新宿区(四谷・信濃町コース)


踏破記


今日は、市谷地域に次いで、新宿区最後の四谷・信濃町地域の坂を巡ります。先日のゴール地点であるJR四ツ谷駅からスタートします。



四谷地区最初の坂は女夫坂です。女夫坂は新宿通りの四谷三丁目交差点と津之守坂入口交差点の中間地点から南に延びる坂で、最初は80mほど下り、そこから先は上り坂になります。傾斜は緩やかですが、住宅に挟まれた細い路地といった感じです。



95.女夫坂 (めおとざか)

女夫坂は長さが約160mほどの緩やかな坂で、下り坂と上り坂が連続しているため女夫坂または夫婦坂と呼ばれています。昔はもっと勾配があり、両端の坂上から落ち込んでいた形状に因んで夫婦坂と呼ぶようになったそうです。かってこの付近で火事があり、それを機に改修されて勾配が緩やかになりました。



女夫坂の東隣に割と広い坂が下っています。新宿通りの津の守坂入口交差点から南に向かい、円通寺と宝蔵寺の間を通る坂です。



96.円通寺坂

円通寺坂は長さが約180mほどの緩やかな坂で、最初は直線で南に下りますが、宝蔵寺の先で左手に曲がっています。坂名は、坂の中ほどにある円通寺に由来しています。円通寺の脇に案内柱が立っています。

円通寺坂

新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。




円通寺は、普通の民家と間違えるような小さなお寺です。建物はマンションに挟まれ、外観も瓦葺きでなくスレート葺きの屋根をしています。標札がなかったら、これが坂名にもなっている由緒あるお寺だとはとても思えないでしょう。私はこのお寺を見付けるのに30分以上も周辺の路地を誹諧しました。



須賀神社には、他の神社と同じように男坂と女坂があります。男坂といっても平らな坂ではなく、階段になっています。「君の名は」では、映画のラストシーンで主人公の宮水三葉(東京に暮らす少年瀧と入れ替わりとなる飛騨の山奥で暮らす少女)と立花瀧が再会する重要なシーンの舞台として描かれています(いるそうです)。また、映画のポスターには男坂の上から見渡した風景が使われているとか。確かに、谷底を眺めるようで絵になる街並みです。

97.須賀神社男坂

須賀神社男坂は須賀神社の主参道で、長さが約25mほどの急な石段になっています。真っ直ぐに上がる約60段の階段で、途中の2ヶ所に狭い踊り場があります。他の神社と同じですが、傾斜のきつい主参道の坂は男坂、傾斜の緩い坂は女坂と呼ばれます。須賀神社の男坂と女坂は坂の長さも高低差もほとんど同じですが、女坂は踊り場が広い分上り下りが楽になっています。



須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する四谷十八カ町の鎮守様です。毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、江戸の五大祭りのひとつとして有名でした。社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ、「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り、宮居を占めた故事に基づき名付けられた名称です。女坂上に須賀神社の由緒が記された長大な案内板が置かれています。

須賀神社 由緒

須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年に江戸城外堀普請のため当地に移されたものである。須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した(のを)機に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。戦災前の御社殿は文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をかけ、文政十一年十二月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と(”木”ヘンに耳が3つ【音読み:ショウ、訓読み:このはがうらがえる】)社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した、然し戦後氏子崇敬者の赤誠によリ、今日の複興を見るに至った。




須賀神社といえば「三十六歌仙絵」ですね。天保七年に画かれた三十六歌仙は、戦時中に御内陣金庫の中に納められていたために災火を免がれ、現在須賀神社の社宝として残っています。三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、この方式は鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を見ました。境内の奥まったところに大きな展示板があり、原画のコピーが貼られています。一枚一枚に歌人の名前と和歌の印字体が添えられていて、万葉仮名が読めなくても和歌の内容が分かるようになっています。

新宿区指定有形文化財・絵画 須賀神社の三十六歌仙絵

三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966年〜1041年)が、過去及び同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の三名が、平安時代前期の「古今和歌集」・「後撰和歌集」頃から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれている。須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55センチメートル、横37センチメートルの絹地に彩色したものを、額装して拝殿内に掲げている。天保七年(1836年)に奉納されたもので、当時、文人画家として高名だっ四谷大番町(現在の大京町)の旗本大岡雲峰(1764年〜1854年)が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797年〜1854年)が書を担当した。四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。なお、三十六枚の作品の詳細については、新宿ミニ博物館「須賀神社三十六歌仙絵」の掲示板とパンフレットに解説を掲載している。
※三十六歌仙絵は、拝殿で儀式を行っている時は拝観できません。また、神社の許可なく昇殿することはできません。

Portraits of the Thirty-Six Immortals of Poetry at Suga Jinja Shrine
Designated Tangible Cultural Property (Paintings) of Shinjuku City

The Thirty-Six Immortals of Poetry were selected as exemplars of Japanese poetic ability by the court noble, Fujiwara no Kinto (966-1041) during the mid-Heian period. They include Kakinomoto no Hitomaro, Yamabe no Akahito, Otomo no Yakamochi, three poets represented in the Manyoshu collection, and 33 poets represented in the early-Heian period Kokinshu and Gosenshu collections. Among the latter group were Ki no Tsurayuki, Ariwara no Narihira, and Ono no Komachi. These poets are displayed in 36 individually framed silk paintings in the Suga Jinja Shrine. Each of the paintings mounted around the walls of the main building measure 55 by 37cm. Oka Umpo (1764-1848), a shogun's retainer from Obancho (now Daikyocho) in Yotsuya and well-known artist of the time, painted these portraits. Lettering by the court noble Chigusa Arikoto (1797-1854) accompany them. They were completed in 1836 and donated to the shrine. This set of cultural treasures is a sign of the prosperity of the community whose faith supported this tutelary shrine.




女坂は須賀神社の境内から妙光寺入口に向かって下る階段です。途中に広い踊り場があり、クランク状に曲がっています。

98.須賀神社女坂

須賀神社女坂は長さが約25mほどの比較的幅の広い階段です。途中の踊り場で上下の階段が分断され、食い違いの坂になっています。他の神社と同様に、傾斜のきつい主参道の坂を男坂と呼ぶのに対して、傾斜のゆるい坂は女坂と呼ばれています。須賀神社の男坂と女坂は坂の長さも高低差もほとんど同じですが、男坂が直線であるのに対して、女坂は途中の踊り場でクランク状に折れていますので、その分楽に上れます。



東福院坂(天王坂)は須賀神社男坂の先から四谷小学校に上がる急坂です。東福院坂も「君の名は」に出てくる坂です。東福院坂が登場するのは映画のラストシーンで、三葉が東福院坂を走って上っていく様子が描かれています。山奥育ちなので駆け上がれたのでしょうけど、都会の人間には無理な急勾配の坂です。



それにしても、東福院は民家と見間違えそうに小さなお寺ですね。



99.東福院坂

東福院坂は長さが約80mほどのやや急な坂で、別名を天王坂・須賀坂といいます。坂名は、坂の途中にある東福院というお寺に因んでいます。坂下と坂上に案内柱が立っています。坂上と坂下で文言が微妙に違っています。

【坂下】東福院坂(天王坂)

坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたためこの辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。

【坂上】東福院坂

坂の途中にある東福院にちなんでこう呼ばれた。別名は天王坂。江戸時代に須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたため、このあたりが天王横町と呼ばれていたことによる。




東福院坂の中程に愛染院というお寺があります。墓地には、新宿区の散歩道「@新宿御苑から新宿の発祥内藤新宿をめぐる」でも登場した、浅草阿部川町の名主喜兵衛(のちの高松喜六)のお墓があります。世の中狭いもんですねぇ。お寺の門前に、高松喜六と塙保己一について記した案内板が立っています。

新宿区指定史跡 高松喜六の墓

内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄十年(1697年)に同志四人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。喜六は正徳三年(1713年)八月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。

新宿区指定史跡 塙保己一の墓

「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享三年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。姓は荻野、幼名は辰之助といった。五歳で病にかかり、七歳で失明したが、十三歳のとき江戸に出て雨富(検校:平安時代・鎌倉時代に置かれた荘官で、社寺や荘園の監督役職名です。室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称と定着しました。)須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明三年(1783年)に検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけたが、寛政五年(1793年)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。文政二年(1819年)に「群書類従」を完成させ、同四年には惣検校となったが、同年九月に「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年七十六歳であった。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが、明治三十一年(1898年)に廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。




観音坂は四谷小学校の東南端から南に入り、蓮乗院と西念寺の間から南西に下る急な坂です。観音坂も「君の名は」に登場します。三葉がやっとの思いで四ツ谷に辿り着き、瀧くんを探すのですが、坂道を上ったり下ったりする中で観音坂も通っています。



100.観音坂

観音坂は長さが約85mほどの急な坂で、坂名は蓮乗院の南隣にある真成院に「潮踏観音」があり、坂名はこれに因んでいます。別名は、西念寺坂・潮踏坂・潮干坂といいます。坂下に案内柱が立っています。

観音坂

西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた。




戒行寺坂も「君の名は」に出てきます。

101.戒行寺坂

戒行寺坂は長さが約120mほどのかなり急な坂で、別名を油揚坂といいます。坂名は、坂上の北側に面している戒行寺の名前に因んでいます。坂下と坂上に案内柱が立っています。

戒行寺坂

戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(「御府内備考」)。別名「油揚坂」ともいわれる。これは昔、坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚げをつくっていたから、こう呼ばれたという(「新撰東京名所図会」)。




戒行寺は、文禄四年(1595年)に玉泉院日養によって開山された日蓮宗のお寺です。元々は現在の千代田区麹町に位置していましたが、江戸城の拡張工事のため、寛永十一年(1634年)に現在地に移転しました。一説には、現在地に移転したのは明暦年間(1655年〜1658年)とするものもあります。かつては墓地に一宮藩藩主家の加納家を始め、多くの旗本御家人諸家の墓があり、典型的な武家寺でした。明治以降は士族の没落もあって寺運が衰微し、無縁仏化した家もあったそうです。現在、墓地は杉並区に移転しましたが、長谷川平蔵宣以の供養碑は今も此の地に残っています。



須賀町や若葉町には多くのお寺が集まっています。南端に位置する宗福寺もそのひとつです。宗福寺の墓地には、刀工の源清麿のお墓があります。

新宿区指定史跡 源清麿の墓

江戸時代後期の刀工の名匠・源清麿は、本名を山浦環といい、文化十年(1813年)信濃国小諸の赤岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。はじめは、上田の刀工・河村寿隆について鍛冶を学び、天保六年(1835年)江戸に出て、幕臣・窪田清音のもとで兵学を学ぶが、刀工として評価した清音の好意でその屋敷内に鍛冶場を設け、刀工として活動した。その後、四谷北伊賀町(現在の四谷三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、清音から一字をもらい源清麿と称した。新々刀(江戸後時代期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830年〜1848年)に活躍し、水心子正秀・大慶直胤とともに江戸三作と称された。また、四谷に住んだことから「四谷正宗」の異名をとった。嘉永七年(1854年)十一月十四日、四十二歳で自害した。源清麿の墓と並んで、水心子正秀らの墓碑も建っている。本所の西光寺に営まれたこの墓は、火災や関東大震災で焼損したものを昭和四十年(1965年)宗福寺境内で再興したものである。




松雪山西應寺は、周桂和尚が麹町貝塚夫婦坂に慶長十二年(1607年)に創建し、江戸城外堀建造に伴い寛永十二年(1635年)に四谷須賀町に移転しました。山号は、徳川家康が西應寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいているさまを見て松雪山とするよう命名したとされています。



西應寺には幕末の剣客であった榊原健吉のお墓があります。添えられている写真を見ますと、断髪したようにも見えますが。。。また、梵鐘は太平洋戦争中の金属供出を逃れ、江戸時代の姿を残しているとのことです。境内を見渡しましたが、梵鐘堂は見えませんでした。本堂の裏にあるのかな?

新宿区指定文化財・史跡 榊原健吉の墓

幕末から明治にかけて活躍した剣客榊原健吉は、天保元年(1830年)江戸の麻布広尾に生まれた。十二歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷信友に入門し、嘉永二年(1849年)に免許をうける。安政三年(1856年)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久二年(1862年)には師範に昇進、元治元年(1864年)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。慶応二年(1866年)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868年)八月徳川家達に従って静岡に移住した。その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治六年(1873年)撃剣会を発足させ、明治維新後に衰退した剣術の再興と普及に努めた。明治二十七年(1894年)九月十一日死去したが、亡くなるまで髷を切らず、最後の剣客と称された。

新宿区登録有形文化財・工芸品 西應寺の梵鐘

西應寺の第四世住職恵白の発願により、正徳二年(1712年)に鋳造された銅造の梵鐘である。高さ130.5センチ・口径70.3センチで、江戸鋳物師小沼播磨守藤原長政が製作した。全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされている。また銘文からは、梵鐘鋳造の由来や670名に及ぶ寄進者の名を知ることができ、地域史料としての価値も高いといえる。区内の江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重である。




永心寺と松嚴寺の間から南方向に下る狭い急坂があります。

102.闇坂

闇坂は「くらやみざか」と読み、長さが約75mほどの急な下り坂です。坂の左右に寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったことが坂名の由来になっています。別名を乞食坂・茶の木坂といいますが、別名の茶の木坂は松厳寺の俗称が茶の木寺であったことに因みます。新宿区内にはこの坂の他にも愛住町に「暗坂(くらやみざか)」があり、他の区にも同じ読み方の坂が多数あります。昔は街灯もなく、両側に樹木が生い茂った薄暗い坂道が多かったのでしょう。

闇坂

この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという。(「御府内備考」)。




戒行寺坂下の先に、東方向に上がる緩やかな坂があります。



103.鉄砲坂

鉄砲坂は長さが約80mほどの緩やかな坂で、別名を稲荷坂といいます。江戸時代にこのあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったためにこの坂名が付きました。

鉄砲坂

江戸時代、このあたりに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったためこう呼ばれるようになった。また、それ以前は、この地に鈴振稲荷(現在は港区赤坂五の一)という稲荷社があったことから、稲荷坂と呼ばれていたという。




JR中央線の手前から高架に沿って坂道が上がっています。

104.出羽坂

出羽坂は長さが約150mほどの急坂で、“く”の字に曲がりながら上っています。坂上に旧松江藩主(出羽守)であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、この坂名になりました。坂名の由来となった松平邸跡は、現在では大きなマンションを含む高級住宅街になっています。坂下と坂の途中の曲がり角に案内柱が立っています。

出羽坂

明治維新後、この坂上に松平伯爵(旧松江藩主松平出羽守家)の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになったという。当時は修徳園という庭園があったが、戦後売却され姿を消した。




CBSソニースタジオの東側を南方向に下る急な坂があります。坂下は中央線の高架下トンネルになっています。



105.新助坂

新助坂は長さが約90mほどの急坂で、坂名は昔このあたりに新助という人が住んでいたことに因んでいます。

新助坂

「新撰東京名所図会」には、「新助坂は四谷東信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治三十年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。




JR信濃町駅から一行院の横を通って千日谷に下る坂があります。高速道路(出入口)の下を通り、緩く“く”の字状に曲がっています。



坂道の脇には千日谷会堂という、一行院千日寺の立派な建物があります。



106.千日坂

千日坂は長さが約100mほどの急な坂で、別名を新千日坂といいます。坂下に千日寺があり、千日谷と呼ばれていたことが坂名の由来になっています。坂下に案内柱が立っています。

千日坂

この坂道の下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた(「紫の一本」)。 坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られたいわば新千日坂である。




権田原交差点の角に、明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館があります。建物は明治初頭に建てられた赤坂仮御所の別殿で、ここで大日本帝国憲法や皇室典範の草案審議の御前会議が行われました。その後、この建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築されました。伊藤の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となりました。昭和二十二年(1947年)11月1日に、リコーグループの創始者である市村清の主導で憲法記念館を「明治記念館」として開館しました。現在は、結婚式の会場のほか、宴会場・会議施設としても利用でき、レストラン等も併設されています。



権田原交差点から赤坂御所の西端に沿って北東方向に広い道路が延びています。



安鎮坂は赤坂御用地(東宮御所)に接する北西側の坂道です。南西端は明治記念館横の権田原交差点で、北東端は南元町交差点付近までとなります。この辺りは区境が入り組んでいますが、この坂の西側と南側が港区、北側が新宿区となります。

107.安鎮坂

安鎮坂(あんちんざか)は長さが約320mほどの緩やかな坂で、別名を権田原坂といいます。坂名は、付近に安鎮(安珍)大権現の小社があったことに因んでいます。坂の途中にある仙洞御所正門の向い側に案内柱が立っています。

安鎮坂

あんちんざか。付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。




安鎮坂下から赤坂御用地と学習院初等科の間を通りJR四谷駅方向に上る坂があります。坂の西側には、みなみもと町公園があります。ちなみに、出羽坂の先に「もと町公園」があり、私はふたつの公園を混同してしまい、薬缶坂を探して1時間ほど急坂の続く信濃町界隈を歩き回りました。



108.鮫河橋坂

鮫河橋坂は長さが約200mほどの緩やかな上り坂で、江戸時代にこの付近に湧き水があって鮫河が流れ、ここに鮫河橋が架かっていたことが坂名の由来になりました。この坂には案内柱はありませんが、坂の途中にある「みなもと町公園」の前に公園の由来を書いた説明板が立っていて、そこに坂名の経緯が書かれています。

鮫河橋坂

みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の大地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋(さめがはし)と呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。




みなみもと町公園の北側に沿って、鮫河橋坂の途中から西に入り、JR中央線の跨線橋に至る緩やかな上り坂があります。

109.薬缶坂

薬缶坂は長さが約65mほどの緩やかな坂で、別名を薬罐坂といいます。昔はかなりの急坂であったと記録されていますが、鉄道敷設に伴ってこの坂道の位置・方向・勾配が変わりました。坂名の由来には3通りあります。
  1. 雨が降った後に野草などが流れ出し、朝日を受けて坂一面を覆っていた赤土が銅ヤカンの色に似ていたこと。
  2. 坂下の近くにヤカン職人が住んでいたこと。
  3. 坂下に岡場所(江戸時代に非公認の私娼屋が集まった遊郭のこと)があったこと(江戸時代に下級私娼をヤカンといいました)。



四谷といえば、学習院初等科ですね。校舎のデザインも公立学校の実用一辺倒の建物と違って垢抜けています。現在の本館は上皇明仁親王が入学する際に建設されました。太平洋戦争の直前だったために身を守るための地下室も設置され、その頃では珍しいコンクリート製の建物になっていました。ランドセルを初めて導入したことでも知られ、卒業生には皇族・元皇族・政治家・学者・実業家など多様な人材を輩出しています。オノ・ヨーコさんも中退ですが、学習院に通っていたそうです。名家の出身ですからね。



四谷中学校の敷地の南側に沿って四谷見附公園があります。大正十年(1921年)に「赤坂離宮前記念公園」として当時の東京市に委託管理・開園されましたが、後に新宿区の公園として「四谷見附公園」と改称されました。公園の中央と北側には2本のプラタナスの樹が空高く枝を広げています。中央の樹は、幹周り4.8m・高さは32mあり、巨木の多い新宿の公園の中でも最大のものです。

プラタナス 新宿区立四谷見附公園

公園の中央部に植わるこの木は、新宿区立公園で最も大きい木です。この公園が大正時代に赤坂離宮前記念公園として開園したころからあった木だと言われています。新宿区は平成六年に区民の誰もが親しみをもてる木として「みどりの新宿30選」に選定しました。和名の「スズカケノキ」は、実の形が山伏(山に籠って修行する人)の着る鈴懸にある房と似ていることや、実の様子がまるで鈴がぶら下がっているように見えることに由来するとされています。




ゴール地点の四ツ谷駅に着きました。



ということで、新宿区で最後の「四谷・信濃町コース」を巡り終えました。四谷は「四つの谷」と書くだけあって、街中が坂だらけでした。地図で見ると平坦に見えますが、3D地図ならそのデコボコさが実感できるでしょう。新宿区には多くの坂道がありましたが、どれも特色があって面白かったです。新宿で109もの坂を巡りましたので、骨休めに次は坂のない墨田区と江東区を巡ります。全部で5つの坂が登録されていますが、そのうちの4つの坂は人工の階段です。ちょっと面白みに欠けそうですが。





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