけて坂が上っています。

11.東坂

東坂は長さ約120mほどの緩やかな上り坂で、途中でやや東側に湾曲しています。多田神社の東側にある坂ということで、この坂名が付きました。



方南通りに戻って、広町みらい公園の西端を通る坂道を上がります。広町みらい公園は国家公務員宿舎の跡地を再開発し、防災施設を有する公園として整備されました。背後の高台にはコーシャハイム中野弥生町の高層住宅が聳えています。

12.駒ケ坂

駒ケ坂は、コーシャハイム中野弥生町の北端辺りから善福寺川に架かる駒ヶ坂橋に下りる坂です。長さは約170mほどあり、幅の広い緩やかな直線の坂になっています。坂名は、かってこの地が「雑色村駒ヶ坂」と呼ばれていたことに因んでいるようです。



駒ヶ坂橋の下流の和田廣橋の直ぐ先で、神田川と善福寺川が合流します。左側の写真の手前を流れるのが善福寺川、奥を流れるのが神田川です。どちらも同じくらいの水量ですが、この地点から先は神田川に一本化されて隅田川までの約14kmを流れます。

神田川との合流

善福寺川は、善福寺池を水源とした、荒川水系における神田川水系に属し、区内の中央部を蛇行しながら東へ流れ、中野区との区境付近で神田川と合流します。この先、台東区柳橋付近で隅田川に合流し、やがて東京湾に注がれます。この神田川水系は、都内の中小河川の中でも、最大規模の流域を持つ都市河川です。




ゴール地点の東京メトロ中野富士見町駅にやってきました。中野富士見町駅は昭和三十六年(1961年)2月8日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の荻窪線分岐線(その後、丸ノ内線分岐線と改称)の駅として開業しました。平成二十二年(2010年)にリニューアル工事が完了し、駅舎はお洒落な外観となりました。中野車両基地(中野検車区・中野工場)の最寄り駅であることから、朝夕には当駅始発や終着の本線直通列車が運行されています。車両基地は方南通り上の歩道橋から眺めることができ、赤い車体の丸ノ内線車両がずらりと並んでいる様子は壮観です。



ということで、「東京23区の坂道を歩く」の「中野区本町・南台・弥生町コース」を歩き終えました。歩く前は「東中野・中央・本町・中野コース」と合わせて一日で回れるだろうと思っていましたが、馴染みのある地域とはいえ、普段はあまり気にしない坂道を巡るコースでしたので、滅多に通らない路地奥の坂道を探すのに手間取り、2日に分けて踏破しました。相生二番坂には手こずりましたね。でも、住宅地の奥に佇む坂には歴史を感じさせる格別の趣があります。この先もどんな坂道に出会えるか楽しみです。





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