千代田区(皇居東御苑・神田コース)
踏破記
品川区の次はどの区にしようかと考えたのですが、踏破記を書くのが捗ってきましたので、東京で最も歴史のある千代田区を選びました。千代田区の坂道は全部で66ケ所あり、区全体にばらけています。一筆書きで巡るには工夫が必要です。折角の歴史ある区ですので、できるだけ名所・旧跡の紹介もしていきたいと思います。
千代田区は東京23区の中央部に位置し、昭和二十二年(1947年)に麹町区と神田区の合併により誕生しました。江戸時代前期までの「江戸」は現在の千代田区周辺を指し、江戸城の別名が「千代田城」と呼ばれていたことに因み、区名は千代田区となりました。千代田区の地形は、皇居より東側の低地部と、西側の台地部(武蔵野台地の東端にあたる麹町台や駿河台)に分けることができます。低地部は、日比谷入江と呼ばれた浅い海を埋め立てた現在の日比谷から大手町に至る一帯と、江戸前島と呼ばれた埋没段丘面の現在の神田から飯田橋の一帯とで成り立っています。台地部は淀橋台と呼ばれる洪積台地の西縁に当たり、現在皇居となっている江戸城は、この台地の突端に本丸を築き、東側の低地部や開析谷を利用した濠を巡らしていました。これら複雑な地形から、区内には多くの坂が形成されています。ただ、丸の内坂のように人工的に造られた坂はこの限りではありません。
今回は千代田区の坂道を幾つかの区域に分け、中心となる皇居から東側の神田地区、そして皇居の北側を回って西側の順に巡っていきたいと思います。最初は皇居東御苑・神田コースです。いつもなら最初の坂の近くの駅からスタートするのですが、千代田区は(恐らく東京23区で唯一の)東京駅の改札内にある坂からスタートします。
昭和五十五年(1980年)に総武線と横須賀線の直通運転が開始された時に、東京駅構内に丸の内と八重洲を結ぶ中央地下通路が造られました。中央地下通路は丸の内側の起点から緩やかに傾斜していました。平成二十四年(2012年)に、土産品などを販売する駅ナカショップの「東京駅グランスタ 丸の内坂エリア」が開業した際、この坂に名前が付けられました。2020年8月3日には、中央地下通路の両側に惣菜やスイーツ・雑貨などのショップが勢揃いしたJR東日本最大規模のエキナカ商業施設であるグランスタ東京(GRANSTA Tokyo)が開業しています。
- 1.丸の内坂
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丸の内坂は長さが約40mほどあり、東京駅の丸の内赤レンガ駅舎の復元に合わせてグランスタが丸の内側に拡張された2012年6月、傾斜のある通路に「丸の内坂」、そして新しい商業スペースに「丸の内坂エリア」の名前が付けられました。
上りの傾斜が終わったところには、「丸の内坂上」の標識もあります。通路の壁の大型スクリーンの横に丸の内坂の案内板が貼り付けられています。
丸の内坂
昭和五十五年に総武地下駅で総武線・横須賀線の直通運転が開始された時に、丸の内と八重洲を結ぶこの通路が造られました。通路にあるこの40mの長いスロープを「TOKYO STATION CITY 〜東京駅が街になる〜」というコンセプトに合わせ、グランスタ新エリア開業を機に「丸の内坂」と命名しました。
東京駅丸の内中央口を出て皇居に向かいます。東京駅丸の内側の赤煉瓦駅舎は明治時代の建築界の第一人者である辰野金吾によって設計され、1914年に開業しました。赤煉瓦駅舎は全長約335メートル・幅約20メートル、尖塔部を含む高さは約45メートルの偉容を誇っていましたが、1945年の東京大空襲により焼失してしまいました。戦後完全復旧は断念したものの、1947年に八角屋根の2階建てとして部分的に修復が行われました。2007年から完全復元を目指して工事が開始され、2012年10月1日に現在の駅舎が開業しました。
東京駅の丸の内広場に面して、東京中央郵便局が入るJPタワー・丸ビル・新丸ビルが並んで立っています。どれも下層階にかっての建物の外観を保存しています。昔を知る人なら懐かしむことでしょう。
東京駅丸の内中央口と皇居前内堀通りを結ぶ行幸通りの脇に丸の内の歴史を解説した案内板が建っています。ちなみに、行幸通りは「ぎょうこうどおり」とも「みゆきどおり」ともいわれます。長さ190メートル・幅73メートルの通りは普段通行止めになっていて、皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅から皇居に向かうときだけ道路として利用されています。
丸の内
江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、 大名屋敷が立ち並んでいました。明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887年)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」(「東京の三十年」)。この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890年)陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦」ともてはやされるようになりました。さらに大正三年(1914年)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。そのような歴史をもったこの界隈が、 正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929年)、丸ノ内一〜三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970年)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
Marunouchi
In the Edo Era, this neighborhood, full of military lord (daimyo) residences, has rested between the inner and outer moats of Edo Castle. This in fact is the origin of the name which means "inside a circle". Today it is Japan's one of the best known office area.
皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備したもので、昭和四十三年(1968年)から一般に公開されています。入園は無料ですが、原則月曜日・金曜日と年末・年始は休園となっています。東京駅から皇居東御苑に行くには、大手門から入園するのが便利です。大手門は内堀通りに面した高麗門とその奥にある渡櫓門から構成されています。大手門交差点角に案内板が立っています。
大手門
この門は、江戸城本丸登城の正門で、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は慶長十一年(1606年)に藤堂高虎が行ったとされ、明暦三年(1657年)明暦の大火で焼失した後万治二年(1659年)に再建されました。現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は昭和四十一年(1966年)に再建された建築物です。門内には「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。
Ote-mon Gate
This was the main gate for those entering the main keep of Edo Castle, and the guards of the castle gate consisted of fudai daimyo (feudal lords who had supported the ruling Tokugawa house) with at least 100,000 koku (land was measured by the amount of rice produced; one koku was around 150kg of rice, enough to feed one man for a year). The construction of the gate was carried out by Todo Takatora in 1606, and it was reconstructed in 1659 after it was destroyed in the great Meireki Fire (1657). The present Korai Gate (a small, three-roofed gate)in front of you dates to 1659, and the Watariyagura Gate (a two-story gate, with a tower or room on the upper story) was rebuilt in 1966. There is a shachihoko (a mythical tiger-headed carp) inside the gate from the former Watariyagura Gate, with the inscription
"Meireki 3, year of the rooster".
大手門は、元和六年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達正宗(石垣を担当)や酒井忠世らによってによって再建され、現在のような桝形形式(橋を渡った先で鍵型に屈曲する形式)の城門となった江戸城の正門でした。大手門の周辺には三河以来の忠臣を配していたことから、大手門の重要性が窺い知れます。
高麗門を入った枡形内に渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。刻印に「明暦三丁酉」(丁酉:ひのととり)とあり、明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)で焼失した後、万治二年(1659年)に大手門が再建されたときのものと推定されます。昭和二十年の空襲で門は焼け落ちましたが、鯱だけが現存しています。
大手門
大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和二十年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和四十二年(1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦三年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。
Otemon Gate
During the Tokugawa Shogunate (1603-1867), the Otemon Gate served as the main gate of Edo Castle, and it was used by the shogun and feudal lords. It consists of two gates, one small and one large, set at right angles. This was a device to slow down the momentum of attackers, and to trap the enemy in an enclosed space where they could be fired on from the larger gate's upper story. The larger gate was rebuilt in 1967 after being destroyed in an air raid during World War II. The decorative mythical sea creature beside this panel is from the roof of the original gate, where it acted as a talisman against fire. The date 1657 is inscribed on its head.
渡櫓門から三の丸に入りますと、右手に同心番所があります。
同心番所
「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。
Doshin Bansho Guardhouse
This guardhouse is one of three that survives from the Tokugawa Shogunate (1603-1867). It was manned by low-ranking samurai known as doshin, or constables, hence its name. Their job was to check visitors to the castle, and to keep watch over the retinues of the feudal lords as they waited for their masters to return from inside the honmaru complex. There are three different types types of crests to be seen on the roof tiles. The triple hollyhock design is the family crest of the Tokugawa. In addition, there are Imperial chrysanthemum crests and the whorl of three commas of the mitsudomoe. The mitsudomoe crest dates back to the end of the Heian Period (794-1185), and was also used to ward off fires, since it represents water.
同心番所の左手先には百人番所があります。
百人番所
江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。
Hyakunin Bansho Guardhouse
This is the largest of three guardhouses that have survived from the Edo period (1603-1867). Located between the San no Mon and Naka no Mon gates, this guardhouse controlled access to the honmaru main compound of Edo Castle. The name means "100-Man Guardhouse." The 45-metre-long building was manned day and night by four shifts of samurai, each consisting of one hundred low-ranking doshin samurai and twenty higher-ranking yoriki samurai.
三の丸から二の丸に向かうところに中之門があります。現在は石垣だけが残っていますが、平成十七年から平成十九年にかけて石垣の修復工事が行なわれました。百人番所の前の広場の奥に、中之門修復工事の経緯を記した案内板が立っています。
本丸中之門石垣
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。「本丸中之門石垣」修復工事は平成十七年8月から平成十九年3月にかけて行いました。修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にしました。石垣には、江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれています。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていました。
The Stonewalls of Honmaru-Nakanomon Gate
The stonewalls of the Imperial Palace are designated as a special historic structure of "the Former Edo Castle". The restoration work of the Honmaru-Nakanomon Gate stonewall, was carried out from August 2005 through March 2007. The purpose of the work was to restore the stonewall to its original condition that had existed before it deteriorated and to conduct cultural assets investigation while performing the work. The Nakanomon Gate is built with stones larger than those used in other stonewalls in the Edo Castle and by employing a technique called "nunozumi," where rows of stones are horizontally laid on top of one another. As regards the Honmaru-Nakanomon Gate stonewall, the castle once had a barbican defense-house, Watariyaguramon, constructed as an entry point to the Honmaru buildings.
中之門から坂道を上がった二の丸の右手に武蔵野の原生林を想わせる雑木林が広がっています。
二の丸雑木林
武蔵野の代表的な風景である雑木林は、下草や落葉は毎年肥料として集められ、木は20年ごとに燃料用に伐採されるなど、人間生活との深い関わりにより形成されていました。二の丸雑木林は、コナラ、クヌギなどの落葉樹の林が保たれ、チゴユリなどの春植物(樹木の葉が開く前の林内が明るいうちに葉を広げ、花を咲かせる植物)をはじめ、多様な生物が生息・生育できる林となっています。
Ninomaru Woods
This grove of trees recreates in microcosm the landscape of Musashino, a rural area to the west of Tokyo that was being steadily absorbed into the suburbs when this grove was planted starting in 1983. The beauty of the Musashino Woods was itself a collaboration between people and nature. Traditionally, the inhabitants of Musashino collected brush and fallen leaves from the local woods to use as fertiliser and would fell trees for firewood on a twenty-year cycle. This grove contains such deciduous trees as konara and sawtooth oaks, as well as spring ephemerals like fairy bells that flower before the trees above them burst into leaf.
雑木林の左手に、白鳥堀の北側を渡って旧本丸の方に上がるやや急な坂があります。
- 2.汐見坂
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汐見坂は長さが約50mほどのS字状に曲がる坂で、別名を塩見坂・潮見坂といいます。坂名の由来は、江戸城が出来た頃は新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたということに因んでいます。坂の中ほどの直角に曲がったところに案内柱が立っています。
汐見坂
徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられていました。
Shiomizaka Slope
This slope was built to connect the ninomaru second and honmaru main compounds of Edo Castle. It led up to the Shiomizakamon Gate. Shiomizaka means "Slope Overlooking the Sea", since when the castle was built it fronted onto the sea. Now, the area from the front of the palace past Tokyo Station and out to Tokyo Bay is all reclaimed land. Beyond the area where Tokyo Station and Yurakucho Station now stand was a low peninsula called Mae-Jima.
汐見坂を上がった先に、広大な本丸跡の広場が広がっています。その北西角に江戸城天守閣跡の石垣が残っています。
天守台に上る坂の途中に案内板が立っています。
天守台
徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上からの高さが約58mあったといわれています。この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。
Tenshudai, Base of Edo Castle Keep
This was the site of the keep of Edo Castle. The keep tower was the tallest ever built in Japan. After the 1657 Great Fire of Meireki destroyed the third tower to stand on this site, the fourth shogun Tokugawa Ietsuna (1641-1680) immediately began work on a replacement, completing this foundation by 1658. Construction of the keep itself was abandoned when Ietsuna's uncle pointed out that a stable and peaceful Japan no longer needed such an enormous, awe-inspiring structure. The foundation for the unbuilt tower consists of two rectangles. The larger one-measuring 46 metres north to south, 42 metres east to west, and 10 metres tall-was for the tower itself, while the smaller one was for the entrance slope.
本丸跡が眺められる坂の曲がり角に案内板が立っています。
江戸城本丸御殿
この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。
Edo Castle Honmaru Goten Palace
The large lawn and surrounding area seen from this Tenshudai (Base of the main tower) were formerly lined with the buildings of the Honmaru Goten Palace. The Honmaru Goten Palace consisted of three sections, namely, Omote, Nakaoku and Ohoku.
Omote was the stage for general public ceremonies, and the place of work for various government officials of the Shogunate. Nakaoku was where the shogun lived his everyday life and administered the affairs of state. Ohoku was where the shogun' s family, including the wife of the shogun called Midaidokoro, lived, and where other ladies or female staffs also lived.
天守台跡は更地になっていて、それほど広くはありません。足場を考慮すると五層の天守閣は結構狭い敷地に建っていたものと想われます。天守台からの眺めも素晴らしいですが、天守閣の上から眺めたら、江戸の町はもとより富士山も一望できたことでしょう。天守閣が再建されたら是非上ってみたいものです。
天守台の西側には坂があるとのことですが、現在は立入り禁止になっていて見ることはできません。
- 3.狐坂
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狐坂は天守台西側から西桔橋まで下る坂で、長さが約100mほどあります。西桔橋は、内濠(乾濠と蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいます。江戸時代は本丸の大奥から吹上への通路になっていて、跳ね上げ式の橋になっていました。有事の際にはこの橋を跳ね上げて江戸城本丸を防備したといわれています。現在は固定の小さな橋に変わっています。狐坂は警備上の理由により、「皇居乾通り一般公開」の時以外は一般の人は立ち入ることはできません。
宮内庁書陵部庁舎の東側に坂が下っています。坂の両側は石垣になっていて、多くの梅の木が植えられています。
- 4.梅林坂
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梅林坂は長さが約120mほどの緩やかな坂で、戦国時代初期に太田道灌が江戸城を築城して間もなく、ここに数百株の梅の木を植えたので梅林坂の名が付きました。今は1月の中旬ですが、早くも梅の花が咲き始めています。
坂下の石垣の前に案内板が立っています。紅白の梅の木ですが、開花時期が早い品種のようですね。
梅林坂
この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことから「梅林坂」の名が付いたといわれています。現在は約70本の紅白の梅が植えられ
ており、12月末から2月まで花が楽しめます。
Plum Tree Slope (Bairinzaka)
The plum trees on this slope that leads from the ninomaru second compound of Edo Castle to the honmaru main compound were planted before the East Gardens opened to the public in 1968. It is thought that plum trees had been planted here by Ota Dokan (1432-1486), the fifteenth-century warlord who built the first castle on this site. Dokan's castle included a Tenjin shrine. Tenjin shrines enshrine Sugawara no Michizane (845-903), a famous poet-scholar and politician who loved plum blossoms, and traditionally have plum trees in their grounds.
平川門から退出します。
平川門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。小さな脇門は、平川濠の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。
Hirakawamon Gate
The Hirakawamon Gate was used by ladies' maid servants and castle officials. It is composed of a small gate with a further, larger gate at right angles, creating an enclosed space. This is a common castle gate defensive feature that forces intruders to turn at right angles once inside, slowing them down, and allows the castle defenders to shoot down on the invaders from all sides. To the side of the Hirakawamon Gate there is an unusual third gate-the Obikuruwamon Gate. It is connected to a long, narrow rampart that cuts across the moat, which is thought to have greatly strengthened the castle defenses.
平川豪に架かる橋の入口横に平川門の案内柱が立っています。
平川門
平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられましたした。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。
平川門の先に、「太田道灌追慕之碑」と記された巨碑が置かれています。碑文が不鮮明なので読み取るのは諦めますが、横に案内板が立っています。
江戸城築城五百五十年に当たって
左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後四百五十年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度五百五十年に当たります。この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。
太田道灌(1432年〜1486年)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。一四五七年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、三十数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
その隣にもう一枚の案内板が立っています。
1457年(長禄元年)江戸城築城
江戸城は、上杉氏の家臣太田道灌(1432年〜1486年)によりはじめて築かれた。のち、徳川氏15代の居城となり、明治初年より皇居となった。
Construction of Edo Castle Fortification
The castle of Edo was first built by Ota Dokan (1432-1486). Then it has been the shogun castle of the Tokugawa family for 15 generations, until the first year of the Meiji era, when it became the Imperial Palace.
国立近代美術館前の代官町通りは緩やかな上り坂になっています。
国立近代美術館は北の丸公園の中にあり、他に科学技術館や日本武道館も北の丸公園の敷地の中にあります。北の丸公園の案内板が立っています。
北の丸公園
江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成らの屋敷となり、代官町と呼ばれるようになりました。その後、三代将軍家光の弟、駿河府中藩主徳川忠長や春日局、家光の次男松平長松(のちの甲斐甲府藩主徳川綱重)などの屋敷となりました。さらに享保十六年(1731年)に八代将軍吉宗の次男徳川宗武(御三卿田安家)、宝暦八年(1758年)には九代将軍家重の次男徳川重好(御三卿清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられています。安政三年(1856年)には、この絵図にも見られるように田安家・清水家上屋敷のほかに御蔵地、植溜御用地、馬場などがありました。明治維新後、田安家・清水家の上屋敷は一時御用邸となり、その後は近衛歩兵営用地となりました。近衛歩兵営では明治十一年(1878年)、日本初の兵士反乱事件「竹橋事件」が起きています。明治八年(1875年)、ここは東代官町、西代官町となりました。そして明治十二年(1879年)、二つの町が合併して新たに代官町と改称しました。第二次世界大戦後は、森林公園として整備が進められ、昭和四十二年(1967年)、住居表示の実施により北の丸公園と改められました。名称はかつての江戸城北の丸にあたることに由来します。公園は、昭和天皇の還暦を記念して昭和四十四年(1969年)に開園し、園内には日本武道館や科学技術館、国立公文書館、国立近代美術館などがあります。また石垣には国指定天然記念物のヒカリゴケ生育地もあり、都心のオアシスとして親しまれています。
Kitanomarukoen
This area was once known as Daikancho, and was home to various members of the shogun family. After World War II, a new park was built here, which was given the name of Kitanomaru Park, as it was at the north corner of Edo Castle.
- 5.紀伊国坂
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紀伊国坂は、竹橋付近から国立近代美術館の前を通り、皇居東御苑の北桔梗門辺りまで上がる坂で、長さが約310mほどあります。坂名は、かつてここに尾張紀伊邸あったことに由来します。
国立近代美術館の前に案内柱が立っています。
紀伊国坂
紀伊徳川家の屋敷があったことから名付けられました。坂道は竹橋門(現在の竹橋駅付近)に通じていました。明治時代になると北の丸に近衛師団司令部が置かれ、煉瓦造りの司令部や兵舎などが建設されました。現在も、司令部は東京国立近代美術館工芸館として保存・利用されています。
竹橋交差点から毎日新聞社の西側を通って北上します。日本橋川に橋が架かっています。
雉子橋門跡
家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。寛永六年(1629年)に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架け
られました。橋は明治三十六年(1903年)に鉄橋に改架されました。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で被災したため、大正十五年(1926年)に新たに架けられたのが現在の橋です。
Remains of Kijibashi-mon Gate
The name Kijibashi-mon Gate ("Pheasant Bridge Gate") derives from the fact that pheasants ("kiji") were bred at an aviary near the bridge for Tokugawa Ieyasu to entertain a Korean delegation. Kijibashi-mon Gate was built as a gate in Edo Castle's outer wall, and a bridge was erected in 1629. In 1903, the bridge was rebuilt using steel. The bridge was rebuilt in 1926 in its current form after suffering damage in the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923.
靖国通りに出ました。歩道脇に案内板が立っています。
千代田区町名由来板 中猿楽町
ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。ところで町内には、大正三年(1914年)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語・数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来も、大正六年(1917年)から約二年間、この学校で学んでいます。中猿楽町はその後、昭和九年(1934年)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954年)四月、神保町と西神田の町名から「神西町会」と改めて、現在に至っています。
Naka-sarugakucho
This area was once called Naka-sarugakucho. It was named after Sarugaku, performing art that began in the Muromachi Period (1333-1568) and later gave rise to Noh theater. The residences of Kanze-dayu, the head of one of the major schools of Sarugaku, and his troupe were located in this neighborhood. In 1934, this area was integrated into Jimbocho 2-chome and Nishi - kanda 1-chome.
駿河台交差点のひとつ手前から明大通りに合流する短い坂が上がっています。両側には飲食店が並んでいます。ランンチタイムで賑わっていますね。神保町名物のカレー屋さんもあります。エチオピアカレー、美味しそう!
- 6.富士見坂(神田)
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富士見坂は長さが約90mほどの緩やかな坂で、かつて遠くに富士山を望むことができたことが坂名の由来になっています。元々それほど高い地点でないことに加え、現在は商店街の密集した建物に邪魔されて富士山はおろか、周辺の見通しもききません。東京23区内には16ケ所(別名を含めて24ケ所)の富士見坂があるそうですが、私の知る限りでは今でも富士山の全景が眺望できる坂は存在せず、僅かに2ケ所(日暮里と大塚)が部分的に見えるといった状況になっています。
坂上に案内柱が立っています。
富士見坂
この坂のある台地から富士山がよく見えたことから名付けられました。千代田区内には、富士山を見ることができることから名づけられた富士見坂が三か所あります(富士見二丁目と九段北三丁目の境、永田町二丁目と平河町二丁目の境)。
明大通りは、靖国通りの駿河台下交差点から外堀通りのお茶の水交差点に至る長さ約600mほどの上り坂です。
- 7.文坂
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文坂は、明大通りの駿河台下交差点から明治大学大学会館付近までの区間の坂名です。長さは約280mほどで、緩やかな上り坂になっています。坂名の由来は不明ですが、坂の途中にある明大リバティータワーの前に、坂名を刻んだ小さい石の標識があります。
明大通りの途中から分岐して、北西に向かう急な上り坂があります。
- 8.錦華坂
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錦華坂は長さが約150mほどの急な坂で、お茶の水小学校(旧錦華小学校)前から山の上ホテルの裏手にある錦華公園の東側を通って日大理工学部2号館まで上がっています。坂名は旧錦華小学校に因んでいるとのことです。錦華公園入口付近に案内柱が立っています。
錦華坂
大正十三年(1924年)、政府の区画整理委員会の議決によって造られました。坂の下にあるお茶の水小学校の当時の名称「錦華小学校」にちなんで名付けられました。錦華小学校は明治六年(1873年)に発足した第四中学区二番小学をルーツとし、塩原金之助(夏目漱石)や漫画家の北沢楽天が卒業したことでも知られています。
錦華坂のひとつお茶の水寄りに、明大通りから明治大学リバティタワーの北を透って山の上ホテルに向かう坂があります。
山の上ホテルは日本におけるクラシックホテルのひとつであり、特に昭和十二年(1937年)に完成した本館の建物はアール・デコ調の内外装を残しています。シンボルともいえる鉄筋コンクリート建築の本館は、明治大学OBで若松市(現在の北九州市若松区)の石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基に、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により、明治大学本部の隣接地に「佐藤新興生活館」として完成しました。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ陸軍の婦人部隊の宿舎として用いられました。ホテルとしての開業は昭和二十九年(1954年)で、GHQの接収解除を機に、実業家の吉田俊男が佐藤家から建物を借り入れる形で創業しました。ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカ陸軍の女性軍人や軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」が起源で、これを吉田俊男が「丘の上」でなく,敢えて「山の上」と意訳したことに因んでいます。山の上ホテルは文化人のホテルとしても知られています。かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰(執筆促進目的の軟禁場所としてホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、川端康成・三島由紀夫・池波正太郎・伊集院静らの作家が定宿としていました。檀一雄は舞台女優の入江杏子と愛人関係になって山の上ホテルで同棲し、入江との生活と破局を描いた代表作「火宅の人」を発表しています。
- 9.吉郎坂
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吉郎坂は長さが約75mほどの急な上り坂で、別名を甲賀坂・胸突坂といいます。坂名の由来は不明ですが、坂下の明大通りとの角地に坂名を刻んだ小さい石の標識があります。
吉郎坂と明大通りを挟んだ反対側に甲賀通りがあります。
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10.甲賀坂
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甲賀坂は明大通りの神田駿河台一丁目交差点から日大理工学部前まで続く長さ約130mほどの緩やかな下り坂で、かつてこの辺りは甲賀組の者が多く住んでいたために甲賀町と呼ばれ、坂名はこの町名に因んでいます。YMCAの先に案内柱が立っています。
甲賀坂
甲賀町にあることから甲賀坂と名付けられました。町名は、甲賀組が多く居住していたからとも、かつてこの地に光感寺があり、それがなまって甲賀になったとも言われています。昭和八年(1933年)に甲賀町は駿河台一丁目、三丁目になっています。
甲賀坂下から北に向かって坂が上がっています。歩道脇には「お茶の水 仲坂」と書かれた小さな石の標識が置かれています。
- 11.池田坂
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池田坂は長さが約150mほどの緩やかな坂で、別名を唐犬坂・仲坂といいます。坂名は、江戸時代に池田姓の旗本がこの辺りに屋敷を拝領したことに由来しています。坂上近くの日本大学歯学部の前に案内柱が立っています。
池田坂
千代田区内に多く存在する人名にちなんで名付けられた坂道の一つで、この坂に面して九百石取りの旗本池田家の屋敷があったことから名付けられました。また、池田家に唐犬がいたため、唐犬坂という別名もあります。
池田坂の坂上から甲賀坂と並行して、日本大学歯学部附属病院の前を通り、明大通りに向かう通りは小桜通りと呼ばれています。通りの入口付近は上り坂になっています。
- 12.雁木坂
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雁木坂は長さが約35mほどの緩やかな坂です。昔は急な坂で、雁木(木材によりはしご状または階段状に組んだもの)が組まれていたことが坂名の由来になっています。坂下の駿河台予備校1号館の手前に案内柱が立っています。
雁木坂
「雁木」とは、木材をはしご状、または階段状に組んで坂道を登りやすくしたものです。雁木坂とは、階段になった坂を意味します。
甲賀坂の先に3本の並行する下り坂があります。
- 13.観音坂
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観音坂は3本の坂のうち、一番南に位置する坂で、長さが約45mほどの緩やかな坂です。別名を観音寺坂といいます。坂名は、かってこの辺りに「芦浦観音寺」があったことに由来します。坂の中ほどに案内柱が立っています。
観音坂
元禄期(1688年〜1704年)まで、この坂の上に芦浦観音寺(茅浦観音と記した資料もあります)が建っていたことから観音坂と名付けられました。その後、観音堂があった場所は旗本屋敷となりました。明治時代には、この地域には実業家や政治家などの邸宅がありました。
淡路町二丁目は再開発で街の様子は一変しました。この町域は古くからの借地や土被りの浅い地下鉄の縦貫によって民間建物の更新が遅れていて、人口の減少が顕著で地域コミュニティも停滞していました。また、周辺を含めて緑やオープンスペースが少なく、防災面や環境面において大きな課題となっていました。このため、土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新により魅力ある公共施設を整備し、住宅と商業・業務施設が調和した安全で潤いのある複合市街地の形成を図るために大規模な再開発が行なわれ、平成二十五年(2013年)に工事が完了しました。施設名は「ワテラス」と命名されました。
淡路町二丁目
江戸時代、この界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。古い絵図を見ていくと、永井信濃守の屋敷が松平伊豆守の屋敷となり、のちに若狭小浜藩酒井家の上屋敷(藩主の邸宅)となっています。明治五年(1872年)、ここに神田淡路町二丁目という名前が正式に付けられました。町名の由来とされる淡路坂は、鈴木淡路守の屋敷があったことにちなんでいます。明治のはじめ、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立学校(のちの開成学園)が創設されます。正岡子規や南方熊楠などもここで学んでいます。また町内には一時期、「たけくらべ」・「にごりえ」などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉も住んでいました。淡路町は文化の町となり、その進取の気風は町並みにも表れていました。大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑わっていました。明治八年(1875年)に開校して以来、地域コミュニティのシンボルであった淡路小学校は、平成五年(1993年)に統合され、117年の歴史に幕を閉じました。その跡地には平成二十五年(2013年)に再開発によって、新たな地域コミュニティの核となる「WATERRAS」が完成しました。
Awajicho 2-chome
In the Edo Period, this was the location of the homes of many high-ranking samurai.
It is recorded that one of them, Suzuki Awaji no kami, gave the name to the town.
In the early Meiji Period, a school was established on the site that is currently occupied by Awaji Park. It produced many leading intellectuals of the late Meiji Era. In the former site, "WATERRAS" as the core of a new local community was completed by redevelopment in 2013.
ワテラスの南側に沿って2本目の坂が上がっています。
- 14.新坂(神田)
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新坂は長さが約40mほどの緩やかな坂で、坂上付近がやや急な上り坂になっています。坂名は、この坂が明治以降に新たに開かれたことに因んでいます。坂上の淡路公園の前に案内柱が立っています。
新坂
江戸時代、ここには阿部主計頭の屋敷があり、観音坂と紅梅坂に挟まれたこの場所には道はありませんでした。明治維新後、駿河台上に登るための通路として新たに造られたため、新坂と名付けられました。当時、坂の上には屋敷を囲んでいた練塀があり、それを道の幅だけ取り壊して坂を通しました。
3本目の一番北側にある坂は坂上で直角に曲がり、本郷通りに合流しています。
- 15.幽霊坂(神田)
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幽霊坂は長さが約190mほどの緩やかな坂で、別名を甲賀坂といいます。昔は坂の両側に樹木が鬱蒼としていて、昼でも気味悪い道だったためにこの坂名が付きました。坂上の曲がり角に案内柱が立っています。
幽霊坂
江戸時代には火消役の屋敷があり、そこへ上る坂道でした。江戸時代の初め頃は緩やかなカーブで、埃坂あるいは光感寺坂とも呼ばれていました。のちに直線状に整備されて、紅梅坂へとつながっていましたが、大正時代の区画整理で本郷通りができたために二つに分かれた形となりました。このあたりは木々が繁っていて昼間でも薄暗かったことから、幽霊坂の名が付けられています。
ニコライ堂は本郷通りに面した高台に聳える正教会の大聖堂です。「ニコライ堂」は通称であり、正式名称は「東京復活大聖堂」で、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂です。緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴で、日本で初の最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。1891年に竣工し、関東大震災で大きな被害を受けましたが、修復されて現在に至っています。
ニコライ堂の北側を西に上る短い坂があります。
- 16.紅梅坂
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紅梅坂は長さが約50mほどの緩やかな坂で、別名を幽霊坂・光感寺坂といいます。坂名は、かつてこの辺りが紅梅町と呼ばれていたことに由来します。別名の幽霊坂は、本郷通りの反対側の幽霊坂につながっていたためです。坂の中ほどに案内柱が立っています。
紅梅坂
明治時代に、武家地であったこの地域に駿河台西紅梅町・東紅梅町という町名がつけられました。そのため、この坂道も、紅梅坂と名付けられました。関東大震災後に本郷通りが新設されて分断されるまでは、東側にある幽霊坂と一本の坂道でした。
聖橋の南詰から中央線の南側に沿って長い坂が下っています。
坂の南側にはかって日立製作所の本社ビルがありましたが、現在は跡地が再開発されて「御茶ノ水ソラシティ」というオフィス主体の複合施設になっています。歩道脇に石碑が建っています。
蜀山人終焉の地
大田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延二年(1749年)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和四年(1767年)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化九年(1812年)に当地に移り住み、文政六年(1823年)に没するまで過ごしています。
岩崎彌之助邸跡
岩崎彌之助は嘉永四年(1851年)土佐国に生まれ、明治七年(1874年)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治十八年(1885年)三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。
- 17.淡路坂
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淡路坂は長さが約290mほどのやや急な坂で、別名を相生坂・一口坂(いもあらいざか)・大坂といいます。坂名は、かつて坂上に鈴木淡路守の屋敷があったことに由来します。坂上に案内柱が立っています。
淡路坂
江戸時代、坂の上には鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられました。また、屋敷の道をはさんだ向かい側には太田姫稲荷がありましたが、別名の一口(いもあらい)稲荷にちなんで一口坂とも呼ばれていました。
淡路坂の坂下付近にホテルジュラクがあります。2階にはランチバイキングの「あけびの実」があります。和食系の人気のお店です。
昌平橋で神田川を渡ります。
昌平橋
昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、寛永年間(1624年〜1644年)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、元禄四年(1691年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。
Shoheibashi Bridge
Shoheibashi Bridge is one of the bridges that crossed Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and is said to have been built in the Kanei Era (1624-44). It was also called Imoaraibashi Bridge as Imoarai Inari (current-day Otahime Inari Shrine) stands on Surugadai upwards from the bridge. It was also referred to as Aioibashi Bridge. It later came to be known as Shoheibashi Bridge after Shoheikyo, the birthplace of Confucius, following erection of a shrine to
Confucius in Yushima in 1691. Along with Sujikai-mon Gate, which was a short distance downstream, the bridge was used as a major thoroughfare for the Nakasendo Road and the Nikko Onarimichi Road, and there was a bustling public square called Yatsukoji at the south end of the bridge.
ゴール地点の秋葉原駅に着きました。皇居周辺で今日の歩きを終えるつもりだったのですが、つい欲張って神田まで足を伸ばしてしまいました。名所・旧跡の紹介も盛りだくさんになってしまいました。
ということで、千代田区最初の「皇居東御苑・神田コース」を歩き終えました。次は神田明神の男坂・女坂から千代田区の坂道巡りを再開します。
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