渋谷区(渋谷・代官山周辺コース)
踏破記
練馬区の次はどの区にしようかと考えたのですが、23区で残っている板橋区(67)・世田谷区(66)・大田区(55)・杉並区(49)・目黒区(47)・渋谷区(41)の中から、坂の数が一番少ない渋谷区を選びました。渋谷区は全域をほぼ歩き尽くしたので、どの坂も一度は通った筈です。ま、坂を意識して歩いた訳ではないので、記憶にない坂もあるかもしれませんが。
渋谷区は昭和七年(1932年)に渋谷・千駄ヶ谷・代々幡の旧3町が合併して成立しました。現在では新宿区・豊島区とともに「副都心3区」とされ、東京の山の手地区を構成しています。渋谷駅周辺は東京を代表する繁華街のひとつで、ハチ公前の渋谷スクランブル交差点や渋谷センター街は「若者の街」の典型として全国的に有名です。新宿駅に近い代々木や千駄ヶ谷も繁華街やオフィス街となっている他、初台や本町にもオフィスビルが多く存在します。原宿・表参道エリアは日本のファッションの中心として知られる他、代官山や恵比寿には商業施設やセレクトショップなどのファッション・アパレル関連産業が集積しています。渋谷区内には明治神宮や代々木公園といった広大な緑地が存在し、周辺には松濤や代々木上原・代官山といった山の手の高級住宅街も点在しています。一方、初台・本町・幡ヶ谷・笹塚といった区の北部は下町情緒あふれる庶民的な商店街が数多く存在しています。1970年までは、「若者の街」・「若者文化の流行の発信地」といえば新宿でしたが、1973年に渋谷パルコが開店してから若者文化の歴史が大きく変化し、その流れは「新宿から渋谷へ」と移り変わっていくことになりました。地形的には、渋谷区の全域が武蔵野台地の東部に位置する淀橋台地上にあります。淀橋台地は、北を神田川、南を目黒川によって挟まれた標高30〜60メートルの台地です。渋谷区の中央には渋谷川によってできた開析谷とその支谷が鹿の角のように西方へ延びています。それを取りまいて、東に東渋谷、北東に千駄ヶ谷、北に代々木・幡ヶ谷、西に駒場・西渋谷の台地が連なっています。渋谷区内の台地面は、北西部で標高40メートル、南東部で25メートルと、緩やかな傾斜になっています。
今回は渋谷区の坂道を、渋谷・代官山周辺、代々木・神宮前・千駄ヶ谷・笹塚、代々木上原と広尾・恵比寿の北側、広尾・恵比寿の南側の4つの地域に分けて巡ります。先ずは渋谷駅ハチ公改札からスタートします。
渋谷駅の北東側にある宮益坂下交差点から青山通り(国道246号線)との合流点の宮益坂上交差点まで坂が上がっています。
- 1.宮益坂
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宮益坂は長さが約260mほどの緩やかな坂です。別名を「富士見坂」といいます。江戸時代に坂の途中にあった千代田稲荷(現在の御嶽神社)にあやかって町名が渋谷宮益町に変わり、坂名も「宮益坂」になりました。坂下付近に案内柱が立っています。
宮益坂
かつて、富士見坂とも呼ばれたこの坂一帯は、古くから矢倉沢往還(大山道)として江戸の町と郊外農村との接続点でありました。御嶽権現の門前であったことから、宮益町と称していたので、宮益坂と呼ばれるようになりました。
宮益坂下交差点の角に、渋谷区で最初に開校した小学校の案内板が立っています。明治五年(1872年)、宮益坂と旧東急文化会館(現在の渋谷ヒカリエ)が交差する辺りに渋谷区立としては最も古い歴史をもつ小学校が開校しました。しかし、児童数の減少により、平成九年(1997年)に閉校となり、現在は神南小学校に統合されています。
渋谷区近代学校教育発祥の地
明治八年(1875年)三月十五日に開校したとされる旧渋谷小学校は、中渋谷村の三井八郎右衛門、森島伝兵衛、野口清右衛門、鈴木喜代次郎などが中心となって、校舎の建設に尽力し、成富清風が提供した中渋谷二番地(明治通りと宮益坂の接するところ)の四百五十一坪の土地に校舎を建てたのがはじまりとされています。明治五年の新学制に基づき第一大学区第三中学区第十九番渋谷学校という名で開校しました。渋谷区地域に初めてつくられた公立の小学校で、当初教員は校長を含め三人、生徒は八十四人であったといいます。学校の維持費は、明治十二年の町村制施行によって村独自の予算をもって賄うまで、その捻出に困り、その維持費は宮益坂下の三井八郎右衛門の水車の利益金をもってこれにあてたといいます。その後、渋谷小学校は平成九年四月に生徒数の減少などから大和田小学校・大向小学校と合併することが決まり、その長い歴史に幕を下ろし、神南小学校として生まれ変わりました。
宮益坂の中ほどに、坂名の由来となった御嶽神社が鎮座しています。境内には線香でお札を炙ると金運が向上するというご利益がある炙り不動があり、狛犬は珍しい日本狼です。明治天皇が駒場で練兵を天覧した際には休息所ともなりました。天皇が立寄っただけで記念碑が建つんですね。「聖蹟」とは、「明治天皇ゆかりの地」という意味です。
明治天皇御嶽神社御小休阯
ここは、明治三年四月十七日、明治天皇駒場野の練兵天覧御幸の際、御往復共、当御嶽神社拝殿を御座所に当てられ、御小休所となった所であります。当日は、午前五時御乗馬にて、皇居を御出発され、外桜田より赤坂をお通りになり、吉井友謹邸にて御小休、更に御板興に御移乗になり、当御嶽神社に於て御小休御召換になり、御乗馬にて駒場連兵場に向かわれました。午前八時駒場野御着、午前九時烽大(花火)一発を合図に、練兵を御覧になり午後三時に終了致しました。午後四時、号砲一声還御となり、前軍より次第に列を進められ、御嶽神社、吉井邸にて各々御小休され、午後六時還幸になりました。翌十八日、明治天皇の恩召により当神社に鳥居及び駒寄せの御奉納がありました。昭和十四年二月、明治天皇聖蹟記念碑を建立しました。
宮益坂は宮益坂上交差点で青山通り(国道246号線)と合流しますが、そこから六本木通りに向かって坂が下っています。
- 2.金王坂
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金王坂(こんのうざか)は長さが約170mほどの緩やかな坂です。昭和五十四年にこの付近の町名変更が行われ、「渋谷区渋谷」となりました。「金王町」という旧町名が消滅するのを惜しんだ地元の町会有志が「金王」の地名を残すために坂名としました。坂上付近に町会が建てた私設の黒い御影石の案内柱が立っています。
金王坂
明治・大正・昭和と波瀾万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴い、先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに「金王坂」と命名する。
八幡通りの金王八幡宮の大鳥居付近から明治通りの並木橋交差点まで坂が下っています。この八幡通りは中世の鎌倉道の名残りです。
- 3.八幡坂
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八幡坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名は金王八幡宮に由来します。
大鳥居をくぐって参道を進みます。金王八幡宮の向かいに渋谷区の住居表示街区案内板が立っています。
住居表示街区案内図
八幡通(はちまんどおり)
昭和三年〜昭和四十四年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南七丁目・大字中渋谷字並木・並木前・大字下渋谷字常盤松・伊勢山・猿楽・田子免・代官山・長谷戸・鎗ヶ崎の各一部で、渋谷町の大字として成立。青山通りから並木橋を経て駒沢通りに至る道路(旧鎌倉街道)沿いの南北に細長い区域。青山通りに接していた一丁目の近くに金王八幡神社があったのが命名の由来。昭和七年渋谷区の町名となり、昭和四十一年〜昭和四十五年、現行の渋谷二丁目〜渋谷四丁目・東一丁目・猿楽町・鶯谷町・惠比寿西一丁目・代官山町の一部となる。
金王町(こんのうちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南町七丁目・大字渋谷宮益町・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷氏の居城(渋谷城)跡に鎮座する金王八幡神社にちなんで命名。昭和七年渋谷区の町名となり、同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目の各一部となる。金王八幡は渋谷八幡ともいい、江戸八所八幡のひとつで、渋谷区内現存の最古の建造物(江戸中期)。境内に金王桜・鎮座の松があり、「しばらくは花の上なる月夜かな」という芭蕉句碑もある。また、渋谷警察署の近辺は渋谷城の濠跡と伝える。
常磐松町(ときわまつちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字常磐松・伊勢山・大字青山南町七丁目の各一部で、渋谷町の大字として成立。「盤」の字は皿は割れるので縁起が悪いということで、成立の際磐の字に改めた。常磐松と称する古木があって千両の値がつくほどの銘木であったが、第二次大戦で焼失し、現在あるのは戦後になって植えたもの。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目・東四丁目・渋谷四丁目・広尾三丁目の各一部となる。常磐松小学校にその名をとどめる。
氷川町(ひかわちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・伊藤前で、渋谷町の大字として成立。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目〜東三丁目となる。区役所出張所・学童館・児童遊園にその名をとどめる。区域内にかつて下渋谷村の鎮守氷川神社があり、9月29日の「大祭日には此処にて素人角力を執行す。氷川の角力とて古より有名」であった。また昭和十一年に神宮通一丁目(神南一丁目)に移転するまで、渋谷村役場・渋谷町役場・渋谷区役所の所在地であった。
上通(かみどおり)
昭和三年〜昭和四十四年の大字名・町名。一丁目〜四丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山北町七丁目・大字青山南町七丁目・大字渋谷宮益町・大字上渋谷(字町裏)・大字中渋谷(字堀之内・大和田下・宇田川・道玄坂・豊沢・神泉谷)の各一部で、渋谷町の大字として成立。青山通りから宮益坂・渋谷駅・道玄坂を経て玉川通りに至る道路沿いの、渋谷区の南部を東西に横断する細長い町域。東から西へ一丁目〜四丁目があった。同時に成立した中通・下通と対照させての命名。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和四十年〜昭和四十五年、現行の神宮前五丁目、渋谷一丁目〜二丁目・四丁目、道玄坂一丁目〜二丁目、円山町、宇田川町、南平台町、神南一丁目、神泉町となる。
中通(なかどおり)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字渋谷上広尾町・大字下渋谷字四反町・居村・伊藤前・伊勢山・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷橋から渋谷駅前に至る明治通り沿いの南北に細長い区域。同時に設けられた上通とは渋谷駅前で、下通とは渋谷橋で接していた。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目となり、同四十一年残余が現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目・東一丁目〜東三丁目・広尾一丁目の各一部となる。
並木町(なみきちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字並木前・長谷戸・大和田下の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれ、渋谷駅から並木橋に至る南北に細長い区域。昭和七年渋谷区の町名どなる。同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目となる。小字並木前の由来は、金王八幡神社から渋谷川に架かる並木橋を渡って猿楽町方面に行く道を鎌倉道といい、かつての鎌倉街道で、この道路沿いに並木があったことによる。
田毎町(たごとちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとば豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字田子免・代官山の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれた東横線の南北にわたる区域で、大部分を占めた田子免の語感をきらい田毎と改称。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目の一部に、同四十一年残余が現行の東一丁目の一部となる。
金王八幡宮は、寛治六年(1092年)に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたと伝えられ、当初は渋谷八幡と称していました。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、三代将軍徳川家光の乳母春日局と守役青山忠俊が神門や社殿を造営したとされています。社名にある「金王」は、重家がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として嫡男常光が生まれたことにより、常光を金王丸と称したことによるとされています。
金王八幡宮社殿及び門は渋谷区の有形文化財に指定されています。
金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下
社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治六年(1092年)に創建したといわれます。現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長十七年(1612年)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。門は、明和六年(1769年)と享和元年(1801年)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。しかし、その城館は大永四年(1524年)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。平成二十二年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。
絵馬二点と算額三点は有形民俗文化財に指定されています。金王八幡宮は冲方丁の小説「天地明察」の舞台になっていて、算額が多く奉納されました。
絵馬「大江山鬼退治之図」その一・絵馬「大江山鬼退治之図」その二
ニ面とも青山百人組から延宝三年(1675年)、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した「御伽草紙」に収められている「大江山の酒呑童子」に基づく絵馬です。この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(そのニ)のニ枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また、細密な筆致と豊かな色彩から見て絵画としても優品です。大きさは二面とも縦78.5x横105センチメートルです。
算額(嘉永三年奉納)・算額(安政六年奉納)・算額(元治元年奉納)
古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに難問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。この三点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政六年(1859年)の一点は、西条藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。
境内には二社の摂末社が祀られています。一社は御嶽神社です。
御嶽神社 由緒
御嶽神社は、開運・商売繁盛の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御嶽神社です。御祭神の日本武尊は、古来より武道の守護神として崇められ、この地が、武門の誉れ高き澁谷氏の居城であったことから、ここに把られたと考えられます。また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。
Mitake Jinjya
Kami of prosperous business, particularly admired by trade/service industries. Yamatotakeru no Mikoto is also known as the Kami of martial arts.
もう一社は玉造稲荷神社です。食べ物に御利益があるのならお賽銭をはずんで参拝するんだったなぁ。
玉造稲荷神社 由緒
宇賀御魂命は、食物・農耕をはじめ商売繁盛・殖産興業に関する信仰のほか、屋敷神としても多く祀られています。御本社は京都伏見稲荷大社で、稲荷社は全国に約三万社余あるといわれ、最も身近な神社と言えます。また、天照皇大神のお食事を司る豊受大神と同神であるといわれています。渋谷も明治の頃までは稲作が盛んで、多くの信仰を集めていました。都会となった現在でも、その信仰は変わる事無く受継がれています。
Tamazukuri Inari Jinja
Inari is the deity of fertility and harvest, and one of the most popular kami in modern days of Japan. Hatsuuma is a ritual for harvest, prosperity, and household well-being.
境内には澁谷城の砦の石も残されています。この石は900年近く渋谷の移り変わりを見てきたのでしょう。
澁谷城 砦の石
この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館の跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、その館いわゆる澁谷城は大永四年(1524年)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現品川区高輪付近)のとき、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。
Last Stone of the Shibuya Fortress
In the late Heian period (794-1185), the Shibuya clan built their fortress in this area serving as an important traffic junction. The clan took residency at the fortress until it was burned down during the Warring States period in 1524.
境内に1本の桜の木があります。金王桜と呼ばれ、渋谷を代表する桜の木となっています。
金王桜
長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は五〜七枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混って咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。
蕾ははち切れんばかりになっていて、開花はもう直ぐといった感じです。
社務所の隣の宝物殿に二基の神輿が保管・展示されています。右側は三年に一度の例大祭で渡御に使われている鳳輦(ほうれん:元々は「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」という意味ですが、現在では「神社の祭りなどに使われる鳳凰の飾りがある神輿」を意味します)、左側は展示のみとなっているようですが本社神輿です。さすが渋谷・青山の総鎮守、鳳輦は立派な神輿ですね。重くて担ぐには難しいのか、牛車に乗せて渡御するみたいです。本社神輿は都内に現存する最古の神輿といわれています。これには伝説が残っています。追手は鎌倉から目黒まで追いかけてきたのですか!鎌倉八幡宮にとって余程大事な神輿だったのでしょう。
神輿
台座 四尺 高さ 八尺 重量 百貫(375kg)
鎌倉時代の作で名は不詳。都内最古の神輿である。江戸時代初期に當八幡宮の氏子、青山百人組の御家人が鎌倉の八幡宮の大祭に参詣した折、鎌倉より担ぎ来て當八幡宮に納めたもの。途中で日が落ち、追手の者は神輿を見失ったと伝えられ、この場所を「暗闇坂」(別名目黒目切坂)という。
並木橋交差点で明治通りを横断します。交差点の角には鎌倉道の案内板が立っています。「右手の細い道」は八幡通りでなく、渋谷川に架かる古い並木橋から延びる脇道のようです。よく確かめなかったのですが、そんな脇道ってあったかな?
鎌倉道
この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚のニつの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに束北地方に向かっていたといわれています。大永四年(1524年)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
並木橋の先の渋谷川遊歩道(渋谷リバーストリート)の入口に旧東横線橋脚のモニュメントが置かれています。東横線は現在は代官山から地下に潜っていますが、かっては恵比寿西でJR線の上を高架で大きくカーブして横切り、渋谷駅に向っていました。東横線は何度も乗りましたが、この辺りの風景は全く覚えていませんねぇ。
旧東横線橋脚
旧東横線の高架橋の支柱を一部残し、鉄鋼やレールを組み合わせたオブジェを遺構として設置した。オブジェや遊歩道上に記された番号は、渋谷駅から数えた高架橋の柱の管理番号を示している。
Former Toyoko Line Pier
With some of the former Toyoko Line viaduct support pillars left up, various objects made from a combination of iron and steel with rails are set up, representing the remains of the line. The numbers written on the objects and the promenade are the pillar management numbers of the elevated bridge, counted from Shibuya Station.
渋谷駅桜丘口地区の再開発事業は大詰めを迎えています。2棟の超高層ビルも竣工間近です。それにしても、あんな細長い敷地によくもこんな巨大なビルを建てたものです。立ち呑み居酒屋の富士屋は地下の彼方に。。。
山手線の跨線橋を渡った先で右手の路地に入りますと、少し先から短かい坂が下っています。以前は車の通行が出来ないように坂上と坂下の道路の真ん中に石の杭が立っていて、坂上の石杭には「てんぐ坂」と彫られていたそうです。現在は石の杭は撤去されて根元だけ痕跡を留めています。
ちなみに、以前の坂にあった石の杭の写真です。
- 4.天狗坂
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天狗坂は長さが約70mほどのやや急な坂です。坂名は、岩谷天狗商会を興した岩谷松平が晩年この地に住んだことに因んでいます。坂上に案内板が立っています。
天狗坂
この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年〜大正九年 1849年〜1920年)は、鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し、その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治三十八年(1905年)煙草専売法が実施されると、この付近の約四万三千平方メートル(一万三千坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業を始めるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂名が生まれました。
飲食店が入るビルの間を抜けた先から階段が下っています。
- 5.代官坂
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代官坂は長さが約110mほどの狭く緩やかな階段です(階段の両脇はスロープになっています)。「代官山」とは幕府の御林で、その管理は代官がしていました。代官山の坂ということに因んでこの坂名が付けられました。
代官坂下の先に、周囲の道路とは不釣り合いなほど幅広い中央分離帯付の坂が上がっています。
- 6.代官山坂
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代官山坂は長さが約140mほどの”く”の字型に曲がった緩やかな坂です。代官山坂の坂名は、昔代官所があったことから昭和の初め頃に言われ始めたらしいとのことですが確証はありません。代官山の地名は、江戸時代の中豊沢村の小字名にも見られます。中豊沢村は、現在の鉢山町・鶯谷町・猿楽町を合わせた村域でした。
代官山坂の左手に超高層マンションが空を突き抜けています。このマンションを含む一帯は代官山アドレスという住居・商業一体型の施設で、平成十二年(2000年)8月に開業しました。代官山アドレスは、ここにかつて存在した旧同潤会アパート36棟などを建替え、再開発によって建設されました。住宅部分は36階建の高層マンションの「ザ・タワー」を中心とし、商業施設はショッピングセンター「ディセ」、それに渋谷区の公共施設「代官山スポーツプラザ」、駐車場などで構成されています。ショッピングセンターの「ディセ(dixsept)」とは、フランス語で“17”の意味であり、代官山アドレスの住所が、「渋谷区代官山17番地」であることに因んでいます。番地を施設の名称にするのはあんまり聞いたことがありませんね。ちなみに、ディセに入っている代官山ピーコック(「Peacock」とは、雄のクジャクの意味)は、かっては珍しい食材や輸入品が充実した旧大丸系の高級スーパーマーケットでした。2013年にイオン系列になり、品揃えが大衆化した感はいなめません。
猿楽町には、猿楽古代住居跡公園があります。古代人が代官山に住んでいたんですか!きっとセレブな人達だったのでしょうね。
猿楽古代住居跡
このあたり一帯は古代人が居住していたところであろうと推定されていました。昭和五十二年一月、渋谷区教育委員会ではその調査を国学院大学考古学第一資料研究室に委託して発掘しました。発掘作業を行っているうちに出土して来た土器は壷・甕(かめ)・高坏(たかつき)などの破片ばかりでしたが、この土器に付けられた模様からみると、久ヶ原式・弥生町式・前野町式に属し、それらが作られた時期は今から約二千年前の弥生時代で、これらの文化は南関東一帯にひろがっていました。弥生時代というのは、生活の方法はその前の縄文時代と同じですが、現代人のように米を裁培して食べる習慣がはじまり、文化が進んだ時代といえます。発掘を進めて行くと、いくつかの住居跡が発見されましたが、中には他の地域でみられる住居跡よりも大型で珍しいものが発掘されました。区は昭和五十三年、樋口清之博士の指導により古代住居を復元しましたが、その後焼失したので、現在は住居跡の上を被覆し保存に努めています。
公園の隅っこには何体かの石碑が並んでいます。元々この地にあったものではなく、いろんな事情でここに集められたのだとか。道理で関連性が見当たりませんね。
廿三夜塔(一基)・庚申塔(三基)・道しるべ(一基)
江戸時代に流行した民間信仰のひとつに、ニ十三日の夜に集まって月の出を待つ講中(グループ)がありました。これを廿三夜講といい、室町時代からすでに行われており、それを記念して建てられたものが廿三夜塔です。この廿三夜塔(右から二番目)には、「廿三夜待一結衆」と刻まれており、さらに勢至菩薩が彫り込まれていることが特徴です。また、庚申講も行われており、六十日ごとにめぐってくる庚申の日に、人々が集まって念仏を唱え、一晩中眠ることなく過ごしました。その結果として建立されたのが庚申塔です。表面には、青面金剛・天邪鬼・日月・三猿などが彫ってあります。これらの講は、のちにレクリエーションとなり、飲食をしながら、一夜を明かすようになりました。道しるべ(左から二番目)は、石の傷みが激しく「左目黒道」と読むことはできますが、「右□□□道」と文字が欠損しており、具体的な道の名前はわかりません。これらの石造物は、猿楽周辺にあったものが、道路の拡幅工事や宅地開発によって移動させられ、猿楽古代住居跡公園に移設されることとなりました。
都立第一商業高等学校の裏門の先から鉢出町交番前交差点まで坂が下っています。
- 7.亀山坂
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亀山坂は長さが約220mほどの緩やかな坂です。別名を「かめやま坂」といいます。古くから亀山坂と呼ばれていましたが、付近に坂名の起源になるような人物が住んでいた形跡がないことから、坂の形状を亀の背に見立てて「亀山坂」と呼ぶようになったのかもしれません。
鉢出町交番前交差点から亀山坂の延長線上に聖ヶ丘教会付近まで坂が上がっています。
- 8.南平坂
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南平坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。松濤と並んで渋谷区の高級住宅地である南平台の町名は、明治四十四年(1911年)に渋谷町が誕生した時に新たに出来ました。それまで中豊沢村の小字の一つであった「平代(ひらたい)」を基にして、「渋谷町大字中渋谷字南平台」となり、坂名もこの町名に因んで名付けられました。
国道246号線に架かる渋谷駅西口歩道橋の手前にあるファミマ渋谷桜丘町店の左手に坂が上がっています。
- 9.さくら坂
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さくら坂は長さが約100mほどのやや急な坂です。狭い坂の両側に約30本の桜の木が植えられていて、桜が満開になると、桜のアーチのように上空を覆います。
後日再訪した時に撮った写真です。桜は散り始めですが、十分に見応えがありますね。
ファミマ渋谷桜丘町店の右手に、左右に僅かに曲がりながらセルリアンタワーの裏側を通って南平台方面に抜ける坂が上がっています。
- 10.間坂
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間坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、昭和三年(1928年)に町名地番の改正が行われた際、この坂が大和田町と桜丘町との境になったことから「両町の間にある坂」とのことで「間坂」と呼ばれるようになったものと思われます。
玉川通りの道玄坂上交差点からSHIBUYA109付近まで長い坂が下っています。
- 11.道玄坂
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道玄坂は長さが約570mほどのやや右に曲がりながら下る緩やかな坂です。別名を「道源坂・道元坂」といいます。一説には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将であった和田義盛が建歴三年に滅亡し、その一族の残党の大和田道元というのがこの辺りの洞窟に隠れ住んで山賊となっていたことに因むという説があります。一方、道元という僧がいて、この辺りに道元寺があったことに因むという説もあります。道玄坂上交番前交差点付近に案内柱が立っています。
道玄坂
江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説や道玄庵という庵があったため、道玄坂と名付けられたとの説もありますが定かではありません。
道玄坂上交番前交差点の角に「道玄坂道供養碑」の碑が建っています。その横には道玄坂の歴史を解説したプレートをはめ込んだ石板が建っています。
渋谷道玄坂
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造り住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介・柳田国男がここを通って通学したが、坂下に新詩社ができたり林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の町として希望と夢を宿して長(永?)く栄えてゆくことだろう。
道玄坂道供養碑に隣り合って、与謝野晶子の歌碑が建っています。その後ろには歌碑の短歌を解説した案内板も立っています。「集字」とは、「題字などに使うために、古人の書跡や古い版本などから必要な文字をあつめること」です。
母遠うて瞳したしき西の山
相模か知らず雨雲かゝる
歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三十五年(1902年)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばし(ば)たたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
余談ですが、道玄坂上交番前交差点で道玄坂と交差する道路は古道の「滝坂道」です。
滝坂道
滝坂道(甲州街道出道)は、かつての大山道が道玄坂から分岐をし、武蔵国府のあった府中に向かっていた古道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられています。滝坂道は、目黒区の北部を通り、世田谷区を横断して、調布市で甲州街道に合流します。名称の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれたようです。現在は、裏渋谷通りの愛称で親しまれています。
円山町は、江戸時代に甲州街道の脇街道だった大山街道(厚木街道・矢倉沢往還)の宿場町として栄え、明治以降も花街として繁栄しました。円山町が花街となったのは、明治二十年(1887年)頃に義太夫流しをなりわいにしていた人が弘法湯の前で宝屋という芸者屋を開業したのが始まりでした。その後、年とともに芸者屋・料理屋が増えていき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになりました。この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有だったため、「荒木山」と呼ばれていました。円山町は大正二年(1913年)に三業地として指定され、関東大震災の直前には芸妓420名を数えました。ライブハウスやラブホテルが密集するランブリングストリートのひとつ手前から坂が下っています。
- 12.円山坂
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円山坂は長さが約110mほどの緩やかな坂です。坂名は円山町の町名に因んで名付けられました。
井ノ頭通りに面したマツキヨの脇から渋谷パルコまで、約100メートルほどの緩い坂が上がっています。
坂上の手前は僅かにクランク状に曲がり、そこから階段が上がっています。
- 13.スペイン坂
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スペイン坂は長さが約90mほどの緩やかな坂です。坂上付近は階段になっています。渋谷パルコpart1の1階には、2016年8月7日まで通りの名を冠したTokyoFMの「渋谷スペイン坂スタジオ」がありました。土曜日の生放送のスタジオを見によく通いましたね。坂名の由来ですが、スペイン坂にあった喫茶店「阿羅比花(あらびか)」の店主の内田裕夫氏は写真で見たスペインの風景に心を惹かれ、店の内装をスペイン風に統一していました。昭和五十年(1975年)、2年前に開業していたパルコから通りの命名を依頼された内田氏は迷わず「スペイン坂」の名前を付け、命名後はスペイン坂のお店も協力して建物を南欧風にしました。マツキヨの角と坂の途中に坂名を記した石碑が建っています。
井ノ頭通りの神南小学校下交差点から東急ハンズの北側を通って東方向に坂が上がっています。
- 14.オルガン坂
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オルガン坂は長さが約80mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、坂の周辺に音楽関係の店が多かったことに因むという説と、東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えることに因むという説があります。
公園通りに面したLoftの角から井ノ頭通りに向かって坂が下っています。
- 15.間坂
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間坂(まさか)は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名は、平成元年(1989年)にLoftが一般公募により命名しました。「渋谷駅と公園通りとの間」・「ビルとビルの間」・「【まさか】という語呂のよさ」・「【間】という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」との理由でした。坂の途中の建物の角に石柱が建っていて、「間坂」の文字が 篆刻体で彫られていますが裏文字になっています。この石柱をハンコに見立てたものらしいです。
渋谷駅に戻ってきました。
ということで、渋谷区で最初の「渋谷・代官山周辺コース」を歩き終えました。次は、渋谷区の北側地域の坂を巡りたいと思います。
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