北区(王子・岸町・中十条コース)


踏破記


今日は前回の西ヶ原・滝野川・王子コースに続いて、北区で四番目となる王子地区の残りの坂と岸町・中十条地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点であるJR王子駅からスタートします。



音無親水公園は王子駅前を流れる石神井川を整備して造られた公園です。木橋・東屋・行灯・水車など純和風のつくりが特長で、春には桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめ、秋には紅葉が綺麗です。公園の上空には優雅な曲線美を誇る3つのアーチ型の音無橋が架かり、夜はライトアップされて昼間とはまた違った趣を見せます。石神井川は昭和三十三年9月の狩野川台風で一帯の渓谷が破壊されたことを受け、飛鳥山公園の下に2本の通水トンネルを掘って川の流れを変える工事が行なわれました。その後、残された旧石神井川の流路の跡に音無親水公園が造られたのです。石神井川はこの辺りでは「音無川」と呼ばれていたことから、公園名も川の名前に因んで名付けられました。公園の右手から崖を這い上がるように階段が上っています。



階段の上は王子神社の緑濃い境内になっています。王子神社はこの辺り一帯の「王子」という地名の由来となった神社で、かっては「王子権現」と呼ばれていました。王子神社の創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058年〜1065年)に源義家が奥州征伐に向かった際に此の地で武運を祈願し、勝利して帰途の途中に再び立寄って甲冑を奉納したのが起源とされています。鎌倉時代末期の文保年間(1317年〜1319年)と元弘年間(1331年〜1334年)には、此の地の領主であった豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎して王子神社となりました。明治初期には准勅祭社に指定され、現在でも東京十社のひとつとなっています。

王子神社(由来)

元亨二年(1322年)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として二百石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。明治時代にはいると明治元年(1868年)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。




王子神社の大鳥居の前から北方向に延びた緩やかな坂は道路に突き当たっています。



そこを右折した先は急坂になって下っています。



27.権現坂

権現坂は長さが約180mほどのやや急な坂です。王子神社の先で右手に直角に曲がっています。坂名の由来は、かって王子神社が「王子権現社」と呼ばれていたことに因みます。曲がり角の先の歩道に案内柱が立っています。

権現坂

権現坂とは、坂の下の交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいいます。権現という坂の名称は、王子神社が、明治初年の神仏分離令以前は王子権現と呼ばれていたことに由来しています。坂の下の交差点付近は、江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道と接しており、三本杉橋という橋が架かっていました。三本杉橋は橋の近くに三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。




権現坂が直角に曲がった先の左手に坂が上がっています。



坂の入口の左手の民家の車庫奥に子育地蔵尊があります。子育地蔵尊とは、文字通り「乳児を病魔・災難から守り、健全に育てる地蔵尊」ですが、この地蔵尊は子育の他にも商売繁盛や縁結びなどにもご利益があるとされています。お地蔵様にお参りするときの作法は、両手を合わせ「おん かかか びさんまえい そわか」という「真言」を3回唱えます。真言とはサンスクリット語でマントラと呼ばれる言葉で、「真実の言葉・秘密の言葉」を意味します。「おん」は「崇拝する」、「かかか」は「地蔵菩薩を表す言葉」、「びさんまえい」は「素晴らしい」、「そかわ」は「成就あれ」という意味だそうです。つまり、「すばらしいお地蔵さまを拝ましていただきます」ということになります。

王子子育地蔵尊

王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。当地蔵尊は、昭和二十年(1945年)四月十三・十四日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。昭和三年(1928年)十二月に出版された「王子町誌」によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532年)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689年)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。

お唱えする言葉

「おん かかか びさんまえい そわか」




28.王子大坂

王子大坂は長さが約190mほどのやや急な坂です。別名を「宇都布坂・うつり坂・地蔵坂」といいます。坂名は、かってこの道が東北方面への幹線道であったことに因みます。坂の中ほどの曲がり角に案内柱が立っています。

王子大坂

飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、上郷用水に架かっていた三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴(くちばし)のようなので「うとう坂」の名もある。




王子に本部がある中央工学校は明治四十二年(1909年)に創立された建築関係の学科を設置する専門学校です。卒業生は約10万人を数え、第64・65代内閣総理大臣を務めた田中角栄もそのうちの一人です。田中角栄は夜間部の土木科を卒業し、一級建築士の資格も持っていました。一級建築士は全ての建築に携われる最高位の資格で、どんな大規模な建築物の設計も可能です。しかし、人命にかかわる建築物の全般に携わるために広範な実務知識が必要とされます。ちなみに、現代の建築の憲法ともいうべき建築基準法は昭和二十五年(1950年)5月に、田中角栄が議員立法として立案に参画し、「建築士法」という名称の法律になりました。現在は一級建築士になるためには超難関の筆記試験に合格する必要がありますが、法律の施行当初は経験者などには無試験で資格を認めるという特例もありました。田中角栄自身もその特例を利用して資格を得ました。



中央工学校の先の突き当たりに王子稲荷神社があります。王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持つと共に、狐火の名所とされています。「王子の狐火(きつねび)」とは、江戸時代に郊外だった王子に現れた狐火にまつわる民話の伝承です。かって王子周辺が一面の田園地帯だった頃、路傍に「装束榎」と呼ばれた一本の大きな榎の木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが松明を点してこの榎の木の下に集まり、正装を整えた後に官位を求めて王子稲荷へ参殿しました。狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。現在は、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されています。



中央工学校と神社の間には急な坂が下っています。



29.王子稲荷の坂

王子稲荷の坂は長さが約120mほどの急な坂です。坂名は、王子稲荷神社の前を通る坂ということに因みます。坂の中ほどに案内柱が立っています。

王子稲荷の坂

この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。




王子稲荷神社の先に「名主の滝公園」があります。名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主であった畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、公園名の「名主」はそこに由来します。戦災で一時荒れ果てていましたが、東京都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和三十五年(1980年)に都の有料公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)に北区に移管されました。

王名主の滝

名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850年)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和三十三年、東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管。北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。




園内は回遊式の庭園となっていて、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されています。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて水を流していて、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注ぐ仕組みになっています。



名主の滝公園の北西側の塀に沿って坂が上がっています。



30.三平坂

三平坂は長さが約100mほどの曲がりくねったやや急な坂です。坂名の由来は、江戸時代にこの辺りが「三平村」と呼ばれていたためとか、室町時代に「十条郷作人三平」という人がいたためとか、諸説があります。坂下に案内柱が立っています。

三平坂

名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。




名主の滝公園から京浜東北線の線路と並行して路地を北に進みます。視界が開けたところで頭上には巨大な南大橋が架かっています。南大橋は低地の中十条一丁目と高台の岸町二丁目との間が急斜面になっていることから、自動車が通れるような傾斜でJR線を跨いで架けられた長大な跨線橋です。京浜東北線の線路が如何に赤羽台の崖下に敷設されたかが分かります。



南大橋の先で十条台小学校の角を右折して都道460号中十条赤羽線(通称:赤羽西口通り)に入ります。この道路は日光御成街道の旧道に当たり、旧岩槻街道とも呼ばれることがあります。現在は片側1車線の対面通行で一部を除き独立した歩道がなく道路幅も車1台がすれ違える程度ですが、現在大規模な拡張工事が行なわれています。十条台小学校から100mほど進んだ先で右手の路地に入ります。路地の先は高台の縁になっていて、崖下には京浜東北線の線路が通っています。



線路と並行して、突き当たりから左手に急坂が下っています。



31.芝坂

芝坂は長さが約100mほどで、自動車が通れないほどの幅の狭い急な坂です。坂の前半区間は下り坂ですが、(坂からは看板が見えなくて分かり辛いですが)宇田川整形外科の脇を底にして、後半区間は階段となって上っています。坂名の由来は不明です。昔は芝の生い茂る崖道だったのでしょう。



芝坂の坂上から路地を縫って北方向に進みます。東十条駅の手前付近から坂が曲がりくねって下っています。



32.地蔵坂

地蔵坂は長さが約60mほどのやや急な坂で、左右に曲がりながら東十条駅の南口の跨線橋下に繋がっています。坂名は、かって坂の途中に地蔵堂があったことに因んで名付けられました(現在、地藏堂は近くに移動されています)。坂の曲がり角付近に案内柱が立っています。

地蔵坂

江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「地蔵坂 往還ヨリ東二丁程ニアリ」との記載がみえます。往還とは、日光御成道のことで、この坂を上っていくと日光御成道につきあたりました。坂名はこのあたりに地蔵尊があったことに由来します。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。




東十条駅の北口改札から繋がる跨線橋の手前に、大きく彎曲して跨線橋に繋がる坂が上っています。



33.石神井坂

石神井坂は長さが約50mほどのやや急な坂で、坂名の由来は不明です。坂上から東十条駅北口改札の延長線上に坂が上がっていますが、この駅前通りの坂は石神井坂には含まれないようです。両側には雑多な飲食店がひしめいていて、お勤め帰りの方には魅力的な路地となっています。



この先にある坂は赤羽周辺に分散していて一日では巡りきれないので、今日は少し早いですが東十条駅でゴールとします。



ということで、北区で四番目の「王子・岸町・中十条コース」を歩き終えました。次は、中十条の残りの坂と難関の西が丘・赤羽西地区の坂道を巡ります。





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