北区(赤羽西・赤羽北・赤羽台コース)
踏破記
今日は前回の中十条・西が丘・赤羽西コースに続いて、北区で最後となる赤羽西地区の残りの坂と赤羽北・赤羽台地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点である赤羽駅からスタートします。
赤羽駅の西口を出て京浜東北線の高架沿いに北に進みます。高架下はモールになっていて、飲食店やスーパーなど沢山のお店が並んでいます。モールの向かいに「ちょい飲み中華食堂日高屋」があります。懐が寂しくてもそこそこ満足できる昼呑みおじさん定番のお店です。日高屋の手前から東洋大学の新校舎に向かって上がる狭い坂があります。坂下は少し道幅がありますが、坂の途中はかなり狭くなっていますので車は通れません。
植え込みの中で赤羽の猫ちゃんが日向ぼっこをしています。
- 51.大坂
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大坂は長さが約110mほどのやや急な坂です。別名を「狸坂・政右衛門坂」といいます。
かって清滝不動の石段が「小坂」と呼ばれていたのに対して、この坂を「大坂」と呼ぶようになりました。坂の途中の二股路付近に案内柱が立っています(大坂は二股路を右手に進みます)。
大坂
この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来が多い坂です。昔は赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。
大坂から京浜東北線の線路沿いの道に戻ります。左手のコンクリート擁壁に巨大な半円形の石積みの工作物があります。明らかに何かの穴を埋めた跡のように見えます。赤羽にはかって貨物の鉄道線が通っていたそうなので、トンネルの跡でしょうか?ネットの情報では、戦前は赤羽台には陸軍関連の施設が多くあったそうなので、防空壕を埋めた跡ではないかとのことです。
平成十七年(2005年)に閉校した赤羽台東小学校跡地の北西側を赤羽台団地に向かって坂(旧鎌倉街道)が上がっています。
- 52.うつり坂
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うつり坂は長さが約310mほどの緩やかな坂です。坂の途中で”く”の字形に曲がっています。坂名の由来は不明です。坂の中ほどに案内柱が立っています。
うつり坂
宝幢院前の道がJR線のガードをくぐって登り坂となるこの坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正八年(1919年)に旧陸軍被服本廠が赤羽に移転すると、被服本廠へと通じる坂となり、関係者以外の通行はできなくなりました。戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地ができ、再び通行できるようになりました。かつて坂の上には道祖神、庚申塔がありましたが、現在は赤羽八幡神社境内に移されています。
坂上には東洋大学の真新しい斬新な校舎が並んでいます。東洋大学赤羽台キャンパスは、旧赤羽台中学校の跡地に建設された新キャンパスで、2017年に情報連携学部・大学院情報連携学研究科が設置されました。学部長にはTRONプロジェクトを提唱した坂村健が就任し、建築設備・内装・建築総合プロデュースも坂村が手掛けました。建物の設計は新国立競技場の設計で知られる隈研吾建築都市設計事務所が担当し、戸田建設が施工しました。校舎の屋上に取付けられている「INIAD」は、「Faculty of Information Networking for Innovation and Design」の略称です(「Faculty」は「学部」の意味)。
坂上には、赤羽台団地が建て替えられて新たに「ヌーベル赤羽台」という団地名になったURの住宅棟が建ち並んでいます。赤羽台団地は、昭和三十七年(1962年)に住宅公団により東京23区で最初の大規模住宅団地として陸軍被服本廠跡に建設されました。赤羽駅から徒歩10分のところに立地していたことで交通は至便、建物も当時としては出色の出来映えと言われました。3、373戸の部屋数がありましたが、築後40年を経過して老朽化したため、現在は高層住宅に全面的に建替える工事が進行中です。敷地内には幅の広い遊歩道も整備されています。
八幡小学校の前から坂が下っています。
- 53.八幡坂
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八幡坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂の途中で”く”の字形に曲がっています。坂名は、坂の北側にある八幡谷に因んで地元で呼ばれていた坂名が定着したものです。旧赤羽台中学校の裏手の斜面に案内碑があったそうですが、現在は工事塀に囲われて存在すら分かりません。撤去されていなければいいのですが。ちなみに、次のように書かれていたそうです。
八幡坂
板橋街道は、宝幢院前で岩槻街道(日光御成道)と分かれ中山道に至る道ですが、大正八年、旧陸軍被服本厰が赤羽台に移転してきて、道の一部が敷地内に入ったので、一般の通行のため、同厰北側に設けられたのがこの坂道です。八幡坂の名は、この北にある八幡谷に因んだ地元の呼称で、それが定着したものです。
八幡坂の坂下の向かいに赤羽八幡神社があります。赤羽八幡神社は旧赤羽村の鎮守であり、岩淵郷五ヶ村(旧岩淵町・現在の赤羽地区)の総鎮守でもありました。数字の8を横向きにした「∞(無限大)」をモチーフにしたお守りや御朱印があり、関ジャニ∞の聖地になっていて、通称「エイト神社」とも呼ばれています。
鳥居の脇には、赤羽八幡神社が「八幡宮」とも呼ばれていた頃の名残でしょうか、天保十一年(1840年)と刻まれた八旛宮の石碑が建っています。表には「八幡宮 是ヨリ左ヘ一丁(八幡宮へはここから左へ109メートル)」、側面には「坂上大宿稲田村麻呂延暦三年東征之時創建(坂上田村麻呂が延暦三年(784年)に東北を征伐する際に創建した)」との記載があります。
鳥居の奥に階段が左右に設けられています。左側は赤羽八幡神社の正面参道の男坂、右側はいわゆる女坂です。石段の下の男坂と女坂の間に「石坂碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。碑文はなく、石坂の整備のために献金したと思われる多数の人名が刻まれています。
- 54.石坂
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石坂は長さが約25mほどの急な階段です。別名を「赤羽八幡神社石坂」といいます。坂名の由来は不明ですが、単純に石造りの階段ということに因んでいるものと思われます。
急峻な石坂を上がりますと、鳥居の奥に拝殿があります。神社の詳細な由来を記した案内板が立っています。
八幡神社
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。「日本書紀」によれば、応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后。「日本書紀」によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲村村・岩淵宿)の総鎮守であり(「新編武蔵風土記稿」)、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782年〜806年、平安時代)坂上田村麻呂(758年〜811年。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長コ年中(995年〜999年、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154年〜1156年、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394年〜1428年、室町時代)正長(1428年〜1429年、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫丈の地を寄進し、文明元年(1469年、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(「岩淵町郷土誌」)。これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551年、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
省略
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。また、「新篇武蔵風土記稿」に、「赤羽根村・・・今ハ東叡山及傳通院村内宝幢院八幡社領入會ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649年、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(「岩淵町郷土誌」)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が三枚納められています。この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(「東京都遺跡地図」東京都教育委員会)。この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祝)などは、その当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。
赤羽八幡神社は上野東京ラインと埼京線・新幹線の高架線路に挟まれた小高い場所にある神社です。社務所の下には東北・上越・北陸新幹線・埼京線のトンネルが通っています。トンネルといっても高架の線路をコンクリートの壁と天井で覆い、その上に社務所が建っているのです。新幹線の上に神社があるのは日本広しとはいってもここだけでしょう。
昭和四十六年(1971年)に東北・上越新幹線の建設が決まると赤羽八幡神社の神域を通ることは避けられず、神社氏子ともに反対するものの、最終的には国の決定を受け入れざるを得ませんでした。ただ、社務所の下は通ることになったものの、本殿の下を通ることは回避されました。神の祟りは怖いですからね。階段上付近にそのあたりの経緯を記した碑文が埋め込まれています。
神域整備完成記念
昭和五十六年、八幡神社神域内に、新幹線建設工事という創建以来、未曽有の難問に直面し、神社並びに役員は時代の趨勢(すうせい)を認識し、幾多の障害を克服して同年通過を承認、昭和六十年三月竣工し新幹線開通。これを機に、参道大鳥居及び本殿、神楽殿、神輿庫、社務所を新築、拝殿を改修し、石段回り築庭の全工事を完成。茲に、神域一新を記念し、神社の隆昌と繁栄を祈念し、神社役員が碑に名を刻し、永くその労を顕彰す。
赤羽八幡神社は勝負事に御利益があるそうです。賭け事の祈願は御法度とのことです。
「勝負事の神」 赤羽八幡神社
遠く平安時代の桓武天皇の御代(782年〜806年)、東北地方はまだまだ反乱多く、その征伐に桓武天皇は坂上田村磨を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。途中、坂上田村磨はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、後に源氏をはじめ武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力とされた坂上田村磨によってこの地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」として、現在では受験生やスポーツ選手等から篤く信仰されている。
赤羽八幡神社には12の末社があり、拝殿の左側にある鳥居の奥に祀られています。左から大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社となります。左端に鎮座する大国主神社は「縁結びの神様」なんだそうです。
縁結びの神 大国主神社
大国主神社の御祭神は、因幡の白兎神話にも登場する大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。その姿は大きな袋をしょって打出の小槌を持った大黒様として広く知られています。天照大神への国譲りでは、目に見えない「縁」を結ぶ事を司ることとなり、旧暦十月には全国の神々が、大国主大神の許で縁結びの神請をされています。「縁結びの神」として有名で、単に男女の縁を結ぶだけでなく、あらゆる幸福の縁を結ぶとされています。また、因幡の白兎神話で大国主大神に助けられた兎は、後に大神と八上姫との婚姻の縁を取り持ったとされ、かなわぬ縁を叶えるとされています。
右端に鎮座する北野神社は「学問の神様」なんだそうです。
北野神社のなで牛
「書道学問の上達・合格を祈願しながら、牛の像の頭をなでて下さい。
北野神社の御祭神、菅原道真は俗に「天神さん」と呼ばれ学者・文人・政治家として優れていたところから詩歌・文筆・学問の神として崇敬される様になった。近世には寺子屋で学問の上達を祈願する、天神信仰が普及した。御本社である北野天満宮(955年創建)には、菅原道真が丑年に生れて丑年に亡くなったことから、牛の像が安置されており、牛の頭をなでると頭脳明晰になると信じられている。
大国主神の案内板にもあった「因幡の白兎神話」の案内板も立っています。
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)
昔々、沖の島に住む一匹の白兎が、海を渡り因幡の国へ行こうと考えましたが、自力ではとても渡れません。そこでワニザメを騙し、対岸まで一列に並べさせ、その背中をぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あと少しのところで「君たちは騙されたんだよ」と思わず口走ってしまいました。怒ったワニザメは、白兎の毛をむしり取り、丸裸にしてしまいました。兎があまりの痛さに浜で泣いていると、そこに大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄神達が通りかかりました。兄神達は隣の因幡の国に、美人の八上姫(やがみひめ)がいると聞きつけ、自分の妻にしようと向かっているところでした。兄神達は、「海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で伏せていれば治る。」と兎に嘘を言い行ってしまいました。その通りにした兎の肌は乾いて破れ、血が吹き出し、傷口からは塩がしみていっそうひどくなりました。兎が泣いていると、先を行く兄神達の全ての荷物を持たされ大きな袋をかついだ大国主命が、遅れて通りかかりました。大国主命は、「おまえがワニザメを騙したのをこらしめる為に、兄神達はおまえに嘘を教えたのだろう。もう誰も騙してはいけないよ。」と言い、「河口に行って、真水で体を洗い、蒲の穂を付けなさい。」とおっしゃいました。すると兎の体には、どんどん元の白毛が戻り始めました。感謝した白兎は、「八上姫は、兄神達ではなく、大国主命を選ぶでしょう。」と予言しました。白兎の予言通り、八上姫は兄神ではなく大国主命をお選びになり、ふたりは結ばれたのでした。
この神話により、因幡の白兎は、「特定の人とのかなわぬ縁を結ぶ」「特定の人との親交を深める」とされ、大国主命とともに「縁結びの神」として篤く信仰されています。
庚申塔は道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。江戸時代の初期から八幡様の地域に多く建てられました。ここにある猿田彦庚申塔は近隣の再開発によりもとの場所から紆余曲折の後、神社に集められました。うつり坂上にあった庚申塔もそのひとつです。
猿田彦庚申塔
猿田彦は日本書紀に天照大御神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神として記載されていたことから、道の神、旅人の神として祀られ、近世期には庚申塔に多く彫られるようになりました。旧板橋街道近辺(現在の区道北1555号線付近)には庚申信仰の本尊として青面金剛が彫られた庚申塔のほか猿田彦神が彫られた庚申塔が江戸時代から多く設置されていましたが、明治時代から大正時代にかけて、旧板橋街道を含む一帯に陸軍被服本廠が設置されると、本廠周辺にあった庚申塔は本廠敷地内に集約されました。戦後、被服本廠の敷地は進駐軍による接収を経て、日本住宅公団(現UR都市機構)の赤羽台団地となりました。団地建設に伴い、昭和三十七年に庚申塔は旧赤羽台団地49号棟付近に移設されました。移設後は、「赤羽台猿田彦神社」として赤羽台団地の住民のみならず地域の守り神として長年崇められてきましたが、赤羽台団地の建替に伴い、本神社に平成二十九年四月に移設されました。
赤羽八幡神社に長居してしまいました。裏参道に面した道路に出ます。少し先から左斜め上に小道が分かれています。
- 55.赤羽坂
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赤羽坂は長さが約65mほどの緩やかな坂です。この道は本来は埼玉に向かう主要道でしたが、周辺が軍用地・鉄道用地・住宅地として開発されて地形が変化し、勾配もなくなってしまいました。現在の小道は、かっての坂の痕跡ということになります。
赤羽八幡神社の裏参道に面した道路に戻ります。長い上り坂になっていますが、これが赤羽八幡神社の案内板にも出てきた師団坂です。
- 56.師団坂
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師団坂は長さが約250mほどの“く”の字型に曲がりながら上がるやや急な坂です。別名を「工兵坂」といいます。坂名の由来は、かってこの周辺一帯に工兵隊(近衛師団・第一師団)があり、そこに続く坂だったことに因んでいます。坂の中ほどの歩道脇に案内柱が立っています。
師団坂
この坂は、旧陸軍の第一師団工兵大隊と近衛師団工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(1887年)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移転し、坂も整備されました。この坂は、「工兵坂」とも呼ばれ、休日には軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。
星美学園の北側に坂が下っています。
- 57.稲荷の坂
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稲荷の坂は長さが約150mほどの左手に曲がりながら下るやや急な坂です。坂下の赤羽北保育園の向かいに「穀倉稲荷神社」と「小袋庚申堂」があり、これが坂名の由来になっています。赤羽北保育園の前に案内柱が立っています。
稲荷の坂
この坂道は、赤羽北一丁目三・四地先から赤羽台四丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂とよばれるようになりました。
穀倉稲荷神社は、大正七年(1918年)に郷蔵跡に建立されました。郷蔵とは、年貢米や凶作に備えて穀物を保管しておく蔵のことです。
郷蔵跡と稲荷社
江戸時代、ここには袋村の郷蔵がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。嘉永三年(1850年)八月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書によれば、これは火事を防ぐための火除の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀囲蔵」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢饉の際に、村の人々が飢餓から自分達を守る備荒貯蓄を目的とした郷蔵だったことがわかります。現在、ここには大正七年(1918年)三月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言ったりした結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。
境内には庚申塔や供養塔が保存されたお堂があります。
小袋庚申堂の石造物群
この地域は、江戸時代には袋村と称され、村内は「大袋」と「小袋」の辻子と呼ばれる二つの地域からなっていました。ここは、小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂と呼ばれるようになりました。庚申堂には、稲荷社の社殿より遠いほうから順に、次のような石造物が安置されています。
弘法大師供養塔
阿弥陀三尊種子庚申待供養塔 元禄十五年(1703年)十一月
阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔 寛文八年(1668年)二月
庚申待供養青面金剛立像 宝永元年(1704年)九月
ここには、庚申信仰についての石造物が二基あります。これらは、人の体のなかに住む三尸という虫が、干支でいう庚申の日の夜に、体内からぬけ出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮めてしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養を行った記念に、袋村庚申講中の人々によって建てられたものです。弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌を記念して建てられましたが、一部が破損していて造立年代や造立者は詳らかではありません。千日念仏の供養塔は、時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号を唱えれば浄土に往生できるという信仰儀礼の記念に建立された塔です。袋村を中心とする十六か村の名主や結衆によって建立されていますが、このような複数の村の人々によって建てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが、昭和三十年代の前半、現在地に移されました。
稲荷の坂から戻って、諏訪通りを進みます。諏訪通りの起点ははっきりしませんが、師団坂通りが東京北医療センターの北東端に位置する赤羽台四丁目公園で終点となり、そこから諏訪神社の先の桐ヶ丘高校の前を通って赤羽北三丁目交差点までが諏訪通りではないかと思います。ここからはこの仮定に基づいて話を進めます。東京北医療センターの先に坂が下っています。坂下は諏訪神社前交差点になっていて、交差点の先は緩やかな上り坂になっています。一方、諏訪通りと直交する広い道路は赤羽並木通りです。次の坂は「宮の前の坂」と「宮の坂」なのですが、ネットで調べてもどの坂が該当するのかが分かりません。坂名からすると、わざわざ「前の」を付けるのは歴史が新しい坂で、「宮の坂」の方が古来から存在する坂のように思えます。坂学会の記述では、赤羽並木通りの環八方向から来て諏訪神社前交差点までの上り坂を「宮の前の坂」と書かれていますが(地図の青緑色の線)、この坂の途中には「宮の坂」の案内柱が立っています(恐らく、「宮の阪」と「宮の前の坂」を混同していると思われます)。しかし、「宮の坂」の坂学会の記述では、赤羽並木通りから分岐して諏訪神社の裏側を弧を描くように曲がって諏訪通りに抜ける坂(地図の茶色の線)を「宮の坂」としています。別の情報では、「宮の前の坂」は諏訪神社前交差点から二の鳥居の先までの諏訪通りの坂としています。私が歩いた時はそんな細かな情報を持っていなかったので、単純に諏訪通りが諏訪神社前交差点に向かって下っている区間(地図の黒色の線)を「宮の前の坂」だと思い込んでいました。後日歩き直して現地を確認した後に諸説を比較検討した結果、私なりの結論は次のようになりました。
・「宮の坂」は、地図上の茶色の線の坂。
・「宮の前の坂」は、地図上の青緑色の線の坂。
・諏訪通りの坂(地図上の黒色の線の坂)は坂学会のリストには掲載されていない。
地図中の「師団坂通り」は私の定義では「諏訪通り」です。
- 58.宮の坂
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「宮の坂」は、諏訪通りから分岐して諏訪神社の裏手を回って赤羽並木通りに下る坂です。
古道らしい感じがします。
諏訪神社前交差点から環八方向に向かって左に曲がりながら坂が下っています。
- 59.宮の前の坂
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宮の前の坂は長さが約110mほどの左に曲がりながら下る緩やかな坂です。坂名の由来は、諏訪神社の参道を分断して新しい道を切通しで開いた坂ということに因んでいます。諏訪神社の参道は宮の前の坂を挟んで東側にも伸びていて、この坂道によって参道が分断されているのが分かります。
坂の中ほどに案内柱が立っています。「神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。」とありますが、この記述内容からすると、諏訪通りの坂(地図上の黒色の線の坂)を「宮ノ前の坂」とし、環八から上がってくる坂を宮の坂(地図上の青緑色の線の坂)としているようです。なので案内柱がこの場所に立てられているのではないかと推測します。私の独断で書き換えてみました。
<原文>
宮の坂
坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。
<書き換え文>
宮の前の坂
坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た道路の坂です。
諏訪神社は現在では赤羽並木通りで分断されていますが、かっては飛び地の境内を含む広大な寺域を有していたものと思われます。環八方向から赤羽に向かった人々は「宮の阪」を上がって赤羽方向に向かい、赤羽台から小豆沢に向かう人々は諏訪通りの坂を下ったのでしょう。
諏訪神社
祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば、応永三年(1396年)九月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命、品陀和気命(応神天皇)、須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。「新篇武蔵風土記稿」には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記されています。かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは、真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の内の一つでした。現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。
袋小学校のはす向かいの急斜面を高台に向かって斜めに上る約90段の長い階段が上がっています。
- 60.殿山の坂
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殿山の坂は長さが約70mほどの急な階段です。坂名の由来は、高台上の旧字名に由来します。階段下のフェンスの内側に案内柱が立っていたそうですが、現在は撤去されているようです。
殿山の坂
袋小学校前から台地へ登る階段の坂で、殿山の名は台地上の旧字名に由来する。昔、台地には人家が無く一望の畑地で、人がやっと通れる農道であった。
袋小学校の先に、高台の上の袋町公園に上がる坂があります。
- 61.念仏坂
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念仏坂は長さが約55mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、かつては細い寂しい坂で、坂上に真頂院の墓地があったことに因みます。
念仏坂の坂下の先は二差路になっていて、東京メガシティ(雪印乳業工場跡地)に沿って左手に坂が上がっています。
- 62.ふか坂
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ふか坂は長さが約170mほどの緩やかな坂で、別名を「馬坂・深坂」といいます。坂名の由来は、かつては鬱蒼とした樹木に覆われて、谷深い中を蛇行する坂だったことに因みます。坂下近くの曲がり角付近に案内柱が立っていたそうですが、探しても見当たりませんでした。マンション工事で撤去されたのでしょうか?
ふか坂
赤羽三丁目と板橋区小豆沢四丁目の境を南西に登る坂です。坂名は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深いなかを蛇行している坂であったことによります。坂を下って北へ行くと荒川にでます。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいました。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていました。
今日は赤羽駅をゴール地点にしようかと思っていたのですが、軟弱にも国際興業赤羽北三丁目バス停で北区の坂道巡りを終えることにします。赤羽台の坂はなかなか手強かったです。
ということで、北区で最後の「赤羽西・赤羽北・赤羽台コース」を歩き終えました。次は練馬区の坂を巡ります。
<追記>
諏訪神社の「宮の阪」と「宮の前の坂」を確認するために後日歩き直した帰り道に、飛鳥山公園でお花見をしました。三分咲きでしたが、平日にもかかわらず大勢の花見客が宴をしていました。
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