北区(中里・田端コース)
踏破記
台東区の次はどの区にしようかと考えたのですが、赤羽を散策した際に急峻な崖地を多く見かけたことを思い出し、そんなら坂も多いだろうと思って北区を選びました。
北区は昭和二十二年(1947年)3月15日に、旧王子区と旧滝野川区の合併により誕生しました。新区の名称については多数の候補が挙げられましたが、読みが難解であるという理由で簡潔かつ平易な方角地名の「北区」になりました。北区は区名の通り、東京23区で最北部にあります。南北に細長い形状で、面積は20平方キロメートル超と東京23区の中では11番目の広さです。北は荒川および荒川放水路を隔てて埼玉県川口市と戸田市に、東は荒川区と隅田川を隔てて足立区に、西は板橋区に、南は文京区と豊島区に接しています。接してはいませんが、千駄木の近くでは北区南端と台東区北西端は僅か100m程しか離れていません。北区の地形は、京浜東北線を境に南西側は武蔵野台地の北東端にあたり、北東側は荒川の沖積平野となっています。京浜東北線に沿って北上しますと、必然的に多くの坂に出会えることになります。
今回は北区の坂道を六つの区域に分け、南側から北側に向かって京浜東北線に沿いながら各地区を順に巡っていきたいと思います。最初は中里・田端コースです。豊島区の駒込駅からスタートします。
駒込駅東口から山手線に沿って田端方向に進みますと、左手に円勝寺があります。円勝寺の墓所には、茶道伊佐家のお墓があります。
伊佐家の墓
円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化五年(1808年)十一月銘の初代と二代の和歌及び俳句が刻まれています。
出る日も入る日も遠き霊鷲山
またゝくひまに入相のかね 初代 半寸庵知當
後世のたひおもむきたまふ秋の夜の
わかれそむかし今のおもひて 二世半寸庵知義
極楽や ふゆこもりする 阿弥陀堂 二世半寸庵吟冽
伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、代々幸琢を名乗り、数寄屋頭を勤めました。初代(1684年〜1754年)は半々庵と号し、怡渓宗悦に石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となりました。二代(1706年〜1795年)は半提庵、三代(?〜1808年)は半寸庵と号しました。数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にありました。職務は数寄屋坊主を指揮して、御三家や大名などの茶事を取り扱うことです。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していたので、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧(治郷・1751年〜1818年)などが輩出しました。
円勝寺の参道の入口横に踏切があります。「第二中里踏切」は、2005年以降、山手線に唯一残されている踏切として鉄道マニアに有名です。東京の大動脈である山手線の踏切として、ピーク時の1時間あたりの遮断時間は40分を超え、“開かずの踏切”として知られています。2029年には踏切から200mほど離れた場所にJR線の線路を跨ぐ跨線橋が造られることになり、第二中里踏切はその時点で廃止されることになっています。
踏切の横から駒込学生会館付近まで線路に沿って坂が上がっています。
- 1.庄内坂
-
庄内坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂上には、明治二十九年(1896年)に「荘内館」という庄内出身の学生のための寮が建てられました。その後、運営母体が「やまがた育英会」に組織替えされて建物も新たに建て替えられ、「駒込学生会館」となりました。寮名の「庄内(荘内)」の名前が消えてしまったことを惜しむ関係者が会館前の坂に荘内坂と命名して標識を建立しました。
標識に書かれた「忠久」は旧庄内藩主の十八代当主である酒井忠久氏で、標識の文字を揮毫したのも酒井氏です。
電車の合間を縫って第二中里踏切を渡ります。踏切が開いても直ぐに電車接近の警報音が鳴るので、小走りになります。代々木踏切転倒事件を思い出します。二番目の坂に向かう途中に斬新なデザインの中学校があります。マンションかと見間違うような建物で、区立の中学校としては異例の8階建てなのです。旧田端中学校と旧新町中学校を統合して新田端中学校が発足しましたが、校舎の老朽化によって新校舎の建設が計画されました。しかし、敷地が十分に確保できず、同時期に近隣の小学校が統廃合されて生じた旧滝野川第七小学校の跡地を利用して新田端中学校の校舎を建てることとなりました。新田端中学校の生徒数は300人足らずとはいえ、元々広くはない小学校の跡地に中学校をつくるのは容易ではありませんでした。できるだけ広いグラウンドと小学校以上の広さの体育館のスペースを確保するために、校舎を8階建てにし、プールを校舎の8階に設けるという公立の中学校では殆ど前例のない建物となりました。
田端中学校の先に大龍寺があります。大龍寺には近代日本を代表する俳人の正岡子規のお墓があります。子規は、生前に「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされていて、没後に大龍寺に葬られました。これに因んで、大龍寺は「子規寺」とも呼ばれています。
大龍寺
この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596年〜1615年)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781年〜1789年)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。
大龍寺の隣には上田端八幡神社が鎮座しています。上田端八幡神社は、源頼朝が奥州征討の帰りに此の地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請して文治五年(1189年)に創建されました。隣の大龍寺が旧別当寺であったことで、本殿は大龍寺の本寺の霊雲寺にあった八幡宮を移設したものといわれています。
村の鎮守の八幡神社
現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡神社は上田端の鎮守で大龍寺が別当寺を勤め、もう一つの八幡神社は、東覚寺が別当寺となっていました。祭神は品陀別命(応神天皇)で、境内には稲荷神社・大山祇神社および白鬚神社がまつられています。このうち白鬚神社は、現在の田端中学校の敷地付近にあった神社で、少し離れた畑の中には、争いの杉と呼ばれる大木がありました。木の高さは二丈五尺(約8.3m)余、幹の太さは九尺(約3m)位、遠くから望むと松の木にも見えたといわれます。そこで、奥州平泉の高館に源義経を討伐に向かう途中の畠山重忠が、これを見て家来と松の木か杉の木か争ったという伝承から争いの杉という名称で呼ばれるようになったといわれています。また、この杉は田端の三角(三岳)屋敷という場所にあり、太田道灌の争いの杉であるとの室町時代の伝承を述べる記録もあります。このように境内の白鬚神社は、鎌倉から室町時代に関する伝承を伝えており、この伝承は村の鎮守の八幡神社と共に、北区の中世社会を考える上で重要な資料といえます。
上田端八幡神社の南東側に沿って、八幡坂通りが上り坂になっています。
- 2.八幡坂
-
八幡坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂下にある上田端八幡神社に因んで名付けられました。坂下付近に案内板が立っています。田端文士村とは、明治時代末期から昭和初期頃までの間、北豊島郡滝野川町字田端(現在の北区田端)近辺に多くの文士や芸術家達が集まり、いわゆる文士村を形成していた地域の呼称です。
田端文士村 八幡坂
坂の名は、坂下にある八幡神社に由来します。八幡神社と大龍寺の境あたりの道をはさんだ反対側にあった紅葉館に小説家の堀辰雄が下宿していたほか、この坂の近くには、小説家の菊池寛、詩人の室生犀星、画家の倉田白羊、彫刻家である吉田三郎や池田勇八が住んでいました。芥川龍之介は、その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家」と書いています。
八幡坂から少し東側にある田端保育園の前から、赤い絨毯を敷いたような坂が下っています。
- 3.ポプラ坂
-
ポプラ坂は長さが約65mほどのやや急な坂です。坂名は、明治末期に此の地にあった「ポプラ倶楽部」というテニスコートに因んでいます。坂上の田端保育園前に案内板が立っています。
田端文士村 ポプラ坂
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治四十一年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいました。大正二年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1カ月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。
次の坂はポプラ坂下の先で突き当たる赤紙仁王通りの先から北上しているのですが、間違えて谷田川通りに出てしまいました。「東京の河川を歩く」でも通った道です。とある建物の前に案内板が立っています。
田端文士村 谷田川通り
谷田川通りは谷田川が暗渠となってできた通りです。谷田川は西ヶ原四丁目から流れていたものと推定され不忍池に注いでいた川で、藍染川とも呼ばれていました。この川に沿って、詩人の萩原朔太郎、画家の小杉放庵(未醒)、美術史家の岡倉天心、評論家の小林秀雄、詩人の室生犀星、文学者の平田禿木、歌人の林古溪が住んでいました。谷田川交差点のところに谷田橋が架かっていましたが、現在は田端八幡神社の鳥居の手前に埋められています。
谷田川通りの案内板の隣に、「小杉放庵旧居跡」の案内板が並んで置かれています。
田端文士村の散歩道A 小杉放庵旧居跡地
小杉放庵(画家・歌人 明治十四年〜昭和三十九年)は明治三十三年、<田端文士芸術家>第1号として田端163番地(現・3−4)に転入しました。明治四十年、当地155番地(現・3−16)に2階建ての家を築き、昭和二十年まで居住しました。その間、放庵は美術文芸雑誌「方寸」の同人として漫画や挿絵といった小品から、太平洋画会や日本美術院展へ出品した大作までさまざまな絵を描き、さらには春陽会の創立などの業績も残しています。私生活では、テニスを中心とした社交場「ポプラ倶楽部」の創設をはじめ、田端人たちの交流会「道閑会」にも参加し、芥川龍之介ら文士たちとも幅広く交流しています。画業の他にも随筆集や歌集を刊行するなど、多岐にわたる創作活動を行いました。主な作品は、「水郷」(明治四十四年東京国立近代美術館蔵)、「湧泉」「採果」(大正十四年 東京大学安田講堂壁画)などがあります。
田端に住みて三十余年なり
世にまさば百にあまらむわが父の
手植の椿つらつらに見る 「歌集 石」
若者とテニスしかへるわが命
百まで活くる心しかへる 「放庵歌集」
赤紙仁王通りは谷田川通りのひとつ北側に通っています。そこから坂が北上しています。
- 4.石坂
-
石坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしていません。坂はふたつの区間に分かれ、最初の区間は赤紙仁王通りから東覚寺に繋がる広い道路までです。
坂は坂上でクランク状に曲がって広い道路を横断し、田端小学校の脇まで上がっています。
赤紙仁王で知られる東覚寺にやってきました。東覚寺は、延徳三年(1491年)、神田で創建し、その後根岸を経て江戸時代初めに現在の地に移りました。山門の石造金剛力士立像は、病を患った部分に赤い紙を貼るという赤紙仁王として有名です。江戸・東京で最古の七福神巡りと言われる「谷中七福神」の福禄寿を祀っています。
東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
参詣客が赤色の紙を貼るため’赤紙仁王’の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永十八年(1641年)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成二十年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成二十一年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
護摩堂の前に2体の金剛力士立像が仁王立ちなさっています。頭のてっぺんから足元まで赤紙で埋め尽くされていますが、そんなに全身悪いところがあるもんですかね?
赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦1641年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
東覚寺に隣接して田端八幡神社があります。田端八幡神社は、源頼朝が奥州征討の帰りに此の地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請して文治五年(1189年)に創建されました。隣の東覚寺が旧別当寺でした。この由緒は、上田端八幡神社のものと同じであり、両神社は元はひとつの神社であったと推測されます。境内には、地元の富士講「田端冨士三峰講」が祀る富士塚があります。
田端八幡神社
この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治五年(1189年)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867年)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成四年(1992年)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年五月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年二月二十日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。
田端八幡神社の本殿に向かって、鳥居の奥に急な石段が上がっています。
- 5.田端八幡男坂
-
田端八幡男坂は長さが約25mほどの急な階段です。田端八幡神社の本殿に向かって脇の緩やかな石段を女坂と呼ぶのに対し、正面の急な石段は男坂と呼ばれます。
田端八幡男坂の石段上の左手に、踊り場の付いた緩やかな石段が下りています。
- 6.田端八幡女坂
-
田端八幡女坂は長さが約20mほどの比較的緩やかな石段です。田端八幡神社の本殿に向かって正面の急な石段を男坂と呼ぶのに対し、脇の緩やかな石段は女坂と呼ばれます。
田端八幡女坂の中ほどに緑色の鳥居が建っていて、その奥に溶岩を積み上げたような富士塚があります。「田端山元講(田端冨士三峯講とも呼ばれる)」によって造られ、「田端富士」と呼ばれているそうです。富士塚は富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚のことです。江戸時代には「お富士さん」などと呼ばれ、現代では「ミニチュア富士(ミニ富士)」などとも呼ばれています。富岳信仰に関連した「講」である富士講によって造られることが多いようです。
田端駅前通りに出ます。この道路は広くて僅かに上り坂になっているのですが、上田端バス停の手前から田端駅前通りの西側の切通しに沿って台地へ上る細い坂があります。
- 7.東覚寺坂
-
東覚寺坂は長さが約100mほどのやや急な坂です。坂名は、かって東覚寺墓地へ向かう参道だったことに因んでいます。坂下の田端駅前通りからの分岐点付近に金属製の標識が建っています。標識は表面が道幅の広い田端駅前通りに向って建っていますので、田端駅前通りの坂が東覚寺坂のように見えますが、東覚寺坂は田端駅前通りから分岐する細い坂の方です。新宿区の弁天坂の標識も大久保通り上の歩道にあって間違えましたが、今回は事前に情報を得ていたので大丈夫でした。
標識には坂名の由来が記されています。
東覚寺坂
田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で「東京府村誌」に「長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。寺の前には,二基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の一つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。
東覚寺坂の坂上から歩道橋を渡って高台の路地に入ります。住宅地内の複雑で狭い道を入った右手に坂が下っています。その先に緩やかな階段が左にカーブしながら続いています。
- 8.上の坂
-
上の坂(かみのさか)は長さが約15mほどのやや急な階段です。坂名の由来は不明ですが、坂の周辺には芥川龍之介を始め多くの芸術家が住んでいました。坂上付近に案内板が立っています。
上の坂
坂名の由来は不詳です。この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。芥川龍之介は大正三年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。芥川龍之介は、その住居を和歌に詠んでいます。
わが庭は 枯山吹きの 青枝の
むら立つなべに 時雨ふるなり
与楽寺の創建年代は不明ですが、弘法大師(空海)によって開創されたといわれています。本尊は地蔵菩薩で、弘法大師の作と伝えられています。この地蔵菩薩は別称として賊除地蔵といわれ、これには次のような伝説があります。
ある時代の夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れて盗賊と対決し、遂には盗賊を追い出してしまいました。どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていましたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見され、それから人々はこの地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったということです。
賊除地蔵の伝承地
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二十石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。仏教では、釈迦が入滅してから五十六億七千万年後に弥勒が現れるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
与楽寺の南裏から塀に沿って東の崖地を左右に曲がりながら坂が上っています。
- 9.幽霊坂
-
幽霊坂は長さが約70mほどで、両側を崖に挟まれた切通し風のかなり急な坂です。南側は坂より高くなっていて、古い蔦や苔の張りついた石垣になっています。北側の塀の内は与楽寺の墓地になっています。かっては墓地や樹叢(じゅそう:、自生した樹木が密生している林地)の間を通る脇道で、日が暮れると幽霊が現れていたことが坂名の由来になっているのかもしれません。
与楽寺の先から田端駅に向かって坂が上がっています。
- 10.与楽寺坂
-
与楽寺坂は長さが約130mほどの左右に曲がりながら上る緩やかな坂です。坂名は、坂下にある与楽寺に由来しています。坂下付近に案内板が立っています。
与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。「東京府村誌」に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほ(通)ると秋の匂がする」と書いています。
今日のゴール地点の田端駅北口に着きました。家に帰ってから地図を見直してみましたら、与楽寺坂の坂上から直ぐのところに不動坂があり、その坂下は田端駅の南口に直結しているのが分かりました。次の坂は田端駅前通りを渡った先の北西側にありますので、効率の悪いルートになってしまいました。事前準備が足りませんでしたね。
ということで、北区で最初の「中里・田端コース」を歩き終えました。次は、上中里・西ヶ原・滝野川の坂道を巡りたいと思います。
戻る