台東区(上野桜木町・谷中コース)
踏破記
先日の上野公園・谷中コースに引き続き、今日は台東区最後の上野桜木町・谷中コースを歩きます。先日のゴール地点である日暮里駅南改札口からスタートします。
日暮里駅前の通りに出て右折した先に善性寺があります。善性寺は長享元年(1487年)に日嘉によって開山されました。その後廃寺状態になりましたが、天和二年(1682年)に甲府藩藩主の徳川綱重の側室お保良の方の老女日安尼(俗名:お虎)によって中興されました。お保良の方は綱重との間に男子を設け、この男子が第六代将軍徳川家宣です。お保良の方が没すると、遺言により善性寺に葬られました。また、家宣の弟の松平清武が善性寺に隠棲し、家宣が度々訪れていたことから「将軍家ゆかりの寺」となりました。山門前の石畳は旧音無川に架かっていた「将軍橋」遺構が使われています。墓地には、第55代内閣総理大臣の石橋湛山や、現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立した第三十五代横綱の双葉山定次のお墓があります。
将軍橋と芋坂(善性寺)
善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487年)の開創と伝える。寛文四年(1664年)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。宝永年間(1704年〜1711年)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819年)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋阪も 団子も月のゆかりかな 子規
Shogun-bashi Bridge at Zensho-ji Temple and Imo-zaka Slope
The Zensho-ji is a temple of Nichiren sect, reared in 1487 according to the written account. In 1664 it became associated with the Tokugawa shogun's family after the sixth shogun lenobu's birth mother Chosho-in was buried there. From around 1704 to around 1711, lenobu's younger brother Matsudaira Kiyotake lived there in retirement. lenobu visited there frequently, and the bridge over the Otonashi River, which flowed past the temple, became known as Shogun-bashi (Shogun Bridge). Opposite Zensho-ji Temple was Imo-zaka slope, which led to Yanaka. At the bottom of the slope stood the Fujinoki Tea House (now the Habutae Dango shop), said to have opened in 1819. A haiku poet Masaoka Shiki, a novelist Natsume Soseki and other literary giants of the Meiji period frequented the tea house.
Imo zaka mo dango mo tsuki no yukari ka na (Matsuoka Shiki)
善性寺の向かいには、「羽二重(はぶたえ)」の暖簾を掛けた団子屋さんがお店を構えています。羽二重団子は、文政二年(1819年)に元植木職人の沢野庄五郎が音無川の辺の芋坂の地に「藤の木茶屋」を開業し、往来の人々に団子を販売したことに始まります。きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが団子の名称の由来で、それがそのまま店名にもなりました。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類があり、通常は同数一組で販売されています。串団子ですが、粒の形が一般的な球形ではなく、厚みのある円盤状なのが特徴です。羽二重団子は多くの文人に愛され、泉鏡花の「松の葉」・司馬遼太郎の「坂の上の雲」・田山花袋の「東京近郊」・夏目漱石の「吾輩は猫である」・正岡子規の「道灌山」「仰臥漫録」など、数々の近代文学の作品に登場しています。「芋坂」と「芋阪」の二種類の表記がありますが、どちらが正しいのでしょうか?
団子の由来
芋坂も団子も
月のゆかりかな
子規
江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせせらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。文政二年、小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。この団子がきめ細かくて羽二重のようだと称され、そのまま菓名となっていつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を承け継いでおります。
羽二重団子のお店の脇の路地を進みますと、JR線の線路にぶつかります。左手に階段があり、JR線を跨いだ跨線歩道橋になっています。
歩道橋を渡った先から坂が上がっています。
- 19.芋坂
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芋坂は階段と跨線歩道橋とその先の坂を含めて長さが約150mほどあります。坂名の由来は、この付近で自然薯(山芋)が採れたことに因んでいます。坂下に案内柱が立っています。
芋坂
坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
谷中墓地には有名人のお墓が多くあります。渋沢栄一は江戸時代末期に農民から一橋家の家臣に取り立てられ、後に主君の徳川慶喜の将軍就任に伴って幕臣となりました。明治政府では官僚も務め、民部省を経て井上馨の下で吉田清成らと共に造幣・戸籍・出納など様々な政策立案を行いました。退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立や経営に関わりました。関係した企業は約500社にも及び、「日本資本主義の父」と称されています。お墓も広々として立派な造りですね。
渋沢栄一家墓所(台東区史跡)
渋沢栄一(1840年〜1931年)は、日本近代の実業家。天保十一年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に渋沢市郎右衛門、母えいの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄次郎、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗り、青淵と号した。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方で、父から学問の手解きを受け、その後従兄弟の尾高惇忠から四書五経、「日本外史」などを学んだ。安政五年(1858年)惇忠の妹千代と結婚。文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村に入門した。また千葉道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶなかで尊皇攘夷に傾倒し、やがて高崎城乗っ取りなどの倒幕計画をたてた。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止し、自身は勘当を受けた体裁を取って上京した。やがて一橋家家臣平岡円四郎からの推挙を受けると、一転して一橋慶喜に仕え家政改革に実力を発揮した。慶応二年(1866年)、慶喜の十五代将軍就任に従って栄一も幕臣となった。翌年、パリで開催された万国博覧会に将軍の名代として出席する民部公子(後の徳川昭武)の渡欧に随行し、欧州諸国では先進の思想、科学技術、社会情勢を見聞した。明治維新となって帰国すると、間もなく明治政府に招かれ、民部・大蔵省では財政政策に取り組んだ。明治六年(1873年)に大蔵省を辞すると、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の総監役(のちに頭取)に就任した。特に「論語」を通じた経営哲学「道徳経済合一説」の考えを基に、近代日本の資本主義的経営の確立と指導に邁進し、生涯に約500もの企業の設立・育成に関わり、「近代日本経済の父」とも称される。また、約600の社会事業や文化事業、民間外交にも積極的に参画しており、近代日本における功績は計り知れない。区内にもそうした活動の場があり、現在までその記憶が継承されているものも多い。本墓所の成り立ちは、区の歴史を考える上でも重要であることから、令和三年(2021年)三月に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。
Shibusawa Eiichi Family Grave (Taito City Historic Site)
Shibusawa Eiichi (1840-1931) was a modern Japanese industrialist. Born in 1840 in the village of Chiaraijima, Hanzawa District, Musashi Province (Fukaya City, Saitama), Eiichi was the eldest son of Shibusawa Ichirouemon (father) and Ei
(mother). Eiichi also went by the penname Seien ("deep blue pool"). While helping with several family businesses, including farming, producing and selling indigo balls, and raising silkworms, Eiichi received a rudimentary education from his father, He later studied the Four Books and Five Classics of Confucianism and the Nihon gaishi under the instruction of his cousin, Odaka Junchu. In 1858, he married Junchu's younger sister, Chiyo. In 1861, Eiichi left for Edo (Tokyo) and became a pupil of the Confucian scholar Kaiho Gyoson. He also joined the Chiba
Dojo, where he aligned himself with the sonno joi movement to "revere the emperor, expel the barbarians." He ultimately formulated a plan to overthrow the shogun government, but was persuaded by Junchu's younger brother, Choshichiro, to abandon the plan. Soon, on the recommendation of Hiraoka Enshiro, a retainer of the Hitotsubashi family, Eiichi switched sides and entered the service of Hitotsubashi Yoshinobu, demonstrating his abilities in reforming the domain's administrative and financial affairs. In 1866, Yoshinobu became the 15th Shogun, with Eiichi as his retainer. Eiichi accompanied Yoshinobu's younger brother, Minbu Koshi,
to Europe as the latter was to attend the Paris International Exposition as a representative of the Shogun. On his return to Japan after the Meiji Restoration, Eiichi was invited by the new government to work on financial policy at the Ministry of Popular Affairs and Ministry of Finance. In 1873, he took up the position of superintendent (later president) of the First National Bank of Japan. Based on the theory of "the union of morality and economy," a management philosophy from the Analects of Confucius, Eiichi played an active role in establishing and guiding modern Japanese management under capitalism. Having been involved in the founding and development of around 500 companies during his lifetime, he is known as "the father of modern Japanese economy." Moreover, he made an immeasurable contribution to modern Japan through his active participation in about 600 social and cultural enterprises, as well as private-sector diplomacy.
Some of these activities took place within Taito City, and many are still remembered today. Since the origins of this grave are significant in light of the history of Taito City, the Shibusawa Family Grave was registered as a Taito City Historic Site in the Book of Cultural Assets of Taito City in March 2021.
渋沢栄一の墓地の脇から塀に沿って短い坂が下っています。
坂下はJRの線路を跨ぐ跨線歩道橋に繋がっていて、その先は根岸に下りる階段になっています。
- 20.御隠殿坂
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御隠殿坂は長さが約60mほどあり、別名を「御院殿坂」といいます。坂名の由来は、上野の山から御隠殿への通路だったことに因んで名付けられました。御隠殿は寛永寺の住職の輪王寺宮法親王の別邸で、根岸側の線路近く(現在の跨線橋を下りたあたり)にあり、寛永時本坊で公務を執られていた宮が時折り息抜きに滞在された屋敷です。敷地は三千数百坪あり、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園もありました。庭園から眺める月が美しかったといわれています。慶応四年(1868年)の上野戦争によって焼失し、現在は全くその跡を留めていません。かつて御隠殿坂は踏切で線路を超えていましたが、昭和三年頃に跨線橋(御隠殿坂橋)が建設された際に谷中墓地から踏切までの急坂は消滅しました。跨線橋の手前で左に分岐する道路跡が残っていますが、これが踏切まで繋がっていたかっての御隠殿坂であったと考えられます。坂下の跨線歩道橋の手前に案内柱が立っています。
御隠殿坂
明治四十一年(1908年)刊「新撰東京名所図会」に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法新王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。
鶯谷の迷路のような路地を抜け、言問通りが通る寛永寺橋で再びJRの線路を渡ります。寛永寺橋を渡った先から上野桜木二丁目交差点付近まで坂が上がっています。
- 21.寛永寺坂
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寛永寺坂は長さが約200mほどの緩やかな坂で、坂名の由来は、坂上が寛永寺の境内だったことに因んでいます。JRの線路から上野の山(寛永寺側)にかけてはかなり高い崖となっています。案内柱に「昔は鉄道線路を踏切で越えていた」とありますが、この坂は大正十年頃に線路を踏切で超える道路として造られた時には切通しの急坂でした。昭和三年に跨線橋が架けられてからは傾斜が非常に緩くなりました。ちなみに、寛永寺橋の手前で京成線がJR線を高架で横断していますが、かつて坂上の上野桜木二丁目交差点付近には京成線の「寛永寺坂駅」がありました。昭和二十八年に廃駅となり、現在は遺構の一部が残されているだけです。坂下の寛永寺橋の袂に案内柱が立っています。
寛永寺坂
大正年間(1912年〜1925年)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(1928年)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。
上野桜木交差点の脇に、上野桜木町の旧町名由来案内板が立っています。
旧町名由来案内 旧上野桜木町
上野桜木町は、上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は、慶応四年(1868年)の彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(1624年〜1643年)に建てられた川越喜多院本堂を明治十二年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。本町ができた年代は明治七年から同十一年二月の間と推察する。そして町名のいわれは、この付近に桜の木が多くあったことに由来する。
「台東区立下町風俗資料館付設展示場」
谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることのなかった数少ない地域である。このため寺院をはじめ古い建物が比較的多く残っている。この付設展示場は江戸商家の建築様式をもつ酒屋で大変貴重な建築物であることから、昭和六十二年に保存のため現在地へ移築された。
その酒屋の店名は「吉田屋酒店」です。吉田類さんの実家です。。。ということはありません。上野桜木交差点に面して旧家屋が保存・展示されています。
旧吉田屋酒店
かつて谷中六丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和六十二年移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には、一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。棟札によれば、明治四十三年(1910年)に新築して、昭和十年(1935年)に一部改築したもの。正面は一・二階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。一階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治四十三年の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。
Old Yoshida sake store
Yoshida store was a sake store since Edo period. It was donated to Taito city, then was reconstructed and restored in order to hand down the form of the liquor store of the early in the 20th century to future generations. It was originally built in 1910, partly reconstructed in 1935. Its long eaves and wide entrance are characteristics of such merchant building, and the first floor was a counter and an office, the second floor was an employee's room. The warehouse was restored only on the outside based on a picture in 1910 and a Japanese-style room behind a
counter was added for reinforcement of the building.
先日道を間違えて辿り着けなかった谷中銀座に向かいます。谷中町の旧町名由来案内板が立っています。
旧町名由来案内 旧谷中町
元禄年間(1688年〜1703年)町屋の区域が武蔵國豊島郡谷中村より独立して、谷中町として起立した。谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)本郷台の谷間に位置していることにちなみ、下谷に対してつけられたといわれている。本町の江戸時代の町屋は、言問通り面(八軒町)と天王寺へ行く通りの面(惣持院門前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺(だいおうじ)をはじめとする寺地が合併されて町域が定まった。大雄寺には、勝海舟、山岡鉄舟とともに「維新の三舟」といわれた高橋泥舟が「大くすの木」の下に眠っている。この大くすの木は、東京都の保存樹木に指定されている。
大雄寺の本堂の手前に楠の巨樹が聳えています。幹の下の方が大きく膨らんでいるのが特徴です。幹の上の方は枝が四方に伸びていて、よく茂っています。楠は防虫剤の樟脳の原料となる木で、葉を手で揉むと強い匂いがします。この巨樹の手前には幕末の三舟の一人である高橋泥舟の墓があります。
高橋泥舟墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保六年(1835年)二月十七日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、二十一歳で幕府講武所教授、二十五歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。佐幕、倒幕で騒然としていた文久二年(1862年)十二月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌三年二月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年十二月師範役に復職し、慶応三年(1867年)遊撃隊頭取となる。翌四年一月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治三十六年二月十三日没。勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。
The tomb of Takahashi Deishu
Takahashi Deishu was a master of spearmanship and a subject of the government in the last days of the Tokugawa shogunate; also he was a brother-in-law of Yamaoka Tesshu. He was born as a second son of the Yamaokas, and then was adopted into the Takahashi family. His original name was Masaaki but he was usually called Kenzaburo. He was admired as an expert of the spearmanship and became an instructor of the Military Art School of the government at the age of 21, then became a master at the age of 25. In 1862 when the supporters of the shogunate and anti shogunate stood in opposition, the government levied masterless samurais in Edo and sent them to Kyoto in 1863. Although he became a leader of the group, later had to quit his post because members of the group cooperated with the supporters of the Emperor. However he was soon reinstated and became the leader of a guerilla unit. After the battle of Toba-Fushimi, Deishu persuated the Tokugawa
family to obey the Emperor. When Yoshinobu, the fifteenth Tokugawa shogun
swore allegiance to the Emperor and moved to the Kaneiji Temple, then moved
to Mito, he headed a guerilla unit and guarded the shogun Yoshinobu. After
the establishment of prefectures in place of feudal domains, he is said to have
spent rest of his life enjoying calligraphy in seclusion and he died in February
13th in 1903. He is called "Three shu at the end of the Tokugawa government'
together with Yamaoka Tesshu and Katsu Kaishu.
谷中霊園の入口の手前に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれています。
谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。寛永年間(1624年〜1643年)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。そして、慶安年間(1648年〜1651年)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657年)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。幕末の慶応四年(1868年)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。谷中霊園は、明治五年(1872年)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治七年(1874年)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約10万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
谷中にもいろいろな町がありました。谷中初音町二丁目の旧町名由来案内板が立っています。初音とは優雅な名前ですね。
旧町名由来案内 旧谷中初音町二丁目
初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鴬谷と呼ばれるところがあったことから、鴬の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869年)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年のことである。谷中初音町二丁目は、元禄十七年(1704年)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。
観音寺は赤穂浪士ゆかりの寺として知られています。
赤穂浪士ゆかりの寺
赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716年)観音寺と改称した。本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永四年(1707年)三月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。
Temple noted in connection with the 47 akoroshis
47 akoroshis are widely known in Japan through the story "Chushingura which describes 47 samurais of Ako (present Hyogo prefecture) who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yoshinaka. Two of 47 Akoroshis, Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka, were brothers of Bunryo who was studying at this temple. Bunryo later became the 6th head bonze of this temple and was named the Great Bonze Chozan. Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshis and it is said that they held many meetings at this temple. The book called "Genroku kaikyoroku" written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left his last words "Please tell Bunryo in the Chofukuji Temple that I am willing to give my life to avenge the death of my master today". This temple was originally called the Chofukuji Temple and was renamed the Kannonji Temple in 1716. The pagoda to the right of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today. On the upper part of the pagoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north, the south, the east and the west. On the lower part, Hokyoindaranikyo (a sutra) and on March in 1707, the name of the 6th Head Bonze of this temple Chozan was engraved.
朝倉彫塑館は、明治期から昭和期にかけて彫刻家・彫塑家であった朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館です。鉄筋コンクリート作りの旧アトリエ部分と、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部分からなり、その和洋折衷の特異な建築は朝倉文夫本人が自ら設計し、その意向が強く生かされています。
朝倉彫塑館(国名勝・国登録有形文化財)
近代日本を代表する彫塑家、朝倉文夫(1883年〜1964年)の邸宅兼アトリエである。朝倉は明治十六年大分県で生まれ、同四十年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和十年の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫塑家朝倉の個性を見ることができる。中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された五つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうかがえる。屋上庭園は、かつて、朝倉が昭和二年に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜(そさい:野菜の総称の総称)を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園の事例としても貴重である。昭和四十二年、故人の遺志によって一般公開され、同六十一年には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。平成十三年、建物が国登録有形文化財に、本館所蔵の文夫の代表作「墓守」の石膏原型が重要文化財指定を受けた。同十九年には、建物と庭一帯が国名勝の指定を受けた
Asakura Chouso Museum : Asakura's mansion devoted sculpture and modeling
(National cultural tangible asset and national scenic beauty site)
This was the former residence and studio of Fumio Asakura (1883-1964), who was a great master of sculpture and modeling. Almost all the buildings were built in 1935. All of the buildings and gardens were his own design, and he personally selected all the materials, for example, the decorative wood and bamboo.
You can truly appreciate the aesthetic unity of the structures and gardens, as reflected in Asakura's deep understanding and unique use of space. The quadrangle is a Japanese-style garden surrounded by a Japanese-style wooden residence and European-style studio. Almost all the empty spaces of the quadrangle are filled with water. Several natural rocks are arranged in the water to create a rich
landscape - an impressive result of Asakura's unique sense and understanding of nature, which inspired guided his artistic creations.
In 2001, the buildings were declared a national cultural tangible asset and the plaster prototype of his masterpiece "The Gravekeeper",became an important cultural property. In 2007 the whole of the building complex and gardens were designated as a place of natural scenic beauty.
谷中銀座にやってきました。谷中銀座といえば「夕やけだんだん」ですね。夕方この階段に座って谷中銀座の方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募によって選ばれました。谷中銀座には食べ物屋さんや小物屋さんなどの小さいお店が60軒以上あり、車の乗り入れが禁止されていますので、のんびりと散策ができます。
「夕やけだんだん」の階段上の左手に坂が下っています。
- 22.七面坂
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七面坂は長さが約110mほどのやや急な”く”の字型に曲がった坂で、坂名の由来は、坂上の北側にある宝珠山延命院の七面堂に因んでいます。坂の中ほどに案内柱が立っています。
七面坂
宝暦年間の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三−10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三−10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。坂は「御府内備考」の文政九年(1826年)の書上によれば、幅二間(約3.6メートル)ほど、長さ五十間(約90メートル)高さ二丈(約6メートル)ほどあった。なお宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
SHICHIMEN SLOPE
In a book called Saiko Edo Sunago written in the mid 19th Century, it is written that the slope leading down from the Sorin-ji temple to a place called Shichimen, was called the Shichimen Slope. Toward the north of the top of the slope, there
is the Enmeiin temple which has a small shrine called Shichimen-do in its precincts. So this place was called Shichimen and the slope took its name
from the temple. Records in 1826 show that this slope was about 3.6 meters wide, 90 meters long and 6 meters in height.
七面阪は台東区と荒川区の境界になっています。ということで、台東区の案内板に向かい合って荒川区の案内板も立っています。
あらかわの史跡・文化財 七面坂
御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。
Shichimen-zaka SLOPE
Shichimen-zaka extends from the top of Goten-zaka slope, via the back of Chomyo-ji Temple cemetery in Taito City, to the front of Sorin-ji Temple (Hagi-dera). The name derives from the Shichimen-do Hall, enshrined guardian deity Shichimen
Myojin, at Enmei-in Temple on the north side of the street at the top of the hill.
「夕やけだんだん」から台東区最後の坂に向かいます。諏訪台通りとの交差点角に経王寺があります。経王寺は明暦元年(1655年)に創建された日蓮宗の寺院で、境内の大黒堂には日蓮上人作といわれる大黒天が祀られていて、旧谷中七福神のひとつとなっています。慶応四年(1868年)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたために新政府の攻撃を受け、天保七年(1836年)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残っています。
あらかわの史跡・文化財 大黒天経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655年)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応四年(1868年)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
Daikokuten Kyoo-ji Temple
Kyoo-ji is a Nichiren Buddhist temple. It is said that Kammuri Katsuhei, a local wealthy farmer, leader of Nippori Village, and ancestor of the Kammuri Gonshiro family, donated land in 1655 for the priest Yosen'in Nikkei, and upon which the temple was built. A statue of Daikokuten (Mahakaala, one of the Seven Lucky Gods), is enshrined in Daikokudo Hall, located next to the main hall. Said to be the work of Nichiren, the statue has been venerated by the local people as a guardian deity. The main gate is a designated tangible cultural property of Arakawa
City. In 1868, the fleeing Shogitai troops took refuge at the temple until they
came under fire from the Imperial Army at the Battle of Ueno. To this day,
bullet holes in the gate remain as a result of the conflict.
経王寺の隣には本行寺があります。本行寺は月見寺とも称されています。
あらかわの史跡・文化財 月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(1526年)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709年)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750年)建碑の道灌丘碑のみ残る。
Tsukimi-dera (Hongyo-ji Temple)
Hongyo-ji Temple was reared in the early 16th century near the Hirakawa-guchi Gate within the Edo Castle. It moved to Kanda then to Yanaka in the 17th century and finally to the current location in 1709. It was famous for its fine views; it was commonly called Tsukimi dera (Moon-viewing Temple). Nikkan (pen name Ippyo), the 20th chief priest of the temple, kept company with many haiku poets. Kobayashi Issa composed 'Aoi ta no tsuyu wo sakana ya hitorizake', one of his haikus based on his frequenting the temple. It is said that there once was an observation post (Monomi-zuka) set up by the military commander Ota Dokan (who built the original Edo Castle), and now commemorated by a stele erected in 1750. There are also
graves in the precinct such as Ichikawa Kansai, a Confucianist, Beian (Father
and son), calligraphers and Nagai Naoyuki s statesman active during the late shogunate and the Meiji Restoration.
本行寺の前に、日暮里駅に向かって坂が下っています。
- 23.御殿坂
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御殿坂は長さが約180mほどの僅かに左に曲がりながら緩やかに下る坂で、別名を「乞食坂」といいます。坂名の由来は、「御隠殿」と呼ばれた輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれたことに因んでいます。坂下付近に案内柱が立っています。
御殿坂
文政十二年(1829年)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志料」には、長さ十五間(約27.3メートル)幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは50メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。
御殿坂は台東区と荒川区の境界になっています。ということで、本行寺の石垣の上に荒川区の案内板も立っています。
あらかわの史跡・文化財 御殿坂
西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保九年(1838年)刊の「妙めを奇談」は、寛永(1624年〜1644年)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
Goten-zaka Slope
The name of the slope 'Goten-zaka' appeared in the Edo period map was said to be
derived from the 17th century shogunal villa (Goten) located in the area around, according to "Myomyo Kidan" which was published in the early 19th century. The slope ran on the foot of Tenno-ji Temple (Yanaka Cemetery of today) as far as the bottom of Imo-zaka slope.
ゴール地点の日暮里駅に着きました。
ということで、台東区で最後の「上野桜木町・谷中コース」を歩き終えました。上野・谷中地区の高台と浅草地区の低地との高低差が実感できました。名所・旧跡も盛りだくさんで、随分と道草を食いました。次は坂だらけの北区を巡りたいと思います。
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