品川区(目黒・西五反田・西小山コース)
踏破記
江東区の次はどの区にしようかと考えたのですが、踏破記を書くのが捗ってきましたので、東京では古くから開けた品川区を選びました。品川区の坂道は全部で27ケ所あり、区全体にばらけています。一筆書きで巡るのは難しそうですが、なるべく効率的に歩いていきたいと思います。
品川区は、昭和二十二年(1947年)に旧品川区と旧荏原区が合併して発足しました。品川区の西側は山の手台地になり、東側は東京湾に面しています。山の手台地には、目黒川の北に芝白金台、目黒川と立会川の間に目黒台、立会川の南に荏原台があり、どれも武蔵野台地の末端になります。東京湾に面した地域には、天王洲・東品川・八潮などの埋立によって造成された土地が広がっています。このため、低地から台地に上る坂が多くあります。
今回は品川区の坂道を幾つかの区域に分けて、北側から西側、そして東側の順に巡っていきたいと思います。最初は目黒・西五反田・西小山コースです。目黒というと目黒区のように思えますが、実際は品川区に属する地域もあって、地名と区名は必ずしも一致しません。例えば、目黒区の表玄関であるJR目黒駅は品川区上大崎二丁目に位置しています。
目黒駅西口からスタートします。
権之助坂の左手に、いきなり急傾斜の下り坂が見えてきます。坂上は品川区で坂下は目黒区になります。坂の途中に芸能プロダクションのホリプロの本社ビルが建っています。ホリプロは、1960年5月に堀プロダクションとして設立され、設立初期は「僕は泣いちっち」や「有難や節」でヒットを飛ばした守屋浩を売り出していました。ホリプロダクションに改名後は舟木一夫、ザ・スパイダース、ザ・ヴィレッジ・シンガーズ、オックスなどが活躍する一方で、映画監督の大林宣彦を起用して丹頂が社運を賭けて発売したチャールズ・ブロンソンが出演したことで知られる「マンダム」のCMを制作するなど、小規模ながらも芸能事務所として知られるようになっていきました。1970年代前半には、井上陽水などフォーク系のアーティストなどを扱う部門を設けました。1970年代中頃から後半は、主に山口百恵や石川さゆりや森昌子らの活躍によって、最大のライバル事務所だったナベプロ(渡辺プロダクション)に次ぐ勢力となりました。社名を冠した「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を開催し、榊原郁恵なども発掘しています。近年は、YouTubeやU−NEXTなどの新分野にも進出しています。
坂の中腹に案内板が立っています。高い建物がなかった江戸時代には、坂上からの眺望が素晴らしかったことでしょう。
富士見茶屋と夕日の岡
江戸時代、この辺りに「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な富士の眺めを楽しんだ。また、坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、夕日の岡と呼ばれていた。
- 1.行人坂
-
行人坂は長さが約210mほどあり、目黒駅の西口から大円寺の前を通って目黒雅叙園に下る傾斜のきつい坂です。行人坂の坂名の由来は、寛永年間にこのあたりに巣食う不良の輩を追い払うために、徳川家は高僧大海法師を勧請してお寺を開山しました。その後、不良の輩は一掃され、その功績でお寺には「大円寺」の号が与えられました。当時その寺には「行人(修行僧)」が多く住んでいましたので、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになりました。大円寺脇の御堂の横に金属製の案内板が置かれています。
行人坂
寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。
御堂には菩薩像が祀られています。目黒川に橋を架けた際の供養で造立されたのだそうです。
目K川架橋供養勢至菩薩石像
目黒区指定有形文化財(歴史資料)
小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190cmで、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。銘文は宝永元年(1704年)のもので、西運という僧が目黒不動尊と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋(現在の太鼓橋)を架けたということが書かれています。目黒川架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。
大円寺は、寛永年間(1624年〜1644年)に湯殿山修験道の行者大海が創建したと伝えられています。明和九年(1772年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、幕府から再建の許可がなかなか得られませんでした。江戸時代後期の嘉永元年(1848年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建されました。大円寺の正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたることから徳川家康をモデルにした「大黒天」が祀られ、「江戸の三大黒天」として崇拝されています。大黒天は七福神のひとつで、狩衣に似た服を着て大黒頭巾をかぶり、左肩に大袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵の上に座る神様です。ご利益には、五穀豊穣・子孫愛育・出世開運・商売繁盛などがあります。
大円寺(天台宗)
この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。本寺には、”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。明和九年(1772年)2月本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百や(屋)お七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。
本堂の左手に夥しい数の石仏が並んでいます。「大円寺石仏群」と呼ばれ、これらの石仏は「明和の大火」による焼死者を供養するために天明年間(1781年〜1788年)に造られました。明和の大火とは、明和九年(1772年)2月に大円寺から出火し、江戸市中の三分の一にあたる628町に延焼し、一万四千人もの焼死者を出した江戸の三大火事のひとつで、「目黒行人坂の火事」ともよばれています。ちなみに、残りのふつの火事は、「明暦の大火」と「文化の大火」です。明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれ、とある振袖を持っていた人が病気でバタバタと倒れて亡くなっていたので、怨霊がいると思った本妙寺の住職が振袖を燃やして供養した時に炎が風によって家に燃え移り火事となったといわれています。この火事によって江戸城の天守閣も焼失しました。文化の大火は文化三年(1806年)に芝車町(現在の港区)から出火し、風によって京橋・日本橋・上野方面を焼き払い、1200人の死者を出した大火です。この火事は、「牛町火事」や「車町火事」とも言われています。「天和の大火(八百屋お七の放火の原因となった火事)」は三大火事には入っていないんですね。
東京都指定有形文化財(歴史資料)
大円寺石仏群
明和九年(1772年)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦三年(1657年)の振袖火事、文化三年(1806年)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに数えられている。「新編武蔵風土記稿」には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建
立されたと記されている。大円寺境内の北東側斜面に、520躯(身に區)の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝暦十三年(1763年)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1781年)以降の造立と思われる。嘉永元年(1848年)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。像高は、釈迦三尊像が147cm〜155cm、十大弟子像が55cm〜126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後。判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。
Tangible cultural property (Historical Material)
Daienji Sekibutsu Gun
In 1772 there was a great fire that burnt the city center of Edo and the fire was speculated to start in Daienji Temple. It is called "the fire of Gyoninzaka" which is one of three major fires of Edo (the others are the fire of Furisode in 1657 and the fire of Kuruma-cho in 1806). According to "Shinpen Musashi Fudo Kiko (a topography written around 1804 to 1829)", the statues of five hundred Arhats were built for victims of the Fire of Gyoninzaka. Along the slope at the northeast side of the Daienji Temple, 520 stone statues are enshrined. The statues of 10 Chief Disciples and the statues of 16 Arhats surround the statues of Shaka Nyorai with the statues of Monju Bosatsu on the left and Fugen Bosatsu on the right. Behind those statues, 491 statues of Arhats are lined up. There is an inscription of 1763 as the year of construction on some of 500 Arhats, but most of the statues were put up after 1781, which is the year inscribed on the statue of Syaka Nyorai. It is considered that these stone statues of Buddha were enshrined at the current location when Daienji Temple was rebuilt in 1848. The statues of Shaka Sanzon (three main statues) are from 147 to 155cm in height and the statues of 10 Chief Disciples are from 55cm to 126cm in height. The statues of 16 Arhats are 95cm in height, the statues of 500 Arhats about 37cm in height. According to the inscription that could be deciphered, these statues were built also for victims other than those in the Fire of Gyoninzaka. In addition, donations were widely
solicited and the current stone statues of Buddha had been gradually made. These statues are a valuable source to know the history of disasters in Edo period.
大円寺石仏群の手前に、顔や手が溶けたようなお地蔵さまが鎮座しています。このお地蔵さまは江戸時代に品川沖の海で漁師の網にかかって引き上げられ、大円寺に持ち込まれました。しかし、目黒行人坂の火事によって高熱で溶けてしまい、「とろけ地蔵」と呼ばれています。そのお姿から「ぐっちゃぐちゃにとろけてもなお残り続けるお地蔵さまにあやかって、悩み事をとろけさせてくれるとか、どんな過酷な状況でも生きていける力が宿る」ありがたいお地蔵様として参拝客が願掛けに訪れています。ちなみに、石柱の上に付いている滑車のようなものは「摩尼車(まにぐるま)」です。摩尼車はチベット発祥の仏具で、転経器とも呼ばれます。心を込めて一度回すと、摩尼車に書かれている経文を一回読むことと同じ功徳があるといわれています。
とろけ地蔵尊
江戸時代、品川沖で漁師の網にかかって出現された地蔵尊です。庶民の悩みを解消して下さる信仰が有ります。
本堂左手の釈迦堂には、建久四年(1193年)に作られた大円寺のご本尊で京都清凉寺の三国伝来の釈迦如来を模刻した「清凉寺式釈迦如来像(寄木造り・高さ162.8cm)」が安置されています。昭和三十二年に国の重要文化財に指定されました。
釈迦如来立像(国・重要文化財)
本尊は、京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本尊(国宝)は、東大寺の僧が寛和二年(986年)に中国から請来したもので、請来当初から摂関藤原兼家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。両耳孔には水晶珠をはめ込み、頸際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って截金線が入っているなど他の像に比べて全てが細かに模されています。昭和三十二年(1957年)に行われた解体修理の際、胎内から白銅製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久四年(1193年)に制作されたとされます。原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。
(ばく:梵字)釈迦如来ご真言
おん。さるばしちけい。びしゅだらに。そわか。
Shaka Nyorai (Budha)
The statue is a replica of the statue of the Standing Shaka Nyorai (Budha) in Seiryou-ji, Saga part of Kyoto. The original statue at Seiryo-ji (a national treasure) was brought from China in 986 by the Buddhisim priest Chonen from Todai-ji, Nara. Among the replicas in the Seiryo-ji style, the statue in Daien-ji resembles the original one. A gem is fitted into his hair. His robe is carved in concentric rings. At the time the statue was made. Kirikane (traditional decorative technique using gold foil) line patterns were along the rings. This replica has the most details. When this statue was taken apart and repaired in 1957, a mirror, women's hair, pieces of paper and wooden tags were found inside. According to the inscription on those articles, it was found that this statue was made in 1193.
The carving work on this statue is as elegant as the original one. It is a valuable cultural properties which has proof of when it was made.
本堂の右隣りには「阿弥陀堂」があります。阿弥陀三尊とと共に、お七地蔵が祀られています。お七は恋人に会いたい一心で放火して火あぶりの刑にされた女性で、悲恋の物語「八百屋お七」の主人公として語り継がれています。
木造阿弥陀三尊像
中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立て、勢至像は合掌し右膝を立てた典形的な来迎形の阿弥陀三尊像であるが中尊が半跏座の姿をとる例は少なく珍しい三尊形式である。三尊とも江戸時代の典形的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれも小じんまりとしているのに対し気宇広大な特色を持っている。また、両脇侍像蓮台の木札に明和七年(1770年)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。
大円寺は八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもあります。吉三とは歌舞伎や芝居などで知られる八百屋お七が恋した寺小姓です。吉三に逢いたいあまり自宅に火を放ってしまったお七は放火の罪で火刑に処されてしまいます。お七の処刑後、出家した吉三は西運と名を改め、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せると、明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動と浅草観音までの往復十里の道のりを念仏を唱えながら通うという一万日の行を発願しました。雨の日も風の日も、首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参し、27年5か月をかけてこれを成し遂げました。その夜に西運の夢枕にお七が現れます。その時の姿を模したのがお七地蔵で、明治初めごろ廃寺になって大円寺に吸収された明王院から仏像などと共に移され、阿弥陀堂の中に阿弥陀三尊と共に安置されています。ちなみにお七のお墓は文京区にある円乗寺に、お七の苦しみを代受苦としてその身に受けているほうろく地蔵は文京区の大円寺にあります。西運に深い関心を持っていた大円寺の住職であった福田実衍師は、昭和十八年に大円寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらいましたが、その一部が木枯らし吹きすさぶ中を念仏鉦を力一杯たたき念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑となり、境内に建っています。
八百屋お七と吉三(西運)
江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和二年(1682年)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。しかし、短い避難生活のこと、やがて離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。
(か:梵字)地蔵菩薩ご真言
おん。かかか。びさんまえい。そわか。
Oshichi and Kichiza (Saiun)
At the time of the big fire of 1682 (Tenwa 2, Edo-era), Oshichi, a daughter of vegetable shop owner, took refuge at a nearby temple called Enrinji. There she fell in love with a temple page, Kichiza. At the time, Oshichi was 16, Kichiza was 18.
When her refuge life ended she became separated from Kichiza. Upset, Oshichi set fire to her own house, thinking that she would be able to see Kichiza again. Even though the fire was small, arson was a serious crime at that time. Oshichi was dragged through the town and burned at the stake, at the Suzugamori execution ground (Ooi, Shinagawa Ward). After this, Kichiza shaved his head and changed his name to Saiun, and went on a chanting pilgrimage to pray for Oshichi. Upon returning to Edo (Tokyo), Saiun deified Amida Sanzon (Amitabha triad), at Myo-ou-in temple (currently Gajoen, located at the bottom of the hill from Daien-ji) and Saiun started ascetic practice of visiting the temple every other day for 10,000 days, (Kakuyanissan Ichimannichi gyo), during which he walked from Myo-ou-in in Meguro to Sensou-ji in Asakusa. It was approx 40km round trip, he did this while beating a gong, no matter what the weather was. It took him 27 years and 5 months to complete this practice. On the night of completion, Oshichi appeared in his dream and told him that she was now resting in peace. Her image from this dream was made into a statue called Oshichi-zou. Today you can see it in the building called Amida-dou at Daien-ji.
境内の一画に、西運が目黒川に架けた雁歯橋(太鼓橋)の石材が残されています。
目黒川の太鼓橋に使用された石材
八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改め、お七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした。
行人坂に石畳を敷いた際に建立された際の供養碑も残されています。
行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財)
この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)のキリーク(阿弥陀如来)、サ(観音菩薩)、サク(勢至菩薩)が刻まれています。下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄十六年(1703年)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。(一部改変しました)
行人坂下の左手には広大な敷地のホテル雅叙園東京があります。同じ敷地に建つアルコタワーは雅叙園のシンボル的建物です。雅叙園は明治十三年まで此の地にあった明王院の敷地跡の一部を占めています。
雅叙園の入口脇に、「お七の井戸のシダレザクラ」と呼ばれている一本の桜の木が植えられています。樹高は7メートル・枝張りは6メートル・幹周りは1メートルの八重紅枝垂れ桜で、しだれ桜の中でも特に人気の高いエドヒガン系の品種です。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられています。
お七の井戸
八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺院は、現在のホテル雅叙園東京エントランス付近から庭園に架(か?)け明治十三年(1880年)頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。
雅叙園の敷地の端っこに椎の木の古木が立っています。
椎の木
椎の木はブナ科の広葉常緑樹で、目黒区の木として指定されている。椎の木は浮世絵師歌川(安藤)広重(1797年〜1858年)画の【江戸名所百景−目黒太鼓橋夕日の岡】・安政四年(1857年)中にも描かれている。水と緑に恵まれたここ夕日の岡一帯は、遠く富士の頂をのぞむ美しい自然の名勝として椎の木と共に親しまれてきた。
雅叙園の先で目黒川を渡ります。ここに架かっている太鼓橋を石橋に掛け替えたのは西運でしたね。
太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って宝暦十四年(1764年)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、大正九年(1920年)9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、昭和七年(1932年)架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画に
より平成三年(1991年)11月に完成した。
山手通りから道路が分岐する角に、「松雲羅漢」と台座に書かれた銅像が建っています。その前に解説のプレートを埋め込んだ碑が置かれています。松雲禅師って、筋骨隆々のマッチョな体をしていますね。
松雲羅漢
天恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、五代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに五三六体の羅漢像を彫刻し、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた傑僧である。明治四十二年、下目黒に移転してきたのち寺は荒廃の一途を辿っていたが、多くのかたがたのご協力により、昭和五十六年、由緒ある五百羅漢寺を再建することができた。この再興を記念し、彫刻家佐山道知氏に制作依頼して松雲禅師像を建立し、これを松雲羅漢と名づけて禅師の徳を讃えるものである。
五百羅漢寺の手前に海福寺があります。
海福寺
明から来朝した隠元隆gが万治元年(1658年)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治四十三年(1910年)に現在地へ移転しました。本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。山門の赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化四年(1807年)の深川富岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和三年(1683年)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。
五百羅漢寺は、当初は本所五ツ目(現在の江東区大島)にありましたが、埋め立て地にあったことから度々洪水に見舞われて衰退しました。明治二十年(1887年)に本所区緑町に仮堂を建て、明治四十二年(1909年)に目黒の現在地に移転しました。五百羅漢寺の五百羅漢像は開基の松雲元慶(1648年〜1710年)が独力で彫り上げたものです。松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧の鉄眼道光に師事しました。松雲はある時豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願しました。貞享四年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造りました。羅漢寺の創建は元禄八年(1695年)で、松雲が開基となり、師の鉄眼が開山と位置づけられています。近代以降、寺の衰退時に多くが失われ、羅漢像287体を含む305体が現存しています。
五百羅漢寺
天恩山五百羅漢寺は 元禄八年(1695年)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江東区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治四十一年(1908年)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。本堂および回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊及び五百羅漢等像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。書院屋上にある梵鐘は安永三年(1774年)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。
とあるお寺の壁で蛸が踊っています。「たこの吸い出し」の広告ではありません。「たこ薬師」として知られる成就院の看板です。
成就院(天台宗)
天安二年(858年)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752年〜1815年)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。境内には、徳川二代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、三代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。
本堂の前に石像が何体か並んでいます。
お静地蔵尊・由来記
右 准胝観音・聖観音・十一面観音
中 阿弥陀如来
左 金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長十六年(1611年)に男子「幸松麿」を授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いかない、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の御見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
林試の森公園は、目黒区と品川区にまたがる東西に700m・南北に250mの広大な都立公園です。西ケ原(現在の北区)にあった農商務省林野整理局樹木試験所(明治十一年【1878年】に設立)から、目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、明治三十三年(1900年)6月に「目黒試験苗圃」が設置されました。当時の広さは約45、000坪でした。明治三十八年(1905年)に林野庁「林業試験所」、明治四十三年(1910年)に「林業試験場」と改称されました。また、林業試験場の周辺には明治から大正にかけて多くの研究所が置かれ、戦後にかけても北里研究所目黒支所・津村研究所・石炭綜合研究所・国立予防衛生研究所など、18もの研究所が置かれていました。林業試験場は昭和五十三年(1978年)につくば市に移転し(現在の独立行政法人・森林総合研究所)、跡地は都に払い下げられて公園として整備され、平成元年(1989年)6月1日に「都立林試の森公園」として開園しました。開園時の面積は12ヘクタール(約36、000坪)でした。今でも林業試験場当時の樹木がそのまま残されていて、都内でも屈指のケヤキ・クスノキ・プラタナス・ポプラ・スズカケノキなどの巨木があります。その他、カイノキ・トチュウ・シナユリノキ・チンタオトゲナシニセアカシア・ベニカエデ・ヒマラヤゴヨウ・レバノンスギまどの外国産樹木やアベマキ・ハナガガシ・ニオイドロ・シマサルスベリ・ヨコグラノキ・ナナミノキなどの珍しい木もあり、それぞれに解説のプレートが付けられています。園内で最も太い木は幹周が3.82mのケヤキで、最も高い木は高さ35.5mのポプラの木です。園内中央を南北に小さい谷地形が走っていますが、これはかつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されています。大木の揃った森の他、芝生広場やデイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、西側には野球やサッカーの練習にも使用できるグラウンドも整備されています。春と秋開催の「林試の森フェスタ」ではコンサートやフリーマーケットなどが行われ、2万人以上が来場します。この他にも野外体験教室・樹木観察会・音楽会など年間を通じて数多くのイベントが実施されています。林試の森公園東門の前に緩やかな上り坂があります
- 2.石古坂
-
石古坂は長さが約210mほどで、別名を石河坂といいます。坂名の由来には諸説あり、一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ばれるようになったという説が有力です。他には、近くに「石河(いしこ)」という屋敷があったという説、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼び、付近を流れる羅漢寺川がそうした清流だったという説もあります。東門の前に案内柱が立っています。
石古坂
その昔石ころが多い坂だったので、石古坂と呼ぶようになったといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。
山手通りの「かむろ坂下交差点」から、東急目黒線と並行して南西に上る緩やかな坂道は「かむろ坂通り」と呼ばれています。春になると坂道の両側に植えられた桜並木が品川百景のひとつのお花見の名所となります。
- 3.禿坂
-
禿坂は長さが約460mほどの緩やかな下り坂で、歌舞伎でお馴染みの白井権八と相愛だった遊女小紫が使っていた禿(かむろ)が付近の池に身を投げたことが坂名の由来になっています。「かむろ」は漢字で「禿」と書きますが、これは「はげ」の意味ではなく、江戸時代の高級遊女(吉原などの高級売春婦)の召使いの少女達を指して呼んだ言葉です。「かむろ坂」は、歌舞伎の題目として有名な「浮世柄比翼稲妻」に登場します。江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八は、その後江戸で辻斬り強盗を働き、その罪で延宝七年(1679年)に鈴ケ森刑場において処刑され、目黒の冷法寺に葬られました。江戸で平井権八と恋仲となっていた吉原の三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい、墓前で悲しみのあまり自ら命を絶ちました。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女で遊女小紫が使っていた禿が目黒へと向かい、小紫の死を知りました。その帰り道に此の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを偲んでかむろ坂の名称が付いたといわれています。坂上に案内板が立っています。
禿坂
江戸時代の延宝七年(1679年)、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴ヶ森刑場で処刑され、権八なじみの遊女小紫はこれを悲しんで自害した。このとき、帰りの遅い小紫を探しにきたお付の禿が帰り道でならずものに襲われ、逃げ場を失い桐ヶ谷の二ツ池に身を投げたという。これをあわれんだ近くの人が、なきがらを池の傍らの丘に葬り、その後、この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂を禿坂と呼ぶようになったと伝えられている。
In 1679 (Edo Period) HIRAI (SHIRAI) Gonpachi, the ex-samurai warrior of Tottori Feudal Clan, was executed in Suzugamori for many street murders and robberies. Due to his death, HIRAI's intimate Yujo* Komurasaki killed herself with sorrow. At that time, Komurasaki's Kamuro* was looking for her but she got attacked by outlaws and
threw herself into Futatsuike Pond near Kirigaya at last. People who sympathized with Kamuro buried her body in the hill by the pond and nowadays, the hill is known as Kamuro-yama and the slope leading to the hill is known as Kamuro-zaka.
*1 Yujo......a prostitute
*2 Kamuro....a(n?) attendant
坂の途中に小さな「かむろ坂公園」があります。平成元年に開園した比較的新しい公園で、遊具もトイレも綺麗です。
歩道の脇に少女2人の銅像が建っています。「優姫」というタイトルが付いていますが、どう見ても小紫と禿には見えませんね。隣にかむろ坂の由来を記した案内板が立っています。
かむろ坂の由来
今から三百年ほど前、数々の悪事を重ねた鳥取の武士、平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られて葬られました。権八と相愛であった吉原の三浦屋のおいらん「小紫」は、それを知ると目黒へ急ぎ権八の墓前で自害しました。小紫の帰りを心配した三浦屋の主人は、小紫の可愛がっていた半玉(おいらんの下で働く少女は、おかっぱのような髪形をしていたところから「かむろ」とよばれていました)を迎えに出しました。「かむろ」は、冷心寺で小紫の死を知ることとなります。泣きながらの帰途桐ヶ谷近くにさしかかったとき、突然暴徒に襲われ逃げきれず、目の前にあった「二ツ池」に飛び込み死んでしまいました。この様子を見ていた村人は、「かむろ」を哀れに思い丘の中腹に葬り、「かむろ塚」と呼んでいましたが、その後、丘を「かむろ山」池を「かむろが池」と呼ぶようになったということです。都市化とともに付近の様子も変わり、残されたこの坂道が「かむろ坂」と呼び残されています。
中原街道が第二京浜国道と分岐する地点から首都高目黒線の荏原ランプ付近まで、緩やかな坂が上っています。
- 4.桐ケ谷坂
-
桐ケ谷坂は長さが約350mほどの坂で、昔この辺りが「桐ヶ谷村」だったことから坂名が付いたといわれています。かっては旧中原街道上にあった坂でしたが、区画整理によって坂名が現在の中原街道に移りました。つまり、坂の位置は変わったのですが、坂名はそのまま引き継いだということです。荏原ランプの手前に案内板が立っています。
桐ケ谷坂
桐ヶ谷坂は、もと江戸時代の中原道(旧中原街道)の坂を呼んでいたが、昭和初年の区画整理によって現在の中原街道ができたために、坂名もこちらに移ってきた。昔このあたりは桐の木が多くあった土地で、また霧の深い谷地であったために、桐ヶ谷と呼ばれるようになったと伝えられている。地名からこの名称がつけられた。
Kirigayazaka-Slope
This slope's name "Kirigaya-zaka" comes from both "Poulownia trees" and "Foggy valley", because "Kiri" means both "Poulownia" and "Fog".
今日は桐ケ谷坂で歩きを終えようかと思ったのですが、次の坂まで距離がありますので、明日の負担を軽くするために頑張って次の坂の最寄り駅まで行こうと思います。第二京浜(国道1号)から荏原文化センター通りを経由して中原街道と交差し、立会道路に入ります。
そのまま西小山駅まで行こうとしたのですが、地図をみますと左手の坂道の上から次に行く予定の坂があることが分かりました。なので、そちらを経由して西小山駅に行くことにしました。後で分かったことですが、左手に上る坂は八幡坂で、これも訪れる予定の坂でした。
- 5.江戸見坂
-
江戸見坂は長さが約120mほどのやや急な坂で、かつて坂上から江戸市中が見渡せたためこの坂名が付いたといわれています。現在は建物に邪魔されて眺望はそれほどでもありませんが。
坂下に案内板が立っています。
江戸見坂
この付近は品川区内でも一番標高の高いところで、明治時代初期に最初の近代的地図を作る際には小山八幡神社に三角点が置かれました。標高35.88mを測る神社は北東を向き、石段の上からは品川沖の海と江戸市中が一望できました。この江戸見坂は集落の中にあり、地域の人たちは坂上から、武蔵野と、その東に筑波山を背に広がる百万都市江戸の威容に日々接したことでしょう。
Edomizaka-Slope
The Edo-mi-zaka is a slope that you could see through the Edo city which was the old name of Tokyo until mid-19th century. This area is the highest elevation in
Shinagawa City. When the modern Japan made a first map, they set up a triangulation point at Koyama Hachiman Shrine. The elevation of the shrine where facing the northwest is 35.88m. And from the shrine, you could have viewed Edo and the sea which spreads to the east of Edo. The Edo-mi-zaka was located at the center of the village. From the top of this slope, people in the village seem to have watched Edo which was the largest city in the world in the 18th century and Mt. Fuji in the background. It is also thought that Mt. Tsukuba which is referred to a beautiful mountain along with Mt. Fuji, and the rural areas and fields in the west of Edo were viewed.
江戸見坂下から西小山商店街入口付近まで「江戸見坂通り」という名前が付いています。坂名を記した柱には案内文も添えられています。
江戸見坂
立会道路の標高は約23メートル。そこから江戸見坂通りを南へ進み、小山八幡神社の裏手までのぼりつめると、そこは標高約36.5メートル。その差は13.5メートルですが、この坂上からのながめは格別。都心の高層ビル群が一望できます。少し西に移動すれば、新宿副都心のビル群も見えます。その昔、江戸見坂からはきっと江戸城もくっきりと望めたことでしょう。
ゴール地点の西小山駅に着きました。予定外の歩きもあって結構時間がかかりました。でも、明日はその分楽になるでしょう。
ということで、品川区最初の「目黒・西五反田・西小山コース」を歩き終えました。目黒近辺のお寺の紹介が長くなりすぎましたかね。
戻る