新宿区(西早稲田・若松町・新宿コース)
踏破記
今日は、中井・落合地域に次いで西早稲田・若松町・新宿地域を歩きます。先日のゴール地点であるJR目白駅からスタートします。
目白駅から学習院大学の西側を通り、学習院下交差点から南側の路地を抜けて新目白通りに出ます。高戸橋交差点で右折し明治通りに入ります。馬場口交差点で左折し、早稲田通りに入った先の右手に地蔵尊堂があります。地蔵尊堂の左側に坂道が上っています。
- 24.地蔵坂(西早稲田)
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地蔵坂は、明治通りと早稲田通りが交差する馬場口交差点から早稲田通りを東方向に200mほど進んだ「源兵衛子育地蔵尊」の左側を上る緩やかな坂です。長さは約45mほどで、坂上付近で右手に曲がっています。かつてこの地に住んだ小泉源兵衛の功績を記念して享保時代に安置された源兵衛地蔵が坂下にあることから坂名が付けられました。坂下に坂名と解説を付した案内柱が立っています。
地蔵坂通り
この地に住んだ小泉源兵衛の功績を記念し、享保の時代に源兵衛地蔵が安置された。
源兵衛地蔵尊の縁起が記された案内板が堂の前に立っています。
源兵衛地蔵尊縁起
この地蔵尊がお立ちになっている付近は、元祿の末頃に源兵衛という人が来て、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開こんしましたところ同心の人々が集まって来て二十八戸から成る新しい村が出来ましたから源兵衛村という名がつけられたと言い伝えられています。その後、二・三十年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために村民の有志者が講中を結集して享保十一年(1726年)にこの地蔵尊を安置いたしました。源兵衛村・戸塚町・西早稲田と地名は変わりましたが、地蔵尊のお慈悲心は少しも変わることなく、信ずる人々の抜苦・与楽・子育・商売繁盛・交通安全などの諸願をすべて成就させてくださいます。
合掌
新目白通りに戻って、都電早稲田駅の先に南西方向に上がる緩やかな坂があります。
- 25.グランド坂
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グランド坂は長さが約220mほどあり、坂上近くで少し左に湾曲しています。現在早大図書館が位置する場所にかって戸塚球場があり、このグランドから練習に励む学生達の声が響いたことからこの名前で呼ばれるようになりました。坂の中ほどと坂上近くに何本かの案内柱が立っています。
グランド坂
戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和二十四年、早大野球部育ての親、安倍磯雄教授の逝去により安倍球場と改称し、昭和六十二年まで存続した。
グランド坂から早稲田通りに出て穴八幡宮に向かいます。穴八幡宮(旧称は高田八幡宮)にも立寄ってみます。穴八幡宮は「蟲封じ」に御利益があるとされています。「蟲封じ」とは、疳の虫(乳児の夜泣き・癇癪・ひきつけなどの異常行動)を治すことです。「穴八幡宮」の名前は、宮守の庵を造るために社僧良晶が南側の山裾を切り開いていたところ横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れたことに由来します。三代将軍徳川家光はこの話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護としました。その後、歴代将軍がたびたび参拝し、八代将軍徳川吉宗は、享保十三年(1728年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納しました。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には元文三年(1738年)に奉納された竹千代(後の十代将軍徳川家治)の誕生祝の流鏑馬が描かれています。流鏑馬は明治維新後は長く中断されていましたが、昭和九年(1934年)に皇太子(現在の明仁上皇)が誕生した際に再興し、戦後は昭和五十四年(1979年)から毎年体育の日に都立戸山公園を会場として行われています。穴八幡宮御由緒には、創建時から現在までの経緯が記されています。
穴八幡宮御由緒
康平五年(1062年)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤(せんしょう:先例)にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八旛宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。寛永十八年(1641年)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。慶安元年(1648年)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(1649年)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄十六年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。安政元年(1854年)青山火事のため類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧時の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。
穴八旛宮といえば、高田馬場の流鏑馬で知られています。大鳥居の脇に案内板が立っています。
新宿区指定無形民俗文化財
高田馬場の流鏑馬
享保十三年(1728年)徳川八代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡宮へ奉納した流鏑馬を起源とし、以降将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場(現在の西早稲田三丁目付近)で流鏑馬が奉納された。明治維新以降中絶し、高田馬場も廃されたが、昭和九年に皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興された。戦前、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和三十九年、古式流鏑馬を保存するため、現在地に移転した水稲荷神社境内にて復活。昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年体育の日に行われている。古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は穴八幡宮の神事として現代に伝えられる貴重な伝統行事である。
馬場下町交差点の方に進みます。「馬場下」の地名の由来は、町の位置が「高田の馬場」から下る八幡坂の下にあったことに因ります。
- 26.八幡坂
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八幡坂は、早稲田通りに面する穴八幡神社の北東端から馬場下町交差点まで下る緩やかな坂です。長さは約160mほどあり、穴八幡神社に因んで坂名が付けられました。馬場下町交差点の神社側角に、東京都が設置した石碑が建っています。何やら昔の風景画らしきものがブロンズ板に描かれていますが、劣化が甚だしく殆ど判別できません。その下に八幡坂の解説文が添えられています。
八幡坂
坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。この地は、もと高田と呼ばれ、穴八幡は高田八幡とも呼ばれていた。昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。昭和三十九年十二月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近はにぎやかさを増した。
穴八幡宮の入口の階段を登ってすぐのところに、朱色が美しい光寮門(随神門)が聳えています。御由緒書きにもありましたが、現在の門は平成十年(1998年)に再建され、未だ二十数年しか経っていないので朱色が美しいのは当然ですね。
- 27.高田八幡男坂
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高田八幡男坂は、大きな石鳥居を潜って短い石段を上がり、その先の参道を進んだ正面の急な石段です。石段上に朱色の随身門があります。長さは約18mほどで、石段の段数は33段あります。穴八幡神社は「高田八幡神社」とも呼ばれます。高田八幡神社の正面参道に位置する急な段坂ですので、「高田八幡男坂」の名前で呼ばれています。
男坂の左側を迂回して上る、踊り場の付いた緩やかな石段もあります。
- 28.高田八幡女坂
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高田八幡女坂は、男坂の手前を左側に迂回し、石垣に沿って右側に曲がりながら上る緩やかな石段です。坂下は南西に、途中で曲がって西北西に、更に曲がって北に上っています。長さは約55mほどで、石段下は長いスロープ状の坂になっていて、石段の段数は35段あります。高田八幡神社の男坂より緩やかな坂ということで、「高田八幡女坂」の名前で呼ばれています。
地下鉄東西線早稲田駅の出口2から南東方向の来迎寺前まで緩やかな坂が上っています。
- 29.夏目坂
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夏目坂は長さが約180mほどの坂で、此の地の名主だった夏目漱石の父が自分の姓を名付けて呼んでいたものが広まって坂名になりました。坂の途中の何ヶ所かに、坂名と解説を付した案内柱が立っています。
夏目坂
夏目漱石の随筆「硝子戸の中」(大正四年)によると、漱石の父でこのあたりの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになったという。
夏目坂下付近にある「ごはん処 やよい軒」の店先に、「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っています。石碑には、この場所が夏目漱石生誕の地であることが記されています。
夏目漱石誕生之地
夏目漱石は、慶応三年(1867年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正五年(1916年)十二月九日、新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり、漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。
石碑の横には、「硝子戸の中」で詠われた俳句が彫られた石碑が置かれています。「参差」とは、高さや長さが不揃いで色々なものが混ざっているという意味です。月の光が照らす中、三本の松の木の影が字面に写っていて、その影の長さが不揃いであるものの、その不揃いさが逆に味わいになっているという意味らしいです。
影参差 松三本の 月夜かな 漱石
私の家は綺麗に取り壊されて、其あとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児の様になってゐたが、何処か見覚へのあるやうな心を私に起させた。昔し「影参差 松三本の 月夜かな」と詠ったのは、或いは此松の事ではなかつたらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
「硝子戸の中」より抜粋
石碑の後には案内板も立っています。
新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地
夏目漱石(本名金之助)は、慶応三年(1867年)一月五日に、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末っ子としてこの地に生れた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋「細井筒に菊」に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。漱石は生後間もなく四谷の古道具屋へ里子に出されたが、すぐに生家にもどり、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。九歳のとき塩原姓のまま実家に戻り、二十一歳のとき夏目家に復籍している。この地での幼少期のことは、大正四年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳しく記されている。この記念碑は昭和四十一年(1966年)に漱石生誕百年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
Birthplace of Natsume Soseki
Designated Historical Site of Shinjuku City
The novelist Natsume Soseki was born Natsume Kinnosuke at this location on January 5, 1867. He was the youngest child of five sons and three daughters. Shortly after his birth, Soseki was placed in the foster care of the owner of a secondhand shop in Yotsuya. However, he was brought back to his natal home soon after and was later adopted by Shiobara Masanosuke, the village head of the Naito-Shinjuku District. At the age of nine, he was returned to his biological parents. Soseki used the Shiobara family name until the age of 21, when he returned to his biological family register. He describes his childhood with his biological family in his essay collection, Garasu Do no Uchi (Inside My Glass Doors), which was published in 1915. The Natsume family held the hereditary position as village head for the eleven neighborhoods of the Ushigome-Babashita-Yokomachi District in Edo. The name of the town Kikuicho (Chrysanthemum Well) comes from the Natsume family crest, which depicts a chrysanthemum enclosed within a square well design. The nearby street Natsumezaka (Natsume Slope) is another legacy of the family. This memorial was erected by Shinjuku City in 1966 for the 100th anniversary of Soseki's birth. The lettering is in the hand of his pupil, the educator and statesman, Abe Yoshishige.
大久保通りの医療センター東交差点から東方向に進んだ次の交差点脇から北に向かって坂が下っています。
- 30.下戸塚坂
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下戸塚坂は長さが約150mほどのまっすぐに北方向に下った急坂で、此の地が下戸塚町という町名になった際に、町名と同じ坂名が付けられました。坂上付近に案内柱が立っています。
下戸塚坂
江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(1872年)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。
若松町交差点から南西方向に緩やかな坂が下っています。
- 31.団子坂
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団子坂は長さが約190mほどで、殆ど傾斜を感じさせないほど緩やかな坂です。別名を「馬の首団子坂」といいます。昔はこの辺りが低湿地だったために、歩くたびに泥だんごのようになったということで坂名が付けられました。坂の中程に、坂名と解説を付した案内柱が立っています。
団子坂
この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥団子のようになったという。嘉永七年(1854年)の「江戸切絵図」には馬の首だんごさかと記されている。
若松河田駅に隣接して、旧小笠原伯爵邸があります。江戸時代、ここには小倉藩の下屋敷がありました。昭和二年(1927年)になって、この地に旧小倉藩藩主の小笠原長幹伯爵の邸宅が建てられました。建物は当時流行のスパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建てでした。昭和二十三年(1948年)に米軍に接収され、4年後に東京都に返還されて昭和五十年(1975年)まで東京都福祉局の中央児童相談所として使用されましたがその後は用途を失って放置され、一時は取り壊しも検討されました。 平成十二年(2000年)になって管理していた都生活文化局から民間貸出の方針が示され、同年12月には箱根等でレストランを経営するインターナショナル青和が借り手に決定され、修復工事を経て平成十四年(2002年)6月にレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンしました。スペイン人料理長のゴンサロ・アルバレス氏による確かな技術と感性が生み出す最先端の「ヌエバ・コシーナ(新しいスペイン料理)」を堪能することができます。結婚式場としても人気があります。
余丁町にある抜弁天は通称で、正式には厳嶋神社という名前です。祭神は市杵島姫命ですが、仏教の弁才天と習合したために、新宿山ノ手七福神の弁財天を祀る神社となりました。応徳三年(1086年)、鎮守府将軍源義家(八幡太郎義家)が後三年の役(1083年〜1087年)で奥州平定に向かう途中ここに宿営しました。此の地は地域で最も高い場所になり、富士山もよく見えたそうです。義家も遠く富士山を望み、さらにその先の安芸に鎮座する厳島神社に戦勝を祈願しました。そして義家は奥州平定を成し遂げ、その帰途に戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳島神社を勧請したと伝えられています。義家がこの地に立ち寄って祈願し、苦難を切り抜けたという伝説と、厳嶋神社の境内の参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」ともいわれ、江戸の六弁天に数えられました。江戸時代には稲荷神社もあり、徳川綱吉による生類憐れみの令により、付近に野犬のための2万5千坪の犬小屋が設置されていました。
- 32.弁天坂(若松町)
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弁天坂は、余丁町と若松町の境界になる抜弁天通りの坂です。抜弁天交差点の手前で西方向に上る坂になっています。
抜弁天交差点から永福寺の北側の墓地沿いの小道を西に進みますと、急階段が下っています。
- 33.梯子坂
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梯子坂は長さが約20mほどある45段の狭い階段で、まるで梯子を下りるよう感じだったためにこの名前が付きました。坂上に案内柱が立っています。
梯子坂
坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため、梯子坂と名づけられた(「新撰東京名所図会」)。
東戸山小学校の南側の大久保通りに平行しながら道路下を西南西に下り、再び上って大久保通りに合流する坂道があります。かっては大久保通りの旧道だったようです。
- 34.椎木坂
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椎木坂は長さが約240mほどで、統計局角交差点から大久保通りと分岐して下り、坂下の三差路のところから上り坂になって、明治通りの手前で再び大久保通りに合流しています。別名を砂利坂・向坂といいます。かって陸軍戸山学校(旧尾張侯戸山屋敷内:現在は戸山ハイツ)の構内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたためにこの坂名になったといわれています。三差路の脇に案内柱が立っています。
椎木坂
かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた(「新撰東京名所図会」)。
抜弁天通り下の路地から抜弁天交差点角の永福寺入口に向かって東方向に上る坂道があります。
- 35.久左衛門坂
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久左衛門坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、途中は左右に屈曲しています。この辺りに住んでいた島田久左衛門が開いた道であったためにこの坂名が付きました。坂上の永福寺の門前脇に案内柱が立っています。
久左衛門坂
この坂は徳川家康の江戸入り以前から大久保に住んでいた島田家の久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。
抜弁天交差点から南西方向の文化センター通りに入り、専念寺の西側から路地に入ります。その先の小高い丘の上に大聖院があります。
- 36.不動坂
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不動坂は大聖院の北側の参道にあたり、長さは約7mほどの急な階段になっています。坂名は、坂上にある大聖院不動堂に因んでいます。階段下の右側手前の石柱に「不動坂」の文字が刻まれているそうですが、現在は石柱の風化が激しく、文字は殆ど判別できません。
階段を上りますと、左手に不動尊堂があります。大聖院は不動院といい、直ぐ西隣にある西向天神社の別当寺でした。明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれましたが、その際に西向天神社に伝わっていた文書類を継承し、現在でもそれを所蔵しています。
新宿区登録有形文化財 古文書
大聖院文書
大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751年)から明治四年(1871年)におよぶ二巻五冊一葉である。内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由緒に関するものが多いが、文政七年(1824年)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。
大聖院の西側にもうひとつの階段が下りています。
- 37.山吹坂
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山吹坂は長さが約15mほどで、途中で直角に曲がった急で狭い階段です。太田道灌の山吹の里伝説で「七重八重 花は咲けども山吹の・・・」と歌って道灌に山吹の枝を捧げた女性の墓といわれる“紅皿の碑”に因んでこの坂名が付けられました。紅皿の碑を探してみたのですが、見つかりませんでした。家に帰ってネットで調べてみましたら、境内とはいっても駐車場の中にあるのだそうです。引き戸を開けないと見られないそうですから、境内を眺めるだけでは見つかりませんね。ちなみに、山吹の里の伝説とは、以下の通りです。
鷹狩の最中に俄か雨にあった太田道灌から蓑(当時の雨具)を求められた農家の少女の紅皿は庭に咲いていた山吹の一枝を差し出しただけでした。その枝には古歌
七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき 中務卿兼明親王
の意味が込められていました。家臣から「実の」と「蓑」が懸けられているのだと教えられた道灌は、無学を恥じて和歌を勉強し、後に紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたという話です。道灌が亡くなった後、紅皿は大久保に庵を建てて尼になり、死後その地に葬られたそうです。大聖院のある新宿六丁目はかつては東大久保と呼ばれていました。
山吹坂
この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。
大聖院の直ぐ先に西向天神社があります。西向天神社は古来より東大久保村の鎮守社でした。現在でも境内は広く、椎の木などが森のように群生しています。境内には江戸時代に築造された富士塚(東大久保富士)があります。
東京医科大学の手前付近からローレルコート新宿タワー付近まで緩やかな坂が右方向に曲がりながら下っています。
- 38.禿坂
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禿坂は長さが約260mほどの緩やかな坂です。別名を「蜘蛛切坂」といいます。坂上側はほぼ直線で、坂下側は少し右に曲がりながら下っています。坂下にあった小さな池に禿頭の子供たちが見られたことから,禿坂と呼ばれました。坂下付近に案内柱が立っています。
禿坂
坂名の由来はさだかではないが、近吾堂版の「江戸切絵図」(「大久保戸山高田辺之図」)には「里俗カムロ坂」とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。
禿坂の坂下付近から北東方向に坂を上がって富久小学校に裏手に出ますと、自証院というお寺があります。禿坂から上がるこの坂もなかなか急な勾配をしています。
自証院は、尾張藩主徳川光友の夫人の母(=徳川家光の側室)の菩提を弔うために創建されたお寺です。自証院には新宿区内で最も古い板碑が残っています。板碑とは、中世仏教で使われた供養塔のことです。板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名・供養年月日・供養内容を刻んだものです。
新宿区指定有形民俗文化財
自証院の阿弥陀三尊種子板碑
弘安六年(1283年)の紀年銘をもつ板碑で、現在確認されている区内の板碑では最古のものである。下部は欠損しているが高さは1.2メートルである。山形の下に二条線が切り込まれ、天蓋の下に梵字で阿弥陀(キリーク)・観音(サ)・勢至(サク)の種子が、それぞれ蓮台を配して刻まれ、最下部に年紀が刻まれている。天蓋・種子とも比較的古様を呈し、全体に鎌倉時代中期の特徴をそなえている。当時の市谷地域に有力武将が居住した可能性を示唆し、また浄土信仰の普及を示す資料として貴重である。なお、種子の両脇に刻まれている「栄寿院妙山唯心大姉」「元禄八乙亥年六月十九日」の文字は、江戸時代に追刻されたものである。
- 39.自証院坂
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自証院坂は、自証院と富久小学校の間から成女学園の前を通って靖国通りに下る急坂です。長さは約85mほどで、坂名は自証院に因んでいます。江戸の切り絵図では、自証院の敷地は1万坪余の広大なものでした。自証院坂は今では公道ですが、かつては寺の参道でした。坂名は明治時代初期に参道から公道になった後、新坂として付けられた名前です。
靖国通りの富久町交差点と富久町西交差点の間は西に向かって緩やかな上り坂になっています。
- 40.安保坂
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安保坂は長さが約180mほどで、此の地に男爵・安保清種海軍大将が住んでいたことに因んで坂名が付けられました。坂上付近に東京都が設置した青銅製(鉄製?)の案内板が建っています。
地形図には、靖国通りから一歩奥に位置していますが、安保邸が見えます。
安保坂
この道路は、昭和十九年七月に都道と認定されたもので、坂名がついたのもきわめて新しい。その時の東京都告示には「牛込区市ヶ谷富久町及四谷区四谷四丁目、花園町地内に於て(中略)市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。坂名の安保は、この地に男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来する。
靖国通りの新宿一丁目北交差点から新宿二丁目北交差点までの間は、西方向に下る緩やかな坂になっています。
- 41.瓶割坂
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瓶割坂は長さが約110mほどの真っ直ぐな坂で、別名は「かめわり坂」といいます。かめわり坂の「かめ」は「瓶」のことで、おなか(腹)の意味です。腹が割れるというのは、子供が生まれることを意味します。現在は平坦な靖国通りになっていますが、かっては坂になっていました。
クリスマス前なのにもう門松ですか!年の瀬を感じますねぇ。
ゴール地点の新宿三丁目駅に着きました。本当は西新宿の成子坂と蜀江坂まで巡りたかったのですが、さすがに疲れました。無理をしないで帰宅します。
ということで、新宿区で二番目の「西早稲田・若松町・新宿コース」を歩き終えました。坂道が適当にバラけていたので、最短コースで回れたのか自信はありません。成子坂と蜀江坂を踏破した後は坂道の宝庫である四谷地区を巡ります。
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