港区(六本木・南&西&元&麻布コース)
踏破記
今日は先日の南麻布・西麻布コースに引き続き、六本木・南麻布・西麻布・元麻布・麻布地区の残りの坂道をまとめて巡ります。南麻布・西麻布コースの終点となった表参道駅からスタートします。
今日の最初の坂は西麻布交差点が起点になっています。表参道駅からかなり離れていますので、坂巡りの前に長い距離を歩きます。結局距離の短縮にはなりませんでしたが、近道をしようとして青山霊園の縁を進みます。青山霊園といいますと1ケ所のように思えますが、外苑西通りに架かる青山橋の南西にも小さな墓地があります。同じ青山霊園ですが、こちらは立山墓地といいます。青山霊園は都立の霊園で、面積は約26ヘクタールあります。明治時代になって会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地(青山霊園立山地区)が興りとされ、隣接地が後の青山霊園の造成に繋がりました。明治五年(1872年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主であった青山家の下屋敷跡に開設され、当初は神葬祭墓地でしたが、明治七年(1874年)9月1日に市民のための公共墓地となりました。大正十五年(1926年)に斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となりました。明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くあり、忠犬ハチ公の墓もあります。附属立山墓地には、永田鉄山・木村兵太郎・相楽総三なども葬られています。また、霊園は桜並木が名所となっています。
そんな立山墓地の塀の前に庚申塔が建っています。
港区指定文化財 歴史資料 青山の庚申塔
本庚申塔は、高さ103cm、最大幅94cm、最大厚17cm、安山岩(根府川石)で作成されています。石塔の形態は板状の「自然石形」を呈し、下部の一部は地中に埋まっています。銘文は正面に「庚申塔」と刻まれており、その下に花押がありますが、揮毫した人物は未詳です。その右側には「慶應元乙丑年」、左側には「五月大祥吉日」とあり、慶応元年(1865年)五月に造立されたものであることがわかります。さらにその右側には、一部剥離していますが「右 あをやま 内とうしん[宿] ほりのう[ち]」、左側には「左 二十きおくみ屋[敷ヵ] 百人おくみ屋[敷ヵ] ぜんこ[うじ]」と刻まれており、この庚申塔が「右 青山・内藤新宿・堀之内」、「左 二十騎組屋敷・百人組屋敷・善光寺」の方向を示す道標の役割も果たしていたと考えられます。また、この地域では昭和初期まで庚申祭(庚申講)が行われていたと伝えられていますが、この庚申塔はそうした民間信仰が江戸時代に遡ることを示す貴重な資料です。
六本木通りの西麻布交差点から六本木交差点に向かって、次の信号付近まで上り坂になっています。
- 100.霞坂
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霞坂は長さが約250mほどの緩やかな坂で、明治時代に霞山稲荷から霞町の町名ができ、そこを貫通する道であることから霞坂と呼ばれました。左手の坂下と右手の坂上付近に案内柱が立っています。
霞坂
かすみざか 明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治二十年代に開かれて霞坂と呼んだ。
霞坂の坂上の交差点を右折して路地を進みますと、突き当たりに長い坂があります。坂下は外苑西通りにつながり、坂上はテレビ朝日通りに出ています。坂下付近にはルーマニア大使館があります。
坂上付近にはラオス大使館があります。
- 101.大横丁坂
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大横丁坂は長さが約290mほどの“く”の字に曲がった緩やかな坂で、桜田の通りから西へ下る坂を長い横丁と呼んで「大横丁坂」になったと考えられます。六本木通りが開かれていなかった時代には渋谷方面への重要な街道でもあったと思われます。
テレビ朝日通りを渡って、大横丁坂上のはす向かいから路地を進みますと、左手にさくら坂公園があります。カラフルな遊具とト−テムポールが目を引きます。
さくら坂公園の中に「乃木大将生誕之地」と書かれた石碑が建っています。実際に生まれた場所は少し離れているようですが。
石碑「乃木大将生誕之地」
明治時代の軍人の典型とされる乃木将軍は、長府藩邸内の長屋で誕生しました。嘉永二年(1849年)のことです。幼名は無人、成人して希典と言いました。この石碑は、昭和七年、かつての藩邸南西の隅に位置した北日ヶ窪児童遊園内に建立されましたが、このたび再開発事業により児童遊園周辺も整備されることとなり、北日ヶ窪児童遊園と六本木公園を統合して作られたこの公園に移設されました。
さくら坂公園の先から六本木高校の南西脇まで坂が下っています。
- 102.内田坂
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内田坂は長さが約300mほどで、3本の直線を鍵の手状につないだような形をしたやや急な坂です。明治以降に開かれた坂で、江戸時代にはこのあたり一帯が内田豊後守の広大な屋敷地となっていました。明治維新後は「内田山」と呼ばれた高台で、坂名もこれに因んでいます。六本木高校の校内には「四時佳興(しいじのかきょう)」という石碑が建っています。これは内田豊後守屋敷の庭にあったもので、宋代の哲学者「程顕」の詩の一説とのことです。外フェンスで仕切られていますので案内板の説明と石碑の碑文は殆ど読み取れませでしたが、次のように記されているとのことです。尚、城南高校は平成十六年三月に閉校となり、平成十七年四月に跡地に都立六本木高校が開校しています。
石碑 四時佳興碑
この碑はここ城南高校の地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもので宋代の哲学者程顕の詩の一説を刻んだものです。
秋日偶成 程
阯無事不従容 睡覚東窓日已紅
万物静観皆自得 四時佳興興人同
後畧
ゆったりと静かに眺めてみると万物は皆それぞれに所を得ている。春の花秋の月と四季折々の移り変りの面白さは、誰をも同じに楽しませてくれるという、意味です。
案内板 四時佳興碑
江戸時代、この地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもので、この地を受け継いだ、南山小〜麻布高等小〜府立22中〜都立城南高校が、大切に保管して来ました。意味は碑の下に詳しい説明があります。また、この庭園の踏み石は、旧校舎南側にあった石垣のもので、府立22中にちなんで22個配置されています。
城南高校の歴史
以下略
六本木ヒルズのレジデンス棟の南側の外周に沿って坂が下っています。
- 103.さくら坂
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さくら坂は長さが約330mほどの緩やかな坂で、坂の途中の南側には先ほど立寄ったさくら坂公園があります。坂の案内柱は立っていませんが、六本木ヒルズの敷地のあちこちに「さくら坂」と書かれた案内標識が立っています。坂名の由来ははっきりしませんが、街路樹として桜の木が植えられていて、春には美しい花を付けることからこの坂名になったと思われます。かつてこの辺りには「玄碩坂」という名前の坂がありましたが、六本木ヒルズの建設によって地形が大きく変わり、現在は坂の面影は残っていません。
六本木ヒルズの敷地の中央を東西に通るメインストリートが上り坂になっています。
道路の両側には海外のブランド店がずらりと並んでいます。お財布が幾つあっても足りませんね。
- 104.けやき坂
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けやき坂は長さが約380mほどの緩やかな坂で、六本木ヒルズのメインストリートになっています。坂の案内柱は立っていませんが、六本木ヒルズの敷地のあちこちに「けやき坂」と書かれた案内標識が立っています。坂名の由来ははっきりしませんが、街路樹として欅の並木が植えられていることからこの坂名になったと思われます。
再びテレビ朝日通りに出ます。グランドハイヤットホテルのはす向かいに櫻田神社が鎮座しています。霞坂で名前の出てきた霞山稲荷とは、この櫻田神社のことだったんですね。櫻田神社は治承四年(1180年)に霞山桜田明神として今の霞が関の桜田門あたりに創建されました。源頼朝は奥州征伐のために櫻田神社に神領を寄進しましたが、その際に他の田と区別するために桜の木を畔に植えたところ、この桜が大いに茂ったことから「桜田」と呼ばれるようになりました。寛永元年(1624年)に江戸城御用地となったため、代地として麻布の地に移され、このとき地名も移動して町名は「麻布桜田町」となりました。しかし、昭和四十二年(1967年)の住居表示の施行により、「麻布桜田町」は「西麻布」に町名が変更されました。
麻布消防署の脇を東に100mほど入ったところから南東に下る坂があります。。。と単純に読むとコースを間違えます。道なりに進んでもそれらしい坂に出会うのですが、坂の特徴がネットの情報と一致しません。非常に分かりづらいのですが、途中の「雪野建築設計事務所」の建物の脇で右折して「南東の」路地に入らないといけないのです。その一言があったら無駄な時間を費やさずに済んだのですが。それに加えて、路地の入口に「通り抜けできません」との注意書きが掲げられています。てっきり路地が行き止まりかと思ってしまうのですが、この注意書きは「この先は私道のため、居住者以外は立入りできません」という意味なのです。この二重の間違いのために、最初の日は全く見当外れの坂を宮村坂と思い込んでしまいました。ということで、今日歩き直して踏破記を書き直しました。
- 105.宮村坂
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宮村坂は長さが約30mほどの緩やかな下り坂です。
この坂は「MAJES元麻布ガーデンズ」という高級マンションの敷地内にある私道の一部です。私道は狐坂までの200mほどが石畳風の舗装をされていて、両側には3階建ぐらいの低層マンションが並んでいます。坂名の由来は、かって存在した宮村町という町域にある坂ということに因んで宮村坂と呼ばれるようになりました。
中国大使館の前からテレビ朝日通りを挟んで西に坂が下っています。
- 106.芥坂
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芥坂(ごみざか)は長さが約50mほどの急な坂で、別名を「紺屋坂(こんやざか・こうやざか)」といいます。坂名の由来は、崖線の芥捨場になっていた脇を下っていたことに因んでいます。太古の昔から人間の生活にはゴミ捨て場が必須でしたので、芥坂という坂名は各地で見られますね。別名の紺屋坂は坂脇に紺屋が一軒あったことに因むと伝えられていますが、その痕跡はありません。「紺屋坂」と記された案内柱があったようですが、見つかりませんでした。
中国大使館の南から芥坂と並行して坂が下っています。坂下には笄小学校があります。
- 107.中坂
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中坂は長さが約75mほどの急な坂で、北条坂と芥坂の間を西へ下る坂ということで中坂と呼ばれるようになりました。この辺りはかつて麻布三軒家町といいましたが、それは元禄九年に地主3人が町家を建てたことに因んでいます。
中坂の坂上からテレビ朝日通りを渡って反対側の東側に、中国大使館の大使公邸前から麻布浄苑付近まで坂が下っています。
- 108.狐坂
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狐坂は長さが約170mほどの左右に曲がりながら下るやや急な坂で、別名を「大隅坂」といいます。昔は寂しいところで、狐が時々人を化かしたということから坂名が付けられました。「大隅坂」という別名は、この辺り一帯が山のような地形であったことから通称「大隅山」と呼ばれ、それが坂の別名になりました。狐坂の坂下手前の麻布浄苑の向かいから宮村坂に繋がるマンションの私道が始まっています。
狐坂
きつねざか 港区元麻布二・三丁目境で長玄寺前へ下る坂。昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたという。
狐坂の坂下から右手に坂が上っています。
- 109.狸坂
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狸坂は長さが約130mほどのかなり急な坂で、別名を「旭坂・まみ坂」といいます。この辺りには人をばかす狸が出没したといわれ、坂名の由来になりました。坂下と坂上に案内柱が立っています。
狸坂
たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。
狸坂の坂上の先に麻布十番から2本の坂が上っています。左手の坂はオーストリア大使館の西脇を通って麻布十番に下っています。坂の左側に樹木が茂り、昼なお暗しといった風情の坂です。
坂の中ほどの右手にはオーストリア大使館があります。
- 110.暗闇坂
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暗闇坂は長さが約160mほどの大きく右に湾曲したかなり急な坂で、別名を「宮村坂・相生坂」といいます。この辺りは樹木が茂っていて薄暗かったことが坂名の由来となりました。坂上と坂下に案内柱が立っています。
暗闇坂
くらやみざか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。
暗闇坂の坂下を通る麻布十番大通りから都道319号環状三号線の鳥居坂下交差点に向かって超短い坂が上っています。
- 111.あひる坂
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あひる坂は長さが約15mほどの短い坂です。都道319号環状三号線を挟んで鳥居坂の延長線上にあり、かっては鳥居坂と繋がっていたのかもしれません。
あひる坂の坂名の由来は不明です。あひる坂の西側には平成二十年(2008年)3月まで麻布十番温泉という銭湯がありました。現在は跡地に「ルネ麻布十番ビル」という建物が建っています。麻布十番温泉は麻布十番商店街の西の外れにあった温泉浴場で、日帰り入浴施設の「麻布十番温泉」と温泉銭湯の「越の湯」というふたつの施設が同一のビルで営業されていました。ふたつの施設は5階建てのビルの1階と3階に分かれていて、1階が越の湯、3階が麻布十番温泉になっていました。越の湯は普通の銭湯でしたが、麻布十番温泉には宴会場などが併設されていました。麻布十番温泉の開湯は戦後間もない昭和二十四年(1949年)で、地下500メートルまでボーリングを実施して泉源を掘り当てました。ふたつの温泉施設が入居していた建物は昭和四十二年(1967年)に竣工し、廃業するまで同じ建物でした。都内にある数少ない温泉のひとつとして知られ、テレビ番組などにもしばしば登場しました。過去にはタモリ・ビートたけし・片岡鶴太郎ら多くの芸能人がこの施設で番組の収録を行っていました。開業当初は1日に100人以上の客が訪れていましたが、後年は利用者が減少し、経営者の高齢化と後継者の不在、施設の老朽化に加え、新規開業した温泉レジャー施設との競合等から廃業となり、ビルは取り壊されました。跡地には、平成三十一年(2019年)に店舗とホテルが同居する商業施設のルネ麻布十番ビルが建てられました。
あひる坂から20mほど東に、都道319号環状三号線から麻布大通りに向かって坂が下っています。
- 112.すべり坂
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すべり坂は長さが約25mほどの緩やかな坂です。麻布台地の南側の傾斜地にあり、雨が降ると泥んこ道になって滑りやすかったことでこの坂名が付けられたと思われます。
すべり坂の坂下から別の坂が上がっています。
- 113.七面坂
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七面坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂の東側にあった寺に七面大明神の木像が安置されていたことに因んでいます。坂下と坂上に案内柱が立っています。
七面坂
しちめんざか 坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
七面坂の坂上で直交するように坂が上がっています。
- 114.大黒坂
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大黒坂は長さが約150mほどのやや急な坂です。別名を「大国坂」といいます。坂名の由来は、坂の中ほどに大黒天を祀る大法寺があることに因んでいます。
坂下と坂上に案内柱が立っています。
大黒坂
だいこくざか 大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。
暗闇坂と大黒坂の坂上からもう一つの坂が上がっています。四差路で3つの坂が交わるのは珍しいことです。残るひとつの路地の先には狸坂が下っていますので、この交差点は3つの上り坂が合流して、更にそこからひとつの坂が上がるといった感じです。
- 115.一本松坂
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一本松坂は長さが約55mほどの緩やかな坂です。別名を「相生坂・大黒坂」といいます。坂名の由来は、坂下の南側に一本松があるに因んでいます。一本松にはいくつかの伝説があり、代表的なものは、源経基がこの近くの民家に宿を求め、翌朝この木に装束をかけて麻の狩衣に着替えたというものです。現在の一本松はマンションの前に聳えていて、植え継がれて四代目といわれています。坂下の一本松の前に案内柱が立っています(電話ボックスの左後方の囲いの中に一本松が植わっています)。
一本松坂
いっぽんまつざか 源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれている一本松が、坂の南側にあるための名である。
麻布十番に戻ります。都道319号環状三号線の鳥居坂下交差点から坂が上っています。
- 116.鳥居坂
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鳥居坂は長さが約90mほどの急な坂です。別名を「鳥井坂」といいます。坂名の由来は、元禄時代に坂の東側に大名鳥居家の屋敷があったことに因んでいます。坂下と坂上に案内柱が立っています。
鳥居坂
とりいざか 江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688年〜1703年)ごろ開かれた道である。
鳥居坂の高台にはシンガポール大使館があります。さぞや見晴らしの良いことでしょう。
鳥居坂の坂上で右折しますと、シンガポール大使館の先から高級マンションの敷地に沿ってクランク状の坂が下っています。
- 117.潮見坂
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潮見坂は長さが約70mほどの急な坂です。坂名の由来は、ここから竹芝方面の海が望まれたであろうことに因んでいます。坂上と坂下に車止めがあり、道路は歩行者専用になっています。現在の坂はアスファルト舗装になっていますが、10年前の写真ではコンクリート舗装と車の滑り止めのための輪っかの凹みが施されています。緊急時に車止めを取り外すこともあったんでしょうかね?
左の写真は現在のアスファルト舗装の潮見坂、右の写真は10年前のコンクリート舗装の潮見坂です。
潮見坂の坂下の左手に、東洋英和女学院高校の裏門に沿って長い坂が上っています。
坂は一旦平坦になって、その先で再び上がっています。
- 118.於多福坂
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於多福坂は長さが約200mほどのやや急な坂です。坂の途中で傾斜が変わり、中央に平坦な区間があります。坂名の由来は、坂の途中で傾斜が緩やかになってまた上るのがお多福面のようだということに因んでいます。坂下と坂上に案内柱が立っています。
於多福坂
おたふくざか 坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。
有名な蕎麦店チェーンの永坂更科の本店「総本家永坂更科布屋太兵衛」の工場前付近から、首都高速都心環状線が上空を通る都道415号麻布通りを北に向かい、都道が北東に曲がるところを直進して港区の永坂上遊び場の先まで坂が上がっています。
- 119.永坂
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永坂は長さが約280mほどの緩やかな坂ですが、坂上付近は急坂になっていて歩道部分が階段になっています。別名を「長坂」といいます。坂名の由来は、長い坂であったことが坂名の由来とする説と、坂の近くに長坂氏が住んでいたことでこの坂名になったという説があります。坂下と坂上に案内柱が立っています。
永坂
ながさか 麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。
永坂の坂上の先で外苑東通りに出て右折し、倉片町交差点を渡ります。左手には竣工間近の麻布台ヒルズ森JPタワーが聳えています。
倉片町交差点を渡った先の右手に坂が下っています。
- 120.鼬坂
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鼬坂は長さが約85mほどのかなり急な坂で、別名を「イタチ坂」といいます。坂名の由来ははっきりしていませんが、起伏の激しい谷筋であったことで鼬が出没して人を驚かせていたことで坂名が付けられたのではないかといわれています。付近には鼠坂や狸穴坂があり、鼬坂もそのひとつかもしれません。
鼬坂の坂下から右手に坂が上がっています。
- 121.植木坂
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植木坂は長さが約75mほどのやや急な坂で、途中で少し右にカーブしています。坂名の由来は、昔この辺りに植木屋があったことに因んでいます。坂下付近に案内柱が立っています。「外苑東通りからおりる所」と植木とどういう関係があるのでしょうか?
植木坂
うえきざか この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。
鼬坂の坂下と植木坂の坂下の先から南に下る坂があります。
- 122.鼠坂
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鼠坂は長さが約45mほどのやや急な坂で、別名を「鼬坂」といいます。細長く狭い道だったことを江戸では鼠坂と呼ぶという風習に倣ってこの坂名が付きました。坂上と坂下に案内柱が立っています。
鼠坂
ねずみざか 細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれる。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。
ロシア大使館の西側の石垣に沿って外苑東通りまで坂が上がっています。
- 123.狸穴坂
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狸穴坂は長さが約250mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、タヌキの巣穴が坂下にあったためとか、採鉱の穴との説があります。坂上と坂下の交差点脇に案内柱が立っています。
狸穴坂
まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
坂上の案内柱の袂に、坂名を記した石柱が建っています。
桜田通りの倉交差点から赤羽橋付近まで長い坂が下っています。
- 124.土器坂
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土器坂(かわらけざか)は長さが約520mほどの緩やかな坂です。別名を「河原毛坂」といいます。坂名の由来には、渡辺綱がここで河原毛(黄褐色ないし亜麻色の毛色)の名馬を求めたという説と、この辺りに土器師が多く居たためという説のふたつがあります。昔はかなりの勾配でしたが、都電の開通などで勾配が緩く改修されました。
ゴール地点の都営地下鉄大江戸線の赤羽橋駅に着きました。
ということで、港区で最後の「六本木・南&西&元&麻布コース」を歩き終えました。港区には消滅した4つの坂を除いて124の坂があり、再開発の地区に含まれて訪れることが出来なかった坂もありましたが、どれも歴史を感じさせる面白い坂でした。なにより華やかでトレンディな街の中に佇む個性を持った坂を巡れたことが良かったですね。港区の次は台東区の坂を巡ります。そうそう、秋元康さんがプロデュ−スする新アイドルグループの名前が何になるかでしたね。「けやき坂」と対になることで、「さくら坂46」っていうのは如何でしょうか?
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