荒川区(東日暮里・西日暮里コース)


踏破記


中野区の次はどの区にしようかと考えたのですが、踏破記を書くのが溜まってきましたので、引き続きほどほどの坂の数で面白そうな荒川区を選びました。荒川区の坂道は全部で10ケ所あるのですが、狭い範囲に集中していますので一日で十分巡れるでしょう。

荒川区は東京都の北東部に位置し、東西に細長い形状で、北側の区境は隅田川になっています。区内はほぼ低地で平坦ですが、日暮里地区の一部は山手台地になっています。そういうことで、荒川区の坂道は日暮里周辺に多く位置します。

最初に歩く坂は日暮里駅の南に位置する「芋坂」です。日暮里駅には北側にある東口・西口と南側にある南改札口があります。芋坂は南改札口に近いので、ここから今日の歩きをスタートします。



南改札口を出ますと、左手に階段が合体した細い坂が上がっています。紅葉坂という名前で、谷中霊園の北側入口に通じています。坂上に案内柱が立っています。

紅葉坂

坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。




坂上に出ますと、左手に天王寺があります。

護国山天王寺

日蓮上人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1394年〜1427年)頃の創建という。「東京府志料」は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄十二年(1699年)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(1833年)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼失してしまった。

Gokokusan Tenno-ji Temple

When the Buddhist saint Nichiren stayed at the house of Seki Nagateru, the lord of this area, he carved a sculpture of himself and Nagateru built a hermitage in which he enshrined the sculpture. This was the origin of Tenno-ji Temple, which is generally said to have been established in the Muromachi period between 1394 and 1427. Among the temples still extant in Tokyo there are few which were founded before the Edo period (1600-1868), so Tenno-ji is one of the few ancient temples left in the metropolis. Tenno-ji was originally called Kanno-ji, but in 1833 in accordance with a decree by the Tokugawa government, its name was changed and its sect altered from the Nichiren sect of Buddhism to the Tendai sect. During the Edo period public lotteries were held here, so along with Ryusen-ji Temple in Meguro and Yushima Tenjin Shrine in Ueno it was famous as one of the "Three Lotteries".




天王寺の直ぐ先にある安立院の山門を過ぎたところから左手にカーブして下りる坂があります。



1.芋坂

芋坂は、安立院脇から谷中霊園を北東に進み、クランク状に曲がってから「芋坂跨線橋」でJRの線路を越え、京成線の高架の人道トンネルを潜って駅前通り(王子街道)に面する善性寺の方に下りる坂道です。江戸時代にはJR線も京成線もなかったので、かなりの急坂でした。芋坂の長さは約150mほどで、現在は線路を跨いで跨線橋が架けられていますので、あまり坂道という感じではありません。坂名は、昔はこの付近で自然薯(山芋)が取れたことに因むといわれていますが、はっきりしません。坂上の跨線橋の脇に台東区が設置した案内柱が立っています。

芋坂(いもざか)

坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。

      芋坂も団子も月のゆかりかな   子規




跨線橋の下には荒川区が設置した案内板も立っているとのことでしたが、探しても見つかりませんでした。

あらかわの史跡・文化財 芋坂

善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。明治十五年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊東晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は、天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。


跨線橋を下りて京成線の高架下を潜って路地を抜けますと駅前通りに出ます。その正面に善性寺があります。山門脇に案内板が立っています

将軍橋と芋坂(善性寺)

善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487年)の開創と伝える。寛文四年(1664年)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。宝永年間(1704年〜1711年)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819年)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。

      芋坂も団子も月のゆかりかな   子規

Shogun-bashi Bridge at Zensho-ji Temple and Imo-zaka Slope

The Zensho-ji is a temple of Nichiren sect, reared in 1487 according to the written account. In 1664 it became associated with the Tokugawa shogun's family after the sixth shogun lenobu's birth mother Chosho-in was buried there. From around 1704 to around 1711, Ienobu's younger brother Matsudaira Kiyotake lived there in retirement. lenobu visited there frequently, and the bridge over the Otonashi River, which flowed past the temple, became known as Shogun-bashi (Shogun Bridge). Opposite Zensho-ji Temple was Imo-zaka slope, which led to Yanaka. At the bottom of the slope stood the Fujinoki Tea House (now the Habutae Dango shop), said to have opened in 1819. A haiku poet Masaoka Shiki, a novelist Natsume Soseki and other literary giants of the Meiji Period frequented the tea house.

Imo-zaka mo dango no tsuki no yukari ka na (Masaoka Shiki)




善性寺と向かい合って、泉鏡花の「松の葉」・司馬遼太郎の「坂の上の雲」・田山花袋の「東京近郊」・夏目漱石の「吾輩は猫である」・正岡子規の「道灌山」や「仰臥漫録」に登場する羽二重団子店があります。芋坂の焼団子はきめがこまかくて羽二重のようだと絶賛されたのが店名の由来です。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が通常は同数一組で販売されています。串団子ですが、粒の形が一般的な球形ではなく、厚みのある円盤状なのが特徴になっています。



日暮里駅の構内を通って北口に出ますと、右方向に湾曲した緩やかな坂が上がっています。

2.御殿坂

御殿坂は長さ約180mほどの幅広の坂で、別名を乞食坂といいます。坂名の由来は、「御隠殿」と呼ばれた輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれています。この坂を境にして、北側が荒川区、南側は台東区になります。南側の坂下に台東区が設置した案内柱が立っています。

御殿坂

文政十二年(1829年)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志料」には、長さ十五間(約27.3メートル)・ 幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。




坂上にある本行寺の山門脇の石垣の上の植え込みの中には、荒川区が設置した案内板が立っています。

御殿坂

西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保九年(1838年)刊の「炒めを奇談」は、寛永(1624年〜1644年)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。

Goten-zaka Slope

The name of the slope 'Goten-zaka' appeared in the Edo period map was said to be derived from the 17th century shogunal villa (Goten) located in the area around, according to "Myomyo Kidan" which was published in the early 19th century. The slope ran on the foot of Tenno-ji Temple (Yanaka Cemetery of today) as far as the bottom of Imo-zaka slope.




諏訪台通りを越えた先に、左に坂、右に石段が下っています。



3.七面坂

左側の坂は七面坂といいます。長さ約110mほどのやや急な坂で、途中で”く”の字に曲がっています。坂名の由来は、坂上の北側にある宝珠山延命院の七面堂に因んでいます。



七面坂も台東区と荒川区の境界に位置していて、向かい合う形で両区の案内板が建っています。荒川区の案内板です。

七面坂

御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。

Shichimen-zaka Slope

Shichimen-zaka extends from the top of Goten-zaka slope, via the back of Chomyo-ji Temple cemetery in Taito City, to the front of Sorin-ji Temple (Hagi-dera). The name derives from the Shichimen-do Hall, enshrined guardian deity Shichimen Myojin, at Enmei-in Temple on the north side of the street at the top of the hill.




台東区の案内板です。

七面坂

宝暦年間の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3−10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3−10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。坂は「御府内備考」の文政九年(1826年)の書上によれば、幅二間(約3.6メートル)ほど、長さ五十間(約90メートル)高さ二丈(約6メートル)ほどあった。なお宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。

SHICHIMEN SLOPE

In a book called Saiko Edo Sunago written in the mid 19th Century, it is written that the slope leading down from the Sorin-ji temple to a place called Shichimen, was called the Shichimen Slope. Toward the north of the top of the slope, there is the Enmeiin temple which has a small shrine called Shichimen-do in its precincts. So this place was called Shichimen and the slope took its name from the temple. Records in 1826 show that this slope was about 3.6 meters wide, 90 meters long and 6 meters in height.




右側の石段を下りると、その先は買い物客で賑わう谷中銀座商店街に通じています。

4.夕焼けだんだん

夕焼けだんだんは長さ約30mほどの石段で、かなりな急階段になっています。坂名は、公募により谷中に居住する地元民の応募した名前が採用されました。階段上から眺められる夕焼けの美しさと、下町情緒が感じられる名前ということがその理由です。坂下には、2枚の板を打ちつけて「夕やけだんだん」と書かれた素朴な標識があります。坂上にもコンクリート柱の標識があるそうですが見付けられませんでした。



南泉寺と修性院の間に、浄光寺に向かって急坂が一直線に上がっています。



5.富士見坂

富士見坂は長さが約120mほどのかなり傾斜のきつい坂で、花見坂・妙隆寺坂とも呼ばれています。坂上から富士山を望むことができたためにこの坂名が付けられました。

富士見坂

坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。

都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。

Fujimi-zaka Slope

The area of this slope was originally inside the precincts of Myoryu-ji Temple (Nichiren sect, later merged with Shusho-in Temple). Myoryu-ji Temple was known as Hanami-dera (Flower-viewing Temple). Thus the slope was also known as Hanami-zaka and/or Myoryu-ji-zaka. This is the last one of Fujimi-zaka slopes in the heart of Tokyo where we can view Mt. Fuji from the top of the slope until recently. It was selected as one of the Kanto Region Hundred Views of Mt. Fuji in 2005.




東京には16カ所の“富士見坂”があるといわれています。しかし、実際に富士山が見られる坂は、この「日暮里の富士見坂」と文京区で巡った「大塚の富士見坂」の2ケ所のみとなっています。この富士見坂は時代と共に見え方は変わっていましたが、2000年まではビルの合間に富士山のほぼ全景が望めました。しかし、2000年の暮れに新築されたマンションによって、富士山の左下部分が隠れて見えなくなってしまいました。



このままではいずれ“富士山の見えない富士見坂”になってしまうと危機感を持った地元民たちが「日暮里富士見坂を守る会」を結成して景観保存運動に乗り出しています。

荒川区が取り組む 眺望保全の呼びかけ

古来から富士山は、我が国を象徴する山として誰からも愛されてきました。現在、都心部には16箇所の富士見坂と呼ばれる坂があり、この中で唯一名前の通り富士山を眺望できる場所は、日暮里富士見坂だけです。日暮里富士見坂は、平成十六年に国土交通省より「関東富士見100景」に選ばれ、「東京富士見坂」として選定されるなど、荒川区のみならず、東京都の貴重な歴史的風景遺産として、将来に引き継いでいくことが大変重要なことであると認識しております。また、平成二十四年5月には、イコモス(国際記念物遺跡会議)から、荒川区をはじめ、新宿区、台東区、文京区、豊島区及び東京都に対し、日暮里富士見坂からの眺望の保全に関する要請書が送付されました。荒川区としては、このイコモスの決議を重く受け止めているところであります。こうした中、日暮里の富士見坂から富士山を望むビスタライン上の関係者の皆様には、この主旨を御理解のうえ、建築計画にあたっては、是非とも、御協力をお願い申し上げます。

荒川区長 西川太一郎




富士見坂の坂上には諏訪神社が鎮座しています。

諏方神社

信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(1205年)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。拝殿の脇には元禄十二年(1699年)銘・元禄十四年(1701年)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。

Suwa-jinja Shrine

Suwa-jinja Shrine enshrines Takeminakata-no-Mikoto, same as the one of Kami-Suwa-sha Shrine in Shinano Province (present-day Nagano Prefecture), and was built by Toshima Tsuneyasu in 1205. It was a collective tutelary shrine of Nippori and Yanaka according to the written account of the shrine. A festival formerly held on July 27 of the lunisolar calendar involved a procession of floats and mikoshi portable shrines. The mikoshi were carried as far as Imoarai-bashi Bridge (now Shohei-bashi Bridge, in Sotokanda 1-chome, Chiyoda City), then placed on boats and taken down the Kanda River and up the Sumida River via Asakusa, to Arakida-no-Go (now Machiya 7-chome, Arakawa City), where sake was offered up to them, before returning to Suwa-jinja.




諏訪神社の隣には、江戸時代まで諏訪神社の別当寺だった浄光寺があります。江戸六地蔵は「東京のいろいろな散歩道を歩く」で巡りましたが、浄光寺に鎮座する地蔵菩薩は正確には「江戸東部六地蔵」のひとつです。江戸東部六地蔵は空無上人が勧化した江戸東部の六地蔵のことで、江戸深川の地蔵坊正元が宝永三年(1706年)に発願して江戸市中から広く寄進者を得て江戸の街道出入口6箇所に造立した丈六の地蔵菩薩坐像とは異なります。ちなみに、現存する江戸東部六地蔵は浄光寺の他には千駄木の専念寺のみになっています。「将軍腰かけの石」は本堂の裏手にあったようで、見逃しました。

江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)

山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691年)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(1737年)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすば らしいというので「雪見寺」ともよばれた。

The Six Jizo Bosatsu Statues of Edo and Yukimi-dera (Joko-ji Temple)

On your left as you pass through the main gate is a bronze statue of Jizo Bosatsu (Ksitigarbha Bodhisattva) around 3 meters tall. This is one of the Six Jizo Bosatsu Statues of Edo, which the monk Kumu collected donations to pay for and erected at six locations in eastern Edo in the 17th century. The Joko-ji is a temple of Buzan denomination of Shingon sect, also known as Horin-zan Hodo-in, and was responsible for the management of Suwa-jinja Shrine through the Edo period. From the 18th century, it was used by the Shogun as a resting spot during hawking trips. A stone on which Shogun have sat remains in the grounds. Joko-ji Temple is one of those temples featuring 'snow, moon, flowers' in Higurashi-no-Sato (Nippori); It was called Yukimi-dera (Snow-viewing Temple) because of its fine snowscape.




江戸六地蔵と比べますと、浄光寺の地蔵様は随分と小柄に見えます。



諏訪神社の奥からクランク状に折れた階段が下っています。



6.地蔵坂

地蔵坂は、諏訪神社の中を通り抜けて裏のJRの線路側に出て、鳥居を潜って階段の途中で左に曲がり線路に沿って西日暮里駅の方に下る階段です。階段を下るとJRの線路下に人道トンネルがあり、線路の反対側に通り抜けることができます。地蔵坂の長さは約70mほどで、坂名は諏訪神社の別当寺であった浄光寺に江戸東部六地蔵の三番目の地蔵尊が安置されていることに由来しています。トンネルの入口には「諏訪坂架道橋」という表示がされていましたので、別名を「諏訪坂」というのかもしれません。階段横の石段の上に案内板が立っています。

地蔵坂

この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。

Jizo-zaka Slope

This slope leads down to the western side of JR Nishi-Nippori Station. The slope's name 'Jizo' is derived from the third one of Edo-Roku-Jizo' (Six Jizos, Ksitigarbha) installed at the nearby Joko-ji Temple. The Bronze Statue of Jizo Bosastu (Ksitigarbha Bodhisattva), designated cultural property of Arakawa City, was consecrated by the monk Kumu in 1691.




最初、地蔵坂と間違えてしまいましたが、西日暮里駅裏手の諏訪台地にある西日暮里公園の石塀に沿って、西日暮里駅西口から線路沿いに南に上がる坂があります。

7.間の坂

間の坂は「あいのさか」と読みます。長さは約100mほどで、坂上近くで右方向に直角に曲がっています。坂名の由来は不明です。



西日暮里駅西口の前を通る道灌山通りを挟んだ西側は丘になっています。ここには進学校として知られる開成学園の中学校・高等学校があり、正門に向かって道灌山通りから左手に分岐する坂があります。
8.ひぐらし坂

ひぐらし坂とは何とも長閑な坂名ですが、坂下は道灌山通りと並行して西北西に上り、途中開成高校の東側を2回曲がりながら上る坂です。長さは約170mほどあり、坂下と坂上に「ひぐらし坂 HIGURASHI SLOPE」と書かれた標識が立っています。坂名は、地元からの要望により、「ひぐらしの里」に因んで愛称として命名されました。ちなみに、日暮里は古くは「新堀」とか「入堀」と表記されていましたが、江戸時代中期には日暮里と書くようになりました。春の桜、秋の紅葉が美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」と呼ばれました。



開成学園の裏手に道灌山の案内板が立っています。

道灌山

西日暮里四丁目の台地は、道灌山と呼ばれている。地名の由来として、太田道灌の砦跡という伝承や、地元の土豪で善性寺(東日暮里五丁目)の開基とされる関道閑の屋敷跡などの説がある。道灌山は眺望に優れ、秋田藩主佐竹右京太夫の抱屋敷や上覧場と呼ばれた見晴台などがあった。見晴台は庶民にも開放され、茶屋が設けられていた。眼下には、三河島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総国府台(千葉県市川市)などを望むことができた。道灌山は、薬草摘みの場として知られ、一年中、採取者が訪れていた。また、虫聞きの名所としても名高く、秋の風情を求めて江戸の人びとがここに集まった。虫聞きの様子が、歌川広重の浮世絵などに描かれている。その後、田端の台地(北区)も道灌山と呼ばれるようになり、茶屋などが設けられ賑わいを見せるようになった。その一方で、ここ道灌山の物見台は寂れていったという。根岸(台東区)の正岡子規も道灌山をよく訪れ、紀行文「道灌山」を残したことで知られる。

Dokan-yama Height

Dokan-yama height extends from Nishi-Nippori 4-chome to Tabata 1-chome in Kita City. It is said that the name 'Dokan' was derived from the fortification built by the military commander Ota Dokan in the 15th century or from the homestead of the provincial magnate Seki Dokan in the Kamakura period. The area around Dokan-yama height was the residence of the feudal clan Satake of Akita Domain in the Edo period. It had been known for its scenic views; the scenic overlook was open to the public, and even a tea house was set up. From here people command a stunning view of rural landscape of Mikawashima and Ogu (Arakawa City), and in the distance, Mt. Tsukuba, Nikko mountains, and Shimousa-Konodai (Ichikawa City, Chiba Prefecture). Dokan-yama was known for wildcrafting of medicinal herbs, and visitors thronged to pick them all year round. It was also famous for chirping of insects in autumn and the people of Edo gathered here to enjoy it. Appreciation of chirping was depicted in the ukiyo-e woodblock prints such as Utagawa Hiroshige's. The haiku poet Masaoka Shiki in the Meiji period who lived in Negishi (Taito City) visited frequently to Dokan-yama, and wrote a travel piece titled 'Dokan-yama'.




開成高等学校と開成中学校の間に坂道が下っています。
9.向陵稲荷坂

向陵稲荷坂は開成高等学校と開成中学校の間を通る緩やかな坂道で、長さは約130mほどあります。途中で右側に”く”の字形に曲がっています。坂上の開成中学の隣に向陵稲荷神社があり、地元の要望により向陵稲荷神社に因んで坂名が命名されました。



向陵稻荷神社は小さな社ですが、近年になって受験合格祈願の参拝者が増えているそうです。開成中学の隣に鎮座しているからでしょうか?

向陵稲荷神社縁起

当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行ない、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁昌及び学業成就の神であります。当社は江戸時代初期より佐竹右京大夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西 日暮里四丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められていました。後当所に移転しましたが、昭和二十年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫赫として現存し、昭和四十六年社殿を改築社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社となりました。




道灌山幼稚園の西端から荒川区と北区の境界に沿って道灌山の高台に通じる上り坂があります。

10.道灌山坂

道灌山坂は長さ約100mほどの緩やかな坂で、途中で左右に2回曲がっています。西日暮里駅の南西側(田端駅寄り)の開成学園のある高台は道灌山と呼ばれ、この坂は2006年に地元の町会の要望によって「道灌山坂」と名付けられました。



荒川区の坂道を歩き終えて帰りはどうしようかと思ったのですが、地図を見てみますと、道灌山坂の坂上からJRの線路の方向に行くと、何度も通った田端駅に通じる高台の道路があることに気が付きました。西日暮里駅に戻るよりは近そうなので田端駅に向かいます。田端駅の北口はバス通りに面して賑やかなのですが、南口は崖の途中にあって利用客は殆ど見かけません。高台に住んでいる人にとっては便利なんでしょうけど。



ということで、荒川区の坂道の「東日暮里・西日暮里コース」を歩き終えました。坂道の数も少なかったのですが、坂道が一筆書きで効率的に巡れるような場所にあったので割と短い時間で歩けました。それぞれに個性のある坂が多くて面白かったです。それに、史跡などもあって勉強になりました。次は坂だらけの新宿区を巡ります。





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