千代田区(神田・猿楽町・富士見町コース)


踏破記


今日は、先日の「皇居東御苑・神田コース」に引き続き、神田地区の残りの坂と猿楽町・富士見町の坂を歩きたいと思います。秋葉原駅から神田明神に向かいます。



アキバの中心を貫く中央通りからふたつほど奥の路地を進みますと、民家の間に急な階段が上っています。



階段の中ほどの踊り場の左手に、「KAIKA」と表示された建物があります。

開花楼跡地

現、KAIKAビル。この地には明治十年創業の料亭、開花楼がありました。海抜40メートルの高台に建つ開花楼の座敷からは、浅草から本町、深川に至るまで見渡せる眺望の良さと、江戸前の料理が好まれ、通人や粋人が集う場所として東京名所図会などの多くの書物に残されています。「開花楼」は、単に料理屋として著名であるばかりでなく、書画店や古書市、見本市等、当時として貴重な文化事業が開催され、大広間では、文豪の島崎藤村の結婚式が行われました。

「へなちょこ」誕生

明治初期、開花楼創業者の坂本氏が明神の崖の土をこねてお猪口を焼き、宴会で披露しました。しかし、そのおちょこにいくらついでもお酒が染み出てしまいます。このお粗末なおちょこを「へなちょこ」と呼び、これが転じて未熟者をあざける語になったと言われています。




18.明神男坂

明神男坂は長さが約35mほどあり、神田明神社務所の裏を上がる急な石段です。別名を明神石坂といいます。神田明神の東にあるこの坂は急な長い石段のために、南側にある「女坂」に対して「男坂」と呼ばれます。天保時代に神田の町火消しが石段と石灯籠を奉献したのが男坂の始まりと言われています。当時は、江戸湾を行き来する船にとって灯台の役目も果たしていました。近年ではアニメ「ラブライブ!」に、登場人物の高坂穂乃果たちが放課後のトレーニング場所として使った神田明神男坂が登場しました。作品の「聖地巡礼」で訪れる参拝客の増加にともない、境内には記念撮影用パネルが用意されました。



坂上に案内柱が立っています。明神女坂には広い踊り場はありますが、傾斜は明神男坂にも負けないくらいきついんですけどね。

明神男坂

南側に平行してある緩やかな明神女坂に対し、勾配が急であることから明神男坂と呼ばれています。天保期、神田の町火消であった「い」「よ」「は」「萬」の四組が献納して造られた坂道です。明神石坂の別名もあります。坂からの眺めが非常によく、月見の名所としても知られました。




かって、明神男坂の坂上には銀杏の大木が聳えていました。案内文にちょっと違和感が。

「・・・。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ったのです。昭和二十年の・・・。そして、ひこばえも被災の憂き目・・・」

の方が良さそうに思いますが。。。

明神男坂大公孫樹

この公孫樹は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木です。大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹でした。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和二十年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲いましたが、昭和九年建立の鉄骨鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造を持つ神社建築であったため焼失を免れました(国登録文化財・文化庁)。その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます。災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。




神田明神(神田神社)は、江戸城の表鬼門除けに鎮座する江戸総鎮守です。日本経済の中心である大手町や丸の内の他、神田・日本橋・秋葉原など、日本経済の中枢をなす108町会を氏子地域に持ち、企業の仕事運と商売繁盛を祈願するうえで欠かせない神社となっています。権現造りの社殿は、近代神社の建築を手掛けていた建築家伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一らによって造られました。社殿には1934年の竣工当時には画期的であった鉄骨鉄筋コンクリートが使われています。その頑丈さは東京大空襲を耐え抜いたほどです。また、参拝者が靴を履いたまま拝礼できる構造が採用されています。

江戸総鎮守神田明神
神田神社御由緒

正式名称・神田神社。東京都心百八町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(730年)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の魅承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、今和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行 われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも教えられております。現在は鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰の飾りのある天子の車)・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の百八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約百基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。当社は令和十二年(2030年)に創建千三百年の節目を迎えます。創建千三百年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に千三百年の記念事業を推進してまいります。




本殿の右手に「獅子山」があります。獅子山は親子の獅子像ですが、1923年の関東大震災の時に子供の獅子が失われました。1990年に新しく子供の獅子が作られ、現在の「獅子山」になっています。

千代田区指定文化財
石獅子

この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保年間(1716年〜1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。文久二年(1862年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は大正十二年(1923年)の関東大震災で失われ、平成元年(1989年)に天皇即位を記念して再建されました。
* 千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭

Chiyoda City Designated Cultural Property
Stone Lions

This stone sculpture is one of the few remaining stone sculptures in Chiyoda City from the Edo Period. It is said it was made by the master stonemason Ishikiri Tobe from Shimotsuke (current-day Tochigi Prefecture) the Kyoho Era (1716-1735). Records show the associates of a money-exchange shop dedicated a load of stone to Kanda Jinja Shrine in November 1862. The composition shows 3 stone lions, the parent lions looking at the lion cub pushed down below. Meanwhile, what survived from the Edo Period was the lion couple only, the lion cub and the lion rock being lost in the Great Kanto Earthquake of 1923, but in 1989 it was rebuilt to commemorate the enthronement of His Majesty the Emperor.
* The lion couple are the Chiyoda City Cultural Property




境内には多くの記念碑が置かれています。若い方には馴染みがないでしょうけど、銭形平次の石碑も建っています。「銭形平次の碑」は、1970年に「日本作家クラブ」が発起人になって建てられた石碑です。野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」に登場する銭形平次が神田明神の周辺を舞台に活躍したことから記念碑が建てられました。石碑の右隣には、銭形平次の子分「八五郎」の小さな碑も残されています。

錢形平次碑

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。




発起人が書かれた小さな碑には昭和の大スターの名前が刻まれています。



「銭形平次の碑」の右隣には、今東光撰文の「国学発祥之地」の石碑が建っています。江戸時代中期頃までは、学問は中国から輸入された儒教など外国のものが中心でした。京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満が江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社神主の芝崎邸内でした。そのいわれから、江戸における国学の発祥地が神田明神であったとされています。



「水野年方顕彰碑」は、千代田区指定有形文化財に登録されている石碑です。明治時代に活躍した浮世絵日本画家「水野年方」を顕彰するために、水野年方の弟子「鏑木清方」と「池田輝方」により建てられました。

千代田区指定文化財
水野年方顕彰碑

水野年方は、慶応二年(1866年)に江戸神田で左官の棟梁の子として生まれました。当初、歌川派の月岡芳年に入門し、浮世絵の歴史画を数多く制作しました。明治時代半ばから、「やまと新聞」をはじめとする新聞挿絵、「文芸倶楽部」などの木版彩色の口絵を盛んに描き、上品で繊細な美人画を得意としました。明治四十一年(1908年)、年方は42歳の若さで逝去します。その十七回忌の前年にあたる大正十二年(1923年)5月、門人や縁故者が年方の氏神である神田神社に顕彰碑を建立しました。年方の門人からは、鏑木清方を筆頭に、池田輝方や蕉園ら、近代日本画を代表する画家たちが多く輩出されています。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Mizuno Toshikata Monument

Mizuno Toshikata was born in Kanda, Edo in 1866 as the son of a master plasterer. Mizuno initially began studying under Tsukioka Yoshitoshi of the Utagawa school and made numerous rekishiga (historical picture) Ukiyo-e paintings. From about the middle of the Meiji Period he was prodigiously creating illustrations for newspapers, primarily the Yamato Shimbun, color woodblock frontispieces for the Bungei Club, etc., while specializing in elegant, delicately expressed bijinga (paintings depicting beautiful women). He passed away at the young age of 42, in 1908. In May 1923, the year before the 17th anniversary of his passing, his pupils and associates erected a monument in his honor at Kanda Jinja Shrine, Mizuno's guardian deity. From among Mizuno's pupils emerged numerous artists who came to the forefront of modern Japanese painting, most notably Kaburaki Kiyokata, as well as Ikeda Terukata, Ikeda Shoen, et al.




神田明神の表門といえば随神門ですね。随神門は1975年に昭和天皇即位50年を記念して再建されました。外回りに朱雀や白虎・青龍・玄武の四神が彫られ、内周りには大黒神話がモチーフになった彫刻が施されています。二層目にある金箔が施された「繋馬」の彫刻は平将門公に由来するものです。四神の配色と大相撲の土俵の色房との関係は初めて知りました。

随神門欄間彫刻

随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大國主之命の神話が描かれている。四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍)西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥)北は玄武(玄武亀)夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。




随神門の左手に急な階段が下っています。



19.明神女坂

明神女坂は長さが約25mほどあり、明神男坂から南に80mほど離れた神田明神の南側を上がる急な石段です。途中で“く”の字に曲がっています。神田明神の東にあるこの坂は北側にある「男坂」に対して「女坂」と呼ばれます。多くの神社には男坂と女坂があり、一般的には女坂の方が男坂よりも傾斜が緩やかなのですが、神田明神ではむしろ女坂の方が傾斜がきつくなっています。途中の踊り場で向きを変えていますので、その分上りやすくはなっていますが。



神田明神から聖橋を渡り、御茶ノ水駅前を通って明大通りに出ます。左折して神保町方面に下り、明治大学アカデミーコモンの角を右折すると、道の両側に豊かな街路樹が続く通りに出ます。ここが「とちの木通り」です。とちの木はフランス語では「マロニエ」ですが、この樹が美しい通りといえばパリのシャンゼリゼ通りです。秋になるとマロニエは大きな葉を落とし、街路を黄金色に染め、ロマンティックな気分を盛り上げます。とちの木通りも同じで、秋になるとひときわ樹々が美しく街を彩ります。この通りの人気のレストランに「トラットリア レモン」があります。1970年代は喫茶店だったそうで、明大に近いことから、フォークグループGAROの「学生街の喫茶店」のモデルになったと言われています。



とちの木通りには病院やオフィスビルが軒を連ねていますが、文化の歴史を物語る建築物も見られます。ヨーロッパの薫りがするアーチのある建築物はかっての「文化学院」です。1921年に建築家の西村伊作や与謝野晶子・鉄幹夫妻らが中心になって創設し、自由な校風で多くの芸術家や文化人を輩出した学校でした。講師を務めたのは第一線で活躍する文化人たちで、与謝野夫妻や有島武郎・山田耕筰なども教壇に立ったそうです。このアーチのある建造物は閉校後、建築家の坂倉準三が設立した設計事務所によって保存されることになりました。現在はBS11の社屋として使われているそうです。



その先の明治大学付属高校の横に急な階段が下っています。階段上に「男坂」と書かれた小さな石碑が置かれています。



20.男坂

男坂は長さが約30mほどの急な石段です。男坂から北東に150mほど離れたところにも階段があり、女坂という坂名が付いています。いずれも大正十三年(1924年)の区画整理で造られた坂で、男坂は73段・女坂は82段あります。どちらの坂も急傾斜になっていますが、女坂の途中には踊り場があって中休みができるのに対し、男坂には踊り場はあるものの直線的で上りはよりきつくなっています。なので、こちらの坂は「男坂」、もう一方の坂は「女坂」と呼ばれるようになりました。階段の中ほどにある踊り場に案内柱が立っています。

男坂

江戸時代以来、猿楽町と駿河台の境であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。大正十三年(1924年)八月、震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と西側の屈曲した坂の二本が作られました。直線的に上る坂のため「男坂」と名付けられ、西側の緩やかな坂は「女坂」と名付けられました。




男坂を下って猿楽通りに出ます。歩道奥に石碑が建っています。

東京音楽大学発祥の地

東洋音楽学校(現東京音楽大学)は、明治四十年5月1日この地に設立された。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一・高楠順次郎・島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。




200mほど先にもうひとつの急階段が上がっています。



21.女坂

女坂は長さが約30mほどの急な階段で、中ほどで右に曲がって上っています。途中の踊り場は男坂に比べてやや広めにできています。男坂は一直線の急階段であるのに対し、途中の踊り場で中休みできるようになっているため、「女坂」と呼ばれるようになりました。男坂と女坂は共に大正十三年(1924年)の区画整理で造られた坂で、男坂は73段・女坂は82段あります。どちらの坂も急傾斜になっていますが、女坂の途中には踊り場があって中休みができるのに対し、男坂には踊り場はあるものの直線的で上りはよりきつくなっています。なので、こちらの坂は「女坂」、もう一方の坂は「男坂」と呼ばれるようになりました。



階段上に案内柱が立っています。

女坂

江戸時代以来、猿楽町と駿河台の境であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。大正十三年(1924年)八月の震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と東側の直線的な坂の二本が作られました。途中にニケ所の踊り場を設けた緩やかな坂のため「女坂」と名付けられ、直線的に上る急な坂は「男坂」と名付けられました。




猿楽町には歴史遺産が幾つかあります。銭湯の代表的なイメージに、浴室正面の壁に描かれた富士山のペンキ絵(背景画)があります。猿楽町にあった「キカイ湯」は、ペンキ絵の発祥の地とされています。現在は跡地が「TOHYU(東雄)ビル」になっています。

キカイ湯跡

明治十七年(1884年)に祖父、東由松(1852年〜1917年)はこの地に銭湯キカイ湯を建てて開業した。汽船のボイラー(機械釜)を他店に魁けて取り付けたことを記念して店名を付けた。大正元年(1912年)父、東雄三郎(1880年〜1953年)は、旧店の隣りに新キカイ湯を増築して、その浴室の壁面に新規発想によるペンキ絵を掲げた。公衆浴場史(昭和四十七年発行)に、“・・・ところが、この絵が満都の評判となり、市内各湯もこれにならって思い思いの絵をかかせて浴客を喜ばせ・・・”とある。キカイ湯は、大正十二年(1923年)の震災と昭和二十年(1945年)の戦災とに2回全焼したが、その都度復興して営業を続けた。ついに、昭和四十六年(1971年)に近隣に惜しまれつつ87年間続けた店を閉じた。このTOHYU(東雄)ビルの名称は、父の名を宿している。




カトリック神田教会は明治七年(1874年)1月に創設され、東京のカトリック教会でも有数の歴史を持つ教会です。その原点は1872年に三番町で始められたラテン学校です。再宣教に備えて将来の司祭をひそかに養成し始めていた折り、明治六年2月24日にキリスト教の禁教令も解かれました。フランス公使ベルトミー氏の斡旋により、この地にあった元旗本の三屋敷を入手し、その70畳の大広間を日本で最初に聖フランシスコ・ザビエルに捧げる聖堂としたのが神田教会の始まりです。



現在の神田猿楽町町会詰所は、大正五年(1916年)に猿楽町駐在所として建設されました。その後交番は廃止され、町会の詰所として利用されました。そして平成十五年(2003年)6月には千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。



神田小川町三丁目の町域は猿楽町に隣り合っていますが、町名の案内板に猿楽町の歴史が触れられています。

小川町三丁目(西部)

江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。このあたりはかつて、猿楽(のちの能楽)師の観世太夫とその一座の屋敷があったため猿楽町、鷹狩に使う鷹の飼育や調教を行う鷹匠が住んでいたことから元鷹匠町などと呼ばれていました。元禄六年(1693年)、小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の 小川の清水 たえずして 岸の根芹を あらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)の絵図では、この界隈に寄合医師和田春孝、常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。明治五年(1872年)周辺の武家地を整理し、富士見坂を境に北側は猿楽町一丁目、南側は小川町となり、明治十一年(1878年)神田区に所属します。ちなみに富士見坂の名は、坂の上から富士山が見えたことに由来します。明治時代の猿楽町一丁目には、英語・漢学・数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校や婚姻媒介所などがありました。小川町には、西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。また、町内に過ごした昭和期の小説家永井龍男は、文藝春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。昭和八年(1933年)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。

Ogawamachi 3-chome (Western district)

In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, there were several schools here, as well as entertainment places for students.




猿楽町から北に向かい、中央線の南側に出ます。東京デザイナー学院付近から水道橋にかけて線路沿いに坂が下っています。ここには「かえで通り」という通り名が付いています。



22.皀角坂

皀角坂は長さが約240mほどのやや急な坂で、別名を皀坂とか皀莱(新字)坂といいます。昔は沿道にサイカチの木がたくさんあったことが坂名の由来となりました。東京デザイナー学院の向かいに案内柱が立っています。

皀角坂

坂名は、サイカチの木が多く植えられていたことから名付けられました。サイカチは、野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、花も実も豆に似ています。現在でも、二本のサイカチの木があり、秋になると豆状の実をつけています。




坂の途中に小さな石碑が置いてありますが、碑文は読み取れませんでした。



皀角坂の坂下から左手に真っ直ぐに下る緩やかな坂があります。



23.小栗坂

小栗坂は長さが約130mほどの緩やかな坂で、かってこの場所に小栗家の邸があったことが坂名の由来になっています。坂上の皀角坂との合流地点付近に案内柱が立っています。

小栗坂

千代田区内に多く存在する人名にちなんで名付けられた坂道の一つで、江戸時代の初めに、坂下の路地を入ったところに七百三十石取りの旗本小栗家の屋敷があったことから名付けられました。




三崎町交差点で白山通りを横断し、飯田橋方向に進みます。日本大学法学部の学舎前の植え込みの中に「講武所跡」の案内板が立っています。講武所とは、ペリー来航を機に徳川幕府が旗本・御家人・役人らを対象として設立した剣術・砲術などの総合武術訓練施設のことです。教授陣には、勝海舟や大村益次郎らがいました。

講武所跡

嘉永七年(1854年)のペリー艦隊の来航を受けて、老中阿部正弘は旗本・御家人の武術奨励のための調練場として講武場(のちに講武所と改名)を設置する計画を立てました。当初は、砲術調練場を築地(中央区)、筋違橋門外、四谷門外(新宿区)、越中島(江東区)に、騎戦調練場を神田橋門、一橋門外に建設する計画でしたが、完成したのは築地と越中島のみでした。安政六年(1859年)に築地の講武所が軍艦操練場となったことを受けて、小川町(現在の神田三崎町一、二丁目)に講武所が移転されました。用地には越後長岡藩(現在の新潟県)などの屋敷地約1万4,000坪が充てられました。講武所では剣術・槍術・砲術の他に柔術・弓術が行われ、特に砲術は西洋式砲術が導入されました。慶応二年(1866年)、講武所は旗本・御家人への砲術・士官教育を目的とした陸軍所に名称を改め、明治維新後には陸軍練兵所となりました。

Kobusho Site

Following the arrival of Commodore Matthew Perry's fleet in 1854, Abe Masahiro, a member of the shogun's council of elders, devised a plan to establish Kobujo (later renamed Kobusho), which were shooting practice fields to promote martial arts among hatamoto and gokenin (senior and junior vassals). The plan at the time was to construct gunnery practice fields in Tsukiji (Chuo City), outside the Sujikaibashi-mon and Yotsuya-mon Gates (Shinjuku City), and in Etchujima (Koto City), and cavalry practice fields outside Hitotsubashi-mon Gate and Kandabashi-mon Gate, but only the Tsukiji and Etchujima fields were completed. In 1859, the Kobusho site in Tsukiji was turned into naval training grounds, so the Kobusho was relocated to Ogawamachi (current-day Kanda Misakicho 1- and 2-chome). About 46,200 square meters of land were appropriated for the Kobusho, including land occupied by the Echigo Nagaoka clan (current-day Niigata Prefecture) for residences. Training at the Kobusho included swordsmanship, spear practice, and gunnery as well as jujutsu and archery. Gunnery training focused particularly on new Western gunnery. In 1866, the Kobusho was renamed the Rikugunsho, intended for gunnery and officer training for the hatamoto and gokenin, becoming an army drill ground after the Meiji Restoration.




日本橋川を渡って目白通りに出ます。この一帯はかっては飯田町という町名でしたが、現在は飯田橋一丁目〜三丁目になっています。町名由来板にその歴史が書かれています。

飯田町

かつてこのあたりは千代田村と呼ばれるのどかな農村でした。ここに飯田という地名が生まれたのは、徳川家康が江戸にやってきてからのことです。天正十八年(1590年)江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛でした。「所の巨細とも申上(土地のことについて、細かく詳しく申し上げた)」(「新撰東京名所図会」より)という喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じたのです。以来、江戸の町の開発が進み、この界隈に武家屋敷がひしめくようになっても、飯田町という名前は残りました。ただし江戸時代の武家地は町名をもたなかったため、飯田町は通称として使われていました。飯田町が正式な町名となったのは、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一〜六丁目に再編された明治五年(1872年)のことです。ここには飯田町三丁目と同四丁目などが誕生しました。昭和八年(1933年)になると、区画整理によって飯田町三丁目の東側と同四丁目の南側、同五丁目の一部などが、新たに飯田町一丁目となります。さらに、昭和四十一年(1966年)、住居表示の実施により、飯田町一丁目は、飯田橋一丁目、同二丁目などに再編されました。ちなみに、目白通りに対して西側は飯田橋一丁目に、東側は飯田橋二丁目として区分けされ、現在に至っています。

Iidamachi

This area was once a farming village called Chiyoda Mura. When the future shogun Ieyasu Tokugawa came to Edo in 1590, he was guided through this area by a man named Kihe'e lida, and named the area after him. In the Edo period, it was lined with homes of samurai.




目白通りの両側には、かって飯田町に存在した歴史的な旧跡を解説した石柱が建っています。台所衆を住まわせるには江戸城内は狭すぎたのでしょう。

台所町跡

江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武艦(江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の紳士録)に、お台所頭・四百石・たい所町・鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。




飯田橋には牧場もあったんですね。今では考えられない風景です。

北辰社牧場跡

榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久二年(1862年)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しますが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟のための育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四・五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。




目白通りには徽章店が散見されます。

徽章業発祥の地

この奥、大神宮通り向かって左側に明治十八年(1885年)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本帝国徽章商会から生まれたといわれています。そして現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。




現在は世田谷区に移転しましたが、かっては飯田橋に東京農大があったんですね。

東京農業大学開校の地

明治二十四年(1891年)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の 前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治三十五年(1892年)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。




牛込橋から外濠公園に沿って東京逓信病院に向かいます。牛込橋には、かって牛込見附がありました。

史跡 江戸城外堀跡 牛込見附 (牛込御門)跡

正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。この牛込見附は、外堀が完成した寛永十三年(1636年)阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治三十五年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。足元には、かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。




案内板に添えられた写真と牛込見附の配置図です。



東京逓信病院管理棟前の植え込みの中に、与謝野鉄幹・昌子夫妻が住んだ住居跡の碑が建っています。与謝野鉄幹・晶子夫妻は一時期、ここ旧麹町区富士見町に住んでいました。しかし、昭和二年には関東大震災の体験から夫妻は郊外に移ることにし、井荻(現在の南荻窪)で晩年を過ごしました。

与謝野鉄幹 晶子 居住跡

与謝野鉄幹(明治六年〜昭和十年)京都市生。
 詩人・歌人 東京新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新和歌運動に貢献した。
 作品    「東西南北」・「天地玄黄」・「相聞」など。

与謝野晶子(明治十一年〜昭和十七年)堺市生。
 鉄幹の妻、歌人 新詩社に加わり「明星」で活躍。
 作品      「みだれ髪」・「春泥集」・「舞姫」・「新訳源氏物語」など。

二人は明治三十四年に結婚し、大正四年から大正十二年の関東大震災まで当地に居住した。また、二人は神田駿河台の「文化学院」の創立(大正十年)に貢献し、教鞭をとった。明治三十七年「明星」に掲載された晶子の「君死にたもうことなかれ」は、戦地にいる弟(鋳三郎)の身を案じた詩としてあまりにも有名である。

Site of the former Yosano Home

Tekkan Yosano and his wife, Akiko, were famous poets from the Meiji era into the beginning of the Showa era. They lived at this location from 1915 to 1927. Akiko's poem about her brother going off to battle is still widely read.




東京逓信病院管理棟の南東側に緩やかな坂道が上っています。右手の車庫入口は施錠され、平成十九年(2007年)に閉校した東京逓信病院高等看護学院のプレートが残っています。



24.幽霊坂@

富士見町には幽霊坂と呼ばれる坂が3ケ所あります。便宜的に、通った順番に@〜Bと番号を振ります。幽霊坂@は長さが約90mほどのやや急な坂で、江戸時代には広い武家屋敷の間の淋しい鬱蒼とした坂道であったことからこの坂名になったと思われます。



幽霊坂@の坂上から東方向にやや急な坂が下っています。



25.幽霊坂A

幽霊坂Aは長さが約120mほどのやや急な坂で、別名を勇励坂といいます。江戸時代には広い武家屋敷の間の淋しい鬱蒼とした坂道であったことからこの坂名になったと思われます。坂上に角川書店の本社ビルがあり、その他にも角川書店の建物が並んでいます。角川村といった感じです。



幽霊坂Aから南に100mほど行ったところから幽霊坂Aと並行して上る坂があります。ここは私道のようです。



26.幽霊坂B

幽霊坂Bは長さが約170mほどのやや急な坂で、坂の途中で”く”の字形に曲がっています。江戸時代には広い武家屋敷の間の淋しい鬱蒼とした坂道であったことからこの坂名になったと思われます。



幽霊坂Bから東方向にクランク状に路地を巡って東京ルーテルセンター教会の前に出ます。外観が特徴的な東京ルーテルセンター教会の建物は、現代建築黎明期の建築家長谷部鋭吉の設計により日本神学校として1937年に建てられました。保存の価値のある優れた建物として東京都から歴史的建造物に指定されています。

東京都選定歴史的建造物
東京ルーテルセンタービル
(旧日本神学校並びに植村記念日本基督教会会館)

所在地 東京都千代田区富士見1−2−32  
所有者 日本ルーテル教団          
設計者 長谷部鋭吉(1885年〜1960年)
建築年 昭和十二年(1937年)      


東京ルーテルセンタービルは、旧住友財閥の営繕部門を独立させて長谷部竹腰建築事務所(現日建設計)を設立し、近代建築の黎明期から昭和中頃まで活躍した建築家の長谷部鋭吉により設計された。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上4階・地下1階・塔屋2階建、全体的にはシンプルな印象ながら、細部にアーチやドームなどの意匠を取り入れたデザインが特徴で、白い櫛引仕上の外観に直線的でない小窓の並べ方など、実に長谷部鋭吉らしい作品である。中庭を取り込んで礼拝堂を通りに面して配置するなど、採光・通風を生かした秀逸な平面計画がなされている。建設当時はこの場所より富士山が眺望できたという。




東京ルーテルセンタービルの東側に沿って、暁星幼稚園と暁星小学校間を南に上がる坂があります。



27.二合半坂

二合半坂は長さが約190mほどのやや急な坂で、坂の途中で”く”の字形に曲がっています。別名を日光半坂・こなから坂といいます。坂名の由来には複数あり、
 @日光山が半分見えるためという説
 A急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうという説
があります。坂上付近に案内柱が立っています。

二合半坂

江戸時代、この坂の上からは日光山の半分を眺めることができました。富士山の高さを一合〜十合と数えますが、この板から見える日光山は富士山の約半分、すなわち五合の高さでした。五合の日光山のさらに半分で、二合半坂と名付けられたといわれています。江戸時代はこの坂の両側には旗本屋敷が建ち並んでいましたが、明治時代には、坂の東側に英語教育家として知られる神田乃武の邸宅が、西側に和洋裁縫女学院(現在の和洋女子大学)がありました。




暁星小学校のすぐ先にフィリピン大使館公邸があります。鉄筋コンクリート造2階建てで、白い外壁・アーチ型の開口部が特徴のモダンな建物です。元は安田財閥の一人である安田岩次郎の住まいとして建てられ、岩次郎の姪にあたるオノ・ヨーコが幼少期を過ごしたことでも知られています。デザインはスペイン風を基調にゴシック調や和風などが混在しています。フィリピンの国外国家的歴史建造物にも指定されている建物です。フィリピン大使館の周辺には早稲田通りを挟んで東側に歴史的建造物が集中していて、戦火を免れた地域の一部となっています。



フィリピン大使館公邸の南側に沿って下る坂があります。



28.冬青木坂

冬青木坂は「もちのきざか」 と読み、長さが約170mほどのやや急な坂です。別名を餅木坂・万年坂といいます。この坂の横に名前の不明な古い常磐木(ときわぎ:松・杉などのように年中その葉が緑色をしている樹木)があり、一見してもちの木と見間違えたことが坂名の由来になったといわれています。坂の中ほどに案内柱が立っています。

冬青木坂

元禄十年(1697年)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側は元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東角には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた実業家雨宮啓次郎の邸宅がありました。




冬青木坂と九段坂の間に坂が上っています。



坂の途中には築土神社が鎮座しています。



社殿の前には狛犬が睨みをきかせています。

千代田区指定文化財
狛犬

安永九年(1780年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは元禄十年(1697年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。社伝によれば築土神社は、天慶三年(940年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在地を変えて、昭和二十九年(1954年)に現在の場所へ戻ってきました。狛犬が奉納された安永九年(1780年)当時は、牛込門外の筑土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が篤く信仰していた様子がうかがえます。

Chiyoda City Cultural Property
Komainu (Guardian Lion-Dogs)

These komainu were dedicated by the people of Moto-Iidamachi in 1780, which makes them the oldest known dated komainu in Chiyoda City. "Moto-Iidamachi" is the locality name created following urban development in the aftermath of a fire in 1697, and corresponds to current-day Fujimi 1-chome and Kudankita 1-chome. According to the shrine's records, after its enshrinement in 940 at Kamihirakawa, Toshima County, Musashi Province, Tsukudo Shrine was moved to locations at Tayasu, inside Ushigome-mon Gate, and at Mt. Tsukudo outside Ushigome-mon Gate, and was returned to its current-day location in 1954. When the komainu were dedicated in 1780, the shrine was in Mt. Tsukudo outside Ushigome-mon Gate (current-day 2 Tsukudo Hachimancho, Shinjuku City), a more remote location for the people of Moto-Iidamachi, its former location, which underscores their continuous devoutness all the more.




29.中坂

中坂は長さが約190mほどのやや急な坂で、別名を飯田坂といいます。冬青木坂と九段坂との中間にあるため、中坂という坂名が付けられました。坂の中ほどに案内柱が立っています。

中坂

江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになりました。元禄十年(1697年)の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれました。その後、南にある九段坂と北にある冬青木坂の中間に位置することから中坂といわれるようになりました。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心ですが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていました。また、神田祭の山車などはみな中坂を通りました。




今日のゴール地点の九段下駅に着きました。今日も随分と歩いてしまいました。でも多くの名所・旧跡を巡ることができて面白かったです。



ということで、千代田区で二番目の「神田・猿楽町・富士見町コース」を歩き終えました。次で千代田区の坂道めぐりは最後になるかな?





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