港区(芝公園・三田・高輪コース)
踏破記
今日は先日の愛宕・麻布台コースに引き続き、芝公園・三田・高輪地区の坂道を巡ります。愛宕・麻布台コースの終点となった東京メトロ日比谷線の神谷町駅からスタートします。
東京プリンスホテルの北側に面した芝公園三丁目交差点付近から、プリンスホテルの西側に位置する東京タワー前交差点付近までの愛宕下通りは緩やかな上り坂になっています。
- 55.銀杏坂
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銀杏坂は長さが約300mほどの道幅の広い坂で、坂下から西に向かって上り、途中直角に向きを変えて南に向かって上っています。江戸時代にこの付近一帯は増上寺と徳川家の霊屋がありました。明治初年に増上寺領の大部分が東京市の芝公園となり、多くの改造が行われて新道も開かれるなど、地形がかなり変わりました。戦後は徳川家の霊屋が取払われ、跡地に東京プリンスホテルが建ちました。その間に道路も拡大改修されていますので、銀杏坂にはかっての面影は残っていません。
明治元年(1868年)、徳川幕府に代わり近代化を目指す新政府が発足しました。それから6年後の明治六年(1873年)に太政官布達第16号により、日本で最初の制度上の公園が誕生しました。制定の基準としては、古来からの景勝地・旧跡など人が多く集まる場所ということで、既存の景勝地を公園としました。東京では上野公園・浅草公園・飛鳥山公園・芝公園・深川公園が指定されましたが、最初の公園は江戸時代からの名所として賑わっていた寺社仏閣をそのまま公園として指定しただけのものでした。浅草公園は浅草寺の境内敷地、上野公園は寛永寺の境内敷地跡地、芝公園は増上寺の境内敷地でした。芝増上寺は徳川家康が帰依して寛永寺と並ぶ徳川家の菩提寺であり、門前には茶店が出来るなど賑わっていました。芝公園は増上寺の境内地をそのまま公園の区域に設定したもので、公園敷地を1号地から25号地の計25区画に振り分けました。しかし、制定当初は公園らしい整備は行われていませんでした。その後、明治十四年(1881年)に紅葉山に和風の高級料亭「紅葉館」が開業し、それに合わせて19号地のもみじ谷の整備が進められました。戦後、増上寺本殿や徳川廟などが公園区域から外され、公園の敷地は増上寺を取り囲む現在の形状になりました。昭和三十三年(1958年)には芝公園旧20号地に東京タワーが完成し、東京のランドマークとして人気を博しました。現在は、区立芝公園・東京プリンス芝公園など管理者が異なる区域を含みますが、都内最大級の前方後円墳である芝丸山古墳や丸山貝塚など歴史的に価値のある遺産を持つ都立の総合公園です。東京タワー前交差点の直ぐ先から芝公園の敷地に入ります。小高い丘のようになった斜面から小さな滝が流れ落ちています。「もみじの滝」というのだそうです。
もみじの滝
もみじの滝は、日本人初のランドスケープデザイナー長岡安平の設計により明治三十八年(1905年)に築造されました。深山幽谷の趣が残る崖線を利用した滝が設けられており、自然の地形を生かした設計を好んだ安平の設計思想が現れています。幾度かの改修を経た今も当時の面影を感じさせる景観を楽しむことができます。
Momiji-no-taki (Maple Waterfall)
Momiji-no-taki was designed by Yasuhei Nagaoka, the first Japanese landscape designer, and completed in 1905.Yasuhei liked designs that utilized natural topography, and his design philosophy appears in this waterfall, where he utilized a cliff line that reminds us of a deep mountain valley. The waterfall underwent several renovations, but current visitors can enjoy the scenery that makes them feel the ambiance of those days.
公園の南端には、長岡安平邸跡の記念碑が建っています。
長柏園(ちょうはくえん)跡の碑
長柏園は、わが国近代の造園界の先覚者である長岡安平翁(1842年〜1925年)の邸の称である。翁は肥前大村藩士であったが、独学で造園を修め明治三年、先輩であり、後の東京府知事となった楠本正隆と共に上京以来、東京府・東京市・逓信省に奉職し、府・市の大小公園の設計を始め全国各地の公園の設計、各種造園を成したばかりでなく、老樹名木の保存・街路樹植栽等に及ぶ幅広い緑に関する卓越した見識を持ち、多数の後輩を育てた。芝公園においても明治三十八年紅葉滝及び渓流の設計を行ったほか数々の改良設計を行った。この碑は昭和二年12月20日翁の2周年忌を期して知友一同が跡地に建立したものである。
丘の上に登るには、@東京タワー側から上る短い階段・A南から北に上る階段・B北から南に上る階段の3つのルートがあります。もみじの滝からですと、Aのルートを使います。
この丘は富士見台といわれ、丘の上には西向観音堂があります。鎌倉幕府五代執権の北条時頼が観音山(現在の東京タワー敷地)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて石仏を安置しました。西向観世音として信仰を集め、子育て・安産に霊験あらたかと伝えられています。昭和五十年(1975年)に現在の地に遷座され、昭和五十五年(1980年)にこの観音堂が建立されました。
- 56.富士見坂
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富士見坂は長さが約10mほどの緩やかな短い階段です。かっては、旧芝公園20号地(現在の東京タワーの敷地)から富士見台へ上がって行く細い坂道がありましたが、現在は観音堂へ上るこの数段の石段が残っているだけです。昔はこの石段の上から富士山が望めたのでしょうけど、現在は都心のビル群によって地平線は視界から遮られています。
東京タワーはいつ見ても美しいですね。真下からの眺めは迫力満点です。
東京タワーから坂を下りたところに「とうふ屋うかい」のお店があります。「とうふ屋うかい」は、東京タワーの麓に広がる約2000坪の敷地に造られた江戸情緒を感じる空間で豆腐と旬の素材を使った懐石料理が味わえる料亭です。八王子に大和田店を創業し、その後ここ芝店を開業しました。
赤羽橋交差点を右折し、中之橋を渡って南西方向に進みますと、左手の高台に天祖神社が鎮座しています。天祖神社は、寛弘二年(1005年)に一条天皇の勅命により創建され、渡辺綱の産土神であったことから、多くの武人に崇敬されたといわれています。また、江戸時代に徳川将軍家の命により神体や神宝が飯倉神明(現芝大神宮)に移されることになりましたが、氏子・崇敬者の熱意により境内に神体を隠し留め、これを昼夜警護したとも伝えられています。「元神明宮」と称し、藩邸が隣接した有馬氏を始め、広く衆庶の崇敬を集めました。大正十二年の関東大震災や昭和二十年の東京大空襲等の災厄から氏子・崇敬者を守ったとされたことから、厄除けの神としても崇敬を受け、平成十七年(2005年)9月には「御鎮座壱千年」の記念事業を挙行しました。相殿の水天宮は、文政元年(1818年)に有馬家藩邸の邸内社として筑後久留米の水天宮から分祀されたもので、安産の神・水の神として崇拝されてきましたが、明治元年(1868年)に有馬邸が青山に移転するに際してその分霊を相殿として奉斎することになりました(因みに、青山の有馬邸内社の水天宮は日本橋蛎殻町に遷座され、現在の水天宮となりました)。現在の社殿は旧社殿の老朽化のために全面的な改築を行ない、平成六年6月に竣工しました。
天祖神社の石段下からオーストラリア大使館の北東端まで坂が上っています。
- 57.神明坂
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神明坂は長さが約110mほどの緩やかな坂で、別名を「馬場坂」といいます。坂下の天祖神社が元神明宮と呼称されることに因んで坂名が付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。
神明坂
しんめいざか 天祖神社を元神明というところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが、綱の手引坂との混同があるらしい。
神明坂の坂上にはオーストラリア大使館があります。大使館の敷地には幕末期に大和柳本藩織田家と日向・佐土原藩島津家の屋敷がありました。明治期になって蜂須賀侯爵家の所有となり、当主の蜂須賀正氏がケンブリッジ大学に留学した後の大正時代に此の地に英国風カントリーハウスを建てました。昭和十五年(1940年)にオーストラリア政府は屋敷を公使館として借用し、昭和二十七年(1952年)に全敷地を購入しました。屋敷は蔦の生い茂る建築物として知らていましたが、昭和六十年(1988年)に現在の現代的な外観の建物に建て替えられました。
オーストラリア大使館の西側に隣接した三田共用会議所前から、明治通りの二の橋交差点まで急坂が下っています。三田共用会議所は中央省庁の会議が行われるところで、徳山藩毛利日向守のお屋敷跡地が渋沢栄一邸となり、更にその跡地に建てられたとのことです。
- 58.日向坂
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日向坂は長さが約130mほどの急な坂で、別名を「ひなた坂・袖振坂」といいます。江戸時代、坂上付近に徳山藩毛利日向守の屋敷があったことに因んで坂名が付けられました(日向・佐土原藩島津家の可能性もあるのでは?)。坂上と坂の中ほどに案内柱が立っています。
日向坂
ひゅうがざか 江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。袖振坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。
オーストラリア大使館と路地を挟んだ反対側に綱町三井倶楽部の格式あるネオ・バロック様式の建物があります。建物の設計者は鹿鳴館やニコライ堂、その他著名な建造物を生み出したイギリスの建築家であるジョサイア・コンドルで、大正二年(1913年)に竣工しました。三井倶楽部は、日向・佐土原藩島津淡路守江戸藩邸と会津藩保科家の屋敷跡地に建てられ、南側の斜面及び低地には庭園が広がり、平成二十一年(2009年)頃までは大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋が前面道路に面して現存していました。
綱町三井倶楽部本館
綱町三井倶楽部本館は、大正二年(1913年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。コンドルは明治十年(1877年)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ幾多の建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献しました。この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、ネオ・バロック風の特徴を持ち、室内装飾や家具
などに優美な曲線の装飾が見られます。また、建物の背後の庭園も優れています。平成二十年(2008年)には、門も建築当時の姿に復元され、大正時代の様子を伝えています。なお、三井倶楽部の敷地は、江戸時代には佐土原藩島津家・会津藩保科家の屋敷があったところで、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました。
現在は三井不動産株式会社が所有・管理しており、使用中のため公開していません。
神明坂の坂上から桜田通りに向かって坂が下っています。
- 59.綱の手引坂
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綱の手引坂は長さが約310mほどの緩やかな坂で、別名を「小山坂・姥坂・馬場坂」といいます。平安時代の勇士源頼光四天王の一人、渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説に因んで坂名が付けられました。「手引」の意味は、「姥に手を引かれ」からきているものと思われます。坂上と坂下付近に案内柱が立っています。
綱の手引坂
つなのてびきざか 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな)にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂の説もある。
渡辺綱の伝説は次の通りです。
渡辺綱は摂津源氏の源頼光(満仲の子)に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られました。また先祖の源融は源氏物語の主人公の光源氏の実在モデルとされていますが、渡辺綱も美男子として有名でした。「御伽草子」には、大江山の酒呑童子退治の話が載っています。源頼光が家来の渡辺綱・藤原保昌・坂田金時・碓井貞光・占部季武を引き連れて大江山に出向き、八幡・住吉・熊野三神の加護を得ながら酒呑童子一味を見事討ち果たしました。一行は山に囚われていた姫と救い出し、酒呑童子の首を土産に都へ凱旋して帝に首尾を報告して沢山の褒美を授けられました。また、京都の一条戻橋の上で大江山鬼退治で逃げた茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話でも有名です。謡曲「羅生門」は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものです。
綱の手引坂の北側一帯で、「三田ガーデンヒルズ」という名称の大規模な再開発が行なわれています。敷地面積2万5千uにも及び、港区最大の低層邸宅地になるとのことです。
綱町三井倶楽部の東端に沿って、イタリア大使館の西側途中から慶応大学の北西端まで急坂が下っています。イタリア大使館の敷地は、江戸時代には伊予松山藩の松平隠岐守の中屋敷となっていました。忠臣蔵で有名な大石主税や堀部安兵衛ら元赤穂藩士10名が切腹した場所です。当時のまま残されている庭園では、駐日イタリア大使が毎年切腹した赤穂浪士の供養をされているそうです。また、慶応義塾大学の敷地は肥前国島原藩の松平主殿頭の中屋敷でした。
- 60.綱坂
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綱坂は長さが約150mほどのかなり急な坂で、別名を「渡辺坂・馬場坂」といいます。坂名は、渡辺綱が付近に生まれたという伝説に因んでいます。坂上と坂下付近に案内柱が立っています。
綱坂
つなざか 羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。
東京には味のある居酒屋さんがありますが、津国屋(つのくにや)もそのひとつでしょう。綱坂下にあり、慶応義塾大学の正門からも歩いて2分ほどのところで、明治期の商家として今も風情を色濃く残す年代物の建物が異彩を放っています。津国屋は、明治元年(1868年)に高輪の津国屋本店から分家して酒屋として創業しました。現在の建物は明治二十六年(1893年)に建てられ。2023年で築130年となりました。木造2階建ての建物は、江戸時代から大正時代までの商家によく見られる軒先を大きく前面に張り出すようにした「出桁(だしげた)造り」と呼ばれる古式構造で建築され、港区の歴史的建造物になっています。また、建物の正面右手には昭和四十年代まで土蔵が隣接し、お酒の保管はその土蔵で行ってきたそうです。50年ほど前から角打ち(酒屋での立ち飲み)を始め、平成十三年(2001年)にリニューアルをして居酒屋になりました。歴史を感じさせる旧商家でのランチタイムには数種類の定食が供され、ボリューム満点でお値段はそこそこ。学生さんでなくても懐の寂しいサラリーマン諸氏には有難いお店です。勿論、夜は日本各地の銘酒が堪能できる本業の居酒屋に変身します。元が酒屋さんだっただけに、豊富な日本酒の品揃えとお手頃価格で、ランチ同様に懐に優しい居酒屋さんです。
津国屋から路地を挟んだところに、ラーメン二郎三田本店のお店があります。見るからに狭そうな店内ですが、今日も沢山のラーメンおたくがお店の前の歩道に行列しています。ラーメン二郎は「ジロリアン」と呼ばれる熱狂的ファンが多いことで知られ、創業者である山田拓美さんが店主をつとめる三田本店はまさにラーメンの聖地となっています。ラーメン二郎のラーメンは、小さなサイズでもかなりの量で濃厚な豚骨スープが特徴です。
桜田通りの慶應義塾大学の正門のはす向かいから普連土学園の裏手を上がって坂上の曲がり角まで幅の狭い坂が延びています。
- 61.安全寺坂
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安全寺坂は長さが約85mほどのやや急な坂で、別名を「安珍坂・安楽寺坂・安泉寺坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂の西側に安全寺があったことに因んでいます。坂下と坂上の曲がり角付近に案内柱が立っています。
安全寺坂
あんぜんじざか 坂の西に、江戸時代のはじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などと書かれたことがある。
安善寺坂上をクランク状に折れて少し進みますと、突き当たりの右手に桜田通りに下りる坂があります。
- 62.蛇坂
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蛇坂は長さが約65mほどのやや急な坂です。付近の藪から蛇が出たことに因んで坂名が付けられました。坂上の曲がり角付近と坂下に案内柱が立っています。
蛇坂
へびざか 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。
普連土学園の脇を抜けた先で路地が直角に曲がり、その先に「阿含宗関東別院」の横に沿って坂が下っています。
- 63.潮見坂
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潮見坂は長さが約60mほどのやや急な坂で、別名は「汐見坂」といいます。かつて坂上から海が見え、潮の干満を知ることができたことに因んで坂名が付けられました。坂上の曲がり角付近と坂下に案内柱が立っています。
潮見坂
しおみざか 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたため、この名がつけられた。
潮見坂の坂下手前から普連土学園の前の通りが長い上り坂になっています。
- 64.聖坂
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聖坂は長さが約400mほどの緩やかな坂で、坂の途中で僅かに左にカーブしています。別名は「非知坂・竹芝の坂」といいます。坂名の由来は、この坂を高野聖が開き、その宿所もあったことに因んでいます。坂下付近と坂上に案内柱が立っています。
聖坂
ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。
聖坂に面して普連土学園の校舎が建っています。普連土学園は、完全中高一貫校の女子校です。明治二十年(1887年)、当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー、フレンド派)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設しました。現在でも日本国唯一のキリスト友会の教育機関になっています。校名の「普連土」の当て字は、津田仙(津田塾大学の創立者津田梅子の父)が、「普(あまね)く世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名したとされています。教育理念の核として、クエーカーの言葉である内なる光と神の種子を掲げています。昭和四十三年(1968年)に建てられた中等部校舎は建築家大江宏の代表作として知られ、平成十五年(2003年)「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選ばれました。また、東京都選定歴史的建造物にも選ばれています。
聖坂の途中に亀塚神社が鎮座しています。亀塚稲荷神社は亀の形をした石を御神体としていて、太田道灌が此の地に物見台を造った際に建立したといわれています。
狭い境内の隅には「弥陀種子板碑」5基が建っています。中世の関東地方に多く見られる阿弥陀信仰に基づく供養石塔で、秩父青石(緑泥片岩)で作られています。5基のうちの3基については、鎌倉時代中期から南北朝時代前期にかけての文永三年(1266年)・正和二年(1313年)・延文六年(1361年)の年紀銘が確認できますが、残りの2基の銘は風化のため解読不能となっています。文永三年の碑は港区内で最古の板碑です。新田義貞一族の霊を弔うための碑だとも伝えられています。
東京都港区指定文化財 歴史資料 弥陀種子板碑
全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永三年(1266年)十二月」・「正和二年(1313年)八月」・「延文六年(1361年)の造立年が陰刻されており、特に文永三年の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。これらの板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは摩耗がはげしく、造立年などを知ることはできない。
歩道の脇に「歴史と文化の散歩道」の案内碑が建っています。ここを歩いたのは何時の頃だったでしょうか。
三田坂めぐり散歩
三田坂めぐり散歩は、赤羽橋から伊皿子坂までの坂また坂の約2.3Kmのみちのりです。綱の手引坂、綱坂、聖坂などそれぞれの歴史と景観をもった坂と落ち着いたたたずまいを見せる洋館、点在する寺院や遺跡をめぐる散歩道です。
坂と洋館
三田一帯は、多くの坂に縁どられた高台の上にあり、江戸時代には武家地・寺社地となっていた。見はらしが良く静かなこのあたりは、または戸市民の行楽地としても知られ、ことに聖坂から伊皿子あたりにかけては“月の岬”と称される月見所として名を馳せた。維新後、武士にかわって華族や政府高官たちがここに住み、また、諸外国の公使館や学校が集まった。慶應義塾三田演説館や三井倶楽部、旧蜂須賀邸など、数々の洋館が建てられ、この界わいの特徴となった。
Hills and Western-style Budings
Mita is a hilly district. In the Edo period, the heights was a district for the
Samurai and for temples and sharines. After the Meiji Restoration, the analy
and the government officials moved into the area. Also, the foreigs legations
and schools gathered here. The area is noted for various Western style buildings.
亀塚公園のはす向かいから桜田通りに長い坂が下っています。
坂は途中で平坦になり、その先で再び下り坂になって桜田通りに突き当たっています。
- 65.幽霊坂
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幽霊坂は長さが約230mほどの緩やかな坂で、かっては坂の両側に寺院が建ち並んでもの寂しいところだったことからこの坂名が付けられました。坂上付近と坂下に案内柱が立っています。
幽霊坂
ゆうれいざか 坂の両側に寺院が並びものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有札坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七カ所ほどもある。
桜田通りの魚籃坂下交差点から伊皿子交差点近くの大丸ピーコックの前まで長い坂が上がっています。
- 66.魚籃坂
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魚籃坂は長さが約260mほどの緩やかな坂で、坂名は坂の途中の東側にある魚籃寺に魚籃観音が祀られていることに因んで名付けられました。坂下付近と坂上の手前に案内柱が立っています。
魚籃坂
ぎょらんざか 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名づけられた。
坂下付近にある「三味せん寺」と呼ばれる大信寺に三味線の始祖とされる石村近江の石碑が建っています。三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本・通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成し、「浄本近江」と呼ばれた名工でした。寛永十三年(1636年)3月2日に没し、大信寺に葬られました。
石村近江墓
三味線はわが国の代表的な楽器として、世界に知られています。十三世紀ごろ中国に三絃としておこり、琉球に伝わり、十六世紀ごろ摂津の堺(大阪府)に伝来して、京阪地方の琵琶法師に用いられていました。その後種々の技法を採り入れた石村検校と、それを継いだ石村近江は、日本の三味線として、多数の名器を相継いで世に出し、邦楽の発展に寄与しました。三味線の始祖とされる石村近江は、号を浄本、通称を源左衛門といい、京都から江戸に移住して三味線を完成し、「浄本近江」と呼ばれた名工でした。寛永十三年(1636年)三月二日に死去しました。なお、石村家は代々近江の名を継ぎましたが、特に二代浄本から五代までは名匠相継ぎ、古今無双の名器を世に出しました。墓は本堂裏手の墓地にあり、記念碑も建っています。
坂の中腹に、魚籃坂の坂名の由来となった(やや色あせていますが)朱色の山門が目立つ魚籃寺があります。門前には「芝魚籃坂」の石柱が置かれています。魚籃寺の本尊は「魚籃観世音菩薩」(空海作と口碑に残る、頭髪を唐様の髷に結った乙女の姿をした観音像)で、承応元年(1652年)に創建されました。
坂上付近の西側に、「お水はいっさい出しません」で有名な英国風カレーのお店のSUNLINEがあります。水を出さないのは、医食同源のような考え方で、水を飲むとスパイスの効能が薄れるということのようです。前から気になっていたのですけど、今だに食べたことはありません。
伊皿子交差点から泉岳寺方面に向かって道往寺手前の交差点まで坂が下っています。
- 67.伊皿子坂
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伊皿子坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。坂名は、かってこの辺りに伊皿子という名の明国人が住んでいたと伝えられることに因んでいますが、他にも幾つかの説があります。坂上付近と坂下の手前に案内柱が立っています。
伊皿子坂
いさらござか 中国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも”いいさらふ”(意味不明)の変化ともいう。
伊皿子交差点の角に「歯科医学教育発祥之地」と書かれた石碑が置かれています。
歯科医学教育発祥之地
高山紀齋は米国留学で得た理想を基にここ東京芝区伊皿子町七〇番地に明治二十三年(1890年)一月、わが国最初の歯科医学校として高山歯科医学院を設立した。この学院には後の世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。その後、血脇守之助がこれを継承し、東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校、東京歯科大学として現在に至っている。この地に端を発した近代歯科医学教育の精神は高山歯科医学院開設以来百有余年、脈々と今に引き継がれている。
泉岳寺の手前に、NHK交響楽団の練習拠点になっている窓のない直方体の建物があります。定期公演は渋谷のNHKホールや赤坂のサントリーホールで行いますが、練習は高輪のこの演奏所で行ないます。演奏所の中には、ベートーヴェンの第九交響曲の練習の際に合唱団まで入ることが出来る広い練習室や、2・3名で練習できる分奏室が6部屋あります。さらに、楽器や衣装の倉庫はもちろん、楽団員がくつろげるラウンジも設置されています。1961年に建てられた建物は2014年に約1年かけて大改装を行い、建物全体の耐震化と空調システムの改善、それに練習室の音響の向上を図り、練習に集中できる環境を整えました。2階のライブラリーには、歴代の楽譜や音源が保管されています。オーケストラでは、同じ曲でも指揮者が違うと全く違う演奏になります。その違いは、指揮者の指示が書き込まれた楽譜に表れます。そこで、書き込まれた楽譜はライブラリに保管しておき、のちに同じ曲を振る指揮者や楽員が参考にするそうです。公演ごとに増えていくこれらの資料は、NHK交響楽団が積み上げてきた歴史であり、後世に繋いでいく資産になることでしょう。
泉岳寺の中門前を左折し、路地を進みます。
中門
元来、泉岳寺には三門といって三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保七年(1836年)三十五世大(ホウ)梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和七年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。
Chumon (Middle Gate)
Sengakuji originally had three gates: Somon (Outer Gate), Chumon (Middle Gate) and Sanmon (Main Gate). Chumon and Sanmon still remain at present. The Middle Gate was reconstructed in the late Edo era under the 35th abbot in 1836. The script above the gate "L" (Banshozan) written by a Chinese monk is Sengakuji's mountain name and
means "mountain of many pines". Ext: A cultural asset of Minato City
高輪ハイマンションの前で右折し、左右に曲がりながら坂が上っています。
最後の区間はとりわけ傾斜がきつく、勾配率22%の表示がされています。
- 68.幽霊坂
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幽霊坂は長さが約230mほどの複雑に曲がりながら上がる坂です。途中までは緩やかな傾斜になっていますが、最後の区間は急勾配になっています。かっては海岸沿いに位置していた泉岳寺から高輪台地に向かって上がっていた坂で、現在は周囲一帯にマンションが林立していますが、昔は寂しい幽霊が出そうな抜け道だったことから、この坂名が付いたと思われます。坂上には港区立の高輪幼稚園があります。お子さんを後ろのチャイルドシートに座らせて、電動自転車は急坂をスイスイと上って行きます。母は強し!ですね。
レトロな外観の高輪消防署二本榎出張所前の交差点を左折します。
そのまま進みますと、右手に由緒ありげな屋敷があります。現在は「高輪館」という標札がかかっていますが、2016年に某テレビ局に売却される迄は東芝山口記念館という東芝グループの迎賓館でした。この屋敷は旧三井財閥で経営手腕を発揮した財界人の朝吹常吉の私邸として、米国人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により大正十四年に建てられた英国調ながら外観にスパニッシュ様式を取り入れたヴォーリズ建築の洋風邸宅でした。邸宅は朝吹常吉邸として使用された後、旧加賀藩前田家を経て、東芝山口記念会館として東芝グループの賓客をお迎えする場として使用されていました。館内は1階にサロン・ダイニング・ティールーム、2階は会議室・ダイニング、地下1階はサロンなどで構成されていました。売却後の今でも建物自体はそのままの形で現在も残っています。
高輪館の敷地の西側を回り込むように曲がりながら、東禅寺の方に坂が下っています。坂下は高輪館の真裏になります。
- 69.洞坂
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洞坂は長さが約45mほどの急な坂で、別名を「法螺坂・鯔坂」といいます。坂名の由来については、かってこの付近の地名が洞村であったことに因むとか、その他諸説があります。坂の中ほどの曲がり角付近と坂下に案内柱が立っています。
洞坂
ほらざか 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、またくぼ地だから洞という等様々な説がある。
高輪館の手前付近から国道15号(第一京浜)の高輪二丁目交差点に向かって坂が下っています。
- 70.桂坂
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桂坂は長さが約240mほどの緩やかな坂で、別名を「鬘坂(かつらざか)・魚堅坂」といいます。昔、蔦葛がはびこっていたためとか、鬘をかぶった僧がここで急死したからとかいうことで坂名が付けられてといわれています。坂上付近と坂下に案内柱が立っています。
桂坂
かつらざか むかし蔦葛(つたかずら・柱は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
今日は三田の幽霊坂で坂巡りを終えて白金高輪駅から帰ろうかと思っていたのですが、つい足を伸ばしてしまいました。夕方になってきましたので高輪ゲートウエイ駅から帰途につきたいと思います。それにしても、高輪ゲートウエイ駅前の再開発工事の規模は凄いですね。クレーンが林立していて、完成後の周辺の景色が想像もつきません。
ゴール地点の高輪ゲートウェイ駅に着きました。思いっきり未来的な外観の駅舎ですね。
ということで、港区で四番目の「芝公園・三田・高輪コース」を歩き終えました。次は、高輪の残り・白金・白金台地区の坂道を巡りたいと思います。
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