江東区(住吉コース)
踏破記
墨田区に引き続いて江東区の坂道を巡ります。江東区で登録された坂道は足立区と同じく23区の中で最小の僅か2ケ所です。しかも2ケ所とも人工の坂(階段)になっています。どちらも江東公会堂(ティアラこうとう)構内の地上から地下広場に下りる階段で、お互いに向かい合っています。あっという間に踏破できます。
江東区は、昭和二十二年(1947年)に旧深川区と旧城東区が合併して誕生しました。区名は隅田川の東に位置することに因んでいます。隅田川と荒川にはさまれた江東デルタの南部を占め、南側は東京湾に面しています。現在の江東区の区域は、かって海面と散在する小島があるだけでした。江戸時代に入ると埋め立てられて新田開発が進み、特に深川地区は1657年に起きた明暦の大火後に江戸幕府の開発によって武家屋敷や社寺が移されて発展し、富岡八幡宮や深川不動堂は賑わいを見せました。城東地区も農地として栄え、江戸近郊の行楽地としても知られました。明治以後は、広い土地と水運を活用していち早く工業化し、大・中工場や住宅、商店街が混在するようになりました。江東区の地域は元々低地だったことに加え、長年の南関東ガス田の開発に伴う地下水の汲み上げによって地盤沈下しました。そのため、区の大部分がゼロメートル地帯、または海面より低い海抜マイナス地帯となっています。例えば、南砂町付近では海抜マイナス3メートルにも及びます。坂道が少ない訳です。
江東区の坂道は両方とも江東公会堂の構内にありますので都営地下鉄新宿線の住吉駅を利用するのが便利なのですが、それではあまりに近過ぎます。なので、JR錦糸町駅から歩いて行くことにします。
錦糸町は今でこそ下町の大人の繁華街となって賑わっていますが、明治時代には牧場もある長閑な東京の郊外でした。駅前に伊藤左千夫が営んでいた牧舎の案内板が立っています。
伊藤左千夫牧舎兼住居跡
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864年)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(1885年)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想「家庭小言」には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌「馬酔木」を創刊。明治四十一年には後継誌「阿羅々木」(のちに「アララギ」と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある「野菊の墓」が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文「水害雑録」には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(1913年)七月三十日五十歳で没しました。隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(1983年)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
よき日には
庭にゆさぶり
雨の日は
家とよもして
児等が遊ぶも
左千夫
四ツ目通りを南方向に進み、樫川を越えて住吉二丁目交差点で左折し、新大橋通りに入ります。江東公会堂は猿江恩賜公園と新大橋通りを挟んだ南側に位置し、横十間川に面した広大な敷地内にあります。猿江恩賜公園は1932年に開園し、昔から江東南部の貴重な緑地として周辺住民に知られていました。此の地は、元々は江戸時代から続く貯木場でした。明治維新後は政府御用達の貯木場となり、その後埋め立てられて公園になりました。「恩賜」とは、君主から臣下などに対して、これまでの忠節や功労に感謝するために与える物品やその行為を指します。現在の日本では、単に「恩賜」と言えば天皇から賜ったものを指します。
- 1.ドレミ坂
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ドレミ坂は、江東公会堂構内の北東側にある長さが約20mほどの緩やかで幅の広い下り階段です。
坂の側壁に坂名を記したプレートがあり、「ドレミ坂 Named by Mai Shimamura」と記されています。ドレミ坂の坂名の命名者のようですが、詳細は分かりません。
ドレミ坂に向かい合ってもうひとつの階段が上っています。こちらはドレミ坂よりは幅が狭いですね。
- 2.ピッコロ坂
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ピッコロ坂は、江東公会堂構内の南東側にある長さが約20mほどの緩やかな階段です。
坂の側壁に坂名を記したプレートがあり、「ピッコロ坂 Named by Sayoko Ishizuka」と記されています。ピッコロ坂の坂名の命名者のようですが、詳細は分かりません。
帰りも行きと同じ道筋を辿って錦糸町駅に戻ってきました。
ということで、江東区の坂道を歩き終えました。あまり坂道を巡ったという感じはしないのですが、初めて江東公会堂の施設が見れて良かったです。
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