台東区(浅草・千束・上野コース)


踏破記


港区の次はどの区にしようかと考えたのですが、歴史と大衆文化が魅力の台東区の坂道を巡ることにしました。台東区の坂道は全部で25ケ所あり、そのうち2ケ所は既に消滅しています。更に、3ヶ所は荒川区と重複しています。なので実質は20ケ所なのですが、せっかくなので重複する3ケ所を含めて全部で23ケ所の坂道を巡ることにします。台東区の坂道は結構ばらけています。大まかには東側の浅草地区から上野地区へ向かい、最後に谷中地区を巡りたいと思います。名所旧跡が多い区ですので、できるだけ坂以外の面白いスポットも紹介していきたいと思います。

台東区は東京23区の北東部に位置し、面積は23区の中で最小となっています。台東区は、昭和二十二年(1947年)に下谷区と浅草区が合併して誕生しました。区名の決定に際してはいろいろな案が検討されましたが、上野の高台を意味する「台」と、上野の東側にある下谷と浅草の下町を連想する「東」を組合わせて「台東区」となりました。千代田区や中央区などと共に江戸時代を通じて東京で最も古い市街地のひとつで、江戸時代は元禄文化(町民文化)が息づいた下町エリアでした。浅草にある浅草寺(正式名は金龍山浅草寺)は建立1400年の歴史を持つ古刹です。かつての浅草は「浅草六区」を中心に劇場や映画館などの興行施設が集積する東京最大の繁華街でしたが、高度成長期以降になると興行施設は娯楽の多様化に伴い衰退していき、新宿・渋谷・池袋・六本木といった山手の新興繁華街の発展によって、相対的に繁華街としての浅草の地位は失われていきました。現在は国内外から多くの人が訪れる観光地としての性格が強くなっていて、都内でも日本情緒が味わえる地区として外国人観光客に人気となっています。台東区は、東は隅田川を境にして墨田区、西は文京区、南は千代田区と神田川を隔てて中央区、北は荒川区とそれぞれ接しています。台東区の地形は武蔵野台地の東端と隅田川を臨む沖積低地である下町低地から成り立っています。武蔵野台地は、箱根山や富士山の火山灰が降り積もってできた洪積層で、上野台・本郷台豊島台・淀橋台・目黒台・荏原台・久が原台と連なる高台の総称です。また、利根川や入間川が合流するかつての隅田川が土砂を運び続けたことにより、川岸では駒形付近が4m、浅草寺付近が3m、蔵前から千束三丁目までが2mと僅かな高台になっています。内陸部に海が入り込んでいた原始時代には、上野台は半島、下谷や浅草の一帯は海、待乳山と鳥越付近には島が存在していました。上野公園や谷中の寺院・墓地が立地する上野台は、旧谷田川(藍染川)の谷筋を挟んで西側の本郷台と対し、標高は約20mとなっています。待乳山は元々本郷台から続く台地の一部でしたが、海の激しい浸食により削られて、現在の「山」の部分だけが残されました。標高は9.8mで、下町低地では珍しい自然の高台になっています。

今回は台東区の坂道を三つの区域に分け、東側から西側に向かって各地区を順に巡っていきたいと思います。最初は浅草・千束・上野コースです。都営地下鉄の浅草駅からスタートします。



吾妻橋交差点角に神谷バーがあります。日本最初のバー(酒の味を楽しむことを目的とし、最低限の接客をしているだけの酒場で、イギリスのパブに相当する)といわれ、浅草の文豪たちにも愛された「電気ブラン(神谷バーの創業者である神谷伝兵衛が作った、ブランデーベースのカクテル)」で知られています。飲めば電気のように感電するという意味ではなく、当時最新のものに対して「電気○○」と呼称するのが流行っていたので、ブランデーの「ブラン」を掛けて電気ブランという名前になったのです。私は飲んだことはありませんが。尚、バーは雷門通りに面した1階にあり、2階はレストラン「カミヤ」、3階は割烹「神谷」となっています。値段を見ますと、そこそこしますが無茶苦茶高いというほどでもないですね。私には手が届きませんが。。。



神谷バーに向かい合って浅草松屋が入る東武浅草駅のレトロな建物が建っています。ネオ・ルネサンス様式で、日本のアール・デコ建築の代表的なもののひとつに数えられる名建築です。東武浅草駅ビルは、昭和六年(1931年)に関東では初めてとなる百貨店併設のターミナルビルとして開業しました。ビルの2階部分に配された、17スパンにわたる半円アーチの大窓の内側が東武浅草駅となっています。昔は古ぼけた外観でしたが、平成二十四年(2012年)5月22日の東京スカイツリーの開業に合わせ、外壁のリニューアル工事が完成、お洒落な外観に変身しました。新たに開業した浅草駅直結の商業施設は、「EKIMISE」と名付けられました。「EKIMISE」は、下町・浅草の象徴のひとつである「仲見世」の活気ある商店を意味する“見世”と、「浅草駅」という立地特性を表現する“駅”を掛け合わせた造語です。7階のテーマゾーン「駅見世小路」においては、日本の良さを感じられる手作りの小物や土産の店舗を揃えたほか、屋上にはスカイツリーを一望できる「展望デッキ」や休憩スペースを設けた「浅草ハレテラス」を設置し、浅草の新たな観光スポットを目指しています。



隅田公園の西側に沿って本龍院に向かいます。本龍院は聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつです。山号が「待乳山」、本尊が歓喜天(聖天)・十一面観音であることから、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。



境内には、待乳山聖天の案内板が立っています。左側の石碑は「トーキー渡来記」です。碑文は殆ど読み取れません。

待乳山聖天

待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601年)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての質屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

   哀れとは夕越えて行く人も見よ
   待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。

MATSUCHIYAMA SHODEN

Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple. Its proper name is Matsuchiyama Honryuin. Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry. It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era. Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place. Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War, but it was rebuilt in 1961. Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commercial success.




戸田茂睡の歌碑も建っています。

戸田茂睡歌碑

茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた。江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い、昭和三十年拓本をもとに再建された。




待乳山が眺望の名所と称されたことが挿絵と共に紹介されています。

古来、待乳山聖天信仰の聖地としてはもちろん、風光明媚な名所としても、つとに有名であった。詩歌にも多く詠まれ、江戸期から大正期の浮世絵にも数多く描かれた。「江戸名所図会」には、この東側を望む山上から、近くは葛飾の村落、遠くは国府台の木々の緑が一望できたとある。



案内板の横から駐車場に向かって石段が下りています。待乳山が如何に高台に位置しているのかがわかります。この石段の入口は、かっては鉄扉によって通行止めになっていましたが、現在は常時開放されています。



1.天狗坂

天狗坂は長さが約20mほどのL字型に曲がりながら下る急な階段です。坂名の由来は、昔は待乳山聖天の本堂の東側に樹木が鬱蒼と茂って天狗が出そうな森だったことに因みます。階段上の入り口の横に案内板が立っています。

天狗坂

昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった。

   天狗坂 タ木枯の
      おもいでに

久保田万太郎




待乳山聖天を出て今戸橋に向かいます。といっても、目と鼻の先ですが。天狗坂って、そんな歴史があったんですか。

待乳山・今戸橋

待乳山は現在の浅草七丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護したと伝えられている。江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌の題材にもなっている。江戸時代、待乳山でお参りをし、天狗坂(待乳山聖天境内)を下っていくと隅田川と山谷堀の合流する地点にある今戸橋に出た。今戸橋界隈は茶屋や船宿が立ち並び、夜景を描いた浮世絵の窓の灯りからも、賑わっていた様子がうかがえる。浅草聖天町出身の池波正太郎作の「鬼平犯科帳」の中にも、今戸橋の近くにある船宿が登場している。

Matsuchiyama/Imado Bridge

Mt. Matsuchiyama is a small hill in present Asakusa 7-chome and the Matsuchiyama Shoden enshrines Shoden (Nandikesvara, Ganesh in the Buddhist pantheon). It said that the sacred mountain of Matsuchi suddenly raised itself from the earth and a golden dragon descended from heaven to protect it. During the Edo period (1603-1868) Matsuchiyama was renowned as one of the finest scenic viewpoints in the Eastern Capital and prized as the subject of many Ukiyoe and poetry for its superb prospect. Strolling in Edo period starting from a visit to Matsuchiyama Shoden and going down through Tenguzaka (precincts of the Matsuchiyama Shoden) leaded to Imado Bridge where Sumida River and Sanyabori Canal converged. The Imado Bridge neighborhood was lined with tea houses and boat houses, and radiant windows depicted in the night views of Ukiyoe symbolize the bustling atmosphere of the area then. Ikenami Shotaro from Asakusa Shoden-cho (present Asakusa 6-chome, 7-chome) features boat house near Imado Bridge in his masterpiece "Onihei Hankacho (Onihei Crime Files)"..




今戸橋跡から山谷堀公園に入ります。



公園の名称にもなっている「山谷堀」は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために掘られた人工の水路でした。山谷堀の水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸から箕輪(三ノ輪)を通って大川(隅田川)への出入口である今戸まで続いていました。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。

山谷堀公園

ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、 東京都により昭和五十一年(1976年)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和五十二年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、長さ約740メートルの公園である。平成二十九年(1017年)から令和二年(2020年)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、全て取り除かれている。公園の両側にある護岸や橋の親柱が、水路であった面影を残している。

Sanyabori Park

A canal called Sanyabori used to flow here, but urbanization caused it to become polluted and smelly and the metropolitan government covered it over in 1976. From the following year, Taito City created Sanyabori Park above the waterway, a ribbon of parkland 9 meters wide and about 740 meters long. The park was undergoing thorough a renewal from 2017 to 2020. Lined by cherry trees stretching to Sumida Park, it is renowned for springtime views of cherry blossoms with Tokyo Sky Tree in the background. Nine bridges spanned Sanyabori before it was covered. Starting at the downstream end, they were the Imado Bridge, Shoten Bridge, Yoshino Bridge, Shohoji Bridge, Sanyabori Bridge, Kamiarai Bridge, Jikata-shinbashi Bridge, Jikata Bridge, and Nihontsutsumi Bridge. The bridge revetments and pillars remain providing lasting images of the former waterway.




山谷堀は、かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌われ、江戸名所のひとつに挙げられた風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったといわれています。江戸時代には新吉原遊郭への水上路として隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」ともいいました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされ、河口岸には船宿や有明楼などの料亭などが建ち並び、芸者遊びなどもできて、江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近かったために山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれました。「堀」と言えば山谷堀を指すくらいに有名な場所でした。明治時代になって遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和時代には肥料船の溜まり場と化し、永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退していて、山谷堀も埋め立てが始まっていました。戦後の売春防止法の施行による吉原遊郭の閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられました。かっての猪牙舟を復元した模型が公園内に展示されています。

猪牙舟

猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷船とも呼ばれていた。当時の江戸の人々にとって、舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからというものや、長吉という人が考案した「長吉舟」が訛って「ちょきぶね」になった、と諸説あり、速度の速い舟であった(1尺=30.3センチメートル、1寸=3.03センチメートル)。浅草聖天町出身の池波正太郎の作「鬼平犯科帳」の中にも多く登場している。

Chokibune

Chokibune was a type of open boat with a pointed prow, used as a taxi on the rivers and canals of Edo. After the licensed pleasure district was relocated to Shin-Yoshiwara, so many of the swift, small boats plied the Sanyabori canal that they were also known as sanyabune (Sanya boats). For Edoites, it was the height of luxury to ride a boat down the Sanyabori for a visit to Yoshiwara. Chokibune is written with the characters for "boar tusk boat," for like a tusk they were long and narrow and pointed, about 30 feet (909 cm) long and 4.5 feet (35 cm) wide at the middle, although some say "choki" was originally a corruption of Chokichi, the name of a boat designer. The boats are often seen in films and manga based on the Onihei Hankacho novels by Ikenami Shotaro, who was a native of the Shodencho neighborhood in Asakusa.




公園内に周辺の案内板が立っています。

待乳山聖天

推古天皇三年(595年)に一夜にして待乳山ができ、その時に金龍が舞い降りて、この山を守護したとされ、本尊は大聖歓喜天(聖天)が祀られています。隅田川に臨み、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材になりました。

Matsuchiyama Shoden

It is said that Matsuchiyama (Mt. Matsuchi) emerged overnight in 595 and a golden dragon (kinryu) descended from the skies to protect it. As the principal image, Daisho Kangi-ten (Sho-den (Nandikesvara (Ganesh in the Buddhist pantheon)) is enshrined. Facing the Sumida River, the mountain commanded the best view of the eastern part of Edo in the Edo period and has thus been the subject of many ukiyoe prints and poetry.

今戸神社

康平六年(1063年)創建されました。人望福徳の應神天皇、ご夫婦の神様「伊弉諾尊・伊弉冉尊」が祀られていることから、縁結びで有名な神社です。招き猫発祥の地でもあり、新撰組の沖田総司終焉の地としても知られています。

Imado-jinja Shrine

This shrine was founded in 1063 and is well known for marriage ties because Emperor Ojin worshiped here, believing that he brings popularity, happiness and prosperity to prayers and that the deity of couples, Izanagi no Mikoto and Izanami no Mikoto, are enshrined here. This is also the birthplace of beckoning cats and known as the place where Okita Soji spent his last days. (Okita Soji was the captain of the Shinsengumi, a special police force in Kyoto during the late shogunate period.)

お富士さんの植木市(浅間神社)

「お富士さん」と呼ばれ親しまれている浅間神社のお山開きに合わせて行われる植木市です。植木屋数十軒が、浅間神社周辺に集まり、まさに夏を緑一色に彩る風物詩としても楽しい市です。

Plant Fair in Mr. Fuji and Floral Festival (Sengen-jinja Shrine)

The plant fair is held at Sengen-jinja Shrine, which worships Mt. Fuji, popularly known as Fuji-san, in accordance with the opening of the mountaineering season on the famed mountain. With several dozen gardeners gathering around Sengen-jinja Shrine, the fair entertains visitors with the charming sights and green surroundings of summer.

合力稲荷神社

永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と祀ったといわれています。御祭神は生活の基をなす食を司る神として約四百数十年郷民の尊崇を集めています。三ノ宮卯之助の力石があり、足持石と刻んである為、他に類を見ない足で持ち上げた石であろうと推測されます。

Goriki Inari-jinja Shrine

It is said that farmers founded this shrine as the Chinju (tutelary deity of land) in Sanya Village in the Eiroku Period (1558 to 1570). As the deity of food, which is the basis for life, the enshrined deity has been worshipped by villagers for well over 400 years. The shrine houses a lifting stone of Sannomiya Unosuke, who was known for his great strength. Since the stone is engraved with characters writing "Ashi-mochi-ishi" (stone lifted by feet), it is believed that the stone was lifted by the power of unparalleled feet.

潮江院

最も古い職業落語家(噺家)の一人で、下谷稲荷神社で最初の寄席を開いたとされる初代三笑亭可楽、関東に浪曲を広め「関東節の開祖」とされた浪花亭駒吉の墓がここにあります。

Chokoin Temple

This temple houses the graves of the first Sanshotei Karaku, one of the oldest professional rakugo storytellers, who held the first rakugo performance in Shitaya Inari-jinja Shrine, and of Komakichi Naniwatei, who was known as the pioneer of naniwa-bushi recitation in the Kanto Region. (Naniwa-bushi, also called Rokyoku is a genre of traditional Japanese narrative singing.)

池波正太郎生誕地碑

池波正太郎は、江戸の下町を舞台にした「鬼平犯科帳」などの傑作を多数発表した戦後を代表する時代小説作家です。生誕地近くに位置する待乳山聖天周辺は、作品の舞台としてもたびたび登場します。

Monument to commemorate Birthplace of Shotaro Ikenami

Shotaro Ikenami was a prestigious and prolific post-war novelist who wrote many masterpieces including Onihei Hankacho, a popular series set in the traditional town of Edo. The place surrounding Matsuchiyama Shoden, which is located near his birthplace, was often used as the setting for his works.




地名の「今戸」は「今戸焼」の由来となりました。

今戸焼

今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、 今戸やその周辺で焼かれてきた焼き物で、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。今戸焼職人は瓦や日常の生活道具などを製造販売して、庶民の需要に応えていた。今戸焼の土人形は、江戸東京の代表的な郷土玩具で、今戸人形と呼ばれ親しまれたが、明治半ば頃には衰退してしまった。関東大震災(1923年)後、今戸人形の伝統を引く製作者だった「尾張屋」金沢春吉(1868年〜1944年)の尽力によって一時復興したが、春吉の死後その動きも弱まった。現在では、受け継がれた型や製法を基に職人が製作を続けているが、周辺の都市化や震災・戦災などにより多くが区外へ移り、今戸に1軒を残すのみである。台東区では「今戸焼作り」の技術を区の生活文化財に指定し、人形や寺社の縁起物の製造をおこなっている職人を今戸焼の技術の継承者として認定している。

Imado ware

Imado ware is a representative ware of Edo (former name of Tokyo) produced during the Edo and early Meiji periods in Imado and surrounding neighborhoods. Imado potters thrived living up to daily needs of city residents engaging in the production of tiles and daily necessities. Ceramic figurines called Imado dolls were typical knick-knacks in the city until their popularity waned near the end of the 19th century. After the Great Kanto Earthquake of 1923, a temporary revival of the Imado doll tradition was led by KANAZAWA Harukichi (1868-1944) of the Owariya shop, but interest again faded after his death. Today there are still a few artisans producing the dolls using legacy molds and techniques, although 20th-century urbanization, earthquakes and war have driven most of them out of the city and there is only one maker left in the Imado neighborhood. The Imado ware production technique has been designated a Livelihood Cultural Property of Taito City, and some artisans who carry on the production of dolls and religious talismans are recognized as successors to the technique.




公園内には今戸焼の置物が展示されています。昔は河童が住むほどに長閑な隅田川だったのでしょう。

「河童」

これは道具として使われる河童で、本来は背中が開いており、底に灰を敷いて炭を置き、点火用の火種をいけておくためのものでした。台東区の昔話には、隅田川の河童が縁起物の焼き物になったお話「今戸のかっぱ」があります。

Kappa (Water Sprite)

This mischievous Japanese water sprite figure is both decorative and functional. The back is an open cavity in which ashes could be spread to keep burning coals available for fire starting. There is a folk tale from Taito City about the "Imado Kappa", a kappa from the Sumida River that turned into a ceramic good luck talisman.




縁起物の招き猫もありますね。

「招き猫」

顔を横に向けて手を挙げているこの猫は、道具として使われる招き猫で、本来は背中が開いており、底に灰を敷いて炭を置き、点火用の火種をいけておくためのものでした。招き猫人形の資料として、嘉永五年(1852年)の藤岡屋日記「浅草観音猫の由来」と武江年表に、三社権現(現・浅草神社)鳥居の傍らで、老女が今戸焼の丸〆猫、招き猫を並べて商う旨が記されており、同年の歌川広重の錦絵「浄瑠璃町繁華の図」には、(〆に○)と書かれた提灯の下で招き猫の人形を手に持つ人物が描かれています。

Maneki Neko (Beckoning Cat)

Facing sideways with one paw raised, this figurine is both decorative and functional. The back is an open cavity in which ashes could be spread to keep burning coals available for fire starting. The earliest records of maneki neko are from the mid-19th century. An entry on "the origin of Asakusa Kannon temple cats" in the Fujioka Diaries, and a listing in the Buko Nenpyo (Chronology of Edo), both mention that in 1852 an old woman was selling Imado ware maneki neko and Imado ware marushime no neko figurines beside the main gate of the Sanja Gongen (now called Asakusa Shrine). Also in 1852, the woodblock artist Hiroshige published a print entitled "Jorurimachi hanka no zu" (Bustling scene in Jorurimachi) showing a person holding a maneki neko beneath a paper lantern inscribed with the character for shime.




「福助」は江戸時代中期に現れた招福の縁起物人形で、頭額が以上に大きく、背は低く、多くは髷を結い、裃を付けて正座しています。これを座布団の上に安置して神酒・供物を供え、福を祈る風習が京阪地方で始まり、江戸に伝わり、全国へも伝播したものです。今では瀬戸物の福助さんが主流ですが、素朴な手作りの福助さんにも捨てがたい味わいがあります。元々は伏見人形に「お福」のみしかなく、夫婦ものに仕立てるために作られたのが「福助」の起こりともいわれています。更に、福助の由来に関しては諸説が有り、その中でも有名なのが三説あります。

京都 呉服屋大文字屋説
八代将軍吉宗の頃、伏見の百姓下村三郎兵衛に彦太郎という子供が生まれました。この子は頭が大きく背が低くて耳たぶが垂れ下がっていましたが、9歳で上長者町の大文字屋に奉公に出て主人に認められ、やがて独立して伏見京町に大文字屋の支店を出すまでになり、名前も彦右衛門と改め、名古屋からお常という嫁をもらい、妻の実家の名古屋で木綿の足袋・腹がけと「大」と染めた手ぬぐいを売り出したところ、これが大あたり。あっという間に大店の主人に出世しました。これを見ていた伏見の人形師たちが彦右衛門の人形を作り、福助と名づけて売り出したところ、これも大流行したというものです

摂州 百姓佐五右衛門の息子説
百姓佐五右衛門の息子佐太郎は頭が大きく背が低かった為、その容貌をからかわれて村に居たたまれなくなり、小田原宿で「福助」の名前で見世物に出たところ、これが人気を呼び、旗本に30両で買われ、屋敷に奉公に上がりました。すると彼のおかげでその旗本は色々と幸運に恵まれ、佐太郎はその屋敷に奉公していた女中と結婚し、その絵姿を描いて売り出したら これが又流行したとのことです。享和四年(1804年)のことだとされます。

伊吹 もぐさや亀屋説
滋賀の伊吹山のふもとの柏原という宿場の代々伝わるもぐさや「亀屋」に番頭福助がいました。この番頭は正直一途でお店の創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日から裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんを手招きしてもぐさをすすめ、常にお客に対して感謝の心をあらわし、おべっかを言わず、真心で応え続けました。そのため商売が大いに繁盛し、主人もまた福助を大事にしました。やがてこの話が京都にも広まり、伏見の人形屋が耳にして福を招く縁起物として福助の姿を人形にうつしたのが始まりといわれています


「福助」「お福」

台東区有形民俗文化財の型を基に復元したもので、夫婦にして飾られる縁起物です。江戸時代、近くには江戸歌舞伎興隆の場となった浅草猿若町がありました。夫婦の会話に歌舞伎役者と今戸焼の「福助」が出てくる落語「今戸焼」は、江戸庶民の日常の機微を伝えています。


These good-luck charms, restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City, represent a husband and wife. In the Edo period, the nearby Asakusa Saruwaka-machi neighborhood was a flourishing Edo Kabuki theater district. The traditional Rakugo story "Imado-yaki (Imado ware)" features a husband and wife speaking of Kabuki actors and the Fukusuke of Imado Ware, conveying some of the everyday cultural nuances of the people of Edo.




踊り雀もあります。「雀百まで踊り忘れず」の意味は、幼い時に身につけた習慣や若い時に覚えた道楽は幾つになっても直らないことの例えです。ここでの「踊り」とは、雀の飛び跳ねるさまのことで、雀は死ぬまで飛び跳ねる習性が抜けないように、若い頃に身についた習性は年を取っても変わらないことをいいます。「舌切りすずめ」のお伽話は、太宰治が1945年に執筆した「お伽草紙」の中に収録されています。

昔々、あるところに心優しいお爺さんと欲張りなお婆さんの老夫婦がいました。ある日、お爺さんは怪我をしていた雀を家に連れ帰って手当てをしました。山に帰そうとしましたが雀はお爺さんにたいそう懐き、お爺さんも雀に情が移り、名をつけて可愛がることにした。しかし、雀を愛でるお爺さんの様子をお婆さんは面白くなく思っていました。お爺さんが出掛けたある日、お婆さんが井戸端で障子の張り替えに使うために作った糊を雀は食べてしまいました。怒ったお婆さんは「悪さをしたのはこの舌か」と雀の舌をハサミで切ってしまい、痛がる雀にお構い無しにどこにでも行ってしまえと外に放ってしまいました。そのことを聞いたお爺さんは雀を心配して山に探しに行くと、藪の奥に雀たちのお宿があり、中からあの雀が出てきてお爺さんを招き入れてくれました。雀はお婆さんの糊を勝手に食べてしまったことを詫び、怪我をした自分を心配して探しに来てくれたお爺さんの優しさに感謝を伝えました。そして仲間の雀たちと大変なご馳走を用意してくれ、歌や踊りで時が経つのを忘れるほどもてなしてくれました。帰りにはお土産として大小ふたつの葛籠が用意されていました。お爺さんは自分は年寄りなので小さい方のつづらで十分と伝え、小さな葛籠を背負わせてもらい、「家に着くまでは開けてはならない」と約束されて雀のお宿をあとにしました。家に帰り中を見てみると金や銀、サンゴ、宝珠の玉や小判が詰まっていました。欲張りなお婆さんは、大きな葛籠にはもっと沢山宝物が入っているに違いないと、雀のお宿に押しかけ、大きい方を強引に受け取りました。雀たちから「家に着くまでは開けてはならない」と言われましたが、帰り道で待ち切れずに約束を破り葛籠を開けてみると、中から魑魅・魍魎や虫や蛇が溢れるように現れ、お婆さんは腰を抜かし気絶してしまいました。その話を聞いたお爺さんは、お婆さんに「無慈悲な行いをしたり、欲張るものではない」と諭しました。

「踊り雀」

台東区有形民俗文化財の原型を基に復元したものです。「雀百まで踊り忘れず」の諺や、おじいさんを踊りで和ませる雀が登場する「舌切りすずめ」の昔話があります。

Dancing Sparrow

This figure was restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City. Sparrows appear in traditional proverbs and stories, including the “Tongue- Cut Sparrow" story about a sparrow that danced to soothe an old man.




鉄砲狐とは、その形状が鉄砲の弾に似ていることからそのように呼称されました。主に稲荷神への神社の奉納用として用いられ、今戸焼きの狐の中でも代表的な存在といえます。特徴としては、今戸焼きの鉄砲狐は底が抜けている形です。かつては江戸(東京)中の稲荷神社へ今戸焼きの狐が奉納されていましたが、今では見た目の近い瀬戸物の鉄砲狐に取って変わられつつあります。

「鉄砲狐」

正面を向いて台座の上に座っているこの狐は、台東区有形民俗文化財の型を基に復元したものです。顔を横に向けて座っているものや大小様々な狐の型から姿形が受け継がれており、今も稲荷神社の授与品として作られています。江戸時代に稲荷勧請が流行り、今戸焼職人以外の人たちも内職として彩色をしている様子が「今戸の狐」の噺に残されています。

Teppo Kitsune (Bullet-like Foxes, Gun Foxes)

There are several views on the origin of the name but the bullet-like-shape is regarded as the most likely prospect. Fox figurines, seated and facing forward on pedestals can literally be translated as "gun foxes" and the Teppo Kitsune were restored on the model of Tangible Folk Cultural Properties of Taito City. The form evolved from ceramic figures seated and facing sideways, and from various large and small fox shapes. Teppo Kitsune are still made as lucky apotropaic charms and auspicious gifts of Inari Shrines. Praying for the coming of Inari deity (deity associated with foxes, rice, household wellbeing, business prosperity and general prosperity) was common during the Edo period, and a traditional tale called "Imado Foxes" tells of people other than professional Imado potters painting Inari figures as a side job.




紙洗橋の名前はこの付近で作られていた浅草紙に由来します。浅草紙は古紙や紙くずを原料にした漉返紙(ちり紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要がありました。山谷堀にも多くの作業所があり、職人たちが紙くずを紙舟に入れて堀の流れに曝しておくことを「冷やかす」と呼んでいました。この2時間ばかりの作業中は暇をもてあまして吉原の遊郭を見に出掛けましたが、時間がなくて登楼せずに帰ってしまうことから、買う気のない客を表す隠語として「冷やかし」という言葉が生まれたといわれています。



山谷堀公園の散策がえらく長くなりました。台東区の坂巡りに戻ります。地方橋跡から山谷堀公園を出て、地方橋交差点を左折しまと千束通りが延びています。



2.化粧坂

化粧坂は長さが約140mほどの傾斜のない坂です。化粧坂は日本堤の土手道が拡幅されたため低い普通の道路となりました。そのために山谷堀や千束通りから土手に上るかぎ型の坂道が痕跡すらなくなるように変貌しました。山谷堀の船から上がった遊客は今の地方橋付近から日本堤の土手にあがって吉原の大門に向かっていました。今の都水道局ポンプ場に対する町筋には25軒ほどの遊客たちに貸す編笠屋がありました。一種の風俗習慣ですが、遊客は笠をかぶり扇子で顔を隠して大門を潜りました。つまり化粧をする坂の意味です。かつては3m以上も高い堤があったと言われる土手通りは現在は全く平坦な道路となり、化粧坂は名前だけとなっています。



吉原大門交差点の脇に一本の柳の木が植わっています。



大井町の浜川橋や南千住の泪橋は罪を負った人達が親類縁者と別れを惜しんだ別離の場所ですが、吉原大門の見返り柳は人生の悲哀は全く感じられませんね。柳の袂に石碑と案内板が立っています。

見返り柳

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廊の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、

   きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
   見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。

MIKAERI YANAGI(Looking-back willow tree)

This is one of the memorial spots in the Yoshiwara licensed red-light district, a willow tree which is said to have been planted following another willow tree at the gate of Shimabara red-light district in Kyoto. This tree was called "Looking-back willow tree" because visitors returning home from the district looked back at this spot feeling painful reluctance to leave. This tree has been subjects of many Senryu poems such as

Kinuginu no usirogami hiku yanagi kana
Mikaereba ikenka yanagi kao wo uchi

New trees have taken its place several times because of the Great Kanto Earthquake and air-raids during World War II. The tree now standing used to be a little northward of its present site. It was transplanted due to road construction and re-zoning.




吉原大門交差点の左手からS字状に曲がる傾斜のない坂が上がっています。



3.衣紋坂

衣紋坂は長さが約140mほどの傾斜のないS字状に曲がった坂です。千束四丁目にはかって新吉原がありました。町並みは縦・横に整然と道路が通っていますが、吉原大門の入口だけが曲がった道となっています。現在は日本堤の土手道がひろげられて低くなっていますので緩い坂ですが、かつては2間ほども高い堤道から大門口に下るのはかなりの勾配でした。そのために大門までは曲がった坂道にせざるをえませんでした。坂名は遊客が遊廓入口の大門に向かうときに風姿を整えた衣紋直しから付けられました。かつては3m以上も高い堤があったといわれる土手通りは現在では全く平坦な道路となり、衣紋坂は名前だけとなっています。



新吉原の町名由来板が立っています。

旧浅草新吉原揚屋町

元和三年(1617年)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは”葭原”と呼ばれた。そして寛永三年(1626年)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656年)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあったいくつかの揚屋を一カ所にまとめたときである。




もうひとつ新吉原の町名由来板が立っています。結構近所ですが。

旧浅草新吉原京町一丁目

元和三年(1617年)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは”葭原”と呼ばれた。そし寛永三年(1626年)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656年)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町一丁目は元和四年にできた町で、町名の起こりは、そこで営業していた者の多くが京都出身者であったことに由来している。




吉原神社は明治五年(1872年)に創建されました。吉原遊廓には元々遊廓の守護神としての稲荷神社が5社ありましたが、明治になって1か所に合祀したのが吉原神社の起源です。当初は旧玄徳稲荷社に置かれていましたが、大将十二年(1923年)の関東大震災で焼失し、昭和九年(1934年)に現在地に移転しました。

YOSHIWARA SHRINE

This shrine is dedicated to Inari, the god of business prosperity and Benzaiten, the goddess of protecting women.




吉原神社の先に吉原辨財天があります。吉原辨財天は吉原神社の境外摂社で、元々は別の宗教施設でしたが、昭和十年(1935年)に吉原神社に合祀されました。境内には、昭和三十二年(1957年)の売春防止法の施行で幕を閉じた吉原遊廓の歴史を永く伝えるために昭和三十五年(1960年)に建立された「花吉原名残碑」という石碑が建っています。

花吉原名残碑

吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和三年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による古原遊廊の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊廊を「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。




境内の奥に錦鯉が泳ぐ小さな池があります。

新吉原花園池(弁天池)跡

江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657年)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。以来、昭和三十三年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正十二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正十五年に造立されたものである。昭和三十四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。

SITE OF THE SHIN-YOSHIWARA HANAZONO POND (BENTEN POND)

Until the early 17th Century, this area was marshland with many lakes. In 1657, the wetland was reclaimed and the pleasure district, Shin-Yoshiwara, was established. This pond was left alone and from a certain period, Benten Shrine was worshipped on its shores. Presently, this Benten Shrine is considered one of the shrines on the Seven Lucky Gods of Good Fortun in Asakusa and many come to worship it on New Year's. The pond was called the Hanazono Pond or the Benten Pond. In the Great Kanto Earthquake of 1923 many people sought refuge by its shores and 490 of them perished. The giant statue of the Bodhisattva Avalokiteshvara near the Benten Shrine was built in 1926 in memory of their souls. Most of the pond was filled up in 1959 when the Yoshiwara Building was constructed and now only traces of it remain.




吉原から金美館通りを経由して上野に向かいます。入谷交差点の先に真源寺があります。真源寺は万治二年(1659年)開山し、鬼子母神を祀っていることで入谷鬼子母神の名称になりました。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名です。また、7月の七夕の前後には境内で入谷朝顔市が開かれ、下町の夏の訪れを伝える行事として全国的に知られています。

入谷鬼子母神

入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺に祀られている。眞源寺は、万治二年(1659年)日融上人により創建された。鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼(ツノなし)」の字を使っている。また、七月上旬、境内及び門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り観賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和二十五年復活。以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。

IRIYA KISHIMOJIN

Kishimojin, a goddess of children, is one of the goddesses in Indian Buddhism. She was atrocious and was an evil goddess snatching children and eating them. According to a legend, Gautama Buddha hid the youngest son of this goddess and had her mend her ways by making her experience the sorrow of losing a child. Subsequently, she became a good goddess protecting children and women and came to be worshipped as the guardian of child-birth and child-growing. In early July, the precincts of the temple are crowded with people coming to see "the Morning-Glory Market." The morning-glory was introduced from China as a kind of medicinal herb in the Heian era. It was the Meiji era when this market became the famous event at Iriya, and its origin is said to be the display of potted morning-glories at a near-by temple.




言問通りの鶯谷駅下交差点からJR線を跨ぐ陸橋が架けられています。陸橋の先には台東区立の忍岡中学校があります。そこから寛永寺まで坂が上っています。



4.新坂

新坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、別名を「鶯坂・根岸坂」といいます。明治になって開かれた坂ということで、この坂名が付きました。坂下の忍岡中学校の前に案内柱が立っています。

新坂

明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(1878年)内務省製作の「上野公園実測図」にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鴬谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。




忍岡中学校の先に、寛永寺山内の子院のひとつである現龍院の墓地があり、「殉死者の墓」の石碑が建っています。主君の死に際しては後追いをしなければならなかった時代だったんですね。今の時代に生きていて良かったです。でも、幕府の禁止令が出たら殉死がなくなったということは、本当はイヤイヤ腹を切っていたのかも。

殉死者の墓

慶安四年(1651年)四月二十日、三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣五名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣四名と、その家臣八名の墓がある。

堀田正盛 (元老中。下総国佐倉藩主)。
阿部重次 (老中。武蔵国岩槻藩主)。家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
内田正信 (小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)。家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
三枝守恵 (元書院番頭)。家臣の秋葉又右衛門。

殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から十二年後、寛文三年(1663年)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。

Tombs of the vassals who followed their master to the grave

The third Tokugawa shogun Iemitsu died in 1651. After that, five of his vassals committed suicide to follow him; besides, their vassals and family members also killed themselves to follow them. There are tombs of four vassals of Iemitsu and tombs of their eight vassals here. It is called "Junshi" in Japanese that vassals and family members kill themselves to follow their master to the grave after his death and such people were admired as a loyal person. It was common especially for samurais to commit hara-kiri after their master died in a war. Since numbers of such people increased even in Edo period, the government prohibited this custom in 1663. Later it almost disappeared.




国立科学博物館の北東角から両大師橋がJR線の線路を陸橋で横断しています。



JR線を渡ったところで橋は左側に直角に曲がって下り坂になっています。

5.車坂(北)

車坂(北)は長さが約200mほどのやや急な坂です。明治初期までは上野寛永寺の山から東に下りる坂(屏風坂・信濃坂・車坂)がありましたが、JR線の上野駅と線路が建設されたために何れも消滅してしまいました。現在の坂名は、旧地名の「車坂町」に因むものと思われます。



国立科学博物館の横を通って上野駅に向かいます。国立科学博物館の敷地の中にロケットが空を睨んでいます。

日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げた
ラムダロケット用ランチャー
重量47t・ブーム19m・発射角度約64度

昭和四十五年(1970年)2月11日、鹿児島県の東京大学宇宙航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構JAXA)から、世界最小(当時)の人工衛星を積んだラムダ4S型ロケット5号機(注1)が、ここに展示されているラムダロケット用ランチャーにより、「無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)」(注2)で打ち上げられた。打ち上げ場所となった大隅半島にちなみ「おおすみ」と名づけられたこの人工衛星は、33年間飛び続けた後、平成十五年(2003年)8月2日、北アフリカ上空で大気圏に再突入し、消滅した。昭和四十一年(1955年)の1号機から4度の失敗を乗り越え、人工衛星投入に成功。日本は昭和三十年(1955年)4月のペンシルロケット発射実験から、わずか15年でソ連(現・ロシア)、アメリカ、フランスに次ぎ、世界で4番目に人工衛星の打ち上げに成功した国となった。このランチャーは、昭和四十九年(1974年)まで一連のラムダロケットの実験に使用された後、当館に移管・展示されたものである。

注1
ラムダ4S型ロケット5号機
全長16.527m、直径0.735m、総重量9.399t

注2
無誘導打ち上げ方式(重力ターン方式)
この方式は日本で考えられたもので、第3段ロケットで投入軌道と水平になったときに、第4段に点火、制御し、人工衛星をただ1回の姿勢制御だけで軌道投入するものであった。軌道は、近地点高度335km、遠地点高度5、150km、軌道傾斜角31度の長楕円軌道であった。




JR上野駅の公園口改札前のロータリーの先から山下口出入口まで坂が下っています。



6.車坂(南)

車坂(南)は長さが約140mほどのやや急な坂で、別名を「椿坂」といいます。現在の上野駅構内には上野寛永寺の下寺が並び、北から「信濃坂」・「屏風坂」・「車坂」の坂々が下っていました。信濃坂と屏風坂は明治十三年頃までは実在していましたが、その後の線路数の増設に伴って崖際が削られて遂には消滅してしまいました。車坂は二ヶ所に分かれた段坂で、今の東京文化会館付近から駅舎の方に向かって斜めに崖地を下っていましたが、それも消滅し、崖を削って台地と駅との間にだけ坂道を残しました。これが今の車坂で、江戸期の車坂とは形も位置も変化したものです。坂上に車坂に触れた案内板が立っています。

池波正太郎作品の舞台 寛永寺・車坂

徳川家の菩提寺である寛永寺や花見の名所として多くの人々に親しまれた上野の山は、江戸庶民にとってまたとない気散じの場所でした。少年時代の池波正太郎にとっても、浅草永住町の家からほど近い上野の山は、格好の遊び場でした。「剣客商売」には、寛永寺・車坂が物語の舞台として登場します。秋山小兵衛は折にふれ、寛永寺を参詣していましたが、ある日、東照宮を参拝したあと、車坂を下って浅草方面へ向かうつもりだった小兵衛は、車坂のあたりで幼い子どもが連れ去られる現場に遭遇します。小兵衛は、寛永寺の子院である凌雲院と本覚院の間の細道へ走り込む男たちを追って子どもを助けだします。凌雲院の境内は、現在の上野駅東西自由通路の西端あたりから、東京文化会館と国立西洋美術館あたりまで続いていました。寛永寺・車坂は小説のみならず、のちにテレビドラマとして映像化された「剣客商売」にも登場しています。




今日のゴール地点の上野駅に着きました。



ということで、台東区で最初の「浅草・千束・上野コース」を歩き終えました。巡った坂は僅か6ケ所でしたが、それだけ見所が多かったということでしょうか。次は、上野公園から谷中地区の坂道を巡りたいと思います。





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