北区(上中里・西ヶ原・滝野川コース)


踏破記


今日は前回の中里・田端コースに続いて、北区で二番目となる上中里・西ヶ原・滝野川コースを巡ります。先日のゴール地点である田端駅北口ではなく、南口からスタートします。田端駅北口は駅前通りに面していて賑やかなのですが、南口は崖下にあって狭い坂道と急な階段しかなく、利用客は少ないようです。



南口から数メートルのところから葬儀社の脇を階段が上っています。



11.不動坂

不動坂は長さが約30mほどのやや急な階段です。坂名の由来は、かって田端駅南口付近に石造不動明王立像があったことに因んでいます。不動明王像は鉄道線路の敷設や田端駅の開業に伴って江戸坂下(谷田川南岸の地)へ移され、明治四十四年の谷田川改修・田端操車場の大改修の際に再び移されて、現在は西南西に600mほど離れた場所に「田端不動尊」として祀られています。坂上に案内柱が立っています。

不動坂

田端駅南口から西南へ登る坂です。坂名は、かつて田端駅南口付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによります。この不動明王像は、明治四十五年(1912年)五月に始まった田端駅拡張工事により現在地付近へ移され、さらに谷田川改修工事にともない、昭和十年(1935年)十一月に現在地(田端三丁目−14−1隣接地)へ移され、田端不動尊となっています。




田端駅前通りを渡った先に、円柱型の外観が特徴的な田端文士村記念館があります。田端文士村記念館には、明治中期から昭和初期に田端文士村に住んだ文士や芸術家たちの作品などが展示されています。その脇を回り込むように坂が上がっています。



12.江戸坂

江戸坂は長さが約130mほどの左方向に緩やかに曲がった坂です。坂名は、田端の台地から下谷浅草方面へ出る道だったことに因んで名付けられました。坂の中ほどの曲がり角付近に案内板が立っています。

江戸坂

田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。この坂の近くに、詩人の室生犀星、俳人の瀧井孝作、画家の池田輝方・池田蕉園夫妻、画家の岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。坂上の左手に露月亭という茶屋があり、陶芸家である板谷波山が三十五歳の頃、そこで、飛鳥山焼と銘を入れた徳利と猪口を売ったことがあったということです。




江戸坂上から田端高台通りを進み、女子聖学院高校の先で右折して住宅地の路地に入ります。崖下にJR線が通っています。



13.モチ坂

モチ坂はかって存在しましたが、現在は消滅した坂です。坂名は、坂上にモチの木があったことに因んで名付けられました。上中里一丁目と中里三丁目の境界付近のフェンス際に案内柱が立っています。

モチ坂

ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治十年代の「東京府誌・村誌」にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。




跨線橋の手前から瀧野川女子学園の東側に坂が上がっています。



14.車坂

車坂は長さが約60mほどの右方向に曲がりながら上るかなり急な坂です。坂名は、車が通れる新しい坂ということに因んで名付けられました。この辺りはJR線によって削りとられた崖地の上に位置し、かっては崖下の水田や尾久方面へ通じるモチ坂や蝉坂がありました。鉄道の敷設に伴って坂道は削り取られ、現在は「車坂跨線橋」がモチ坂と蝉坂の代替路となりました。車坂跨線橋に出やすくするために、瀧野川女子学園脇を通っていた細い坂を車が通れるように拡張したのが車坂です。案内板はありませんが、跨線橋の名称に坂名が残っています。



上中里駅前から平塚神社の東端に沿って坂が上っています。



15.蝉坂

蝉坂は長さが約280mほどの左方向に曲がりながら上る緩やかな坂です。別名を「攻坂・宮坂」といいます。坂名は、「攻坂(せめざか)」と呼ばれたものが江戸時代に訛って「蝉坂」になったといわれています。平塚神社は平塚城の二の丸跡とされ、城で禁句の「攻」を忌んで坂名を変えたという説もあります。坂下に案内柱が立っています。

蝉坂

六阿弥陀道の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌「新編武蔵風土記」上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登り三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約五十四mから七十二m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の「東京府志料」では「或云攻坂の転訛ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和十八年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です。




せっかくなので、平塚神社に立寄ってみます。本郷通りに面した神社の入口の脇に案内板が立っています。

平塚城伝承地 平塚神社

平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478年)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二百五十石の知行地を与え、この内の五十石を朱印地として平塚明神に寄進させました。




長い参道の奥に本殿があります。平塚神社の御祭神は八幡太郎こと源義家です。

源氏の棟梁 源義家を祀る
平塚神社(旧平塚明神社)

御祭神

八幡太郎 源義家命
平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(安倍貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征された。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。

略縁起

平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れた。




平塚神社の先に、旧古河庭園があります。旧古河庭園は、大正八年(1919年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として整備され、洋館・西洋庭園・日本庭園から成っていました。洋館と西洋庭園の設計は、鹿鳴館やニコライ堂などを手掛けたイギリス出身の建築家ジョサイア・コンドルが行ないました。昭和三十一年(1956年)に国から東京都が借り受けて都立旧古河庭園として開園し、一般公開されています。バラ園には約100種199株のバラが植えられ、東京のバラの名所として親しまれています。



旧古河庭園の東端に沿って、本郷通りが坂になって下っています。



16.大炊介坂

大炊介坂(おおいのすけざか)は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂名は、中世にこのあたりに住んでいた武将の保坂大炊介に因んで名付けられました。坂上の歩道橋の先に石造りの案内柱が立っています。

大炊介坂

坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮城とも、樹木に覆われていたのて暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には、将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。




本郷通りから「霜降銀座商店街」に入ります。かって巣鴨の豊島市場の近くを水源として上野の不忍池に注いでいた谷田川が暗渠になって埋め立てられ、その上に少しずつ商店が集まって商店街になりました。青果店や肉屋や洋品店など物販の店がその8割以上を占め、昭和の面影を色濃く残しています。



霜降銀座商店街の途中から次の坂に向かいます。「西ヶ原みんなの公園」は東京外国語大学西ケ原キャンパスの跡地に造られた防災公園です。東京外国語大学は前身の東京外事専門学校時代の1944年に当時の麹町区から引っ越してきました。1949年に新制大学となり、以後2000年に府中市に転出するまで多くの学生が此の地で学びました。現在は各種の防災設備を備えた公園に生まれ変わり、芝生広場を中心として老人ホームや住宅も建ち並んでいます。



公園の敷地の南西端から北西に向かって、回り込むように道幅の広い坂が上がっています。



17.下瀬坂

下瀬坂は長さが約150mほどのやや急な坂です。坂名は、明治時代に此の地にあった「海軍下瀬火薬製造所」に由来しています。坂上の手前に案内柱が立っています。

下瀬坂

この坂名は、明治三十二年(1899年)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。




西ヶ原には東京ゲーテ記念館があり、その前の通りは「ゲーテの小径」という名前が付けられています。歩道脇に案内板が置かれています。

WANDRERS NACHTLIED

Uber allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln
Spurest du
Kaum einen Hauch;
Die Vogelein schweigen im Walde.
Warte nur, balde
Ruhest du auch.

旅びとの夜の歌

   山々のいただきは
   静かに暮れて、
   もろもろの梢には
   そよ風の
   うごきも見えず、
   鳥の声 森かげにひそまりぬ。
   しばし待て、やがてまた、
   われも憩わん。

   訳 星野慎一

この詩は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年〜1832年)31歳のときの作品です。ゲーテの詩のなかでも非常に有名なこの詩は、初め山小屋の板壁に鉛筆で即興的に書かれたといわれています。

Johann Wolfgang von Goethe (1749 - 1832) wrote "Ein Gleiches" ("The Same" as "The Wanderer's Night Song") in pencil on the wall of the lodge in the Thuringian forest.




西ヶ原三丁目交差点から東側に通りひとつ進んだ先に坂が上がっています。



18.熊野坂

熊野坂は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名は、昔この近くにあった熊野神社に因んで名付けられました。坂の中ほどに案内柱が立っています。

熊野坂

この坂は、谷田川通りから西ヶ原3−30の不動院墓地までの坂で、名称は昔、不動院境内にあった熊野神社に由来します。江戸時代の地図によれば、当時の不動院の境内はこの坂に面していて、その北の隅に宝永(1704年〜1711年)年間にまつられたという熊野神社が描かれています。つきあたりの道は鎌倉道といわれ、本郷台地から推定豊島郡跡に至るので鎌倉時代以前の道とも考えられます。




都電荒川線の西ヶ原四丁目電停から東方向に路地を進みますと、栗山耳鼻咽喉科医院の脇に荒川線の踏切近くまで坂が下っています。



19.牛蒡坂

牛蒡坂は長さが約60mほどの緩やかな坂です。昔はこの辺りが「滝野川牛蒡」と称された牛蒡(ゴボウ)の生産地だったことに因んで坂名が付けられました。



牛蒡坂の坂上から少し進んだ先に坂が下っています。坂は途中で左手に曲がっています。



坂の曲がり角には小さな「道音坂児童遊園」があります。



20.道音坂

道音坂は長さが約100mほどの逆”く”の字形に折れた緩やかな坂です。かつて坂の近くに「道音塚」があったことに因んで坂名が付けられました。児童遊園向かいの坂の曲がり角付近に案内柱が立っています。

道音坂

道音坂は、西ヶ原四丁目−29−1地先から滝野川一丁目−32−6地先まで続く坂道で、旧西ヶ原・滝野川の村境に沿った坂道でした。明治時代の「東京府村誌」に「坂名ハ道音塚アルニ由ル」とあり、江戸時代の地誌には西ヶ原村内・滝野川境二アリ」と塚について記されています。道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。




今日は少し早いですが、折角都電荒川線の西ヶ原四丁目電停に来たので、ここでゴールとします。



ということで、北区で二番目の「上中里・西ヶ原・滝野川コース」を歩き終えました。次は、西ヶ原・滝野川地区の残りと王子地区の坂道を巡りたいと思います。





戻る