新宿区(神楽坂コース)


踏破記


今日は、曙橋・神楽坂地域に次いで、神楽坂地域の残りの坂を巡ります。先日のゴール地点である地下鉄東西線の神楽坂駅からスタートします。



先日特定出来なかった矢来町の比丘尼坂から今日の坂巡りをスタートします。ネットで調べた結果、神楽坂駅の西側の出入口2から西に向かって二番目の路地が比丘尼坂への入口であることが分かりました。民家に挟まれた何処にでも見かけるような狭い路地で、確かに下り坂にはなっていますが、傾斜は緩く坂道に取り上げられるような坂にも見えません。
64.比丘尼坂(矢来町)

比丘尼坂は、早稲田通りから中里町に向かって矢来町と天神町の間を下る長さ約110mほどの緩やかな坂です。別名を朧坂といいます。標識はありませんが、「比丘尼(びくに)」って何でしょうかね?「尼」と付いていますので、尼さんの呼称でしょうか?尼とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても出家した女性を指します。男性の場合は「比丘」というのに対し、女性の場合は「比丘尼」といいます。古代インドなどで用いられたサンスクリット語の「ビックニー」の発音に当て字をしたものと思われます。お寺に居住するとか、隠居して剃髪した女性を指すのが一般的ですが、江戸時代に尼僧の姿をして売春した娼婦を指す場合もあります。尼僧の恰好をして民家に出入りしても誰も怪しみませんからね。矢来町の比丘尼坂周辺にこのような私娼が住んでいたのではないかとの説もありますが、根拠はないとのことです。



比丘尼坂は、交差する路地のところで小さくクランク状に折れているのが特徴です。



比丘尼坂の別名は朧坂でしたが、それとは別の「朧の坂」が神楽坂駅の東側の出入口1aの脇から下っています。

65.朧の坂

朧の坂は、早稲田通りから北に下るかなり急で狭い坂です。長さは約40mほどで、坂名の由来は不明とのことですが、かって朧の坂は早稲田通りから1キロメートル弱先の神田川までつながっていましたので、神田川からこの坂を見上げると霞がかかっていたように見えたからという説もあります。



牛込の総鎮守である赤城神社の西側に狭い急勾配の坂があります。

66.赤城坂

赤城坂は長さが約140mほどで、坂名は赤城神社の近くの坂ということに由来します。坂上と坂の途中の曲がり角に案内柱が立っています。

赤城坂

赤城神社の近くにある坂なのでこの名がある。明治時代に発行された「新撰東京名所図会」によれば、「。。。峻悪にして、車、通ずべからず、・・・」とあり、かなりきつい坂であった。




赤城坂は坂の途中でクランク状に大きく折れて下っています。雪の日なんか車の運転が大変そうです。晴れた日でも、曲がり角で対向車が来たらパニックになりそう。



赤城坂のすぐ東隣りに、牛込町域の総鎮守である赤城神社があります。本殿も境内社も真新しい建物です。これには経緯があります。平成二十一年(2009年)から平成二十二年にかけて「赤城神社 再生プロジェクト」なる工事が行われました。老朽化した社殿全体を建て替え、赤城神社境内に隣接していた幼稚園は少子化などの理由により閉園し、その跡地を再開発するにあたり、建築費を神社側で全て賄うのは難しい状況にありました。そこで三井不動産レジデンシャルが約70年の定期借地権を設定して神社から土地を借り、神社の建て替えとともに敷地内に分譲マンションを建設しました。そして地代や賃貸による収入を神社の運営に充てるとともに、借地権の期限が来たらマンションを解体し神社の杜に戻すことにしたのです。デザインの監修は、地元神楽坂に在住し同神社の氏子でもある、建築家の隈研吾氏が担当しました。マンションの内外にも神社と調和する意匠が施され、境内の既存樹木についても一部は保存・活用が図られました。これについては、隈氏本人から自ら協力したいという申し出があったそうです。

赤城神社 お祀りしている神様

「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)

合殿
「赤城姫命」(あかぎひめのみこと)

後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十餘年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込毫室へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。


赤城神社の境内社(神社の境内に本社とは別に祀られている社)として、次の4社があります。「螢雪」って、懐かしい言葉ですね。旺文社の大学受験雑誌「蛍雪時代」は今でも発行されているんですね。昭和七年(1932年)創刊だそうですから、もうすぐ百周年になりますか。幾多の受験生がお世話になったことでしょう。ちなみに、「蛍雪」という言葉は、晉の車胤は貧しくて灯火用の油が買えなかったので蛍を集めてその光で書を読み、孫康は雪の明りで書を読んだという故事に由来します。

螢雪天神 本宮
ご祭神 菅原道真公

かつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称され、江戸二十五社の一つに列しておりました。その後信徒なき為、明治九年三月當境内にご遷座。先の戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により[螢雪天神]として復興した。「螢雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。「学問の神様」として全国の受験生の皆さんを応援しています。

赤城出世稲荷神社
ご祭神 宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)/保食命(うけもちのみこと)

赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年(1555年))から牛込の鎮守とされ、奉祀してきた産土神(神道において、その者が生まれた土地の守護神を指します。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられています)です。出世開運、五穀豊穣、商工業繁栄のご神徳があり、サラリーマンの出世祈願、神楽坂商店街の商売繁盛で人気があります。

八耳神社
ご祭神 上宮之厩戸豊聡八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと)(別称・・聖徳太子)

一般に八耳大神として親しまれている。聡明な知恵を授かるご利益があり、なにか悩み事がある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。

葵神社
ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公

牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していましたが、明治元年神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。かつての祠は明治十八年に御造営したが戦火にて焼失。平成二十二年秋に再建された。




本殿の前には、年末の風物詩である茅の輪が今年の穢れを落とす参拝客を待っています。



境内社の蛍雪天神本宮は簡素ながらも趣があります。同じような内容ですが、案内板が立っています。

螢雪天神 本宮
ご祭神 菅原道真公

古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。ご祭神は「学問の神様」菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治九年三月當境内にご遷座。その後、戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により「蛍雪天神」として復興しました。社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。「蛍雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。全国の受験生の皆さん、蛍雪天神はそんな皆さんを応援しています。




赤城神社の狛犬は漫画チックな表情をしていますね。

赤城神社の狛犬

江戸時代、加賀白山犬とよばれて流行りましたが残っている物はわずかです。型や表情はシンプルでスフィンクスに似ていますが胸を張り力がみなぎっています。高天原からかみさまのお供をして来たような表情で澄まして座っていますが前肢は力強く全体に緊張感がみなぎっています。




残り三社の境内社は境内の奥に一緒に祀られています。

赤城出世稲荷神社

ご祭神  宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)/保食命(うけもちのみこと)

創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年【1555年】)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。

八耳神社

ご祭神  上宮之厩戸豊聰八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと )(別称:聖徳太子)

戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。合殿に大国主大神、丹生大神を祀ります。

葵神社

ご祭神  徳川初代将軍徳川家康公

牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への信仰の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。




赤城神社の東側裏手に、50mほど間隔を空けて並行したふたつの坂があります。

67.相生坂(西側)

相生坂(西側)は赤城元町と東五軒町の間を通っており、長さは約100mほどのやや急な坂です。別名を白銀坂・鼓坂といいます。東側の坂と並んでふたつあるので「相生坂」という名前になりました。

相生坂

「続江戸砂子」によると「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。一方「御府内備考」・「東京府志料」では坂名の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂(現文京区)と南北に相対するためであると記されている。




東側の坂も同じような坂ですが、案内柱ではなく、ベニア板に説明書きが貼り付けてあります。内容は殆ど同じですが、風雨に晒されている割にはきれいですね。

68.相生坂(東側)

相生坂(東側)は東五軒町と白銀町の間を通っており、長さは約100mほどのやや急な坂です。西側の坂と並んでふたつあるので「相生坂」という名前になりました。

相生坂

「続江戸砂子」によると「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。一方「御府内備考」・「東京府志料」では坂名の由来は、神田上水(神田川)の対岸にある小日向新坂(現文京区)と南北に相対するためであると記されている。




筑土八幡神社の裏手に、北から南に向かってやや急な坂が上っています。

69.芥坂(筑土)

芥坂(筑土八幡町)は長さが約65mほどあり、坂の途中で緩く”く”の字に曲がっています。別名を埃坂といいます(読み方はどちらも「ごみざか」です)。ゴミ坂の名前は東京の各地にあります。一般的に町外れで淋しく、今でも取り残された感じの場所が多いようです。40〜50年位前までは、実際にゴミ捨場であったり、その集積場所であったりしていました。



築土八幡神社は、嵯峨天皇の時代(809年〜823年)に付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれています。その後、円仁(慈覚大師)が東国へ来た際に祠を立て、伝教大師(最澄)の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したとされています。文明年間(1469年〜1487年)には、この地一帯を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、築土八幡町域の鎮守となりました。



築土八幡神社には、新宿区の指定有形民俗文化財になっている庚申塔があります。寛文四年(1664年)の造立で、太陽と月・桃の木・二匹の猿をあしらった舟型の石造庚申塔となっています。三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が極めて珍しいということです。



境内の神輿庫には、新旧2基の神輿が鎮座しています。ガラス戸越してよく見えませんが。

神輿について

右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝六年(1678年)に、当時の氏子崇敬者が御神徳に報謝して製作したもので、戦前から昭和四十八年までの渡御に用いられました。

左側の白木の神輿は、鉄製の飾り網、支え棒のついた重厚で堅牢な造りで、慶應二年(1866年)に製作されたものです。昭和五十二年に修理されて、その後の渡御に用いられています。




境内の隅に、1965年に建立された顕彰碑が建っています。田村虎蔵は、唱歌「金太郎」や「浦島太郎」などを手がけた作曲家です。神社の裏手に住んでいたそうです。顕彰碑には、金太郎の楽譜と歌詞の一部が書かれています。

田村虎蔵先生をたたえる碑

田村先生(1873年〜1943年)は鳥取県に生まれ、東京音楽学校卒業後高師附属に奉職。言文一致の唱歌を創始し、多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました。




築土八幡神社の脇から大久保通りに下る急坂があります。

70.御殿坂

御殿坂は、築土八幡神社の脇から大久保通りに下る急坂です。長さは約60mほどで、途中で少し逆”く”の字に曲がっています。坂名は、江戸時代に坂の西側に将軍家光の世子家綱の御殿があり、そこが御殿山と呼ばれたことに由来します。坂上と坂下付近に案内柱が立っています。

御殿坂

江戸時代、築土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、(「御府内備考」)、寛永の頃(1624年〜1644年)、三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという(「江戸名所図会」)。坂名は御殿山にちなむ(「新撰東京名所図会」)。




大久保通りから分岐した道路の先に、白金公園の手前から緩やかな坂が曲がりながら上がっています。

71.瓢箪坂

瓢箪坂は長さ約40mほどの坂です。坂名は、坂の途中で瓢箪のような形に括れていることに由来します。 坂下に案内柱が立っています。

瓢箪坂

坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。




筑土八幡町交差点から神楽坂上の三菱UFJ銀行前まで、長い緩やかな坂が上がっています。坂上付近は本多横丁と呼ばれています。

72.三年坂

三年坂は長さが約230mほどあり、別名を「三念坂」と呼ばれています。三年坂が軽子坂を越えた先が本多横丁です。江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことに因んで名付けられました。

本多横丁

江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。




外堀通りの飯田橋交差点の南側に位置する揚場ビルと銀鈴会館の間から神楽坂と並行して北西に向かって上がる坂があります。

73.軽子坂

軽子坂は長さが約140mほどの緩やかな上り坂です。坂名は、江戸時代に外堀の揚場から船荷を軽籠に入れて運搬する人がこの辺りに住んでいたことに由来します。坂上付近の三年坂との交差点に案内柱が立っています。

軽子坂

この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかって船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。




神楽坂界隈は新宿という大都会にありながら、ひとつ細い路地に入ると、江戸時代の面影を今に残しています。奥まった裏通りには粋な名店が並び、通好みの隠れ家になっています。そんな神楽坂地区の中心となっているのが神楽坂通りです。

74.神楽坂

神楽坂は、飯田橋駅前の神楽坂下交差点付近から善国寺付近まで上る、長さが約300mほどの緩やかな坂です。坂名の由来には、
  1. 坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから
  2. 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから
などの説があります。坂下付近に、金属製の通り名標識と案内柱があります。

神楽坂

坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽に因んだ諸説がある。




坂の途中には、地元の商店街が設置したと思われる洒落た石碑があります。

神楽坂

神楽坂の由来については、

  坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから、

  津久戸明神が移転してきた時に、この坂で神楽を奏したから、

  若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから、

  この坂に赤城明神の神楽堂があったから、

などの説があります。




神楽坂の西側には東京理科大学の神楽坂キャンパスがあります。その西外れに急坂が上っています。

75.庚嶺坂

庚嶺坂は、「ゆれいざか」と読みます。別名として、若宮坂・行人坂・祐玄坂などと呼ばれています。外堀通りから飯田橋レインボービルの手前で北西方向に延び、若宮八幡神社に向かう坂です。長さは約120mほどあり、僅かに右側に曲がりながら上る急坂になっています。坂名は、このあたりが美しい梅林であったために、中国の梅の名所(大庚嶺)に因んで名付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。

庚嶺坂

江戸初期、この坂のあたりに多くの梅の木があったため、二代将軍徳川秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(「御府内備考」)。別名「行人坂」・「唯念坂」・「幽霊坂」・「若宮坂」とも呼ばれる。




ちなみに、若宮八幡神社は東京理科大学の裏手に鎮座しています。

神楽坂若宮八幡神社縁起録

若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で、
     仁徳天皇
御祭神
     応神天皇

当社の御由来は、

若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)、別当は天台宗普門院と号す。傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す。其の時当所にて下馬宿願あり、後奥州平治の後当社を営、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり。後に応神天皇に改め祭ると云ふ)。文明年間太田道灌江戸城鎮護の為当社を再興し、社殿を江戸城に相対せしむるなり。当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり、美れいなりしという。神域は黒板塀の神垣南に黒門あり。門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)。右に天水釜あり。拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間向拝あり。松に鷹象頭に虎を彫る。「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり、揚蔀(アケシトメ)にて殿内格天井を組み、毎格花卉を描く。神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり。以て幣殿本社に通ず。本社は土蔵造りなり。本殿東南に神楽殿あり。瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し、樵石敬書と読まる。背景墨画の龍あり。落款梧堂とあり。境内に銀杏の老樹あり。明治二年、神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや、別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる。例大祭は九月十五日(中祭 五月十五日、小祭 一月十五日)に行はれ、社務所は本社の東に在り。現在氏子は若宮町・神楽坂一丁目・二丁目・三丁目の四ヶ町なり。




庚嶺坂の更に西側に、外堀通りから牛込の高台にもうひとつの坂が上っています。坂下には船河原町の鎮守である築土神社があります。神社と関係があるのかどうか分かりませんが、一枚の案内板が立っています。何とも可哀想な息子ではあります。

史跡 掘兼の井

堀兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。




76.逢坂

逢坂は築土神社の前から西に上る急坂で、長さは約75mほどあります。坂名の由来は、昔京の役人がこの地に赴任して娘と恋仲になり、都に帰って没した後に娘とこの坂で再び逢ったという伝説に因んでいるそうです。坂下と坂上に案内柱が立っています。

逢坂

昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。




逢坂は坂上に向かって僅かに左に曲がっています。坂上から見下ろすと、かなりの急坂であることが見てとれます。



若宮八幡神社の西側の住宅街の間を通る緩やかな直線の短い坂があります。

77.新坂

新坂は長さが約60mほどで、坂名は享保十六年に諏訪安芸守の屋敷地の中に新しく造られた坂ということに由来します。

新坂

「御府内沿革図書」によると、享保十六年(1731年)四月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は、新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。




善国寺は神楽坂の坂上近くにある朱門が特徴的なお寺です。安土桃山時代の文禄四年(1595年)に池上本門寺第十二代貫主だった日惺上人により馬喰町に創建されました。度々火災に見舞われ、麹町を経て寛政五年(1793年)に神楽坂に移転しました。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺と共に、江戸三毘沙門と呼ばれました。現在は新宿山ノ手七福神の一社になっています。善国寺で縁日に露店などが出るようになったのは明治二十年(1887年)頃からのことで、東京における境内露店発祥の地とされています。

新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺の毘沙門天像

「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄四年(1595年)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。




寺社の山門横には金剛力士像(仁王像)が見られますが、善国寺では虎の石像になっています。聖徳太子が朝敵物部守屋を討伐しようと信貴山に来て戦勝の祈願をすると、天空遙かに毘沙門天が出現して必勝の秘法を授けました。その日は奇しくも寅年・寅日・寅の刻でした。聖徳太子は毘沙門天のご加護で敵を滅ぼすことが出来たということで、毘沙門天を祀る善国寺には虎の石象が置かれたとのことのようです。

新宿区指定有形民俗文化財 善國寺の石虎

安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が八十二センチ、吽形(左)は八十五センチで、台石・基壇部も含めた総高は、両像ともに二メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848年)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店(わらだな)」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。




善国寺の脇から、途中で右方向に曲がった坂が上がっています。

78.地蔵坂

地蔵坂は神楽坂通りから善國寺の脇に入って、途中で右側に曲がりながら光照寺に向かって上る急坂です。別名を「藁坂」といい、長さは約120mほどあります。坂名は、坂上の光照寺に子安地蔵があることに因んでいます。坂の途中の曲がり角と坂上付近に案内柱が立っています。

地蔵坂

この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。




光照寺は慶長八年(1603年)に神田元誓願寺町で開かれ、正保二年(1645年)にここ沼袋町に移転しました。この辺り一帯は戦国時代に後北条氏の家臣であった牛込氏の居城(牛込城)がありましたが、天正十八年(1590年)の北条氏滅亡後に取り壊され、今はその面影もありません。



地蔵坂の坂上には工事中の塀に囲われ、大きな銀杏の木が聳えています。樹齢250年以上と推定され、戦災の時に焼け野原となった中にこの銀杏の木が残り、それを目印に被災者の人が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の空襲の痕跡(裂け目)が残っています。「日本出版クラブのイチョウ」と呼ばれていましたが、日本出版クラブは2018年に神保町に移転し、現在は跡地にマンションが建設中です。

新宿区保護樹木

樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの水は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。




大久保通りは南蔵院の前から南西に向かって緩やかな上り坂になっています。



坂の北東側の途中から大久保通りと分岐して並行した後、袖摺坂の階段上で直角に曲がって北西に上る坂があります。



79.弁天坂(箪笥町)

弁天坂は別名を「芥坂」といい、長さは約110mほどあります。坂上で朝日坂の坂上に繋がっています。坂名は、南蔵院の境内に弁天堂があったことに由来します。東京都が設置した青銅製(鉄製?)の案内板が弁天坂ではなく、大久保通りの歩道脇に建っています。案内板が大久保通りの歩道脇に建っているので間違いやすいのですが、大久保通りの坂ではなく、そこから分岐した坂が弁天坂です。私は大久保通りの坂を弁天坂と信じ込み、踏破記を書いていたのですが、ネットの情報と食い違っていることに気づき、後日改めて歩き直しました。袖摺坂上からは弁天坂を歩いていたのですけど、その時はその坂が弁天坂とは夢にも思っていませんでした。



案内板には明治時代から大正時代の頃でしょうか、南蔵院の門前の風景と人々の様子が描かれた図が添えられています。この道路はかっての大久保通りと思われます。解説には、弁天坂付近に多くの文人達が住んだことが記されています。

弁天坂

坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。




大久保通りの歩道から細い急階段が上っています。

80.袖摺坂

袖摺坂は長さが10mほどの細い階段です。坂名の由来は、狭い坂道であったために、坂道を上り下りする人が互いに袖を摺り合わされるほどだったことに因んでいます。

袖摺坂

俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(「御府内備考」)。




弁天坂上の円福寺付近から、北東方向に商店と住宅が混在した中を坂下の正蔵院付近まで坂が下っています。



81.朝日坂

朝日坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。かってこの坂の近くに泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天神があったために、この辺りは旭町と呼ばれていました、坂名の由来は、この朝日天神に因んでいます。坂の途中に案内柱が立っています。

朝日坂

「御府内備考」には、かって泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込旭町と呼ばれていた(「東京府史料」)。




ということで、新宿区で四番目の「神楽坂コース」を巡り終えました。花街神楽坂の粋な坂道を存分に堪能させて頂きました。







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