千代田区(九段・番町・麹町コース)


踏破記


今日は、先日の「神田・猿楽町・富士見町コース」に引き続き、九段・番町一丁目・番町三丁目・番町五丁目、それに麹町の坂を歩きたいと思います。九段下駅からスタートします。



九段下駅出入口1を出ますと、目の前に九段坂があります。



30.九段坂

九段坂は長さが約430mほどの緩やかな坂で、靖国通りの九段下交差点から九段坂上交差点までの区間です。ちなみに、坂上の交差点名は「九段坂上交差点」ですが、坂下の交差点名は「九段下交差点」となっていて、「坂」が付いていません。理由を調べてみましたが分かりませんでした。「九段」の地名の由来は、幕府が江戸城に勤める役人の御用屋敷を建てた際に、土地の勾配がきつかったために石垣を9段に築いてそこに屋敷を建てたことから「九段長屋」と呼ばれ、坂名も「九段坂」になりました。縄文時代には九段下が波打ち際で、九段坂上に貝塚があったそうです。坂下近くに案内板が立っています。

九段坂

古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治四年(1871年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。

Hill of Kudan

In the past, this was called Iida Hill. It is said that the nagaya (a number of tenement houses built under one long roof) of the official residence were built on nine levels (kudan) along the hill, and that nine levels were constructed due to the steepness of the hill, hence the name Hill of Kudan. The takadoro, a tall stone lantern that served as the lantern for Yasukuni Shrine, was constructed on top of Hill of Kudan in 1871, and the Kaikosha, a club for commissioned army officers was built nearby. The Imperial Capital Construction Plan after the Great Kanto Earthquake of 1923 carried out construction work that greatly reduced the hill, and created a gentle gradient. Hill of Kudan is even now an important part of a main thoroughfare in Tokyo called Taisho-dori (now Yasukuni-dori). When the construction was taking place, the takadoro was moved to the opposite side of the street, where it stands today.




案内板には、偕行社と移転前の高燈籠が一緒に写った写真が添えられています。偕行社は高燈籠に隣接して、明治十三年(1880年)に建てられました。右側の錦絵には高燈籠の前を行き交う人々が描かれています。刀を差した人もいますね。明治維新によって四民平等の政策が導入され、武士の身分を撤廃させるために廃刀令が公布されたのは明治九年(1876年)のことです。この錦絵の高燈籠が建てられたのは明治四年(1871年)ですから、描かれた時期は明治四年から明治九年の間と推定されます。


明治時代の九段坂上にあった陸軍の将校クラブ偕行社と高燈籠
Kaikosha (Army Officers' Club) and Takadoro lighthouse


明治時代初期の九段坂を描いた錦絵
Hill of Kudan in the 1870s.


歩道脇の植え込みの中に石碑が置いてあり、北斎が描いた九段坂の錦絵と共に、解説文が添えられています。殆ど崖のような九段坂ですが、現在のようななだらかな勾配にするのは大変な労力が必要だったことでしょう。

くだんざか・うしがふち 葛飾北斎

北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては“九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入り口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新らしい西洋風の写生的空間表現となっている。

kudanzaka Ushigafuchi Katushika Hokusai

Katsushika Hokusai (1760-1849) was born in the Honjo section of Edo (now Tokyo). He produced a wide variety of art pieces which incorporated his unique sense of aesthetics. His woodblock prints from the end of the Kansei period to the beginning of the Kyowa period (around 1800) were influenced by Western art, which was a radical departure for Japanese art. This print is one of his most typical, characterized as it is by the title and the artist's name written on their side in hiragana and running from left to right. The steep, ocher slope on the right-hand side is Kudanzaka ("slope with nine steps"), which once had nine gently sloping steps. A Bukeyashiki (samurai's dwelling) with stone walling and Nagayabei (Japanese-style hedge) stands to the right, facing the slope. Silhouettes of people and other premises are also shown. On the left of the slope is a deep-green cliff, the height of which has been exaggerated by Hokusai. On the left-hand side of the print is a broad panorama, an original style of Hokusai. Hokusai used silhouettes for the trees and cliff, rather than outlining them in detail, in order to give a three-dimensional effect. The upper part of the cliff to the left of the print is called Chidorigafuchi and the lower part is called Ushigafuchi, The path going leftward leads to Tayasumon, now the entrance to the famous Budokan hall. The towering summer clouds, which depict the scene very realistically, are in the Western style that was new to Japan at that time.




九段坂の右手には広大な敷地の靖国神社が鎮座しています。参道の入口には巨大な鳥居が聳えています。「鳥居」は、神様のお遣いの鳥が「止まり居る」という意味から名付けられたといわれています。この鳥居は大正十年に日本一の大鳥居として誕生し、「空をつくよな大鳥居」と歌われ親しまれてきました。昭和十八年に老朽化のために撤去されましたが、戦友や崇敬者により昭和四十九年に再建されました。最新技術の耐候性鋼で作られ、柱の高さは25メートル、直径2.5メートル、上の横木である笠木(かさぎ)は長さ34メートル、直径は2.7 メートル、重さは100トンという規模で、日本で最高・最大級の大鳥居です。震度7の地震にも耐え、風速80メートルの風にも揺らぐことは想定されていないとのことです。耐用年数が何と1200年というのも驚きです。案内板に神社の由緒が記されています。

由緒

靖國神社は、明治二年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりで、明治十二年に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「みたま(神霊)」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖國」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」・「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

History

The origins of Yasukuni Jinja lie in a shrine called Shokonsha, which was established on June 29 in the second year of the Meiji era (1869) by the will of the Emperor Meiji. In 1879, it was renamed "Yasukuni Jinja", the name it still bears today. The shrine was established to commemorate and honor the achievements of those who dedicated their precious lives to their country. The name "Yasukuni", bestowed by the Emperor Meiji, means to preserve peace for the entire nation.




靖国神社を出て、神社の北側の塀に沿って進みます。西の方向に向きを変えた先に真っ直ぐな坂が下っています。



31.富士見坂

富士見坂は長さが約150mほどあり、昔はこの坂から富士山の美しい姿が見えたことに因んで坂名が付けられました。坂上付近に案内柱が立っています。

富士見坂

この坂のある台地から、富士山がよく見えたため富士見坂の名前が付けられました。千代田区内には富士見坂が三か所あり(神田小川町三丁目、永田町と紀尾井町の境)、いずれも富士山を見ることができたことからその名が付けられています。




富士見坂下の先で左折し、靖国通りに向かう坂を上ります。道路の左手には「法政大学新一口坂校舎」と表示されています。



32.一口坂

一口坂は長さが約240mほどの緩やかな上り坂です。一口坂の本来の読み方は「いもあらいざか」です。珍しい読み方ですが、昔は疱瘡(ほうそう)を「いもがさ」とか「へも」と呼んでいて、かってこの辺りに疱瘡の治療に霊験あらたかな社があったためにこの坂名が付いたとのことです。

一口坂

現在では一口(ひとくち)坂と呼ばれていますが、本来は一口(いもあらい)坂という名称が正しいと言われています。「いもあらい」とは、疱瘡のことを「いもがさ」、「へも」と呼びますが、疱瘡を洗う(治す)ことを示しています。現在は痕跡がありませんが、坂の下に疱瘡の治癒に霊験のある一口(いもあらい)稲荷が祀られていたと言われ、それが坂名の由来になりました。




現在では、一口坂は「ひとくちざか」と読んでいるようです。案内柱の坂名表示も坂上の靖国通り上の交差点の信号機の表示も「Hitokuchi−zaka」と書かれています。



靖国通りを市谷方向に進みます。道路脇に、千代田区の町名由来版が立っています。

九段四丁目

九段四丁目界隈は、江戸時代から昭和初期まで三番丁・四番丁と呼ばれていました。九段北と九段南を分けて走る靖国通りも、かつては三番丁通りと呼ばれ、幅が8メートルほどの細い道でした。武家の屋敷町ということもあり閑静な通りだったそうです。かつて、旗本一番組から六番組まであった徳川家の親衛隊が江戸城の西側に住居を与えられ、旗本の町をつくったのが、番町の名のおこりでした。しかし、明治維新に際し、徳川慶喜の跡を継いだ徳川家達が静岡に領地を与えられて江戸を離れると、旗本がこれについていったため、一時は町内が閑散とした状態だったようです。その後、官有地として公人の住まいに転用されたり、商家が登場したりするなどして徐々に賑わいを取り戻していきました。隣接する九段三丁目界隈は、上三番町と呼ばれ花街として栄える一方で、九段四丁目は下三番町と呼ばれ、上三番町を支える商人街として発展してきたのです。昭和八年の区画整理にともなう町名変更のとき、住民の意志を反映して初めて「九段」という町名が誕生しました。そして下三番町地域と四番町の西側半分が一つとなり、九段四丁目となったのです。もともと下三番町時代の大正八年(1919年)に、氏神である日枝神社(千代田区永田町)の町会神輿を維持していた「三番町睦会」が、関東大震災と太平洋戦争という大きな試練をのりこえて、現在の九段四丁目につながっています。先人たちが命がけで守ってきた大神輿は二代目となりましたが、江戸文化を継承し、また、江戸天下祭「山王祭」の一翼を担うという自負心が、九段四丁目気質となってしっかり受け継がれています。

Kudan 4-chome

Until the 1920s, this area used to be known as Sanbancho and Yonbancho. Retainers of the shogun were given housing here on the western side of Edo Castle. While neighboring 3-chome flourished as an entertainment district, 4-chome acted as a merchant town supporting its trade. Through the local residents' association, the townspeople have continued to preserve Edo's cultural heritage, and take charge of part of the Sanno Festival, one of Tokyo's major annual events.




別の案内板の地図には坂が沢山見られます。「市谷」という地名にも納得です。



市ケ谷駅前交差点のひとつ手前から水道会館の横まで坂が上っています。坂の途中には日本棋院の本部ビルがあります。現在のビルは昭和四十六年(1971年)に建てられました。ちなみに、CS放送でお染みの囲碁・将棋チャンネルの本社は日本棋院ビルの地下にあります。本社の所在地が地下というのは珍しいですね。



33.帯坂

九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は帯坂と呼ばれています。帯坂は長さが約120mほどのやや急な階段で、別名を「切通坂」といいます。「番町皿屋敷」のお菊が髪をふり乱し、帯をひきずって逃げたという伝説に因んで名付けられました。番町皿屋敷とは、江戸時代に作られた怪談話です。舞台となるのは、江戸時代に番町にあった旗本の屋敷です。

この屋敷には十枚一揃えの皿があり、主である青山主膳はこの皿を大層大事にしていました。しかし、あるとき下女のお菊が揃え皿のうち1枚を誤って割ってしまいます。このことで青山主膳から厳しい折檻を受けたお菊は縄で縛られたまま屋敷にあった井戸に身を投げて命を絶ちました。その後、この井戸からは悲しそうな声で「1枚、2枚・・・」と皿を数える声が聞こえるようになりました。さらに、青山の妻が産んだ子には生まれつき中指がありませんでした。これを見た青山主膳は折檻の際にお菊の中指を切り落としたことを思い出しました。そうするうちに誰ともなくこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、事件の噂が広まりました。やがて一連の騒動は幕府の知る所となり、青山家は領地召し上げになりました。その後も皿数えの声が一向に止まないのを受けて読経を依頼されたのが文京小石川の傳通院の了誉上人でした。いつもの通り皿数えが始まったので、その声が「9枚。。。」と数えた後にすかさず上人が「10枚」と数えます。すると「あら、嬉しや。皿が揃った」という女性の声が聞こえ、それから皿を数える声はピタリと止んだのでした。

番町皿屋敷の「番町」とは、江戸時代にこの一帯にあった江戸城や要地の警護を担う「大番衆」の屋敷地の呼称です。屋敷地には一番町から六番町という区画が割り当てられ、これをまとめて番町と呼ぶようになりました。番町皿屋敷の主は、火付盗賊改方の青山主膳という人物です。火付盗賊改方とは、江戸時代に横行していた放火や強盗といった凶悪犯罪を取り締まるための役職です。青山は非常に厳しく、残虐な性格の持ち主でした。「10枚のうち1枚を割ったから」という理由でお菊の指を一本切り落としたのです。お菊は台所で水仕事を担当する下女で、青山が捕らえて死刑にした盗賊の娘だったといわれています。手打ちにするため監禁されたお菊は殺される恐怖に耐え切れず、縄で縛られたまま井戸に身を投げたのです。こうして毎夜井戸から皿を数える声が聞こえるようになったのです。

坂上に案内柱が立っています。

帯坂

江戸時代の有名な怪談「番町皿屋敷」に登場するお菊が、髪を振り乱して帯を引きずりながら通ったという伝説から名付けられたと言われますが、話の中ではお菊は殺害され井戸に投げ込まれているので、辻褄が合いません。別の説では、お菊ではなく「東海道四谷怪談」のお岩が通ったとも言われており、広く知られた怪談話に由来するという点では一致しています。また、寛永年間(1624年〜1643年)の外堀普請の後に、市ヶ谷御門へ抜ける道として造成されたため、切通し板の別名もあります。




市ケ谷駅前交差点から日テレ通りが麹町方向に延びていますが、その交差点から坂が上がっています。



34.新坂

新坂は長さが約160mほどの緩やかな坂で、明治末期に開かれた新しい坂であったためにこの坂名が付けられました。坂上近くに案内柱が立っています。

新坂

江戸時代、この場所は武家屋敷で、道はありませんでした。人々は、東側にある帯坂か、西側にある三年坂を通っていました。明治時代に、東京の都市計画が決められていく過程で、道路整備がすすめられ、大正元年(1912年)の地図上でこの坂道を確認することができます。




市ケ谷駅前交差点のすぐ先から右折して外堀公園沿いの路地を入った左手に、マンションの間を坂が上っています。ここは五番町です。



35.三年坂

三年坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、別名を「三念坂・三枝坂」といいます。現在は「三年坂」と呼ばれていますが、正しくは「三念坂」です。昔、この付近に三念寺というお寺があったことに因んで三念坂と名付けられました。坂上に案内柱が立っています。

三年坂

かつて、三念寺という寺院があったことから名付けられました。本来は三念寺坂であったと考えられますが、三年坂の通称が定着し現在に至っています。




東郷公園前交差点から東郷通りを南へ下る坂があります。

36.東郷坂

東郷坂は長さが約120mほどのやや急な坂で、別名を法眼坂といいます。坂の東側に東郷平八郎元帥の邸があったためことに因んでこの坂名が付けられました。坂の東側には東郷元帥記念公園があります。公園は高台の区画と低地の区画からできていて、低い区画は昭和四年に上六公園として開園し、その後昭和十三年に公園に隣接していた高台の東郷平八郎(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官)の私邸を東郷元帥記念会から寄付を受けてひとつの公園として開園しました。園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。以前は坂下付近に案内柱が立っていたようですが、東郷元帥記念公園が改修中のためか、現在は撤去されています。その案内柱には次のように記されていたそうです。

東郷坂

この坂を東郷坂といいます。東郷元帥邸の西側にあるこの坂は、明治三十八年(1905年)10月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。 むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂・ 法眼坂(行人坂)・南法眼坂の三つの名にわかれていますが、古い地図を見ると「法眼坂」のみかかれています。




公園の東側に隣接する九段小学校の校舎はレトロな外観で、現存する関東大震災の震災復興小学校としては最古であり、千代田区に残る唯一の校舎です。前身である上六尋常小学校は明治三十六年(1903年)に創立されましたが、創立当時の校舎は関東大震災により焼失し、大正十五年(1926年)に今の建物が建てられました。



東郷坂下の交差点の少し先から上り坂になっています。

37.行人坂

行人坂は長さが約110mほどのやや急な坂で、別名を法印坂といいます。昔、この辺りに行人(仏教の道を修行する人)が住んでいたことに因んで坂名が付けられました。以前は案内柱が立っていたとのことですが、現在はマンション工事で撤去されたのか、見当たりません。以前の案内柱には次のように記されていたそうです。

行人坂

この坂を行人坂といいます。「新撰東京名所図会」には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方に上がる坂を称す」とかかれています。また「御府内備考」にも「行人坂、古某法印と称する行人この辺りに居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という。」とあります。もともと一連の坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。




大妻通りの大妻女子大学手前の交差点から坂が上っています。



大妻女子大学の校舎前の歩道脇に、「佐野善左衛門宅跡」と書かれた案内板が立っています。どうでもいいのですが、女子大なのに外部と構内を仕切る塀はないんですね。オープンといえばそれまでなんですけど、ちょっと物騒。

佐野善左衛門宅跡

現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。天明四年(1784年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言は、江戸城内で若年寄の田沼意知(老中田沼意次の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自害しました。当時、飢饉や大火が続き、物価が高騰していましたが、この刃傷事件が米価の下落の時期と重なり、さらに老中田沼意次が失脚したことから、善左衛門政言は「世直し大明神」と江戸の人々から崇められました。この事件を脚色した歌舞伎の「有職鎌倉山」や黄表紙「黒白水鏡」(石部琴好作・山東京伝画)はこの事件を風刺したものと言われています。善左衛門政言の墓所は台東区の徳本寺にあります。

Remains of Sano Zenzaemon's Residence

The residence of the Sano clan, retainers to the Shogun, was near current-day Otsuma Gakuin Educational Institution. The Sano clan was a samurai clan with the hereditary duty of guarding Edo Castle, the Shogunate's stronghold. On April 24, 1784, the head of the clan, Sano Zenzaemon Masakoto attacked Tanuma Okitomo (an aide to the Council of Elders and son of Tanuma Okitsugu, a member of the Council of Elders) with his sword within Edo Castle, and was later ordered to take his own life by seppuku (disembowelment). A succession of crop failures and large fires at the time had caused a sudden jump in the prices of goods, but this bloodshed coincided with a fall in the price of rice, and the loss by Council of Elders member Tanuma Okitsugu of his position, so Zenzaemon Masakoto came to be revered by the people of Edo as "a Great Shining Deity of Social Reform." Dramatizing this incident are the kabuki play Yushoku Kamakurayama and the illustrated story book Kokubyaku Mizukagami, (written by Ishibe Kinko, illustrated by Santo Kyoden) which are also said to satirize it. The grave of Zenzaemon Masakoto is in the grounds of Tokuhonji Temple in Taito City.





38.御厩谷坂

御厩谷坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、江戸時代に徳川将軍家の厩舎があったことから御厩谷と呼ばれ、御厩谷にかかる坂ということでこの坂名が付けられました。坂上付近に案内柱が立っています。

御厩谷坂

坂下の谷筋(現在の大妻学院から九段小学校に向かう道筋)に江戸時代、徳川将軍家の厩舎があったことから名付けられました。その後、旗本屋敷などの武家地となり、明治以降は華族や実業家などの邸宅が多く建設されました。




千代田区には「鍋割坂」が2ケ所あります。国立劇場脇の坂は殆ど傾斜はありませんが、内堀通りから千鳥ヶ淵に繋がる坂は中央部分が盛り上がっていて坂名とよく合っています。



39.鍋割坂

鍋割坂は長さが約90mほどの中央部分が盛り上がった緩やかな坂です。伏せた鍋のような形状の坂であることからこの坂名が付けられました。

鍋割坂

鍋を伏せたような形状をした台地を割ったように坂道が通っていることから名付けられました。同名の坂道は各地にあり、千代田区内では隼町(国立劇場北側)にも鍋割坂があります。




桜の季節の千鳥ヶ淵緑道にはよく行きますが、それ以外の季節でも散策が楽しめます。



千鳥ヶ淵緑道に植えられている桜は春になると豪華絢爛に開花しますが、将来を見据えて「さくら再生計画」が進行中です。

さくら再生計画インフォメーション

区内には約3、000本のさくらがあります。しかし、これらは戦後まもなく植えられたものが多く、老朽化が進行していると同時に、生育環境の悪化、病虫害などによって樹木の勢いが衰えており、そのままでは将来的に十分な花をつけることが難しくなっていく状況でした。そこで、千代田区にふさわしい、日本を代表するさくら景観を創造、持続することを目的として、千代田区は、「区の花さくら再生計画」に取り組んでいます。

Sakura Revitalization Plan

There are approximately 3,000 cherry trees in Chiyoda-ku. However, the force of the tree declined by aggravation of the growth environment, damage from disease and harmful insects at the same time as these had many things planted soon after the war, and deterioration progressed, and it was the situation that became difficult to touch the flower which it was the same, and was enough in the future. Therefore I create the cherry tree scene on behalf of Japan appropriate for Chiyoda-ku, and Chiyoda-ku wrestles for "the flower cherry tree revival plan of the ward" for the purpose of lasting.




千鳥ヶ淵戦没者墓園の前に案内板が立っています。

千鳥ヶ淵緑道と桜並木

千鳥ヶ淵は、東京屈指の桜の名所とされ、皇居を囲む内濠の中で、もっとも親しまれているお濠です。千鳥ヶ淵緑道の桜並木は、昭和三十年代にソメイヨシノを植栽したことから現在に至ります。開花時期(見ごろ)は、3月下旬から4月上旬ごろになり、毎年多くの花見客が訪れます。

Chidorigafuchi Ryokudo (Greenway) and Cherry Blossoms

The Chidori-ga-fuchi Moat is a superb place in Tokyo to see cherry blossoms. It is the most well-known moat among the moats that encircle the Imperial Palace. The cherry blossoms along the Chidorigafuchi Ryokudo are of the Somei-Yoshino variety and were planted in the late 1950s. They begin to bloom between late March and early April and attract throngs of visitors every year.

千鳥ヶ淵

千鳥ヶ淵は、旧江戸城の築城にあわせて、内濠(うちぼり)の一部として造られました。現在の千鳥ヶ淵と半蔵濠はもともと一つで、明治三十四年(1901年)に代官町通りの道路工事に伴い分断され、今の形となりました。千鳥ヶ淵の名の由来は、V字型の濠が千鳥に似ているからといわれています。千鳥ヶ淵は、旧江戸城の一部として、昭和三十八年(1963年)に文化財保護法による特別史跡「江戸城跡」に指定されています。

The Chidori-ga-fuchi Moat

The Chidori-ga-fuchi Moat was constructed as part of the moat system of Edo Castle during its construction. What are now called Chidori-ga-fuchi Moat and the Hanzo-bori Moat were formerly conjoined; but, in 1901, they were separated to construct Daikan-cho-dori Street. The origins of the name Chidorigafuchi come from the resemblance of the V-shape of the moat to the chidori (plover bird). The Chidori-ga-fuchi Moat was designated a special historical site, as part of the Edo Castle ruins, under the Cultural Properties Protection Law in 1963.




墓園入口交差点で内堀通りを横断し、そのまま進むと坂が上っています。



40.五味坂

五味坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、別名を甲賀坂・光感寺坂といいます。坂名の由来ははっきりしていませんが、坂の辺りは「五番町」で坂を登ると「上二番町」だったために、二つの街を結ぶ坂として「五二(ごに)坂」と坂名が付き、「五味坂」に変わったのではないかといわれています。坂上付近に案内柱が立っています。

五味坂

坂下の「五番町」と坂上の「上二番町」を結ぶ「五二」がなまって「ごみ坂」と呼ばれるようになったと言われています。なお、戦前に行われた区画整理によって、現在では五番町と上二番町は一番町に含まれています。また、かつて坂の付近にあった寺院の名にちなんで光感寺坂という別名もありました。




五味坂上から左手に、一番町交差点まで坂が下っています。



41.袖摺坂

袖摺坂は長さが約110mほどの緩やかな坂で、かつてはこの坂道は狭く、行き交う人の袖と袖が触れあうほどであったことからこの坂名が付きました。

袖摺坂

現在では幅の広い道となっていますが、かつては行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったことから名付けられました。明治時代、付近には作曲家の滝廉太郎や小説家・詩人の国木田独歩などが住んでいました。




一番町交差点を右折し、少し進みますと右手に急な坂が上っています。



42.南法眼坂

南法眼坂は長さが約120mほどのやや急な坂で、別名を行人坂・きんつば坂といいます。法眼坂(東郷坂)の南にある坂なのでこの坂名が付きました。

南法眼坂

江戸時代、この坂の脇に斎藤法眼という医師の屋敷があったことから名付けられました。法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。




一番町交差点に戻って南へ進みますと、半蔵門駅通りが上り坂になっています。



歩道脇に、一番町の町名由来案内プレートが立っています。

千代田区町名由来板 一番町

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅もありました。明治五年(1872年)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。英国大使館の裏手には、明治三十三年(1900年)、津田梅子が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。これが現在の津田塾大学の前身です。文化人たちにも一番町は愛されていました。小説家、劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城の月」「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、「からたちの花」「赤とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。昭和三十二年(1957年)に制定された「千代田区歌」は、佐藤春夫が作詞、山田耕作が作曲したもので、英国大使館前に区歌の碑が残されています。昭和十三年(1938年)、かつての五番町と上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎を築いた町、それが一番町なのです。




43.永井坂

永井坂は長さが約250mほどの緩やかな坂で、江戸時代に坂の両側に永井勘九郎・永井奥之助という旗本が向かい合って住んでいたためにこの坂名が付けられたといわれています。

永井坂

江戸時代、この坂道を挟んだ両側に五百五十俵取りの旗本・永井勘九郎と五百石取りの旗本・永井久右衛門の屋敷があったことから名付けられました。明治時代になると、坂の周辺には華族や官吏の邸宅が く建設されるようになりました。




半蔵門駅通りと並行して、西側に2本の坂が上っています。麹町小学校の東側を北に上る坂の方が後で出来たようです。
44.正和新坂

正和新坂は長さが約140mほどのやや急な坂で、坂名の由来は不明です。坂名から、「昭和坂」の間違いではないかと思われるかもしれませんが、正和坂は江戸の切絵図に既に記されています。新坂は明治・大正時代の命名であることは明らかです。太平洋戦争中には、坂名に因んだと思われる正和会という隣組が結成された記録が残っています。



もう1本の坂は、麹町小学校の西側と麹町学園女子中・高の東側の間を上る坂です。
45.正和坂

正和坂は長さが約130mほどのやや急な坂で、坂名の由来は不明です。正和新坂と同じく、坂名から、「昭和坂」の間違いではないかと思われるかもしれませんが、正和坂は江戸の切絵図に既に記されています。太平洋戦争中には、坂名に因んだと思われる正和会という隣組が結成された記録が残っています。



日テレ通りと新宿通りの交点にある麹町四丁目交差点に向かって坂が上っています。



坂下近くに、「鎮護山善国寺碑」と書かれた石碑が置いてあります。坂名の由来となった善国寺がこの地にあったという記念碑です。

名刹 鎮護山 善国寺碑

寛文十年馬喰町より麹町に移り、寛政四年まで所在。




46.善国寺坂

善国寺坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、坂名は昔この坂上に鎮護山善国寺というお寺があったことに由来します。坂上の新宿通りの交差点脇に案内柱が立っています。

善国寺坂

この坂の上に鎮護山善国寺という寺院があったことから名付けられました。善国寺は、寛政十年(1798年)の火事により焼失し、牛込神楽坂に移転しました。周辺には幕府の薬園がありました。坂の下は善国寺谷や鈴振谷と呼ばれていました。




今日のゴール地点の麹町駅に着きました。白木屋のネオンがお散歩で喉が渇いた私を誘っています。



ということで、千代田区で三番目の「九段・番町・麹町コース」を歩き終えました。次で千代田区の坂道めぐりは最後になるかな?





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