港区(南麻布・西麻布コース)
踏破記
今日は先日の高輪・白金・白金台コースに引き続き、南麻布・西麻布地区の坂道を巡ります。高輪・白金・白金台コースの終点となった広尾駅からスタートします。
広尾橋交差点から有栖川宮記念公園の方向に進み、最初の曲がり角を右折しますと、直ぐ先に広尾神社があります。広尾稲荷神社は麻布御花畠の麻布御殿の鎮守でした。麻布御殿は、別名白金御殿・富士見御殿とも呼ばれ、五代将軍綱吉が世を治めていた元禄十年(1697年)十二月一日に将軍の慰安施設として麻布で起工され、僅か五ヶ月半の突貫工事で翌年の四月十四日に完成しました。
広尾稲荷神社の拝殿の天井には、日本洋画家の先駆者である高橋由一の日本画最後の作の龍が描かれていて港区の指定文化財となっています。
港区指定文化財 有形文化財 広尾稲荷拝殿天井墨龍図 高橋由一筆
拝殿天井のほぼ全体にわたる大きな画面に、水墨の線と濃淡のぼかしを巧みに活かし、頭から尾の先までを円状にくねらせながらその姿を現わす一頭の龍が生き生きと描かれています。図中には、「藍川藤原孝経拝画」の署名と「藍川」の印章(朱文方印)が見られます。「藍川」の号は、西洋からもたらされた油絵の技法をいち早く取り入れ、近代日本洋画最初の画家として歴史的な評価をうける高橋由一(1828年〜1894年)が、絵画学習の基礎として狩野派の様式を学び、その画法によって水墨画を描いていた時期に使用していたものです。由一が狩野藍川孝経の落款を残す現存作品は極めて稀です。広尾稲荷神社は、弘化二年(1845年)一月二十四日、青山から麻布一帯を焼いた「青山火事」によって社殿を焼失しましたが、弘化四年に再建されました。拝殿の墨龍図は、このときに描かれたものと考えられます。製作年代がほぼ特定できる作品としても貴重なものです。
昭和十五年(1940年)に紀元2600年記念事業として境内整備が行われ、その時に三基の庚申塔が神社の横に移転されました。
港区指定有形文化財 歴史資料 広尾の庚申塔
庚申信仰は、庚申の日の夜に体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一晩を明かすもので、講の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔として、室町時代後期以後各地で盛んに建てられました。三基とも方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としています。社伝によれば、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺の住持祐道の代に、講の人々の浄財を得て立てられたものです。三基のうち、中央には元禄三年(1690年)、左には元禄九年の年号があり、右は摩滅のため年代不詳ですが、状況から左の二基よりも古い可能性があります。庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であり、この地域も例外ではなかったことがわかります。庚申信仰の実態は、この地域ではすでにほとんど失われ、過去の組織の状況を伝えるものも全くありませんが、さまざまな要素を合成しながら、自主的な民間信仰として、庶民の間に行われてきたものであり、都心化したこの地域での、かつての信仰のあり方を想起させる遺物として、三基の庚申塔は貴重な存在となっています。
広尾稲荷神社の先でクランク状の坂が上がっています。
- 82.新富士見坂
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新富士見坂は長さが約160mほどのやや急な坂で、左・右とクランク状に曲がりながら上っています。かっては坂上から冨士山がよく見えたことに因んで坂名が付けられたとのことですが、富士見御殿との関連はないのでしょうか?坂下手前の入口付近と坂上に案内柱が立っています。
新富士見坂
しんふじみざか 江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。
新富士見坂の坂上から少し先に並行して下る坂があります。
- 83.青木坂
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青木坂は長さが約100mほどのやや急な坂で、別名を「富士見坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂の北側に旗本の青木氏の屋敷があったことに因んでいます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
青木坂
あおきざか 江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。
青木坂の坂下のすぐ先にフランス大使館があります。現在のフランス大使館の庁舎は2009年11月に竣工しました。日仏協力の下で旧庁舎と同じ敷地内に建設された新庁舎は極めて洗練された外観をしていて、環境性能の高い現代的な建物です。新しい大使館は環境に極めて優しい建物で、高性能の断熱システムに加えて、雨水を回収できる緑化屋根を備えています。設備全体がエネルギー消費の管理制御システムを装備し、照明システムはすべて省エネ型となっています。自然換気システムによって空調エネルギー消費量を四季を通じて最適化することができ、建物にはリサイクル建材もしくはリサイクル可能な建材が多数使われています。これらの特長によって新庁舎は日本の評価レベルで最高ランクの「S」の格付けを取得しました。日本でこれほど高い評価を受けた公共事務所建築物は他にありません。
明治通りに出ます。明治通りから1万平方メートル余の広大な光林寺の境内がフランス大使館の敷地まで広がっています。光林寺は延宝六年(1678年)10月に盤珪永琢によって麻布市兵衛町に創建され、その後元禄七年(1694年)5月に現在地に移転しました。墓地には大名家や旗本の墓所も多数あります。著名人のお墓も多く、平成三十年(2018年)9月30日には女優の樹木希林さんの葬儀が執り行われました。墓地の奥にはオランダ人ヒュースケンのお墓もあります。
港区指定文化財 史跡 ヒュースケン墓
アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856年)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって、困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国の条約締結にも尽力した人物である。万延元年(1860年)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議の斡旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部を深く切られた。その後宿所に運ばれ、プロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、六日未明に死亡した。遺体は江戸光林寺に埋葬された。
明治通りに面した肉のハナマサのお店の脇から長い坂が上っています。
坂上の右手にはフィンランド大使館があります。港区内には約60もの大使館がありますが、フィンランド大使館は港区の中心部の南麻布に位置しています。大使館の建物は1983年に建てられ、数百年を経る堂々とした椎の古木が大使館の中庭に重厚な雰囲気を添えています。
- 84.新坂
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新坂は長さが約320mほどの緩やかな坂で、坂名は、明治時代に新しく開かれた坂ということに因んでいます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
新坂
しんざか 新しく開かれた板の意味であるが、開かれたのは、明治二十年代と推定される。
新坂の坂上を右折してフィンランド大使館の石垣に沿って緩やかな坂を進みますと、本村小学校に隣接する本村幼稚園の前で急な下り坂になっています。
- 85.阿衡坂
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阿衡坂(あこうざか)は長さが約130mほどの緩やかな坂です。本村小学校一帯は江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷でした。保科正之は二代将軍秀忠の実子で高遠藩主保科家の養子となりましたが、秀忠は彼の性格が温厚明敏であることを認め、徳川将軍の侍従として中国でいう「阿衡」(天子の補佐役:摂政または宰相の異称)の職に就けました。これが坂名の由来となっています。保科正之がよほど謙虚誠実で、庶民や官僚に敬愛されていたことが分かります。
阿衡坂の坂下が谷底のようになっていて、そこから左側に湾曲するように急坂が上っています。坂上には真新しい本村公園があります。
- 86.奴坂
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奴坂は長さが約65mほどのかなり急な坂です。別名を「谷小坂」といいます。坂名の由来については、武家の奴が付近に多く住んでいたためとか、谷小坂・薬王坂がなまったなどの説があります。「奴」とは、武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人の蔑称です。「家つ子(やつこ)」が語源とされています。奴には、農民や一般町民の二男三男などの家の仕事を継げない者が雇われ、武士が出かける時の荷物持ちほか、雑務をこなしたりしていました。参勤交代の時には臨時に大勢の運搬役など人手が必要となり、期限を切って雇われていました。奴のお仕着せの半纏には、主家の家紋ではなく大きな四角形を染めていました。この紋所は「釘抜紋」といい、座金を写した四角い形から、食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」と表現します。常温または冷やした豆腐を奴に切って供するのを「冷奴」、温めた豆腐を奴に切って供するのは「熱奴」とか「湯奴」などと呼びます。正月に凧揚げをする際に見かける「奴凧」は、奴が半纏の筒袖の端を指でつまみ、左右に腕を広げた姿を模しています。坂上に案内柱が立っていたそうですが、どこを探しても見つかりませんでした。
奴坂
竹ヶ谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。
奴坂の坂上を右折して進みますと、下り坂の途中から右手に谷底に落ちるような急坂が下っています。途中から坂の横に階段が設けられています。
- 87.釣堀坂
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釣堀坂は長さが約110mほどのかなり急な坂です。坂名の由来は、かってこの谷間に釣堀があったことに因みます。現在、釣堀は埋められて団地になっています。
谷底から再び登り坂になっています。こちらも坂の途中から階段が併設されています。坂上の右手は本村小学校の裏手にあたります。
釣堀坂の坂上の手前から坂が下っています。
坂下にはイラン大使館があります。
大使館向かいの掲示板に、イランの国家を紹介した長〜〜〜いメッセージが貼られています。
イラン・イスラム共和国ナショナルデー44周年記念のメッセージ
1979年2月11日(イラン暦1357年バフマン月22日)は、イマーム・ホメイニ師の指導のもと勝利した、イラン国民による栄光のイスラム革命を想起させます。それから42年の歳月が流れ、この期間、偉大なイラン国民はイラン・イスラム共和制のなかで、時には苦しく、時には楽しい月日を経てきました。独立、自由、そして世界の傲慢な植民地支配と覇権主義からの解放は、イマーム・ホメイニ師の聡明な指導下の、高貴なイラン国民の忍耐と抵抗の結実であります。イラン最高指導者ハメネイ師によるこの道の名誉ある継承により、今日、イラン・イスラム共和国は、中東地域における全ての国の発展と繁栄、恒久平和と安定という理念を有する地域大国へと発展しました。アメリカ体制のイラン国民に対するあらゆる制裁と経済戦争にもかかわらず、学術・研究分野の発展は、国際学術誌の発表では、世界平均の11倍の速さであり、学術・研究の面でイランは、現在世界第12位にあります。大学の数では、1979年時点では57校に過ぎなかったのが、2569校にまで、そして学生数は、革命当時175,000人でしたが、現在4、330、000人にまで増えています。テレビ・ラジオ局の数では、1979年時点では2局だったのが、全国放送テレビ網が22局、国際放送網が18局、地方のテレビ網が33局、ラジオが51局、インターネット局が6局にまで増えています。イランの映画産業は、革命後、中東地域の中では他に類を見ないほどの発展を遂げ、41作のイラン映画、202人の俳優が、国際映画祭にてアカデミー賞をはじめとする数々の栄誉ある賞を受賞しています。幹細胞研究と技術の分野では、イランは現在世界トップ10に入ります。国内の優秀な科学者の努力により、完全な核燃料サイクルを確立しており、この科学技術の点では、世界トップ8に入ります。ナノテクノロジーやレイザー技術の分野でも輝かしい業績を収めており、ナノ・バイオテクノロジーの分野では現在世界第12位です。また現在、イランは中東地域で唯一国産の人工衛星の知識と技術を有する国です。イランは現在、世界で人工衛星を設計・製造し、打ち上げた6カ国の一角を占めます。医学の分野でも、現在イランは、西アジアにおける医療拠点となっております。また、量子力学、遺伝的アルゴリズム、薬学、臓器移植技術、新型コロナウイルス検査キット、ワクチン開発・生産等においても、地域の中では先駆的役割を果たしています。今日、全世界が新型コロナウイルス感染症の拡大に対する公衆衛生上の大規模な戦いを進めています。経済制裁の圧力にもかかわらず、忍耐強く自己回復力のあるイランの人々は、国内の知見と能力に依拠して祖国を発展させることを、これまで以上に決意しています。イランと日本の間の経済関係と貿易は、両国が経済協力を強化する機会を利用できる、大きな可能性を秘めています。両国が新しい国際環境の中で、石油、ガス、石油化学産業、インフラ、環境などの分野で緊密に協力できることを願っています。昨年12月、イランと日本はスポーツ分野での協力覚書に署名しました。イランと日本はスポ一ツ分野でも、協力へ向けた大きな可能性を秘めています。イランは観光にも最適な場所です。新型コロナウイルス感染症が収束し、両国の観光交流が再開することを願っています。イランは、有形無形のユネスコ世界遺産に登録されている数多くの古代遺跡からも、文明の発祥地の一つと見なされています。イランは、サフラン、ピスタチオ、バーベリー、絨毯、トルコ石などの最大の生産国です。世界の遺物のリストでは、1000を超えるペルシャの遺物がイラン文化圏に属しており、その一部はイランの近隣諸国の史跡、または世界的に有名な美術館等にあります。24のユネスコ世界遺産、34、000の国内登録遺産、があるイランには、海外からの旅行者を受け入れる大きなキャパシティがあります。
Message on 44th National Day of the Islamic Republic of Iran
February 11th, 1979 is the reminder of the victory of the glorious Islamic Revolution of Iranians led by Imam Khomeini. 44 years have passed since that day.
Under the rule of the Islamic Republic of Iran, the great nation has experienced bitter and sweet situations. the progress pace in research, scientific and academic fields in Islamic Republic of Iran, is 11 times faster than science average growth rate and its rank is 12th in the world. Before the Islamic Revolution, there was just 57 universities in Iran. It increased to 2569 universities by 2018. Students also has increased, from 175,000 at the beginning of the Islamic revolution to 4,330,000. Two TV networks in 1979 now has been reached to 22 national TV channels, 18 international and 33 local networks, 51 radio stations and 6 Internet networks.
Cinema industry of the Islamic Republic of Iran has had unique growth in the Middle East in the post-revolutionary years. 41 Iranian movies and 202 actors and actresses have received valuable awards from prestigious international festivals such as Oscars. I. R. Iran is one of the top 10 countries in the world in Stem Cell Technology field and research. Islamic Republic of Iran has achieved a complete nuclear fuel cycle with its expert's efforts and in terms of scientific and technological knowledge in this field is ranked among the eight most developed countries in the world. I. R. Iran's valuable achievements in nanotechnology and laser field are so brilliant and in nanotechnology and biotechnology field ranks 12th in the world. I. R. Iran already is the only country in the region with indigenous satellite knowledge and technology. Islamic Republic of Iran is one of the six countries in the world that design, manufacture and launch satellites.
In medicine field, Islamic Republic of Iran is going to be a medical hub in west Asia. In the field of Quantum, genetic cloning, pharmaceuticals, organ transplants, the development of covid-19 diagnostic kits, and vaccine production, I. R. Iran has been pioneers in the region. We hope in new international atmosphere Iran and Japan could closely cooperate in oil, gas and petrochemical industry, infrastructure, environment and etc. In recent years with the will and desire of the leaders of the two countries, friendly and historical relations between I. R. Iran and Japan have been on the path of expanding. High level political consultations, scientific and academic cooperation and educational and technical exchanges are the main topics of the relation of both countries. It is expected that in 2021 there will be more rosperity and expansion of economic and trade cooperation. Iran is considering as one of the cradle of civilization, from numerous ancient sites some registered in the tangible and intangible UNESCO heritage. Iran is the first largest producer
of saffron, pistachio, barberry, berry, rug and turquoise, and etc. in a list of Iranian Artifacts Abroad we can mention more than 1000s Persian antiquities belong to Iranshari cultural regions, some are located in Iran neighboring countries historical site or in world famous museums. Iran with 24 UNESCO World Heritage sites, 34,000 nationally registered heritage sites and 600 active museums, has a huge capacity to receive international tourists. interesting rituals, diverse handicrafts and traditional arts provide enough reasons to visit Iran.
-long live friendship between the two great nation of Iran and japan.
- 88.薬園坂
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薬園坂は長さが約170mほどの急な坂で、別名を「役人坂・役員坂」といいます。坂名の由来は、江戸時代に坂の西側に幕府の御薬園があったことに因みます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
薬園坂
やくえんざか 江戸時代前期、坂上の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。
再び明治通りに出ます。四の橋交差点先にある西福寺の手前から若松寺の前付近まで坂が上っています。
- 89.絶江坂
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絶江坂は長さが約140mほどのやや急な坂で、坂の途中で”く”の字に曲がっています。坂の途中にある曹渓寺の初代和尚絶江が名僧であったために、その名前が付近の地名となり、坂名にもなりました。落語の「黄金餅(こがねもち)」にも登場する坂です。「黄金餅」は、吝嗇家(りんしょくか:過度にもの惜しみする人・けちな人)の僧侶の遺産を奪おうとたくらむ主人公の成功を描いた演目です。噺のあらすじは次の通りです。
僧侶の西念は寺を持たず、托鉢をしながら下谷山崎町の長屋で貧しい生活を送っていました。ある時、西念は重い風邪を引いて体調を崩し、寝込んでしまいました。隣の部屋に住んでいる金山寺味噌の行商人の金兵衛が看病にやって来ます。金兵衛が「何か食べたい物はあるか」と西念にたずねると、西念は「あんころ餅を沢山食べたい」といいます。金兵衛はなけなしの金をはたいて大量のあんころ餅を買って西念に届けると、西念は「人のいる前でものを食うのは好きでない」と言って金兵衛を部屋から追い出します。部屋に戻った金兵衛はいぶかしがり、壁の穴から西念の部屋を覗き見ます。ひとりになった西念はあんころ餅を開いて餡と餅を分離し、腹に巻いていた胴巻から取り出した山ほどの二分金と一分銀をその餅でひとつずつくるんで丸呑みし始めます。金銀入りの餅をすべて呑み込み終えた西念は苦しそうに呻き声をあげます。驚いた金兵衛は西念の部屋に飛び込み、餅を吐き出すように勧めますが、西念は決して口を開かず、そのまま息絶えてしまいます。金兵衛は突然の出来事に戸惑いつつも、西念の金を我が物にしようと決心し、思案を巡らせます。暫くした後、金兵衛は大家のもとを訪ねて西念の死を報告し、加えて「西念には身寄りがないので、俺が家族代わりになって自分の菩提寺である麻布絶口釜無村の木蓮寺で弔いたいと思う」と話します(遺体を火葬するためには、遺族が菩提寺から「切手」を買ってそれを火葬場で払うという制度がありましたので、金兵衛の主張には妥当性がありました)。長屋の者が集められると、金兵衛は「皆の仕事に差し支えがないよう今夜中に寺に運ぼう」と提案し、賛同を得ます。早桶の代わりに樽に西念の遺体を入れて荷車で木蓮寺や火葬場へ運ぶメンバーが選ばれます。
ここで落語の演者は下谷山崎町から木蓮寺までの道中を説明するための地名を羅列する長い地語りを情景描写をまじえて行います。
金兵衛が木蓮寺の山門を叩くと泥酔した和尚が応対します。和尚が「袈裟も払子も質に流してしまった」と言うので、長屋の者は風呂敷を着せて即席の法衣を作り、ハタキを持たせて払子の代わりにさせ、リンの代わりに茶碗を箸でたたかせてなんとか経をあげてもらうが、和尚の経の文句ははなはだ怪しい滑稽なものでした。この間、金兵衛は本堂の台所から密かに鰺切包丁を盗み出します。他の者を長屋に帰し、ひとりで桐ヶ谷の火葬場に着いた金兵衛は隠亡(火葬場の作業員)が「翌朝にならないと火葬できない」と言うのを無理やりに脅して炉に火を点けさせ、さらに「腹のところだけは生焼けにしろ」と注文を付けます。金兵衛は新橋で時間をつぶし、夜が明けた頃に再び火葬場へ出向きます。金兵衛は焼骨を拾おうとする隠亡を追い払い、包丁で腹のあたりを割って探ります。すると、もくろみ通り大量の金銀が出てきましたので激しく狂喜します。金兵衛は戸惑う隠亡と残された焼骨を尻目にそのまま立ち去ります。金兵衛はこの金を元手に目黒で餅店を開きます。商売は大成功し、「黄金餅」と名づけられた店の餅は江戸の名物となりました。
坂の中ほどと坂上付近に案内柱が立っています。
絶江坂
ぜっこうざか 承応二年(1654年)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変った。
絶江坂を道なりに進みますと、仙台坂上交差点に出ます。この交差点は五差路になっていて、近くに大韓民国大使館があるため、いつもお巡りさんが厳重に警備しています。写真も撮りづらいですね。
仙台坂の途中から、奇妙な形状の「元麻布ヒルズフォレストタワー」や、令和五年(2023年)3月31日に竣工予定の高さ325mの「麻布台ヒルズ森JPタワー」が望めます。元麻布ヒルズフォレストタワーの形状は樹木をイメージしています。高さ約96m地上29階のタワーが閑静な住宅街に建つことによって、影やビル風で住民の住環境に害を及ぼす可能性がありました。そこで20階以上の部分の幅を約40m、16階より下の幅を約33mという「頭でっかちで下半身スリム」な形が採用されました。この形にすることで、高層ビルにつきまとう影とビル風という2つの大きな環境問題が解決されました。また下部を細くすることで敷地に樹木が植えられる広いスペースが生まれました。建物の形状から「耐震構造」ではなく、建物と基礎の間の免震装置を介してエネルギーを減衰させる「免震構造」が採用されています。
- 90.仙台坂
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仙台坂は長さが約330mほどの緩やかな坂で、仙台坂上交差点から麻布山入口交差点付近まで続いています。坂名は、江戸時代に坂の南側に仙台藩伊達家の下屋敷があったことに因んでいます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
仙台坂
せんだいざか 坂の南部一帯が仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名に呼ぶことになった。
仙台坂上から有栖川宮記念公園に向かいます。有栖川宮記念公園はかつての有栖川宮の御用地(有栖川宮御用地)に造られた公園で、現在は港区立の公園となっています。園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっています。公園の敷地は、江戸時代に陸奥盛岡藩下屋敷でした。明治二十九年(1896年)に有栖川宮威仁親王が霞が関の御殿から転居することとなり、代替地として御用地となりました。有栖川宮家が断絶すると、大正二年(1913年)には同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となりました。児童の健康や自然に格別の関心を持っていた高松宮は、昭和九年(1934年)1月5日に有栖川宮の没後20年の命日に因んで御用地約11、000坪を公園地として東京市に下賜され、東京市はただちに整備工事を開始して有栖川宮記念公園と命名し、同年11月に開園しました。
有栖川宮記念公園の南側のドイツ大使館前に坂が下っています。
- 91.南部坂
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南部坂は長さが約200mほどのやや急な坂で、坂名は、江戸時代に有栖川宮記念公園の敷地が盛岡南部家の屋敷であったことに因んでいます。坂上と坂下の有栖川宮記念公園入口横に案内柱が立っています。
南部坂
なんぶざか 有栖川宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)
南部坂と有栖川宮記念公園を挟んだ反対側に坂が上っています。
坂上の手前には愛育クリニックがあります。平成二十七年(2015年)に芝浦に移転するまで、ここには愛育病院がありました。愛育病院は、昭和九年(1934年)に現在の上皇である明仁親王の誕生を記念して昭和天皇より受けた下賜金をもとに設立された「恩賜財団母子愛育会」によって、昭和十三年(1938年)に開設されました。平成十八年(2006年)9月6日には、紀子妃が悠仁親王を出産しました。都内では、聖路加国際病院・山王病院と共に「ブランド出産御三家」のひとつといわれています。
- 92.木下坂
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木下坂は長さが約340mほどの緩やかな坂で、やや左にカーブしながら上がっています。江戸時代に坂の北側に木下家の屋敷があったことが坂名の由来になっています。坂下と坂上付近に案内柱が立っています。
木下坂
きのしたざか 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。
愛育病院前交差点で左斜めの方向に進みますと、外苑西通りまで坂が下っています。
- 93.北条坂
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北条坂は長さが約260mほどのやや急な坂で、江戸時代に坂下に北条家の下屋敷があったことが坂名の由来になっています。坂上と坂の中ほどに案内柱が立っています。
北条坂
ほうじょうざか 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために、この名がついた。
北条坂は外苑西通りのひとつ手前の小さな交差点までのように見えるのですけど、港区のHPの説明では外苑西通りの日赤病院下交差点まで続いているとのことです。北条坂の後半区間と重複して外苑西通りに下る坂があります。
- 94.鉄砲坂
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鉄砲坂は長さが約60mほどのやや急な坂で、江戸時代に坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことが坂名の由来になっています。坂上と坂下に案内柱が立っています。
鉄砲坂
てっぽうざか 江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。
外苑西通りの日赤病院下交差点を渡って奥の路地に入り、回り込むように進むと道幅の狭い坂が上がっています。坂上はかって日本赤十字社の敷地の一部でしたが、現在は広尾ガーデンヒルズになっています。
- 95.堀田坂
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堀田坂は長さが約100mほどのやや急な坂で、別名を「御太刀坂・禿坂」といいます。江戸時代に、大名の堀田家の下屋敷に向って上る坂だったことが坂名の由来になっています。坂下と坂上の曲がり角に案内柱が立っています。
堀田坂
ほったざか 江戸時代には、大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた。
坂上の曲がり角に立っている案内柱の足元の植え込みの脇に人面石が置いてあります。眼が妙に生々しくて気持ちが悪いですね。
堀田坂下に戻り、北方向に進みます。左手に神道大教院があります。あまり聞き慣れない神社名ですが。
神道大教の沿革
本教は、明治三年の「神祇鎮祭の詔」並びに「宣布大教の詔」により、明治六年に大教院が設立され、続いて明治八年に教派神道の中心的存在であった神道事務局の名称のもとに設立された。その後、明治十九年に神道(本局)と名称を変え、更に昭和十五年に神道大教と改名した。その間、明治十四年に神道総裁に一品有栖川宮幟仁親王殿下がご就任され、明治十八年には総裁の宮のおん後を継いで、稲葉正邦卿(旧淀藩主・子爵)が本教の初代管長に就任され、歴代管長によって現在まで全国に教会・神社・布教所等を有し、本教の道統を守り惟神の教えを行っている。
神道大教院の北側に坂が上っています。
- 96.御太刀坂
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御太刀坂(おたちざか)は長さが約150mほどのやや急な坂で、坂名の由来は不明です。「みたちざか」と呼ぶとの説もあります。
御太刀坂と並行するように、若葉会幼稚園の北側に坂が下っています。若葉会幼稚園は、昭和四年(1929年)に三井家当主の三井棟(三井グループ総帥、第十代三井八郎右衞門)により設立されました。当時の園児は、三井家及び三井高棟の趣旨に賛同する財界関係者の子弟に限られていました。現在の若葉会幼稚園は、かって三井家が所有していた西麻布の高台(麻布笄町)に1、300坪の敷地を有し、3歳児から5歳児を対象とした計7クラスを設置しています。東京のいわゆる「お受験」界において、若葉会幼稚園は松濤幼稚園(渋谷区松濤)を筆頭に、枝光会付属幼稚園(港区三田)とともに「御三家(進学)幼稚園」と称されていました。
- 97.牛坂
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牛坂は長さが約270mほどのやや急な坂で、別名を「牛鳴坂」といいます。坂名の由来は、この道が古代からの交通路になっていて、牛車が往来したことに因むと思われます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
牛坂
うしざか 源経基や白金長者の伝説のある笄橋に続く古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される。
六本木通りと外苑西通りが交差する西麻布交差点から高樹町交差点に向かって坂が上っています。
- 98.笄坂
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笄坂(こうがいざか)は長さが約270mほどの六本木通りの坂で、別名を「北坂・中坂・おたつ坂」といいます。青山台地に上る首都高速3号渋谷線の下の坂で、首都高の高架と道路沿いの高層ビルによって一日中日陰になって暗い感じです。坂の南側の町域を笄町といったことで笄坂と名づけられました。坂下付近に案内柱が立っています。
笄坂
こうがいざか 坂下を流れていた笄川の名からついた付近の地名によって、こう呼ばれるようになった。
高木町交差点脇の植え込みの中に、青山高木町の由来を記した案内板が置かれています。
青山高樹町の由来
本町域は、かつての下渋谷村のうちであるが、徳川家康の入国直後から武家地となったものである。江戸府内中心部より遠い割合にはたいへん早い。すなわち現町域の大部分は丹南藩高木邸、南の一角は牛久藩山口邸の一部であつて、高木氏賜邸は天正十八年(1590年)中と推定されている。元禄十年(1697年)には高木邸内一万坪を幕臣への給地のため上げ地とした。それでも広い屋敷で、この屋敷から切り出す薪は毎日七十駄におよんだなどとある。現在の電車通りは当時屋敷内を北方の百人組屋敷より来る道であつて、里俗に主水町(高木主水正による)と呼んでおり、また姓の方をとって高木町と呼ぶこともあった。明治五年七月、木の字を改めて高樹町という一町を起立した。主水町の俗称は明治になつても残り、そのあたり多少商店ができたが、だいたい閑静な住宅街となった。この町況は今日も変わりなく、区内でも代表的な邸宅街となつている。ただ電車通りぞいは商店などが並んでいる。
高木町交差点の北側に長谷寺があります。かって渋谷ヶ原と呼ばれた此の地には、奈良の長谷寺と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った宇堂がありました。山口重政が天正十九年(1591年)に徳川家康に招聘されて江戸に上った際、渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し、慶長三年(1598年)にこの渋谷ヶ原観音堂を基に補陀山長谷寺を創建して菩提寺としました。開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある門庵宗関でした。墓地には、阿久悠・坂本九・井上馨・黒田清輝・盛田昭夫・霧島昇などの著名人のお墓が多くあります。
根津美術館の白塀に沿って、右側にカーブした坂が上がっています。根津美術館は、東武財閥の創設者で現在の武蔵大学・武蔵高等学校・武蔵中学校の創立者でもある初代根津嘉一郎の古美術コレクションを引き継いだ財団法人根津美術館が邸宅を改装して昭和十六年(1941年)11月に開館しました。藤井斉成会有鄰館、大倉集古館、白鶴美術館、大原美術館などと共に、第二次世界大戦以前からの歴史をもつ日本では数少ない美術館のひとつです。
- 99.北坂
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北坂は長さが約170mほどの坂で、別名を「根津坂・姫下坂」といいます。以前は青山墓地の脇を通る狭い坂を指していたようですが、現在は根津美術館脇の坂を北坂と呼んでいます。北坂は笄坂の北にある坂ということで名付けられました。
ゴール地点の表参道駅に着きました。
ということで、港区で六番目の「南麻布・西麻布コース」を歩き終えました。次は、港区最後の六本木・南麻布・西麻布・元麻布・麻布地区の残りの坂道を巡りたいと思います。
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