千代田区(麹町・平河町・永田町・霞が関コース)


踏破記


今日は、先日の「九段・番町・麹町コース」に引き続き、麹町の残りの坂と、平河町・永田町・霞が関の坂を歩きたいと思います。麹町駅からスタートします。



麹町駅出入口3を出て新宿通りを半蔵門方向に進みます。歩道脇に麹町の町名の由来を記した案内板が立っています。

麹町三丁目

麹町という町名は、江戸城の西側に位置する山の手台地で広く使われています。「こうじ」という町名の由来については、この界隈に入り組んだ「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物や糖などを発酵させた「麹」を扱う店が多かったためともいわれています。ほかにも国府と呼ばれた地方行政機関へ向かうための道「国府路(こうじ)」があったことからという説もあります。いずれにしても、「こうじ」という地名が、江戸時代から存在していたことは間違いありません。江戸城からほど近いこの台地には、武士たちが住んでいたようです。ただ、新宿通り(甲州街道・国道20号)沿いだけは、町屋として商人や職人が集まり住んでいました。現在の麹町三丁目にあたるこの地域も、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」によれば、鰹節や鰻の蒲焼、蕎麦、薬、菓子、そして墨、硯、筆などを売る店があったことが記されています。現在では、ビルが立ち並ぶビジネス街に生まれ変わった麹町三丁目ですが、江戸時代から明治、大正期には、人々の生活に密着した”商店街”が形づくられていたのです。

Kojimachi 3-chome

There are many theories regarding the origins of the name of this neiborhood, since koji has many meanings including "fermenting agent", "alley" and "the road to the capital". The Koshu Kaido, one of Japan's major highways, started in this town and ran all the way to Koshu (present-day Yamanashi Prefecture).




半蔵門交差点の角にエフエム東京の本社が入居するお洒落なビルが建っています。エフエム東京の前身は1960年に東海大学が開局した民間が運営する日本初の超短波(FM)放送の実用化試験局であるFM東海です。「東海」といっても、名古屋ではなく東京というところがミソです。1970年4月26日、一般放送事業者が開設する超短波放送局として、FM愛知・FM大阪に次いで日本で3局目として開局しました。現在では、全国ネットワークを保有する日本で唯一の民放FM局になっています。あまり知られてはいませんが、東京メトロポリタンテレビジョン株式会社(TOKYO MX)の大株主になっています。昔はよく聴いたのですが、今やFM放送の受信機すらも持っていません。



内堀通りに面した国立劇場とグラントアーク半蔵門の間を坂が上がっています。この辺りの町名は「隼町」といいます。

千代田区町名由来板 隼町

江戸城内堀に面したこの界隈には、徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠たちの屋敷がありました。鷹匠とは、タカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。江戸時代、このあたりには、播磨明石藩松平家や、三河田原藩三宅家などの武家屋敷や、火消役屋敷がありました。田原藩の家老となり、画家・思想家としても名高い渡辺崋山も、この地に生まれ、生涯の大部分を過ごしました。元禄年間(1688年〜1704年)、麹町通りに面した町屋裏の武家地(現・麹町一丁目五番地および七番地)は町人地となり、麹町隼町と呼ばれていました。それが、明治五年(1872年)、麹町一丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に、由緒ある「隼町」という町名が付けられることになったのです。明治以降、町内には陸軍の施設であった教育総監部、東京衛戌病院、航空本部などが立ち並び、隼町は軍と関係の深い土地になりました。そんな隼町に、昭和四十一年(1966年)、日本の伝統芸能の保存と振興のために国立劇場が開場しました。同四十七年(1972年)、その隣に最高裁判所が建ち、また同五十四年(1979年)には、国立劇場敷内に国立演芸場が開場しました。国立劇場および演芸場は、歌舞伎・文楽や落語・講談などの伝統芸能の公開、調査研究を目的とした施設です。こうして戦後の隼町は、日本の司法と伝統文化にかかわる町として生まれ変わったのです。




47.鍋割坂

鍋割坂は長さが約160mほどの坂で、坂下から緩やかに上っています。私は殆ど感じなかったのですが、坂上から下っていて、その形状が全体として鍋をひっくり返したように見えることからこの坂名が付けられたとのことです。



現在は鍋割坂の突き当たりにマンションが建っていてその先は見通せませんが、かっては鍋割坂は平河天満宮(平河天神)の正面に出る由緒ある参道坂でした。昭和三十年代には、内堀通り桜田濠に面して一の鳥居が建っていたそうです。平河町の町名が平河天満宮に由来していたとは知りませんでした。

平河天満宮(平河天神)御由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)。慶長十二年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。




平河天満宮の一の鳥居は銅製で、味の良い緑青が長年の風雪を感じさせます。

千代田区指定文化財 平河天満宮銅鳥居

この銅鳥居は弘化元年(1844年)12月に、麹町周辺の人々により建設・奉納されたものです。柱木自体は石製で銅板が巻き付けられています。鳥居を制作したのは、神田鍛冶町に居住した鋳物師の西村和泉藤原政時です。左右の台座部分には、4体ずつ獅子の彫刻がのせてあるなど特徴があります。左右の柱木には丸く銅板が欠損し、内部の石が露出している部分があります。これは戦時中、空襲の際の機銃掃射によるものです。

Chiyoda City Cultural Property
Hirakawa Tenmangu Shrine Torii Gate

This copper torii was constructed and dedicated by the people of the Kojimachi area in December 1844. The pillars themselves are made of stone and are wrapped in copper sheeting. The torii was made by Nishimura Izumi Fujiwara Masatoki, a metal founder who lived in Kanda Kajicho. A feature of this torii is its sculpted lions (shishi), four each adorning the left and right pedestals. Some of the rounded copper sheeting has come off the left and right pillars revealing portions of the inner stone. This damage was caused by machinegun fire during a wartime air raid.




本殿の前には狛犬が鎮座しています。

千代田区指定文化財 狛犬

この狛犬は享和元年(1801年)麹町周辺の人々によって奉納されました。嘉永三年(1850年)の火災で角や足が失われましたが、嘉永五年(1852年)の祭神菅原道真公の950年遠忌にあわせて補修し、再設置されました。狛犬の原型は、京都の御所の紫宸殿賢聖障子という障屏画といわれています。この障壁画には、一対の「獅子」と「狛犬」が描かれていますが、頭上に角をもっているのが狛犬です。平河天満宮もまた、本殿向かって「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)とが対になっています。狛犬の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みがあり、角が掛け(欠け?)落ちた跡が見られます。

Chiyoda City Cultural Property
Komainu(Guardian Lion-Dogs)

These komainu were dedicated by people from the Kojimachi area in 1801. The horns and feet were lost in a fire in 1850, but in 1852, at the time of the 950th anniversary of the passing of an enshrined deity, the nobleman Sugawara-no-Michizane, they were repaired and the statues were returned to theor places. The komainu are said to have been modeled on komainu pictures painted on sliding door panels called Shishinden Genjo no Shoji, which are in the Imperial Palace in Kyoto. The sliding door panels show a shishi (lion) and a komainu as a pair, but the komainu is the one depicted with horns on its head. At Hirakawa Tenmangu Shrine as well, facing the main hall are a paired shishi (right) and komainu (left). There is a cavity about 10cm across and 5cm deep on the top of the komainu's head, where a horn has come off.




天満宮といえば菅原道真、菅原道真といえば撫牛ですよね。撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分を撫でた後、牛の座像の置物の同じ箇所を撫でると悪いところが牛に移って病気が治るという信仰習俗のことです。

千代田区指定文化財 石牛

嘉永五年(1852年)に、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されました。区内における学芸関係者の天神社に対する信仰の様子を物語る資料として重要です。1852年は、祭神菅原道真公の950年遠忌にあたり、平河天満宮では2月25日から60日間にわたって御開帳が行われました。この時にあわせて石造物が多数奉納されており、現在も境内の各所で見ることが出来ます。

Chiyoda City Cultural Property
Ishiushi (Stone Ox)

This statue was dedicated in 1852 by disciples of Kishizawa Uwasa, a composer of songs in the Tokiwazubushi school of Joruri (dramatic ballads), from Kojimachi. It is an important cultural property that tells of the faith in Tenjinsha Shrine amongst those in the fine arts and literary worlds in Chiyoda City. In 1852, a gokaicho (Buddhist image unveiling) was held at Hirakawa Tenmangu Shrine from February 25 for 60 days, to mark the 950th anniversary of the passing of the enshrined deity, the nobleman Sugawara-no-Michizane. Numerous works in stone were dedicated at the time of the anniversary and can be seen throughout the shrine grounds today.




多くの神社の境内には力石が奉納されています。昔も今も力自慢は自分をアピールできますからね。力石の隣には筆塚もあります。

千代田区指定文化財 力石(天龍石)/筆塚

力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。この力石は長径80cm、短径60cmの卵型に近い形をしており、表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」という銘文が刻まれています。

この筆塚は菅原道真公950年遠忌の嘉永五年(1852年)2月に奉納されました。「筆塚」の文字は楳庵蟻道によるものですが、楳庵はもとより奉納者についてもよくわかっていません。

Chiyoda City Cultural Property
Chikaraishi and Fudezuka

Chikaraishi ("strength stones") are round or oval shaped stones (ishi) of a set weight kept in shrine grounds or other places where the local community gather or meet, and are said to have been used to test young men's strength (chikara). This chikaraishi is almost oval, 80cm long, and 60cm wide. The inscriptions on the face are, in the center, "Tenryuishi" ("Heaven Dragon Stone"), at right “Judana Sukejiro Korewomotsu", and at left, "Onajiku Shinsuke".

This fudezuka (mound covering reverently buried old writing brushes) was dedicated in February 1852 on the 950th anniversary of the passing of the nobleman Sugawara-no-Michizane. The word "Fudezuka" was inscribed by Baian Gidou, but it is not known who Baian was, nor who dedicated the mound.




鳥居の後ろには常夜灯が建っています。

千代田区指定文化財 常夜燈

常夜燈は、本来左右一対の2基で存在したと思われますが、完形で現存するのは本殿から見て左側の1基のみです。平河天満宮が昭和二十年(1945年)の空襲で被災したため、その際に右側は破損したと思われます。銘文によれば嘉永五年(1852年)閏2月に、石工の弥兵衛および留三郎によって作られ、雲龍堂と龍海堂の門弟らによって奉納されました。雲龍堂は麹町八丁目(現在の麹町五丁目)に文政年間に開業した寺子屋で、龍海堂は松田町(現在の鍛冶町二丁目)に文化元年(1804年)に開業した寺子屋です。平河天満宮は学問の神として知られる菅原道真公(845年〜903年)を祀っており、奉納された1852年は菅原道真公の950年遠忌にあたります。常夜燈はこの機に合わせて、学業成就などを願い奉納されたものと考えられます。

Chiyoda City Cultural Property
Joyato (Nightlight)

While it is likely that a pair of nightlights originally stood opposite each other on the left and right, there is only one complete nightlight today, standing on the left (when facing away from the main hall). It is believed that the nightlight on the right was destroyed when Hirakawa Tenmangu Shrine was damaged in an air raid in 1945. According to the inscription, the nightlight was made by stonemasons Yahee and Tomesaburo in February 1852 (a leap year) and was dedicated by students from Unryudo and Ryukaido. Unryudo is a temple school established in Kojimachi 8-chome (current-day Kojimachi 5-chome) in the Bunsei Era (1818-1831), while Ryukaido is a temple school established in 1804 in Matsudacho (current-day Kajicho 2-chome). Hirakawa Tenmangu Shrine enshrines the nobleman Sugawara-no-Michizane (845-903), known as the patron deity of learning, and 1852, the year of the nightlights' dedication, was the 950th anniversary of his passing. It is thought that the nightlights were dedicated on this occasion as an offerring for the advancement of academic achievement.




平河天満宮の南側の交差点先から坂が”く”の字形に上っています。



48.中坂

中坂は長さが約90mほどの緩やかな坂で、江戸時代には北側に町屋・南側に武家屋敷が建ち並んでいて、その間の坂だったためにこの坂名が付いたといわれています。坂の中ほどに案内柱が立っています。

中坂

元禄四年(1691年)の絵図を見ると、この場所にはまだ道がありませんが、宝永元年(1704年)以降の図を見ると、町屋ができると共に中坂も開削され、現在の道路の形とほぼ違いがないことがわかります。北側の町屋と南側の武家屋敷の中間に位置することから名付けられたと考えられます。




中坂の坂上を左折した先に、右手に上がる坂があります。



49.貝坂

貝坂は長さが約90mほどのやや急な坂で、別名を甲斐坂といいます。坂名には、坂の近くで貝塚が発見されたためとか、甲州街道の一里塚の呼称だった「甲斐塚」に因むとか、複数の説があります。

貝坂

江戸時代、この場所は甲州街道沿いにあたり、そこにあった一里塚が「甲斐塚」と呼ばれていたという説と、かつて貝塚があったことから貝坂と名付けられたという説があります。




江戸時代末期にはこの辺りに蘭学者の高野長英の塾があり、坂上のビルの壁面には「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」というプレートが埋め込まれています(左側の建物の1階の窓の手前の黒いプレートがそれです)。



紀尾井町交差点の先から右手に上がる坂があります。坂上は新宿通りになっています。



50.いちょう坂

いちょう坂は長さが約80mほどのやや急な坂で、坂の両側に銀杏の木が植えてあることから坂名が付けられたと思われます。案内柱は立っていませんが、「いちょう坂通り」の標識があります。



いちょう坂の坂下付近から長い坂が下っています。



51.清水谷坂

清水谷坂は長さが約190mほどの左右に曲がりながら下る緩やかな坂で、別名を「シダニ坂・シタン坂」といいます。この一帯は清水谷と呼ばれる地名だったため、それが坂名になりました。坂の中ほどに案内柱が立っています。

清水谷坂

紀州藩麹町邸の北側にある坂で、坂下を南北に走る道筋が清水谷に下ることから、清水谷坂と名付けられました。




清水谷坂の坂下から反対方向に坂が上がっています。坂下が谷底のようです。



52.紀尾井坂

紀尾井坂は長さが約160mほどのやや急な坂で、江戸時代に、紀井家・尾張家・井伊家の三家の邸宅が隣接していたために紀尾井町の町名となり、坂名にもなりました。坂の中ほど近くに案内柱が立っています。

紀尾井坂

坂上の喰違(江戸城防衛のために設けられた屈曲した道筋と土手)と、清水谷を結ぶ坂道です。江戸時代、この坂の両側に、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから、一文字ずつ取って名付けられました。また、坂下に清水谷があるため清水谷坂とも呼ばれていました。明治七年(1874年)に発生した岩倉具視襲撃事件(喰違の変)の現場としても知られています。




紀尾井坂の左手には広大な敷地のホテルニューオータニが聳えています。昭和四十九年(1964年)に開催された東京オリンピックを2年後に控えた昭和三十七年(1962年)、オリンピック委員会と政府は外国人来訪を約3万人と予想して受入れ施設の確保を計画し財界に打診しました。その結果、大谷重工業社長の大谷米太郎がホテル建設に着手することになりました。ホテルの場所は、大名屋敷や旧伏見宮邸の跡地だった千代田区紀尾井町の約2万坪の大谷氏の私有地でした。工事の施工会社は大成建設で、昭和三十八年(1963年)4月1日に着工しました。着工時に設計が全て終わっていたわけではなく、設計図を書きながら並行して建設していくという突貫工事が行われました。これにより、僅か1年4ケ月後の昭和三十九年(1964年)8月31日に竣工を迎えました。ホテル本館が開業したのはオリンピック開催の1ケ月前の9月1日のことでした。地上17階・延べ床面積84411u・客室数1085室のホテルを1年半で建設するためにユニットバスや高性能カーテンウォールなど当時の最新の合理化工法や、当時最高層の17階建てのビルであったため、後年に超高層ビルの基本となる柔構造理論設計を採用しました。シンボルともいえる最上階の回転ラウンジは直径45mで東洋一と謳われ、長らくブルースカイラウンジの名で親しまれ、東京タワーなどと並ぶ東京の名所となりました。このラウンジの回転機構には、戦艦大和の主砲塔を回転する技術を継承する尼崎製鉄(現神戸製鋼所)呉作業所で見つけ出した特殊な軸受が使用されています。ただ、ラウンジの回転は平成三十年(2018年)3月に安全上の理由により停止されました。



折角なのでホテルニューオータニ敷地内に設けられた遊歩道(私道)を通って赤坂見附に向かいます。遊歩道脇に井伊家屋敷跡の案内板が立っています。砂利に埋められている石は建物の柱を支えていた基礎でしょうか。木材は柱の一部だったのかもしれません。

近江彦根藩井伊家屋敷跡

この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長五年(1600年)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長九年(1604年)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

Site of the Omi-Hikone-li domain family mansion

This is the site of the Kojimachi mansion of the Ii family. The mansion stood here through most of the Edo period (1603-1867). Ii family members were top "fudai" hereditary vassals. Ii Naosuke was a famous chief minister of the shogun in the final days of the Tokugawa Shogunate. After the Meiji Restoration (1872) this district became known as Kioi-cho, after the first initials of the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and li families.




遊歩道の脇には、さりげなく高級レストランが散在しています。なだ万本店もありますね。なだ万は天保元年(1830年)に創業し、日本料理「なだ万」の本店・山茶花荘は江戸城外堀に囲まれた約一万坪の広大なホテルニューオータニの日本庭園の中にあります。数寄屋造りの瀟洒な建物は日本建築の第一人者だった故・村野藤吾の設計による傑作といわれ、源氏物語に因んだ4つのお座敷があります。私には縁がないですけど。



遊歩道の両側には樹木が生い茂っています。萱の大木も聳えていますね。

千代田区指定文化財 旧井伊家中屋敷のカヤ

イチイ科の常緑針葉樹であるカヤは、日本では福島県から屋久島にかけて分布する樹種のひとつで、大きいもので高さ36mに達します。弾性が強く加工しやすいという特徴から、碁盤や将棋盤の材料として珍重されています。このカヤは目通り幹囲が294cm・直径が93.6cm・樹高は約17.6mで、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期の1781年〜1789年(天明年間)頃に遡ることが判明しました。当時この地にあった近江彦根藩(現在の滋賀県)井伊家の中屋敷内で生育していたことになります。かつて千代田区内には、江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木がありましたが、今はほとんど残っていません。江戸時代以来の樹木として極めて貴重なものといえます。

Chiyoda City Cultural Property
Japanese Nutmeg Yew in Ii Clan Residence

The Japanese nutmeg yew, an evergreen conifer in the family Taxaceae, is a species of tree ranging from Fukushima Prefecture to Yakushima Island, and grows up to 36 m tall. The Japanese nutmeg yew has good resilience and is easily worked, so it is prized as timber for game boards for shogi (Japanese chess) and go. This Japanese nutmeg yew is about 17.6m tall and has a trunk diameter of 93.6cm and girth of 294cm at eye-level. The annual ring count shows it is at least 200 years old and dates from around 1781 to 1789, in the mid-Edo Period. That means it grew in a spot that was in the second residence of the Ii clan of the Hikone Domain, Omi Province (current-day Shiga Prefecture). There were numerous trees in Chiyoda City, in the gardens of daimyos' residences and in Edo Castle in the past, but very few remain. This tree could be described as a valuable botanical treasure from the Edo Period.




庭園には滝もあります。水源はどこにあるんでしょうか?



ホテルニューオータニの遊歩道は初めて歩きましたが、なかなかに見応えがありました。できうれば、なだ万でお食事をした後に散策したかったですけど。遊歩道の先はホテルの中を通りますので、普段着のお散歩姿では気恥ずかしい雰囲気です。ホテルを出て弁慶橋を渡ります。橋の入口の横に石碑が建っていて、案内板もあります。

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦三年(1657年)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長八年(1603年)常陸水戸藩主、ついで慶長十四年(1609年)駿河府中藩主を経て、元和五年(1619年)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、八代将軍吉宗と十四代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高は、ほぼ55万5000石でした。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。

Site of the Kii-Wakayama domain Tokugawa family mansion

This is the site of the Kojimachi mansion built by Yorinobu, the tenth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu. The shogun's ninth and eleventh sons, Yoshinao and Yorifusa, along with Yorinobu were appointed as "daimyo", feudal lords. They were part of the "Gosan-ke" which gave them the right to potentially become the shogun. Yorinobu's family was called the Kii-Tokugawa. After the Meiji Restoration (1872) this district become known as Kioi-cho, after the first initials the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and Ii families.




弁慶堀に架けられた弁慶橋は武蔵坊弁慶が渡った橋ではありません。橋を建造した人の名前をとって橋名としました。

弁慶橋

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川にあった同名の橋の廃材を用いて明治二十二年(1889年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋にあった擬宝珠は、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所となっていました。昭和二年(1927年)に架け替えられ、現在の橋は昭和六十年(1985年)に改架したコンクリート橋です。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

Benkeibashi Bridge

This bridge was newly built in 1889, using the scrap material from a bridge of the same name across the Aizome River, which ran from Kajicho in Kanda to a neighborhood in Iwamotocho. The name is derived from the name of the builder of the bridge, Benkei Kozaemon. The giboshi (bulbous ornaments used on the handrails of bridges) on this bridge were gathered from Sujikaibashi Bridge, Nihombashi Bridge, Hitotsubashi Bridge, Kandabashi Bridge, and Asakusabashi Bridge. At the time, this was a beautiful Japanese-style bridge, and consequently it became a well-known spot in Tokyo during the Meiji (1868-1912) and Taisho Periods (1912-1926), together with the cherry blossoms along the Benkeibori Moat. It was rebuilt in 1927, and the current bridge was reconstructed as a concrete bridge in 1985. It has a gentle arch in the style of a wooden bridge, with details of the design, such as the giboshi and handrails, inherited from the original bridge.




明治時代の弁慶橋の風景です。



赤坂見附交差点から都道府県会館前付近まで坂が上っています。

53.富士見坂

富士見坂は長さが約210mほどの緩やかな坂で、別名を水坂といいます。上空を首都高速道路都心環状線(C1)が通っています。かっては坂上から西側の地平線が見渡せ、富士山がよく見えたことから坂名が付けられたと思われます。この辺りには江戸時代に雲州松江藩松平出羽の屋敷がありました。別名の「水坂」は、松平家が赤坂御門御水番役であったことに由来しています。



松平家の屋敷は明治になって公用地となり、華族女学校が設立されました。参議院議長公邸の裏門の横の植え込みの中に、文面は判読できませんが「華族女學校遺蹟碑」の石碑が置かれています。



富士見坂の中ほどに赤坂門跡の石垣が残されています。赤坂門は、江戸城から相模大山方面に通ずる大山街道(矢倉沢往還)に建てられた門で、溜池を見下ろす高台上に右折枡形門として築かれ、門前の橋はありませんでした。寛永十三年(1636年)に筑前福岡藩主黒田忠之によって石塁が築かれ、寛永十六年に櫓や門が築かれました。

赤坂門跡

赤坂門は寛永十三年(1636年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之により築造されました。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。この門は脇往還のひとつ矢倉沢往還(大山街道)の出発点となっており、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わいました。櫓などの建築部分は明治四年(1871年)に撤去され、石垣も明治三十年代に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されています。

Akasaka-mon Gate Remains

Akasaka-mon Gate was constructed by Kuroda Tadayuki, the feudal lord of the Fukuoka Domain, Chikuzen Province (current-day Fukuoka Prefecture) in 1636. The gate is so named because it kept watch over Akasaka (Red Hill) outside Edo Castle. This gate was the starting point for the Yakurazawa Highway (Oyama Highway), one of the Waki-okan (connecting highways), and thronged with visitors from Edo to Oyama Afuri Shrine (Isehara City, Kanagawa Prefecture) and Daiyuzan Saijoji Temple Minamiashigara City, Kanagawa Prefecture). The towers and other structures were demolished in 1871, and the stone walls were also demolished in the period from the late 1890s until around 1906. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a cultural property and as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.




富士見坂の坂上から左手に坂が上がっています。



この道路にはプリンス通りという名前が付けられています。少し先には旧李王家邸があります。現在は東京ガーデンテラス紀尾井町となっているこの場所には、かって北白川宮邸がありました。北白川宮家は、明治初期に伏見宮邦家親王の第十三王子智成親王により創設された宮家です。北白川宮邸は紀州徳川家上屋敷の跡地の一部に建設され、明治十五年(1882年)に日本館が、明治十七年(1884年)にジョサイア・コンドルが設計した洋館が完成しました。洋館は当初3階建ての塔屋もありましたが、明治二十七年(1894年)の明治東京地震で被害を受けて撤去されました。北白川宮家は明治四十五年(1912年)に高輪南町の新邸へ移転し、旧邸の建物は宮内省が買い上げました。その後建物は関東大震災で若干の被害を受けたのち、大正十三年(1924年)に李王家に下賜されました。李王家は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、明治四十三年(1910年)の日韓併合後は日本の皇族に準ずる待遇となっていました。大正十五年(1926年)から宮内省内匠寮の設計でイギリス16世紀のチューダーゴシック様式の新しい李王邸の洋館の建設が旧北白川宮邸跡地で始まり、昭和五年(1930年)に完成し、終戦まで李王邸として使用されました。終戦後は参議院議長公邸などに利用された後、昭和二十七年(1952年)に西武グループの堤康次郎が買収し、昭和三十年(1955年)に旧李王邸の洋館を利用して赤坂プリンスホテル(現在はザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町)を開業しました。赤坂プリンスホテルが営業を終了した後、旧李王家邸の建物は南東側に44メートル曳家されて位置を変えたうえで、結婚式場の赤坂プリンス クラシックハウスとして利用されています。



旧李王家邸の植え込みの中に、煉瓦造りの土台の一部が保存・展示されています。

旧北白川宮邸洋館・煉瓦基礎遺構

平成二十三年(2011年)、旧李王家東京邸(現・赤坂プリンスクラシックハウス)の保存工事の過程で地中より旧北白川宮邸洋館の煉瓦積基礎が発見された。この地は、紀伊徳川家江戸上屋敷跡で、明治時代になって北白川宮能久親王に下賜され、明治十七年(1884年)に洋館を中心とする大規模な殿邸が建設された。洋館は煉瓦造2階建(一部3階)の壮麗なゴシック建築で、設計者はジョサイア・コンドルであった。その後、北白川宮邸洋館は明治二十七年(1894年)の東京地震によって被害を受け、翌年には能久親王が逝去したことから、3階と西側が撤去縮小され、玄関ポーチも北寄りに移された。明治四十五年(1912年)、北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、跡地には昭和五年(1930年)に李王家東京邸が建設された。発見された煉瓦積基礎には上質の煉瓦が用いられており、目地にセメントを用いた丁寧かつ堅牢な造りであった。この遺構はその一部で、玄関ポーチの独立柱の基礎であったと考えられる。

Brick Foundation Remains from the Former Western-style Residence for Prince Kitashirakawa

In 2011, during the process of conservation of the former Residence in Tokyo for Yi Imperial Family:The Classic House at Akasaka Prince today, the brick-coursework foundation of the former Western-style Residence for Prince Kitashirakawa was discovered. These grounds, which had been the site of the main Residence in Edo of Kii Tokugawa Family, were gifted during the Meiji era to Prince Yoshihisa Kitashirakawa. In 1884, a grand Western_style residence of two_story brick structure in Gothic architecture was built, designed by Josiah Conder. Thereafter, in 1894, this Western_style Residence was damaged by Tokyo Earthquake. Then, part of the building were removed and reduced (the photo is from that time). In 1912, the Prince Kitashirakawa family was moved to new residence at Takanawa-minami Cho. And in 1930, on the site of this Western-style Residence, the Residence in Tokyo for Yi Imperial Family was built.




54.諏訪坂

諏訪坂は長さが約75mほどの緩やかな上り坂で、別名を達磨坂といいます。坂名の由来は、江戸時代にこの辺りに諏訪氏の邸宅があったことに因みます。

諏訪坂

江戸時代、坂下の角地(現在の都道府県会館)に六千石取りの旗本・諏訪家の屋敷があったことから名付けられました。また、板を挟んだ反対側には紀伊徳川家の上屋敷が建っていましたが、その表門の柱に達磨に似た木目があったことから、達磨坂とも呼ばれていました。明治時代になると、紀伊徳川家上屋敷の跡地に北白川宮邸が建設されました。




参議院議長公邸の裏門の前に坂道が下っています。



55.三べ坂

三べ坂は長さが約230mほどのやや急な下り坂で、別名を「三辺坂・水坂」といいます。江戸時代に、岡部(筑前守)・阿部(摂津守)・渡辺(丹後守)の三つの“べ”の付く屋敷が連なっていたことが坂名の由来になっています。坂の中ほど付近に案内柱が立っています。

三べ坂

江戸時代、この板の付近に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の屋敷があり、いずれにも苗字に「べ」が付くということから「三ベ坂」と名付けられました。坂の上の西側には赤坂門の水番役を務めていた松平出羽守の屋敷があったため、水坂とも呼ばれていました。




三べ坂の坂下には丸いドーム屋根が印象的な星陵会館の建物があります。コロナ渦前までは4階にあったシーボニアホールでランチバイキングを堪能しました。



三べ坂の中ほどの交差点を右折して鍵形に進みますと右手にメキシコ大使館の建物があります。



突きあたりには都立日比谷高校の校舎が聳えています。



日比谷高校の通用門横から急角度で坂が下っています。23区内の坂では最も急な坂のひとつでしょう。



56.新坂

新坂は長さが約170mほどの”く”の字に曲がった急な下り坂で、別名を「遅刻坂」といいます。朝の登校時に、寝坊して山王下から日比谷高校まで駆け上がっても途中で息が切れて遅刻することは明白です。もっとも、優秀な日比谷高生なら寝坊することなく、ゆとりを持って登校するでしょうけど。明治になって新しくできた坂ということで坂名が付けられたとのことです。坂上に案内柱が立っています。

新坂

江戸時代には江戸城の外堀があったため、この道はありませんでした。明治十七年(1884年)に参謀本部が作成した地図では、溜池の方へ下る現在の形に近い道が確認できます。外堀と溜池の埋め立てで、新しく出来た坂道ということから名付けられました。すでに明治三十年頃には新坂と呼ばれていました。




山王日枝神社は東京十社の一社で、江戸三大祭のひとつである山王祭が行われることで知られています。山王日枝神社の創建年代ははっきりしていませんが、文明十年(1478年)に太田道灌が江戸城築城に当たって川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したことに始まるといわれています。徳川家康が江戸に移封された際に、城内の紅葉山に遷座して江戸城の鎮守としました。慶長九年(1604年)に始まった徳川秀忠による江戸城改築の際に社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになりました。明暦三年(1657年)の明暦の大火によって社殿が焼失したため、万治二年(1659年)に将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地に当て、現在の地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置します。

日枝神社 旧官幣大社

日枝神社の歴史は鎌倉時代初期に秩父重繼が江戸貫主を名乗り、その居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降は城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を經て萬治二年に当地に移遷された。日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は、江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、將軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも稱された。明治維新によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として皇室の御崇敬殊に篤く、大正天皇御即位當日には官幣大社の極位に列せられた。昭和二十年五月の空襲によつて壮麗を極めた國寶の御社殿は灰燼に歸したが氏子崇敬者の赤誠により昭和三十三年に再建され、星ヶ岡上に再び大社の威容を拝するに至つた。氏子區域は廣く千代田、中央、港、新宿區の七十餘町に及び、生業の隆昌を始め子孫と家門の繁栄を守護し給ふその御神徳はまさに宏大無辺である。




山王日枝神社と日比谷高校の裏手(本当はこちらが表みたい)の間を回り込むように坂が上がっています。

57.山王切通坂

山王切通坂は長さが約280mほどの緩やかな坂で、高台に位置する山王日枝神社と日比谷高校の崖を切り通したことから、この坂名が付けられたと思われます。



山王切通坂は弧を描いた中ほどの地点が最も盛り上がっていて、その先は下り坂になっています。坂下付近には日比谷高校の正門があります。こちらから入れば遅刻することはありませんね。日比谷高校には正門と通用門のふたつの入口があります。永田町駅と赤坂見附駅からは通用門から入れますが、永田町駅からは下り坂と平坦な道路、赤坂見附駅からは急峻な坂道を上がることになります。一方、国会議事堂前駅からは平坦な道路で正門に入れます。距離は同じようですが、朝の登校時に楽に行くには、国会議事堂前駅→永田町駅→赤坂見附駅の順ですかね。入試の際はご注意を。



山王日枝神社一帯には明治の初め頃に牧場があったそうです。

江戸・東京の農業 わが国黎明期の牧場

江戸城内に社があった古い歴史をもつここ日枝神社は、かつては、南は芝、西は麹町、東は霊厳島小網町、北は神田に至る、広大な氏子地域をもっていましたが、それは明治の初め東京の酪農誕生の地域でもありました。明治六年にはすでに7軒の牧場があり、竹橋には、吉野文蔵が幕府の牧場を引き継ぎ、芝桜川には明治四年、洋式搾乳の先駆者前田留吉が、下谷には旧幕臣辻村義久が、麹町五番町には阪川当晴が、そして木挽町に越前屋守川幸吉が牧場を開きました。このように殆んどが江戸幕府崩壊による失業武士によるものでしたが、大官、貴族による開設も続出。男爵松尾臣善が飯田町、佐倉藩主堀田子爵が麻布、榎本武揚、大鳥圭介が神田猿楽町、さらに明治八年〜九年の頃になると、松方正義が芝三田に、山県有朋が麹町三番町に、由利公正は木挽町に、桑名藩主松平定教は向柳原に、副島種臣は麹町霞ヶ関に、細川潤次郎が駿河台で牧場を開設したほか、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われており、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートしています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Stock Farms at the dawn of the Meiji Restoration

The Hie Shrine with a long history of its own was once located in the Edo Castle and had quite a large parishioner extending over Kanda to the north, Shiba to the south, Koami-cho of Reiganjima to the east and Koji-machi to the west. These areas were the birth places of dairy production in Tokyo at the beginning of the Meiji Era. There existed seven dairy farms as early as in 1873. Most of them were founded and managed by the Samurais who lost their jobs at the collapse of the government of Edo. With many more farms which followed thereafter, the livestock industry in Japan thus dawned from the area around this shrine.




山王切通坂の坂下(日比谷高校の正門前)の右手に急な石段が上がっています。石段の手前には大鳥居が聳えていて、階段の上には朱色も鮮やかな神門が建っています。



58.山王男坂

山王男坂は長さが約30mほどの急な石段で、山王日枝神社の表参道になります。外堀通りに面した階段とエスカレーターは山王橋参道で、この他に朱色の千本鳥居が連なる稲荷参道があります。山王日枝神社に上る坂のうち、正面の急な坂であることから、別名男坂のとも呼ばれます。



大鳥居後ろの常夜灯横に、遠慮がちに案内柱が立っています。

山王男坂

山王男坂は日枝神社の表参道で、左側のゆるやかな坂”女坂”に対しその名が付けられています。二つの坂を比較して急な坂を男坂、緩やかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段は五十三段。山王台地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でした。




山王男坂の坂上の左手先から急なコンクリート坂が下っています。滑り止めのドーナツ形の凹みも施されていますので、急坂には間違いないです。



59.山王女坂

山王女坂は長さが約65mほどの、左に弧を描くように神社境内から下る急な坂です。男坂に比べていくらか緩やかな坂なので女坂と呼ばれます。江戸時代には将軍社参の時だけ使用されたことから、別名を「御成坂」といいます。坂の途中の植え込みの中に案内柱が立っています。

山王女坂

山王女坂は、正面の石段(男坂)に対しその名が付けられています。また、別の名は御成坂とも呼ばれています。「新撰東京名所図会」には、「左緩やかに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成の節、峻坂を避け、此坂のみ御通行遊ばされしにより、御成坂と申侍るを女坂と聞誤りしにはあらぬかと」と書かれています。




山王日枝神社から国会議事堂方向に進みますと、衆議院新議員会館の間に長い坂が上っています。



60.山王坂

山王坂は長さが約170mほどの緩やかな坂で、別名を鹿島坂といいます。明治維新までこの一帯は山王社(山王日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの坂名が付けられました。坂上付近に案内柱が立っています。

山王坂

江戸時代、山王社(日枝神社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることができませんでした。そのため、この坂道は山王社の表参道として利用されたことから名付けられました。坂上には第一鳥居が、坂下には第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでいました。将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って、山王社に参詣していました。




国会議事堂の南側に沿って下る坂があります。



61.茱叟坂

茱叟坂は長さが約230mほどの緩やかな坂で、別名を番付坂といいます。江戸時代に坂の両側にグミの木があったことに因んで坂名が付けられました。坂の中ほどに案内柱が立っています。

茱叟坂

坂に沿った武家屋敷に茱萸の木が植えられていたことに由来します。また、番付坂という別名もあり、山王祭の行列がこの場所に並び、山車の番付札を確認したことから名付けられました。




文部科学省と財務省との間に坂が下っています。



62.三年坂

三年坂は長さが約270mほどの緩やかな坂で、別名を「淡路坂・陶山が関・栄螺尻・鶯谷」といいます。坂名の由来は、裏霞が関と三年町の間の坂ということに因んでいます。坂の中ほどの財務省ビルの前に案内柱が立っています。

三年坂

潮見坂の南にあり、裏霞が関と三年町の間を通っています。別名を淡路坂、陶山が関ともいいます。かつては坂上の道路が湾曲していたことにちなみ栄螺尻、または周辺に鶯が多かったことから鶯谷という別名もありました。




財務省と外務省の間に坂が上っています。



63.潮見坂

潮見坂は長さが約210mほどの緩やかな坂で、中世の頃までは日比谷公園の辺りまで入江となっていて、眼下に海を望むことができたことからこの坂名が付きました。坂下付近に案内柱が立っています。

潮見坂

江戸時代初めまで、現在の日比谷公園や皇居外苑の辺りには、日比谷入り江がありました。この坂のある台地から東側を望むと海が見えることから名付けられました。日比谷入り江は現在の大手町付近まで入り込んでいたといわれています。千代田区内には、ほかに皇居東御苑の中に汐見坂があります。いずれも海を見ることができる場所であったことに由来します。




外務省と国交省・総務省との間に道幅の広い坂が上がっています。



64.霞が関坂

霞が関坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。昔はこの辺りが景勝の地として知られ、霞が関の名の起りともなったことで、坂名も地名に因んで名付けられました。坂上近くに案内柱が立っています。

霞が関坂

中世の頃、奥州街道の関所「霞ヶ関」が置かれていたといわれ、景勝地として古歌にもうたわれました。江戸時代は諸大名の屋敷が建ち並び、江戸土産の絵本や広重の錦絵の題材にもなりました。明治維新以降は外務省や司法省、海軍省などが建ち並ぶ中央官庁街となり、現在に続いています。




内堀通りの憲政記念館の北側から”く”の字に曲がって、国立劇場前を通って桜田濠沿いに半蔵門交差点まで長い坂が上がっています。

65.三宅坂

三宅坂は長さが約380mほどの緩やかな坂で、別名を「皀角坂・橿木坂」といいます。三宅坂交差点の角にある最高裁判所の位置に、かって三河田原藩主三宅備前が住んでいたことに因んで坂名がつけられました。



最高裁判所前の角地の中に、田原藩主三宅備前に仕えた渡辺崋山の案内板が立っています。

渡辺華山誕生地

渡辺崋山は寛政五年(1793年)にかつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。崋山は名を定静、通称を登といいます。はじめは華山、のちに崋山と号しました。文化六年(1809年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁に学んでいます。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会」にも参加しました。天保十年(1839年)に執筆した「慎機論」で幕府の対外政策を批判したため、蛮社の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居を命じられます。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。

Birthplace of Watanabe Kazan

Watanabe Kazan was born in 1793 in the main Edo residence of the Tahara Domain (current-day Aichi Prefecture), which was on this site. While he contributed as a politician in the late Edo Period to feudal government reforms and coastal defense policy, he also made an important contribution as a pioneering artist. Kazan's given name was Sadayasu, but he was commonly known as Nobori. His name was originally written 華山 ("Kazan") but later he changed it slightly to 崋山 (also "Kazan") as a second name. He began studying under the painter Kaneko Kinryo in 1809, at the age of 16, and later studied under Tani Buncho. Kazan's painting style incorporated elements of Western painting and he specialized in realist portraits, true-to-life paintings of flowers and birds, landscape sketches using a light and easy brush style, and so on. At the age of 18 he studied under the Confucian scholar Sato Issai and he was also a member of the Shoshikai, an association of scholars from a wide range of fields, especially Western Studies. After criticizing the Shogunate's foreign policy in an essay entitled "Shinkiron" in 1839, Kazan was arrested under the Shogunate's suppression of Western Studies scholars (Bansha no goku) and he was put under house arrest in Tahara, his family's hometown. Two years later at the age of 48, he ended life at his own hands.




国会図書館の東側に沿って北から南に坂が上がっています。坂下にはかって日本社会党の本部ビルがあり、三宅坂といえば社会党の代名詞でした。



66.梨木坂

梨木坂は長さが約110mほどの緩やかな坂で、この坂にかつて梨の木があったためにこの坂名が付きました。坂上付近に案内柱が立っています。

梨木坂

この場所は、彦根藩(現在の滋賀県)井伊家上屋敷の裏門にあたり、梨の木が生えていたことから名付けられました。明治時代になると、井伊家屋敷跡には陸軍省と参謀本部、陸軍大臣官邸などが置かれ、また現在の国立国会図書館のある場所にはドイツ公使館や教育家の下田歌子邸などが建設されました。




今日のゴール地点の永田町駅に着きました。今日は20ケ所もの坂を巡って、さすがに疲れましたね。



ということで、千代田区で最後の「麹町・平河町・永田町・霞が関コース」を歩き終えました。さすがに歴史ある千代田区、坂だけでなく名所・旧跡がテンコ盛りでした。その分踏破記も書くのが大変でしたけど。次は秋元康さんの坂道シリーズに因んで港区の坂を巡りたいと思います。乃木坂46の公式ライバルのアイドルグループが今春誕生するそうですから、そのグループ名の探索も兼ねて歩きたいと思います。





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