台東区(上野公園・谷中コース)


踏破記


先日の浅草・千束・上野コースに引き続き、今日は上野公園・谷中コースを歩きます。先日のゴール地点である上野駅山下口からスタートします。



上野駅山下口の向かいには、かって西郷会館という共同店舗ビルがありました。1階には土産物店などが並んだ「のれん街」、2階には和食・洋食・中華・寿司など「何でもあるファミリーレストランの先駆け的存在」だった聚楽台もありました。聚楽台は西郷会館の老朽化による取り壊しに伴い、2008年4月21日をもって閉店し、西郷会館の跡地には2012年9月にUENO3153がオープンしました。今日は寄り道しないで、ビル内のエレベーターで上野公園に上がります。公園を横断した先に朱色が鮮やかな清水観音堂が見えます。フェンスの内側には1本の桜の木が植えられています。秋色桜といいますが、品種名ではなく、江戸時代の女性俳諧師の俳号に因んで名付けられたとのことです。早春の時期なので枯れ木同然です。

秋色桜

上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。

   井戸ばたの
      桜あぶなし
         酒の酔

この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(1725年)没と伝えられる。碑は、昭和十五年十月、聴鶯荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。

SHUSHIKI CHERRY TREE

Ueno was very famous as a place of cherry blossom from the beginning of the Edo era. There were many species of cherry trees and some trees had even their own names; a typical one of them is the Shushiki Cherry Tree. In the Genroku period, a daughter named Oaki of a sweet shop in Koamicho, Nihonbashi wrote a Haiku poem, "Cherry blossom near a well are in danger by drunken fellows." This expresses a scene of crowded cherry blossom viewers near a well. She was only 13 years old at that time, but had a pen name of Shushiki. Therefore, this cherry tree near the well was called "The Shushiki Cherry Tree."




清水観音堂は京都の清水観音堂をモデルにして、寛永八年(1631年)に天海大僧正によって建立されました。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようになっています。御本尊は清水寺より迎えた千手観音像で、重要文化財に指定されています。

東叡山寛永寺 清水観音堂

清水観音堂の縁起

清水観音堂は、寛永八年(1631年)に慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正により天台宗東叡山寛永寺の参堂として建立されました。初めは「摺鉢(すりばち)山」に建てられ、その後、元禄初期に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時が明確な最古の建造物です。天海大僧正は寛永二年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と境内に建立していく中で、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立て、同じく舞台作りで建てられています。平成二年から文化財保存修理が行われ、平成八年に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。

ご本尊「千手観世音菩薩」の伝説

京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が四十本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。また、「平家物語」に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説があります。

盛久は常日頃より清水寺へ参詣を続けていましたが、源平の合戦で敗れ、鎌倉で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は盛久を助命しました。後に盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。

この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことに因み、ご開帳は年に一日、二月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。

脇尊の子育て観音さま

お堂の右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。観音さまのご利益により子を授かった人々から、子供の健やかな成長を願って多くの身代り人形が奉納されており、これら人形の供養が、かわいがってきた人形に感謝する人形供養となって長年続けられています。人形供養は毎年九月二十五日十四時から行われます。




清水観音堂の脇から短い急な階段が下っています。



7.清水坂

清水坂(きよみずざか)は長さが約10mほどの急な階段です。坂名の由来は、坂の北側に清水観音堂があり、坂名はその堂の名称に因んでいます。階段の途中の石垣の上に案内柱が立っています。

清水坂

この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(1631年)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(1694年)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。




動物園通りを少し進んだ先に五條天神社があります。

五條天神社縁起 御由緒

第十二代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ、平成二十二年五月御鎮座1900年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和三年九月に御遷座になりました。




2月も末の時期ですので、境内には梅が満開になっています。



五條天神社の前を通って右にカーブしながら上野公園に坂が上がっています。

8.忍坂

忍坂は長さが約90mほどの緩やかな坂で、右側に曲がりながら上っています。別名を「女坂」といいます。坂名の由来は、精養軒の前あたりの地名が「忍ヶ岡」と呼ばれたことに因んでいます。



五條天神社に隣り合って花園稲荷神社があります。

花園稲荷神社の御縁起 御由緒

鎮座の年月、由緒は不詳ですが、住古より此地にあり、「穴の稲荷」又は「忍岡稲荷」と云われました。承応三年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので、明治六年花園稲荷と改名し、昭和三年現社殿にお遷ししました。旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ、晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。安産の神とも云い、特に縁談・金談の願がけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。




忍坂の坂上の左側に花園稲荷神社に続く参道があり、幾つもの鳥居が並んでいます。鳥居の先には短い階段が下っています。



9.稲荷坂

稲荷坂は長さが約15mほどの階段で、坂名の由来は、花園稲荷神社に下りる階段ということでこの坂名になったと思われます。階段上の鳥居の下に案内柱が立っています。

稲荷坂

花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(1732年)の「江戸砂子」にその名がみえ、明治二十九年(1896年)の「新撰東京名所図会」には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。




再び動物園通りに戻った先に、水月ホテル鴎外荘の看板が見えます。



ホテルの玄関横には、此の地にはかって明治時代の文豪である森鴎外一家が居住していたということが記されています。

森鴎外旧居跡

森鴎外は文久二年(1862年)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。明治二十二年(1889年)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文学評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月には処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。

Remains of the former residence of Mori Ogai

Mori Ogai (1862-1922) is one of the most famous modern writers in Japan. In March of 1889 he married Akamatsu Toshiko, and from the summer of that same year lived at this site. This house still stands in the inner garden of a hotel. In October of 1889 he published the literary review "Shigarami zoshi". In January of the following year he wrote his first novel Maihime (Dancing Girl). With the completion of these and other early works, this spot should be remembered as the site where he began his literary career. However his domestic life was not so fortunate and in September of 1890 he divorced Toshiko and moved to a new place the follwing month.




森鴎外の略歴を記した案内板の横に、水月ホテルが令和三年(2021年)に営業を終了した旨の告知文が貼られています。森鴎外が居住した家屋が残されているとのことですが、跡地はどうなるのでしょうか?

森鴎外(1862年〜1922年)

島根県津和野出身。旧幕時代の範医の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争、日露戦争に従軍。翻訳、創作、批評に活躍、明治文化人の重鎮。代表作に「於母影」(翻訳詩集)。「舞姫」・「雁」・「渋江抽斎」・「高瀬舟」・「うたかたの記」。

森鴎外居住の跡

森鴎外は、 明治二十三年(1890年)この地において文壇処女作の「舞姫」を発表しました。そして次々と文学作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。




水月ホテルの先の右手に、逆L字状に曲がった上り坂があります。坂上には都立上野高校があります。



10.清水坂

清水坂は長さが約210mほどの緩やかな坂で、やや左に曲がりながら上がっています。別名を「暗闇坂」といいます。坂名の由来は、坂近くに弘法大師に因む清水が湧いていたことで名付けられました。坂の中ほどの曲がり角に案内柱が立っています。

清水坂

坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。




上野高校の先で広い通りと交差します。坂下から長い上り坂になっていて、坂の途中で直交する2本の道路との交差点部分が平坦な踊り場状になっています。左の写真は坂下からの眺めで、右の写真は最初の交差点からの眺めです。交差点の先が少し盛り上がっていますね。



左の写真は二番目の交差点から坂上を眺めたもので、右の写真は坂上から見下ろした眺めです。傾斜が緩いので、実際に歩いてみないとあまり高低差は感じられませんが。



11.三段坂

三段坂は長さが約160mほどの緩やかな坂で、最初は上りになっていますが、途中に平坦な路面があり、再び上りになるという形状をしています。坂名の由来は、坂の途中に段のついた坂ということに因んでいます。坂上近くに案内柱が立っています。

三段坂

「台東区史」はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次世界大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。この坂道は明治二十年(1887年)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。




三段坂の坂上付近に旧町名の由来を記した案内板が立っています。

旧町名由来案内 旧谷中清水町

この地は、東叡山寛永寺創建後は寛永寺領地であったが、寛永十年(1633年)松平伊豆守信綱が拝領した。代々松平の姓を名乗っていたが、信古の代になって大河内に改姓した。大河内信古は、豊橋藩主で七万石を領していた。明治五年(1872年)、大河内家屋敷地を一町として起立し、町名を谷中清水町と命名した。町名の由来は、護国院前に明治前まであった清水門にちなむという。清水門の名称の由来については、この地に清水が湧いていたためとされている。昭和四十二年(1967年)、住居表示の実施で本町は三分された。大部分が池之端四丁目になり、あとは同三丁目と上野公園に編入された。




三段坂の坂上を左折した少し先で言問通りと交差します。谷中六丁目交差点から不忍通りの根津一丁目交差点まで長い坂が下っています。



言問通りの両側には幾つかのお寺があります。坂下付近の右手には玉林寺の参道が延びています。参道の入口には、「横綱千代の富士像」と彫られた石碑が置かれています。玉林寺は千代の富士の菩提寺という縁で銅像が建ちました。平成元年3月に優勝したときの記念写真に納まった千代の富士の三女が同年6月に夭逝し、玉林寺に葬られました。銅像は富士山の方を向いていますが、三女のお墓の方も向いているのだそうです。千代の富士は筋骨隆々として、鋭い出足と左からの豪快な上手投げで現在の両国国技館で最初の大横綱となり、かつ昭和最後の大横綱となりました。九重部屋を継いで大関千代大海を初めとして次々と関取を生み出し、弟子養成にも非凡な才を発揮しましたが、還暦土俵入り翌年の平成二十八年7月31日に亡くなりました。玉林寺の本堂裏にはシイの巨樹が聳えていて、本堂の屋根を超える高さがあります。都心とは思えない風景です。

東京都指定天然記念物 玉林寺のシイ

望湖山玉林寺は天正一九年(1591年)現在地に創建された曹洞宗の寺院である。本堂裏側にそびえるシイの種類はスダジイであり、幹囲り5.63メートル、樹高9.5メートル、枝張りは東に3.5メートル、西に2メートル、南に7.5メートル、北に4メートルを計る。玉林寺創建以前から存在していたと言われ市街化した地域に遺存する巨樹として貴重である。平成三年から五年にかけて大規模な外科手術を行った結果、樹勢は回復しつつある。スダジイは、一般にシイノキと呼ばれるブナ科の常緑高木で、福島県・新潟県以南の本州、四国、九州、沖縄に分布する。雌雄同株で六月頃上部に雄花の穂を、下部に雌花の穂を出す。果実は、1.5センチ程の大きさで二年目に熟し食用となる。材は家具・建築・パルプ用材として広く使われている。

Plant Gyokurin-ji no Shii

This is the castanopsis sieboldii which is located behind the main building of Gyokurin temple. It is about 14.2 m high and has about 6.3 m trunk circumference. As there was a big empty hole around the roots and big branches were dry and damaged, an operation for recovering was conducted between 1991 and 1993. It is said that it had already been standing when Gyokurin temple was built in 1591. It is a precious tree as one of few remaining giant castanopsis sieboldii trees in an urban area. Castanopsis sieboldii are evergreen tall trees belonging to Fagaceae and usually called red oak. The fruits can be eaten and the timber is widely used for making furniture and others.




歩道脇に旧町名の由来を記した案内板が立っています。谷中には坂が多いので、そのまんまの町名になっていますね。

旧町名由来案内 旧谷中坂町

もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688年〜1704年)に寛永寺領となるが町屋が形成されるにつれ、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉林寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治二年(1869年)谷中坂町と命名された。さらに同二十四年、三方路店と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。町名は町の中央に坂があったことにちなんで付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町の北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。

玉林寺に繋る大椎の木
天正十九年(1591年)に創建された玉林寺本堂裏手に椎の木がそびえている。幹の太さは6.5メートル、高さ16メートル余。東京都の天然記念物に指定されている。




12.善光寺坂

善光寺坂は長さが約200mほどの緩やかな坂で、別名を「信濃坂」といいます。坂名は、坂上の北側にあった善光寺に因んで名付けられました。坂の中ほどの植木塀に埋もれるようにして案内板が立っています。

善光寺坂

谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新設である。善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は、慶長六年(1601年)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄十六年(1703年)の大火に類焼して、青山(現港区青山三町目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治五年まで坂の南側にあった。善光寺坂のことは、明和九年(1772年)刊行の「再校江戸砂子」にも見え、「御府内備考」の文政九年(1826年)の書上には、幅二間(約3.6メートル)、長さ十六間(約29メートル)、高さ一丈五尺(約4.5メートル)ほどとある。

ZENKOJI HILL ROAD

This road, also called Shinano Hill Road, was named after Zenkoji temple which used to be on the top of the hill. Zenkoji was built in 1601 as a temple and lodging place in Edo for the priests of Zenkcji from Shinano (now Nagano Prefecture). It prospered with a busy temple street in front of the main gate. The temple burned down in a huge fire in 1703 and was relocated in to Aoyama, but the area name "Zenkoji Monzen-cho" was used for the southern side of the hill until the 5th year of the Meiji Era. Reference literature from the Edo period states that the hill road was about 29 m in length with a 4.5 m elevation.




谷中六丁目交差点の手前で善光寺坂を左折してお寺の建ち並んだ路地に入ります。お寺に囲まれた三角形の敷地に小さな富士塚があります。この富士塚は、アンティークショップを営んでおられる千寿庵のご主人が昭和初期に長屋を修繕する際に敷地内にこの富士塚があることを知り、「谷中富士」として誰でもお参りできるように整備されたのだそうです。ちなみに、山開きは6月23日とのことです。

谷中富士

日本人は古くより富士山を崇拝してきましたが、江戸時代に入ると「富士講」という、富士山を登拝する信仰組織ができ、江戸を中心として各地に富士塚が作られました。黒ボクと呼ばれる富士山の溶岩を置き、大きなものは富士山を象り、浅間神社を祀り、富士詣でができるようにしたのです。ここはお寺に挟まれた三角地で、江戸時代の地図にも「谷中村分」とあり、富士塚や井戸もあったことから、人々の集まる処だったことが窺えます。千寿庵の庵主は長年、書画や富士講、富士塚など江戸の文化を研究して来ましたが、この昭和初期の長屋を修繕するにあたり、敷地内に古い小さな富士塚があることを知り、深い縁を感じました。そこで、北口本宮富士浅間大社宮司上文司厚様より、「谷中富士」という名前をいただき、皆様がお参りできるよう周りを整備いたしました。富士塚を拝む方向に富士山があります。どうぞお参りください。

YANAKA FUJI

Mt.Fuji has been worshiped since ancient times in Japan. In early Edo period 'Fuji Kou' (devotional Mt.Fuji confraternities) were created and many Fuji Zuka (mounds for worship of Mt.Fuji) were made in Edo city and its suburbs. People made Fuji Zuka with lava rocks of Mt.Fuji and enshrined Sengen Jinja (Sengen Shrine), so those who could hardly climb Mt.Fuji due to various reasons were able to worship Fuji Zuka instead. This place is triangle with this Fuji Zuka and a well surrounded by temples, and is marked on some old Edo city maps as public land where people might have gathered at that time. The owner of Senju-an found this old Fuji Zuka in ruins when he got this place in order to renovate this old house for a gallery. He felt like fate because he has been researching and interested in Fuji Kou and Fuji Zuka history as a part of Edo culture, so he arranged the Fuji Zuka properly and recieved the authorization of Fuji Zuka from Joumonji Atsushi, the chief priest of the main shrine 'Kitaguchi Honguu Fuji Sengen Taisha', then this Fuji Zuka is officially named Yanaka Fuji. Now this place is opened for everyone. Mt.Fuji is located in the direction of this Fuji Zuka, so please feel free to worship.




富士塚の直ぐ先の三差路の尖った角にヒマラヤ杉が聳えています。ヒマラヤ杉の直下にある谷中みかどパンの祖父の代から引き継いで谷中地区のシンボルともなっている樹齢100年の台東区の保護樹木です。ちなみに、店名の「みかど」は、三角形の鋭角にあることから名付けられたとのことです。最初は木鉢に植えられていましたが、根が木鉢を突き破って地面に根付き、地面から直接養分を得るようになってから成長する速度も上がって、現在は直径1.5メートル・高さ20メートルほどの大木になりました。



以前見たときは周囲を覆い尽くすほどの枝振りでしたが、今は随分とスリムになっています。これは2019年に関東地方を襲った台風19号の強風で大きな枝が折れて危険となったために剪定したためとのことです。両側に道路が通っていますのでやむを得ないとは思いますが、景観的にはちょっと勿体ないですね。


左の写真が現在のヒマラヤ杉、右の写真が剪定前のヒマラヤ杉です。


江戸時代、谷中には勝山藩の下屋敷がありました。その跡地には私設の「大名時計博物館」が建っています。陶芸家の上口愚朗が生涯にわたって収集した江戸時代の貴重な大名時計を文化遺産として長く保存するために、昭和二十六年3月に「財団法人上口和時計保存協会」を設立しました。昭和四十五年10月に上口愚朗が没した後、二代目の上口等が昭和四十九年4月に「大名時計博物館」として開館しました。大名時計は江戸時代に大名お抱えの御時計師達が長い年月をかけて手造りで製作した時計です。製作技術・機構・材質などの優れた大名時計は美術工芸品としても世界に類のない日本独特の時計です。大名時計で用いられた時刻表示はヨーロッパで使用されていた24時間の定時法のものと異なり、不定時法を用いていました。不定時法は、夜明けから日暮れまでの昼を六等分、日暮れから夜明けまでの夜を六等分した時刻を採用しています。夜明けの時刻と日暮れの時刻は季節によって変わるため、昼と夜の長さが季節に応じて変わり、一時[いっとき]の長さが変わります。大名時計博物館は、これら江戸時代の大名時計を展示した専門の博物館なのです。

DAIMYO CLOCK (JAPANESE CLOCK) MUSEUM

Clocks made in Japan in the Edo Period (17th-19th centuries) are exhibited here.




大名時計博物館の塀に沿って、細い急な坂が下っています。



13.三浦坂

三浦坂は長さが約160mほどのかなり急な坂で、別名を「中坂」といいます。坂名は、江戸時代に三浦家下屋敷前の坂道だったことに因んで名付けられました。坂下に案内板が立っています。

三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(1856年)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(1872年)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ上地ヲ合併新二町名ヲ加へ(中略)真島八三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

Miura-zaka Slope

According to a local topography of the Edo period (1600-1868), the slope leading down to Nezu known as Naka-zaka Slope was also known as Miura-zaka Slope because it led from in front of the third mansion of the Miura family. The head of the Miura household was the feudal lord of the Katsuyama clan in Mimasaka province (present-day Okayama prefecture). At the end of the Edo period the Katsuyama clan changed its name to Mashima, and the areas on both sides of Miura-zaka Slope came to be known as Mashima town. Thus both the name of the slope and the name of the areas on either side of it were connected with the mansion of the Miura family. It is said that the alternative name of Naka ("middle")-zaka Slope is associated with the fact that this slope was located in between two other slopes.




三浦坂の坂下を右折した先に、旧町名の由来を記した案内板が立っています。

旧町名由来案内 旧谷中真島町

江戸時代末、本町一帯は武家屋敷地であった。美作国(現在の岡山県)真島藩下屋敷があったのもこのあたりである。藩主は三浦氏で、慶応年間に藩名を勝山藩から真島藩にかえた。真島は美作国の郡名で、勝山はその真島郡の一地名であったことから、郡名をとって真島藩に改めたものである。本町は明治五年(1872年)に真島藩下屋敷と周辺の武家地を合併して誕生した。町名は真島藩の名にちなんでいる。この付近は上野台地から藍染川流域の斜面にあたることから坂が多い。そのうちのひとつが臨江寺裏から宗善寺へ上がる「三浦坂」。そして三浦坂を登ると「大名時計博物館」がある。江戸時代初期に作られた櫓時計をはじめ、枕時計、印篭時計などが展示されている。




案内板が立っている交差点から、三浦坂と並行して逆方向に真っ直ぐに上る坂があります。



14.あかじ坂

あかじ坂は長さが約190mほどのやや急な坂で、別名を「あかぢ坂・明治坂・赤字坂」といいます。坂名の由来は、一説には明治の財閥であった渡辺治右衛門の邸宅が石垣の上一帯にあったことに因んでいるとされています。渡辺治右衛は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいましたので、通称を明石屋治右衛門といいました。それが略されて「明治(あかじ)」と呼ばれ、坂ができたときに明治坂(あかじざか)の坂名になりました。別の説には、明治末から昭和の初めにかけて相場師の渡辺治右衛門の邸があったことを坂名の由来としています。治右衛門は明治四十一年に東京に進出し、株式仲買店をひらいて巨富を得、東京渡辺銀行などを経営しましたが、昭和二年の経済恐慌によって破産し、昭和五年に没しました。赤字坂の名は、渡辺治右衛門が破産したころに町の人々によって皮肉な呼び名として付けられた坂名とされています。このように坂名の由来にはふたつの説がありますが、「明治坂」の説が一般的なようです。周辺の地図を記した案内板に「あかじ坂」の坂名が載っています。どちらともとれる書き方ですね。



あかじ坂の坂上を左折して少し進んだ先で道路が二股に分かれています。その左側の道路が下り坂になっています。

15.真島坂

真島坂は長さが約90mほどのやや急な坂で、坂名の由来は、幕末に美作勝山藩が真島藩と改称し、明治五年にこの一帯が「谷中真島町」となったので、新しく開かれた坂を真島坂と呼んだことに因みます。



真島坂は坂下で都道452号線に突き当たります。合流点から右側に坂が上がっています。



歩道脇に旧町名の由来を記した案内板が立っています。「三崎」は「さんさき」と読むんですね。

旧町名由来案内 旧谷中三崎町

「三崎」のいわれは諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向っていることから名付けられたとする説が一般的である。本町は、元禄年間(1688年〜1704年)のころすでに谷中村からわかれ、町屋を形成していた。その後、明治四年(1871年)に南北二町にわかれ、谷中三崎町南側および谷中三崎町北側となった。しかし、同六年には付近の大円寺をはじめとする六カ寺を合併するとともに南北二町は再び一つになり、もとの一 町にもどった。本町の中心を東西に通る坂が三崎坂。谷中には、由緒ある寺院が数多くあるが、この三崎坂の途中に大円寺がある。ここには江戸時代に浮世絵画家として活躍した「錦絵開祖 鈴木春信」の碑が建っている。




道路に面して谷中小学校があります。明治三十五年に開校したそうですので、創立120周年とのことです。時計台も学校の歴史を感じさせますね。女優の天海祐希さん・ロックシンガーの佐野元春さん・女子レスリングの浜口京子さんなどの著名人を輩出しているそうです。



谷中は寺町といわれますが、都道452号線の両側にもお寺が並んでいます。歴史上の人物のお墓もあるようです。全生庵には、江戸無血開城の立役者である山岡鉄舟、人情噺や怪談噺で知られる落語家の三遊亭円朝、それに大正・昭和期の作曲家の弘田龍太郎のお墓があります。

ZENSHOAN TEMPLE

Temple established by Tesshu Yamaoka(1836-1888) a great swordsman who was also a master calligrapher. He and Encho Sanyutei, the Rakugo storyteller are interred here.




山門脇に、山岡鉄舟の案内板が立っています。

東京都指定旧跡 山岡鉄舟 墓

江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(1836年)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(1852年)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(1880年)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(1883年)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(1888年)七月十九日五十三歳で死去した。山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。

Historic Places Yamaoka Tesshu Haka (The grave of Yamaoka Tesshu)

Yamaoka Tesshu (1836-1888) is a swordsman as well as politician between the end of the Edo Period and beginning of the Meiji Period. He learned swordmanship of Ittoryu style from Inoue Kiyotora while his father worked in Hida (currently Gifu Pref.). Later he came back to Edo and took over Yamaoka Family who was a warrior. He made a great effort as a guard for Tokugawa Yoshinobu, moreover as a negotiator for the Edo Castle Muketsukaijo (the bloodless surrender of Edo Castle) supported with Katsu Kaishu. Yamaoka Tesshu joined Meiji government and assigned to a general affairs of the Imperial Household. He was also established Mutoryu (school of swordmanship) in 1880. He died in 1887 and was burried in Zensho-An Temple which was founded by himself.




三遊亭円朝の案内板も立っています。

東京都指定旧跡 三遊亭円朝 墓

初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(1839年)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(1855年)十六歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数奇屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(1900年)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。

Historic Places Sanyutei Encho Haka (The Grave of Sanyutei Encho)

Sanyutei Encho (1839-1900) is a rakugoka (a comic story teller), and also had a popular name Izubuchi Jirokichi. He was born as the first son of Tachibanaya Entaro, a musician, at Yushima. He was apprenticed to the second Sanyutei Encho, and became Shin-uchi, the main performer, at 16 in 1855. He was good at telling ghost stories such as Botandoro. Zenshoan Temple keeps a number of drawings of ghosts which were collected by Encho.




弘田龍太郎は数々の童謡を作曲したことで知られています。

弘田龍太郎墓・曲碑

「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年、高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの童謡を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。昭和二十七年、文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に葬られた。享年六十歳。平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。

The Tomb of Hirota Ryutaro and the Monument to His Music

Born in 1892 in Kochi Prefecture, Hirota Ryutaro is known for several famous compositions, including Haru yo koi (Waiting for Spring) and Shikararete (Enfadas). Graduating from the Tokyo School of Music (currently Tokyo National University of Fine Arts and Music) in 1914, he was also a researcher and educator. Going to Germany for further scholarship in 1928, he returned to Japan in July of the following year to take an appointment as professor at his alma mater. However, he decided to retire from this position in September of the same year in order to devote himself to musical composition. Hirota Ryutaro has had a tremendous influence in the world of music with both his compositions and choral arrangements. He was very active and has been credited with over a thousand songs. His major works include; Kutsu ga naru (Shoes Squeak), Suzume no gakko (Sparrows' School), Ame (Rain), Koinobori, Oyama no osaru (Mountain Monkey), Hamachidori (Plover), Komoro naru kojo no hotori (Storolling Around an Old Castle), and Chikumagawa ryojo no uta. His music is still greatly cherished. He died in 1952 and was buried here at Zensho-an Temple. The memorial that sits beside the grave he shares with his wife was erected by his relatives in 1989 and displays the music and lyrics of Shikararete (Enfadas).




道路の反対側には天龍院があり、幕末の蘭方医の伊東玄朴の案内板が立っています。

伊東玄朴墓(都指定旧跡)

伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政十二年(1800年)、肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。文政十一年(1828年)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形一丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野三丁目)に転居し医療を施し、天保二年(1831年)には、佐賀藩医となった。同四年、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東一丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。玄朴は、嘉永二年(1849年)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政五年(1858年)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが簡方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は、翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(1860年)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳「医療正始」は、現在でも高く評価されている。なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。

Tomb of Ito Genboku (Metropolitan Historical Site)

Ito Genboku was a physician of Dutch medicine at the end of the Edo Period. He was born into an agricultural family from what is now Saga Prefecture in 1800. Wishing to become a doctor, he translated from the Dutch language and studied Western medicine under the German physician Philipp Franz von Siebold in Nagasaki. He began his practice in Edo (present day Tokyo) in 1828 and, in 1831, became an official physician of the Saga Domain. From 1833, he began to receive many students and visitors at his residence-cum-school known as the Shosen-do located on Shitaya Izumibashi Street. The central focus of his endeavors came to be the foundation of the first inoculation center in Edo. Built in 1858 in Kanda Otamagaike, it was relocated the following year in Ito's neighborhood on Shitaya Izumibashi Street. In 1860, the Bakufu government took over direct control of the center, renamed it the Seiyo Igaku sho (Institute of Western Medicine), and appointed Genboku in charge of its management. After the transition from Tokugawa rule to the Meiji State in 1868, the institute served as the predecessor of what is now the University of Tokyo School of Medical Science. In 1871 Ito Genboku died at the age of 72 and was buried here at Tenryu-in Temple. Further information can be found in the pested explanation at Ito's home and incculation center located at Taito 1-30.




16.三崎坂

三崎坂は長さが約180mほどの僅かに左に曲がりながら上る緩やかな坂で、別名を「首振坂」といいます。坂名の由来は、駒込・田端・田中の三つの高台にちなんで「三崎」という地名が起こり、坂名はこの地名に因んでいます。坂の途中に案内柱が立っています。

三崎坂

「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(1773年)の「江戸志」によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。




もう一枚旧町名の由来を記した案内板が立っています。

旧町名由来案内 旧谷中上三崎北町

本町名のもとになった「谷中三崎町」は、元禄年間(1688年〜1704年)のころすでに谷中村から分かれ町屋を形成していた。「三崎」のいわれは幾つかあるが駒込、田端、谷中の三つの高台が見えることから名付けられたとするのが通説である。明治五年(1872年)谷中三崎町の東側に谷中上三崎南町・北町の二町が新たに命名された。東側が地形的に谷中三崎町より高いことから上三崎の名が付けられ、南・北は位置関係からこうよばれたようだ。

    −日本画壇に尽くした画家―

長安寺に眠る狩野芳崖は江戸末期から明治時代に活躍した日本画家で、岡倉天心、橋本雅邦らと東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に力を尽くした。下村観山は狩野芳崖、橋本雅邦に師事し東京美術学校教授に就くとともに日本芸術院の発展に力を注いだ。安立寺に永眠。




本立寺の裏と谷中コミュニティセンターの間に狭い坂が下っています。



17.蛍坂

蛍坂は長さが約85mほどのやや急な狭い坂で、別名を「中坂・三年坂」といいます。坂名の由来は、江戸時代に坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だったことに因んでいます。坂下に案内柱が立っています。

蛍坂

江戸時代、坂下の宗林寺付近は螢沢と呼ぶ、螢の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。「御府内備考」は「宗林寺の辺も螢沢といえり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂という」と記している。中坂は螢坂の別名。 三崎坂と七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。




長安寺には谷中七福神の寿老人像が安置されています。谷中七福神巡りで何度も詣でましたね。

CHOANJI TEMPLE

??? Jurojin the God of Longevity. One of the shrines of the Yanaka Shichi-fukujin, The Seven Gods of Grad Fortune. The tomb of Hogai Kano, the Japanese artist is ???.




長安寺には、台東区の有形文化財に指定されている狩野芳崖のお墓や600年以上も前に建立された板碑4基もあります。

狩野芳崖墓(台東区史跡)

明治初期の日本画家で、文政十一年(1828年)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で没した。墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正六年造立)が建つ。平成五年、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。

TOMB OF KANO HOGAI (HISTORICAL SPOT IN TAITO CITY)

Kano Hogai was a Japanese-style painter in the early Meiji period. He was born in Choufu city, Yamaguchi prefecture in 1828. At the age of 19 he left for Edo to be apprenticed to Kano Masanobu and mastered painting techniques of Kano school. He was never bound however by the tradition of his school. He was also influenced by Sesshu and Sesson, famous painters of another school and also mastered shading techniques found in western painting. "Hibo Kannon Zu" (goddess merciful like a mother) and "Fudo Myo-o Zu" (god of fire), two of his representative works are designated as Important Cultural Assets. He contributed much together with Okakura Tenshin to establish the Tokyo Fine Art School (present-day fine art faculty of the Tokyo University of Arts) but passed away in November of 1888 at the age of 61 just before the school opened. His tomb is located near the center of the graveyard of this temple and a stone monument, which was erected in front of the main building in 1917 describes his brief history and achievements.

板碑(台東区有形文化財)

死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。

一、建治二年(1276年)四月 円内にキリーク種子を刻む
二、弘安八年(1285年)八月 上部にキリーク種子を刻む
三、正安二年(1300年)二月 「比丘尼妙阿」と刻む
四、応永三年(1396年)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む

長安寺の開基は、寛文九年(1669年)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。平成三年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

ITABI

Itabi, also called the stone board stupa or blue stone stupa, is originally a type erected for the repose of the souls of the deceased. Many were made between the Kamakura and Muromachi periods. In Choan-ji temple, there are three Itabi dating back to the Kamakura period and from the Muromachi period. As Choan-ji temple is said to have been established in 1669, the Itabimust be about 400 years older than the temple itself. It is said that here was a temple of the Shingon-sect before Choan-ji temple was erected, and therefore, it is considered that the Itabi must have had some connection with the original temple.




功徳林寺の境内には笠森稲荷堂があり、江戸三大美人と評されたお仙縁の稲荷として知られています。

江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂

笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が境内にあります。御自由に御参拝ください。

Story of Kasamori Inari

"Kasamori Inari" is one of the Inari shrines built in the Edo period. "Inari" is a Japanese god of rice, and usually attended by foxes as his messengers. This shrine is so famous because of a relation with "Kagi-ya" that it was chosen as a theme of "Temari-uta" (i.e. Japanese song sung while playing a traditional Japanese handball game). Kagi-ya was the name of "Cha-ya" (i.e. Japanese cafe in the Edo period). In this cafe, waitress "Osen" was working. Osen was one of the three beauties of Edo and a model in "Bijin-ga" (i.e. beautiful person picture). Hence many men went to Kagiya to see her after making a short visit to Kasamori Inari, which was located near Kagiya. As you can see, Kasamori Inari became famous because of Osen. This shrine is where people visit in order to make their wishes. When you have something to wish, come visit us.




谷中銀座に向かう筈が道を間違えて谷中霊園に来てしまいました。霊園の入口に「いろは茶屋」の案内板が立っています。池波正太郎の作品の舞台となった場所には、このような案内板が多く見られます。

池波正太郎作品の舞台 谷中・いろは茶屋

元禄十六年(1703年)よりこのあたりでは、茶屋町が誕生し栄えてきました。池波正太郎作品の舞台として、この茶屋町一帯が登場しています。「鬼平犯科帳」の「谷中・いろは茶屋」では火付盗賊改方の同心・木村忠吾がいろは茶屋にある菱屋のお松に夢中になり通いつめます。ある夜、忠吾は役宅を抜け出し菱屋に向かう途中、善光寺坂を登り一乗寺の横道にさしかかった時、偶然にも盗賊団と遭遇し、ひょんな事から手柄を立てることになります。ほかにも「狐雨」「白蝮」では、茶屋の近江屋に長谷川平蔵の長男・辰蔵が出入りし、同心・青木助五郎や男装の女賊・津山薫を見かけて平蔵に報告し、お役目に一役買います。「剣客商売」では主人公・秋山小兵衛の親友・内山文太が菱屋を訪れ、お直と失踪してしまう事件が起きます。この界隈は小説のみならず、のちにテレビドラマとして映像化された池波正太郎作品の舞台としても登場しています。




谷中霊園には多くの有名人が眠っています。高橋お傳も有名人のひとりです。

高橋お傳碑 (1850年〜1879年)

明治の毒婦と呼ばれ、仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなった。明治九年に東京浅草で古着商を殺害して捕えられ、その後市ケ谷監獄で斬首刑にされた。




谷中霊園には、かって五重塔が建っていました。塔の建築を請け負った大工の葛藤を描いた幸田露伴の小説「五重塔」は有名ですが、大工の魂を込めた塔も男女の不倫関係の清算を図るための放火焼身自殺によって灰燼に帰したということは皮肉なことです。

東京都指定史跡 天王寺五重塔跡

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。禄十二年(1699年)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(1833年)のことである。最初の五重塔は、寛永二十一年(正保元年・1644年)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・1772年)目黒行人坂の大火で消失した。罹災から十九年後の寛政三年(1791年)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四十八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(1908年)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三十二年七月六日放火により消失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石二十個、地覆石十二個総数四九個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。

Historic site Tennoji Goju-no-tou Ato

Tenno-ji of Yanaka was originally called Choyozan Kanhoji Soncho-in of the Nichiren sect. It is a temple of long tradition, which has its origin in Seki Kojiro Nagateru of Mt. Dokan. It was converted into a Tendai sect temple by the shogunate's order in 1699. It was in 1833 that the temple was renamed Gokokuzan Tennoji Temple, as is currently called. The first five-story tower was built in 1644, and lost almost 130 years later in 1772 by the Great Fire of Gyoninzaka at Meguro. Further 19 years after the disaster, in 1791, 48 artisans including Hatta Seibei, a master carpenter from Takashima District, Omi Province rebuilt the tower, which subsequently became known from Five Storied Pagoda by Koda Rohan. The tower was entirely made of Japanese zelkova materials and 34.18 m tall, which was the highest among the Buddhist towers in Kanto at that time. The structure was donated to Tokyo City in June 1908. It had escaped disasters caused by earthquakes or US attacks, and served as a landmark of Yanaka. The tower was finally burned down in an arson attack on July 6, 1957. The extant base stones, one in the center and four at the corners for the inner sanctuary, all in a shape of square with each side of 3 shaku or ca. 90.9 cm and the ones with each side of 2.7 shaku or ca. 81.81cm for 4 corner pillars of the main hall, as well as 20 wide rectangular stone struts of a veranda extending around all four sides and 12 horizontal base stones, 49 pieces of stone in total were all made of granite. A plan based on an actual measurement by Oshima Eishu is extent, thus the structure can be restored. A gold-copper glass majestic pagoda for Buddhist relics and a gold-copper container for Buddhist texts were found from the base stone in the center, while gold-copper container for Buddhist texts and others, from the four base stones at the corners for the inner sanctuary and the four base stones for 4 corner pillars of the main hall.




江戸時代には現在の谷中霊園は天王寺の境内でしたが、今は霊園の一部だけを占めています。ただ、明治時代には旧町名の由来ともなりました。

旧町名由来案内 旧谷中天王寺町

本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(1698年)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保四年(1833年)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(1891年)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。昭和四十二年(1967年)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。




谷中霊園から天王寺の脇を抜けてJR日暮里駅の南口に下る狭い石段があります。



18.紅葉坂

紅葉坂は長さが約20mほどの急な階段で、別名を「幸庵坂」といいます。坂名の由来は、江戸時代に坂道周辺の紅葉が美しかったことに因んでいます。現在は四方がコンクリートで固められ、紅葉の風情は全くありません。坂上の曲がり角に案内柱が立っています。

紅葉坂

坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。




今日のゴール地点の日暮里駅に着きました。



ということで、台東区で二番目の「上野公園・谷中コース」を歩き終えました。次は、今日歩ききれなかった上野桜木町と残りの谷中コースの坂道を巡りたいと思います。





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