港区(愛宕・麻布台コース)
踏破記
今日は先日の六本木・赤坂・虎ノ門コースに引き続き、愛宕・麻布台地区の坂道を巡ります。六本木・赤坂・虎ノ門コースの終点となった東京メトロ日比谷線の神谷町駅からスタートします。
神谷町駅の西側一帯は「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」という名称の大規模な再開発が進行中です。工事用の塀が日比谷線の神谷町駅を取り囲むように連なり、塀の中の広大な土地にはクレーンが林立しています。再開発の区域面積は約8.1ヘクタールに及ぶそうです。住宅・事務所・店舗・ホテル・インターナショナルスクール・中央広場・文化施設などが建てられる予定で、その延床面積は約86万平方メートルになるとか。高さ330mの超高層ビルはほぼ竣工間近で、大坂のあべのハルカスを抑えて日本一の高さになるとのことです。他の施設も徐々に姿を現しつつあり、完成した暁には麻布台の景観は一変することでしょう。歴史ある坂が再開発によって消滅しないことを願います。
愛宕神社は防火・防災に霊験のある神社として知られ、23区内の天然の山としては一番高い愛宕山(標高25.7m)山頂にあります。
愛宕山
愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は二六メートルである。山頂に愛宕神社がまつられ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。愛宕神社の祭神は火の神(火産霊命)が中心で、江戸時代には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。今日のように周囲に高層ビルが立(建?)つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の八六段の急勾配の石段で、寛永年間(1624年〜1644年)に曲垣平九郎がこの石段を馬で上下したと伝えられる。
- 42.愛宕男坂
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愛宕男坂は長さが約25mほどの非常に急な86段の階段で、愛宕神社の正面参道になります。別名を「愛宕石坂」といいます。愛宕神社の北隣を上る緩やかな参道を女坂と呼ぶのに対し、急な主参道は男坂と呼ばれます。
愛宕男坂は「出世階段」とも呼ばれてます。
愛宕神社 「出世の石段」のいわれ
愛宕神社正面の石段「男坂」(となりの緩やかな石段は「女坂」)は別名「出世の石段」と呼ばれ、その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の一人曲垣平九郎(まがきへいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永十一年。
三代将軍徳川家光公が芝増上寺ご参詣の帰り道、神社に咲き誇る源平の梅の馥郁たる香りに誘われて山頂を見上げて「誰か騎馬にてあの梅を取って参れ」と命ぜられました。しかし目前には急勾配な石段があり、歩いて登り降りするのにも一苦労。馬での上下など、とてもとても・・・と家臣たちは皆一様に下を向くばかり。誰一人名乗りでる者はおりません。家光公のご機嫌が損なわれそうなその時!一人の武士が愛馬の手綱をとり果敢にも石段を上り始めました。「あの者は誰じゃ?」と近習の臣に家光公からお尋ねがあっても誰も答える者はおりません。その内に平九郎は無事に山の上にたどり着き愛宕様に「国家安泰」・「武運長久」を祈り、梅の枝を手折って降りてきました。早速家光公にその梅を献上すると、「そちの名は?」「四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎にございます」。「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれ。日本一の馬術の名人である。」と褒め讃えられました。一夜にして平九郎の名は全国にとどろき、出世をした故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれるようになり、現代においても多くの皆様にご信仰を頂いております。
神社では石段を馬で上下した方の絵を見る事が出来ます。また、平九郎が手折ったとされる梅の木は社殿左側にあり今も花を咲かせております。東京都心とは思えない緑あふれる自然の山(都内二十三区で最高峰)です。どうぞご参拝下さい。
Success Steps
In the Edo period, a famous Samurai named MAGAKI-HEIKUROU went up and down the stairs riding a horse. Since then he succeeded in his life. These days people share his good luck and go up the stairs to wish for their success.
階段を登りますと、正面に本殿があります。本殿脇には、愛宕神社の由緒を記した案内板が立っています。
愛宕神社御由緒
当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております(非公開)。江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが、現存のご社殿は昭和三十三年再建されました。寛永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました(ご社殿内に額縁寄贈)。海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され、数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。
伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり
昭和二十年、尊攘義軍十烈士が敗戦の国を憂い山上にて自刃・玉砕、並びに二夫人がその後を追われました。現在も慰霊碑の前で御遺族、有志の人達の手により慰霊祭が行われています。
Information on ATAGO JINJA (Shinto shrine)
Established in the year KEICHO 8 (1603) by TOKUGAWA IEYASU (1ST shogun of the EDO
period) on his order to build a shrine here to protect the local community from fire accidents. ATAGO-YAMA is 26m, above the sea. It is the highest land in TOKYO's 23 wards. It was very famous for its fine, commanding view.
The Shinto Gods are here:
HOMUSUBI no MIKOTO (the god of fire) is enshrined as a main god.
Other Shinto gods enshrined at Atago Jinja are:
MIZUHANOME no MIKOTO (the god of water)
OOYAMAZUMI no MIKOTO (the god of mountains)
YAMATO TAKERU no MIKOTO (the god of military arts)
SHOUGUN JIZOU was specially worshiped by TOKUGAWA IEYASU. He prayed to be a top leader. And he succeeded. This god is also enshrined here, too. But it is never open to public.
On the front side of Atago Jinja (OTOKOZAKA) the steps are long and steep. They are
famous for success in life and for the legend of the junioru samurai MAGAKI HEIKUROU
who dared to ride his horse up the steps and succeeded in delivering a plum gift to his lord. The Shogun praised him as a great rider in Japan.
Everybody knows these steps are a symbol for success in life. They are called SHUSSE no ISHIDAN.
We pray for everybody's happiness in peace everyday.
Thank you.
本殿左手の広場の片隅に、曲垣平九郎が枝を折った梅の木が植わっています。幹の途中でクランク状に曲がっている珍しい梅の木です。馬上からだと手を伸ばせば枝に届きそうです。その左右に記念写真撮影用の顔出しパネルが2枚置いてあり、左のパネルは曲垣平九郎が石段を馬で駆け上がる姿、右のパネルは江戸城無血開城会談の際の勝海舟と西郷隆盛の姿が描かれています。
境内の北端から階段が右に大きくカーブしながら下っています。
- 43.愛宕女坂
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愛宕女坂は長さが約40mほどの急な109段の階段で、愛宕神社の副参道になります。愛宕神社の正面を上る非常に急な主参道を男坂と呼ぶのに対し、北隣を上る緩やかな参道は女坂と呼ばれます。
愛宕神社の先にワイン屋さんのKONISHIがあります。随分昔にお邪魔したことがありますが、江戸時代にルーツを持つ老舗の酒屋「あたご小西」さんで、徳川三代将軍家光の時代の寛永十八年(1641年)に小西弥兵衛が芝口に酒屋を開き、酒屋「小西」の屋号はここから始まりました。当時最大の酒の消費地であった江戸に関西(上方)の酒を売る下り酒(伊丹や灘などの上方から江戸に運ばれた酒)屋「小西」は大変な隆盛を誇り、小西の暖簾は方々に広がりました。落語「文七元結」や歌舞伎「神明恵和合取組」(通称「め組の喧嘩」)や「魚屋宗五郎」などにも「小西」の酒屋が数多く登場しました。それから約240年後の明治十六年(1883年)、芝口の本店小西弥兵衛と浪花町小西の番頭であった初代が由緒ある小西重兵衛店の名跡を継ぎ、愛宕下で現在の原型となった酒屋を開業しました。愛宕山は当時東京でもっとも眺望が良かったことから外国人専用のホテルがあり、洋酒(特にワイン)などの取引が既に行われており、これが現在の基盤となっています。その後戦時中の苦しい時期を乗り越え、昭和二十六年に愛宕小西と改称しました。
愛宕通りからNHK放送博物館に向かって長い坂が上がっています。NHK放送博物館は昭和三十一年(1956年)3月3日に世界初の放送専門博物館としてNHK発祥の地である愛宕山の東京放送局旧局舎を使用して開館しました。昭和四十三年(1968年)に敷地内に塔屋付4階建てのビルが新築されました。当初展示室は2階までとなっていましたが、平成十五年(2003年)に全フロアに拡張してリニューアルオープンしました。その後、放送開始90周年の記念事業として平成二十八年(2016年)に再度リニューアルオープンして今日に至っています。館内には終戦時の玉音盤など約3万件を超える音声・映像資料が所蔵・展示され、それぞれの時代のラジオ受信機やテレビ受像機の動態保存も行なわれています。また、8Kス−パーハイビジョンを備えた愛宕山8Kシアターがあり、迫力ある映像が楽しめます。
- 44.愛宕新坂
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愛宕新坂は長さが約210mほどのかなり急な坂です。坂の途中の分岐点に朱色の鳥居が建っていて、愛宕神社の駐車場に繋がる参道にもなっています。明治十九年(1886年)に、此の地にあったホテル愛宕館の申請によって開かれました。ホテル愛宕館は後に東京ホテルとなり、大正三年(1914年)頃に閉館となりました。
坂の途中には格式ある京風料亭らしき建物があります。でもこれは損保ジャパン日本興亜という会社が保有する愛宕荘という施設なのだそうです。企業の贅沢な保養施設といったところでしょうか。
愛宕二丁目交差点で右折し、神谷町駅方向に戻ります。交差点の先から左手に坂が上がっています。坂下付近に青松寺というお寺があり、正則高校前で右手に直角に曲がっています。
正則高校に隣接して中高一貫校の芝中学校・高等学校があります。「芝学園下」の交差点名は芝中学校・高等学校を指しています。どちらも伝統ある私立の学校です。
- 45.切通坂
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切通坂は長さが約230mほどのかなり急な坂で、別名を「手まり坂」といいます。坂上にあるオランダ大使館に隣接した水道局芝給水所の先から永井坂に出て飯倉交差点に繋がっています。坂の上に行くほど広くなり,オランダ大使館の前は手まり坂とも呼ばれています。マンション名にも使われていますね。江戸時代の寛永年間の頃に開かれたという坂下一帯は寺参りの男女を当て込んだ民衆芸の小屋が並んで大変賑やかだったといいます。
ちなみに、坂下の交差点からひとつ先に芝学園下という交差点があり、そこからも左手に坂が上がっていて坂上で切通坂に合流していますが、こちらは切通坂の坂下ではありません。
坂上にはオランダ大使館があります。敷地内は窺いしれませんが、正門は伝統ある造りで、裏門の紋章もヨーロッパ王国の格式を象徴しています。
芝学園下交差点に戻って神谷町駅方向に進みます。神谷町交差点の手前に光明寺というお寺があります。境内には明和の大火で焼死した人達の供養墓があります。
港区指定文化財 旧跡 明和の大火死者供養墓
明和九年(1772年)二月二十九日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦三年(1657年)一月十八日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。
再開発が続く「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の敷地内に取り込まれて長らく閉鎖されていた西久保八幡神社ですが、漸く工事塀が取り払われて真新しい本殿が姿を現しました。西久保八幡神社は寛弘年間(1004年〜1012年)に源頼信によって創建され、室町時代の武将で江戸城主となった太田道灌が現在の地に遷したと伝えられています。関ヶ原の戦いに際し、崇源院は戦勝を祈願し、後に社殿を造営しました。元は八幡山普門院と号する天台宗の寺院でしたが、明治初年の神仏分離の際に廃寺となり、神社に改められました。
鳥居の先に階段が上がっています。
- 46.西久保八幡男坂
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西久保八幡男坂は長さが約20mほどの急な44段の階段で、別名を「石坂」といいます。正面の石段を男坂、右側にある緩い坂を女坂と呼んでいます。西窪(西久保)とは、愛宕山の西方の窪地の意味です。西久保八幡神社は創建時は霞ヶ関にあり、慶長五年に現在地に移りました。
寛政九年巳年(1797年)に男坂が再興された時に建てられた石柱が坂上に置かれています。
西久保八幡神社の裏手斜面には貝塚が残っています。縄文時代には、この辺りは海に面していたのでしょう。
東京都指定史跡 西久保八幡貝塚
港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。この社殿の裏手斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態で残る貝塚と言えます。本貝塚が知られたのは昭和のはじめ頃に遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。昭和五十七年度の都心部遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。台地の縁辺から斜面にかけて、縄文時代後期前葉から後葉にかけての混土貝層が二枚発見されました。また、貝層上には縄文時代晩期の遺物包含層、貝層下には縄文時代前期の遺物包含層が確認されています。調査範囲が狭いにもかかわらず、貝層からは縄文時代後期中葉の完形の精製浅鉢土器や精製深鉢土器、粗製深鉢土器が数個体出土しており、E・S・モースが発掘した品川区大井の国指定史跡大森貝塚出土品(重要文化財)との比較資料として重要です。
Historic site Nishikubo Hachiman Kaizuka
It is in the beginning of the Showa Era that the kitchen midden under this section
became known, however, it had been subjected to no academic excavations until very
recently. The site was identified as is in the framework of investigation on distribution conducted in 1982 by the Central metropolitan area remains investigation group, subsequently new researches were conducted. 2 layers of shells mixed with soil from an early to a late stage of the Late Jomon Period were found from edges to slope of the plateau. Furthermore, a layer comprising relics from the Final Jomon Period was identified above the layers of shells, while a layer comprising relics from the Early Jomon Period below them. Although the range of
investigation was limited, several fine-made shallow, fine-made deep and roughly made deep bowl-shaped clay vessels were excavated. These clay vessels are important as reference materials compared to excavated relics (Important Cultural Assets) from a state-designated historic site Omori kitchen midden.
西久保八幡神社の南端を迂回しながらやや急な坂が下っています。
- 47.西久保八幡女坂
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西久保八幡女坂は長さが約45mほどのアスファルト舗装の坂で、正面の石段を男坂と呼ぶのに対して、右側にある緩い坂を女坂と呼んでいます。坂下で男坂と女坂は運命の出会いをします。
倉交差点の手前で右折し路地に入ります。右手には霊友会釈迦殿の巨大な建物があります。その先に急な階段が上がっています。
- 48.雁木坂
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雁木坂は長さが約15mほどの急な階段で、別名を「岩岐坂・雁来坂」といいます。階段状になった坂、もしくは敷石が直角に組まれている階段は雁木坂と呼ばれています。坂下と坂上に案内柱が立っています。
雁木坂
がんぎざか 階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたことから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。
外苑東通りが桜田通りと交差する倉交差点手前のビルの1階には、以前ベラルーシ家庭料理の「ミンスクの台所」というレストランが入っていましたが、今は空き店舗になっています。2022年5月15日をもって閉店したのだそうです。2019年3月に「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の開始によって立ち退きを迫られてこの場所に移転してから僅か3年、コロナの影響でしょうか、それともベラルーシはロシアと同盟関係にありますので、ロシアによるウクライナ侵攻が影響したのでしょうか?評判は良かったのですけど。
外苑東通りのロシア大使館前から飯倉交差点に向かって、少し左にカーブしながら外苑東通りが下り坂になっています。ロシア大使館周辺は警備が厳しく、交差点手前にはいつも警察車両が停まっています。
- 49.榎坂
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榎坂は長さが約75mほどの緩やかな坂です。榎坂の坂名の由来は不明ですが、かっては桜田通りから六本木の方に行く主要な道路だったために、標識代わりの榎の木が植わっていたのではないかと推測されます。
倉交差点から東京タワーに向かって緩やかな坂が上がっています。
- 50.永井坂
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永井坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、別名を「榎坂・切通坂」といいます。江戸時代から明治初期に、この一帯が芝永井町という町名だったことに因んで坂名が付けられました。坂下付近と坂上に案内柱が立っています。
永井坂
ながいざか 江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。
「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」は幾つかの街区に分けられて工事が行なわれていますが、倉片町交差点付近は「A街区」と呼ばれていて、日本で最高の高さになる超高層ビルが竣工間近となっています。
飯倉片町交差点の北にある麻布小学校前から溜め池方向に下り、中間地点の落合坂入口付近から再び上りになる擂鉢状の坂があります。
- 51.行合坂
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行合坂は長さが約200mほどの緩やかな坂で、中央部分に首都高都心環状線が通っています。下りの区間と上りの区間があることから「行合」という坂名になったと思われます。この道路は、ほぼ平坦な都道415号の東側車線をアップダウンの勾配にして行合坂を造っているという変則的な構造になっています。そのため、行合坂の谷底部分では都道415号と3〜4メートルの段差があり、その地点は我善坊谷の最低部で、落合坂の入口になっています。つまり、落合坂にスムーズに繋げるためにわざわざ行合坂を擂鉢状にしたのです。
麻布小学校前の校門脇に案内柱が立っていますが、周囲は工事用のコーンに囲まれていて近づけません。優しいガードマンの方に頼み込んで写真を撮らさせて頂きました。
行合坂
ゆきあいざか 双方から行合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。
落合坂は「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の敷地に含まれていて、入口は工事用の塀で鎖されていてどこにあるのかも分かりません。今回はパスしますが、工事が完了した後で落合坂が消滅していないことを切に願います。
- 52.落合坂
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落合坂は長さが約190mほどの緩やかな坂で、我善坊谷から住宅地を西に通り抜け、都道415号高輪麻布線に出る狭い道です。西端で行合坂に突き当たっています。赤坂方面から往来する人が行き合う場所にあるので「落合」という坂名になりました。今は見れませんが、坂下と坂上に案内柱が立っているそうです。
落合坂
おちあいざか 我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。
ネットから転載させて頂きました。
三年坂は落合坂を我善坊谷に下りたところから霊友会釈迦殿の裏手に通じる石段で、「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の敷地に含まれています。今回はパスしますが、工事が完了した後で三年坂が消滅していないことを切に願います。
- 53.三年坂
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三年坂は長さが約20mほどの緩やかな階段で、別名を「三念坂」といいます。
ネットから転載させて頂きました。
今は見れませんが、坂上の車止めに「さんねん坂」と書かれた石柱があり、由来碑も建っているそうです。
三年坂の由来
いつのころよりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。
ネットから転載させて頂きました。
ちなみに、雁木坂の右手は三年坂の坂上になっている筈なのですが、その手前に工事用の塀が建っていて、幕の隙間から覗こうとしたのですが無理でした。
我善坊谷坂も「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の敷地に含まれていて、行くことはできません。今回はパスしますが、工事が完了した後で我善坊谷坂が消滅していないことを切に願います。
- 54.我善坊谷坂
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我善坊谷坂は長さが約90mほどの”く”の字に曲がる急な坂で、別名を「稲荷坂」といいます。我善坊谷は麻布台地の北側の谷で、西側に落合坂があり、東側は西久保八幡神社脇に出ます。坂名はこの谷に由来しますが、坂道は崖地を削るように一部曲折して谷道に方向を変えています。谷道をそのまま横切って進むと霊友会釈迦殿裏の三年坂に繋がっています。我善坊谷は「龕前坊谷」とも書き、寛永三年に二代将軍秀忠の室(お江与)の葬礼が芝増上寺で執行された際に、葬列の途中の道筋に当たるこの坂下の谷に仮御堂が置かれました。この御堂は「龕前堂(がぜんどう)」と呼ばれ、後にこの谷筋は「龕前堂谷」と呼ばれ、やがて我善坊谷に転訛したといわれています。
ネットから転載させて頂きました。
サウジアラビア大使館の裏手では「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の「B−2街区」の工事が進行中です。この街区には、地上54階・地下5階・高さ237.2mの複合超高層ビルが建てられます。低層部はホテルで、中高層部に住宅フロアが設けられる予定となっています。
3つの坂をパスしたことで少々気分が落ち込んできました。今日は時間は早いですが、この辺で坂道巡りを終了しようと思い、桜田通りに出ます。歩道脇に、芝地区ちぃまっぷの案内板が立っています。
西久保八幡神社の貝塚
今から約3700年前の縄文時代後期のものといわれる貝塚が境内にあり、当時は東京湾がこの付近まで入り込んでいたことが感じられます。港郷土資料館内でこの貝塚の展示を見ることができます。
A shell mound at Nishikubo-hachiman Jinja Shrine
It is believed that the shell mound in the shrine is approximately 3700 years old from the latter half of the Jomon period. During that period, Tokyo Bay was larger than today. The exhibition of the shell mound is open to the public at the Minato City Local History Museum.
金地院(近藤周斎の墓)
徳川家康に招かれ、幕府の政策に関与したことから「黒衣の宰相」と称された崇伝が建立した寺です。新撰組局長近藤勇の養父である近藤周斎の墓があり、それを目当てに訪れる人もいます。
Konchi-in Temple (A tomb of Kondo Shusai)
Suuden, a monk called "a prime minister with black robe", established the temple. He was asked to take part in the government's administration by Shogun Tokugawa lyeyasu. There are also some people who visit the tomb of Kondo Shusai, the father of Kondo Isami. Kondo Isami was the head of Shinsen-gumi in which they promoted exclusionism.
芝地区旧町名由来板も立っています。
西久保広町
芝公園に南接し、神谷町と西久保巴町に北隣した町域です。明治五年(1872年)、西久保同朋町、芝富山町、青松寺門前、青龍寺門前を併せて西久保広町と唱えました。町の南にある増上寺涅槃門より西久保通り(虎の門、飯倉間の道路)に出る所に広小路と称する場所があったことが町名の由来です。
愛宕町
愛宕神社があることから、愛宕町と称されました。愛宕山や含海山の丘陵がこの町の大部分を占め、その東山麓に沿って、平坦な市街が横たわっていました。明治五年(1872年)、愛宕社地および青松寺、清岸寺、伝光院、考壽院、吟宗院、円福寺、金剛院、普賢院、満蔵院、鏡照院、薬師寺、王蔵院、良久院、真福寺等の寺地その他幕士の宅地を併せて愛宕町一丁目としました。今も愛宕神社や青松寺をはじめ、諸寺が残っています。
神谷町
神谷町は、徳川家康が三河にいた時代、 その御手廻り中間を勤めていた者が、天正十八年(1590年)家康と共に江戸に入国し、慶長十九年(1614年)、その中間の組頭に西久保に組屋敷を与えたことに始まります。当初、西久保田町と称していましたが、元禄九年(1696年)、組屋敷は町屋敷となって、同時に本国の神谷村の名に因んで神谷町と称するようになりました。明治五年(1872年)、出石藩仙石正國邸および付近の寺地を合併しました。
西久保八幡町
もとは大養寺および西久保八幡神社の境内でした。いつの頃からか、大養寺の前に町屋が開け、また元文二年(1737年)には八幡宮別当普門院境内に町屋ができて、両者とも門前町となりました。明治二年(1869年)、両門前町および幕士の宅地を合併して、町内に八幡神社があったことから、西久保八幡町と名付けました。明治五年(1872年)、さらに付近の社寺地を合併しました。
The origins of old town names in Shiba area.
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
Nishikubo-hiromachi
In the 5th year of the Meiji period (1872) this town was born, uniting Nishikubodobo-cho, Shibatoyama-cho, Seishoji-monzen (temple town) and Seiryuji-
monzen (temple town). There was the Hirokoji (wide main street) leading to the Nishikubo-dori Street from the Nehan Gate of Zojoji temple in the south of the town. This street is the origin of the town's name.
Atago-cho
This town was named after the Atago-jinja shrine existing in the town. In the 5th year of the Meiji period (1872) the new town Atago-cho 1-chome was born. It united the Atago-jinja shrine territory, temple territories and the samurai residences. The Atago-jinja shrine or temples including Seishoji still exist in the present area.
Kamiya-cho
In the 19th year of the Keicho period (1614) this town originally started as a residential area, named Nishikubo-tamachi, for those close to Ieyasu, the founder of the Tokugawa regime. In the 9th year of the Genroku period (1696) the residential area changed gradually into one for trademen, and at the same time the town was renamed Kamiya-cho after the former occupant's native place Kamiya-mura (village).
Nishikubohachiman-cho
The area later occupied by the town was originally within the grounds of Daiyoji temple and Nishikubohachiman-jinja shrine. Trademen's town appeared in front of Daiyoji temple before one knows, and also within the ground of the shrine in the 2nd year of the Genbun period (1737). In the 2nd year of the Meiji period (1869), including near-by residences of shogunal samurais, both the towns were united to develop into a single town named Nishikubohachiman-cho after the shrine.
ゴール地点の神谷町駅に着きました。
ということで、港区で三番目の「愛宕・麻布台コース」を歩き終えました。次は、芝公園・三田・高輪地区の坂道を巡りたいと思います。
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