港区(赤坂コース)


踏破記


千代田区の次はどの区の坂道を巡ろうかと考えたのですが、東京で最も華やかでトレンディな港区を選びました。港区の坂道は全部で124ケ所あり、区全体にばらけています。一筆書きで巡るには工夫が必要です。折角のお洒落な区ですので、できるだけトレンディな話題のあるスポットの紹介もしていきたいと思います。

港区は東京23区の中央部に位置し、千代田区・中央区とともに「東京都心」・「都心3区」とされています。放送局などのマスコミ・広告代理店やIT企業などの本社、外資系企業の日本支社などが多数集積していて、日本経済の中心の一端を担っています。テレビ放送における民放キー局の多くの本社は港区に所在しているほか、東京のランドマークでもある東京タワーも港区にあります。虎ノ門・新橋・汐留・赤坂・芝・港南(品川駅東口)などは大規模なオフィス街となっていて、これらのビジネスエリアは再開発により超高層ビルが林立しています。青山・表参道・赤坂・六本木・お台場などは商業エリアという面も強く、麻布・白金台・高輪といった多くの高級住宅街を擁しています。赤坂御用地や迎賓館赤坂離宮をはじめとして、芝公園・白金台の自然教育園など緑地も多くあります。明治維新後に大名屋敷跡地を各国政府に提供した歴史的経緯や政府主要機関へのアクセスのよさから、現在日本に存在する約150の駐日大使館のうち半数以上が港区に集まっています。大使館の他にも外資系企業も多数立地しているため、区の人口の約1割が外国人居住者という国際色豊かな街です。区の一人あたりの平均年収は1000万円を超え、東京都23区内では最も高い水準です。港区は、1947年に旧芝区・旧麻布区・旧赤坂区が合併して誕生しました。江戸城(現在の皇居)の南側のいわゆる「城南地区」に位置していて、江戸時代には広大な武家屋敷と町人町が混在していました。区名に「港」とあるように、区域の東側は海岸・港南地区で、東京港及び東京湾に面し、ベイエリアの一部(東京臨海副都心)である台場(お台場エリア)を含んでいます。東側は江東区と向き合い、北側は千代田区・中央区・新宿区、西側は渋谷区、南側は品川区と接しています。

港区は、北西一帯の高台から南東の東京湾に面した低地および芝浦海浜の埋め立て地にかけて入り組んだ高低差の大きい地形になっていて、多くの坂が江戸時代の名残りをとどめる歴史的遺産となっています。高台地は秩父山麓に端を発している武蔵野台地の末端で、これらの台地は小さな突起状の丘陵となっているため、東京23区の中で最も起伏に富んだ地形をもっています。港区には、坂名のついているものだけでも80以上の坂があります。坂の名前には、「綱坂」・「綱の手引き坂」のように伝説にまつわるもの(羅生門の鬼退治で有名な源頼光の四天王の一人渡辺綱にちなんだ名前)、「潮見坂」・「富士見坂」などの景観にちなんだもの、「薬研坂」・「雁木坂」などの坂の形からつけられたもの、「氷川坂」・「鳥居坂」など坂のところにあった寺社や大名屋敷からつけられたものなどがあります。

今回は港区の坂道を幾つかの区域に分け、中心となる赤坂地区から六本木地区、そして虎ノ門・麻布・三田・高輪・白金・青山の各地区を順に巡っていきたいと思います。最初は赤坂コースです。赤坂見附駅からスタートしたいところですが、訳あって永田町駅出入口6からスタートし、千代田区の坂道でも巡った富士見坂を下って赤坂見附交差点に向かいます。



江戸時代には富士見坂周辺には雲州松江藩松平出羽守の屋敷がありました。松平家の屋敷は明治になって公用地となり、跡地に華族女学校が設立されました。衆議院議長公邸の北側の青山通り沿いの外壁に「東京女学館発祥の地」のレリーフが埋め込まれています。東京女学館は、明治二十年(1887年)に皇室より永田町御用邸(雲州屋敷)を貸与され、明治二十一年(1888年)に「日本婦人をして欧米の婦人の亨有する所と同等の教育及び家庭の訓練を受けしむるを以って目的とする」を建学の精神として、伊藤博文・渋沢栄一・岩崎弥之助・外山正一・コンドル・アレクサンダーショーなど、日本の近代化の基礎を築いた明治の元勲を初めとする各界の名士により創設されました。その後、宮内省より麹町三年町(現在の虎ノ門)にあった旧工部大学校生徒館を借り受けて移転し、「虎の門女学校」と呼ばれるようになりました。大正十二年(1923年)に関東大震災のため校舎が焼失し、渋谷羽沢の御料地に移り、そこに仮校舎を建てて授業を再開しました。昭和八年に宮内省から羽沢の御料地と南側の隣接地を併せて払い下げを受け、女子の一貫教育の場として今日に至っています。

東京女学館発祥の地

東京女学館は、明治二十年この地(旧松平出羽守邸、俗に雲州屋敷、のち閑院宮邸)を皇室より貸与され、翌二十一年開校した。その后、麹町三年町(旧工部大学校)に移り、「虎ノ門女学館」と称せられた。大正十二年関東大震災のため焼失したので渋谷御料地に移り、女子の一貫教育の場として今日に至っている。こゝに、往古を偲び、将来の弥栄を祈り、創立百周年を記念して碑を掲げる。




外堀通りの赤坂御用地東端から高速道路と弁慶濠に沿って坂が上っています。



1.紀伊国坂

紀伊国坂は長さが約340mほどの左に曲がりながら緩やかに上る坂で、別名を「紀国坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂の西側に紀州徳川家の屋敷があったことに由来します。紀州が「紀の国」と呼ばれたことから、屋敷に上る坂を「紀之国坂」と呼ぶことになったとのことです。また、紀州徳川家の屋敷が「赤根山」と呼ばれていたことから、「赤根山の坂」が短縮されて「赤坂」の地名が付いたともいわれています。但し、諸説があって本当のところは分かりません。坂下付近に案内柱が立っています。

紀伊国坂

きのくにざか 坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。




紀伊国坂下付近から外堀通りと分岐した先に、赤坂御用地の南側に沿って緩やかな坂が上がっています。



2.弾正坂

弾正坂は長さが約300mほどの緩やかな上り坂で、赤坂御用地と豊川稲荷の間から青山通りを跨いで更に南側の山脇学園前まで延びています。坂名は、坂の西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼に任ぜられたことに因んでいます。弾正とは、弾正台(監察・治安維持などを主要な業務とする役所)の次官をいいます。坂下付近と山脇学園の手前に案内柱が立っています。

弾正坂

だんじょうざか 西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。




弾正坂は青山通りを跨いで山脇学園前まで続いています。



弾正坂下から分岐して、赤坂豊川稲荷の北東側に坂が上っています。



3.九郎九坂

九郎九坂は長さが約110mほどの緩やかな上り坂で、別名を鉄砲坂といいます。坂名の由来は、江戸時代の名主秋元八郎左衛門の先祖の「九郎九」が住んでいたことに因みます。坂下付近と坂上付近に案内柱が立っています。

九郎九坂

くろぐざか 江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。




赤坂豊川稲荷は正式には「豊川稲荷東京別院」といいます。「稲荷」となっていますが、曹洞宗の寺院であり、愛知県豊川市に鎮座する豊川稲荷妙厳寺の唯一の直轄別院(飛び地境内)です。江戸時代に大岡越前守忠相が豊川稲荷から荼枳尼天を勧請し、屋敷稲荷として屋敷内で祀ったことが沿革となっています。大岡家では、徳川家康の江戸転封(知行地や所領を別の場所に移すこと)以前の三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に江戸の下屋敷に荼枳尼天を勧請して祀ったといわれています。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られました。文政十一年(1828年)に信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内の4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが豊川稲荷東京別院の創建とされます。江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も参拝が毎日できるようになり、それまでの大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」とされました。明治二十年(1887年)になって大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから現在地の元赤坂一丁目に移転し、今日に至っています。



山脇学園の敷地に隣接して、武家屋敷門が保存・展示されています。

重要文化財 武家屋敷門

長屋門、桁行21.8m、梁間4.7m、二階建、切妻造、片流面出番所付属、本瓦葺

この武家屋敷門は、江戸城東廊八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中方屋敷の表門で、文久二年(1862年)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。当時は桁行五十八間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右両側が切り縮められて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式をもつ唯一の遺構である。

Feudal Palace Gate

This building was the main gate of the official residence of the Tokugawa Shogunate Elders (Roju). It was originally located in the Yaesu district, to the east of Edo Castle (the area now occupied by the Tokyo Central Post Office). It was built in 1862 by Honda Tadamoto, Roju of the shogunate and Lord of Okazaki Domain, after the previous building was destroyed by a fire. The original structure was 120m long and included living quarters for the retainers of the palace attached to the sides. The remaining gate was relocated here in 2016. The present structure is 21.8m long, 4.7m deep, and two storeys high. The roof is gabled and covered with tiles. Two sentry boxes flank the gate on both sides. Most of the timber frame members are original. This gate is one of the few surviving examples of its kind, and a valuable source of information on the architecture of the residences of the feudal lords (daimyo) during the Edo period (1603-1868). It is designated as an Important Cultural Property.




武家屋敷門の先から青山通りに合流する急坂が下っています。



4.牛鳴坂

牛鳴坂は長さが約65mほどの急な下り坂で、別名を「牛啼坂・皀角坂」といいます。坂名の由来は、かっては路面の悪い急坂で、車をひく牛が苦しんだことから名付けられました。坂下付近と坂上付近に案内柱が立っています。

牛鳴坂

うしなきざか 赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう。




牛鳴坂の坂上から国際医療福祉大学の角を南東に曲がった突き当たりに階段が下っています。



5.丹後坂

丹後坂は長さが約15mほどの急な階段で、坂名は江戸時代に坂の東北に米倉丹後守の屋敷があったことに由来します。坂上の階段手前に案内柱が立っています。

丹後坂

たんござか 元禄初年(1688年)に開かれたと推定される坂。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。




赤坂サカスには、TBSテレビやTBSラジオなどの本社があるTBS放送センター(ビッグハット)があります。赤坂サカスには、地上39階・高さ約180mのオフィス・商業複合施設「赤坂Bizタワー」を中核に、ライブハウス赤坂BLITZや赤坂ACTシアター、それに地上21階建ての賃貸住宅棟「赤坂ザ・レジデンス」などがあります。TBSは不動産事業を主な収益源のひとつにしていて、本社がある赤坂にちなんで「赤坂不動産」とも呼ばれる所以です。



赤坂BLITZの手前から緩やかな坂が右手にカーブしながら上がっています。



6.サカス坂

サカス坂は長さが約130mほどの坂で、TBS放送センターの再開発によって2008年に造られました。



坂名の標識はありませんが、赤坂サカスの案内図に坂名が表示されています。



サカス坂の坂上から左手に、左右に曲がりながら桜並木の坂が上っています。

7.さくら坂

さくら坂は長さが約260mほどの緩やかな坂で、TBS放送センターの再開発によって2008年に造られました。坂道に沿って数種類の桜の木(関山・普賢象・河津桜など)が植えられています。



坂名の標識はありませんが、赤坂サカスの案内図に坂名が表示されています。



さくら坂の坂上からTBS放送センターの裏手を抜けて突き当たりを左に進みますと、L字状に曲がった急坂が下っています。



8.三分坂

三分坂は長さが約100mほどの急坂で、坂名は江戸時代に急坂だったことで通る車賃を銀三分増しにしたことに由来します。坂上と坂下に案内柱が立っています。三分坂は「さんぷんざか」と読むんですね。

三分坂

さんぷんざか 急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん、百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。




坂下に報土寺があります。築地塀が残っていますね。

港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)

報土寺は、慶長十九年(1614年)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより、安永九年(1780年)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」といいます。




報土寺には江戸時代の伝説の力士である雷電為右衛門のお墓があります。以前見たような気がするんですけど、どこにあるか分かりませんでした。

雷電為右衛門の墓

明和四年(1767年)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。天明四年(1784年)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(1790年)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(1814年)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれてとりこわさせられた。文政八年(1825年)江戸で没した。




井部香山のお墓もあるそうです。

東京都指定旧跡 井部香山墓

井部香山(1794年〜1853年)は江戸時代後期の儒学者(朱子学)です。名は鳴と言い ます。越後旭村に井部孝節の第三子として生まれます。香山の号は故郷の妙高山に因んだものです。二七歳の時に江戸に出て葛西因是に学び養子にもなりますが、その後独立し井部姓にもどります。築地の軽子橋に塾を開き、岸和田藩主岡部氏、飯山藩主本多氏など、香山に学ぶものが多くありました。天保一四年(1843年)には老中水野忠邦に招かれ浜松藩の客儒となり、門人は藩士三千人に及んだといわれます。著書に「大学講義二巻」などがあります。

Historic Places Ibe Kozan Haka(The grave of lbe Kozan)

Ibe Kozan (1794-1853) was a Confucian (neo-Confucianism). He was born as the third son of Ibe Kosetsu in Echigo Asahi Village. His pseudonym, Kozan was named after Myoko Mountain in his home town. When he was 27, he came up to Edo and learned under Kasai Inze and was also adopted, but he became independent and back his name to Ibe. After he opened a private school at Karukobashi of Tsukiji, he was invited as an associate Confucian of Hamamatsu Domain by Mizuno Tadakuni, a chief of staff for shogun in 1843. It is said that there were 3,000 disciples of feudal retainers. He had written books such as "University Lecture volume 2".




三分坂上から戻ってTBS放送センターの裏手を過ぎた先に坂が下っています。



9.円通寺坂

円通寺坂は長さが約250mほどの急坂で、坂名は江戸時代に坂上の南側に円通寺があったことに由来します(円通寺は現在も同じ場所にあります)。円通寺は江戸時代に安芸浅野藩下屋敷付近にあった草庵が起源となっています。寛永二年(1625年)、三分坂上の拝領地に草庵を移し、圓通院日亮を開山として創建されました。近隣に同名の寺院がありましたが、元禄八年(1695年)の大火によって同名の寺院と共に草庵も類焼しました。その後、寺院と草案をまとめて一寺となり、現在の円通寺となりました。大火後の江戸の拡張用として三分坂上の寺地が御用地となったため、西尾隠岐守上屋敷跡の現在地を拝領しました。境内にある梵鐘は江戸時代の宝暦年間に幕府より「時の鐘」として指定された梵鐘です。深草元政の筆になる梵鐘の銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が記されていることから、別名「十二支の鐘」ともいわれています。昭和二十年(1945年)5月25日の山手大空襲によって堂宇を焼失ましたが、戦後になって瀬田村(現在の世田谷区瀬田)にあった別院「四恩堂」(日勝庵)を移築して再建されました。平成二十年には現在の本堂に改築されています。



坂上の手前と坂下に案内柱が立っています。

円通寺坂

えんつうじざか 元禄八年(1695年)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。




九郎九坂と三分坂がある赤坂一ツ木町、丹後坂のある赤坂丹後町の旧町名由来版が立っています。

赤坂一ツ木町

永禄十年(1567年)に、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して人継村となり、天正十八年(1590年)の徳川家康の入府に際して、服部半蔵などで知られる、江戸城の警護等に当たった伊賀者の給地に下されて百姓町屋になりました。元禄九年(1696年)頃から、一ツ木村を「赤坂一ツ木町」と改めましたが、ほかに飛地が5カ所ありました。町奉行を務めた大岡越前守の下屋敷があったことも知られています。明治四十四年(1911年)には赤坂の冠称を除いて「一ツ木町」となりましたが、昭和二十二年(1947年)に、「赤坂一ツ木町」となりました。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災当時に結成した自警団に端を発し、大正十四年(1925年)に、町会が設立されました。第二次世界大戦の終結の時に町会は一時解散しましたが、昭和二十三年(1948年)に再結成しました。

Akasaka' hitotsugi-cho

The field called Hitotsugihara in Toshima-gun district was developed into Hitotsugi-mura village in the 10th year of Eiroku (1567), and then became a peasant town when the area was granted as a fief to the samurai group coming from the Iga region who was on guard over Edo-jo Castle etc. at the first visit of Tokugawa leyasu, the future shogun, to the Edo city. The town was renamed Akasaka hitotsugi-cho around the 9th year of Genroku (1696), including the 5 detached territories. Though it was temporally called Hitotsugi-cho with the word Akasaka omitted in the late Meiji era, its name returned to the previous name Akasaka hitotsugi-cho in the 22nd year of Showa (1947).

赤坂丹後町

赤坂掃除町の一部と武家地を合併して、明治五年(1872年)に「赤坂丹後町」となり、明治四十四年(1911年)には赤坂の冠称を除いて「丹後町」となりましたが、昭和二十二年(1947年)に、「赤坂丹後町」となりました。町名は、町内に丹後坂があることによります。丹後坂は、長さ24間、幅4間半(1間は約1.812メートル)あり、元禄元年(1688年)に開かれたと推定される坂です。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいいます)の邸があったので呼び名となりました。坂下には、江戸城内の修築作業等に従事する黒鍬組の居宅が多くありました。明治三十七年(1904年)に、町内居住者、宅地を所有していた145名が、町内衛生向上のために丹後町衛生組合を結成し、町会の前身となりました。その後に自然解消しましたが、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災による罹災者の救護や物資配給等に町民が団結するため、同10月に町会を結成しました。

Akasaka'tango-cho

A part of Akasaka' soji-cho combined with samurai residences, a new town named Akasaka' tango-cho was born here in the 5th year of Meiji (1872). Once renamed Tango-cho with the word Akasaka omitted in the late Meiji era, its name returned to the previous name Akasaka' tango-cho in the 22nd year of Showa (1947). The town's name came from Tangozaka slope of about 43.5m length and about 8m width which is presumed to have been built in the 1st year of Genroku (1688). The slope was named so because there was the residence of the Lord of Yonekura Tango on the northeastern side of the slope. There were many houses of the lower-grade samurai affiliated with Kurokuwa-gumi.or a kind of engineering organization at the foot of the slope which was engaged in repair jobs in Edo Castle.




赤坂サカスの中を通り、次の坂に向かいます。さくら坂の坂下に欧風の邸宅があります。赤坂アプローズスクエア迎賓館という結婚式場なのだそうです。



次の坂は赤坂の街中にあるそうなのですが、なかなか見つかりません。30分ほど飲食店の建ち並ぶランチ時のみすじ通りを誹諧した後で、全く方向違いの赤坂通りの赤坂二丁目交番前交差点から西側に50mほど離れた飲食店の入った雑居ビルの間に挟まれた石段を見付けました。



10.福吉坂

福吉坂は長さが約30mほどの短い階段状の石段で、坂名はこの辺りの旧町名の赤坂福吉町に因んでいます。坂上付近の壁に「福吉坂石段の改修工事について」という記念のプレートが埋め込まれています。

福吉坂石段の改修工事について

私共地元の赤坂福吉町会は、永年の懸案として荒廃著しくなったこの福吉坂石段の改修工事を計画、土地所有者の潟Rクド様の全面的な御協力と共に港区役所の助成金と、地元の多くの方々の御協賛を得て完工したものであります。茲に氏名を明記し保存致します。




福吉坂から六本木通りに出ます。全日空ホテルの向かいから路地に入りますと、アメリカ大使館宿舎の北東側に左に曲がりながら急坂が上がっています。



11.南部坂

南部坂は長さが約150mほどの急坂で、別名を「難歩坂・なんぽ坂」といいます。坂下近くに坂名を記した古い石柱が建っています。



坂上には案内柱も立っています。

南部坂

なんぶざか 江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい忠臣蔵で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。




南部坂の坂上を進んだ先で左に折れますと、赤坂の鎮守である氷川神社があります。その手前に、氷川神社の東側を坂が下っています。



12.氷川坂

氷川坂は長さが約260mほどの緩やかな坂で、別名を「転坂」といいます(坂の途中から分岐する転坂とは異なります)。坂の中ほどに氷川神社の元正面入口があります。



坂上付近に案内柱が立っています。

氷川坂

ひかわざか 八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当る坂である。




氷川坂の中ほどから右手に急坂が上がっています。



13.転坂

転坂は長さが約80mほどのやや急な坂で、江戸時代に道が悪く、通行する人たちがよく転んだことが坂名の由来になっています。坂下と坂上付近に案内柱が立っています。

転坂

ころびざか 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。




氷川坂の坂下から左手に進みますと、氷川神社の北側に沿って坂が上がっています。



14.本氷川坂

本氷川坂は長さが約110mほどのジグザグに曲がりながら上る緩やかな坂で、別名を「元氷川坂」といいます。かつて存在した本氷川明神の前を通る坂なのでこの名が付けられました。坂下と坂上付近に案内柱が立っています。

本氷川坂

もとひかわざか 坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。




東京ミッドタウンは、防衛庁本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)跡地の再開発事業として、平成十九年(2007年)3月30日に開業しました。東京ミッドタウンはオフィスや高級ホテル・さまざまなショップおよびレストラン・美術館・レジデンス・医療機関・公園・緑地などの多様な施設から構成されています。施設の中核をなす超高層ビル「ミッドタウン・タワー」は、地下5階・地上54階・高さ248.1mで、それまでの東京都庁舎第一庁舎に代わり都内で最高層のビルになりました。



ミッドタウン・タワー裏手の檜町公園の北東側に緩やかな坂が下っています。



15.檜坂

檜坂は長さが約130mほどの坂で、別名を「清水坂」といいます。坂名は、江戸時代に檜の木が多かったために檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸前の坂であったことに由来しています。坂上と坂下付近に案内柱が立っています。

檜坂

ひのきざか 江戸時代には、檜の木が多いため、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(檜町公園)に添(沿?)う坂であった。




赤坂小学校の北側の少し先にやや急な坂が上っています。



16.稲荷坂(赤坂七丁目)

稲荷坂は長さが約120mほどのやや左に曲がりながら上る急な坂で、別名を「掃除坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂下にあった円通院の境内に稲荷への門があったことが由来になっています。坂下付近に案内柱が立っています。

稲荷坂

いなりざか 坂下北側に円通院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上に江戸城中清掃役の町があり掃除坂ともいう。




コースの設定が悪かったのか、またまた円通寺坂上にやってきました。そこから北西にひと区画進んだ先の右手に急坂が下っています。



17.稲荷坂(赤坂四丁目)

稲荷坂は長さが約120mほどの”く”の字に曲がった急坂で、別名を「掃除坂」といいます。坂名は、江戸時代に末広稲荷があったことに由来します。徳川家康の江戸入府と共に三河からきた江戸城の労役を担当する黒鍬組が定住したのが赤坂丹後町の辺りでした。そのため、此の地は黒鍬谷と呼ばれるようになりました。その後徳川五代将軍綱吉の時代の元禄十四年(1701年)に江戸城内吹上御苑に祀られていた火伏稲荷をこの地の鎮守として遷座させたのが末廣稲荷神社の起源と伝わっています。これは、綱吉の側室だった瑞春院が黒鍬出身だったためといわれています。明治になって黒鍬同心が離散し、また関東大震災や戦災など多難な歴史を辿りましたが、地元の崇敬者によって神社は再興・維持されてきました。境内に石碑が置かれていましたが、碑文は読み取れませんでした。



稲荷坂の坂上から青山通りに進みますと、中央が鍋底のようになった坂があります。



18.薬研坂

薬研坂は長さが約180mほどの急坂で、坂の中央付近を底にして北から南に向かって左に曲がりながら下り、底の地点から上っています。別名を「何右衛門坂」といいます。坂名は、中央が窪み、両側が高くなっている形が薬研に似ていることに因んでいます。北側と南側の坂上付近に案内柱が立っています。

薬研坂

やげんざか 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。




青山通りを渋谷方向に進みます。歩道脇の植え込みの中に赤坂地区の旧町名由来版が立っています。

赤坂表町

古くは、一ツ木村に属していました。寛永十三年(1636年)に家康入国以来、よくその務めを果たしたということで、その土地を南伝馬町の伝馬役三名に褒美として与えられたことが、この町の起こりです。初めは赤坂新伝馬町と称し、ついで表通りが表伝馬町、裏通りが裏伝馬町となり、明治五年(1872年)に赤坂表一丁目〜四丁目、同四十四年(1911年)に赤坂表町一丁目〜四丁目となりました。明治時代には、一丁目・二丁目の東半の表通りは、商店街としてにぎわいました。一方、三丁目・四丁目は、旧武家地であり官公庁や華族などの邸宅地となり、商家は少なく、今日もこの状況を受け継いでいます。なお、地元では、「あかさかおもてまち」と言っていました。

Akasaka-omote-cho

The town area was originally within the village Hitotsugi-mura in old times. This town started, as it was given as a reward to the three persons in 1636 who had resided in Minami-demma-cho and had been diligently engaged in post-horse services since Tokugawa leyasu entered Edo city. The town was named Akasaka-shindemma-cho, then eventually Akasaka-omote-cho in 1911. Busy shopping streets developed in the eastern 'half part of the town at that time.

赤坂台町

古くは、麻布今井村に属し、江戸時代になると町域に青山御掃除町や専福寺門前(東北部)、種徳寺ほかの寺地(東部)、小身の武家屋敷などが区別されるようになりました。明治二年(1869年)、青山御掃除町を中心とする区域が合一されて赤坂掃除町となり、同五年(1872年)にその他の区域も加えられて赤坂台町と改称されました。丘続きで地勢が高いため「台町」と命名されたといわれています。

Akasaka-dai-machi

The town area was originally within the village Azabu-imai-mura in old times. In the Edo period, the area began to divide the town into Aoyama-osoji-machi, temple territories and samurai residences. In 1869, Aoyama-osoji-machi and its neighborhood developed into a larger town named Akasaka-soji-machi which was then renamed Akasaka-dai-machi after three years (1872), uniting its neighboring areas. The town is situated on a height (dai-chi), therefore it got the name "dai-machi".

赤坂新坂町

古くは、麻布今井村に属していましたが、天正十八年(1590年)になると町域の北部は、青山忠成が徳川家康より賜った屋敷地の一部となり、南部には、岡部氏の下屋敷がありました。その後も居住者は変わりましたが、町域の大部分は武家屋敷として存続し、わずかに南東隅に町屋がありました。明治五年(1872年)、町域が合一され、隣接する赤坂台町との境にあった新坂に因み、赤坂新坂町と命名されました。

Akasaka-shinsaka-machi

The town area was originally within the village Azabu-imai-mura in old times. In 1590, the town area began to see samurai residences in its north and south part, afterwards the whole area had existed as the samurai residential area except for some tradesman's houses at the southeastern corner. In 1872, the whole area developed into a town named Akasaka-shinsaka-machi after a shinsaka slope separating the adjacent town Akasaka-dai-machi.




青山通りに面して、高橋是清翁記念公園があります。

高橋是清翁記念公園の沿革

この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年〜1936年)の邸宅があったところです。翁は、昭和十一年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和十三年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和十六年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和三十年(1955年)に再建されました。現在の面積は5、320uで、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。




カナダ大使館の西側から路地に入りますと、やや急な坂が下っています。



19.新坂

新坂は長さが約140mほどの坂で、江戸時代の元禄十二年(1699年)に新しく開かれた坂ということに因んで坂名が付けられました。坂上と坂下付近に案内柱が立っています。

新坂

しんざか できた当時は新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄十二年(1699年)である。しんさかとも発音する。




新坂の中ほどに趣のある日本家屋が建っています。紫芳庵と標札が出ていますが、京料理の隠れた名店なんだそうです。京都瓢斗から生まれた名物料理「出汁しゃぶ」が名物で、薄切りの豚肉をしゃぶしゃぶにして、日本料理の技から生まれたこだわりのお出汁に付けて頂くお料理とのことです。私も今から胡麻だれで豚肉のしゃぶしゃぶを食べようかと思っているのですが。



坂下を右折した先にカンボジア大使館があります。何気に通りすぎましたが、建物の壁に人間の顔らしき像があったような気がして引き返しました。よくよく見ますと、壁面に大きな仏像のレリーフが掲げられています。各国の大使館にはお国柄を表す飾り付けがされていることが多いのですが、仏像は初めて見ました。



乃木会館前から乃木坂トンネルまで直線で延び、トンネル手前で直角に折れて外苑東通りに合流する緩やかな坂が上っています。



20.乃木坂

乃木坂は長さが約170mほどの坂で、別名を「幽霊坂・行合坂・なだれ坂・膝折坂」といいます。大正元年に乃木大将が死去して乃木神社に祀られた際に、それまで呼ばれていた幽霊坂から乃木坂へと改名されました。乃木坂駅前に案内柱が立っています。

乃木坂

のぎざか 大正元年(1912年)、乃木将軍の葬儀と同時に幽霊坂という名は廃され、乃木坂に改められた。また、行合坂、なだれ坂とも呼ばれた。




乃木神社の一の鳥居脇に大きな石碑が置かれていて、坂名の改名について短く述べられています。改名がされていなかったら、乃木坂46は幽霊坂46だったかも。。。

乃木坂

由来 乃木大将の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された。




ゴール地点の乃木坂駅に着きました。赤坂地区の坂は分散しているので、最短距離での踏破は出来なかったように思います。ま、ヒマを持て余していますので、別に急いで巡る必要もないんですけどね。



ということで、港区最初の「赤坂コース」を歩き終えました。次は、六本木通りの南側を中心にして坂道を巡りたいと思います。





戻る