港区(高輪・白金・白金台コース)


踏破記


今日は先日の芝公園・三田・高輪コースに引き続き、高輪地区の残り・白金・白金台地区の坂道を巡ります。芝公園・三田・高輪コースの終点となった高輪ゲートウェイ駅からスタートします。



第一京浜(国道15号線)を進んで品川プリンスホテルに向かいます。解体工事が進むパシフィックホテルを右手に眺めながら、歩道橋を渡って品川プリンスホテルのモール街に入ります。品川プリンスホテルは単に宿泊するという機能だけでなく、ホテルとエンターテインメントの融合をテーマにして、約3500室の客室と水族館やアトラクションを備えた様々な施設を備えています。今日は建国記念日の祝日で、大勢の家族連れが訪れて賑わっています。敷地の外側に沿って通る道路と並行するように、ホテルのノースタワー入口の前からマクセルアクアパーク品川という水族館の前を通って高輪テニスセンター前まで坂が上っています。



71.いちょう坂

いちょう坂は長さが約210mほどの人工の坂です。ホテルの敷地内ですので坂の案内柱はありませんが、ホテルのノースタワー入口の前にプリンスホテルが設置したものと思われる「いちょう坂」と書かれた木の標識が立っています。敷地内のポスターにも「いちょう坂」の名称があちこちに見られます。いちょう坂の存在を知らないとホテル内でまごつくことでしょう。



いちょう坂の坂名の由来は分かりませんが、坂上に大きな銀杏の木(?)が聳えていますので、それに因んだのかもしれません。



品川プリンスホテルの敷地の北側に沿って通る道路は、品川駅前交差点からグランドプリンスホテル新高輪の南西端まで上り坂になっています。



72.柘榴坂

柘榴坂は長さが約440mほどの緩やかな坂です。別名を「新坂」といいます。坂名の由来ははっきりしませんが、江戸時代に坂の途中に柘榴(ざくろ)の木があったことに因んで名付けられたのではないかといわれています。坂下と坂上の左右に案内柱が立っています。坂の両側に案内柱が立っているのは珍しいですね。

柘榴坂

ざくろざか 坂名の起源は伝わってない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲がり、明治に直通して新坂と呼んだ。




桜田通り(国道1号線)に出て、明治学院前交差点を左折します。明治学院大学は、ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜で開いた「ヘボン塾」を起源となり、文久三年(1863年)に創立されました。日本で最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)で、戦後の昭和二十四年(1949年)に新制大学として発足し、現在では6学部15学科、7研究科を擁する純文系の大学となりました。令和六年(2024年)4月には、初の理系学部となる「情報数理学部」が新設される予定になっています。ちなみに、大学の名称である「明治」は時代名を指すのではなく、「明けき政治の時代の学問の学校」を目指すということから命名されたのだそうです。正門の奥に見える伝統ある建物は明治学院記念館です。明治学院記念館は、明治二十三年(1890年)に建てられたネオゴシック様式の建物で、1階の小チャペルは静かな黙想の場となっていて、19世紀につくられた足鍵盤付きリードオルガンが大正時代の音をいまも響かせています。建物は2002年度の「景観上重要な歴史的建造物等」として東京都から指定され、オルガンは港区の指定有形文化財になっています。



白金小学校北端付近から目黒通りの日吉坂上交差点まで坂が上っています。



73.桑原坂

桑原坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、この芝白金の付近はかって今里村という地名で、その地名のひとつであった桑原が坂名になったといわれています。坂下と坂上に案内柱が立っています。

桑原坂

くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残っていない。




桑原坂の坂上手前に八芳園があります。八芳園は1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストランや結婚式場を有し、名称は「四方八方どこを見ても美しい」風景に因んで名付けられました。八芳園の敷地の一部は、江戸時代前期に譜代の旗本であった大久保忠教(彦左衛門)の屋敷でしたが、その後薩摩藩の抱屋敷や島津家(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡りました。大正四年(1915年)に実業家の久原房之助邸宅となり、現在の建物と庭園が整備されました。戦後になって久原房之助(当時公職追放中)は銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に海外からの旅行者(賓客)向けに日本庭園を活かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら命名して昭和二十五年(1950年)に八芳園を創業しました。令和四年(2022年)5月23日には、日米首脳会談のため来日していたアメリカ合衆国大統領のジョー・バイデンと岸田首相が敷地内の料亭「壺中庵」で夕食会を催しました。



正門の横に小さな神社が祀られています。

古地老稲荷神社の由来

昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで、火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷さまは「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」の強いご神託より、文政十三年、日吉坂上に鎮座されたもので、しかも縁日には霊妙不可思議にも必らずといってよいほどに雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りしました。この境内に、大正四年六月石刻連名の方により、遷宮され、ご神託どおり歴史に出火のないこと、わけても大正十二年九月一日の関東大震災にも第二次世界大戦空襲にも、火災を免れたのは祭神のご利益と信仰し、昭和二十年迄は、神前に神楽、余興を奉納し、盛況でありました。現在白金台敬崇会により左の神事が行なわれております。

  四月十七日 例大祭
  九月 一日 鎮火祭




目黒通りの日吉坂上交差点先からシェラトン都ホテル東京前付近まで坂が下っています。



74.日吉坂

日吉坂は長さが約300mほどの緩やかな坂です。別名を「ひよせ坂・ひとみ坂・ひとせ坂」といいます。坂名の由来は、かって付近に能役者の日吉喜兵衛が住んでいたことに因みます。坂下の手前付近に案内柱が立っています。

日吉坂

ひよしざか 能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ・ひとせ・ひとみなどと書く説もある。




目黒通りの起点となる桜田通り(国道1号線)の清正公前交差点のひとつ南側の交差点から急坂が上っています。



75.天神坂

天神坂は長さが約90mほどの急な坂です。坂名の由来は、かって坂の南側に菅原道真の祠があったことに因みます。坂下と坂上付近に案内柱が立っています。

天神坂

てんじんざか むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためにいう。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂ともいったという説もあるが北方の坂か。




坂の中央付近に小さな稲荷神社があります。古壽老稲荷神社はかって麻布飯倉片町付近に鎮座していましたが、延宝六年(1678)頃に現在地に遷宮しました。「御府内備考」の三田代地(君塚町)の条に、「右に剣左に宝珠持、白狐に乗れる女之姿に相見え、里俗小女郎稲荷と唱来、弘法大師の作と申伝候」と記されていることから、俗に「小女郎稲荷」とも呼ばれています。昔から町内に失火が全くなく、神社を中心とする氏子を含む一帯は大正十二年の関東大震災や昭和二十年の東京大空襲ともに難を免れ、氏子中はもちろん、近隣の人びとも「火除の神」として崇敬の念が深いとのことです。古地老稲荷神社と似てますね。



次の葭見坂(「よしみざか」と読みます)を探すのに結構時間を使いました。地図には目標となる高松中学校は書いてあるのですが、そこに至る道が分かりません。散々迷った挙げ句に、桜田通りから建物の隙間に細い小道が入っているのを見付けました。本当はその少し先だったようですが。



76.葭見坂

葭見坂は長さが約60mほどの緩やかな坂です。別名を「吉見坂」といいます。高松中学校の正門前から学校敷地沿いに桜田通りに向かって下り、途中で“く”の字に曲がっています。坂名の由来は、かって白金村の葭原という畑地を坂の上から見下ろせたことに因んでいます。



高松中学校の塀の端で道幅が半分になって桜田通りに出ます。



桜田通りの白金高輪駅付近から目黒通りとの分岐点となる清正公前交差点付近まで坂が上っています。



77.名光坂

名光坂は長さが約250mほどの緩やかな坂です。別名を「那光坂・なこう坂」といいます。坂名の由来は、かってこの辺りが蛍の名所で「名光」の地名だったことに因んでいます。非常に寂しいところで、江戸時代の切絵図には坂の南下あたりを樹木谷あるいは地獄谷と呼ばれたと書かれています。



白金高輪駅のはす向かいに桜田通りから鋭角に分岐する道路があります。その先に朱色の山門が鮮やかな立行寺があります。山門の前に「大久保彦左衛門墓」の柱が立っています。境内には大きな石碑が建っていて、隣には一心太助の石塔も置いてあります。戦国時代から江戸時代前期の武将で旗本の大久保忠教は、大久保彦左衛門の通称で知られています。立行寺は大久保忠教によって建立されたために「大久保寺」とも呼ばれています。講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は、鶴屋南北の弟子である河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居を脚色したものです。一心太助は百姓でしたが、あるとき領主の大久保彦左衛門に意見したのが気に入られ、大久保家で奉公することとなりました。大久保彦左衛門の皿を誤って1枚割ってしまった腰元お仲が手討ちで殺されそうになるのを一心太助が知り、彦左衛門の前で残りの皿7枚を割りました。彦左衛門はお仲と一心太助を許し、一心太助はお仲と結婚して武家奉公を辞め、お仲の実家の魚屋で働くこととなりました。その後も大久保彦左衛門に意見し、協力することとなります。番町皿屋敷の結末とはえらい違いですね。



白金北里通りの三光坂下交差点から左手に坂が上がっています。



78.三光坂

三光坂は長さが約210mほどのやや急な坂です。別名を「三鈷坂・三葉坂」といいます。坂名の由来は、坂下の専心寺にあった三葉の松に因んで名付けられたという説と、日月星の三光から坂名が付いたという説があります。坂下と坂上に案内柱が立っています。「三鈷」とは、両端が三つ叉に分かれ、尖った爪のある仏具をいいます。「三光」とは、日(天照大御神)・月(月読神)・星(天之御中主神)のことです。

三光坂

さんこうざか 本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ仏具)坂だったというが、日月星の三光などともいう。




白金北里通りの名称は、途中にある北里研究所に因んでいます。北里研究所は、社団法人北里研究所と学校法人北里学園が統合して設立されました。北里研究所は、明治二十五年(1892年)に設立された私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)を起源とし、大正三年(1914年)に北里柴三郎により設立されました。



北里研究所の向かいから坂が上っています。坂上には聖心女子学院(中学・高校)があり、赤いレンガ塀が歴史ある坂に溶け込んでいます。



79.蜀江坂

蜀江坂は長さが約170mほどのやや急な坂です。坂上の丘を中国の蜀江に因んで蜀江台と呼んだことから、坂名も同じように名付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。

蜀江坂

しょっこうざか 坂上の丘を紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。むかしの字名は卒古台であった。




蜀江坂と並行して、西側に坂が下っています。



80.明治坂

明治坂は長さが約160mほどのやや急な坂です。坂は昔からありましたが、「明治」坂と呼ばれるようになったのは大正時代になってからだそうです。坂下と坂上に案内柱が立っています。

明治坂

めいじざか むかしから存在していた道であるが、明治坂と呼ばれたのは、大正初年からであると伝える。




目黒通りの白金台交差点から約1km続く外苑西通りの別名は「プラチナ通り」と呼ばれています。「白金」がプラチナを意味することから通り名が付けられました。プラチナ通りにはイチョウ並木沿いにおしゃれなカフェやレストラン、それに高級ショップが軒を連ねています。洗練された街の雰囲気に合う女性を「シロガネーゼ」と呼んで、マスコミに取り上げられたことから一躍有名になりました。尤も、地元民は「白金」を「シロカネ」と読むんですけど。そんなハイソな通りの石垣の上で猫が日向ぼっこをしています。カメラを向けても身じろぎもしませんね。



国立自然教育園の裏手からひとつ手前に坂が下っています。坂下にはジンバブエ大使館があります。普通の小さなマンションに見えますが、壁には大使館名と紋章が付けられています。



81.日東坂

日東坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。別名を「日糖坂」といいます。坂名は、かってこの辺りに日東紡あるいは日本製糖の用地があったことに由来しています。坂下と坂上に案内柱が立っています。

日東坂

にっとうざか 日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれた坂と推定される。




ゴール地点の広尾駅に着きました。



ということで、港区で五番目の「高輪・白金・白金台コース」を歩き終えました。次は、南麻布・西麻布地区の坂道を巡りたいと思います。





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