北区(西ヶ原・滝野川・王子コース)
踏破記
今日は前回の上中里・西ヶ原・滝野川コースに続いて、北区で三番目となる西ヶ原・滝野川地区の残りの坂と王子地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点である都電荒川線西ヶ原四丁目電停からスタートします。
西ヶ原四丁目電停から明治通りに出て滝野川三丁目交差点から国道17号中山道に入ります。滝野川五丁目交差点で右折した先の路地に宮本商店街が続いています。ちなみに、中山道を挟んだ反対側には御代の台仲通り商店街が延びています。
商店街の中ほどから緩やかな坂が下っています。坂下には御代乃台地域安全センター滝野川警察署の交番があります。
坂下で交差する道路を左折した先には八幡神社が鎮座しています。
八幡神社
八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、創建は建仁二年(1202年)ともいわれていますが、詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺が別当寺でした。明治初年には大塚の天祖神社神職が祠掌を兼務していたようです。現在の本殿は明治十七年(1884年)に改築されており、拝殿は大正十一年(1922年)に修築されています。本殿に向かって右には神楽殿が左には社務所が配置されています。境内には、冨士・榛名・稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名社については、村民が農耕時の降雨を願い上州の榛名山より勧請したもののようです。神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されました。組合ではここで野菜の種子相場(生産者からの引取価格)の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。
坂はなおも続いています。
- 21.御代の台の坂
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御代の台の坂(みよのだいのさか)は長さが約130mほどの緩やかな商店街の坂です。「御代(みよ)」は「天皇または王が在位している期間のこと」という意味だそうです。この道は古道のようですが、ネットで調べても「御代の台」とのつながりは分かりませんでした。坂下の右手には、寛文十一年(1671年)に滝野川右平が造立した子育地蔵尊が祀られています。
滝野川六丁目交差点から右手の路地に入ったところから坂が下っています。
私が持ち歩いている10年前に発行された地図では、坂下には滝野川六小がある筈なのですが、何故か通用門の柱には横文字が書いてあります。この地にはかって滝野川第六小学校があったのですが、平成二十九年(2017年)に紅葉小学校と統合され、現在は野川もみじ小学校として旧紅葉小学校の敷地で生まれ変わったのです。跡地は東京国際フランス学園に長期賃貸され、それで通用門の表記もフランス語になっているということです。
- 22.狐塚の坂
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狐塚の坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、昔坂の近くに狐塚があったことに因みます。中山道近くの坂上に案内柱が立っています。
狐塚の坂
滝野川第六小学校の南から南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向かい側の重吉稲荷境内にあった寛政十年(1798年)造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん(滝野川弁天)たきふとう(滝不動)おふし(お冨士)六阿弥陀せんちゅ(千住)みち」という道標銘が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣の人びとが利用したことをしのばせます。
石神井川に架かる観音橋に出ます。川沿いの遊歩道脇には早咲きの桜が満開となっています。
観音橋の袂には巨大な谷津観音様が瞑想にふけっていらっしゃいます。蓮華(れんげ)とは、仏教の伝来とともに中国から日本に入ってきた言葉で、仏教においては「尊い仏の悟り」という意味があります。また、一般には仏教の祖である仏陀(お釈迦さま)の故郷のインドを原産国とする「蓮(はす)」や、「睡蓮(すいれん)」の総称としても知られています。これらの植物は仏教の象徴として尊ばれていて、仏教寺では主要な仏さまが蓮華の形を模した「蓮華座」の上に安置されています。蓮は6月下旬から8月初旬に咲くハス科の植物で、日本でも古くから夏の季語として親しまれてきました。上品な香りを放つ大輪の花は、早朝から咲きはじめて数時間で蕾に戻り、開いては閉じるを繰り返しながら3日ほどで散ってしまいます。花が散った後の花托(花の付け根)の形が蜂の巣に似ていることから「蓮(はちす)」と名付けられ、転訛して現在の「はす」になったといわれています。観音様が手に持っている一輪の花は「未開敷蓮華(みかいふれんげ)」と呼ばれます。今にも咲きそうな蓮の蕾を表現したもので、悟りを約束されながらも菩薩として働く観音様の姿をあらわしています。
世界平和 萬民豊楽 子孫繁栄 諸願成就
谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職新井慧誉和尚の発願によるもので、第二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地に建立着手しました。寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり、谷津の観音様として親しまれておりますことから谷津大観音と称呼しまず。大仏を正面から拝せる、石神井川にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれることでしょう。
平成二十年十二月吉祥日 開眼供養
當山第二十五世 新井京誉
谷津観音から寿徳寺まで坂が上がっています。
- 23.谷津観音の坂
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谷津観音の坂は長さが約50mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂上の寿徳寺に谷津観音の名で知られる子育観音像が祀られていることに因みます。寿徳寺の門前の小さな祠の隣に案内柱が立っています。
谷津観音の坂
この坂は、石神井川にかかる観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は、坂上にある寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音像がまつられているからです。江戸時代には大門通とも呼ばれていました。谷津というのはこの辺りの小字名です。今でも谷津子育観音とも呼ばれる谷津観音へお参りに行く人々などに利用されています。
寿徳寺と本尊の谷津子育観音のいわれを記した案内板が塀の内に立っています。
谷津子育観音
南照山観音院寿徳寺の本尊である谷津子育観音は、木造の観音菩薩坐像です。この観音像は谷津観音と通称され、江戸時代の地誌には子安観音とも、また、聖観音とも記されています。寺伝では、鎌倉時代の初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾いあげ、これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのだと伝えられています。像の姿は蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおり、現在は秘仏となっています。寿徳寺は江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地にあたり、近江国(滋賀県)岩間寺の霊験と同じ功徳をもつものとして多くの人々が訪れています。境内に切株から芽吹いている銀杏があり、昔、飛鳥山付近からも眺められたほどの巨木でした。この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰もあります。こうした信仰は昭和の初期にも盛んだったようで、河東碧梧桐の俳句に「秋立つや子安詣の花束」という句があり、また、寺野守水老も「我妹子と子安に詣る小春かな」(小林鶯里編「東京を歌へる」昭和五年)という句を詠んでいます。
近藤勇は幕末の武士で、新選組局長として知られています。新選組(後に甲陽鎮撫隊と改名)は甲州勝沼で板垣退助率いる迅衝隊と戦いますが(柏尾戦争)敗れて敗走し、下総国流山(千葉県流山市)に逃れましたが捕獲されます。その後板橋宿に連行され、慶応四年(1868年)5月17日に板橋刑場で斬首されました。首は京都の三条河原で梟首されましたが、遺体は処刑場の近隣にあった寿徳寺の境外墓地に葬られました。寿徳寺の門前には近藤勇の碑が建てられています。
新撰組隊長近藤勇菩提寺
近藤勇は新選組を組織し幕府の側から京都の守護に当たり流山で官軍に捕まって慶応四年四月(二)廿五日(三)廿五歳で板橋宿平尾にて斬首され胴体がJR板橋駅東口の当山境外墓地に埋葬されたが百二十三回忌に当る本年本人所持の短刀発見を記念してこの石碑を境内に、また本人肖像石板を境内及び境外墓地に建立し菩提を弔らうものである(詳細は寺報通巻一七一号参照)
飛鳥山公園にやってきました。飛鳥山公園の敷地の南半分には渋沢栄一の邸宅がありました。
国指定重要文化財(建造物) 旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督しています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。
本郷通りから飛鳥山公園の東縁に沿う道路に入りますと、妙見寺の先の飛鳥山レジデンスの横からJR線の線路に向って下る坂があります。
- 24.妙見寺坂
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妙見寺坂は長さが約120mほどのかなり急な坂です。坂の途中で左に曲がって線路際まで下りています。坂名の由来は、戦時中に坂上に妙見寺が移転してきたことに因みます。
本郷通りに戻ります。飛鳥山公園の駐車場の先から「飛鳥山3つの博物館」の前まで、本郷通りが緩やかに下っています。
- 25.六石坂
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六石坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、江戸時代に坂上に租六石を納る水田があったことに因みます。「租」とは日本の律令制において、民衆に一律に支給された農地(班田)に対して課せられた年貢のことです。坂上付近の歩道の植え込みの中に御影石の案内碑が建っています。
六石坂
東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場もあった。
音無橋交差点の手前から右側に弧を描くように明治通りが下っています。
明治通りには都電荒川線が走っています。専用軌道区間が大部分を占める荒川線ですが、王子駅前電停から飛鳥山電停までの明治通りは、唯一車と並走する区間となっています。令和の時代には、昭和を彷彿させる絵になる風景です。
- 26.飛鳥大坂
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飛鳥大坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。別名は「飛鳥坂」といいます。坂名の由来は、坂の東側が飛鳥山であることに因んでいます。坂上付近の歩道の脇に御影石の案内碑が建っています。
案内碑には、黄昏時に雪の中を歩く人馬の絵が描かれています。
飛鳥大坂
いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり、荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の、日光御社参の行列もここを通った。
飛鳥山花見てかえるをとめらが
道のみ坂をゆきなづみたり
太田水捷
飛鳥大坂に沿って、崖上の飛鳥山公園からモノレールが下ってきています。飛鳥山モノレール(あすかパークレール)は、JR王子駅中央口改札すぐ前の公園の入口から山頂までの高低差約18m・レール延長48mを約2分で結んでいます。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さな子供を連れた家族連れなどでいつも賑わっています。無料で乗車でき、冷暖房も完備されています。車両はかたつむりに外観が似ていることもあって、「アスカルゴ(アスカヤマ+エスカルゴ)」という愛称が付けられています。
今日は少し早いですが、この先のルートを考慮してJR王子駅でゴールとします。
ということで、北区で三番目の「西ヶ原・滝野川・王子コース」を歩き終えました。次は、王子地区の残りの坂と岸町・中十条地区の坂道を巡ります。
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